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2010.01.31
 建築探偵はまだか、という趣旨のおたよりを2通いただいて、有り難いと思わなければとはいうものの、少しだけ凹む。プレッシャーは「ピレネーの城」、マグリットの絵ですね。もっとすると、ダモレスクの剣になりかねない。ひとつ間違うと糸が切れて剣がぐっさり。くわばらくわばら。
 素直に励ましと思って感謝できないのは、まだ手を付けられないからです。2月からはジャーロの連載を書きためようと思ったが、新しいお仕事、まだ連載の開始はずっと後にしてもらうのだが、イラストのこととか、企画を進める上でなにかあった方がいいだろうというわけで、連作短編の最初の一本を書いてみることにした。綿密なプロットを、前もって立てるより現物を書いてしまう方がいいという、手間を惜しんでいるのかいないのか、自分でもよくわかりませんが、いろいろな意味で前からやってみたかったことが実現できる感じがあり、ならば書きたいと思うときに書かせてもらおうかと。なんだかんだいって、好きにやってますね、自分。

2010.01.30
 角川の新刊『閉ざされて』の見本が来る。内容は少しでも触れるとネタバラシになってしまうので、何もお話しできないのだが、函館が舞台の話です。ただし町興しに役に立つような、景気のいい話では全然ありません。昨年の函館滞在でお話をさせてもらった某セレクトショップのオーナーさんがいらっしゃるのだが、その方に本を置くっていいものやら、よくないものやら、ちょっと迷う。でもまあ、小説としては面白いと思うよ。装丁もとてもきれい。シックだし。部数は少なめなので、買う気のある人はお早めに。書店に並ぶのは早くても2/1以降だと思います。
 昨日は懇意にさせてもらっているフリーの編集者さんと、銀座で会って打ち合わせ。新しいお仕事の話で、雑誌連載をさせて頂けるというので、どうせなら連載ならではの形、連作短編を、という話になる。小説を書くというのは基本的に孤独な作業だが、餅つきには相方の存在が不可欠なごとく、思いつきを受けて上手に合いの手を入れてくれる人がいるといないとでは、全然ものごとの転がり方が違うのであった。

 読了本『離愁』 多島斗志之 角川文庫 『白楼夢』の解説に紹介されていて、興味を覚えたので読んでみた。死んでしまった伯母の過去を探ることで、高校時代とても謎めいた不可解な人物に思われた彼女の真実が浮かび上がる、という、わりとオーソドックスだがかっちりした小説。しかし真相が掴めたといっても、そのときは伯母はもちろんほとんどの関係者は死んでしまっていて、その結果なにかが救われるとか、新しいことが起こるということはなにもない。主人公は自分の秘密をもそれによって知らされることになるのだが、彼も疾うに中年の男で、いまさらそれを知ったからといって人生が変わるわけでもない。現実とはそのようなものなのだよ、ということなのだろうが、乾いて冷たい風が胸元を吹きすぎていくような、薄ら悲しい読後感なのだった。

2010.01.28
 『緑金書房』のゲラは終わったので、あとがきを書く。篠田は物書きで、原稿を書いて本にしてもらって、その印税でご飯を食べている。印税がもらえるのは、我々にとっては当たり前の話だが、新刊の本だけである。古本屋で商われている本は、いくら売れても作者には一円も入らない。だからブックオフのような、新刊でも売られている本を割引価格で扱う、新古書店というやつは、作家にとっては無論のこと有り難くはない。だから自分のところで不要になった本をゴミに出す時、そういう業者に持ち込まれないような措置を講じてから出す、という人もいるらしい。この小説には古本屋が登場し、ヒロインもまた将来古本屋さんになりたいと思うようになるのだが、それは新古書店ではなく、そういう店がなければ消えてしまうだろうような古書を扱う、昔ながらの古本屋さんのつもりだ。とはいえ、私も学生の頃は古本屋に「安い本」を買いに行ったのだし、当時ブックオフがあったらもちろん行ったろうし、それを悪いと言われても困る、よなあ。と。古本を巡ると気持ちはなかなかにアンビヴァレンスなのだった。

