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2009.11.30
 いよいよ明日から師走。でも篠田は今年は余裕。『黎明の書』がやっと軌道に乗ってきた感じがあるので、これを書き上げてしまったら、ジャーロの来年の連載プランを立てようと思う。連載開始はずーっと先なのだが、この話は冬の北海道の予定なので、出来るだけ底冷えがするような雰囲気の間にプロットと、せめて最初の回くらいは書いてしまいたいのだよね。建築探偵のラストは、それから取りかかることになります。こっちは、話の中身はそれこそ心温まらないようなやばい状況だけど、季節的には冬ではないはずなので。
 〆切にきりきりしていないせいか、最近寒くなってきたわりには血圧もそんなに高くならないし、夜も6時間くらいは眠れていて、まずまず。わしたショップで買っている沖縄の薬草を入れたサプリメント、名前はちょいと怪しげな「グッスリン」というやつがもしかすると効いているのかもしれない。でもサプリなんてもともと、プラシーボ効果半分みたいなもんだからね。特定保健用食品の、高血圧にってのもいろいろ試したけど、効果はほとんど気のものって感じだし。高いから馬鹿馬鹿しいんで止めてしまって、リンゴ酢を毎日大さじ一杯水で割って飲んでます。まあ、毒にはなるまい。
 気のものといえば、今日本屋に行ったら誕生日の占い本みたいなものの新刊がぼんとあって、1冊で1年365日分なので、もちろん引いてみました。自分の誕生日11月15日。はっきり合わないなと思うことが3分の1、いくらか当たっているかなと思うことが4分の1、あとはどちらともいえないというようなもので、職業選択の中には「執筆関係」というのも入ってはいたけど、他のものもいっぱい書いてあったしね。あと、「恋人、友人」という項目にまた誕生日が並んでいて、一番最初が1月13日、ツレの誕生日だったのはちょいと嬉しかったけど、これもなにせたくさんの日付が並んでいる上に、他にも「運命を感じる人」とか「協力者」とかいった項目があって、そこにもたくさん日付が並んでる。曖昧なことをたくさん並べると、人はそこから自分に合致したものだけを記憶して「当たっている」と思う、というのがこの手のものの常套手段だよねー、と思って当然の如く立ち読みだけで済ませる、かわいくない篠田でありました。

2009.11.28
 遊んでいられない、などといいながら、今日も東京に出てしまう。週末は本当は人が多いから嫌なんだけど、ひとつ銀座でやっている個展らしいものが気になって、今日までだったので。谷中のギャラリーでもらったはがきが古い心霊写真みたいでなんだろうと思ったのだ。おまけにその画廊のある建物が銀座一丁目の奥野ビルという、よくぞ残っていました、昭和七年建造の、元銀座アパートメント。3年前に藤森建築探偵が雑誌銀座百点に紹介していたから、うろ覚えな記憶があったのだが、今その雑誌を取り出してみるとずいぶん印象が違う。増田さんの撮った写真だときれいなのに、いまや相当ぼろい。廃墟か魔窟かといいたいような。しかしその奥の壁だけは真っ白に塗り直したうつろな部屋に、アンティークのフレームにビクトリア朝ころの写真と現代の風景写真を二重焼きにしたものを収めて、ガラス火屋のランプで照らすという不思議な展示が、とてもマッチしていたことは事実。売られていた小さな写真集も購入。これまたお話を作りたいような、きれいできれいで怖い写真で、なんていうかぞくぞくしました。
 読了本「女装と男装」の文化史 佐伯順子 講談社選書メチエ 古事記、能から映画、少女マンガまで、表現された「女装と男装」を概観する。掘り下げは無しでざーっと概観しましたって感じ。ふーん、だからそれで? という感じはあるけど、まあそれなりに面白く読む。
 「オペラ・シリーズ」 栗原ちひろ 角川ビーンズ文庫 異世界ファンタジーのシリーズ全8冊。ひさびさに楽しめました。最初はライトノベルファンタジーの定型まんまかなあと思ってたけど、ちゃんと世界観があって、大きな物語をまず破綻無く回収しているし。あちこち微妙に焦点が合ってないというか、ぼかさずにもっとはっきりくっきり書いた方がいいのにー、と思うところもあったけど、まあ、そこはそれ。好きなせりふがあったしね。「きっと俺は、お前に殺されるのは嫌じゃない。でも、俺のこと殺した後のお前が心配だ。だから、殺さないでくれ。がんばって生きて帰ってくるから」

