←2011

2011.01.30
 半年前は毎日暑いと書いていた気がするが、いまは毎日寒いと書かずにはいられない。今日は近所で駅伝大会があって、短パンにランニングの人が道を歩いていたりして、はなはだ心臓に悪い。なんかもー、勘弁して下さいという気分になってしまう。今日も『黎明』の手直しと、明日友人が飲みに来るので、そのとき出す料理の仕込み。

 読了本『へだたり』 坂田靖子 ジャイブ 1980年代の作品も混じる短編集。今は亡き「ジュネ」に掲載された小品が中心なので、つまりそういう種類のお話なのだが、そこはサカタヤスコテイストなので、軽いユーモアにくるまれて露骨さはかけらもなく、現代のボーイズラブとは全然違うが、昔のジュネの中でも特別ではありましたな。ところで作者も忘れてしまったという、K君とJ君という名前の由来というか、なにのイニシャルか、という話。トランプのキングとジャックというのは違うかなあ。キングとジャックの間にはクイーンがいる。つまりアーサー王とグィネヴィア妃と騎士ランスロット。いや、マンガの中にはQなどちらとも出てこないんだけどね。

2011.01.29
 昨日ポストカードの印刷があがってきた。なかなか美しい。今日は取り敢えず感想をもらった同業者さんとかに、カードを送る作業で半日使ってしまう。読者の方、もうちょいとだけ待ってやって下さい。あとは『黎明の書』の手直し作業のみ。

 読了本『クリスマス・キャロル』 原作ディケンズ まんが坂田靖子 光文社 前から気になっていたのだが、他のついでがあってネット書店で取り寄せ。この話は子供の時に名作全集みたいなので読んで、その挿絵の「未来のクリスマスの精霊」がえらいこと不気味で、ずーっと忘れられなかった記憶がある。どんな絵かというと、諸星大二郎の「不安の立像」という初期の名作短編があるのだが、あれみたいな感じ。って、まんがを知らない人にはわからないよね。でもまあことばで説明すると、黒いシーツをまとって片手だけが見えるとしかいいようがなくて、これじゃ怖くないでしょ。まあそれはともかく、坂田さんの絵の雰囲気とこの話は合っているんじゃないかなと思ったら、案の定どんぴしゃでした。スクルージが最初からそんなに嫌な人に見えないのも、ご愛敬かな。っていうか、ほんとに嫌な人だったら、幽霊に脅されたくらいで回心はしないよね。でも子供の時の印象だと、怖くて悲しい気分の方が強くて、回心のシーンはそれほど記憶していないんだなあ。

2011.01.27
 メールで送られてきたテキストファイルを作業用パソコンに移して、文書形式をノベルス用に換える作業から始めた。しかし今日はその前に、やはりもう一度金沢へ波津さんの原画展が開かれている内に行くことにしたので、そのための切符手配に時間を費やしてしまう。それからジムというわけで、今日はあんまり進まなかった。
 感想のお便りは編集部経由でぞくぞく頂戴しております。注文中のポストカードは明日受け取れるので、2月頭くらいから仕事の合間に、到着の古いものから順次カードをお送りしていきます。すでに手紙を下さった方はいましばしお待ち下さい。はがきはたっぷり印刷しましたので、急がれる必要はありません。お気の向いた時に送ってやって下さい。

2011.01.26
 ちょっとだけ池袋で本を見て、それから医者。眼科で眼底検査をしたので、まだ目がちょっと変。眼科は老人のみ。その後続けて婦人科へ。こちらは比較的若い女性ばかり。医者で一日かかるとそれだけでぐったり。明日からSFJapanで連載していた『黎明の書』の手直しを始める予定。

2011.01.25
 ジャーロに送稿。手入れの時に少しだけ削った。それから光文社文庫に入る『美しきもの見し人は』の再校ゲラをチェック。これで当面の仕事が一段落したので、明日は医者に行こうかと思う。例によって自覚症状がないから面倒な医者。
 最近同業者から、校閲の仕事の質が低下しているのではないかという意見が聞かれて、実は篠田もそう思う。以前作家が作品を出版社を経ずにネット経由で作家から直接から読者に配信しようとした試みがあって、それは結局採算ラインに載らずに撤退したのだけれど、もうひとつその試みに積極的になれなかったのは、校閲のチェック無しに原稿を本にするのは難しいと思ったからだ。自分で自分の原稿を何度読み返しても、変換ミスや勘違いを見つけられないことは全然珍しくない。他人の目が入る校閲はなくてはならないし、それなしの本はあり得ないと感じる。
 しかし、その校閲者が最近当てにならない場合がままあるのだ。引用した古典の本文を、確認もしないまま勝手に訂正されてびっくり。こっちが間違えていたかと思って、あわてて本棚をかき回してしまった。

2011.01.24
 ジャーロ連載『私はここにいます』の第三回を一応書き終えた。枚数の制限がうるさくなったので、80枚でだいじょうぶかちょっと心配だ。ダメだと言われたら、ノベルスにする時に復活させることにして、短縮バージョンを載せてもらうしかないな。難儀なこっちゃ。
 活字倶楽部冬号は明日発売。例年のアンケートの他、建築探偵完結記念ロング・インタビューが掲載されています。基本的にネタバレは無しだけど、いろいろと「ここだけの話」も出ていますので、ご興味をお持ちの方はよろしく。

