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2011.05.31
 岩波ホールにポーランド映画の「木洩れ日の家で」を見に行く。10時から並んでチケットを買って、また行列して入場して11時半からやっと上映。夫に先立たれ息子の一家とはあまり折り合いが良くなく、犬とふたり暮らす老女の数日を描く。シナリオはやや物足りない感じがあるが、モノクロの映像に映し出される古い木造屋敷のたたずまいがとても美しい。主演女優もその相手役になる犬も名優である。
 その後都営三田線で白金台へ。庭園美術館で「森と芸術」という展覧会を見る。これはやたらと壁に貼られているテキストが多くて、本をばらして壁に貼ってみせられたような印象。ヨーロッパにおける森のリアリティが欠けていて、描かれた、それも森というより樹木や植物まで含められているから散漫な印象。それでも巖谷國士著のカタログを買って帰る。

2011.05.30
 雨が止まないので今日は映画は止めて、仕事を継続。『黎明の書』外伝を完成できればと思ったが、かなり進んだことは進んだが完成には至らなかった。でも明日は岩波ホールに行くのだ。

2011.05.29
 ひどい雨降り。梅雨だけど台風でもある。明日は映画に行くつもりだったが、天気はどんなだやら。

2011.05.28
 迷ったのだが書きかけのままで中断していた『黎明の書』外伝2を先に完成させてしまうことにした。といっても今日はまだ、書いてある分の手直し中。
 マンガ家大島弓子さんの愛猫グーグーが亡くなったそうである。15歳八ヶ月。男の子だし、かなり長生きした方だと思う。猫の島として有名な宮城県の田代島、震災の津波で洗われて猫は到底ダメだろうと思っていたら、約80匹の猫は皆助かったそうだ。全員高台にある猫神社に自主避難していたそうで、生き物の本能はすごい。教えられなくてもちゃんとわかっているのだなあ。

2011.05.27
 秋に作った栗の渋皮煮が残っているのを使ってパンを作れとツレがいうので、昔買ったパンの本を取り出してレシピを見ると、イーストの量がいやに多い。でもまあいいかって感じで、バターや牛乳や卵を入れたリッチな生地でパンを焼く。仕事しないとと思いながら、『もやしもん』の単行本を読む。まとめて買うと、きっと仕事をしないでずーっと読んでしまうだろうなと思って、1冊ずつ買っていたのだが、我慢できなくてまとめて買ったらやっぱりまとめて読んでしまいました。知らない人には説明するのが難しいマンガです。人間の食生活と健康に有効な菌類と発酵食品、酒類について学べる科学マンガの側面もあり、農大に学ぶ少年少女の青春ものでもある、とまあこれくらいか。
 転送されてきたお便りの返事は全部投函しました。それからひとつお知らせっつーか。今年の8月の文庫おろしは『失楽の街』だが、東京23区の地図をつけてもらえそうです。

2011.05.26
 眼圧を下げる目薬がなくなりかけてきたので眼科に行く。これも自覚症状がない通院なので「あーめんどくさい」という気分。そして待合室はお歳を召したご婦人ばかりで、聞こえてくる話は自分の身体の不調についてだけで、座っているだけでエネルギーが漏出していくような気分。だいたい30分以上は待たされるので、本を持っていって読書タイムに当てるのだが、今日は読みかけのミステリを自宅に忘れてきたため、精神科医春日武彦の『臨床の詩学』というのを持っていったら、統合失調症や境界性人格障害、鬱病についての話題をこういう環境で読むというのが、またしんしんと気が滅入るわけで。本選びを失敗しました。これなら牧野修さんのぐちゃどろホラーの方が良かったわい。なんとかエネルギーをチャージすべく、銀座のわしたショップで沖縄食品を山ほど買い、濃厚な山羊ミルクのヨーグルトをぐい飲みして午後はジムへ。明日はがんばって元気になりませう。