2009.11.27
 『黎明の書』を書き継ぐというか、書いたところを直してます。話の〆だっちゅーのに、うまく物語がかみ合わなくて。書きたいことはあるのに、テンション上げないとたらたらっとしてしまうんですね。

2009.11.25
 友人で評論家で最近ピンホール写真に凝っているナミオカヒサコさんと、上野の国際子ども図書館に行く。ピンホール写真というのは、このデジカメ全盛の時代にきっぱり逆行しているところがとても面白い。露光時間が長いから三脚は必至だが、本体はお菓子の空き箱にガムテープと輪ゴム、三脚へのジョイントはかまぼこの板というのが泣かせるぜ。しかし不動のものしか写らない、その上トイカメラのようにほんやりとした映像は、なにやら永遠の相を帯びて神秘的ですらある。この写真に掌編小説を組み合わせて本を作らせてやろう、というような、奇特な編集者はおられませんかね。当然ホラーか幻想小説ですな。まあ、小説の書き手は篠田よりもっと著名な方でないと、商売にはならないかもしれませんが。

 読了本『花の棺』 山村美紗 文春文庫 ミステリの女王の第2長編にして出世作。この前に読んだキャサリンのシリーズは、いくらなんでもかすかすでちょい苦しかったのだが、さすがにこれはそういうことはない。茶室の密室のトリックは、一応知っていたんで、どういう見せ方をするのかなという興味で読んだけど、うーん、ごめん。やはりこの作者は趣味ではないみたいだ。小説部分が通俗すぎて、なんかげんなりしてしまうんであります。好みが柔軟性を失って守備範囲が狭くなるのも、精神の老化かなあとは思うのだが、いよいよ頑固ババアの道をひた走りつつあるような。

2009.11.24
 読了本『脳と性と能力』 カトリーヌ・ヴィダル他 集英社新書 11/20の読了本『関係する女 所有する男』に出てきた本。男と女の脳はこれくらい違っています、男女の性差は脳によって決まります、というのは間違いである、人間の脳は極めて可塑的な、学習脳能力の高いもので、性差よりも個人差が大きい。つまり社会的に形成される部分が大きい、と。男だから空間把握能力に秀でているとか、女だからどうこうとかいうのは、何の科学的な裏付けもないと考えていいそうだ。

2009.11.22
 どうもこう寒くて天気が悪いと、家に引きこもってしまう。その割に仕事は進まない。ダメじゃん、自分。ブックオフでポプラ社版南洋一郎訳の旧版怪盗ルパン全集を探すついでに、山村美沙や赤川次郎のミステリ文庫を、105円コーナーであさって、ちらちらと読んでいる。それで思うこと。いまのミステリは、普通の読者が楽しみに手にするものにしては、ちょいと小難しくなりすぎたんじゃないかしらね。ほとんどサザエさんのような三毛猫ホームズや、2時間ドラマそのものの山村ミステリ。だけど堅気の人間が、仕事の合間に手にとって時間をつぶして、「ああおもしろかった」といって読み捨てておしまい、ならそれでいいというか、それ以上は過剰だというか。しかしそれならおまえ、サザエさんが書けるのか、といわれたら、すみませんというしかない。気質的にもね、自分にはそういう偉大なマンネリズムの道を進むだけの根性はないだろうと思う。だからまあ、自分の本がそんなにというか、ますますというか、数売れなくてもそれは仕方ないのかもしれないなあ、なんて、天気が悪い日の物思いは、どうしてもダークなものになっちまいます。

2009.11.20
 池袋の本屋に出かけたついでに新規開店のブックオフを覗くと、すごい盛況でバーゲン会場みたい。読書をしたいという人はつまりそれだけいるけれど、新刊書の値段は出せない、少しでも安い方がいい、ということなのだろうか。