 昨年秋、民事再生法の適用を申請して事実上倒産、新会社として再出発するらしい理論社は、印税未払いの債権者である作家には、在庫の実売部数についての印税を払うことにしたらしい。しかしシリーズとしてのミステリーYA!は、まだ可能性の段階だが出版社を引っ越して継続される可能性が高い。とはいっても、既刊本の出し直しまでしてくれるかどうかは不明。こういう時代だしね。何巻も続く話を書いていると、いつ続きが出せないなんて事情になるかわからない。だから今後はお話長く続けたがる篠田の癖は、自粛するべきなのかも知れない。でもとにかく、ここでいちいちは書けない多くの事情から、新しい理論社で北斗学園の物語を続けるという道は取れなかったのだ。

2011.01.23
 昨日の話題の続きである。季刊「文教施設」という雑誌の2010年新春号に龍翔小学校についての文章が載っていて、これを入手した。
「擬洋風建築の極・三国湊の龍翔小学校について 明治12(1879)年・八角形校舎の建築史的意義」グラビア2ページ、本文10ページ。筆者は未知の人だが神戸女学院大学講師川島智生。
 ほとんどは昨日書いたことの確認だが、お雇い外国人のオランダ人土木技師、G・A・エッシャー(エッセル)がこの小学校を設計したことには、文献的な証拠は残っていない。ただ回想録の記述から、彼が土木技術のみならず建築設計の能力を持っていたと推測されること、小学校の棟札からわかる建築の最高責任者が、「大阪府下 規矩工師 柳自知」と記されていて、やはり大阪から三国にやってきたエッシャーとの関連が推測されること、五層八角形の小学校は同時期国内にまったく類例がないこと(直方体の上に多角形の塔や出窓をつけたものは複数ある)などから、エッシャーの関与を完全に否定することも出来ない。また、アメリカでは1860年頃、多層八角形の木造住宅が流行を見ていて、明かり取りと通風のための、塔まで繋がる吹き抜けの周囲に同心円状に部屋を配置するその平面図は、龍翔小学校のプランと酷似していることから、エッシャーがこうした資料を柳に示して、設計のヒントを与えたのではないか、としている。
 まあ、それくらいの推測が妥当ってところなんでしょうね。ちなみにいまも南部ミシシッピー州に現存するという八角形住宅は、一、二階が同じ大きさの八角形で傾斜屋根が取り巻き、その上に載る三階はぐっと小さくなって同様に屋根、その上に手すりを周囲に巡らせた十六角形の塔が載り、てっぺんはビザンチン風というかイスラム風というか、タマネギかカボチャのようなドームが載るという賑やかさ。その派手な雰囲気はちょっと旧済生会病院の塔を思い出させる。八角形住宅は、壁の面積の割に内部に取り込める空間が広いとか、塔から吹き抜けを通して通風と採光を得るとか、一応は機能的な理由をつけて流布されたものだそうだが、済生会病院は本体がドーナツ型で内部空間は狭いし、塔には意匠的な意味しかない。だいたいにおいて、ドーナツの前方に塔を建て、その塔の平面図が、十六角、四角、八角と階ごとに変わるということには、機能的な意味はつけられそうにない。そう思うとまた、「エッシャーが見せた、あるいは略図を描いてみせた、アメリカの八角住宅の絵を、三島が見間違え誤解した結果が済生会ではなかったか」などと空想がうまれてきてしまうのだった。

2011.01.22
 三国に行って、明治の小学校を外見だけ鉄筋コンクリートで再現した龍翔館を見て、「なんだかこの塔の形は見た覚えがあるぞ」と思った。写真で見ていたときはそうも思わなかったのだが、少し考えたら思い当たった。山形市に今も残る旧済生会病院である。もちろん完全に同じではない。済生会はドーナツ型のプランの正面玄関部分が塔になっていて、それも二階部分が十六角形、三階が四角形、四階が八角形で、二階と四階の屋根はそれぞれ十六と八の多面体ドーム屋根が載っている。龍翔館は全体が八角形五階建てのプランで、最上部の八角塔の上に八面のドーム状屋根がかかり、これは済生会の屋根よりずっと丸みが強い。しかし一見した印象は似ている。というより、こうしたプランを持つ建築は日本では特にあまり類例がないから、なおさら似て見えるのだ。
 済生会病院の設計者はわかっていない。藤森先生は『建築探偵神出鬼没』の中で、土木県令と呼ばれた三島通庸が設計したのではないか、という仮説を書かれている。それを思い出して「案外そっちもエッセルが関わっていたりしてね」などと、素人は好き勝手なことをいう、という感じでツレと話していたのだが、買ってきた回想録を拾い読みして驚いた。なんとエッセルは三国から山形へ調査旅行に出かけ、鶴岡から山形まで行き、三島県令とも会い、彼が最初に建設した西洋館、朝暘学校も見学していたのである。しかもそれが明治10年で、済生会と龍翔小学校の建設年がどちらも明治12年。これはふたつの建物を結びつける状況証拠とはいえないか?
 エッセルはオランダ人で英語は得意ではなかったが、通訳は英語しか解さなかったらしい。三島と十分な意志疎通が出来たとは思われないが、たとえば山形市に建てられる新しいランドマークとしての西洋館に、他にはないデザインが欲しいといった求めに、エッセルが簡単なスケッチを描いて示した、というようなことは考えられないだろうか。エッセルの胸に芽生えたイメージが、一方で三島に渡されて済生会病院となり、一方で三国の小学校として結実したとしたら・・・
 証拠はない。というか、この話には実は腰砕けのオチがある。龍翔小学校の設計者はオランダ人エッセル、と本を見れば書いてあるのだが、彼が書き残した回想録には一切それに関する記述がない。竣工は明治12年だが、彼はその前の年に任期を満了して帰国してしまっている。設計図なども残されてはいないし、棟札にもエッセルの名前はない。というわけで、設計者エッセルというのにどの程度の根拠があるのか、いまのところ不明なままだ。うーむ、残念なり。

