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2012.01.31
 「ホテル・メランコリア」の執筆継続。ポメラのいいところは書いている途中でぱたんと閉じれば電源が即切れ、また開けば書きかけの文章がそのまま出てくるのですぐ続きが書き出せる手軽さ。長い物を書いているときに困るのは、テキスト形式の書き流しにしかならないので、行数やページ数が出ないこと。あれ、もしかしてどっかに出ているのかな?
 明日は夜の予定が入っているので、日記の執筆はお休み。

2012.01.30
 オニオンパンは玉葱と生地が混ざり合っていなくて、あんこみたいにはみ出てしまった。今日から「ホテル・メランコリア」の新作を、ポメラでぽちぽち打ち始めた。

2012.01.29
 相変わらず寒い。玉葱を茶色に炒めてアンチョビ、タイムを入れたものをパン生地に練り込んでオニオンパンの仕込みをする。夕方になって忽然と「ホテル・メランコリア」次回のイメージが断片的に浮上する。相変わらずプロットにはならないが、書き出してしまうべきか?

 読了本『六道ケ辻 大導寺一族の滅亡』 『六道ケ辻 ウンター・デン・リンデンの薔薇』 栗本薫 角川文庫 昨日も少し書いたが大正時代らしい過去の日本を舞台に、大導寺家という華族の一族の物語をつづる、いわばジャパネスク・ゴシックとでもいうべき作品群の最初の2作。作者の意気込みは大きかったようだが、作品として成功しているとは言い難い。というのは日本の近代において華族制度というものがあくまで皇室の藩屏(はんぺい、囲み守る者)として創設され、それがために優遇と規制をふたつながら受けた結果、さまざまな歪みが生まれたり庶民の好奇の目にさらされれたりしてきたという、その視点が栗本の物語にはまったく存在していない、というのがひとついえると思う。天皇家−皇族−華族、華族の中でも爵位や出自によるヒエラルキーというピラミッド構造もほとんど描かれない。つまりここに登場する華族家は、ただ非常に古くて由緒があり金もある上流階級の一族以上のものではなく、日本の大正時代である必然性もリアリティもない。社会的な広がりもない。第一作で描かれるのは大導家本家の私生児青年が見た実父と本妻と妾の葛藤、跡継ぎを巡っての暗闘にお決まりの病弱な美少年との同性愛、隠されていた秘密の近親相姦、座敷牢といった、いかにもなおどろおどろしい大時代的要素を詰め込んだかなり月並みなお家騒動もの以上のものではない。
 二作目は大導寺分家の女学校に通う少女を主人公にした百合小説。女子校の空気の描写などはリアリティがあり(『優しい密室』を思い出させる)、主人公の恋人となる勝ち気な少女の設定にも生彩があるが、ストーリーはいかにもありがちで、ひたすら無力なヒロインが意地悪なライバルと取り巻きにいじめぬかれる場面など昔の少女マンガのよう。結末に至るまで意外性はまったくなく、作者もそうした意図は放棄してふたりの恋をつづることにのみ終始して栗本の小説にしては珍しく退屈。作者の意欲は必ずしも作品の質に反映されない、ヘタをすると自己満足に陥る、という意味で他山の石。でも、残りも読むけど。

2012.01.28
 今日はまた一段と寒い。連作短編「ホテル・メランコリア」の第6回、だいぶ前に書いておいたのを、読み返してちょいと直して送稿。その後次回分の構想を練るか、ジャーロの続きをメモるか、積ん読本の読書をするかと思いながら、ついつい昨日ブックオフで買った栗本薫を読み出してしまう。『大導寺一族の滅亡』という、いままで手を出していなかったな、なシリーズというか。ちょうど昨日まで読んでいた本と世界がかぶるので、↓