2010.01.26
 北森鴻さんが死んでしまった。まだたったの48歳だ。あまりに早い。心不全だという。病みついていたわけではなく、本当にいきなり逝ってしまったのだ。鮎川賞受賞者で、もちろん顔を合わせて話したことは何度もあるけれど、知己として、というよりも作家として、篠田は北森さんの本はみんな買っていた。同業者といって、その人の本を身銭を切って買うという人は、そんなに多くない。置く場所がないし、そんなに読んでたら仕事する暇が無くなるしね。だから、「この人のはチェックしとかないと」「たぶん再読したくなるし」という人しか買わないです。ああ、なんかこう書いていても、まだ信じられないというか、信じたくない気分が強い。蓮城那智の新作がもう読めないのか、とか、有馬次郎くんと大悲閣のご住職にはもう会えないのか、とか、頭がぐるぐるしてしまう。去年あたりから同世代で死ぬ人が増えてきたなあと思っていたら、こんなに年下が死んじゃった。
 そんなわけで、『緑金書房』のゲラは進めていますが、気持ちが落ち込んでどうもいかんですよ。当面北森作品の再読ばかりしちゃいそう。昨日は『メイン・ディッシュ』を読みました。読まなきゃいけない本もあるんで、シリーズものには手を付けないようにしないと。

2010.01.24
 『緑金書房』のゲラをやっている。しかしゲラのチェックはいつも嫌いだ。これは物書きでない人にはわかりにくいことかもしれないが、自分の文章に鉛筆でいろんな指摘が入っているものを読むのは、本を出すためには必要な手続きではあるのだが、なかなかにかったるく、時には不愉快なものなんである。揚げ足を取られるような気分がしたり、「ちぇっ、わかってねえな」「この石頭め」などと口走りたくなったり。もちろん書き手が意図していないような読み方をされる余地があるなら、それは改める方がベターに決まっているんで、校閲者を恨めしく思うなどとは的はずれもいいところなのだが、それでもムッとしてしまうというのが凡人の悲しさよ。
 というわけで、仕事から逃避しつつ読んだ本は下記の通り。
読了本 『悪いのは私じゃない症候群』 香山リカ ベスト新書 タイトルで全部語って、本文は付け足しみたいな本です。まあ、そうでしょうね。「みんな私が悪いんです」も「みんな私以外の誰かが悪いんです」も、どっちも間違っている、というのがとても当たり前の結論。でも、真理ってまあそんなもんでしょ。
 『症例A』 多島斗志之 角川文庫 新しい病院に勤め出した精神科医と、国立博物館に勤める女性、ふたつのパートが交互に語られて、思わぬ形で二つが繋がる。興味深く読んだけど、微妙にバランスの悪さが感じられて、読後感は微妙。
 『イエスの古文書』 A.ウォーレス 扶桑社ミステリー 『ダ・ヴィンチ・コート』以来やたらと出たキリスト教関連歴史ミステリは駄作の山、という印象なのだけれど、もちろん全部読んだわけではないから、これはあくまで私的な感想です。しかし、これはひどい。なんでこんなものが翻訳されただけでなく、再刊までされなきゃならんのか理解できない。
 イエスの実弟ヤコブが書いた、実見に基づくイエス像が活写されたヤコブの福音書が発掘された。それを含めた新翻訳の聖書が世界一斉に刊行されることになり、その広告宣伝をまかされたアメリカ人主人公がゲラを読むと、いたく感動してしまい、それどころか突然別居中の妻が求めている離婚に優しい気持ちで応じ、愛人とも別れるといった精神的な変化が訪れる。彼の他にもゲラを読んで、家族と和解したり、けちな印刷会社社長が改心したりという、いささか奇蹟じみた影響が現れている。しかし読者はその福音書の一部と梗概を読んでも、なんで彼らがそれほど感動したか全然ぴんと来ない。素晴らしい作品と賛美される作中作がちっとも素晴らしいとは思えないというのは、しばしば見かけることではあるので、そこは取り敢えず目をつぶる。
 ところがこの福音書に偽造疑惑が持ち上がり、しかし偽造者と名乗り出た老人は交通事故死して、謀殺された疑いも消せないものの、偽造の証明も不可能になる。聖書は発売され、主人公の家族も感動と幸福を味わっているが、彼は偽造疑惑についてまとめた原稿を公にする決意を固めた、らしい。ところが件の福音書を発掘した学者の娘、彼と恋仲になった絶世の美女が訪ねてくると、「この女性を二度と離さない」で、おしまい。
 福音書が偽造なら、なんで人をそれほど感動させ、奇蹟的な改心を起こさせたのか。偽造者を名乗る老人は謀殺されたのか、ただの事故か。偽造説を公表すれば巨大な企業を敵に回すだけでなく、恋人も「二度と離さない」どころの話でなくなるのは当然なのに、いったいこいつはなにを考えているのか。頭おかしいんじゃないの、と読み終えても??? 破綻しているとしか思えないんだけど。あー、時間の無駄でした。それをまたこんな、長々と書いている私って。