2011.01.21
 ジャーロの『私はここにいます』続きを再開。枚数は前回程度にしてくれというメールが来てしまったので、第二章のラストまでで75枚くらいということになった。おかげで時間的な余裕はとてもあるが、もちろん仕事する量が少なければ、それだけ収入は減っていくということなのだよ。

 読了本『怪帝ナポレオン三世』 鹿島茂 講談社学術文庫 世界史的にも知名度が低いか、あるいはバカと思われているフランス第二帝政の君主ナポレオン三世の評伝。必ずしもバカではありませんでした。オスマンのパリ大改造を始め、今日のフランスの大きな部分を作った人でもあります。ぎょっとするほど分厚いけど、けっこう面白くてさくさく読めました。
 『三島由紀夫の来た夏』 横山郁代 扶桑社 衝撃の自決に先立つ七年間、三島は毎夏家族を連れて下田の東急ホテルに滞在し、執筆しながら海辺の暮らしを楽しんだ。著者は下田の老舗菓子店日新堂の娘だが、三島はこの店のマドレーヌを好んで何度も店に現れ、少女であった筆者やその母との会話を楽しんで気さくな一面を見せた。人気を集める小説家が同時にタレントでありスターであった、いまは過去となった時代が不思議に懐かしい。私事ながら、下田も東急ホテルも大好きなので、そういう意味でも「あの景色を三島も見ていたのか」といまさらのように思った。

2011.01.20
 一泊二日であわただしい北陸旅行。行きは東海道新幹線米原経由三国、翌日金沢まで移動して帰りは越後湯沢乗り換えの上越新幹線。雪が心配だったが、行きの北陸本線がポイント凍結で30分ほど停車したのが最大で、三国も金沢も心配したほどの積雪はなく、めいっぱい厚着していったらカイロの出番もないくらいだった。
 三国は幻想画家エッシャーの父親が土木技師として明治に来日し、小学校を設計した。いま見られるのは鉄筋で再建したものだが、平面八角形五階建ての塔状という特異な意匠で、これを見に行ったのだが、ガイドブックに載っていた「森田銀行」というのをついでに見物に行ったところ、これが出色だった。外観は中央に三角破風と正円アーチのニッチがあるやや簡略化された古典主義様式で、ありがちな感じだったが、インテリアが素晴らしい。面積の大半を占める営業室は二階までを吹き抜けにして二階部分に回廊を巡らし、壁と天井は白漆喰塗りにレリーフの装飾。こう書いてしまうとやはり、ありがちなもののように感じられてしまうが、天井の円華紋、パルメット紋は細密を極めながら、色彩は白と木部の焦げ茶色に限定されているために華美にすぎず上品。カウンター隅に一本だけ立つイオニア柱頭の円柱は、てっきり石製と思ったら左官の見事な技巧だった。その他階段の親柱や二階手すりのレリーフ、カーテンボックスや二階会議室腰壁の寄せ木装飾、造りつけタンスの引き手の七宝細工など、細部の装飾の密度が濃く、いずれも意匠に隙がない。営業室の腰壁と円柱基部に深緑の蛇紋岩が用いられ、石、木、左官、いずれにも職人の高い技術が感じられる。詳細にわたる『復元保存工事報告書』が2000円という安価で販売されているのも嬉しかった。
 エッシャー父の小学校は再建だが、現在は館内が郷土資料館になっている。農具や民俗的な資料はあまり興味がないのでパスさせてもらったが、かつて北前船の寄港地として賑わった三国の過去を忍ばせるジオラマや、北海道からもたらされたアイヌ意匠の服には目を惹かれた。去年一昨年と幾度か訪ねた函館と、三国は北前船の航路で繋がっている。かつての産業のひとつに仏壇造りがあったそうで、森田銀行の職人仕事のうちの木工はそこと繋がるのだろうかとも思った。エッシャー父は長い回想記を書き残していて、そのうち日本でのことを書いた部分が『蘭人工師エッセル日本回想録』として翻訳されている。これも取り敢えず購入。