 読了本『明治・大正・昭和 華族事件録』 千田稔 新潮文庫 続けて読んでいた皇族華族関連で、参考に上げられていた一冊をネット古本屋で購入。昔の新聞というのはいまと違ってプライバシーの概念などろくにないから、特に金持ちや政治家華族などは、恋愛問題も経済問題も好奇心の赴くまま取り上げられてしまう、というわけで、読み物としてはかなり卑俗な印象の一冊。著者の立ち位置がいまいちはっきりしなくて、当時の新聞のそうしたイエロージャーナリズム的な語彙に引きずられてしまっている感じがときどき気に障る。しかし北村薫さんの『鷺と雪』に登場した、華族の若様失踪事件の元ネタはこれだったのだねえ、というのがあって面白かった。で、栗本さんの小説もまさにそういう、華族のおうちのおどおどろものらしい。ただシリーズとしては完結しなかったみたいね。シリーズタイトルが「六道ケ辻」というので6冊で完結予定だったみたいだけど、5冊目が文庫でもえらく薄くなってしまって。1冊は古本屋になかったのだけれど、やっぱり新刊ではもう生きてない。絶版早いなあ、もう。

2012.01.27
 連れ合いの都合が悪かったのでひとりで電車に乗ってジム。

2012.01.26
 今朝仕事場に行ったらいろいろ趣味の合う年下の友人から嬉しいメールが来ていたので、その勢いでジャーロの原稿を仕上げて送稿。読者からのお便り2通に返事書き。それでまだ昼なので、明日にするつもりだった医者に行き、池袋で本と小麦粉を買って帰宅。4月に出るメフィストの短編のイラストは、前から一度ご一緒させていただきたいと思っていた浅野勝美さんにお願いできることとなった。楽しみなり。それからジャーロで連載中のゴシックは、全2冊と違ってノベルスではなく四六で刊行することになりそう。カッパノベルスがほとんど刊行されていない現状では、それもやむをえない決定だし、シリーズとして続いているというよりは単発の話なので呑んだけど、本棚に本を並べる者の気持ちとしては、抵抗はあるよね。

 読了本『猫柳十一弦の後悔』 北山猛邦 講談社ノベルス メフィスト賞出身の作家の中でもかなりとんがっている方だと思っていた作者だが、この話はなんとなく懐かしいっぽい。なにせ孤島で大学生のゼミ合宿に連続殺人だ。語り手の学生は廃墟のようなボロアパートに悪友と暮らしていて、パンの耳なんか食べている。そのへんの貧乏ぶりなんかも、いっちまえば昭和っぽい。ゼミの教師が幽霊のようなザンバラ髪の若い女だけど、髪を切ったらカワイイ、なんてのも一昔前のラブコメだ。ただしすべてレトロというわけではなく、大学にの名前が「大東亜帝国大学」で「探偵助手学部」というのがあって名探偵が講師になる、というようなパラレル設定があり(これも新本格内的に懐かしいといえなくはないが)、探偵が連続殺人を止めて被害者を救うために切実に身を挺する、という設定が新鮮。ただ起こる事件の内容はそれほど目新しくはない。探偵のロジックも同様。しかし読み味は良い。エンタメとしてバランスが良い。作者の作品はデビュー作からしてギョッとするような変な世界で変な事件が起こる、それもさむざむとした滅びの光景を愛好しているという印象があったのが、最近になって印象が変わってきた。

2012.01.25
 たぶんそうじゃないかなと思ったが、案の定薬で寝た翌日はあんまりよく眠れない。ジャーロをプリントして直し始めたが、どっちかっていうと今日は読書日。

 読了本『CUTE&NEET』 黒田研二 文藝春秋 黒田さんは女の子を可愛く書くのがうまい。今回はしっかり者の幼稚園児で、まあありがちなキャラだけど生き生きとして魅力的。ミステリ味は軽いけど読み物として楽しめる。語り手のニート青年立ち直り物語。リアリティが云々などとはいわないで、楽しく読むのがベターなり。
 『葬式組曲』 天祢涼 原書房 「おくり人」がヒットしたせいですか、葬儀関係ものというのが最近わりと目に付く感じ。ミステリでは初めてか。直葬が当たり前になった近未来、乃至はパラレルワールド(他のことは特に変化がないようなので)の日本で、葬儀の習慣が残されている地方の葬儀社を舞台にした連作短編。すごくびっくりしたり、すごく感嘆したりはしないけど、意外な真相、意外な犯人、展開もバランス良く書けている。ただこの本では直葬がとても否定的に扱われているので、葬式を終えた記憶もまだ生々しい自分としては、その辺の感想がビミョー。いえ、別に直葬ではありませんでしたよ。葬儀社に頼んだお坊さんが真言宗智山派の方で、パフォーマンスが面白かったので、そのへんを鑑賞するのが楽しかった。でも自分の時は「やらなくていい」と遺言するつもり。つーか、やってくれる人もいなくなる予定だし、孤独死志願です。

