←2012

2012.02.27
 風は冷たいが晴れたので、これはもう出かけなくてはおれん。駅でもらった「さいたま緑のトラスト協会」というところのパンフを見て、電車で二駅乗ったところから歩き出すウォーキングのコースを選択。最初道の入り口がわからなくて戸惑ったが、気がついてみれば向かい側からどんどん人が来る。どうやら意外に人気のコースらしい。ハイキングというほどのものでもない、手頃な林間コース。まだ梅がふくらんでいるくらいで、緑も桜も全然だが、桜山展望台というところの日当たりが良く風の来ないベンチで、コンビニ調達のおむすびとお茶でランチ。それからまた道に迷ってしまうが無事引き返し、気持ちの良い尾根道をゆるゆると下る。帰りは途中酒造メーカーで4合瓶を一本買って、我が町の駅まで歩いて戻った。2万歩ほど歩けたんで満足満足。

 読了本『タブーの正体!』 川端幹人 ちくま選書 著者は『噂の真相』の副編集長を務め、右翼に暴行されて肋骨を折られたジャーナリスト。それ以来右翼が来そうな記事を書こうとすると、その時の記憶がフラッシュバックして、筆を抑えてしまうことになり、というあたり大変生々しい。芸能人や政治家の色恋スキャンダルを書きまくることが、報道の自由で知る権利といわれると、あまりそういうことに興味のない自分は首をかしげたくなるけれど、出版物が売れなくなってどこも経営がきびしい時代には、「広告を引き揚げるよ」といわれればメディアは広告主に都合の悪いことは書かなくなってしまうというのは、実にまったくやばい話だ。そしてそれをやばいと感ずる感覚自体が、失われつつあるという。

2012.02.26
 今日は晴れたら少し長い散歩に出ようと思っていたのに、朝からどど曇り。それでも出かけたい気分はあったが、空はむしろ暗くなる一方でめげ。『閉ざされて』が文庫下ろしになるのだが、どんなだっけと思って読み返し始めたら最後まで読んでしまう。宅急便を出しがてら外に出たら寒くてますます出かける元気がなくなり、読みかけていた本↓を読んでいたらもう三時過ぎ。結局歩きたい欲とものぐさ欲の中間を取って、仕事場から自宅まで歩いて帰る。せいぜいが七千歩のウォーキングでした。

 読了本『謎のチェス指し人形「ターク」』 トム・スタンテージ NTT出版 ポーが書いたルポ記事「メルツェルのチェスプレーヤー」で後世まで知られたチェスを指す自動人形についてのノンフィクション。いまではその台座の中に人間が隠れていた(ただしポーの推理したのとは、人間の位置などがだいぶ違う)ことがわかっているが、18、9世紀の人間にとって「チェスを指す機械」は極めて刺激的な見物であり、人間なるものと人間が生み出すものへの思考を挑発し続けた。コンピュータの原理を初めて発想し、機械式計算機を発明したバベッジもチェス指し人形に触発されたという。そして現代ではコンピュータ、ディープ・ブルーと、チェス名人の対決をめぐって、再び良く似た機械にはなにができてなにができないか、人間の人間たる本質はなにかという、古い疑問が再生した。大変面白い一冊。

2012.02.25
 寒いよ〜 『ガラスの仮面』の48が出た。しかし例によって話は大して進んでいない。まあ、ここまできたら買い続けるだろうとは思うけど、果たして完結の日は来るのか。
 仕事は『緑金書房』のあとがきを書き直して、ひとまずこれでおしまい。この話は『ナルニア国ものがたり』へのオマージュという側面があるので、後書きではその話題を書いた。そこに書くので『魔術師のおい』を斜めに再読。創世期のナルニアで、アスランが歌うことで万物を生み出すとか、悪しきものからの守りとなる聖なる木のエピソードとか、『指輪物語』と重なる部分があるのだな、といまさらのように思う。金の木と銀の木も登場するが、ナルニアのそれはロンドンから持ち込まれたイギリス通貨が、創造力に満ちた大地のおかげで植物となるという、ユーモラスな展開で、はて、これを書いたころのルイスはトールキンの神話を少しは聞いていたんだろうかと思った。子供の時読むと、物語の展開やイメージに気を取られて、ユーモアの部分はあんまり理解していないというか、読み流してしまっていた気がする。いかにもイギリス人らしい、ちょっといじわるなユーモアで、この作品ではもっぱらダメ魔術師のおじさんが笑われる。
『痕跡本のすすめ』のことを書こうかと思ったが、これは別の作品のネタになるかも知れんと思って止めた。けち。