 その晩は三国の旅館で一泊したが、海からの風が強く、それが時折ピーッと笛を鳴らすような高音になって耳につく。おかげで安眠出来たとはいいがたい。翌日芦原温泉駅で北陸本線の特急を待っていると、また遅れが出ているというので肝を冷やしたが、予定の電車は数分の遅れで済み無事金沢へ。旧制四高の煉瓦建築の内部にある「石川県近代文学館」で開催中の「画業三十周年記念 波津彬子原画展」を見に行くのが当初の目的だったのに、せっかく北陸へ行くのだからと欲張って三国まで行ってしまったのだった。波津さんに小説のイラストを描いていただいたご縁で、展示するパネルにメッセージを求められたからだが、波津さんは石川のご出身なだけでなく、金沢の生んだ稀代の幻想作家泉鏡花の作品をいつくも漫画化している。通常の原画展ではマンガの原稿を展示するにもその一部分を抜粋するのが普通だが、今回は前期には『天守物語』後期には『海神別荘』を全ページ展示するという新しい試みがなされた。
 泉鏡花の文章は古典ではないにせよ、現代の日本人、特に若い読者に馴染みがよいとはいえない。セリフも地の文も綺羅を尽くした絢爛たるそれは、文字を追っていても意味の繋がりを見失ってしまうこともある。しかし波津さんの漫画化は、原作と読者を橋渡しし、情景を理解しやすくしてくれる手がかりになる。だが、それでは原作をわかりやすく噛み砕いてあるのかというと、戯曲と漫画化されたそれを横に並べて、鏡花の書いたセリフと吹き出しのセリフを見比べてみたとき、それがほとんど原作通りであることに驚かずにはいられない。通常、小説をマンガに、マンガをテレビドラマにといったメディア・ミックスの場合、原作をそのまま生かすよりなんらかの改変を試みる場合の方が多いように思う。メディアによって特質は異なり情報量も違うのだからそれも自然なことだし、作り手によってはその改変が自分の創造性の発露だと考えている場合もあるようだ。しかし波津さんはそこを敢えて「原作に可能な限りこだわる」という、より困難な方針を立てているように思われる。
 だがそれならば、ただひたすら原作そのまんまか、というとそれはまた違っていて、たとえば『天守物語』はそれでもわりとドラマチックなのだけど、『海神別荘』の場合西欧的なドラマ構成とはかなり違う、「鏡花、なんだか変な物を書いてるなあ」「上演はしづらそうだな」的なものなんですよ、原作は。ディテールは豊かだがストーリーは他愛がないし、登場人物はへんてこで、おとぎ話というには毒がある。それを波津さんは、戯曲ではセリフで語られる場面もマンガにすることで物語をわかりやすく、感情移入が容易でドラマチックなエンタテインメントに作り上げている。いや、こんなにくどくどいわんでも、マンガを読んでいただければ一目瞭然なんですけどね。
 他にも、印刷では出ない美しいカラー原稿のかずかずにため息。墨絵の水墨画を再現した濃淡の筆遣いとか。ドレスと花弁のあわいあわい薔薇色とか。『緑金書房』の表紙も「ああ、こんなにきれいな緑だったとは知らなかったぜえ」でありました。印刷されたものはずっと色が暗いし、金色も黒っぽく沈んでしまっているのです。実物を見た者だけが味わえるまさに眼福、目の正月。

 その後近江町市場まで行って、回転寿司でノドグロのあぶりに加賀鳶の冷やを一杯。駅ではお麩屋さんのカフェに入って、篠田は豆乳を使ったブランマンジェを食べ、メープルとバターの味のするお麩という、まずここにしかないでしょね、なものを買って帰路に就きました。しかし帰ってくると、もう少し綿密に、穴が空くくらい波津さんの原画を見てくるのだったという後悔がじわじわ湧いてきて、展示は2月一杯まで。ああ、もう一度行きたいなあ、食べたいものもまだいろいろあるし、などとおもってしまうのでした。仕事しろよ、自分。

2011.01.17
 ジャーロの連載、やっと50枚に到達。前回は70枚ちょっとで第二章の半分かなという気分だったので、もう20枚くらい書けば第二章が終わるだろうな、と思う。しかしこの連載、何枚書いていいのかどうもよくわからない。100枚くらいといわれていたのに、最初に130枚以上書いてしまい、二回に分けて、といわれて一度その気になったら、やっぱり一度に載せましょうということになった。その次は、原稿がたくさん集まりすぎたので少なくしてくれといわれて、70枚になったのだった。今回はなにも言われていないので、少なくとも100枚は書いていいのだろうなとは思うものの、そうすると第二章に第三章の30枚だけくっつくことになるのがなんかうざい、という気もする。しかしそうすれば次回で第三章が終わるわけか。いろいろ悩ましいのお。
 明日明後日は他出につき、次の日記更新は20日の木曜日となります。

2011.01.16
 本日は芦辺拓氏の夫人、風呂本佳苗氏のピアノリサイタルで、東京オペラシティへ。お顔姿は楚々とした美女なのだが、ピアノを聞くと実に男前。ショパンの英雄ポロネーズは、まさしく雄々しき英雄を眼前にするがごとし。芦辺氏を見事御しているもまたむべなるかな。しかし、この寒さはなに、といいたい。胃痛以来身体を冷やさぬようにと用心しているが、今日は建物から出たら頭痛に襲われた。