 『ルー・ガルー』 京極夏彦 講談社ノベルス アニメを文字にしたみたい、と思うのは篠田がおばさんだからなのだろうが、おばさんであることは事実なんで、別に隠そうとは思いませんです。つまらなくはなかったけど、結局「犯人は誰で動機は何」という謎もさほど新鮮なものではないし、こんなに長い必要があるんだろうか、と思ってしまった。主人公たちの構成は戦隊ものをそのまま思わせる。5人の中に男の子が四人、女の子がひとり、というのが、全員女の子で毛色の変わったのがひとり、という形にアレンジされている。で、その毛色の変わり加減が、「不法残留の中国人少女」だという。男に対して女が劣位のジェンダーと意識された、それが「差別を受けるアジア人」に横滑りされている、と思うのはうがちすぎ?
『関係する女 所有する男』 斎藤環 講談社現代新書 オタク文化における男女の位相の差を敷衍すると、「女は関係に欲情し、男は所有を志向する」というのはなるほどね、と思う。それ以上の一般論の部分になると「ほらねえ、思い当たるでしょう」と目配せされても、あんまりぴんと来ないことが多い。でもそれはこの本の論が的はずれだからというより、篠田が女の一般性から逸脱している部分が多いからなんでしょう。性差が生物学的に決定されているという論議がほとんどトンデモの疑似科学だというのは、我が意を得たり。「女が強くなった」という言説がまかりとおる社会は、決して男女平等なんかじゃない、というのもその通りだと思う。今日の新聞にも大正生まれのなんとかいう評論家が「草食男子などと情けない」なんて悲憤慷慨していた。いいからさっさと逝ねや、老害。

2009.11.17
 終日雨降り。角川の再校ゲラを読み続ける。再校といっても、初校げらがあまりに山のような鉛筆の指摘を入れられて、こちらも山のような直しをして、ぐっちゃぐちゃになってしまったので、2度目の校閲が入る前の白いゲラを貰ってある。直し漏らしもいくつか発見し、さらに新しい訂正も入れ、次は校閲の指摘を待って、最終的には三度目のゲラも貰わねばなるまい。行ったり来たりが物書きのお仕事。
 この季節になると「年賀欠礼」のはがきが舞い込む。小学校の恩師が81歳の奥様に先立たれたというはがきにため息をつき、今日はまた46歳の奥様を亡くされた方からの。老いても、若くても、人の死は悲しい。いや、逝かれて残る者の気持ちを思うと悲しい。自分が逝くことは、苦しくさえなければ別にいいんだけどね。

 明日明後日他出につき、日記の更新は金曜になります。

2009.11.16
 昨日はツレが忙しいので、誕生日ディナーを自作。といっても彼の帰りが遅いというので、簡単に作れる豚ロースのハーブ・ソテー、添えるバジル・ソースはベランダのバジルの葉を全部摘んで。あとは前菜として出来合いの鶏レバー薫製と生ハムモツァレラに、緑の葉とタコのサラダを添え、ケーキは自作のタルト・タタン。カロリーを考慮して生クリームは抜きにしました。
 今日は活字倶楽部の年頭アンケートをまず書く。気に入った本の紹介という設問があるのがここの独自性で、今回は理論社のM森さんに教えてもらった新潮クレスト・ブックの『時のかさなり』一冊にして、やや文字数多めに真面目な紹介文を書く。翻訳物までは手が回らなくて、教えてもらえないとなかなか読めない。あとは角川の再校を取り敢えず校閲の入っていない状態でもらったので、ぼちぼち読み出す。するとまたいくらでも、訂正したい点が出てくる。我ながら手際が悪い。
 読了本 『武家屋敷の殺人』 小島正樹 講談社ノベルス つまらなくはない。しかしなぜか魅力的でない。世界にしろ、登場人物にしろ、謎にしろ、ぐっと惹きつけられるものが感じられないというのは、単に自分の嗜好とずれるからなんだろうか。どうもよくわからない。逆に、ここをもっとこうすればいいのに、というところもよくわからないのだ。これはこれでちゃんと書けている、とは思うから。ただひとつ、タイトルはもうちょい工夫したらどうだろうか。
 『ねずみ石』 大崎梢 光文社 物語の舞台となる地方の村の描写、祭りの設定、雰囲気、そういうものは非常に魅力的に、生き生きと書けている。四年前の祭りの晩に起きた村では前代未聞の残虐な殺人事件が、未解決のまま抜けないトゲのように残されていて、祭りの賑わいの背後から黒いものが浮上してくる、という設定もいいと思う。ただ、なんで去年や一昨年でなく今年にそれが起こるのか、というのがぴんと来ない。事件の晩になにかに遭遇したらしいのに記憶を失った中学一年生の少年が視点人物なので、警察や村の大人たちの動きも全然把握しきれない、つまりは小説の中に表現されない情報がとても多いからだろう。そしてこの男の子がキャラとしての統一感を欠いている。事件について問いただされるのが嫌だ、といっていたわりに、いつの間にか大人の制止を振り切って探偵紛いのことをし始めるのは、そうじゃないと話が進まないから、つまり作者の都合。そういうことをすると小説世界がゆがむ。それともうひとつ、主人公とその友人、村の憧れの先輩、三人の関係がやたらべたついていて変。ボーイズラブをやりたかったのか? 世界にそぐわないし、はっきりいってキモチガワルイ。
 『女相続人連続殺人事件』 山村美紗 角川文庫 フクさんというハンドルで書評サイトを運営する方のページで、ちょっと面白そうに書かれていた本が105円だったので、買ってみました。いやあ驚いた。テレビの2時間ドラマをそのまま小説にしたような。とにかく描写ゼロ、説明と筋書きのみ。キャラは画用紙に線で書いて、「日本風美人」「モダンな美人」「ハンサムなインテリ」とか書いた紙人形みたい。探偵役の金髪美女は、「また人が死ぬのかしら。ユーウツだわ」などとほざく。人間性などという余分なものは持ち合わせない。これで一応作品にはなっているんだから、ミステリは小説じゃないというか、小説じゃないミステリというのも存在しうるのだ、というしかない。文字で読むより映像向けですね。でも、そういうものだと思えばそれなり。商品価値はあると思う。