2012.02.24
 仕事しながらパンを焼く。今日はクルミ入り食パン。パン焼き機で生地を練らせて焼きは型に移してオーブン。体重が増加傾向なので、昼は煮干しで出しを取った山芋のおみおつけ。物足りないと困るので長ネギとわかめとくずきりを入れて、これならローカロリー食品揃いだと思うが、ローカロリーでもたくさん食べれば同じことかと思う。携帯電話が機種変更しなければならないというので、ツレに新しいのを入手してもらう。どうせカエルコールにしか使わないのだ。いろいろ勝手が違って、慣れるまでがめんどう。すでに世間からずれまくっているわたくし。
 仕事は『緑金書房』のノベルス直しがようやくラストまで。しかしあとがきを書いたら我ながらろくな文面にならなかったので、しばらく放置することにする。

2012.02.23
 少し春めいてきました。雨は降ったけど、夜になってもいくらか気温が高い感じ。仕事してました。話題がなくてゴメン。

2012.02.22
 仕事してました。

 読了本『ボクには世界がこう見えていた 統合失調症闘病記』 小林和彦 アニメーション会社に勤務する24歳の青年が自らの体験を綴った一冊。最初精神が異様に高揚し、創作意欲が湧いて新しいアニメの企画書を書き続ける。このあたりの精神状態は、一時的には篠田にも経験があって類推可能だが、そこに「ポール・マッカートニーに音楽を依頼する」「自民党の実力者を製作に巻き込む」「社会体制を変革する」といった誇大な構想が混じり出すところからそろそろやばくなる。駅名の「なります」を見て自分へのメッセージだと思う、ゴミ箱に捨てられている空き箱や空き瓶が全部自分の愛用する製品なのはなぜだ、出会う女の子がみんな自分好みのカワイイかをしている、なのに目に映る全てが妙によそよそしい、世界は実は自分のイメージで出来ているのではないか。高揚した多幸感に不安の不協和音が混じり出し、突然失墜がやってくる。こうして書いていてもなんか辛い感じなので、ここらで止める。
 統合失調症がなぜ起こるかは、いまだにわかっていない。成育史とか、ストレスとか、いろいろ説はあっても結局の所は解らないまま。薬で妄想を抑えたり状態を改善することは可能なので、脳になんらかの生理的異変が起きていることは間違いないのだろうけれど、それがどんなものかも、なぜ起きるのかも、どうすれば治癒するのかもわからないままなのだ。
 だいたい小説家なんてものは、いろいろ精神的にも危ういもので、って、一般化しちゃいけませんな、篠田はそうなので、もしかしたら発病しないで済んでいるのはラッキーなだけというのもあり得る。原稿書いてて好調だったりすると、勝手に材料が飛び込んでくる気がして、しかしこれって「なります」を自分へのメッセージとして受け取る妄想とさほど差がないじゃないか。
 この本の筆者は統合失調症の典型例からは少し外れていて、大分類としては統合失調症だけど、その下の小分類としては統合失調感情障害というのだそうで、繰り返される発症の前駆として躁病的な誇大妄想と多幸感が現れる。最初の発症のときに彼が立てたアニメの企画はけっこう面白そうで、創造的な感じがする。精神科医春日武彦は「統合失調症の妄想はみんな似ている。ありきたりで俗っぽく深みを欠いていて芸術的な創造につながっていくようなものではない」と繰り返していたが、この人の場合は少し違うようだなと思った。しかし病状が進行するうちに、妄想の内容は創造性を失って「毒殺される」「盗聴されている」といった陳腐で典型的なものになっていく。再発時の誇大妄想も「妹を皇太子の嫁にしたい」とは、かなり情けない。結局春日武彦は正しかったということのようだ。

