昨日は 上野の国立博物館。日本美術の巨匠対決、というちょっと変わったコンセプトの展覧会だった。基本的に見たかったのは円山応挙と長沢芦雪の「虎対決」で、後者は完全に猫なんだが、非常に目力のある猫で、ポーズや体型はデフォルメされてかっこいい。応挙はすごい細密描写で毛並みの表現がすさまじいが、顔は虎でも猫でもなく化け物。しかしここまで描かれると文句のつけようがない。アートである。でも通しで眺めていると「日本人って昔からマンガを描いていたんだなあ」と思ってしまった。
今日はちょっと緊急事態があって、朝の五時からたたき起こされてしまったので、こんな時間に仕事場にいてぼけている。
7月24日
ブックオフを回って 二月に一度の婦人科の医者と、週に一度のジムを同じ日にしてしまって、その間の空いた時間で今日は要町のブックオフに。辻真先先生の本を探し求めて。で、恐ろしいことにどこへ行っても、必ず先生の本はある。持ってない本がほぼ確実にある。手荷物がずっしり重くなるくらいあるんである。今日は架空戦記ものと、伝奇ロマンまで見つけてしまった。もちろん古い本や単行本ほど見つからないわけだけど、探してもない、になるにはまだだいぶ時間がかかりそうだ。あっ。念のためだが、新刊書店にあるものは古本屋で買ってはおりませんよ。先生の本はいまほとんどが古本屋にしかないんであります。
7月23日
仕事はお休み こう暑い季節というのは、東京に出かけたり、掃除や洗濯をしたり、特別力仕事をしなくてもそんな程度で体力を使ってしまうというか、「ああくたびれた」になってしまうらしい。というわけで、今日はツレの退院からその他諸々で一日暮れました。いい加減、地球に優しくなくてもクーラーかけて、頭を冷たくして働かないとお尻に火がついてしまいます。
7月22日
退院 入院していたツレが明日戻ってくる。不在の間は仕事漬け、の予定だったのだが、全然そうはならなかった。やっぱり生活の基盤が狂っていると、どうも落ち着かないものらしい。まあ、そういうことにしておこう。
7月21日
小説というもの 今日は仕事もしなかったわけではないが、資料ではない小説の本を二冊読んだ。で、いまさらのように「小説というもの」について考えた。
一冊はこないだ古本屋で見つけた現在品切れ中のジョナサン・キャロル『犬博物館の外で』、英国幻想文学大賞最優秀長編賞というのを受賞している。タイトルがけったいなせいで、日本では売れなかったんじゃないかと思うのだが、とても面白い。困ったことにキャロルの小説というのは、ジャンルがなにだとすぱっと割り切れるわけではなく、超自然的なことも起きるけど、ファンタジーということばから想像されるような「定型」とはまるで無縁だし、ぞっとするところもあるけど「ホラー」の定型とも無縁。ディテールは豊かで生彩にとみ、深読みをそそる部分もあって一種の宗教的な寓話じゃないかという気にもさせるけど、なにしろ面白いエンタメ小説でもあるのだ。
もう一冊は出版社から送られてきた本で『遠海事件』詠坂雄二 光文社 つまらなくはなかったけど・・・まあミステリです。意外な真相に他の部分がすべて奉仕している、という意味で紛れもなくミステリ。で、そういう小説は最近あんまり好きでなくなったというか、少なくとも自分で書きたいタイプの小説ではないな、贅肉のない本格ミステリより、豊かな無駄がたっぷりついた小説を自分は書きたいのだなと思った次第。
7月20日
少し涼しい 昨日の夜はエアコン無しで眠れた。今日は出かけなかったので、午前中はエアコンをつけていたが、午後からは曇って風も出てきたので、エアコン止めてお仕事。といってもパソコンを打つときには機械の熱があるから、空調抜きではたぶん無理だが、いまはまだメモを作っている状態だから。だいぶ形になってきたな、というところではあるのだが、まだ「よしっ、行くぞっっ」というところまでは来ない。まあ、ここにきて自分最長のシリーズを閉幕することに、ちょっとためらいを覚えているんですかね。いや、そういう感傷は、とにかく満足のいく形で終わらせてから感じればいいんだとは思うものの。
7月19日
辻真先祭り続行中 昨日も暑くてちゃんと寝られなかった。と思いながら昼寝はしないんだから、実は寝ているのか、自分。寝ているなら寝た記憶があってもよかろうに。
朝からてかてか暑い。なにせ寝ている部屋が東向きなので、絶対に寝坊は出来ないのだ。冬はぬくくていいのだが、夏もぬくいのである。しょうがないから朝からエアコンつけて、建築探偵のメモ作りをする。
11時近くなって、日よけ帽に長袖リュックで出陣。ネットで調べた最寄りの一番大きなブックオフへ。辻真先本を探して。で、持ってないやつ買い占める。でもほとんどが105円だから、お金は申し訳ないくらいかからない。いくら買っても辻先生には1円も入らないというのが申し訳ないが、せめて目に付く本はすべて買い占めてやる。