2011.05.25
 5月の残りで晴れるのは今日だけという日、もらいもののランチビュッフェ券があったので新宿の某ホテルまで行くが、これがなんともかんとも没没でありました。お金を払えば2200円というから、あんまり期待はしなかったんだけど、大学のカフェテリアみたいな内容だったよ〜。
 自宅へは久しぶりにお便り転送。いただくお便りのほとんどが「今回初めてお便りします」なので、呼びかけに答えて下さって有り難うだけど、これまでシリーズが継続中にお便りを下さった方たちは途中で止めてしまったのかなあ、と少しだけ気になる。年に一冊も出ない時もあったし、途中で展開がお気に召さなくなって、もういいや、となってしまわれたのかも知れないけれど、完結したっていうなら覗いてみようかな、と思ってくれたら嬉しいんだけどな。「終わってしまう」ということ自体が、なんか嫌だなという人もいるのかもしない。でも、篠田は小説を閉じるのが好きです。閉じたその向こうに世界が広がっている余韻を、感じてもらえたらといつも思います。
 今日読んだ中であった質問は、これまでも聞かれたことがあるのでここで触れておきます。深春のラストに起きた綾乃との**は、当人はまるで予想していなかったようですが、かなり早い段階から可能性として作者の脳裏に浮上していました。具体的には『綺羅の柩』の月光荘テラスでの会話あたりから、そんな匂いが漂い出していて、『一角獣の繭』ではかなり。ただ、それが実現するかどうかは、聞かれても困ります、のまんまでしたが。なにせ、今書いている一行先に自分がなにを書くか判らない、という有様でしたから。しかし今回はもう、彼女の方から猛烈にアプローチしてましたでしょ。世の中には**するのに向く人と向かない人がいて、深春は完全に前者、京介は後者です。
 それから北斗学園の感想を書いて下さった中学生の方がいらっしゃいました。ありがとうございます。お返事出しますね。続き、書きますよ。少しお待たせすることになりますが、絶対書きます。既刊本も手入れして、新しい版形と装丁で出す予定。待ってて下さい。

2011.05.24
 雨だが約束していたので、友人と古河庭園へ薔薇を見に。日曜日の豪雨でかなり傷んでいたが人出多し。私見だが薔薇を見る楽しみにはその色や形、香りを楽しむのに加えて、命名された名前を見る楽しみもあると思う。なんとかいうドイツ人の男性名があったので、珍しいと思ったら「旧西ドイツの首相の名」との説明あり。しかし「サトウエイサク」とか「コイズミジュンイチロウ」なんて薔薇があったら嫌だねといって、ひんしゅくを買う。収穫はフラウ・カール・ドルシュキーの開花に出会えたこと。中井英夫のファンはここで「おお」といって膝を打って下さい。名作『幻想博物館』中の1編、「薔薇の夜を旅するとき」に登場する白薔薇である。
 ・・・咲きがけには仄かな紅を残しているが、開ききった花は、純白といってもこれほどの眼に沁みる白は、決してこの世にはあり得ないと思われるほどだった。それでいてその花群れから滲み出してくるのは、豪奢とか華麗とかの形容には遠い、もうとうに滅んでしまったものの哀歌に似ていた。・・・

 現物の薔薇よりも中井の修辞はなおあでやかであります。

 読了本『忘れられた花園』 ケイト・モートン 東京創元社 上下巻 1913年オーストラリアはブリスベーンの波止場にひとり取り残されていた四歳の少女の謎めいた出自を巡って、その女性の孫に当たる女性が繰り広げる探索行に、その女性が60代の頃の自らの過去を探索した旅の記録や、さらに過去のいきさつなどが絡み合う、現代に書かれたゴシック・ロマンス。非常な期待を持って読み出したのだが、視点人物が多岐にわたるということは、読者は神の視点的な自在さを持って作中の事件を理解できる分、叙述は総花的かつ散漫になってしまう。最過去パートの重要人物で、作者も深く気に入っていたと感じられるイライザの人物像が他の人物によって語られるほど魅力的なものとはどうしても感じられないし、彼女が書き残した童話も優れたものだとは全然思えないので、その周辺に広がっていく事件がリアルにも思えない。最後に明らかになる謎の真相は、腑に落ちるというより残酷で救いがない。ただし現代パートのヒロインはどうやら、ハーレクイン的に恋人をゲットできるらしいというのも、なんだかなあである。