2011.01.15
 本日は特記事項無し。仕事はジャーロの連載書き進め。後、最近はまた少し切り紙遊びをやっています。

2011.01.14

 友人の作家倉知淳さんから、「祝完結」のカードを添えてお花をいただいた。自慢しちゃいます、というわけで花の写真を載せました。特に男性から花をプレゼントされるというのは、なかなかにいい気分でございますよ。
 今朝は、仕事の前に倉知さんと、新刊を送って下さったマンガ家波津彬子さんに、礼状を書く事からスタート。最近は手紙を書くという習慣がますます廃れつつある気がしますが、篠田はお手紙をもらうのも書くのも好きです。献本をいただいた作家さんには、よほど仕事がてんぱってない限り礼状を書くようにしています。季節のレター用便箋や封筒、美術館で買った一筆箋、自分の写真でこさえたポストカードなどを選び、封書の場合はシールや切手までどれにするか考えて、手紙も一種の作品です。
 今朝は少し早いけど、桜柄の封筒と便箋、切手も桜で倉知さんにお手紙を書きました。建築探偵のラストで蒼がはがきを書いていますが、そこにも登場させた、私が好きな銀座伊東屋で買える季節物、伊予和紙のレターセット、それの桜柄です。今年も桜が出たら買おうっと。鳩居堂のレターセットもいいのだが、値段が高いのだよね。消耗品だから、あんまりけちけちせずに使えるくらいのお値段が望ましい。

読了本 『作家の家』 コロナブックス 表紙は澁澤龍彦の鎌倉邸玄関、裏表紙は画家有元利夫のデスク。比較的近年に物故した作家や画家の自宅15カ所の写真にゆかりの人のエッセイ、そして平面図。いまも遺族が暮らしていて公開されていないものがほとんどなので、貴重。ただしそのせいで、写真も図面も自宅全てではなく、書斎など一部分のみなのがちょっと残念。住居というのはやはり、総体で鑑賞したいものですから。それにしても山口瞳邸とか、井上靖邸とか、昔の人気作家は本当に立派な家に住んでいたのだなあ。

2011.01.13
 ジャーロ進行中。依然コーヒーは自粛中。その代わりというわけでもないが、雑誌に載っていたヨガの「木のポーズ」というのを、仕事を始める前にやってみたら、なかなか気分がよろしい。まっすぐに立って合掌から片足を上げ、両手を合わせたまま腕をまっすぐ頭上に伸ばす。片足立ちだとすごく身体が引き延ばされる感じがする。もっとも木といっても、台風の中の木というか、へろへろふらふらしっぱなしで、ほんとはこれではダメでしょう。まあ、徐々に努力して精進いたしますので。
 理論社の件でフリー編集者Mさんよりメール。状況はあまり思わしくないようだ。著者が新会社と契約は結ばず、著書の販売を停止して欲しいといっても、「在庫を売るのは会社の権利」といわれるのだという。篠田に関しては印税の支払いが終わっているので、いくらか諦めているところはある。しかし近藤史恵さんなんて、あの本について1円も報酬を得ていないのだよ。支払うという当然の前提で人に仕事をさせておいて、仕事は終わっているのに支払いはせず、しかも仕事の成果、つまり著書の在庫は会社の物って、それはあなた詐欺でしょう。泥棒でしょう。そんなトンデモナイ話、封建時代だって通用しないと思うのは、ただの素人考えなのか?
 幸い近藤さんの作品はすでに引取先の出版社が決定していて、彼女はボーナス・トラックをつけてもう一度『あなたにささげるx』を出すのだそうです。有栖川さんの本もきっと、引き取りたいという手がいくらでも上がっていることでしょう。それに対して、北斗学園は正直な話難しいと思います。でもまあそれは嘆いても仕方ないこと。もしも第一巻から出し直してくれる奇特な版元が現れたら、文庫になるにしても文章も内容もブラッシュ・アップして、よりよい作品にすることを誓います。
 ただ理論社のやり口はあまりに汚い。許し難い。良心的な版元という幻想があった分、なおのこと腹立たしい。だからこの前の日記で、元本が欲しい方は今の内といいましたが、その部分取り下げます。在庫を売られても著者には何の利益もない状態になってしまった本で、その分の収益は新理論社が丸儲けになるというのは釈然としません。しかし、ああ、それにしても。景気が悪くなると、人間の品性まで落ちていくもののようですね。

2011.01.12
 依然としてコーヒーは飲めないが、今日から『私はここにいます』の第三回を書き出した。小説の神様が降りてくるのを待つほど時間がないので、無理矢理手を伸ばして引きずり下ろすんであります。
 建築探偵のご感想お便り、早くも第一陣が到着。といってもこれからポストカードを印刷に頼むので、発送は早くとも来月からです。仕事を進める方が優先なので、お便りを拝見するのもそれからにするつもり。というわけで、封書は開けずにはがきだけ読みました。今日のはがきを読んで思ったこと。お願い。読み終えた本をブックオフに売り払うことは出来るだけ止めて。売られちゃう程度の本しか書けなかったのは自分なんで、文句を言うべきことではないんですが、それでもわざわざいただいたおはがきに「まだ売ってないので読み直したい」と書かれてあると、かなり書き手は悲しいです。売ってもいいから、教えないでよ。正直が常に正しいとは限らないんだから、売るなら作者には知らせずに黙って売って下さい。

