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2011.07.31
 未明、地震に起こされたせいで終日頭がぼけっ。しかし小説の方はクライマックスを迎えつつある。予定より早いじゃん、自分。しかしほんとにOKかどうか、そしてちゃんと終わるかは、まだわからない。当たり前だけど、話の着地点というのは一応わかっているわけで(一応ね)、そこへ話を持っていくわけだけど、問題はこれが読者にとって、意外性と納得性がほどほどに含まれた面白い着地になっているのかしら、ということ。意外と納得、というのは篠田の一番のこだわりでありまして、「ええっ」というのと「あーそうかあ」というのが、どっちもあるのが好きなのね。意外すぎるとしらけるし、予想どおりだとちょっと失望したりもするじゃない。だからいつも「見え見えだよ」とはいわれないようにと思いつつ、伏線は過剰に張りたくなるんだけど、意外と気がつかないんだよね。この伏線というやつも、実は「どこに張ってあるか気がつかなかった」というのはいまいちの伏線でありまして、回収されたときに「ああっ。あそこはなんか意味ありげだとは思ったけど、なんだかわかんなかった。こういうことだったのか」と驚いて頂けるのが理想なんですね。ええ、あくまで満たされざる理想です。

 読了本『眠る盃』 向田邦子 講談社文庫 短いエッセイ集だけどさすが練達の人といいますか、気の利いたエッセイってこういうのだよねえ、という見本のようなもの。さすが故山本夏彦が「名人」と絶賛しただけのことはある。しかし使われている言葉が、半分死語というか、懐かしい、意味はわかっていても自分ではもう使わないことばがたくさん出てきて、篠田のように少し古い時代や少し前の人を書きたくなる人間にはこれも財産だと感じさせてくれる。集まりというほどの意味合いで使われる「人寄せ」、もったいないという意味合いの「冥利が悪い」、「辛気くさい」なんてのも、話し言葉では使わないと思うけど、このへんはやっぱり神代お姉さんに使って欲しい感じがします。

2011.07.30
 今日も涼しいめ。夏野菜の出来がちょいと心配になってくる。スーパーにいちじくの値引きものがあったので、買って赤ワイン煮にした。ネットでレシピを調べるとこれが千差万別。保存する気はないので砂糖は半分程度にして、取り敢えず皮を剥いた一個をグラスに入れ、ゼラチンを溶かしてイチジク入りワインゼリーにする。さて、お味は如何に。
 リンクをしたフクさんの書評サイトに、建築探偵の第3作『翡翠の城』の評がアップされた。ミステリとしての狙いをストレートに評価してくれているのが、大変に嬉しい。しかし篠田、ミステリ作家としては進歩してないですね。

 『向田邦子ふたたび』 文藝春秋編 文春文庫 篠田は決して向田邦子のファンではない。久世光彦のエッセイで間接的に知った程度で、テレビドラマはほとんど見なくなっていたから、タイトルに聞き覚えがあるという程度。この本に手を出したのは彼女の愛猫コラットのマミオの写真があまりに魅力的だったからだ。うちに以前いた黒猫がシャムとの混血で、とてもこの猫と似て見える。耳が大きめで顔が四角く、胴が長いが手足もすらっと長く、かつ太い。すばらしい血統書に興味はないし、手足の短い豚にゃんこも魅力的だとは思うが、今は亡き黒猫ライルを思い出させるコラットはかなり憧れだ。昔アレクセイのところにいた猫の「蒼」は銀灰色の毛並みにブルーの目なので、ロシアン・ブルーかコラットか、とは思っていたんだけど。あ、あともうひとつ自作との関連。向田邦子さんは1929年生まれで、神代さんのお姉さん沙弥さんは1928年生まれ、とほとんど一緒。そのせいか、向田さんの写真を見ていたら、沙弥さんのような気がしてきてしまった。向田さんは51歳で事故死しちゃったんだけどね。というわけで、文庫のエッセイになぞ手を出して、ああ、仕事の妨げじゃ。