2012.01.24
 このところ睡眠の質が低下してきて、どうもいけんというわけで、前に医者からもらったマイスリーというのを一錠飲むと、11時から8時まで9時間近く爆睡したが、目が覚めても軽くぼけている。どっちにしてもぼけてるやん。それでも今日も出かけずに仕事したおかげで、ジャーロの連載分がやっとラストに到達。しかし100枚足らずの原稿に10日もかかっていたんじゃ、あんま大きな顔はできません。

 読了本『華族令嬢たちの大正・昭和』 華族資料研究会 吉川弘文館 これも含めて、いずれ北斗学園の過去編、戦前の女学校時代を書こうと思っている、そのための資料読みです。といってもまた全然ストーリーは動いてなくて、断片やイメージがあるだけ。仕込みには時間をかけられた方が良い、特に長編は。大正生まれの元華族令嬢四人が語る思い出話だが、残念ながらお公家さんのお嬢さんはいなかった。でもこれを読んでいたら、なんとなくひとりのキャラのイメージが出来てきたな。学習院から自由を求めて転校してきた華族令嬢、主人公ではないだろうけど、ちょっと天然で、ほんやりしてるのかと思うと思い切った大胆なことをしてしまう、ことばはとにかく丁寧な娘。

2012.01.23
 週末が過ぎて今日からまた晴れるのかと思ったら、あにはからんやの曇りから雨でした。後は昨日と完全に以下同文。今週は医者に行かないとならないし、歯医者の検診も来てるけど、そういう予定はちっとも嬉しくねー。

2012.01.22
 今日も寒さに耐えながら、ちんたらちんたら原稿書いてるだけなんで、日記に書くネタが払底しました。すんません。

2012.01.21
 我ながら代わり映えのしない日記でおます。渋谷ブンカムラでやるレオナルド展のの前売りチケットを買おうと思って調べていたら、シアターコクーンで蜷川演出の「下谷万年町物語」をやるとわかり、見たいなあと思ったけど案の定チケットセンターには電話つながらないし、ネットも以下同文だし、コンビニからチケットぴあに接続しようとしても結局売ってないというわけで、遅いよなあ、我ながら。

2012.01.20
 朝から外が真っ白だったら、ベッドに一日沈没しちゃおうかなあ、などと思っていたら、朝は雨。その後雪になったけど積もらず。でも十分に寒い。仕事場から外に行く元気はなく、オイルヒーターをつけて終日、仕事と数独を。

 読了本『華族家の女性たち』 小田部雄次 小学館 ひたすら事実の集積で読み物としての魅力はいまいちだけど、事実関係と固有名詞が豊富なので、物書きの資料向きではある。明治から昭和戦前までの華族制度のこととか、よくわかってなかったなあという感じ。天皇の男系襲位の話をしていたけど、華族も男系相続で、明治になってからもらった爵位も男系だけが嗣ぐ。婿を取ったり養子を取ったりする場合も、華族以外の平民はダメということで、かなり露骨な身分制度でした。一種の裏繋がりとしての閨閥(妻の血縁からつながる関係)というのも、まああったけど、それは公式のものではなかったのね。もちろん閨閥といえるのは華族同士の結婚、正妻だけで、妾は平民もありだけど影の存在。伊藤博文とか木戸孝允とかの場合は、奥さんも芸妓だったりしたけど。
 そんなわけで輪王寺家というのは、女系家族だから華族にはなれませんでした。そこは嘘を書かないで済んでホッ。堂上公家だったというのは、たぶん嘘ですわ。いえ、もともと架空の仮名なんで、現実に存在しないと判っている名前を使ったんだけど。