2010.01.22
 旅行に行って山の温泉に泊まっていた間は咳は完全に止まっていたのに、戻ってくるとまだ喉がうずうずする。芦辺拓さんは、大阪ではちっともひかなかった風邪を東京に来たらひくようになってしまった、といっていたけれど、やっぱりこっちは空気が悪いのかしらん。
 今日は東京へ、貯めていた用事を一挙解消しに。まずリブロ。失踪してしまった多島斗志之さんの『白楼夢 海峡植民地にて』創元推理文庫を読んだら面白かったので、解説に触れられていた文庫本を買おうとしたが自宅近くではなかった、とか、そのへん。リブロになかった本はジュンク堂に行き、ついでに無印良品により、銀座へ出てわしたショップと、紅茶の店で茶葉を買い、新橋で歩いてカタログハウスの店で毎日体重と血圧を付けているグラフ用紙を、在庫がなかったので注文。神保町に回って目当ての古本屋を2軒だけ見て帰宅。
 帰ってから買ってきた『一澤信三郎帆布物語』朝日選書を読む。一澤帆布のバッグは愛用していたのだけれど、お家騒動みたいなのがあって、元の社長が信三郎帆布を作った。全然事情はわからないが、2年前に京都に行った時は元の一澤帆布が休みの日だったので信三郎帆布に行って、なかなか使い勝手の良いトートバッグと、ツレに帽子を買ったのだった。伝統を守る、ある意味古めかしいデザインが多かった前の一澤帆布と比べると、いろいろ新しいことをやっている感じの信三郎帆布だったが、今回の本を読んで改めてその間のいきさつを知ることができた。一方的な情報だ、とはいえなくもないんだが、どうもお兄さんが遺言状を偽造したと考えるよりないような。そんなに仲が良くなかったとはいっても血の繋がった兄弟が、ここまでえげつないことをやるかな、と思うと、欲に駆られた人間って悲しいとつくづく。

2010.01.20
 宮城県まで行ってきた。漫画家石森章太郎(ご本人が石ノ森と改名されたわけだが、ここは古い読者のわがままとして)の記念館で、佐藤史生といういまは筆を断ってしまったらしい漫画家さんの原画展をやっているというので、一念発起してツレの運転を当てにして出かけました。新幹線の駅から車で30分以上かかるところで、こんな機会でもないとまず行きそうにない。覚悟していった雪がひとっかけらもないのには驚いたが、坦々とした田舎道をカーナビを見つつレンタカーを走らせて、しかし普段はあんまり来館者もいないだろうなあという感じ。佐藤さんも宮城の出身だというので、なにか肉声にたぐいするものと接することができるのではないか、新作の情報とかそういうものは、という期待は残念ながら完全に外された。パネルに「ごあいさつのことば」があったのみで、あとは90パーセント読んでいる懐かしい作品の原画と、カラーイラスト、昔のスケッチブックなどが展示されていたのみで、パンフレットの一冊も作成されていなかったというのはかなり寂しかった。まあ、これを機会に手元の作品をもう一度全部読み直すつもり。
 それから石森章太郎はかつての篠田にとっては手塚治虫などより遙かに「マンガそのもの」であったので、常設展示を眺めていると、そういう意味でしみじみとするものあり。『マンガ家入門』を熟読して漫画家を志し、あまりの不器用さに泣いて挫折したのは40年前の話さ。近くには生家が保存されていて、親戚のおばちゃんのトークが面白し。父親はお役人様でしかも教育関係だったので、漫画家になるなど、とんでもないという感じだったのだそうだ。ええそうです。昔はマンガ=悪書だったのだよ。
 新幹線の時間までまだ間があったので、30分ほど車を走らせて、登米の明治建築が保存されているところに行き、昼を食べて(ここでは支那そばという。別に差別語扱いはされていない)から、写真で見た覚えのあるベランダを巡らせた木造の小学校を見学。建築家は帝国大学の流れではなく、ウィーン万博で日本館を建てた大工棟梁がそのままヨーロッパで建築を学んで帰国後作ったという、建築史のメインルートとは違う文脈。他に近くには警察署なんかもいい感じの建物だったのだが、時間がなくなって大あわてでくりこま高原駅まで戻る。見残したという気分が強く、ちょいとばかり無念なり。
 夜は福島県の高湯温泉で、しっかりとぬくまって来ました。しかしここでも雪は少なかった。