2011.07.29
 医者と本屋で東京。帰りの西武線が間引かれていてなかなか来ない上に、空調が抑えられていて、湿度の高さにばてる。寒すぎるのは嫌だけど、このところのべたべたはかなりすさまじく、洗濯物が全然乾かない。なさけないがちょっとぐちりたくなる。しかし東京よりは、自宅のほうがいくらか涼しい。昨日は小さめのゴーヤを二本収穫、カレー味のチャンプルーも美味なり。
 『ガラスの仮面』の47巻が出た。話には多少の展開があったが、それは驚くようなことでもなく、というか、いまさら驚きようがない。あーそうですか、はいはい、という感じで、お願いだからちゃんと完結させてね。

2011.07.28
 小松左京さん逝く。篠田の高校時代は日本SFの第一盛期という感じで、頭の柔らかいあのころにSFを読みまくった、その記憶は今も鮮やか。小松左京と言えば超能力スパイもの『エスパイ』、あっと驚く大阪ミュータントもの『日本アパッチ族』、本格SFミステリ『嗣ぐのは誰か』と、次々とタイトルが浮かぶが、やはりもっとも忘れがたいのは時間SF『果てしなき流れの果てに』で、これともうひとつ光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』で、頭がいっぱいになった時期もあったんだけど、その割に「SF書きたい!」とはなぜかならなかった。あまりにも好みで、それが過不足なく達成された傑作を読んでしまうと、自分で書こうという気はしなくなるのかもしれない。同じ頃に同じように熱中して読んでいたのがデュマのダルタニヤン物語で、こちらは歴史小説というか、コスチュームもの大好きの刷り込みになっているのだが、なぜかSFはほとんど書いていないのだよ。唯一の例外が『聖杯伝説』か。それと、別世界ファンタジーを書くとどこかSF的な匂いが漂ってきて、純然たるファンタジーでいられない悪癖というのはあって、その辺が出ているのが『根の国の物語』4部作。どちらもすでに新刊書店にはないので、ブックオフで見つけたら買って差し支えござんせん。消えるよりはせめて読んでちょ。

2011.07.27
 今日は朝は小雨が降っていて涼しかったので、今日は久しぶりにホットコーヒーが飲めるかなあと思っていたら、雨が止んだらどんどん蒸し暑くなってしもうてダメでした。昔は「水物ばかり取ると胃液が薄まってよくない」などといったものですが、最近は「熱中症対策は給水が大事」だから、ばっかんばっかん飲んでおります。麦茶、牛乳の他、今年は無印でいろいろ水出し茶が売られていたので、水出しアップルティとか水出しジャスミン茶とかとっかえひっかえ。たまには煎茶を水出しにしたものなど、美味しいですよ。カフェイン濃そうだけど。
 神代宗21歳は本日224頁まで。いよいよクライマックスかなと思いながらプロットを整理していると、なんとなく後はまっすぐ行けそうな気がしてきた。まだだけど、自転車で下り坂の予感がして参りました。この調子なら去年よりは早い目に懸案の書き下ろしが片づいて、それじゃ増える一方の積ン読本に取り組むべく読書三昧の数日、なんてのも送れるんじゃないかしらん。るん。ま、まだ「とらたぬ」だけど。

2011.07.26
 今日は夜になってもかなり蒸し暑い感じ。それでも先日までの猛暑と比べればまだまし。よほど暑さに慣らされたと申しますか。しかしここへ来て睡眠の質が低下してきた。ひとつには原稿の方がクライマックスに向かって緊迫の度を増しているということがありまして、夜中に目覚めて話の展開をああだこうだと考えていると、眠れなくってしまうのでありますよ。ああもう頭痛い。

2011.07.25
 また夏が戻ってきたというか、台風前のここは熱帯ですか、なじりじり天気から、湿度がそれなりにある日本の蒸し暑い夏的な天気になってきた感じ。それでも皮膚がやけどしそうなじりじりよりは増し、という気もする。しかしそのわりに体調がいまいちだ。パソコンに向かっていても頭がぼわわっとする。仕事はやっと200頁超えた。8月中にラストまでたどり着ければ大変にありがたいのであるが。それにしてもゴーヤの元気なことよ。雌花がばしばしと咲いております。この明るい黄色の花と、甘いけれどさわやかな香りが好きさ。