2012.01.19
 午後はジム、それまで『わたしはここにいます』を書き続ける。今回書く分のプロットは立てられたので、案外順調に進むかも知れない。そうしたらまた読書のための日を何日か作ろう。まあ、ゲラとかも折々来るだろうし。
 無くなってしまった懐かしものというので、そういえばと思い出したのがこたつ。これはまだ使っています、という人もたくさんいると思うが、うちは自宅も仕事場も畳の部屋がないので、こたつもないのだった。しかし生まれた家といえば、灯油のストーブが入ったのもかなり後で、冬の暖房といえば茶の間の掘り炬燵だけ。脚を下ろせるのでその後普通になった置きごたつとは違う。腰掛けているわけだから楽なんだけど、炭火というのが意外に曲者で、冬休みなどに一日中そこにいると、一酸化中毒で気分が悪くなるというのがたびたび起きた。途中で換気したりすればいいのに、子供だから「やばいかも」と思っても、つい面倒にしたあげく、夕方ぐらいにひっくり返る。いま思えば、それはまずいんでないの? という気がするんだけれど、あのころはみんな呑気だというか、いい加減だというか、安全とか健康とかそういうことをあんまりおおげさに考えなかったんだね。良くも悪くも。

2012.01.18
 昨日は東伏見の焼鳥屋に飲みに行った。5時の開店に少し早かったので、寒いけど付近をうろうろ散歩。このあたり、住宅街で、家のほとんどは新しく建て変わっているけど、残っている家は庭が広かったり、木造平屋だったり、お店も小さな豆腐屋さんとか、昭和懐かし系の風景がある。その焼鳥屋も、取り立ててすごい美味というわけではないが、安くてメニューが多くて、焼き物や煮込みが美味しい、少し懐かしい普通の飲み屋。ふたりでたっぷり飲み食いして5千円でおつりが来る。昭和の風景はつまり生まれた町のあたりでは失われた子供時代の風景だし、飲み屋も学生時代に行った飲み屋に近い。自分の若い時には当たり前にあったものが、なかなか見かけられなくなって、あったら「ああ懐かしい」なんて気持ちになるとは、その昔は想像もしなかったねえ。

 読了本『不思議な宮さま 東久邇宮稔彦王の昭和史』 浅見雅男 文藝春秋 天皇から皇族へというわけで、積ん読本から手を伸ばした。皇族の系図はいい加減面倒くさいのでいちいち触れないが、とにかく1887年、明治20年に久邇宮朝彦親王の子として生まれ、長男ではなかったが明治天皇の娘を嫁にして東久邇宮家という新しい家を立ててそこの当主となった「宮様」の生涯のノンフィクション。日本の敗戦時に首相に就任したが、はっきりいって無能な人でたった50日で辞任した。それ以前もずっとろくなことはしていません、というのがこの本の話で、「不思議な」なんていうと、カワイイとか、不思議ちゃん? とか思いたくなるが、全然そんなことはない。大した能力もないのに、ないからかも知れないが、妙に周囲から期待されたり、変な取り巻きが寄ってきたりしやすい、ということは、つまり日本の皇室というのは「無能で担ぎやすい玉こそベター」だと思われていたという、明治維新からの伝統のなせる技だろう。無責任で、思いつきでものをいって、自己主張だけは強く周囲を振り回し、人が良いようにみえることもしばしばだが、いざとなればつくした側近のことも平気で忘れて保身に走れる、身分高い者の冷酷さを持つ。これってむしろ男性皇族の典型じゃね?
 江戸時代は宮中に金がなかったから、皇族といえども跡継ぎ以外は出家した。明治になったら上から率先して富国強兵だというんで、出家は無し、男性皇族は全員軍人になることにされた。それでも宮家が増殖しすぎるのは金がいくらあっても足りない、という議論はすでに明治時代から出ていて、男子でも跡継ぎ以外は臣籍降下という規定が出来たが、皇位継承が玉不足になるのは困るし、女性皇族の嫁ぎ先が不足しては困る(皇族に嫁げば皇族のままで、生まれた男子には皇位継承権があるが、華族に嫁げばもう皇族ではないし、男子が産まれても皇位継承とは無縁になる)というので、明治天皇がなかなかうんといわなかった。東久邇宮家はそのぎりぎりにこさえた滑り込み創設宮家というわけで、伝統なんたってたかだかこんなもんだ。そして敗戦の時には秩父宮、高松宮、三笠宮の三家以外の宮家はすべてなくなって、そこにいる皇族もただの人になりました。ときに1947年。つまり、いま皇位継承が不安だから昔の宮家の人を皇族に連れ戻せと言うのは、なんと65年も時計の針を逆さに回せということです。65年あったら、皇族だった頃のことを記憶している人なんて疾うにお亡くなりですよ。だったら庶民ってことはないとしても、普通の人と一緒じゃん。無理ありすぎ。やっぱり知れば知るほど、「天皇制、もういいんじゃない」という気がしてくるな。