2010.01.18
 いつまでも風邪っけが抜けなくてやになってしまう。こじらしたという感じではなく、いくらかは症状も軽くなってはいるのだが、ただまだ鼻は出るし、咳も時々出るのでうっとおしい。しかし明日は寒いところに行くのだ。昔好きだった、いまは描かなくなってしまっている漫画家さんの原画展が宮城県でやっているというので、それも新幹線の駅から車で30分。「遠いなあ」「雪だなあ」「寒いよなあ」と思いつつ、決心して行くことにした。石森章太郎の記念館があるところで、その漫画家さんも宮城の出身だったらしい。知らなかった。にしてもなんでこの季節に、というのは、東京生まれの人間の勝手な文句なんでありましょう、きっと。運転手にツレを引っ張り出したので、温泉で一泊してくることにした。ご報告は明後日。
 戻ってきたら『緑金書房』のゲラを片づけて、思い切ってジャーロの新連載を書き出すことにする。こちらは真冬の北海道の話なので、寒いときに書き出そうとずっと思っていたのだ。仕事場ではエアコンの暖房は使っていないので(頭だけ熱くなってぼけてしまうから)ええ、寒さには不足はございませんね。

2010.01.16
 昨日は池袋のリブロでジャーロ用の資料本を買い込み、それから亀戸の「大蒙古」というモンゴル料理屋へ。前にテレビ番組で見たモンゴルちゃんこというのを食べたかったのだが、それは今日は出来ないというので、羊のしゃぶしゃぶと羊のかたまり肉の炒めたのを食べながら馬乳酒を飲む。値段が高いめ(フレンチの洒落たビストロくらいかな)のは、他では食べられないものだから仕方がない。うちらは羊大好き人間なので、とても美味かった。風邪がすっ飛んだ、とまではいかなかったが、帰り手袋が要らなかったくらいは身体がポカポカした。
 今日は『黎明の書』第四回のゲラをやる。ゲラの時にいつも迷うのが同音異義の漢字使い。「探す」と「捜す」、「離す」と「放す」、「許す」と「赦す」とかとか。一応使い分けの基準は、広辞苑なんかにも書いてあるのだよ。「放す」は束縛を解放する、「離す」は離反とか、距離が開く感じ。すると手は「放す」だろう。だが目はどうだ、「離す」かな。「許す」は許可するで、「赦す」は罪を赦免するニュアンスだけど、じゃあどこまでが罪で、どこからが許可する事項なのかなどと考え出すと、迷いはつきない。日本語ってやっかいな言語だねえ。

2010.01.14
 風邪はだいぶ治まってきたけど、まだ鼻は出るし、ときどき咳が続いてしまうので、ジムは休むことにする。しかし風が冷たかった昨日とは違って、今日は比較的暖かいので、小説のノートをかついで外へ。行く先は駅ビルのスタバだが、そこへ行くまでにぐるっと遠回りをして山裾をかすめる。田舎暮らしのありがたさである。
 スタバは混んでいたが、幸い連載第一回分のぷろっとはすんなりと立つ。ジャーロはこれから年三回になるので、第一回が6月発売だと第二回が10月、第三回が来年2月、か。せめて2回分、うまくいけば3回分書いておけたら、かなり安心した気分にはなれるよなあ。ちなみにゴシック・ロマンス、光文社の担当編集者がつけてくれたシリーズ名によれば「さいはての館」シリーズ、第3弾のタイトルは『私はここにいます』です。どういう話か全然わからないでしょう。まあ、さいはてに館が建ってます。

2010.01.12
 風邪は、喉の痛み、鼻水はかなり収まってきたが、はた迷惑な咳風邪で停滞中。朝の4時とかに咳で目が覚め、こらえようと身体に力を入れればますます眠れるわけもなく、へろへろ。まったくろくでもない。
 仕事はジャーロのゴシック・ロマンスの裏設定を、ぼちぼちと組み立てている。舞台となる建物については、比較的無難な路線と、なんでこんな場所にこんなとんでもねえ様式のシロモノが、というのと、どちらにしようかまだ迷っていたが、例によってもっともらしくでっちあげた故事来歴に沿って、かなりとんでもないものをおっ建てることにした。小説というのはこういう場合、ことばだけでいくらでも派手なセットを建てられるので、映画なんかと比べればまあ楽ですね。かかるのは資料本代くらい。