薔薇の花photo2011.07.24
 あまり代わり映えもしませず、今日も仕事。少し暑くなってきたが、台風前の猛暑を考えればまだ涼しいですね。ツレが5時過ぎに「目が覚めた」というのでつきあって起きてしまい、一日が大変に長い。ま、小学校の昔から、夏は早起きして涼しいうちにお勉強しましょう、が黄金ルールであります。あのころから篠田は小心者で、8月31日に泣き泣き宿題をやるような度胸はありませんでした。むしろ少しでも前倒しにやってしまおう、なんて我ながらせこい。そしていまも〆切を破る度胸はない。ああ、三つ子の魂百まで。

2011.07.23
 昨日は買い物ついでに銀座で生ビールと思ったが、気温が低くてビール気分が盛り上がらなかったのに加えて、選んだ店がいまいちでありました。ビールには美味しい料理が欠かせないし、今出来の新しい店はどうもね。
 本日は来月12日に出る『失楽の街』文庫版の表紙デザインが上がってきた。今回はノベルス版では入れられなかった東京の地図も挿入され、いろいろ手を入れておりますので、お手にとっていただけますれば幸いです。
 皆川博子先生より薔薇をいただいた。遅ればせながら、とシリーズ完結祝です。写真ではうまく出ていないけど、とてもきれいな中間色。
    
 2011.07.21
 台風は関東にはあんまり接近せずに太平洋上に遠ざかり、19日以上の大雨は降らずに済んだが、今日はビックリするほど寒い。最高気温が25度に届かないというのも驚いた極端さで、心なしかゴーヤも今日は元気がない。しかしこの後はまた猛暑が戻るようだ。相変わらず極端から極端へ、の気候である。

  読了本『ハウス・オブ・ヤマナカ 東洋の至宝を欧米に売った美術商』 朽木ゆり子 新潮社 明治から太 平洋前まで主にアメリカを中心に、最初日本美術、後では中国美術を販売した山中商会の盛衰史。こういう のも商売だとは思うが、日本の古美術をアメリカ人にせっせと売りまくった話は、今読むと微妙というか、抵抗を感ずるのはまあ現代人の思考。中国美術なんかも、この時代は中国が清朝倒れてごちゃごちゃの時代だから、持ち出し放題というか、かなり強引なこともしたんとちゃいますか。日本がアメリカに参戦するとその資産は凍結されて、アメリカの敵国資産管理人局によって精算された。早い話が否応なく安売りされて、コミッションや経費を引かれた残りは渡されたそうなので、そうか、一も二もなく没収とはならなかったのね、さすがに20世紀の戦争は中世とは違うんだわあ、と逆に感心した。

2011.07.20
 8月刊の文庫『失楽の街』と9月刊の文庫『幻想建築術』の再校ゲラがなぜか同じ日に来てしまう。講談社文庫は表紙に半沢氏の撮した江戸川アパートの写真を使うことにしたので、急遽そのデータを取りに来てもらい、ついでにゲラも持ってきてもらった。といっても、もうそんなに見るところはないので、さくさく終わらせるつもり。PHPの文庫も全部読むのは大変なので付箋の指摘部分を中心にチェック。書き下ろしは相変わらず、先が定かならぬままじりじりと進行。あまり長くならないと、いいな〜
 昼間は止んでいた風雨が、夕方からかなり強くなってきた。今夜は荒れそう。

2011.07.19
 すさまじい雨音と雷にたたき起こされたら3時。その後も少し寝たがやはり寝不足なり。そして雨はひたすら降る。怒濤のように降る。降りすぎである。ここしばらく空に雲なく夕立すらないと思ったら、今度はこれ。いちいち極端だ。そして湿度が高いせいで、涼しいという感じはしない。エアロバイクを漕いで全身汗でずぶぬれになる。なかなかちょうど良い天気というものは、ないもんであります。

