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7.不完全な愛

第72章

真実に自分を知っている霊魂は、これらすべてのわなを賢明に避けることについて。

 わたしは、わずかの善業をおこないながら、すなわち、慰めのときわずかの善徳を実行しながら、感覚的自愛心におちいっている一般の人々の迷いについて、あなたに話さずにはいられなかった。わたしはまた、わたしのしもべたちの自分の慰めに対する霊的自愛心についても沈黙することができなかった。わたしは、かれらが、たのしみを求める自愛心によって、どのように迷わされているか、どのようにわたしの愛の真実性を認識すること、過失がどこにあるかを識別することを、妨げられているか、を示した。そして、悪魔が、かれらの過失をつかっておとしいれるわなについて、かれらがこれにおちいるのは、わたしが話した方法を用いていないからであることについて、述べた。
 これらのことを語ったのは、あなたとわたしの他のしもべたちとを、わたしに対する愛によって善徳を目ざしてまっしぐらに進ませ、他のことを気にかけさせないためである。不完全な愛しか抱かない人々、たまもののためにわたしを愛して、これを与えるわたしを愛さない人々は、これらすべてのわなにおちいる危険があるし、しばしばこれにおちいる。しかし、真実に自分自身の認識の独房にこもって、完全な祈りに従事する霊魂は、わたしが念祷について話したとき説明したように、不完全な愛と不完全な祈りとを去り、わたしを愛情をもって迎え、十字架につけられたキリストの教えの乳房から、甘美な慰めの乳を吸い取るように努める。
 こうして、第三の状態、すなわち、友の愛、子の愛に達する。もはや、やとわれびとの愛を抱くことがない。きわめて親密な友人になり、わたしに対して、友人同士のように振る舞う。すなわち、相手から贈りものを受けると、その贈りものだけを見ないで、与える友の心、その愛情を見るし、その贈りものをその友の愛情によって評価する。完全な愛の状態である第三の状態に達した霊魂は、これと同じように、わたしのたまものと恩寵とを受けると、ただたまものだけに注目しないで、知性の目によって、贈り主であるわたしの仁愛の情愛も見る。
 そのうえ、わたしは、霊魂がこのように行動しない言いわけを見出すことができないように、すなわち、わたしの愛情を見ない言いわけを見出すことができないように、あらかじめ、神性を人性に結合して、たまものをその与え主に結合させた。そのときわたしがあなたがたに与えた「たまもの」は、わたしの「ひとり子」、「言葉」である。かれは、わたしがかれと一つであるように、わたしと一つである。この一致の結果、あなたがたは、与え主である「わたし」を見ないでは、たまものを見ることができない。
 それゆえ、どれほど大きな愛をもって、たまものとその与え主とを、愛し、望まなければならないかを理解してほしい。そうするならば、あなたがたの愛は、もはややとわれびとの愛ではなく、純粋な愛、無垢な愛となるであろう。絶えず自分自身の認識の独房にこもっている人々は、このように実行するであろう。

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