7月18日
古本屋 雨が結構降ったので、少しは涼しくなるかと思ったら、どうも駄目そうである。昨日から寝るときエアコンをつけたのだが、ベッドの位置が冷気が直に当たってしまうし、音も気になってあんまり良くない。しかしこれから秋までは、ほぼこういう毎日なのだなといまからげんなりする。
今日も病院なので、面会時間に合わせて、電車を待つ間スタバでプロットをやる。なんとなく感触はいい。だが問題は、物語の開幕が12月なのだ。この気候の中で12月の話を書くというのは、これがなかなか難しい。いや、物語が動き出せばどうにかなるはずなんだがね。やはりスタート時というのは、それなりに・・・
病院の帰り道に、雨も止んでいたのでその近くの古本屋を覗く。文庫主体リサイクル系の新しい本屋だが、文庫でここのところの探求本を2冊拾った。一冊はジョナサン・キャロル。東京創元社が品切れ放置にしているうちの一冊で『犬博物館の外で』。タイトルが珍妙だが、中身もそれに劣らず珍妙らしい。傷みがあるが105円の箱の中に転がっていた。もう一冊はこれも同じく東京創元社の『チャーリー退場』。前者は、キャロルの本は一応全部押さえておこうと遅まきながら思ったから。立て続けに読んでいると、濃すぎてちょっと辟易してしまうんだけど、たまに読むとその小説のうまさにぞくぞくするんだなあ。死んじゃった浅羽莢子さんの名訳だってのも、あるしさ。後者はシェークスピアの「マクベス」と絡んでいるというので、食指が動いた。芝居がらみのミステリ、好きなんです。それと北村薫氏が著書の中で絶賛していたので、ずっと探していたのだ。篠田は本格ミステリ、それも翻訳物についてはまったく不勉強なので、ブックガイドや読み巧者のエッセイを折に触れて開いては、自分向きに感じる本は手帳にタイトルを記して探すことにしている。しかし新刊書店では見つからない本がとても多い。創元、いい本を出してくれるのは嬉しいが、そうぱかぱか品切れにするんじゃないよ。古本屋と結託してるんじゃないか、と変な勘ぐりをしたくなるぜ。
7月17日
隣の芝生 隣の芝生は青い、ということわざがある。正確に意味をとるなら「隣の芝生は青く見える」というべきだろう。言い換えれば「人のものはよく見えるけど、実はそうたいしたことはないんだから、妬むまでのことは要らないよ」という世間知である。しかし現在、この世間知が通用しなくなってきている気がするのだ。その理由のひとつはインターネット。つまり昔なら自分の目に映る範囲が「隣」で、そのへんだけを気にして「あっ。チクショー、いいなあ」「でもまあ隣の芝生だよ」と思っていれば良かったのが、いまはネットのおかげで世界中が「お隣」だ。誰もが自分の手の内をさらけ出して「見て見て」とやっている。なんだか楽しそうだ。うらやましい。負の体験をしている人も、その体験をつづればレスをつけてくれる人がたくさん寄ってきて、楽しそうに盛り上がっている。つまりうらやましがるべき「隣」が拡大したおかげで、芝生は青いだけじゃない、千差万別でパーティはあちこちでやっていて、自分だけがのけ者にされているような疎外感を覚えてしまう。
そう、結局私はまだあの、秋葉原の通り魔大量殺人の犯人のことを考えているのだ。現実で居場所を見つけられなかった彼は、せめてケータイサイトの中でパーティを開きたかった。みんなが自分の周りに集まってきてくれて、わいわいと楽しく盛り上がれる場が欲しかった。でも彼はそのために努力する、ということもしたくなかった。そのへんがいけない、間違っている、ネットの世界でも人を集めたかったら、それなりに書き込みに工夫を凝らすべきだったのだ、と人はいう。読んで面白いことを書けば、人は来てくれる。その努力すら怠って破滅の道を走ったのが愚かなのだと。それはわかる。正論だ。自分の芝生が青くないと思ったら、青くする工夫をするべきだったのだ。手入れもしないでなげやりに放置したまま「なんでぼくのところにはお客がこないの」とふてくされていてもしょうがないだろうと。
彼は怠惰だったのか。無能だったのか。認識が甘かったのか。うぬぼれ屋だったのか。そのどれもだったかも知れない。でもひとつ、彼は「努力すれば報われる」と信じられなかったのだろうと思う。成功は努力によって得られるものではない。それは本当の成功ではない。ありのままの自分がそのまま受け入れられ、賞賛されるのでなくては、自分の欲しいものを得られたことにはならない。どこかで彼はそんなふうに思いこんでしまったのではないだろうか。だって他の人は、努力なんかしていないようにしか見えないから。