2011.07.18
 台風が接近しつつあるせいだろう。今日は湿度が高くなって、陽射しはすでに雲で遮られているわりに、むしむしとして、これはこれでしんどい。明日は久しぶりに最高気温が30度を割り込むらしいので、その点が楽しみという感じ。ひたすら仕事。やっと150頁に到達。明日は2本目のゴーヤを収穫しようと思っていたら、ツレが近所からゴーヤをもらってきた。あらら。

2011.07.17
 相変わらずクレイジーに暑い。日本の夏(関東の)というのは、基本湿度の多い蒸し暑さだったと思うのだが、今年はあまり水気がなく、ひたすら日がかんかんと照りつける暑さで、なんだか少し肌合いが違う気がする。しかし、だからといって過ごしやすいということはなくて、朝からあまりの高温に頭がぼーっとしてくる。それでもなんとなく少しは身体が慣れたような気がして、今日はひたすら屋内で仕事。さすがにエアロバイクを漕ぐ気はしない。熱中症にならないよう、せっせと水分は飲む。麦茶を飲みアイスコーヒーを飲み牛乳を飲み黒豆茶を飲み豆乳を飲みひたすら汗を掻く。

 読了本『世界石巡礼』 須田郡司 日本経済新聞社 世界中に巨石、奇岩、岩山、自然物も工作物も含めて「石っ」としているものを求めて旅した本。見たことのない物件も結構あるのだが、本全体の印象がいまいちなのは、写真がいまいちだからなんだね。職業はフォトグラファーと書いてあるのに、そんなことをいっては悪いのだけれど、ブツの魅力をちゃんと伝えられない写真だという印象。まあ、難しい対象だとは思うけどね。

2011.07.16
 予定どおり、朝から11時くらいまでパソコンに向かって、それから駅のスタバへ。しかしやはり土日はお客が多くて落ち着かない。おまけに仕事場周辺はこの週末は夏祭りで、お囃子攻撃がすぐ前の道を行き来する。うー、エアコンつけて戸を閉めたい。というわけであまり進まず。
 ゴーヤ第1号収穫。180グラム。

2011.07.15
 昨日は日帰りで茨城県笠間へドライブ。笠間日動美術館というところで「猫まみれ展」というのをやっているので、それを見に行った。展示会自体は微妙。個人コレクションの一挙公開らしく、とにかく猫が出てくる絵が浮世絵から日本画から油からわーっとあるのだが、猫が好きだからといって猫の絵がどれでも面白いかというとそんなことはなく、「やはり猫はナマが一番ですなあ」となった。それからチェルキオというイタリアンでランチを食べ、今度は県立陶磁器美術館に行って、展示を見て、売店を見て、北大路魯山人が鎌倉で住んでいた民家(といっても魯山人流に改造を施した豪華なもの)を移築したものを見、焼き物屋さんを何件かひやかしてなかなかステキな薄手のグラスを買い、地場野菜の売店で安い茄子やトマトを買い、真岡の日帰り温泉で汗を流して帰宅した。まだ屋根の上にブルーシートのかかっている家がたくさんあり、やはりここまで来ると地震も近かったなといまさらのように実感。支援というほども、散財しませんでしたが。
 しかし今日は暑い。数字はともかく体感的にはいままでで一番暑かったのではあるまいか。頭が全然働かず、仕事資料用の本を読みながらほぼ沈没。明日は少しでも涼しい午前中にばしばし働いて、昼からは茶店に逃げよう。しかし皆川博子先生の新刊が届いてしまった。ああっ、読みたいのにどうしよお・・・