 いま気になっているニュースはといえば、ミステリ作家の多島斗志之(たじまとしゆき)さんが失踪して、ご家族が捜している、というあれ。目の調子が悪くて、早晩失明するのではという危惧を抱いた多島さんが、自殺するつもりで住まいも整理し、パソコンも処分して姿を消したらしいのだが、息子さん、娘さんたちが、八方手を尽くして探し回っておられる。
 篠田は一般論として「人には自ら命を絶つ権利がある」という主張を肯定したくない。それは自分も血族に自殺されたことがあって、その痛手は決して消えることがないと感じるからだ。「止められなかった」「気づけなかった」という罪の意識、それとは逆の「見捨てられた」という恨みがましさ、それがまた反転して「こんな痛い思いをさせてもかまわないと思うくらい、あなたは苦しかったのか」「それを気づいてあげられなかったのか」という罪の意識に還流して、エンドレスなのだ。
 しかしこれが自分のことだったら、たとえばツレも死んで、自分が体を悪くして、仕事もない、やりたいことも残ってない、もう生きていたくないと思うことがないか、あると思う。自殺、絶対しないとも言い切れない。でもその場合、自殺を暗示した手紙を残して失踪してしまう、というのはやはりまずいやり方じゃないか。残された人間にとって、生きているか死んでいるかわからないままというのは、自殺されることそのものよりまだ悪い、残酷な仕打ちではないのか。自殺というエゴを通すなら、せめてすみやかに遺体は発見されるようにして、自分が打ったピリオドを白日の下に晒すべきではないだろうか。見苦しいものを見せたくないというのも理解は出来るけど、必死に捜索を続ける息子さんたちが気の毒すぎる。

2010.01.10
  久し振りに風邪を引いてしまった。喉に違和感を覚えたのを、風邪薬でだましだまし抑えていたら、とうとう押し切られて鼻が出始め、喉のえらえらは咳になり、もうあきまへん。昨夜都心に出かけたら空いている地下鉄の中で、隣に座っている人がすうっと立ち上がって他へ移った。ワアオ、避けられてるッ。
 というわけで、仕事の方も停滞状況。本ばかり読んでいる。仕事に関係があるものより、ないものの方が多い。『孫悟空のXYZ』 中野美代子 講談社選書メチエ 『ラファエル前派の世界』 齋藤貴子 東京書籍 『プリンセス・ハーツE』『銃姫HIJ』 高殿円 『私の家では何も起こらない』 恩田陸 メディア・ファクトリー  ちょっと評を書いてみようかな、というのが下記。

 読了本『聖灰の暗号』上下 帚木蓬生 新潮文庫 カタリ派の話だというので読んでみた。13世紀カタリ派の摘発をする異端審問官の通訳をさせられた青年修道士が、ひそかに書き残したカタリ派の人々の気高い言動と審問官の専横ぶり。古文書の隠し場所にいたる暗号を偶然発見した日本人青年歴史研究者だが、彼の探索行に妨害の手が伸びる。こういう場合悪役は必ずカトリック教会なので、ここでもそうだといってしまっても別に問題はないだろう。暗号の趣向はたとえばエーコあたりと比べればずいぶんと緩いけど、見つかった古文書の内容がなかなかそれっぽくよく書かれている(感覚は現代っぽくて、中世的というにはわかりやすすぎるけど)ので、けっこう面白く読める。
 とはいえカタリ派を当時の教会が残酷に殲滅したことは、別に秘密でもなんでもないので、こういう古文書が発見されても、カトリック側が殺人や誘拐といった荒っぽい手段まで執って露骨に妨害をしてくるかというのは正直疑問だけどね。もう少し陰湿にマスコミを操作するとかして、発見の価値を引き下げて偽物疑惑を掻き立てる、というのはあるかも知れない。その方がずっと怖い気はする。この作品でもラストではそうした対決シーンがあるが、あっさり主人公側が反駁して勝ってしまう。非合法的な実行犯と、学問的にそれをやっつける人間は、別々であるのが当然じゃん。カトリックはもっと知能的だと思う。
 それから、現代パートでも視点人物はカタリ派に共感的で、現在のカトリックに批判的なのだが、その一方で弾圧下で必死に生きォ延びようとしたカタリ派と引き比べて「日本にもカクレキリシタンというものフがあった」と語り、さらに禁教が終わってから天草に来て日本人信徒らのために生涯を捧げたガルニエ神父のエピソードを、これもまた好意的に持ち出している。ガルニエ神父はカトリックなんだけど、カトリックでも立派な人はいました、みたいな感じでそのへんはやけにさらっとパスしてしまうし、カタリ派とカクレキリシタンを「似ている」というならむしろ、明治の宣教師がカクレキリシタンの信仰をゆがんだものとして排斥し、その結果教会に復帰するよりカクレの信仰を守ることを選んだ人々がいたことも書かれていい。ガルニエ神父やド・ロ神父はまさか、異端審問官みたいにカクレの信仰を責めはしなかったろうけど、「正しいキリスト教を宣教する」のが彼らの立場で、当然ながら「自分が信じているそれこそが正しいキリスト教である」と思わなきゃやってられないんで、明治宣教師の献身に寛容の徳はあったのか否か。それは個人の資質の問題ではないでしょう。
 作中では歴史的な事件だけでなく、カトリックの教義の三位一体や十字架の贖罪といった概念も、軽く批判の対象になっていて、カタリ派の二元論や仮現説の方が納得出来るといった書き方をしている。カトリック=悪役の話ばかりでは気が退けて、ガルニエ神父を持ち出したのかな。どっちが善でどっちが悪か、みたいな話じゃないのはもちろんだけど、そこらへんはもう少し慎重に扱ってほしいテーマなんだけどなと思った。ま、宗教に興味がない(なくても赦される)日本人には、どうでもいいことかもしれないけどさ。