2011.01.11
 どうやらかなり復調してきたが、依然食欲は出ず、酒は飲めず、それよりなによりコーヒーが飲めない。コーヒーが飲めないと仕事が出来ない。仕事を始める前に豆を挽いてコーヒーを淹れる。これはもう癖のようなもので、やらないとうまく仕事へ気持ちの橋渡しが出来ないのである。薄目のインスタントコーヒーを淹れてみたが、味はもちろんあかんし(それと承知して飲む分はいいんだろうね)、胃の方はしくしく言い始める。胃薬飲んで回復を切望するばかり。

 読了本『角のないケシゴムは嘘を消せない』 白河三兎 講談社ノベルス 人や物を透明にする(したと感じさせる)力と、それに抗する力、ふたつの超能力を持った人間と、それを管理する組織の暗闘に巻き込まれる男女を、恋愛がらみで描いたSFファンタジー。読み味は悪くない。

2011.01.10
 昨日朝から突然の胃痛により沈没。眠れず食えずなにをする気力も湧かずひたすらベッドの上。微熱が出たので風邪かとも思ったが、他の症状は出ず。以前建築探偵を書いていたときに、ストレスと疲労で同様の症状の出ることがあったが、いまは少なくともそれは無し。ほぼ絶食状態で過ごすがあまり状況は改善しない。おかげで溜まっていた本だけは減らせた。

 読了本『旅行者』上下 ジョン・カッツェンバック ハヤカワ文庫 さっさといっちゃえばサイコキラーの話。読んでいて楽しいものではない。
 『琥珀のマズルカ』 太田忠司 講談社ノベルス ミステリ風味のファンタジー。
 『空き家課まぼろし譚』 ほしおさなえ 講談社ノベルス 日本のベネチアのような海辺の都市が舞台だが、文章から感じられる街のたたずまいは函館。古い建物がモチーフになるところは好みだが、「ベネチア」ぽいという街そのもののなりたちや歴史について、もう少しつっこんだ設定や描写が欲しい。
 『雲上都市の大冒険』 山口芳宏 創元推理文庫 17回鮎川賞受賞作。単行本で読んだ時は「サービス過剰で読みにくい」と思ってしまったが、今回はなぜかちっともそんなことはなく、頭からしっぽまで面白くと言うか、美味しくいただけました。よほどブラッシュアップされたのか、こちらの精神状態の差か。脱出トリックはリアルに想像するとえぐくてぐろいですが、ユーモアのある語り口がそれを救っています。

2011.01.08
 昨日は東京都庭園美術館に、「朝香宮のグランドツアー」展を見に行く。たいてい年に一度はやる通常展示という感じで、それほど目新しいものがあるわけではないのだが、今回は一階部分のみ写真撮影OKというのがちょいと嬉しく、カーテンを通して差し込む日の影とか、素人写真を撮って楽しむ。その後渋谷に出て松濤美術館で「大正イマジュリィの世界」展を見る。1930年代、日本におけるアール・デコというわけで、ちょうど時代がだぶる展覧会が、あまり遠くないところで開かれているのも面白い。松濤美術館は本の装丁など、主に印刷物なのだが、未見の珍しいものもいろいろあった。松野一夫は『黒死館殺人事件』の挿画の描き手、竹中英太郎は江戸川乱歩、橘小夢は泉鏡花「高野聖」挿絵が有名だが、明治の歌舞伎役者澤村田之助を描いていて、皆川博子先生の『花闇』文庫版の表紙で見ていた。いずれもなかなかにエロティックなイラストでありましたよ。
 今日は3月のSFJapanに掲載される『黎明の書』第二部のゲラが来たので、そちらをやった。相変わらずやたらと寒くて、ダイエット食に手が伸びなくて困ります。