2012.02.21
 昨日は酒飲みの友人と昼酒。まず福生の大多摩ハムのレストランで地ビールとハムとソーセージ。売店でベーコンを買う。ぶらぶら歩いて拝島方面へ。石川酒造併設のレストランで日本酒、当然売店では酒を買う。さらにぶらぶら歩いて日帰り温泉へ。湯上がりは当然ビール。最後にまた歩いて(迷ったけど)拝島駅前の焼鳥屋で煮込みとヤキトリと日本酒、焼酎。
 今日は下戸の友人と三菱一号館のルドン展へ。ルドンというとモノクロのリトグラフのイメージが強くて、今回はそれもなかなか良かったのだが(モノクロームでも細かい線やグレーの微妙な階調は印刷では再現できないので)、目玉はここのミュージアムが購入した「グラン・ブーケ」という高さ2.5メートルの大パステル画。これはひたすら明るく美しい。西欧絵画の伝統では、切り花というのは一種のヴァニタス画、つまり生のはかなさを象徴する意味合いを秘めているので、美しく描かれていても実は暗い。しかし20世紀に入ったルドンの花は、たぶんそうしたシンボリズムからは解放され、植物を愛した画家らしい、美しい花々への賛歌を歌い上げている。西欧近代絵画を理解するには、それに先立つ数百年の伝統、宗教主題と象徴体系の重さを考慮する必要がある。
 篠田は絵の趣味においても決してコンテンポラリなものに芯から惹かれない、どちらかといえば中世やルネサンスの主題に縛られた絵が好きな人間なのだが、昔ひとりで北イタリアを旅していた時、地方美術館で来る日も来る日もそういう絵を見続けた果てに、ヴェネツィアのペギー・グッゲンハイムという近代以降のコレクションを展示した美術館に行って、卒然と理解したのだった。こんなのただの図案じゃないか、どこが面白いんだ? としか思えなかったモンドリアンの「コンポジション」、直線の描く方形と平滑な色彩のリズムの、何の意味もない、主題もないことの自由さ、快さ、快感に。

 読了本『死のテレビ実験 人はそこまで服従するのか』 河出書房新社 1960年代に行われたスタンレー・ミルグラムの服従実験、科学の名の下に命令された一般人が無辜の人間に電気ショックを与えるボタンを押し続けるか否か、その服従率60%という、それをフランスのテレビ制作者が現代に再現し、ドキュメントを撮影した記録。ただしかつては「科学のための実験」が名目だったが、今回は「テレビのクイズ番組」が名目というか場である。そして80%を超える人間が、クイズの答えを間違えた回答者に危険な電圧と明記された最後までボタンを押し続けたのだった。これはすごい本だよ。もっと話題になっていい。
 篠田はテレビのバラエティ番組やクイズ番組は一切見ないのだが、この本に書かれているような視聴者参加型の悪趣味かつ過激な番組は日本にはないと思う。日本ではその手の悪趣味な番組で犠牲にされるのは、若手芸人と相場が決まっているんだよね? それはそれで趣味が悪いと思うが、民族的メンタリティの違いだろうか、テレビ番組に参加した一般人が、クイズ参加者にふさわしい行動を取らねばという一種の同調圧力に、積極的にせよ消極的にせよ参加していくというのはちょっと考えづらい。日本人ならむしろ過去の実験のように「科学の進歩のため」といったような、立派な大義名分が与えられた方が、自分の迷いは棚に上げて残虐行為にも手を貸す、ことになってしまう気がする。

2012.02.19
 infomationに掲載したサイン本プレゼント、〆切は今月末です。2/29消印有効ってことで。正直いって応募者少数(爆) 当たる確率大です。ご応募お待ちしています。

 読了本『平和を破滅させた和平』上下 D.フロムキン 紀伊國屋書店 現在の中東問題の根元は第一次大戦における連合国の、中東処理の過ちに端を発しているということを、広範な手記や書簡、いまだから明らかになった外交資料などを用いて実証的に叙述した大作。でも話が具体的だから大変に面白い。しかし外交というのは外から見ていると、けっこう明確な指針や断固たる政治姿勢に貫かれているような気がするが、内幕をのぞけば愚将や詐欺師や偏狭な妄執に固まった政治家に踊らされる、とんでもない勘違いや目論見違いの連続なんだなと、いまさらのように思ったり。しかし現代は昔よりは、その種の誤魔化しがばれる速度が上がっているようだ。