2010.01.07
 今年の仕事始めは、推理作家協会の会報に「近況」を書き送ったのと、本格ミステリ作家クラブの十周年記念本に短いエッセイみたいなのを書いたのだが、これはどっちもペイのある仕事とはいえないので、本格的に仕事といえるのは今日から始めた光文社ジャーロの新連載ゴシック・ロマンス。といってもこちらは6月なので、〆切は遙か先というわけで、のんびりと構想を立てられる。
 しかし今日の仕事は七草がゆを炊くこと、といっても、最近のガスコンロっておかゆ用のボタンなんてあるんですよ。水加減した鍋を載せて、あとはぽちっとそのボタンを押すだけ。買ってきた七草の、ちいちゃな大根と蕪だけ鍋にほりこんで、青みはさっと塩ゆでにして水にとって刻む。おかずはぶりの照り焼き柚の香りと、残り物のかまぼこだてまきです。

2010.01.05
 明けましておめでとうございます。本日から2010年の仕事始めです。
 昨年末はいつになく時間が空いて、仕事場を移してから手つかずのままだったクローゼットの奥を掃除して、いろいろ捨てまくりました。おかげで今年になってから「あれはどこへやった」と首をひねったりしています。
 正月は例によって、酒を飲み、本を読み、近場のハイキングでせっせと万歩計を動かす四日間でした。穏やかな晴れが続いたもので、見晴らしの良い山の頂上でサンドイッチとワインのランチをしたり、人工湖のほとりのベンチでコンビニのおむすびを食べながら文庫本に読みふけったり、金のかからない、まったりといい正月でありました。
 本は光文社文庫版の山田風太郎ミステリー傑作選を1から3までまとめ読みして、いまさらのように「すごい作家だなあ」と賛嘆しました。傑作選は全10巻なので、残りも早急に手に入れなくては。
 他に読んだ本は西村京太郎『七人の証人』(東京創元社『本格ミステリ フラッシュバック』に紹介されていた異色作)、久世光彦『謎の母』、柴田よしき『いつか響く足音』、石持浅海『君がいなくても平気』です。
 石持作品は例によって一筋縄ではいかない話で、主人公の男は恋人で同僚の女性が殺人犯に違いないと考え、「彼女が警察に捕まる前に別れないと、自分の社内での立場がなくなる」とそればかり心配し、しかしうまく別れられないままずるずる関係を続ける。恋人や配偶者が殺人犯では、という疑惑におののく主人公ってのは、本格ミステリよりもサスペンスものの定型のひとつで、まあそっちは女性が彼氏や夫を疑う方が多い。愛する人を疑いたくない、でも・・・という揺れる気持ちが読ませどころになるわけだが、こっちはとうてい感情移入できない嫌な男が主人公なので、こんなやつがどうなろうと知ったことか、としか思われず、サスペンスは生まれようがない。それに男が恋人を殺人犯だと決めつける、その推理もやけにお手軽で「ほんとかよー」という気持ちがずっとつきまとう。というわけで、一種のどんでん返しであるラストも含めて、なんだかな、という感じでした。この主人公に感情移入して、「うんうん、気持ちは分かる」といいながら読む読者、特に男性がいたら、かなりイヤ。