いつから努力はかっこわるいものになってしまったんだろう。「無理をせず」「楽しんで」「自分らしくあればいい」・・・努力が賞賛されている時代に、アンチとしてこういうことには意味があった。でもいつのまにか、世間の価値観が逆転している気がする。そして、見るつもりが無くても見えてしまうネットの視野によって膨張された「隣」。でもネットの情報は限定的なものだからね、本当のお隣なら当然伝わってくるもろもろは全部カットされて、アップされた写真とコメントが見えるくらいのものなんだから。それに寄りかかっていると、いつの間にか見失ってしまうものがあると思う。
なんだかまとまりがつかなくなってきたので、今日はこの辺で。
7月16日
う・る・さ・い 仕事場のマンションに隣接した敷地で家を建てていて、ずーっとドンドンドンドンとうるさいったらない。それでもクーラーはつけずに頑張っている。湿度はけっこう高いが、気温はまだ耐えられるくらい何だけど、うるささに耐えかねている。うーっ。
今日は早起きして上野、ものすごく久しぶりに国立科学博物館に行って来た。仕事に少し関係がある。といってそのへんを細かく書くとネタバレになるから止めておく。
7月15日
北斗学園につきまして 理論社ミステリーYA! で展開中の北斗学園七不思議シリーズについては、以前からミステリーYA!の公式サイト上にページを作ってもらっていましたが、今回そこに書き下ろしのオリジナル・コンテンツとして、「北斗学園壁新聞」を掲載することとなりました。どのくらいのペースで更新できるかは、いまちょっとわからんのですが、以前はお返事用のペーパーに載せていた「キャラ同士の会話」とか、読者のためのお楽しみという感じです。
下記アドレスから行けますが、他にもいろいろ興味深い連載コンテンツがありますので、ぜひお訪ねになってみてください。よろしくっ。
7月14日
国会図書館 7時に飛び起きて支度する。目は覚めないのに、ちゃんと眠れてないのか頭が微妙に痛い。あわてて出ていったらスイカを忘れた。池袋でパスモを買ってしまう。こういうときは、ただのプリペイカードが無くなったというのが不便な気がする。それでもいちいち券売機でチケットを買うのは面倒、という気がしてしまうんだよねえ。
久しぶりの国会図書館。使い方を忘れている。学生時代と比べると嘘のように楽になったことだけは確か。変わらないのは食堂のまずさ。だから持参のソイジョイで昼は済ませた。売っていない資料は必要な部分のみコピー。一枚24円。うー、高い。新刊と古本で手に入る本は、一応目を通して片方だけ購入することに。思いの外するすると終わって3時前に出て、病院を回って帰宅。こちらは雨が降ったらしい。おかげで少し涼しい。しかし、頭が痛い。酒だ。酒を飲まねば。
読了本 『平台がおまちかね』 大崎梢 東京創元社 本屋さんミステリでデビューの作者が、今度は出版社の若き営業社員を主人公にした連作短編。ミステリ味は薄いが、「へえ、版元の営業さんってこういうことをしているんだ」というトリビアは楽しめる。
7月13日
読み返し 建築探偵の最近の数作を読み返す。自分の小説をまとめて読み返すということは、通常あんまりしない。なぜって、他の人の作品を読む方が楽しいからだ。楽しくなくても仕事に必要だから、歯を食いしばって読む。掘って埋めたいというほどじゃないけど、陶酔するほどおナルじゃないし。
明日は国会図書館に、目星をつけた資料を読みに行って来ます。寝坊せんように気をつけにゃあ。
7月12日
夏だ 暑い。夏は苦手だ。労働意欲が蒸発してしまう。しかしまだクーラーは入れていない。執筆にかかるとパソコンの排熱でそうでなくても室温が上がるから、とてもクーラーなしではいられないのだが、いまはまだ資料をだらだら読んだりしているだけだから、どうにかエアコン入れずにいられる。しかし外は暑いな。くらくら。
新作のオープニング、イメージがポーの『大鴉』だなあと思ったので、今日はその原文と、日夏訳、西条訳を並べて読み比べたりしている。この長詩は、中井英夫『虚無への供物』でも、ひとつのイメージ・ソースとして繰り返し現れる。ポーの詩は脚韻踏みまくりなので、そのへんを整えた西条訳の方が、やたらと古語をちりばめて古怪な雰囲気を強調した日夏訳より読みやすいし、いいんじゃないかと思うのだが、日夏訳の手柄はリフレインのnevermoreを、「またとなけめ」としたこと。nとmが原文から訳文に生かされているのがミソさ。字面に現れない濁音は、頭の中で鴉のだみ声にこれを変換するときに響かせればよろし。西条訳は「またあらじ」なので、これについては勝負にならない。しかし両者とも共通した語彙があるので、どっちが早かったのかなあと少し気になった。西条訳は中央公論社版『日本の詩歌』の「訳詩集」収録なので、一応わかるのだが、日夏は全集は持っていない、ギュスターブ・ドレの銅板画を添えた一冊なんで、訳詩の初出が載っていないのだよ。
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