2006.05.01

修道会から返事

修道会の日本管区長から返事があった。聖職者達の間でもシカト大流行りなのではないかと疑っていたので、少し見直す。(偉そうに言うが。)
それによると、修道会としては、小教区に派遣した修道司祭については、その小教区の司教にお任せしているのだそうである。いや、「お任せ」と言うと語弊がある。つまり、それが派遣された修道司祭の置かれた立場なのだそうである。であるから、修道会としては、小教区の司教が何か相談してきて初めて何か発言することができる、ということであった。
そういうものなのか? 私としては、私の司祭が「めんどくさいこと言わないで、それ以上のことは私の直の上司である修道会の日本管区長に言って下さい」と言ったから、そうしたのだが。でも、まあ、筋としては管区長のおっしゃることの方が正しいのかも知れない。
また、私に対して、「自分の考えと司教様の考えが多少違っていても、司教様の教えと指示に従うことが教区民として賢明で正しい姿勢だ。それが司教様への尊敬と信頼であるから」という内容が、そこにはあった。けれども、私は取り立てて好戦的な気持ちがあるわけではないが、このような言い回しは、全然分からない。純粋に分からない。もやもやとして、はっきりしない。思考停止させられそうな言葉で、嫌だ。そんな常識で物事がうまく行くものなら、教会は今のような状態になっていない。
あれはあれ。これはこれ。もっとはっきりさせろ。考えろ。霧を追い払え。私だって司教様や神父様達の霊的権能を敬っていないわけではない。彼らがいなければ実際私達は今にも飢えてしまう。でも、そうであっても、それとこれとは別だ。
目上に対する尊敬というけれど、日本の司牧者達、あなた方の聖座への尊敬はどうしたのだ。聖座からの明らかな勧告を、あたかも無かったかのように信者の目の前で伏せてしまうあなた方の、目上への尊敬はどうしたのだ。またそもそも主イエズスへの尊敬はどうしたのだ。あなた方は言うだろう、「それに関しては私達は充分です。問題ありません」。油断ではないのか。過信ではないのか。信者を御聖櫃の前に意欲的に導くことをまったくと言っていいほどしない司祭達が溢れているというのに、何故「私達は充分です」と言えるのか。
結論は残念ながら、日本管区長様、やっぱりこうなるのです。
「分かったようなことを言わないで下さい」
これが今や教会を悲しむ信者達の大方の見方かも知れない、とお考え下さい。
私の代父である七十半ばの大先輩が嘆く。「最近の御聖堂の騒がしさといったら!」
「誰かが注意するということはできないのですか?」と訊くと、「私も気づいた時にはなるべく注意するようにはしているのだが・・。しかし御ミサ前のこととしては、司祭か御ミサ前の祈りの先唱者が考えられるが、まず司祭に期待するのは難しい。彼自身御聖堂で大きな声で話すのだから。先唱者もどうか。彼らはどういうわけか年々御ミサ前の祈りの時間を短くしている・・」ということであった。
私は聖書から顔を上げて、昔働いていた工事現場の標語を思い出す。
「一人一人が責任者」(世俗から学ぶことだって、あるのだよ)
御ミサ前の御聖堂が騒がしい時、立ち上がって、「皆さん、もう少し静かにしませんか? 私達はここに主を礼拝しに、祈りに来たのではないですか? なるべく私語は慎みましょうよ」と言うことのために、何か正式な資格が必要なのだろうか? また、それを言うと私達は傲慢になるのだろうか? 司祭の領域に踏み込む「出過ぎた」行為なのか?──本当に?
「それらの人達のために祈る。教会のために祈る」というのは聞こえはいいけれど、そんなんで私達は信者としての基本の義務を果しているのだろうか?
これは私自身の自問でもあるけれど・・私達のために命を捨てて下さった主のために、私達はそれくらいの勇気も出せないというのでしょうか?──では、殉教はどうでしょう。
自分の小心さも聖母にお捧げしようではありませんか。そして自分の小心さに対して、ここで完全に死ぬことにしましょう。何を恐れるのです。
私達の誰かが勇気をふるってそのようにして、御聖堂が今迄より少しは静かになれば、それを知った司祭は自らを恥じないではおれないでしょう。うまくすれば司祭は自分を見つめ始めるでしょう。それは彼と彼の教会、いや主の教会にとって、とても良いことです。
そのようなことを、教会内のすべての事柄において、私達は心掛けなければならないのだと思います。
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