2011.05.23
 ジャーロのゲラを返送してから今日は読書タイム。講談社ノベルス5月の新刊の未読本を読み終えた後、新聞の書評欄を読んでこれはおもしろそう、と目を付けた『忘れられた花園』に突入。

 読了本『石の繭 警視庁捜査一課十一係』 麻見和史 講談社ノベルス 犯人の動機などは比較的早く作者が種を割っていて、この先どういう具合に話を保っていくのだろうと思っていると、かなり意外な落としどころがあった、というのが読ませ処ならん。女性刑事というので、お定まりの女性蔑視発言を投げかける所轄刑事なんてのも出てくるが、身内の男性捜査官は基本的にヒロインに好意的なのも、わりと安心して読めた理由です。女性刑事が内部からひどい目に遭わされる話は、柴田よしきさんの緑子シリーズで書き尽くされていて、あれを超えるのは容易でなかろうから、そっちに色気を出さずに、犯人との対決メインでプロットを作ったのは好判断。

2011.05.22
 一通手紙の返事を書いて、『失楽』をメール送稿して、陽がかげってきたんでちょっと用足しをしに出て、ジャーロのゲラもささっと読み返す。明日送ろう。火曜水曜は外出の予定だから。

 読了本『芝浜謎噺』 愛川晶 創元推理文庫 愛川さんの落語シリーズ第2弾の文庫化。落語家とその周辺人物がメインの登場人物で、落語の物語にまつわる事件が起きる、というのは他の作家さんにもあるが、このシリーズではある落語をどのように演ずるかがポイントになっている、という点が特徴的。古典落語はきっちりしたシナリオがあるわけではなく、だいたいのプロットに落語家が枕を付け、ディテールをふくらませ、最後のおち、サゲもまた語る噺家によって変わっていたりする。おまけに長い時間をかけて伝えられてきた噺の場合は特に、いまの人間からすると納得しづらい点や不自然に感じられる点が少なくない。愛川さんの落語シリーズは、そうした古典落語の改作や演出替えにストーリーのポイントが置かれている場合が多く、そこがなかなか面白いのである。今回では「野ざらし」の後半に大胆な改訂をした上、前半をその後半の伏線として生かし、一種のミステリ噺とした趣向が特にぐっと来た。また人情ものの大作として落語通ならずとも知っている「芝浜」の冒頭近くにリアルな細部を付け加え、それが後半の「元の噺にある重大な難点」を手当てする工夫に繋がる面白みにも、思わず「おお」とうならされる。3作目に登場する「試し酒」は、細部の改訂による演出替えが、脳梗塞でリハビリ中の名人落語家の復活劇に繋がる物語の妙が秀逸。現在刊行されているシリーズ4作の中でも、特にお薦めの一冊です。

2011.05.21
 『失楽の街』の読み返しを終了して、取り敢えずこれはおしまい。ずーっと男神代宗55歳にシンクロしていたので、なんとなく頭がおやじおやじしてしまった。おやじ、好きなんだけどね。少しだけ頭を休めてから、ジャーロのゲラを読むことにしよう。

 今頃になってふと気づいたのだが、今年は篠田のデビュー20周年なんである。一応プロとして最初の本、『琥珀の城の殺人』が出たのが1992年。何月だっけなんてのも全然覚えていなくって、本の奥付を見たら8月25日だった。そうはいっても、1993年は全然仕事がなくて、1994年に建築探偵が始まって、バイトも止めて、ようやく「小説家だなあ」という気持ちも自分の中に定着してきた感じがあるので、ほんとに20周年は再来年かなとも思うんだけど、まあそれでも20年は20年だ。よくまあ消えもせずに、これまで保ったものよ。詠嘆。