2012.02.18
 午前中は仕事継続。午後は地元の市民会館の「新春落語会」に。実は落語の生ってあんまり聞いたことがない。羽織を着ていない前座さんから始めて、2席聞いて中休みがあって、後半に色物の太神楽があって、という寄席っぽいプログラムは初めてかな。お弁当持ってのんびり寄席遊びなんてのも、いい時間の使い方かなあ、なんて思っちゃいました。噺家さんの名前を覚えてなくて申し訳ないが、白犬が八幡様の御利益で人間になって奉公に行く「元犬」というのがなかなか楽しかった。人間になっても表情がちゃんと犬っぽくて、生身の噺家〜犬〜人間という、重なり具合が絶妙。トリは立川志らくの「人情八百屋」で、これは笑い少なめの人情話。

2012.02.17
 朝は晴れて陽射しもいくらか暖かい気がしていたのに、午後から曇ってきて夜にはなんと雪もぱらぱら。ああ、春はまだか。今日はチョコをくれた読者さんにお礼の手紙を書いて、後は仕事のみ。

2012.02.16
 玉葱パンはちょっと混ぜすぎたか、湿っぽすぎる感じの仕上がりになってしまった。玉葱がもう少しぱらっと乾いた感じになればいいのかな。なかなか難しいであります。
 ちょっと必要があって「ナルニア国物語」の最初の一冊『ライオンと魔女』を本棚から出したので、久しぶりに再読してしまったら、思った以上にユーモアが効いていて面白かった。久しぶりというのは、他の巻よりもこれは明らかに再読することが少ないせいで、なぜかというと「エドマンドの裏切りと回心」「アスランの贖罪死と復活」という、キリスト教寓話的な中心エピソードが強すぎて、衣装箪笥の向こうの街灯が点る雪の原、という魅力的なオープニングはあるものの、いまいちかなあ、という気がしていたから。しかし今回「うふっ」と思ってしまったのは、フォーンのタムナスさんのいかにも独身貴族的な住まいが実に魅力的なのだが、並んでいる本のタイトルに『人間は、実在するか?』なんてのがあったりするところ。それからビーバーさんに連れられてその住居に行く直前、仮の作ったダムの所を通った時の「ビーバーさんの顔に浮かんだつつましい表情」という件。賞賛の言葉を期待しつつ、自分からはそうとはいえないという感じがすごくよくわかる。こんなの明らかに、子供よりは大人向けのくすぐりです。
 それから食事のシーンがやたら美味しそう。これはシリーズ全体で共通しているんだけど、やはりタムナスさんの中の上クラスっぽいおもてなしは、ゆで卵にオイルサーディンをのせたトースト、砂糖菓子。ビーバーさんの庶民的ディナーはとれたての鱒のフライにバターを載せた粉ふきいも、ほかほか焼きたてのマーマレードケーキ。翌朝のパンを切って固まりのハムをスライスして挟んだサンドイッチすら美味そうです。

2012.02.15
 今日も『緑金』の直しを続けつつ、かたわら玉葱パンを作る。玉葱をオニオンスープにするように飴色に炒めて、フランスパン生地に練り込んで大きくまとめて焼く。前回は生地と玉葱がうまく混ざらなくて、あんパンが破裂したようにはみ出してしまったので、今回はパン焼き機にこねさせてしまった。味の方は、これから食べるのでまだわからない。家に戻ったらイラストレーターさんからチョコが来ていた。うーむ、最近は女子同士でもチョコを送り合うのですなあ。まあ形式だけのお中元お歳暮はしないから、むしろお互いの顔が見える感じでチョコ、いうのもありかもしれません。昨日のも今日のも、小さな箱に宝石のようにきれいなお菓子が詰まっているという感じで、こういうのはむしろ女同士の方が、いいと思って贈り、いただける気がする。しかしこれと比べては、篠田がツレに贈ったチョコはじつに色気がなかったな、と少し反省。だって、デパ地下の人混みに疲労して、いろいろ探してる余裕がなかったんだよん。

2012.02.14
 雨のそぼ降る暗い一日だが、今日はバレンタインデー。用意してあったチョコを連れ合いに渡す。家に戻ったら知り合いのマンガ家さんから新刊とチョコが届いていた。やはり嬉しい。仕事は『緑金』の直し。書き下ろしはなにを書こうかと考え中。この物語の世界観は、かなり広がりがあるんで、短編一本ですべてを片づけるわけにはいかないから、ちょっとした後日談をつけるくらいしか出来ないだろうなあ。だって仕方ないんです。篠田のファンタジー、売れないんだもん。

