得手勝手な選択と呆れる得心
彼は次のように、自分の若き日に於ける "発端" を語ります。
池長 まさに遠藤さんが感じとり、『沈黙』で表現された点と同様なことを、私も感じたことがあります。(…)
それで洗礼を受けることを決意したのですが、教義の勉強を深めていく過程で、次第に伝統的なカトリシズムにしっくりこないものを感じるようになったのです。
山折 違和感を覚えた、と。
池長 それは「罪」の考え方についてでした。伝統的な教えでは、罪の悪性が強調されます。たしかに罪が悪であることは間違いない。では罪に対する神の態度はどういったものなのか。伝統的なカトリシズムでは、許すよりも、むしろ裁くほうを強調しすぎてきました。そうした教えに私はなじめなかったのです。罪を犯す弱い人間であっても、それを赦し、母のように包み込んで一人一人を救い上げるのが神ではないか、と思うようになったのです。
ポイント)このストーリーは、単に彼の若き日の回想であるのみならず、現在の彼も支持するところの聖書理解の話です。
下線を引いた二箇所に注目して下さい。そこに彼の話法の独特さが現われています。
彼の場合、「それは『罪』の考え方についてでした」の次に直ぐ「伝統的な教えでは...」と続くのです。「では罪に対する神の態度はどういったものなのか」の次に直ぐ「伝統的なカトリシズムでは...」と続くのです。「聖書」という言葉が出て来ません。
人は言うかも知れません。
「特に『伝統的カトリシズム』というものを取り上げ、それについて語っているわけだから、『聖書』という言葉が出て来なくても、そんなには不自然ではないのではないか」と。
いえ、そういうことにはなりません。不自然です。
何故ならば──
〈『伝統的カトリシズム』に於いて "罪の悪性" や "神の厳しさ" が "強調され過ぎ" ていたかどうか〉を知るために、あなただったら、少しは「聖書」を参照したくなりませんか?
更に、あなたは「キリスト者」です、「少しは」なんて遠慮せず、「大いに」でもいいのではありませんか?
(キリスト者にとって聖書が基礎・基準であるから。)
更に、彼は「では罪に対する神の態度はどういったものなのか」と問うています。「神の態度は」です。
なのに何故、その次に「聖書」と来ないのですか? 「聖書」の中には「神の態度」は無いのでしょうか???
こういうところが、彼の言葉を読んでいて私が "具合悪くなる" ところです。
彼は「神の態度」を尋ねて「聖書」を開きたくないようなのです。
つまり、「神の厳しさ」に関しては。
人は普通、「教会は "神の厳しさ" を強調し過ぎている(or 来た)のではないか」という疑問を持ったなら、その次に自然に、その外ならぬ "神の厳しさ" について「聖書」は何と言っているか、と気になるものです。(譲って言いましょうか?──「少しは気になるものです」)
しかし、上の彼の叙述の中には、"神の厳しさ" をめぐって、彼の「違和感」と「伝統的カトリシズム」の二つしか出て来ません。
この叙述のおかしさは、遠慮なく言えば、彼の意識の流れのおかしさそのものです。
彼も聖書を参照しはします。聖書を探索しはします。しかしそれは「神の厳しさ」に関してではありません。それはどういうわけか探索されないままです。彼の聖書の参照は別の物、神の別の側面、「神の優しさ」に関してです。上の続きです。
山折 まさに遠藤さんの描く「母なる神」ですね。
池長 それから私は聖書を研究するようになりましたが、はたして「ヨハネの福音書」の5章24節の箇所では、「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また裁かれることなく、死から命へと移っている」、また6章40節に、「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることである」と、私が感じていた通りに書かれているのです。神は向こうから裁くような方ではなく、人間を救うほうに強烈に傾いていらっしゃる。罪が悪性であるのは確かですが、それを乗り越えて、神は罪人をも結局は救いあげるものとして存在しておられる。
彼は「はたして」と言います。"ストンと得心した" というのです。
しかし、"神の厳しさ" について聖書の中を "探さない" ことも変なら、この得心の仕方も実に変です。(以下に指摘します。)
しかし兎も角、まとめれば、彼の中ではこうなったようなのです。
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私は罪について「伝統的カトリシズム」が教えているところに疑問を感じていたが、聖書を開いたところ、「はたして」「私が感じていた通りに書かれて」いた。私の疑問は氷解した。ここに聖書と私の同意を見た。問題があるのはやはり「伝統的カトリシズム」である。 |
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これが、ザ・池長ワールド です。
しかし、それは何と奇妙な「得心」であることか!
