2006.07.06

司教様との初面会

ご無沙汰しました。
今日、司教様と二時間ほど話してきました。昨日、電話があったのです。
もちろん、初めての面会です。やっとの面会です。
二人の神父様が同席されました。一人は西欧の方で、聖座に報告書を書いて下さるということでした。
私の問題を真面目に受け止めて下さったので、ここで今日のことをあまり詳細に書くのは礼儀にもとるような気がします。しかしおおよそのことを書きます。
「日本においては御聖体拝領の時立つことが『原則』なので、あり得るのはただ『例外的に許す』ことだけである」ということらしいです。
そして、「例外的に認めるか否か」を判断するために、「本人にとって跪くことが如何ほど重大事なのか」を見る必要があるそうです。
その意味は、「単なる『西洋かぶれ』ではないか」、「変なグループに関係してないか」ということです。
私はありのままにお話させて頂きました。あとは私の話を聞いた司教様が、日本の司牧環境の諸事情のことを交えて、聖座に何事かを書き送ることになります。私としては、その結果待ちです。いや、その前にもう一度呼ばれるかも知れませんが。
結論が出るまでは、聖体拝領できなくても仕方がない
私にとって残念だったのは、司教様が、
「その結論が出るまでは、あなたが跪きたい願いを持ったままでは結果として御聖体拝領できなくても仕方がない」
と判断されたことです。「その結論」とは、「本人にとって跪くことが如何ほど重大事なのか」に対する調査と判断の結果です。
しかし、結論が出るまで、何週間ですか? 何ヶ月ですか?
とにかくその間、一人の信者が「結果」としてであれ御聖体拝領ができなくても「仕方がない」のだそうです。(司教様のその御感覚は如何)
司教様にとっては、「一致」「均一性」「民族性」「聖体行列のスムーズさ」「集団の美観」「司教団の決定」「司牧方針に混乱が生じないこと」などの方が、カトリック信者の御聖体を拝領する権利よりも重要なようです。少なくとも結果的にそうです。私の置かれた状況は、言葉の表現を超えて、事実上、それです。司教様のお立場からすれば当然なのかも知れませんが、私はこれはとても残念でした。
私が司牧者だったらこうします(この仮定自体失礼かも知れませんが)。
たとえ聖座の「跪きたがっているというだけで信者に聖体拝領を拒否するのは違法なことです」という言葉があろうがなかろうがです、教会法的に問題なく、大罪もなく、かつ神様に対して不敬な態度を取っているのでもないならば、その者の口をこじ開けてでも御聖体を与えたいです(笑)
(それがキリストの司祭の心というものではありませんか?)
「どうしてこの人は立たないかなぁ」と悩むのは、その後です。あくまで御聖体を与えた後です。(時間的なことばかり言っているのではありません。優先と非優先のことを言ってます。)
他の信者に「原則は立つことなんです。この人は言うことを聞かないんで困ってます。皆さんには御協力をお願いしますね」と言ったっていいでしょう(もし言いたければ)。またその信者に、御ミサ以外のところでみっちり嫌というほど「司牧的な指導」を与えてもいいでしょう。しかし御ミサでは、とにかくそのキリストの信者に御聖体を与えることを最優先すべきです。愛がその程度の柔軟性を持つのは自然なことだと思います。
「俺も俺も」「私も私も」と跪きたい信者がいっぱい出て、教会が混乱したらどうしますか。いや、混乱するほどそのように願う信者が沢山出てくれば、それはそれで「跪きに真の需要がある」ということです。その時、司牧者は現行の規定を見直すべきでしょう。
「結論が出るまでは、聖体拝領できなくても仕方がない」ではなく、「結論が出るまでは、聖体拝領を禁ずることが出来なくても仕方がない」であるべきでした。その方がイエズス様の司祭としてずっと「正気」でした。
でもとにかく、真面目に受け取って頂いたことには感謝しなければなりません。
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