2011.07.13
 今日も風強し。その分湿度は低く、曇るといやに涼しく感じたりする。なんとなく、例年の夏とは違った体感がある。冷房の冷気はあんまり好きではないし、玄関を開けてこれだけ風が入れば、冷房よりその方が良いという気もする。多少紙のものが飛んで落ち着かなかったり、床がざらっぽくなったり、人の声がうるさかったりというのはあってもだ。しかし例年であれば「面倒だ」と思ってエアコンを付けていただろう。大してなにも考えずに。それしきの配慮を思い浮かべるにもあの震災が必要だったのかと思うと、いまなお大変な苦労を強いられている被災者の方たちにとても申し訳ない気持ちになってしまう。
 原稿は123頁で、これで三分の一が来たなという気がする。そして「神代宗はなにゆえヴェネツィア派の研究者となりしや」という設問に、ようやくぴたりと嵌る答えが見えてきた気がする。しかしそうすると、当初この話で書こうとしていたこととはだいぶずれてくるんだなあ。でも当初の計画だと、そのメインのストーリーと神代さんの関わりが薄くて、彼は単なる傍観者というか、見ていてそこにたまたまいたから心残りのバトンを渡される人みたいな感じだったのが、そうではなくなる。だからこの話にとっては、その方が正しい道なのだろう。って、三分の一書いてからいうことか、とも思うんだけどね。

2011.07.12
 風強し。湿度低くわりと快適。でも保冷剤入り首タオルに冷えピタシート。ベランダに夕方蚊の猛攻撃があるので、ベランダ用という虫追い払い薬をぶら下げる。事実蚊には食われなかったが、よほど強烈な科学薬品を発散しているのではないかと、少しびびる。原稿は120頁を突破せり。21歳の神代さんがひどい目に遭ってます(作者の愛を受けるとひどい目に遭うことになってます)。

 読了本 『わたしの開高健』 細川布久子 集英社 大学時代開高の『夏の闇』を読んで感銘を受けた筆者が、開高と関わりを持ちたいばかりに編集者となり作家と出会い、彼の私設秘書的な役割を果たすことになり、その後人生の道は離れたが、という一種の半生記。実は『夏の闇』は我々(私と夫)にとっても大きな意味のある忘れがたい一冊なのだが、作品に惚れるのと生身の作家に思い入れるのは全然別だなと、当たり前のことをいまさらのように痛感した一冊でもある。私は開高の文章はとても好きだけれど、人間としてこの人を好きになれるかといったら答えはNoだ。これが男なら男は嫌いです。

2011.07.11
 今朝は家の近所に蓮を見に行く。まだ少し早かったかも。しかし間近にのぞき込む蓮の花というのは、実に精妙かつ絢爛豪華。仏のすわる場所とされるのも当然かという感じ。しかし足下の泥はやはりきれいに見えなくて、お釈迦様が極楽からのぞいたら下が地獄で、というのは説得力のある想像だと思いました。朝から仕事場の玄関を開け放って仕事。風はかなりよく通る。しかしうちの前でおばさんがでかい声で立ち話。少しよけて欲しい。とても仕事にならなくて外に出たら、ああ、そこはインドでした。今夜はカレー。

 読了本『密室晩餐会』 二階堂黎人編 原書房 新人作家の密室書き下ろしアンソロジー。一番オーソドックスな加賀美雅之さんの作品が、一番面白く感じたのは篠田がロートルだからかしら。

2011.07.10
 暑いとしかいいようがない。そしてゴーヤはますます元気。たけだけしいというか、なんというか。とうとう室外機の前までネットを延ばしてしまった。7/3に受粉した雌花の実は順調に育っている。難しいのは採集時期なんだけどね。熟れるとオレンジ色になってはじけてしまう。青くて固い時に取らないとあかんのです。
 仕事の方は100頁を突破しました。今回はお先真っ暗というより、はるか向こうに小さな光の点が見えるが、そこまでの道行きは不明というやつ。

 読了本『生霊の如き重るもの』 三津田信三 講談社ノベルス 刀城言耶シリーズの短編集。若き日の、といっても本シリーズでも青年だから、探偵役の印象はさほど変わらない。総じて「こなれてきましたなあ」という感じ。しかし今回はミステリとして決着した後のおまけがある、というのが特徴なので、こういうおまけの好きな篠田は好印象。どういうおまけかはばらしてしまったらつまらないので、興味のある方ご一読。