2009.11.14
 神戸女学院に見学に行った余波で、なんとなくぼやんと「女子校物もいいよな〜」などと思い、しかしいざとなるとまるで手がかりがない。ずーっと共学だったもんね。それで「なんかそういう関係の本はなかったかな」と書棚を探して、取り出したのが綾辻行人『緋色の囁き』と竹本健治『緑衣の牙』。再読女子校ミステリ2レンチャン。そしてうーん、とさらに首をひねる。やっぱ女子校っつーと、外界から隔離されたキャンパスで、洋館風の学生寮に抑圧を引きずった美少女たちで、ネタは魔女か百合でありますか。つまりそのへんを不用意に出すと、二番煎じ三番煎じにしかならないっつーことね。しかしなあ、女子校に縁がなくて実感がないというのは、男性作家も篠田も全然変わらんのだよ。こりゃ、着手するまでもなくまぼろしに終わるかのう。そうか。もうひとつ書棚に女子校ミステリがありました。皆川博子先生の『倒立する塔の殺人』。しかしこれを読むといよいよ、「いまさらおまえがなにすんの」ってな気分になってしまいそう。
 全然話は違うが、明日は篠田の誕生日。56歳になります。ひえっ。

2009.11.12
 神戸女学院を撮影した写真が上がってきたので、例によってスクラップ式で整理する。データを送ってメール便で戻ってきて、なんとたったの1枚6円である。これでは街の写真屋さんはたまりませんね。ついこないだまでは普通にどこでも売っていたフィルムがほとんど見かけなくなって、ヨドバシのような大型店でも売り場の片隅にちらりとあるだけだし、その変化たるや覚えていられないくらい早い。愛用のカメラはカールツァイスレンズのミノルタTC1だったのでありますが・・・
 それになにより、撮った写真を紙焼きしてアルバムに貼る人がいまどれくらいいるのか、とも。人にあげるんだってデータで送ってしまうし、あとはケータイに入れておくとか、家庭でもデジタル・フォトフレームとか。しかし篠田は古い人間でありまして、取材のために撮った写真はパンフレットやなんかとまとめて残しておかないとどうもキモチガワルイ。いますぐ使う予定がなければなおさら、そうやって整理しておかないと、と思ってしまうんである。でも今回は仕事が暇な分、すぐ整理する時間が持てて良かったよ。