2012.02.13
 昨日書いた件については一応の解決を見たのでご報告。次回のメフィストに載る短編で、殺人現場を文京区小日向にある野々村邸と書いたところ、「万が一小日向に野々村さんが実在して、抗議してこないものでもない」という。そんなあほな、来たら来たでそのときのことや、ほっときなはれ(なぜ関西弁)といったのだが、結局丸め込まれて、非存在の番地をつけ「小日向五丁目」とすることにした。かえって目立つ気もするがな。単行本なら「この作品はフィクションであり云々と巻末に注記も出来るが、雑誌だとそうはいかないから、というのだが、なんだかひどく馬鹿馬鹿しいことで悩まされたような、徒労感が強い。
 とにかく、差別語だのなんだの、物書きに対する規制はひどくなる一方で、現実との距離の近いものほどそういう目で見られる可能性はある、ということを、もはや忘れるわけにはいかないらしい。そんならもう止すわ、ミステリなんて書かんわ、といってしまいたいところを、隠居するにはまだ早い、経済的にも、というわけでぐっと我慢して噛み殺す。吸血鬼が特定の場所に住んでてもかまわないんだろうから、ファンタジーかホラーに軸足を移す方がいいんかな。でもサイコホラーはやっぱりあかんのでしょうなあ。一寸法師とかキチガイとか、無邪気に書いてられた乱歩の時代がうらやましい、といっても、あの時代はあの時代で軍隊やエロ関係や、タブーと検閲はやはりありました。
 それにしても呆れたのは、我が担当編集氏の言語能力、文章能力。なにをいいたいかさっぱりわからない曖昧語をと丁寧語で、舌がもつれて意味不明。あれでも狭き門を通って入社を果たしたエリートなんでしょうが。入社試験に難あり、かね。ていうか、文芸編集なんて小説家同様、堅気とはいえない仕事なんだから(私見だけどさ)、成績のいい人を採用するのは筋が違うんじゃね?

2012.02.12
 仕事関係で少々面白からざる事が出来し、いまだ事態の帰趨は明らかならざるものの、ストレス大。血圧上昇に消化器変調、労働意欲雲散霧消で、終日自堕落に過ごす。毒はMixiの日記で吐き出したが、一般読者の目に触れるここでは書かない。業界人同業者の意見は大いに聞きたいところだが、日頃からマイミクを増やす努力もしていないので、こういうときは不便だと痛感。かといって、こういうことがそうしょっちゅう起きたのではかなわぬ。わかりにくいボヤキで失礼をば。

 読了本『痕跡本のすすめ』 古沢和宏 太田出版 愛知県犬山で古書店を営む著者が、古書に残されたさまざまの痕跡、傍線や書き込み、見返しの署名や挟み込まれたしおり、貼られたままの付箋から、かつての持ち主の心情や状況を楽しく推理というか、妄想した本。従来の価値観なら傷本、汚損本としかいえないさまざまの「痕跡」を、こうして楽しむ方法がありますよ、というのはちょっと瞠目させられた。そして自分の本棚の上に載せたダンボール箱に眠っている、とても恥ずかしい何冊かの痕跡本、見返しに青臭い感想と詩を書き込んだようなやつ、を思い出して、じんわりと汗が湧いた。あれこそいまのうちに捨てておかないとな。でも、今度は古本屋で書き込みのある本を見つけても、にやっと出来るかも。図書館の本に痕跡を残すのは、絶対辞めて欲しいけどね。

 『萩原朔太郎』 野村喜和夫 中公選書 萩原の伝記的な記述と、年代順に並べた詩作品に読解を付したもの。著者は萩原の『月に吠える』から『青猫』の口語自由詩を最高の達成と見て、その後の文語体詩を後退と断ずる。実のところ、この見方には篠田は賛成しない。中学生の頃に出会って驚いて脳裏に染みついたのはいずれも口語体詩の方だったが、後になるにつれ、『郷土望景詩』や『氷島』の文語体詩が好きになってきた。近代詩が文語体定型から始まって口語体詩に移行し、その移行の先鞭を萩原の作品が切ったのは事実でも、晩年の彼がつづった文語体詩を「後退」「破壊」と否定的にのみ見ることは正しいとは思えない。ただそれぞれの詩があるばかりだ。
 宮澤賢治が若き晩年、病床で青年時代の短歌を文語体詩に書き換える作業を行った時、そこにはもはや新しい「詩」を見つけられなくなった身体と感性の弱りを、文語体定型の57調にすがることで乗り越えようとした、という例はある。だが日本語の音数律に深く根ざした57調と、文語体の持つ強固さが、口語体自由詩よりも古めかしく遅れていると断ずるのは一方的すぎる。萩原の文語体詩、「小出新道」や「帰郷」の文法を逸脱した異様なまでに佶屈した詩は、それもまた萩原が行き着いたひとつの作品ではないか。