2011.07.09
 ゴーヤはますます元気。今日3番目の雌花が咲いたが、これで雌花は一段落か。あまり一度にたくさん開花しても、苗の体力もあるからね。しかし蔓はどんどん広がって、よしずにも絡み出したし、反対側にもまだ伸びている。そこにはエアコンの室外機があるのだが、どうせエアコンつけない可能性が高いから、もうその前までヒモを張ってしまおうか。しかし、気がついたらベランダがゴーヤの蔓で埋もれかねないな。

 読了本『1960年代日記』 小林信彦 ちくま文庫 小説の資料として買ったのだが、ヒッチコック・マガジンの編集長、テレビ作家、シナリオライターなどで八面六臂の忙しい毎日を送りながら、小説家になろうと苦闘するひとりの男の二十代後半からの10年間の軌跡として興味深い。小説の原稿を編集者に預けて延々と返事がもらえないいらだちなんて、なまなましくてもう(笑) 現場は誉めるけど上がうんといわなくて、本にしてもらえないまま漂流を続けるとか、小さな出版社で本にしてもらったが、これは小説ではない喜劇史みたいなもので、ジャンルがはっきりしないから取り次ぎが初版3000のうち1800しか受け取ってくれないとか、印税をもらおうとしたら「金がないから払えない、本で持っていってくれ」といわれるとか、単行本は推理小説の大家でも8000部、あなたは6000といわれたとか、おやおや出版不況のいまでもそんなに変わらないよ、この数字は。今と違うとビックリするのは、文芸誌に掲載するのにだめ出しが次々と出て実に6回も書き直したなんて話。いまの編集者はそこまで時間はかけないと思う。作家本人に向かって「あなたの著書は70万円の欠損でした」と編集者がいう、というのもなんかすごい。つまり変わってないことと、変わっていることと、どっちもあるわけ。一番ひえっと思ったのは本を出しても反響が乏しいとこぼした作者に知人がいったことば。「今あなたの作品を誉めても、誉めた人は目立たないし誰も得をしない。だから批評家は取り上げない。それだけのことです」ああ、ほんとにね。篠田なんかいつになってもこれですわね。

2011.07.08
 いよいよ本格的に暑くなってきた。今日は仕事場の玄関ドアを開けていても、あまり風が入らない。昼食の後耐えきれずに昼寝してしまう。しかしまあいまのとろ、昼間の冷房は入れずに済んでいるが、夜の自宅は我慢できなかった。うちの場合リビングとダイニングとキッチンが一室なので、冬は炊事の熱が暖房の一助になるが、夏は逆。まあ、どっちも上手くとはいかない。元気なのはゴーヤばかりなり。
 書き下ろしは80頁を超えた。そして21歳でも神代さんは神代さんだった。生まれは年の離れた末息子だが、不思議と面倒見の良いお兄ちゃん体質なんである。頼られれば「ま、いいけどさ」と、手を貸してやる。押しつけないが、求められれば拒まない。そういうところがどうやら、篠田の理想の男であるらしい。深春にもそういうところはあるけど、あいつはもうちょっと暑苦しいというかマッチョでしょ。悪気は全然ないし、暴力的でも支配的でもないんだけど、神代さんほどさらりとはいかない。年が若いせいかと思っていたけど、生来の気質だったみたい。
 しかし1966年の話というのは、それなりに面倒なところもあって、東京の交通はそろそろ都電の廃止が始まっているんだけど、地下鉄はどこまで出来ていたかとか、あとは町名変更ね。ストーリーに深く絡まないところは出来るだけスルーする方針だけど、やっぱちょっと気になって、そういうちょっとした調べものにはネットは本当に便利なんだけど、正確さに疑念も湧くから、重要なことについては全面的には頼れない。

2011.07.07
 仕事続行。やっと神代青年にからむ相手役が登場した。書いてみたら当初予定とは微妙に性格が違ってきたような。でもまあいいや。このまま行く。それについて考えたことなどあるのだが、今日はジムで、夜の睡眠がいまいちなので疲労感が強い。だもんで、その辺の話は明日回しにします。