2011.05.20
 天気は良いが今日も一日外に出ず仕事。エアロバイクを一時間こぐが、それでは歩数は6000にも届かないんだよね。『失楽の街』直しをラストまで終えて、もう一度読み返しの途中。
 先日折原さんの骸骨コレクションを見せていただき、絵よりやっぱり現物がインパクトだなあと思った。ネパールかチベットの、ほんものの人骨に金具なんかで装飾を付けた髑髏杯がいくつも展示されていたのだが、それを見ているうちに考えたのは、「織田信長はどこから敵武将の髑髏を漆で塗って杯に仕立ててそれで酒を飲む」なんてことを考えついたのか、という疑問だった。だって、どう考えても日本人の発想じゃないし、他の人がやったというのも聞かない。密教の方ならありそうかとも思ったが、信長は仏教関係とは仲が良くなかったはず。そうするとやっぱり西欧起源の悪魔崇拝とか、そういうのを考えてしまうのだが、そもそも信長が、浅井朝倉の頭蓋骨で酒を飲んだという情報はどこから出ていて、どれくらい信憑性があるもんなんだろうね。伝説のたぐいだとしても、誰がそんなことを考えついたの、というのはやっぱり気になる。美しい堕天使が信長に権力と引き替えに生首の捧げものを求め、彼の破滅の瞬間にまたそれが現れて彼の首を持ち去る、なんてのを、月並みだねえと思いつつ考えてしまった。

2011.05.19
 『失楽の街』の直しはもうじき終わる。しかし、読みたい本があるのだがなかなか手が回らないよお。

2011.05.18
 お天気は良いが出歩いている気持ちの余裕無し。『失楽の街』のキモの部分を地図上で再チェック。もしも可能なら地図を入れたいところだけど、よけいなお金がかかるから無理かな。ジャーロ連載のゲラが来たので、いまやってる作業が終わったらそっちのチェックを先にやる。いつになっても原書房の書き下ろしに手が付けられないよ。来月出るノベルス版『魔女が死んだ家』の部数が決まって、それがとてもとても少ないので、書店店頭で見つけるのは困難であろうと思われます。買ってやろうという気のある方は、どうかそのつもりで探してやってくだされ。

2011.05.17
 作家折原一さんがご自分のコレクションを展示する「折原一骸骨絵コレクション メメント・モリ」が銀座五丁目の文藝春秋画廊で21日まで開催されている。それに行ってきました。骸骨をモチーフにした絵の他にも、チベットの髑髏杯とか、スティーブン・キングの直筆サインの入った藤田新策画伯の「IT」の表紙画ポスターとか、江戸川乱歩のフィギュアとか、いろいろ面白いものが展示されていて、折原さんご本人もいらっしゃいますのでファン必見。同好の士も必見。

2011.05.16
 やたら風が強い。今日もずっと『失楽の街』直し。あまり直すところがないなあと思っていたら、後半になっていろいろと粗が目に付いてきて、「うー」などと思いつつ作業してます。でも明日は、ちょいと用事で銀座まで出るので、ついでに少し買い物などしてくる。

2011.05.15
 陽が照って風が吹いて、5月にふさわしいさわやかな一日で、散歩にも格好という感じはしたのだが、なんとなく仕事を進めたい気持ちの方が先に立ってしまって、一日出かけずじまい。エアロバイクは一時間漕いだけどね。新作を書いている時は集中力が保たないから、途中で外に出たりしたくなるんだけど、いまは手直しをしているだけなんで、比較的楽は楽。ただそのせいで、頭は無事でも肩や目に疲労が来ちゃう、ということはけだしあるのですが。