2012.01.16
 いやあもう寒い。今日は陽射しがない分、またひときわ寒うございました。

 読了本『昭和天皇 「理性の君主」の孤独』 古川隆久 中公新書 昭和天皇とはどういう人物で、どういう天皇だったのか。現人神として勝てそうにない戦争に向かって日本を導いた軍部を支持した独裁者だったのか、その暴走を止められなかった無力な名ばかりの支配者だったのか。皇太子時代からの言動やマスコミに現れた像、侍従らにもらした肉声を時代に沿って丹念に精査した結果浮かび上がってきたのは、よくある話のようだが「真相は両極端の真ん中あたりに存在する」ということだった。
 皇太子の時にヨーロッパを訪問し、特にイギリス王室の立憲君主制に強い感銘を受け、それを理想と仰いで自らの天皇像を確立した。当時の報道に現れるヒロヒトは、それまでの慣例を破って軍服ではなく平服の背広姿で国民の前に現れ、ゴルフを愛好するモダンでリベラルな青年皇族だった。生物学を生涯の友とし、「現人神」も「万世一系」も神話と信仰のためのタームで、進化論を初めとする科学的な概念とは一致しないと当然のように理解していた。しかしその一方で彼には「明治大帝の定めた近代日本の秩序を維持し国力を発展させる」ことを務めと捉えていたため、軍部が政府から独立する構造にメスを入れることは出来ず、結果としてその暴走を許すこととなった。
 彼は飽くまで協調外交を志向し、国際連盟の脱退にも反対していたが、世論はすでに開戦に向かい始めていて、彼の意を取り次ぐ側近もなく、孤立し、結果としてずるずると戦争が始められてしまった。戦争が始まってからも「早期終結」は常に念頭にあったが、始まってしまえばやはり現実に引きずられ、勝てば喜び、戦局が不利に向かえば向かうほど「この犠牲に見合うだけのなんらかの戦果を得なくては終われない」という思いから終結のための好機を幾度も逃した。最終段階になっても「せめて局地戦なりで一勝をあげてから」という現実無視の愚かさが、沖縄戦の惨禍から原爆投下を引き起こした。つまり彼は決して自らを神と信ずるクレイジイな軍国主義者ではなかった、むしろ本音としては戦争と正反対を向いていたにもかかわらず、やはり彼には戦争責任があったのだといわなくてはならない。
 そして軍部というやつが、錦の御旗として利用したのが、現実のヒロヒトとはなんの関係もない、観念としての、つまりはなんでも自分に都合の良いものをそこに詰め込める空虚な顔嵌め看板としての「天皇」だ。私はヒロヒト個人以上に、天皇制に、それを担いだ者全てを含めて、戦争責任があると思う。無論日本の近代化にとって、それがプラスに働いたこともあったのかもしれないが、もう要らない、という気がする。だって、天皇制によって象徴される日本の伝統的なナニカなんて、歌舞伎の大名跡ほどにも自分に関係があるとは思えないからだ。