2011.07.06
 ゴーヤの雌花2番目が咲いた。他にも指の先ほどの小さな雌花がいくつも見え始めて、けっこう順調な感じである。なんとなく嬉しくて、昼間もときどきベランダに見に行ってしまう。今日は暑いと思ったら風が吹き始めて少し気温が下がった。いまのところ昼間のエアコンはつけないでがんばっている。もともと冷房の冷気はあんり好きじゃなかったのよね。外でも風さえあれば日陰でぼーっというのは悪くない。いやもちろん、仕事は出来ない、本も難しいのは読めない状態となりますが。
 
 読了本 『そして誰もいなくなる』 今邑彩 中公文庫 『スクランブル』 若竹七海 集英社文庫 『青年のための読書クラブ』 桜庭一樹 新潮文庫
今出ているジャーロに「部活ミステリ」の特集があったので、そこで紹介されている本から、面白そう、と食指が動いて文庫で手に入れやすいのを選んだら、なぜか3本とも女性作家で、3本とも女子高校でありました。3作立て続けに読むと作家の個性がはっきりわかって面白いです。今邑作品はいかにも本格ミステリで、舞台もキャラもミステリをやるために奉仕しているのが明確。若竹作品も本格だが、こちらは女子校の生徒のキャラが立っていて、リアルな魅力にあふれている。読んでてその辺が楽しくてついついミステリがお留守になった。桜庭作品は一種の寓話で、しかし女性とたちの個性はやや戯画化されつつもリアルさと魅力を維持している。才人やな。まあ、リアルといっても篠田は共学にしか通ったことがないので、女子高生の女だけの社会におけるリアリティというのは想像の次元でしかありません。それでも「リアルっぽい」と感じさせるゆーことですね。

2011.07.05
 昨日は所沢の西武球場隣に季節営業する百合園に百合を見物に行ってきた。早咲きのすかしゆりが見頃を過ぎて遅咲きのハイブリットというのが五分咲きということだったが、なんとなく百合というと白いのがメインだとばかり思っていたのが、そんなことはないので、むしろ黄色とかオレンジとかの方が多い。起伏に富んだ丘陵と谷が入り組んだような地形の中に百合の咲く斜面が次々と現れて、香りもよくなかなかの見物だったが、入場料1000円というのはちと高いような気がした。そのあと西武線の駅で配布しているお散歩地図を片手に、多摩湖に沿って散策。しかし多摩湖は水源だから、水っぺりまでいくことは出来ないのだった。そりゃまあね、汚染されたら即やばいもの。とにかく1時間近く歩いて、村山温泉かたくりの湯という日帰り施設で一風呂。冷えたビールを飲んでふーっ。昔の軽便鉄道跡のトンネルをくぐり対岸を引き返すが、ここはサイクリング道にうまく出られなくて、青梅街道を進むことに。あ、暑い・・・遅めの昼飯をしたためて西武球場駅に戻って帰宅。26000歩ほど歩きました。

 読了本『妄想かもしれない日本の歴史』 井上章一 角川選書 まえがきで引き合いに出された「義経=ジンギスカン説」をはじめとして日本史におけるいろんな奇説珍説を取り上げたというので期待して読み出したのだが、ひとつひとつの項目が短いのと、書き方がわりとおとなしくて掘り下げが浅い感じがして、物足りないというか不完全燃焼というか、1600円もした本にしてはこれはかなり期待はずれでした。

2011.07.03
 嫌いなゲラはとっとと返した。あとは書き下ろしを進行。今朝は早くに目が覚めてしまって、それからうとうと半分夢を見たりしていたが、それで進行中の書き下ろしについて「あ」というようなアイディアが湧き、「プロローグとエピローグをくっつけて、それならあっちとこっちが上手く繋がるじゃん」ということになる。とっくに書き出してたんだろう、おまえは、などといってはいけない。篠田にはよくある話ですから。「花の形見に」で作った設定が、矛盾なくぴたりと嵌ってきたというのは、ううん、我ながら恐ろしい。無意識君、毎度グッド・ジョブ。しかしこれで「なにゆえ神代宗は西洋美術史研究者になりしや」の理由が、書けそうな気がしてきたぞ。いまになってそれをいうかい。
 本日ゴーヤの雌花ひとつ開花。ちなみに雄花は8個も咲いて、とんだ逆ハーレムでした。