2009.11.11
 昨日は横浜の神奈川近代文学館に、大乱歩展を見に行ってきた。実のところ乱歩にはあんまり思い入れはない。でもまあ、まかりなりにもミステリを書いてご飯を食べている身としては、推理作家協会の創設者のひとりでもあることだし、無関係とは言えませんねというわけで。乱歩は希代の記録魔で、自分に関するスクラップや記録を整理して保存することに飽きなかったみたいで、学芸員の人も展示のやりがいがあるんだろうなとつくづく思う。絵心もあって、自分が幼少から住んだ家の平面図なんかも全部書いている。支那そばの屋台を引いていた時のイラストとかとても上手い。戦後の少年探偵団もので人気を博していた時代、原稿が遅れてイラストレーターが困るので、「こういう絵を描いて下さい」という指定をする。それがめちゃめちゃ細かくて、その場の登場人物たちの立ち位置を平面図の形で書いたりして、ここまで指定されると絵描きさんもやりにくかったろうなあ。
 展示を見るだけで2時間かかってしまい、それから中華街に出て昼を食べて、リニューアル・オープンした氷川丸を見る。一等の客室や特別室、サロンや喫煙室など、アールデコの装飾が美しく、豪華客船の面影がよみがえっていて嬉しかった。
 今日は龍ヴェネツィア編の文庫ゲラに再度目を通す。明日返送しよう。
 読了本『白州次郎 占領を背負った男』 北康利 講談社文庫 興味深い人物だとは思うものの、なんか妙に浅薄な印象のあるノンフィクションだった。
 『狂気と王権』 井上章一 紀伊國屋書店 要約が難しい。天皇制と精神の病、菊タブーを覆い隠すために使われる「病気」。文庫にはならない本ってわけなんだろうなあ。2・26のときに秩父宮を擁立する可能性というのがあったこととか、明治憲法はバイエルンの憲法を参照して作られたとか、その伊藤博文がヨーロッパで買い求めたステッキ仕込みの銃が虎ノ門事件という、後の昭和天皇裕仁が皇太子時代に遭遇した発砲事件で使われたとか、いろいろ興味深い話題も登場する。憲法といえば『白州次郎』も憲法を巡る部分が大きな比重を占めるんだが、こちとら日教組全盛の時代に教育を受けて、昭和憲法のすばらしさを繰り返し教えられた世代だから、それがGHQから押しつけられたお粗末なシロモノだと言われると、どうも気分が悪い。そのわりにちゃんと知っているわけでもないんだけどさ。

2009.11.09
 夕飯用のパンを焼きながら、昨日し残した手紙を書き、アンケートのゲラに手を入れて返送の用意をし、コンビニへメール便を出しに行ってから、戻って龍ヴェネツィア編の文庫ゲラを見る。取り敢えず鉛筆の指摘のあるところだけを全部チェック。今回の解説は井上雅彦さんにお願いした。短編小説をほとんど書いたことがなかった篠田に、彼が当時廣済堂から刊行が始まった「異形コレクション」の依頼をくれたのは、あれはもうとっくになくなった秋葉原の耽美っぽい古本屋ギャラリーで、中井英夫を偲ぶ会、みたいなのがあったときのこと。一度も中井さんとは会ったことがなかったのに、なぜかお座敷がかかって舞台の上で他の人たちと並んだ。宇山さんが隣にいた。
 私は何せ話すべき中井さんの思い出など何もないので、宇山さんが初めて電話をくれた時の話をした。1992年の12月のことだ。第二回鮎川賞の最終候補に残った作品がたった1冊世に出ただけの人間に、講談社の、それも名の知られた編集者が電話をくれるという、それがどれだけ大変なことかも、全然気がつかないままで、ただぼおーっと会う約束をした。ところが電話はそれだけでは終わらず、「ミステリならなにがお好きですか」と尋ねられて、ろくにミステリの素養がなかった篠田は「『虚無への供物』です」「どの版で読みました」「講談社文庫です」「あれはぼくが作りました」そういった宇山さんの声の誇らかであったこと。
 その話を偲ぶ会ですると、隣から宇山さんが「恥ずかしいねえ」と笑った。私はきっと死ぬまで、ぼけて他のことはなにもわからなくなっても、ひとつ話のようにこのことを繰り返すに違いない。無論そのときには中井さんの名も宇山さんの名も、篠田真由美という小説家がかつていたことも知らないだろう、誰かに向かって。