2012.01.15
 冬の日や 己を抱いて猫眠る 今日の新聞に載っていた俳句です。俳句というのは昔から興味があるが、どうも自分で書けるという気がしない。書いたこともない。実は短歌ならそれなりの数作っていたことがある。あれは一種癖になります。57577というのは日本語についたリズムだし、その数の升目がある原稿用紙が用意されているような感じで、そこにポンポンとことばを嵌めていけばいい。無論それで優れた歌が詠める、というものではないけれど、そこが定型詩形の有り難さ、なんとなく格好がついてしまう。そして31文字あればけっこう、心境や情景が書き込めるものです。しかし俳句となると、さすがに17文字はとても少ない。なにか描写しよう、語ろう、などと思えばとても足りない。だからぎりぎりに削るだけでなく、飛躍が必要になる。余白を想像で埋めてもらうような、そんな書き方が要るでしょう。絵にたとえれば具象画よりは抽象画、それがとてもムズカシイ。まあ、こんなごたくを並べている時点でそもそもダメです。
 というようなやくたいもないことを考えて、書かねばならない原稿からの儚い逃避を計っている物書きでございました。

2012.01.14
 正月も過ぎ、冬至の後で少しずつ日脚は延びているはず、といってもまだそれほどには感じられず、ひたすら寒さに耐えつつ仕事するだけ、の毎日です。

 読了本『風さん、高木さんの痛快ヨーロッパ紀行』 山田風太郎 高木彬光 出版芸術社 ふたりの人気作家が1965年、35日間ヨーロッパを旅した。高木の旅行記は刊行されていたが、山田の日記は本邦初公開で、ふたりの文章を並べて読むと興味を持つところ、感心するところのずれがなんとなくニヤリとさせられる。旅の最初はナホトカ航路からソ連なので、1980年に旅した篠田も思い当たる部分があり、ソ連って国はそのへんの15年ではあんまり変化しなかったんだなあ、などとも思う。ヨーロッパについてはずいぶんいろんなことが変わっているが、一番変わっているのは旅をする日本人の意識かも知れない。少しだけぎょっとするのは、高木さんが向こうで当たり前のように買春しに行くこと。そのことが特に恥ずかしくも何ともないってこと。へええ、と呆れ、かつやはり嫌悪感を覚えます。この時代の人は性病とか心配じゃなかったのかなあ。

2012.01.13
 いま仕事はジャーロ連載の『わたしはここにいます』に取りかかっているのだけれど、気がつくとけっこうな枚数を書いてしまっているのに、話はこれでちゃんと終わるのかい、と少し心配になってくる。本にする時にはそうとう手を入れるとして、とにかくちゃきちゃきと今年いっぱい、つまりあと3回くらいでは終わらせたいと思っているのでありますが。

 読了本 『今朝子の晩ごはん』松井今朝子 ポプラ文庫 『吉原手引草』松井今朝子 幻冬舎文庫 姉貴のところで萩尾さんのあとがきマンガに惹かれて前の本を手に取り、それがなかなかに面白かったので、前から「ミステリだよ」と聞いていた直木賞受賞作を購入。前者は軽いエッセイなので後者についてだけ感想を記す。ひとりの花魁について関係者にインタビューして回るうちに真相が浮かび上がる、という形のなるほどミステリ。すべて語りで江戸の吉原という特殊社会を手際よく説明しつつ、引き手茶屋のおかみから伎楼の従業員、幇間、さまざまな客といった年齢、性別、身分の異なる多数の人物にいかにもそれらしいことばをしゃべらせて、物語を構成する手際はまことに練達。ただミステリとしては、花魁が姿を消した方法については特に隠してもおらず、なぜ、という部分については推理する余地はなくラストで明かされて、動機まで歌舞伎風なので「ああそうですか」と意外感はない。最大の主要人物である花魁が最後まで語られるだけというのも、まあたぶんそうなるだろうなと予想が付くが、ミステリ的な興趣として少し面白いのは、そうやってインタビューをしている人物は何者なのか、という謎。これについても伏線はないので、作者はそもそもミステリを意識はしていないということがわかるのだが。

2012.01.12
 今日はめちゃくちゃ寒い。なにせ出来る限り東電には金を払いたくないというわけで、エアコンは春からずっとお休みだし、オイルヒータもつけずに、足下はカタログハウスのもこもこ室内ブーツ(見た目は完全に着ぐるみの茶色熊だ)、身体はふわふわフリース地の袖付き毛布みたいなのをまとい、尻の下もふわふわ膝掛けを敷いて、手には指を切った手袋をすれば、身体はかなり温かくてそれはいいんだけど、いれたてのコーヒーが一杯飲みきらないうちにたちまち冷えていくというのがどうも、悲しいものがある。ああ、春よ来い、早く来い、だ。