2011.01.06
 正月休みで増え気味の体重を戻さねばならんと思いつつ、こう寒いと身体がダイエットフードはいやじゃという。今日のお昼はなぜか「おこわが食いたい」という欲求が湧いてきて、近くの地方デパートまで一走り。といっても、昨日の残りのとうふのおみおつけと一緒に、一人前の半分も食べれば満足したので残りは明日回し。仕事は活字倶楽部のインタビューにつける作品紹介のコメント、本編15本に各200字ずつを執筆。こんな形でシリーズを振り返るというのも、機会がなければやらぬことなので、企画者に感謝。午後から今年最初のジムに行くが、やはりいささか身体が重く、マシンを踏んでも速度が出ない。自覚に上らない体調がこれではっきりわかる。まあ、無理はしない。
 戻ると、理論社の仕事で一緒に働いたフリー編集者のMさんからメールが来ていて、新理論社と再契約をしない作家はその意思表示をして在庫も販売せずに断裁することを求める必要があるとのこと。篠田は3冊分の印税はいただいているので、再契約をする意志はないものの、在庫分を販売されるのは仕方ないかと思っていた。だいたい、本を傷つける、廃棄するということ自体、精神的な大きな抵抗がある。北村薫さんのデビュー作「織部の霊」に出てきた大学の先生みたいな、ね。しかし、Mさんがメールに貼ってくれた書き手の方のブログやツイートを読んでいて、考え方が変わった。理論社の倒産は、いい本を出すために頑張っていてあえなく潰れてしまった良心的な会社の悲劇なんかではない、少なくとも経営の上の方にいる人は、すべて承知の計画倒産じみた、犯罪行為に限りなく近いものだったらしい、ということがわかってきたのだ。つまり同情の余地はない。本に罪はないが、書き手や編集者やデザイナーといった零細なプロを食い物にして生き延びる気らしい犯罪会社に、わずかでも仕返しをするとしたらこれしかない。といっても、敵がそしらぬ顔で在庫を売り続ける、あるいは新刊ゾッキとして新古書店なんかに流すこともあり得るらしいけどね。
 そういうわけで北斗学園シリーズ三作は、いずれどこか別の版元に引き取ってもらえたら嬉しいけど、理論社版が存続することはあり得なくなりました。もしもいまは持っていないけど、この版形が好きだなという方は、どこか店頭で見かけたら今の内です。特に三巻目の『アルカディアの魔女』は部数ががくんと少ないので、見かけたらレアでっせ。それから、テーマ的に面白いものがたくさんあったよりみちパンセなんかも、見かけたら買いです。篠田、知らなかったのですが、こちらも編集さんは外部の方だったそうで、それじゃ理論社自体はなにをやっていたのかしらね。

2011.01.05
 暮れに築地で買った厚削りの混合節をもらってきたので、なんとなく出しを取ってみる。削り節の煮える匂いが幸せな感じ。お世話になっていた方に新刊を送るのを忘れてはいかんというわけで、手紙をしたためて郵便局へ。顔見知りになっている局員の女性が「いつもありがとうございます。今年よろしくお願いします」と何ともご丁寧に挨拶。いや、ヤマトのメール便で出せるやつはそっちに行ってるんですけど。でも、いつもわけのわからなそうなコンビニと、こういう局員の人と比べると、さびしい年寄りなんか50円高くても郵便局に行きたくなるかも。いえ、すでにして自分がその寂しい年寄り間近。
 と、とにかくジャーロだ、と頭を切り換えようとしたところが、活字倶楽部からインタビューに添える既刊紹介コメントと作品年表のメールが着いて、それじゃあ先にこっちの仕事を終わらせないと、というわけでそっちをやる。でもこれは、明日の午前中には戻すつもり。いや、本気で焦り出したわ。ていうか、焦れ、自分っ。

 読了本『夢は枯れ野をかけめぐる』 西澤保彦 中公文庫 日常の謎っぽい連作短編集といっても、印象はミステリという以上に、人に必然的に訪れる老いを巡る物語という印象が強い。探偵役とでもいうべき主人公のキャラも、彼を巡る女性たちの雰囲気も、西澤さんのことれまでの作品のあちらこちらを彷彿とさせるけれど、時に漫画的、ファルス的、妄想的であったこれまでとはトーンが大きく違い、枯れ色というか、「老い」の色合いが深い。西澤さんもここに来て、少し違う方へ舵を切りつつあるなという印象。

2011.01.04
 今日からは気持ちを切り替えて仕事を始めたかというと、始めてません。昨日読みかけた歴史ミステリが面白くてページをめくる手が止まらず、ではなくて、つまんないもんだから大事に読む気がしない、とっとと片づけてしまえ、というわけでずるずる。ダメじゃん。ダメです。

 読了本『マルヴェツィ館の殺人』 ケイト・ロス 講談社文庫 19世紀オーストリア支配下の北イタリアで、権勢を誇る大貴族の当主が死体で発見され、彼に庇護されてオペラ歌手としてデビューのために特訓中だったイギリス人青年が失踪する。当然彼が殺人者と目されたが、被害者は青年の本名も身柄も秘密にしていたために、行方をつかむことが出来ない。しかも政治的配慮から事件は病死として処理されてしまったが、四年後偶然から殺人の事実が暴かれ、遅まきながら警察が動き出す。シリーズ探偵でもあるイギリス人貴族のジュリアンは、乞われもせぬままお節介に事件捜査へ鼻をつっこむが、真相は一向に見えてこないまま誰もが怪しく見える。設定とかなかなか好みだし、描写も細やかなのだが、いかんせん道行きが超退屈。主人公の探偵ぶりはお社交ついでのごっこにしか見えず、緊迫感はゼロで、「誰が犯人でもいいよ〜」という気がしてしまう。唯一驚いたのは「消えた謎の青年の正体」だけど、それも伏線は十分とはいえず。とにかく読みやすいけどたるい、という感じなのでした。