 読了本『秘密』第七巻 清水玲子 白泉社 死者の脳を機械に掛けて、その記憶を読み取れるようになった近未来社会を舞台に、その捜査に携わる主人公らの活躍を描くサスペンス・ミステリ。根本的な設定以外、近未来らしさは特にない。しばらく猟奇殺人鬼ばかりが跋扈する物語が続いて、ちょっとげんなりさせられたのだが、今回は少し趣向が違う。どう違うかはばらしてしまうと興味をそぐから、前からの読者は読んだ方がいいよとだけはいっておこう。ひねったプロットと先の読めない展開、皮肉なラストまで続く緊張感。ただ死者の記憶を探るという特異な設定は、少し縮小した感じがある。

2009.11.08
 なんだか一日ばたばたと過ぎてしまった。昼に乳ガンの検診予定があるので、それまでに片づけものやなんやらをしていたのだが、AMAZONに頼んだ洋書が届いたものの、「この本を買った人はこっちの本も買っています」というお勧め文句に、それでは、と思ってもう一冊注文した写真集が、装幀は違うが中身はまるで同じということが判り、あわてて返品の手続きをする。そのとき集荷がきてくれるというのでその依頼も出したところ、うっかりして集荷日を今日にしてしまい、あわてて明日に変更する。それからあわてて昼飯を掻き込んで、保健センターへ。ま、これは歩いて10分程度なのでまあよかったけど、なんだかんだで一時間以上かかり、脱いだり着たりマンモグラフィーで痛い思いをしたりで、ぐんにゃりとくたびれる。仕事する気にもなれずに、撮ってきた写真をプリンタではがきにしたりしていたら、アマゾンの集荷が来た。日は変更したのになあと思いながら本は渡したんだが、明日また来ないだろうな、などと変なことが気になる。ああ、空回りっぽくくたびれた。
 読了本『Another』 綾辻行人 角川書店 綾辻ホラーといってもスプラッタにはならないので、そういうのが苦手な人も安心して読めます。作品内特殊ルールが提示されて、それに依拠して物語が転がり、意外な結末に至るので、印象はむしろ本格ミステリです。ただしそのルールはスーパーナチュラルです。学校という心理的に閉ざされた空間を舞台にしたことが作品を成功させています。ヒロインが魅力的なのに、一人称の語り手になる少年がいまいちなのが残念です。まあ、ホラーの一人称語り手というのは、無力なくせに常に迷ったときは悪い方の選択肢を選ぶというのが通例で、そういうキャラが同時に魅力的であるというのは、難しいんだろうなあとは思いますけれど。

2009.11.07
 自費取材から無事帰宅。5日は関西の名門(たぶん。よくは知らない)女子大へ、ヴォーリズの建築を見学に訪れた後、梅田近辺の古書店カフェ「アラビク」を訪れる。店名の由来はいわずと知れた『虚無への供物』だろうが、こちらは古い町屋を改装したレトロ感あふれる店。残念ながら美貌のオキミちゃんはいないんであります。泊まりは梅田のホテルだったので、夜は道頓堀まで出て関東では食べられないビーフカツレツを食し、たこ焼きを持ち帰ってビール。翌朝はやたらと品数の多いビュッフェの朝飯にびっくり。たこ焼きにうどん、そば、カレーまであるんっすよ。チェックアウトして京都。前から行ってみたかったセレクトショップ風の書店恵文社一乗寺店から、これも前から行きたかった吉田山山頂の喫茶茂庵でランチ、錦で三木鶏卵のだし巻き卵などを購入、イノダ本店でコーヒーを一杯飲んで、帰り道の三条通で蜂蜜屋と遭遇。カボチャと柿という珍しい蜂蜜を買いました。最後に鯖寿司と漬け物を買って帰宅。秋の京都に行っても寺ひとつ詣でるでなし。いいんだ、U山さんの墓参りにはちゃんと行ったし。
 今日は洗濯と荷物片づけと、久しぶりにカンパーニュをひとつ焼いて、『緑金書房』最終回の再校ゲラをチェック。ああ、我ながら勤勉だ、と自画自賛しておこうっと。

2009.11.03
 90パーセントなんていったのに、まだ終わらない。読み返すとぼろぼろ気になるところが出てきてしまっていやになる。明日の夜から関西に自費取材で出かけるので、それまでに終わらさないとならないのに。それなのに今日はツレに誘われて、自衛隊入間基地の航空祭というのに飛行機見物に行ってきてしまった。空が青々と澄んでいたので、そこを飛ぶ飛行機は確かに美しかったであります。
 というわけで日記はお休みになります。11/6には戻るけど、日記はその日に書くかどうか不明。