2012.01.11
 昨日は角川の編集Y氏と打ち合わせ兼ねて飲む。彼は他社から移って引き続き担当してもらっているので、いまとなっては一番付き合いが長くなった。連れ合いも呼んでくれるので安心して酔っぱらう。今日は講談社にメフィストの短編を送稿。担当K氏は非常に律儀な人で、送稿するとほとんどの場合その日のうちに原稿を読んで感想をくれる。まずは及第ということで一安心。これは4月のメフィストに載る。また角川文庫『閉ざされて』は9月、講談社ノベルス『緑金書房』は6月という予定になったので、今年は6月から10月に6冊連続刊行ということになった。まあ半分は出し直しものだけどね、こういうのは珍しい。

 読了本『崩御と即位 天皇の家族史』 保阪正康 新潮文庫 孝明天皇の急死から明治天皇の即位、明治天皇の死から大正天皇、大正天皇の病による摂政としての皇太子の登場から昭和天皇即位、そして昭和の終わりと、近代天皇制の代替わりに注目しての歴史。しかしこの本の趣旨とは別に、血統による君主の継承というシステムは、もはや現代の価値観念には合わないのではないかと思ってしまった。アナクロニズムにしか見えないんだよ。女性天皇是か非かなんていっているけど、大正天皇は皇后の子ではありません。お局様の子供でした。男系のみにせよ、女系を認めるにせよ、血によって地位を繋ぐということは、女性配偶者に一番に期待されるのは健康な子供をたくさん産むことで他は二の次、つまり「女は子を産んでナンボ」という価値観を繰り返し確認すること。さもなきゃ一夫多妻を認めるしかないけど、今の時代にそんなの通らないでしょう。複数妻、あるいは妾を制度的に容認しない限り、お世継ぎがいない、の危機はいつでも起こりえる。車の両輪みたいなもので、妾は置かないけど男系相続なんて無理なんだって。たまたま大正天皇の皇后が多産だったから、どうにかここまで来ただけ。一般人になっている元皇族を引き戻すって、戦後半世紀以上経って誰がやりたがるの、そんなもん。そうまでして残すべきもの? 無理に無くせとはいわないが、無くなるべきときが近づいているんだと思うよ。そんなの少し昔の歴史を勉強すれば、誰だってわかるさ。目をつぶって見ないようにしない限りはね。

2012.01.09
 エッセイ、再度直し。わずか800字だからこそ、それなりに手間がかかる。それから短編の直しをやって昼過ぎに外出。芦辺拓さんのお連れ合い、風呂本佳苗さんのピアノリサイタルに、東京オペラシティまで。篠田はクラシックの通でもなんでもないし、ピアノ演奏に鑑識眼があるわけでもないが、この方のピアノはいつもダイナミックで男前、骨太で肉厚と感ずる。ご当人は楚々たる美女なんだが、内なるパワーはむしろこの演奏のイメージそのままではと思わせる。さすがあの(どの?)芦辺さんのハートを射止めただけのことはあるわい。

2012.01.08
 今朝は目覚ましをかけなかったら、寝坊して八時になっていた。不眠が出てから寝過ごすなんてことはまずなかったので、いいことみたいな気がする。仕事場のドアを開けるとカレーの香りが充満。物書きの仕事場らしくねーの。今日はエッセイを仕上げてから短編の直しを続ける。

2012.01.07
 東京にいる姉と半日遊んで、家に泊まってきた。仕事場に戻って冷凍庫で越年した牛筋とトマト缶で牛筋カレーを仕込み、講談社ノベルス30周年の特集とやらによせるエッセイを書き出す。昼間は晴れているとはいえやっぱり寒い。もう少し暖かくなってもらわないと、少なくとも服装に気を遣おうという気持ちにはなれませんね、60目前の後期おばはんといたしましては。