2012.02.10
 ジャーロのゲラのチェックがさくっと終わったので、バレンタインのチョコレートを買いに池袋へ。リブロとジュンク堂とムジに行ってそれから地下のケーキ売り場に行くとさすがに人が多くて早々に辟易。

 読了本『陸橋殺人事件』 ノックス 創元推理文庫 「探偵小説の十戒」を書いたことで有名なノックスの代表作と言われるミステリ。まあ、いかにもイギリスっぽい。基本的にコージーなのだ。人が死んで素人探偵が犯人捜しに乗り出しても、一向に悲惨にも深刻にもならない。雰囲気はのんびりとしていて、あたりは田園風景プラスゴルフのグリーンで、いい歳をしてゴルフ三昧で毎日を送る紳士諸兄が死者を悼む様子もなく探偵ごっこに右往左往する。しかしまあ、本格ミステリの原風景ってこんなものじゃあませんかね、とゆー。

2012.02.09
 今日は気持ちよく晴れた。メフィストのゲラを返送した。ジャーロのゲラも来ているのだが、まだ日数はあるし、今日はジムへ行く日なので仕事はお休みにして本を読んだり、数独をやったりして過ごした。今年の初めから『激辛数独10』をやっているのだが、後になるほど難易度が増して、まだ6割ちょいとしか終わっていない。残っているのはクラス7以上で、どれも一度はトライして退けられた問題ばかり。なんだか激辛シリーズも後になるほど難しくなってきたようで、最初の「1」は全部クリアしたのだが、後になるほどお手上げ問題が増えてしまう。しかし今回はクラス7にも出来ないで残っているのがあるかわり、クラス10でも一度で出来てしまったものもあって、そのへんはよくわからない。解けた時は快感だけど、なんか時間の無駄という気もする。

 読了本『失われた地平線』 ジェイムズ・ヒルトン 河出文庫 冒険小説の不朽の名作、と帯にあるけど冒険小説というのはかなり違うと思う。チベットの山中にカラカルという谷間があり、そこにシャングリ・ラと呼ばれる巨大な僧院が建って、あまり数の多くない僧侶が高踏的な生活を営んでいる。彼らの多くはヨーロッパ人で、もとは伝道のカプチン会修道士が設立した修道院だったが、時を経るに従いその宗教は仏教と混交し、一種独特のものとなっている。しかもこの谷に棲む者たちは不老長寿の恵みを受け、優に200歳の寿命を保つ。そういう場所を求めて主人公が旅立つなら秘境冒険小説だが、さにあらず。4人の白人はシャングリ・ラの人口減少を危惧する偉大な導師の命令で飛行機を乗っ取られ、なにも知らぬままそこまで連れてこられるのだ。シャングリ・ラの描写はなかなか魅力的で、主人公が「帰らなくていい」と思うのも不思議はない気もするのだが、これって拉致でしょ、と思うとやはりあんまりいい気はしない。作者の意図は東洋と西洋の融合した山中別天地、壺中天とでもいったものを描き出すところにあったのだと思うが、その価値観念がやはり西欧礼賛に偏っているのはまあ、戦前の小説だし仕方なかろう。しかし実在するシャングリ・ラという地名は、実はこの小説からつけられたのだとは初めて知った。おやまあ、であります。

2012.02.08
 天気が回復するのかと期待したがいまいちなり。文蔵のゲラを返送する。メフィストのゲラをチェックしてデータに転記する。
 姉のところに去年の夏送ってなぜか不達だったメールが今頃になって届いたというミステリ。なんだか手紙がポストの底に引っかかっていた、といいたいような感じだが、電子メールでもそんなことってあるもんなのだろか。