 マイミクさんが日記に貼ってくれたYou Tubeの画像で、クランク・インした映画「ホビット」の紹介が見られた。病気してずいぶん痩せたピーター・ジャクソンが、懐かしい袋小路屋敷のセットを案内してくれ、冒頭、ガンダルフが13人のドワーフを連れてビルボの家に押しかけてきて、あのリビングがぎゅう詰めになるところを、まだノーメイクの役者さんたちが見せてくれる。あれが映画になるというんで、久しぶりに原作を読み返して、まず思ったのが「ほんとにドワーフをこんなに出すんだろうか。見分けが付くのかな」。しかしそこは人数減らしたりせずに、ちゃんとやってくれるらしい。しかしもっと問題なのが「おやじとおっさんとじいさんばかりで、女も美形も全然出ないけどそこはどうするの?」というところ。篠田の仮説は「原作無視してビルボを美形にする」というのだが、それもなさそうだなあ。でも少なくとも、原作のフロドはあんなかわいい少年ではありませんでした。ちゃんと成人した分別のあるジェントルマンで、4人のホビットの中ではずっと年上だったんですぜ。サムとの関係も紳士階級の旦那様を尊敬してついていく若い従僕、だったんです。それを、若いご主人を庇護する年上の召使いに変えてしまったくらいなんだから、ビルボ美形説もまんざらあり得ぬ話じゃないでしょ。
 シナリオ的に原作から話を拡大して、背景になっている部分も大きく取り込むということだから、魔法使いたちやエルフも出てきて、ガラドリエル様も出てくるというので、ガラ様好きの篠田は期待していて、白の会議をやるというから、サルマンVSガラドリエルの白白対決が見られるのではと期待しているんだが、そのへんはどうなるかにゃ。指輪の映画は実際のところ、シナリオ的にもその他の点でもつっこみどころ満載というか、気に入らないところは多々あるのだが、それでも頭の中では気に入った部分だけをダイジェストして、リプレイしてます。そして今回あの懐かしいテーマ音楽が聞こえてきただけで、ちっとばかしうるっとしてしまったというのは、我ながらどうよ。きっと今回もぶぢぶちぶち文句を言いながら、何回も劇場に行って、DVDもしっかり買っちゃうんだろうなあ。

2011.05.14
 『失楽の街』の手直し続行。なんかすごく久しぶりに読み直している感じで(去年最終巻を書く時に、伏線に関わりそうなところは斜め読みしたんだが、それは主人公に関わる部分だけだったから)、ああ、こんなこと書いたんだー、といまさらのように思う。ここに登場する工藤という刑事が、わりかし好きでした。ビジュアル・イメージはルパン三世。

2011.05.13
 今日から『失楽の街』の手直しを始める。行数を数えたりするのに、去年の『Ave Maria』の文庫を取り出すと、なぜかページ立てがずれて、ページの切れ目でセンテンスが終わっていないのに気が付く。いや、全部合わせて直したつもりだったんだが、その辺の記憶がまるでない。その上目次はなぜか見開きでなくなっているし、ゲラはこうではなかった気がするんだけど、ぼけてきたでしょうか、自分。ていうか、それが予想外のことだったら、なんで去年本が出来た時に気が付かないのよね。マジで信じられん。

2011.05.12
 昨日一昨日で伊豆に一泊。『三島由紀夫が来た夏』という、晩年三島が伊豆の下田東急ホテルに毎夏家族連れで休暇に訪れていた、そのときの想い出などを、下田の老舗菓子店日新堂の娘さん(当時中学から高校)が書き記したものだが、その本を読んで久し振りに伊豆に行きたくなった。
 初めは3月中旬の予定だったのが、震災が起きた翌週ではさすがに出かける気になれずキャンセル。今回改めて。天気は半分雨で、正直恵まれたとはいえなかったが、緑はしたたるようで、山の藤やつつじ、その他花が咲き乱れ、それはそれで風情あり。立ち寄り湯を2カ所、ランチの1は、『三島〜』の著者が日新堂の上でやっているイタリアン、ポルトカーロで魚介のパスタ。夜は昔からリピーターの地元民御用達魚料理なかがわで、伊勢エビやアワビ、ムツ、ひらめなどを。翌日は雨だったので外歩きには向かず、西伊豆の松崎でひもの定食のランチ、地元のケーキ屋フランボアーズで特産の柑橘類を使ったケーキを食べ、店のしばわんこを可愛がり、おみやげは、下田のスーパーで買った金目鯛とオレンジ、日新堂のマドレーヌ(三島絶賛もの)、松崎のアジとキビナゴの干物、フランボアーズのみかんケーキでした。