2009.11.02
 角川の書き下ろし、初校ゲラのチェックと直しが90パーセント終わった。プリントアウトをもう一度チェックしているので、それが済んで返送すれば100パーセント。もちろん再校もあるので、まだ終わったわけではない。角川で書き下ろしをするのを初めてで、校閲チェックの細かさには正直いらいらしたり頭が痛くなったりしたが、それは通らねばならない関門と諦める。タイトルはいろいろ迷ったあげく、『閉ざされて』という、いままでの篠田にはなかった、フェミニンな雰囲気のものになりました。中身がそう極端に違うわけではないが。
 で、その作品にちょいとばかり関係があって、三島由紀夫の戯曲『癩王のテラス』を再読して、いささかならず複雑な感慨を持たずにはおれなかった。この戯曲は三島が1969年に発表し、同年帝国劇場で上演された、カンボジアの伝説に基づく詩的な劇である。若く美しい英雄的な王が、敵に勝って凱旋し、アンコールの都に新しい寺院を築こうと決めるが、彼は不治の病にかかり、寺院の工事の進捗に反比例して病勢は募る。その病気が現代で言うハンセン病なわけ。実際アンコール帝国の王に、この病気にかかった王様がいたらしいのだね。
 ただこの劇の中で、病気は文字通りのリアルなハンセン病ではない。生きることは老いること、死に向かって肉体が朽ちていくこと、そのたとえなわけ。三島の死を単純化することはできないけれど、そこに老化によって自分が醜く弱くなっていくことへの逃れがたい恐怖があったことは間違いない。で、王が病で肉体ごと滅んでいく代わりに、彼の建てさせたバイヨン寺院は誇らかにそびえ立つ。三島は「『豊饒の海』こそ私のバイヨンだった」と語ったそうだ。彼は自分の負った病=老化に抗するべく、言葉を積み上げて記念碑を建てたわけ。
 劇のクライマックスでは、病んだ王の精神と、建てられたバイヨン、つまり朽ちざる芸術が対比され、精神は病に犯されて死ぬが芸術は不滅を歌う。つまりこの戯曲は三島の生涯、思想を考えるのに、非常に重要な意味を持っている。にもかかわらずおそらくこの戯曲は二度と上演されることはないし、全集以外の形で刊行されることもないだろう。なぜってその病気の名前が差別語になるから。病名だけじゃなくて、その病気そのものについても、現実よりは恐ろしく無惨なものとして描写されているから。それは決して差別的な意味ではなく、老いて死ぬことの恐ろしさ、無惨さの詩的な換喩なわけだけど、現代ではそれは許されない。
 芸術よりも人権が大事なんだから、そんなのは当たり前でしょうといわれれば、「はい、おっしゃるとおりです」というしかないんだけどね。

2009.11.01
 今月最初の日記は本の紹介から。国書刊行会の『日本幻想作家事典』 「古典から現代まで幻想文学の全体像を提示した初めての大事典」というわけで、千頁を超す大部。定価は7600円プラス税で、普通の読者が買われるべきものではないが、ぜひ行きつけの地域の図書館や、学生さんは学校の図書館に「購入希望」を出していただきたい。この手のリファレンスブックとしては安いので、希望が通る可能性は高いからひとつよろしく。で、そんなに手に取る人は多くないだろうから、時間のある時にゆっくりめくってみて下さい。事典の楽しみは、その1、ご存じの名前を引いてみて、どんなことが書かれているか読んでみる。広義の「幻想」に属する小説を書いている人は、ミステリ作家もボーイズラブ作家も網羅していますので、ごひいき作家の知らない作品を発見する楽しみもありますね。篠田も一応載っております。その2、なにげなく適当にページをめくってみる。アイウエオ順ということは、京極夏彦の少し先に曲亭馬琴が出てくるというように、思いがけない項目の不意打ちに遭うということ。篠田は仕事の合間にちらちら拾い読みをしたりして楽しんでおります。その3、おまけもあるよ。怪奇幻想漫画家事典と、怪奇幻想映像小史、こちらは実写からアニメまで。説明写真やイラストは一切ないので、イマジネーションを働かせて楽しんで下さい。