 読了本『蒼志馬博士の不思議な犯罪』 山口芳宏 創元推理文庫 第17回鮎川賞受賞者の、受賞作と同じ探偵ふたり+ワトソン役の連作短編集。長編はいろいろ数寄を凝らしつつも本格ミステリ志向だったが、こちらは個性的な探偵が主人公の冒険活劇という感じ。しかしこの探偵たちには、辛気くさいパズラーよりはこういう「探偵大暴れ」的なお話の方が向いている感じがありますな。楽しく読めました。トリックというか「不思議な犯罪」のネタは、当時の人間にはとんでもないハイテクで想像も推理も不可能だろうけれど、現代人、つまり読者には考えられなくもない、というのがたぶんミソ。

2011.07.02
 文庫のゲラを見る。ゲラを見るのは嫌い。書き下ろしも少しだけ進行。

読了本 『なぜ日本人は世界の中で死刑を是とするのか』 森炎 幻冬舎新書 昭和20年から平成20年まで、死刑確定事犯についての簡潔な説明を並べ、時期ごとに変化してきた死刑か否かの判断の有り様を考察し、死刑を選択する基準、考え方、理由といったものを改めて考え直す。具体的な事例に深く関わると、感情面が強くなってかえって死刑という制度の問題点や存在理由が見えなくなってしまう、というのはわかる。この本では、戦後日本での死刑判決の実例をずらっと並べられることで、読者は過度な感情移入が抑制されて冷静にならざるを得ない。そして現代の厳罰傾向がどこから来ているかというと、「被害者遺族の感情への配慮」という、かつてはなかった流れが強まっている結果である、という。なるほど、わかっていそうでいない、目から鱗でありました。
 しかし、敢えて誰かの感情を逆撫でするかも知れないと思いながらも、改めて問おう。被害者遺族の感情に配慮することは当然だとしても、その復讐欲を満たすために死刑を選択するというのは、本当に正しい司法、正しい刑のあり方なのか? よく新聞の記事で死刑判決が出なかったとき「墓前になんといって報告すればいいのか」というような遺族の嘆きの談話が出たりするが、死者は自分を殺した人間が死刑になると聞いて喜ぶだろう、というのは、日本人的宗教感情としてアリなんだろうか。喜ぶのはたぶん死者ではなく、生きている遺族だよね。それを露骨にいえないから、死者を持ち出すんだよね。でも、その喜びはプラスの喜びではない。マイナスを埋めると期待されているのだとしても、埋まりはしないと思う。
 殺されたんでも自殺したんでも事故でも病死でも、自分にとって大切な死者の記憶は決して埋められない欠落として生きている限り持ち続けるしかないものです。ええかっこしいかもしれないが、私は私が誰かに殺されたとしても、自分を知っている人に、その犯人が死刑になるといって喜んでもらいたくはありません。私の大切な人が殺されたら、そいつを自分の手で殺してやりたいとはきっと思うけど、死刑になって嬉しいと思いたくはありません。それはかえって私の愛情を汚すことのような気がします。勝手な仮定の話ですが、でもそのような人間でいたいと思う。

2011.07.01
 依然として原書房の書き下ろし、始まったばかり。しかし21歳の神代はカワイイぞ。講談社文庫『失楽の街』のゲラが来たので、当面こっちを優先してやらないとあかん。
 
読了本 『モナ・リザが消えた日』 中央公論社 1983年の古本。1911年に起きたルーブルからのモナ・リザ盗難事件についてのノンフィクション。イタリア人労働者がナポレオンに略奪された祖国の宝だと思いこんで盗んだのだとばっかり思っていたが、実はもっとしたたかな詐欺師の計画がその裏にあったのだ、という。しかしモナ・リザはそんなに美しいかね。