 今日は旅行の洗濯と、いただいたお便りの返事書き。午後はジム。『失楽の街』のデータが来たまで、またしばらく桜井さんたちとおつきあい。

2011.05.09
 ホテル・メランコリアの第三回ゲラをチェックして戻す。前から時々ぶつぶついっているので、ご記憶の方もおありかも知れないか、篠田はゲラのチェックが嫌いというのは、校閲という仕事は原稿に対して重箱の隅をつつくような、いわばあら探しをするものだから。漢字の使い方やことばの選択など、こちらが間違えているなら、指摘して直せるようにしてくれるのは当然ありがたいことなのだが、あら探しをされて嬉しくないのは誰でも同じ。また、AでもBでもどっちでもありの場合とか、おおかたはAだけどBでも間違いとはいえない場合とか、正字法からいうと間違いなのだが書き手が強いこだわりや理由があってそこを敢えてこれでやりたいとか、まあ、あるわけですよ、そこは。それから書き手にしてみれば、「文脈を読めばどうしたってこっちでしょ」といいたいケースなんてのも。
 だから「言葉は読んでも小説は読まない校閲」に当たると、すごくいらいらしたりげんなりしたりするわけ。仕事熱心な編集者はそういうとき、校閲と作家の間に立って両者の言い分を聞いて、作家寄りに物事を裁いてくれる、AかBかなら、絶対にBではあり得ない、それでは日本語としてまずい、というようなケースでもない限りは、まず書き手の意思を尊重してくれるもの。さらに作品を読み込んで、その作品に必要なものを見極めてくれるもの。ところが仕事の出来ない編集者は、校閲の指摘を何の留保もつけずに書き手に回してきます。そういう人は、アルバイトでも出来るような原稿やゲラのやったりとったりの作業だけで、零細な物書きからすれば目を剥くような高給を取っておられたりする。その上作った本が売れなくたって、自分の給料が減らされるわけじゃないもんね。編集者とは気楽な稼業ときたもんだ、あこりゃ。
 震災でキャンセルした3月の小旅行を復活。というわけで明日明後日、日記の更新はありません。

2011.05.08
 昨日は中野へ落語を聞きに行った。愛川晶さんの落語シリーズ第四作『三題噺示現流幽霊』が刊行されて、そこに出てくる愛川さん作の新作落語を、前から彼と知り合いだった落語家柳家小せんさんが語る。前にも愛川さんがらみで同じ落語家さんの噺を聞いてきたが、知らないうちに真打ちになられて、名前も鈴々舎若馬さんから柳家小せんさんとなった。愛川さんが舞台に上るトークショウもあり、あいにくの天気ながら盛会。帰りは市ヶ谷に出てトルコ料理。最近は日本でもいろんな国の料理が食べられて、それもけっこう美味しいのだが、トルコに限らず他の国でも「うーん」と思うのは、篠田が旅先で愛用するのはもっぱら安食堂と路上の屋台なので、屋台で扱うようなそれぞれの国のB級グルメといいますか、そっちのものがあまりない。トルコに関しては、最近ドネルケバブサンドはわりと見かけるようになったけど、サバサンドはまだないような。いや、サバは自分でやろうと思えば出来なくもないんだけど、ムール貝のフライサンドとか、羊のモツを串にグルグル巻きにして焼いたのとかはないよねえ。イタリアだって、トリッパサンドはないもんなあ。牛の胃袋をとろとろになるまで煮込んだやつを○パンに挟むの。美味いの、これが、とても。

