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第一書・第二章

神の不可知なる御本牲。創造への神慮

 ああ、王よ、いと高き、いと賢き主よ、御身の判断は測り知れず、御身の方法は知るべくもない(ロマ11・24)。無敵の神は永遠に存続し、神の起源は判らない(コヘレト18・1)。御身の偉大さを誰が理解できようか? 御身の最も壮大な御業に値する者は誰か? 御身がなぜ創造されたかを語れる者がいようか(ロマ9・20)。壮大な王よ、御身は祝福されますように。と言うのは、御身の婢であり、地の塵にすぎない私に、偉大な諸秘跡と崇高な神秘を教えて下さったからです。

 私は明晰な知力を頂き、神の無限の本性と属性、すなわち、永遠・至高の三位一体なる神を正しく認識できます。御父、御子と聖霊の永遠なる一致です。御父は造られたものではなく、始まったものでもありません。御子は御父と共に永遠に存在します。聖霊は御父と御子の間の愛です。不可分の三位一体には、順番も大小の差もなく、永遠に同等です。光栄、偉大さ、御力、永遠、不変、智慧、聖性のような属性の全てに於て同じです。

 聖三位にはそれぞれ同じ知識があり、相互の愛に於ては無限・永遠です。知識、愛と行為は、単一、不可分、そして同等です。

 一.神は御自分の自由と慈愛を行使するに当たり、知性の中に貯えられた無限の宝を被造物に与えて下さいます。神が賜物や恩寵を下さることは、煙が高く上がっていくよりも、石が落下するよりも、太陽が地上を照らすよりも、もっともっと自然なことです。賜物を被造物に与えることにより、被造物を聖とし、義とし、感化させます。我々一人一人に下さる賜物は、セラフィムを初め、あらゆる天使に下さった賜物よりも多いのです。

 二.神が被造物に賜物を下さることは、被造物と関わり合いになることです。この関わり合いは神の偉大さに、より大きな光栄を帰すことになります。

 三.関わり合い、又は「交流」には順序、設定や方式があります。順序の第一番が「神の御言葉」が受肉し、人間の眼に見えるようになったことです。第二番は、その他全ての人間の理想が第一番を模倣することです。我々の人性は肉体と生かす霊魂から成立し、創造主を知り、愛し、善悪を区別する能力、同じ主を愛する自由意志を与えられています。

 四.賜物と恩寵は、神性を有する我らの主キリストの人性に与えられています。最も豊富に与えられています。「この川の流れは神の国を喜ばす」(詩篇46・5)と言ったダビデの預言通りになりました。賜物は、神人である御方の人性に向かって流れました。この御方は全被造物の頭でもあります。この御方の御母が神の御計画の二番目で、その他の全被造物よりも前になります。至聖なる御子の人性の威厳、優秀さと賜物を備えなければなりません。御母に向かって、直ちに神性の川は勢いよく流れました。

 この至聖にして至純なる御母が、時の初めから、そして時の始まる前に、神の聖心の中に生まれたのを知って、全能なる神を私は心から崇めます。御母があらゆる被造物により尊敬され、誉め讃えられるべきことは、アレオパキタの人のディオニシウスの言う通りです、「神が御母を創造し、賢い神性の姿に創造できたのは神であるという信仰がなければ、乙女なる御母が神御自身であるかも知れないと私は思い始めるかも知れない」と。御母の創造は、天地全体の創造よりももっと尊いこと、天地全体よりももっと大きな宝物であることを十二分に知らされた私は、この事実が一般の人々に知らされていないことを悲しみます。

 神の御計画は、聖母マリアに聖性、完全、賜物と恩寵が御子により与えられることです。

 五.神は天使を九階級に創造しました。天使の使命は神の光栄を現すこと、神の命令を伝え、神を知り、愛することです。そして、神聖な人間となられた永遠の御言葉に仕え、御言葉を人間の頭として認め、諸天使の元后である至聖なる聖マリアを通して誉め奉ることです。

 善天使の将来や悪天使の反対も神は見抜いています。天使には自由意志が与えられていますから、神に従うか、自己愛の高慢と不従順を示して神に反抗するかを選べます。神は御自身の光栄と善天使に対する報酬のために天国を造りました。地球や他の天体は他の被造物のために、そして地獄を悪天使の処罰のため、地球の奥深い中心に造りました。

 六.キリストのために人間が御計画通り創造されました。人となられた御言葉が人間を兄弟姉妹にするように、その人たちの頭となるように神がお考えになったのです。人類は一人の男と一人の女から始まり、増えました。救世主キリストのお陰による恩寵と賜物と、またアダムとエワの罪は予見されておりましたが、元后なる聖母は別でした。人々はキリストにより許されることも予見されています。我々の自由意思を尊重して神は決定されました。

 これらの神秘を感知して、なぜ神が御自身を現したか、創造主に対して贖罪者の偉大さを人間に誉め讃えさせようとしたかは、私にはとても明らかに見えました。人々がこの義務を怠ったり、恩恵に対し感謝しない様子がありありと見えました。人々の忘れっぽさについて、いと高き御方が怒っておられることも私はわかります。主は、私が人々の忘恩について罪を負わず、その代わり、主を讃美し、全被造物を代表して主を崇めるように勧告されました。謙遜の徳の偉大さについて無知でした。今でも謙遜ではありませんが、謙遜に通じる道を教えて頂きました。ああ、いと高き主よ、御身の光は我を照らし、御身の燈は道を示す(詩篇118・105)。

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