 読了本 『下谷万年町物語』 唐十郎 中公文庫 戯曲ではなく小説だった。舞台とは似て非なるものでありました。

 『京都洋館ウォッチング』 井上章一 新潮社とんぼの本 京都で近代建築を追いかける人間なんて居るまいと著者はあとがきで書いているが、そんなことはない、というか、篠田はいつだってそれであります。どこへいっても寺社城郭は二の次。松本に行っても開智学校には行くが松本城はパスする。単に好みの問題だけど。というわけで、待ってましたというよりは、「ほとんどは知っているものだなあ」というガイドブックだけど、写真がきれいだしデータなどが載っているからまあいいかな。他にも京都の近代建築を網羅するガイドブックはいくつも出ているので、井上さん、あなたがご存じないだけですよ。

2012.02.07
 雨降り。ゲラを返送する時に一緒に送りたいので、ホテル・メランコリア7の仕上げをする。今回はシェフの話なので、料理や酒がやたらと出てくる。そして篠田は我ながら、作中で料理や飲食の話を登場させるのが好きである。読むのも好きだが書くのも好きだ。どうしても自分の好みに引きずられるので、甘いものはあまり出てこないし、手の込んだフレンチよりは素材を生かした素朴系が多くなる。なによりいいのは文章の中の美食は、肥満も消化不良も引き起こさず、ただ精神的な満足だけを与えてくれること。もちろん現実の腹は満たされないわけだが、イメージの美食を楽しみながら腹は冷凍食品のチンでもそれほど困らない。こういうのって変?

 読了本『装飾庭園殺人事件』 ジェフ・ニコルスン 扶桑社ミステリー ダ・ヴィンチの書評ページで評論家の千街晶之さんが「本書を読んだひとの反応はたぶん真っ二つに分かれるだろう。怒るか、笑うか。それ以外の反応は、ちょっと想像が難しい」と書いていたので、きっと腹が立つんだろうな〜と思いつつ、好奇心に負けて購入。でも、笑いもしなかったが怒りもしなかった。だって「本格ミステリーのど真ん中」というには道行きが変すぎて、B級臭というか、裏切りまっせ臭がぷんぷん漂ってきていたから、事前のアナウンスがなくても、この話がまともな本格の終わり方をするとは誰も思わないんじゃないの、という気がした。ので、「あからさまに反則」なラストも、あーあ、こういう種類の反則かよ、馬鹿くさ、というため息で終わって、とっとと読み終えたから時間を返せとも思わないけど、980円は捨て金だったなという感じはしました。書評は嘘ではないので、評者に文句を言うわけにもいかない。しかし「登場人物の大部分は変人または変態」というのはその通りだが、「変人または変態」の前に、げすな、とか、気持ちの悪い、とか、バッドテイストなとかいう形容詞を付け加えたい。下手物が好きで、かつ下劣な話が好きな人のみお手に取られますように。なお上記文章のうちの「」内は千街氏の書評の引用であります。

2012.02.06
 天気が悪いと気温より寒く感じる。今日は「ホテル・メラコリア」の第6回のゲラを直す。それから、唐の芝居を見たので、本棚から昔見た戯曲を引っ張り出して再読。恐るべし、唐十郎。上演は1975年だからいまから37年前に見た舞台が、戯曲を読み直すに連れて目の前に再臨し、劇中歌までフルコーラス
歌えてしまうんだぜえ。ああ、この頃の根津甚八はほんとにかっこよかったのう。

2012.02.05
 本日で一応ホテル・メランコリアの第7話を書き終えた。連載はこれで終わって、ラストに書き下ろしをつけて単行本にまとめる予定。おお、ちゃんと終わったぜえ、と毎度の如く自分で驚く。

 読了本『死者たちの謝肉祭』 栗本薫 角川文庫 六道ケ辻の第5作。本来の構想では6作で完結ということだったらしいが、その第6作はなぜか書かれずに終わったようだ。先日読み終えた番外編『たまゆらの鏡』はこの後に書かれている。これまではいずれも大正から昭和、といっても決してリアルな歴史ものではなく、作者自ら幻想の過去と称していた時代だったが、この第5作は敗戦直後の東京のそれも貧民街を舞台に、視点人物も華族ではなく戦場体験の痛手から立ち直れない復員兵という、大きく異質な作品になっているが、ボリュームがこれまでの半分以下で終わっていて、しかもこの先が書かれなかったのもそのためではないか、と推測される。大正から昭和を舞台にしても、栗本の描く華族、大導寺一族とその周辺は「退廃し滅び行く人々」として描かれていたが、時代背景は乏しく、近代史的なリアリティはまったく意図されていなかった。しかし戦後を書く以上は「停まった時間の中の幻想」と同じ筆法では難しい。結局彼女が描いた戦後の東京は、第3作に登場する戦前の貧民窟から大きく変わっておらず、作者自身そこに深入りすることは出来ないと筆を投げてしまったような、唐突で取って付けたような終わり方をしている。そして、物語のスタートから「滅亡」を歌うにもかかわらず、なおこの一族は系譜を繋いでいることが明らかになっていて、すると戦後からこの現代まで物語を持ってくるなら、高度成長期やバブル時代という、華族の退廃の歴史にはいよいよ似合わない背景を、いかにして描くかという難問が立ちふさがる。それに作者は手を付けられなかったのではないか。番外編『たまゆらの鏡』は再び過去に戻り、幻想の大正にこれまた幻想のモンスターたる吸血鬼が登場し、これはこれでひとつの作品とはなっているのだが。