2011.05.06
 昨日の話題をもう少しだけ続けたい。他人から肯定され受け入れられたいというのが、非常に普遍的な欲求であることを認めた上で、さらにその欲求は容易には叶えられないということも認めた上で、それじゃどうするか、という話だ。自分の肩を抱くのは自分、と昨日書いたけれど、これをこの場合に当てはめてもう少し判りやすく書き直すと、外で現実にしたたか顔面を殴られてしおしおと戻ってきたとき、少しその痛手から回復してきた時に自分で自分をなでなでするせりふは「俺だってそう捨てたもんじゃないじゃん」です。「捨てたもんじゃない。だって俺は**だ」、その**の部分になにをいれるかが問題だけど、これは自分が一時でも信じられるならなんだっていい。つまりうぬぼれというやつですな。大声でいったら笑われてさらに痛い目を見る可能性があるから、ひそかにうぬぼれてみる。うぬぼれというとなんとなく否定的なものに聞こえるけど、そうでなく言い換えると自己肯定感。「うぬぼれだな〜」と自分で笑いながら、「でもいいもんね。他のやつは気がつかないけど、実は俺は**だもんね」と思える。その**を、他人から同意してもらえなくても、自分の中にきゅっと握ることが出来ればけっこう踏みとどまれると思う。
 加藤智大は、いつでも他人からのリアクションが欲しかった。それもネットという間接的な、自分の素顔やプロフィールをさらさずに自分らしさを表現できると彼が思った場に固執した。つまるところ女友達が、そして恋人が欲しかったから、素顔や貧弱だと自分が感ずる学歴を晒したらきっと女性は寄ってこないと、どこかの時点で諦めてしまったのだと思う。写真を見る限り、そんなぶざいくな顔ではなかったけどね。職場での適応能力や、そこそこ親しい同性の友人は作れるから、自分は馬鹿でも無能でもないとは思っていたのだろう。ネットでの自虐的な書き込みはネタだ、と自分では意識していたそうだ。しかしそれはやはり、彼の仮面よりも素顔を反映していたのだと思う。母親のゆがんだ教育によって、根こそぎにされてしまった彼の自尊心、自己肯定感。同じような目にあっても殺人に走らない人間の方が多い、というのは、犯罪の理由を環境に求めた場合に常に出てくる反論だが、殺人者にならないですんだ人はとても幸運だったのかもしれないんだ。
 私は自分が「かなり変な人間だ」と若い時から思っていて、あまり他人から受け入れられることはないだろうとも思っていたから、加藤のように他人に肯定してもらいたいなんて思い始めたら傷つくだけだと考えていた気がする。友達はゼロではなかったが、自分から積極的に作ろうと思ったことは皆無だったな。それでも、理由もないのに毛嫌いされたという記憶は何度かあって、その記憶は今もしくしく痛む。「変な人間だけど、まあ小説書いていられるから」「読者は作品を読むという形で私を受け入れてくれているから」というのがいまの私の**の中身なわけで、この先「あなたの本はもう売れないから出さないよ」ということになったら、自己肯定感の根拠はあっさり失われて、じゃ後になにが残るといわれても大したものは残らない。大量殺人に走るほどのパワーはないけど、自分ひとりなら殺せるかも。ただそれをすると、自分がこれまで書いてきた作品の中身を裏切ることになってしまうというのがあって、自殺のブレーキにはなっております。
 まあそんなふうに、人間なんてとても危ういバランスの中で生きているわけです。いつ自分が殺人者になるかもわからないと思うと、こういう事件もののルポルタージュは他人事のようには思えないんでありますな。

2011.05.05
 昨日はあんなに暑かったのに、今日はまた寒い。「ホテル・メランコリア」の短編を一応書き終えて、一休みする。近所のデパートでささやかに北海道展をやっていたので、夕飯用に少し買い物をする。やたら試食を差し出される。昼を食べずに行って良かった、と思うくらい。帰ってきて読書。明日は金曜だし、どうせ出版社がまともに動き出すのは来週からだろう。その間は積ン読本を減らすべく、しばし読書に専念するか。

