私にとって今回の一連の記事の発端となったオリエンス宗教研究所の『福音宣教』のことをもう少し調べておこうと思います。何故なら、私は次のように疑問に思うからです。
本田神父を一年に亘って特集するなどという暴挙を為すこの "カトリック刊行物" にはどんな "責任系統" があるのか? 「編集責任者」は鈴木隆[りゅう]という名の信徒だそうだが、そこに司教、或いは少なくとも司祭が「監修者」として付いていないのだろうか?
──と。
で、調べてみました。以下の私の確認は2015年7月号を対象としたものです。(しかし、気づけば、『福音宣教』は 2006年 や 2007年 にも本田神父をしばしば取り上げているのですね)
左は背表紙の裏をスキャンしたものです。いわゆる「奥付」が含まれ、赤枠(私が付加したもの)の中には編集者や企画委員の名が並んでいます。
そしてちなみに、それの上には、ご覧のようにホアン・マシア神父の著書の広告があります。しかしホアン・マシア神父と云えば、ご自分のブログで「マタイ福音書とルカ福音書におけるイエスの誕生物語は史的事実でもなければ、子供向けのおとぎばなしでもありません。それは信仰の立場からの創作です」(参照)と断言・公言している人です。『福音宣教』の編集者さんたちは、これに何の疑問も感じないのでしょうか。「少し疑問」ぐらいでしょうか。そうだとするなら、あなた方は主の「奇跡」に対して、一言で言って(詳述省略)「遠藤周作的」な目しか持っておられないということでしょう。
さて、以下はその編集・企画のメンバーを調べてみた結果です。
これらの人々のうち、本田神父に関する "噂" なりを聞いたことがあり、本田神父を "特集" することに反対した人は、誰も居なかったのでしょうか?
そして、ここには「監修」という文字が見当たりません。聖職者が「監修者」として付いていないのです。このメンバーの中には司祭が一人居ますが、彼は「企画委員」の一人として「信徒」と横並びの位置に居るに過ぎません。
現代の日本社会は時に「無責任時代」と呼ばれたりします。或いは「責任者不在の時代」。「責任の所在がはっきりしない」という場面がちょくちょくあります。
この "カトリック刊行物" も、こんな有り様では、同じです。
"信徒有志の同人誌" と何処が違うのですか。
そして私は、いつかどこかで聞いた次の言葉も思い出します。「信徒の時代」。つまり、「信徒」に対する厚き「信頼」の時代。
その理由は「信徒だって聖霊に導かれているから」。
しかし、本当ですか? 「信頼」と言えば聞こえはいいけれど、そこに危険はないのですか?
「まぁ、危険が全くないとは言えないかも知れない。しかし、そこは私たち聖職者がちゃんと見ている」と言いますか? それは本当ですか?
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私はふと、東京の聖マリア大聖堂の設計に関する次の逸話を思い出します。
なお、これら3つの設計案を最終的に決めるのはカトリック東京大司教である土井辰雄枢機卿であり、必ずしも推薦された案を採用しなくてもよいと決められていた。彼は「私は皆さんが選んだものを神様の御意思として受けます。私は委員の皆さんを信頼しています」と語り、白柳誠一神父(のちの東京大司教・枢機卿)が模型や青写真を見るように頼んだが、「いいんです」と言って微笑した。ところが、後日に実際に建築プランや模型を見て、一瞬大変驚いたという [9] 。
9. カテドラルと土井枢機卿 白柳誠一 『カトリックグラフ』1970年 No.2, 49頁。
土井枢機卿様が最終的にどういう所に落ち着いたかは分かりません。意外と「これからはこういうのもいいかも知れない」という所に落ち着いたのかも知れません。それは分かりません。しかしそれでも、彼の建設委員に対する「信頼」は一種 "盲目的" だったわけです。こういう所に何かの危険が潜んでいないでしょうか? 何らかの「隙」ができませんか?
現代の司教様方も、「私は皆さんが選んだものを神様の御意思として受けます。私は皆さんを信頼しています」と言いながら、信徒が中心の編集メンバーに記事の作成を「任せて」いるわけでしょう。しかし──「ところが、後日に実際に誌面を見て、大変驚いた。そこには、あの本田哲郎神父が大々的に特集されていたからである」となりませんように。
いや、そもそもその特集記事を見ても少しも驚かないのかな? しかし、オリエンスは東京大司教区の管轄下にあると見て言いますが、岡田大司教様、或いは幸田補佐司教様、あなた方は本田神父が一年間「特集」され続けるカトリック刊行物に「監修者」としてのご自分の名を載せることができますか? もし幸いにして「できない」と云うならば、あなた方は教区の責任者としてオリエンスにもそんなことをさせてはならないということです。違いますか?
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信徒使徒職。私もこれを、まるきり、完全に否定するものではありません。例えば、確か御受難会の創始者十字架の聖パウロは、司祭になる前から人々に説教することを許されていたのではなかったでしょうか。それは、彼が普通でないほどの聖霊の恵みを得ていたからでしょう。
しかし私は、一般的には、つまり私たち信徒の99.99%は(私も含めて)、教会の内にあっても「凡愚」のものだと思っています。そう思っておいた方が「安全」なのではありませんか?
(少しぐらい "学識" があったって駄目です)
「信徒中心」だの「信徒の自立」だのという掛け声によって持ち上げられ、昔は聖職者しか手をつけなかった所にまで入り込んで "活発" になった信徒たちは、現実的には「禍い」になることも多いのでは? 私たちは今回、その一例を見たのではありませんか?
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オリエンスには「所長」が居ることを言い忘れました。淳心会の司祭、ムケンゲシャイ・マタタ師。しかし、議論の本筋に於いて不足はなかったと信じます。『福音宣教』の中に彼の名が総責任者として記載されているわけではありませんから。
(それに、マタタ神父は外国人です。本田神父のことはよく知らないでしょう)
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私の検索熱はやや "異常" であることを認めます。
しかし、ともかく、物事を「確かめる」ことはできたのでは?
今回の一連の記事を終わります。