2011.01.03
 仕事場に行って雑用縷々。ただし今日は仕事はせず、未読本を少し片づけようと、書架に入れたままになっていた翻訳の歴史ミステリを手に取るが、添付のしおりがやたらとへなへなで使い心地が悪く、久しぶりに切り紙しおり作りなど始めてしまう。いや、明日からは気持ちを入れ替えて仕事に向かわなくては。

 読了本 『電子本をバカにするなかれ』 津野海太郎 国書刊行会 『本は物である』 桂川潤 新曜社 『本は、これから』 池澤夏樹編 岩波新書 年末から年始にかけて読んだ「本に関する本」。最初の一冊は色物みたいなタイトルだが、そういうことは全然なくて、人類の文化史に置ける書物史という観点から改めて、二十一世紀の電子本について考えてみよう、という本。当たり前のようでいて、いまさらながら蒙を啓かれる思いのするところ多々。二番目の本は装丁家という、本を形にする事を仕事とする著者による「自分はいかにして装丁家となったか」と「現在の印刷本はどのようにしてどんな人の手で作られているか」を語る本。篠田を含めて物書きは平気な顔で「本を出す」なんていってしまうが、書き手がしているのは実は「テキストを書く」ことだけで、それを本というものに作り上げるには非常にたくさんの人手と工程を経ているのだという、これまた当たり前なのにちゃんと知らなかった事実を思い知らされる。紙の本は、残そうという強い意志がなくては残らない、という著者のことばは、その上で読めば非常に重い説得力を持つ。最後の岩波新書は装丁家桂川氏を含め、いろいろな立場で本と関わる人37人が寄せた短文集。電子本賛成派も反対派も。
 で、これらを通読して篠田思うに、やはり長い目で見れば本は電子化していくでしょう。これはもはや止められない。金属活字発明以後は、手写本は特殊な趣味以外では作られなくなったように。とはいえ焚書が行われるわけではないのだから、物としての本はそう簡単には消えないだろうが、新刊書は紙の本の比率が減っていく。そして減ればコストが上がり、ますますその傾向は強まる。変化のスピードは加速度的に増す。50年とはいわないが、100年後には紙の本は「古文書」と「特殊な趣味」の存在となるだろう。残そうという強い意志によって残せるのは、この「特殊な趣味」の部分。電子書籍を好みの用紙にプリントアウトして、装丁を頼んで、あるいは自分で装丁して、好みの本を作る、なんて風潮が起きるかも知れないが、いまのような大量刊行大量廃棄の、本の消費財化は、後の目から見れば資源浪費的なバブル時代として否定的に回顧されるようになる。そういう時代に自分は生きているのだな、といまさら思い知った。篠田程度の書き手が作家面をしていられるのも、そういう特異な時代の結果なのであります。まあ、自分は死ぬまで紙の本だけ読んでいられると思って、それについては嬉しく思いますが。

2011.01.02



 明けましておめでとうございます。2011年の幕開けです。建築探偵桜井京介の事件簿シリーズの最終巻は、1月5日発売。地方によっては7日になるところも。自分的にもささやかにお祝いを、というわけで、仕事場の床にノベルスをばっさり広げ、シリーズが開幕した1994年のヴィンテージのボルドーを横に置いて記念撮影をいたしました。こうして見ると表紙の写真、ロゴも多彩でなかなかにカッコイイではありませんか、と自己満足。

 読了本『エアーズ家の没落』上下 サラ・ウォーターズ 創元推理文庫 イギリスの地方に建つ巨大なマナーハウスに、いま住むのは名家の末裔である青年とその妹、その母のわずか三人。困窮しながらもかつての誇りを捨てない一家だったが、戦争中に負った負傷になお苦しむ青年は、破綻しようとしている一家を担う重圧から次第に心を病んでいく。彼が語るさまざまの怪奇現象は、狂気ゆえの妄想に過ぎないのか。あるいはポルターガイストや悪魔憑きのなせる業か。廃れながらなお美しい領主の館とそこに住む者たちに心を寄せる医師は、いつか妹娘に心を惹かれ、彼女のためにもマナーハウスを守ろうとするが、超自然現象とも妄想ともあるいは何者かに寄る悪意の工作ともつかぬ出来事にむしばまれて、一家はひとりまたひとりと欠けていく。
 この物語にあっては、登場人物以上にそのマナーハウスの存在感が圧倒的で、生彩に富む。謎の解決を望んで読者はページをめくり続けるが、その期待は実のところ十全には満たされない。超自然ホラーとも、サイコ・サスペンスとも、フーダニットの謎解きミステリともつかぬ、宙づり状態のまま物語は幕を閉じる。一家の最後のひとりの死については、明らかに特定の犯人が想定されていると思われるのだが、その人物が他の事象をすべて引き起こしたとは思いにくく、たとえその人物が手を下した殺人者だとしても、「悪魔」「妖精」「人の心を操る館の力」がその人物をして殺人者たらしめたという可能性は消えるわけではなく、結局のところなにが真相だったのかはわからないままだ。それでよしとは思えない程度には、篠田もミステリ脳になっちゃっているのでありましょうね。どうせなら話が一度本格ミステリ的な落着の仕方をしてから、もう一度幻想乃至はホラーの方に振れてくれたら嬉しいのに、とおもってしまうんですよ。