読了本『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』 中島岳志 朝日新聞出版 ひとつには、大量殺人に走った犯人が直前まで携帯サイトに書き込んでいた、そのログが新聞に逐一公開されたことで記憶に残った事件。このルポで意外だったのは、犯人が決して対人交流能力の完全に欠落した人間ではなかったということ。彼には学校時代から続くそれなりの数の友人がいたし、職を転々としてもその先では一応趣味的なことを語る友達も作ることが出来た。新しい仕事に順応する能力も持っていた。ただそうした顔をつきあわせての交流は、利害関係などが絡んで本音をセーブしなければならない分、本当のつきあいではなく、ネット上で認知されることがもっとも価値ある、純粋な自己実現の達成だと信じていた。彼がそのような信念を抱くに至ったのは、母の希望する名門高校に入学しながら勉強の意欲を無くした十代から、学歴にも職歴にも失敗を繰り返して迷走したあげく、常に自分は裏切られ失敗することを宿命づけられた負け組である、という実感を抱くことになったためらしい。そしてそれは、幼少時からの母親の厳格な押しつけ教育に由来する、口頭の言語を使って自己を表現し他人に理解を求める能力の欠落からだ、とこの本の著者は分析している。 
 この犯人の人生が、多くの若者の共感を呼んでいるというのは理解出来る。人は誰でも他人から受け入れられたい。代替えの効くネジの一本ではない、たったひとりの自分として肯定されたい。現代におけるもっとも強烈な願望、欲求はそれであるように思える。私だって同じだ。還暦目前のこの歳でも、他人からの肯定を得たいという欲望からは自由じゃない。しかしこれは決してたやすいことではない。実の親でさえ我が子をそのようにはなかなか肯定してくれない。犯人の母親はかなり極端ではあるものの、自分の満たされなさを子供へ転化し、それを教育と信じて恥じない親はいくらでもいる。親からその種の圧力をただの一度も感じたことがない子供は、むしろ少ないのではないか。どこかで子供は親を諦め、自分を肯定してくれる他者や場を求めるようになる。恋愛の欲求さえ性欲のみから来るのではなく、自分を肯定し受け入れてくれる他人が欲しいという思いの現れではないだろうか。しかしこれもまた、たやすくはかなえられない。
 犯人もそのような相手を求めた。男性の友人はいても、多くの場合彼らは遊び友達以上のものにはならず、サイトを通してもオンリーワンの恋人となってくれる女性を求め続けた。どうやって? 携帯サイトに自虐ネタのレスを書いて受けを得ようとすることで。それ、かなり間違ってる。っていうか、自分がしてほしいように自分を受け入れてくれる誰か、なんてものは、実はどこにもいない。幻想の産物です。青い鳥は遠くを探せば探すほど見つからないもの。それじゃどうするか。自分の寒い肩を抱いて暖めるのは、結局のところ自分の手なんだよ。それじゃ寂しすぎるというのもわかるけど、人間誰だって最後はひとりです。うまくいかないからってちゃぶ台をひっくり返しても、手に入るものは何もないんだから。

2011.05.04
 短編の直しを始めるが、今日は小川町でやっているツレのグループ展を見に行く予定だったので、電車で出かける。会場が造り酒屋の蔵の二階で、下にちょいと気の利いたお昼を食べさせるレストランがあり、蔵元の酒が飲める。というわけで、車では行けないわけ。昼酒をいただいて蔵の隅で少しだけ昼寝。これがまあ、ゴールデンウィークのお休みということ。明日一日でなんとか短編をものにしたい。

2011.05.03
 午前中で短編を書き終えて、やれやれとたるんでパンを焼いたりしていたのだが、夕方になってプリントしたやつを読み直し始めたら、書き出しと結末の照応がうまくいっていない。明らかに計算ミスというか、閉め方を決めずに書いているからこういう事になるというわけで、どっと書き直さなくてはものにならないことが判明。もちろんこれを元に直すわけだから、パーになったとはいえないけれど、我ながら情けないぜ。ああ、こりゃこりゃ。

2011.05.02
 連休の間の今日は平日だというので、池袋、リブロ、無印、新橋に出てカタログハウスの店。ずっと使っていたリーガルの自動パン焼き機がちと調子が悪く、本当はティファールの新製品が欲しいな、などと思うのだが、パンケースを買い換えればまだ使えそうなので、そっちを注文しに。しかし注文カウンターがえらいこと混んでいて、完了するまでに待ち時間も含めて一時間もかかってしまう。待っている間の時間つぶしにうろうろしていたら、少しずつ買う予定でなかったものまで買ってしまう羽目に。その後漬け物の若菜を経て、わしたショップで沖縄そばハーフ、フーチバ入り300円也を食べて帰宅。懸案であった本格ミステリ大賞の書評つき投票をようやく済ませ、少しだけ原稿を進める。しかし我ながら、100枚足らずの短編までオチを決めずに書くのは止めたらどうだい、って、誰にいってるんだ。

2011.05.01
 ゴールデンウィークといいましても、勤め人でない身にはさっぱり関係がなくて、編集さんからメールが来ないというだけ。じゃがいもの芽が出てきてしまったのでコロッケを作ることにし、あとはホテル・メランコリアの続きを続行中。ああいかん、本格ミステリ作家クラブの投票をしなくては。ヘタするとし忘れたまま時間切れになりかねない。