 読了本『さよならファントム』 黒田研二 講談社ノベルス とてもフェアに伏線が張られているので、真相を知らされたときは「驚愕」よりも「納得」が強いミステリでありました。つまり、**だからこういう現象が起きていました、という部分はちゃんと意外なので「おお」とは思うものの、その背後にある「誰がいい人で誰が悪い人か」「考え違いしているのは誰か」「××は実際に起きたのか」といったことは、小説の書きぶりで最初から想像がついてしまう。そこまでフェアを貫徹している。だからどこに最終的な宝物が埋まっているかはわからなくても、宝のある方向だけは最初から見えているというか。その結果感想は「いい話を読みました」ということになる。残念ながら「すごいミステリを読んだぜえっ」という感じにはならない。でも、つまらなくはない。

2012.01.05
 どうやら世の中もそろそろ平常運転らしい。メールアドレスが一部変更になるので、担当にメールしたところ返事がばんばん返ってきて、そうでないところからもメールが来て、今年の仕事の計画を整理していると、いまのところ本は6冊出ることになるらしい、とわかる。いや、よく考えれば整理しなくたってそれくらいのことはわかっていたはずなのだが、大変なことは出来るだけ先送りにして、とにかく目の前のことからひとつひとつ片づけるようにしないと、頭がわやくちゃになってしまうのだよ。ただ問題は妙に刊行時期が重なりそうだ、ということなんで、年の前半に本を出そうと思ったら、前の年から始動していないとせわしないことになるのに、どうしても12月と1月で切れるから、年明けからいろいろしていると後半に重なっちゃう、んだね、これが。
 「桜井京介リターンズ」の短編は、ツレに目を通してもらって良かろうという話になったので、来週早々にも送稿してしまうつもり。それからジャーロの続きに腰を据えて取りかかる。〆切まで一ヶ月。きばれー。
 明日は外出、日記はお休み。

 読了本『ヨーロッパ異端の源流 カタリ派とボゴミール派』 ユーリー・ストヤノフ 平凡社 『琥珀捕り』 キアラン・カーソン 東京創元社
 今年の三が日はこの2冊を交互に読んでいた。後者は「語られる物語についての物語」とでもいうしかない不思議な小説なので、宗教的二元論、この世界における「悪」の起源を説明しようとする試みについての前者が、それもまた語り手の語る数奇な物語の一部であるような、不思議な眩惑感を呼び起こすコラボ読書だった。ストーブの前でうとうとしたり、昼間から酒を飲んだりしながらだから、なおのこと。ちょっと面白い経験だった。『琥珀捕り』の、語りの入れ子構造は筒井康隆『驚愕の荒野』(ほんとは荒野の字が違う)を思い出したけど、あちらは物語の消滅に至る空漠の闇、こちらは増殖するオブジェと細部の豊饒。澁澤が生きていたら喜んだろうなあ、という感じです。

2012.01.04
 明けましておめでとうございます。今年も楽しくお酒と読書の年明けでした。元日には近所の川でカワセミを二度目撃。2日は家の近くのハイキングで、青空の下で昼酒を喰らい、3日は秩父の満願の湯という、良い感じにローカルな日帰り温泉に浸かりに行きました。というわけで今日から平常運転。4月のメフィストに載る「桜井京介リターンズ」の短編、12月に京都から戻ってから書いていたものを、手を入れて一応仕上げてみました。家政夫探偵桜井京介の始動であります。

 それから唐突ですが、『龍の黙示録』文庫版完結を記念して、サイン本プレゼントをいたします。文庫版9冊セット三組を抽選でどーんと、送料もこちら負担で差し上げてしまいますので、「そっちのシリーズは読んだことないけど、もらえたら読んでみたい」という方、どうぞご応募下さい。念のためですがサインにはあなたの名前を明記するので、転売は出来ません。それからこの企画は一応、未読の方優先です。「ノベルスで読んだけど文庫も欲しい」という方は、全然応募がなかった場合には差し上げられるかも知れないので、ものは試しで応募するのはokです。応募には80円切手2枚同封をお願いしますが、フルセットが外れた方にもなにかしら、手元にある篠田の本をお送りしてしまいますので、空くじ無し、「損した」ということにはなりません。
 というわけで、応募の要領はインフォメーションのページをご覧下さいませ。