彼の「得心」の奇妙さ その1
得手勝手な選択
(いいとこ取り)
彼は、神の「厳しさ」の面については、聖書を参照しません。
それに関しては、彼は目を伏せています。
もちろん見てはいます。しかしそれを取り上げません。
しかし、自分の気に入る箇所に関しては、そうでないのです。
彼はその時、急に聖書を取り上げ、「はたして」と言うのです。
「私が感じていた通りに書かれていた」と。
しかし、それは何と考えられないほど「インチキ」な得心であることか。
つまり、彼は聖書の中から「いいとこ取り」しています。
自分の気に入ったところだけを取り、あとは捨てています。無視しています。
私がこんなことを言うと、彼は何か言うかも知れません。
「私がどこで "捨て" ましたか。どこで "無視" しましたか」と。
しかし、私達は彼の姿をもう十分に見て来ました。
どんな抗弁ももはや「鵺的抗弁」でしかありません。
池長大司教様、あなたは「言を左右に」してはなりません。
これほど不自然に「取り上げない」のは「捨て」たり「無視」することと同然です。
聖書の理解は「全的」でなければなりません。
聖書の「全体」と付き合わなければなりません。
彼がしていることは「得手勝手な選択」と言われるべきです。
つまり、彼がやっているのは、 |
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彼は本当に「全体」ということを無視します!
「世俗の事柄」と「信仰の事柄」の別を問わず!
彼の「得心」の奇妙さ その2
噛み合わない引用
しかも、更に悪いことに、もう一つの事があります。
それは、彼をスッカリ得心させたらしい福音書の箇所は、そもそも彼の疑問を "氷解" させたり、彼の展望を "全く支持" したりするようなものではないという事です。
つまり、彼が挙げた福音書の箇所と彼の得心は、普通に考えれば「噛み合わない」のです。
彼の展望とはこうです。
罪を犯す弱い人間であっても、それを赦し、母のように包み込んで一人一人を救い上げるのが神ではないか
そして、この展望を持った彼は、或る日、福音書の次の聖句を見て、「私が感じていた通りに書かれている」と思ったというのです。
「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また裁かれることなく、死から命へと移っている」(ヨハネ 5:24)
「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることである」(ヨハネ 6:40)
しかし、これらの聖句に於いては、下線を引いた部分が「前提」となっています。特に意地悪に読むのでなくても、ごく普通に読めば、ここには「信じない者」についての或る可能性が含まれていると、人は分かるものです。
つまり、「信じる者」は「永遠の命を得」たり「終わりの日に復活させ」られたりするが、「信じない者」に関してはそうなるとは限らない、という事が、そこには含蓄されていると。
そうではありませんか? それが "普通の読み方" ではありませんか?
ところが、大司教様の展望というのは、おそらく、「わたしをお遣わしになった方を信じない者」についても、また「全ての罪人」についても、神は「それを赦し、母のように包み込んで一人一人を救い上げる」のではないか、ということである筈です。
ですから、大司教様が挙げたそれらの聖句と、大司教様の得心の間には、普通に考えれば「噛み合わない」のです。
"ストンと落ちる" 何物もありません。
彼の「得心」の奇妙さ その3
根拠のない結論
上で大司教様の展望を推量しました。おそらく「全ての罪人」のことではないか、と。それは確かに推量です。しかし、この推量を強力に後押しするものが、大司教様ご自身の言葉の中にあります。
山折 まさに遠藤さんの描く「母なる神」ですね。
池長 それから私は聖書を研究するようになりましたが、はたして「ヨハネの福音書」の5章24節の箇所では、「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また裁かれることなく、死から命へと移っている」、また6章40節に、「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることである」と、私が感じていた通りに書かれているのです。神は向こうから裁くような方ではなく、人間を救うほうに強烈に傾いていらっしゃる。罪が悪性であるのは確かですが、それを乗り越えて、神は罪人をも結局は救いあげるものとして存在しておられる。
私の言語感覚が確かならば、私の日本語の感覚が確かならば、「結局は」という語が入った最後の文は、「神は罪人をも結局は全て救いあげるものとして存在しておられる」という意味です。やはり、大司教様の展望、「母のように包み込んで一人一人を救い上げる」は、「全ての罪人」についてのものだったのです。
しかし、先程と同じく(同じ事ですから)、大司教様のこの結論と、大司教様が挙げた聖句との間には、何の連絡もありません。それどころか、それらの聖句は「信じる者」について言ったものですから、普通はそれを「限定」として捉えますから、普通の人にとっては、大司教様の結論とそれらの聖句は「相容れぬ」ものです。しかし大司教様は「私が感じていた通りに書かれている」と言うのです。
以上、上から下まで、これほど "話の筋" というものが通らないもの、乱れたものを、私はちょっと見たことがありません。
彼は文藝春秋の記事の中で、自分は或る人に「神学的に高度な内容の講義」をした、と言っています。彼にそれが可能ですか?
また彼は「公会議の精神」に溢れた諸文書にも親しいのでしょう。しかし、彼がキリスト者にとって最も基礎的なものであるところの「聖書とのお付き合い」に於いてこのように頼りないならば、一体それに何の意味があると云うのでしょうか。