2012.02.04
 仕事用の度を弱くしたメガネがフレームがいかれてきたので、「これと同じ度で」といって新調した。眼鏡屋はいろいろと渡り歩いてきたが、今回は「眼鏡市場」という安い眼鏡屋で、レンズと枠こみで15750円なり。安いが別に問題はない。高いところだと法外だからな〜。

 読了本『乱歩彷徨』 紀田順一郎 春風社 ものすごく目新しい視点があるというのではないが、日本ミステリの父乱歩の軌跡をあらためてすっきりとまとめてくれて、読んでもとても面白かったです。

2012.02.03
 ホテル・メランコリアの第7回書き続ける。ポメラの狭苦しさが面倒になったのでパソコンに文書を写した。まだ終わらず。

 読了本『墨染めの桜』 栗本薫 角川文庫 『たまゆらの鏡 大正ヴァンパイア伝説』 栗本薫 角川文庫 六道ケ辻の4冊目と番外編。ま、もういいわ、という感じで。

2012.02.02
 サイン本プレゼントの告知がinformationページに出ています。ご興味をお持ちの方、どうぞご応募下さい。〆切は2月末日です。早い者勝ちではなく〆切後の抽選ですので。

 昨日は渋谷のシアターコクーンに唐十郎作蜷川幸雄演出の「下谷万年町物語」を見に行った。大学時代唐の芝居にはツレと何度か行ったことがあるが、実に久しぶり。当時はヒロイン李礼仙、二枚目根津甚八、悪役大久保鷹、が主要メンバーでありました。唐の芝居は饒舌にして猥雑、そしてシュール。物語の筋ははっきりいってかなり訳がわからないし、いまどき人気の劇団などと比べるとギャグやくすぐりがちりばめられているわけでもない。が、なぜか退屈はしない。初めて上野不忍池のほとりに張られた紅テントで李を見た時、すごい衝撃だった。筋肉と骨からなる踊るオブジェだ。聖なる怪物がそこにいる、という感じだった。今回の戯曲は1980年に渋谷のパルコ劇場で初演で、そのときもヒロインは李だったが、これは見ていない。今回の宮沢りえも頑張っていましたが、きれいすぎる。藤原竜也もね。若い時の根津もそりゃあきれいで、奥さん(当時)とこういう美形をくりかえしひっつける劇を作り続ける唐の精神はかなりゆがんでるんじゃないの、などと思ったものだったが、根津の二枚目はきれいなだけでなく、なんというか胡散臭かった。場末の、下品な、だからこそきらめくような美しさだった。藤原竜也は清潔すぎる。なんでも「昔は良かった」じゃ老人の繰り言だけどね。

 読了本『大導寺竜介の青春』 栗本薫 角川文庫 六道ケ辻の3冊目。下町の遊女連続殺人事件と華族の若様三人がからむ話。そういう設定なので、これまでの2作よりは多少社会性とか、時代性を描こうとしている感じはあるけど、このプロットだったら枚数は半分で充分。なぜ長引くかというと、視点人物がどれでもみんな鈍感で、現実不適応で、くねくね考え込む割には無力で、結局そばにいる誰かに支えてもらわないとなにも出来ない、そういうタイプばかりなので、彼らの述懐を書き連ねるだけで話がやたら長引くからだ。そして物語は、「たぶんこうなるんじゃないの」と予測した通の所へたどりつく。だからなおのこと長く感じる。って、文句いいつつも読んでるのは誰。はい、わたくし。