目に入ったので、お伝えしておきます。
はい、ほんとは「信徒会館か御聖堂か」という問題ではありません。
更にもう一つ。
同教会は、昨年12月、待降節の黙想会のために、当初、この同じ同性愛の牧師さんを “講師” として迎えようとしたようです。(未遂)
(「同性愛」を強調しますが、別に「私的に憎い」のではありません。)
つまり、カトリックの教会が、
己が同性愛を公言している異宗派の指導者に、
信仰について指導を願ったのです。
否、上の私の受け取り方は、
ひょっとすると “適切” でないかも知れません。
カトリック教徒はいつも “適切さ” を気に掛けねばなりません。
カトリック相模原教会は次のように説明するかも知れません。
「指導」? いやいや、そんな大袈裟なものではないのです。
まぁ、ちょっとした “先導役” をお願いしたかった
と云うところでしょうか。
「指導」と言えば彼の「権威」を仰いでいることになりますが、
彼が他宗派の「牧師」だとしても、必ずしもそうではないのです。
まぁ、所謂 “エキュメニズム” の一環として、
「分かち合い」をしたかっただけなのですよ。
相模原教会はそんな風に言うかも知れません。
しかし、そんな風な説明で、本当に、あなた方の
“適切さ” は回復(或いは証明)されるのでしょうか?
もう一度その記述を確認しておきましょう。
⑦ 12月16日(日)待降節の黙想会につきまして、当初担当講師を平良愛香牧師に依頼しておりましたが日程調整がつかない為、パリ外国宣教会のミシェル・ゴーチェ神父に依頼し、担当して頂く予定です。尚、内容に関しては、「待降節の意味・宣教」について講和講話頂きます。
「担当講師」という言葉を使っています。そして平良氏の日程調整がつかなかったのでパリ外国宣教会の司祭に替わったと云うことです。
「他宗派の同性愛公言の牧師」と「カトリックの司祭」が 交換可能 というわけでしょうか?
彼を私達の教会の黙想会の「講師」の場に立たす事それ自体が、
そもそも大 “不適切” であります。
そのように言うと、私は、「差別してる」とか、「排外主義だ」とか、
「狭量だ」とか云って非難されなければならないのでしょうか?
しかし、私は彼のことを言っているのではありません。
カトリック教会のことを言っているのです。
これ↓を思い出します。
しかし、「講師」に立たせるのですから、これより酷いかも知れません。
上の二番目の記事を書いている時に、私は平良愛香氏については知ったわけですが。
平良愛香氏は同性愛の完全肯定論者である
私がこのような表題(小見出し)を打つのは、平良愛香氏を吊るし上げて非難するためはではなく、私達カトリック信者が事態をしかと認識するためです。私が何かを非難するとすれば、それは我がカトリック教会をです。私の非難は内向きです。
そのような方向性から申し上げます。
平良愛香氏は、ショリ主教と同様、全くの同性愛肯定論者です。
その事を簡単に確認しておきましょう。先ず、冒頭の相模原教会のポスターにも彼自身の教会のHPにもある彼のプロフィールに、こうあります。
「神様は私たちのありのままを良しとし、愛し、祝福してくださっている」
ここに云う「ありのまま」とは、勿論「同性愛」のことも含まれるのです。
彼の他の講演会の題名を見てみましょう。
「あなたの性は、なに色ですか~性の多様性を知る」(検索)
これだけでも既に十分明らかでしょう。
更に、彼の教会「三・一教会」のHPの「
牧師紹介」によれば、彼は「セクシュアルマイノリティ・クリスチャンのグループ、
『キリストの風』集会」の代表であるということです。
同性愛者の権利の確立を目指し、レインボーフラッグをはためかせつつ、街路を練り歩く人達がいます(
ゲイ・パレード)。その種のパレードは、海外では、半裸体あり、奇抜な装束あり、路上での同性同士のキスありで、見た目、かなり過激なことが多いものです。
海外のもののような過激さはあまり見られないようですが、日本にも同趣旨のパレードを行っている団体があるようです。「
東京プライドパレード」「
東京レインボープライド」など。前者の以前の名称は「東京レズビアン&ゲイパレード」であったとか。
『キリストの風』集会は、
そのHPを見ても分かるように、それらのパレードに参加しています。代表である平良愛香氏も、少し
検索すれば分かりますが、自らそれに参加しています。彼としては、どこと云って問題のない、至極当然の行動、であるに違いありません。
*
人一人の人生には、勿論、色んな側面があるものです。
どんな人の人生にも、私達が親身に心を寄せていい側面があるものです。
それは、私も分かります。
しかし、それらに気を取られて、他の側面に注視することを忘れるなら、それは深い「落し穴」となります。
現在、世界と教会には、一つの旗が掲げられています。
その旗には「人間として」「人間同士」と書かれてあります。
その旗さえ掲げていれば、今やどんなものも教会に入って来るのです。
「人間として」が primary なことで、
真理の他の要素は全て secondary なものである、
と云うかのようにして、それらは入って来ます。
同性愛者が、いえ、同性愛の完全肯定論者が、その「傾向」はおろか「行為」まで肯定する人が、その旗の庇護の下に、大手を振って私達の教会の中に入って来るのです。
(言葉の見かけ上、やはり誤解を受けそうですから、再び言わなければなりません。このように言っても、これはカトリック教会への批判なのです。彼は「押し入って」来るのではないのですから。カトリック教会が入れているのですから。──平良さん、どうぞいらして下さい。但し、カトリックの求道者として。)
しかも指導的な役割さえ任されようとします!
結論
相当どうかしているんじゃないですか?
主任司祭: 浜崎眞実
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