←2005


 『胡蝶の鏡』刊行につき第三部開幕記念としてA5 12ページのペーパーを発行します。内容はトークに、作中に登場した京都とハノイのポイント紹介、2ページのショートストーリーと今年の予定です。ご希望の方は作品感想お手紙に宛名カードと送料コピー代実費切手160円分をご同封下さい。原則として感想のお便りを下さった方のためのペーパーです。読んでないとあんまり意味のない内容ですのでご注意。宛先はいつものお手紙と一緒です。なお建築探偵告知板にある手紙のルールも、まだの方はぜひお目通し下さい。
〒112−8001 文京区音羽2−12−21 株式会社講談社文芸図書第三出版部気付 篠田真由美

2005.05.31

 『桜闇』の直し続行。直しの場合あんまりずっとやっていると目玉が疲れてストライキを起こすので、毎日少しずつ進めないといけない。日曜日までで最後まで終わる計算。そうすると月曜から水曜は「館を行く」の取材で、戻ってきてその原稿を書いて、週末は本格ミステリ作家クラブの総会で、その後にカッパの再校ゲラをやって、終わる頃にはノンノベルとノン文庫のゲラが来るからそっちをやって、という具合に仕事が順序よく、無駄な空きが出来ずに進行するであろう。直しやゲラというのは、新しい小説を書いているときと違って、頭の作業メモリに余裕があるから、その間に本を読んだり、新しい作品についてのメモを作り続けることが出来る。で、そういうあたりが片づいたらもー、イタリア行っちゃうもんね。八月末から小説ノンの連載が始まるから、原稿は完成していてもゲラが来るんで、一ヶ月は空けられないとすると、複数回行くしかないかな。飛行機代が余分にかかるなあ。

2005.05.30

 トリノ編でぼちぼちと浮かぶ場面などをメモに書き付ける。本を読む。夕方になって『桜闇』の直しを始める。今回から字組が38字16行に変更になる。別に前のまま43字17行でもかまわないのだが、世の中の大勢がそのようらしいので、まあなんとなく。

 読了本 今日一日で読んだわけではなく、少しずつ読んでいたのや書き忘れていたのです。
 『三百年の謎箱』 芦辺拓 早川書房 箱の字が出ない、ご容赦。才人芦辺の才気爆発。資料を読んで引き写すことと、それを踏まえて物語を書くことの差というのをいまさらのように実感。これを読んで勉強して欲しい新人さんもおりますな。
 『燦めく闇』 井上雅彦 光文社 美しい意匠の瓶に入った濃厚なリキュールという感じ。香りも色も密で、一度に読むと酔ってしまう。
 『脳のなかの幽霊』 角川書店 脳科学者が語る不思議な脳のお話。幻肢とか、肉親が偽物に見えるカプグラ・シンドロームとか、事実は小説よりも奇なり。
 『なぜ、その子供は腕のない絵を描いたか』 藤原智美 祥伝社 スキンシップ育児が子供をダメにしています、というお話。とても怖い。ただこの中で「語彙が乏しい子供が自分を表現できずに切れる」というのは良いとして、その例に佐世保の女子小学生の例を挙げていたのは的はずれだと思う。あの子は語彙はあったんだよ、小説書いていたくらいなんだから。それがコミュニケーションのことばになれなかった、すれ違ってしまったときに修復する力を持てなかった、ということなんだから。

2005.05.29

 午前中はペーパーの発送作業。『胡蝶の鏡』である疑問を書かれてきたお手紙があって、もしかしたら他の人もそのあたりを説明不足に感じたかなー、とちょっと気にはなってきたのだが、ここで書くと完全なネタバラシになってしまうし、一応伏線は張ってあると思うのでまあなにか気になることがあったら、ご面倒でもお便り下さい。

 読了本『クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国』 若桑みどり 集英社 2段組み500頁を越える本をほぼイッキ読み。時間が空くまで取っておいて良かった。溺れ込んで読んでひさびさの深い感銘。別の世界にしばらく行っていたようです。日本布教期のキリスト教と、日本社会、ヨーロッパのスペイン、イタリア、そして教皇庁。イエズス会とフランシスコ会の相克。さらに信長、秀吉、家康という日本の権力の変遷。その中でたまたま選ばれた四人の少年が、日本人としてほぼ初めてヨーロッパを体験しさらにその後どのようにその体験を生きていったか、という歴史ノンフィクション。
 ミステリ者としては、かの『黒死館殺人事件』の舞台となる一族の起源が、この少年使節のひとり千々石ミゲルと、ピアンカ・カペルロの不義の子供だった、というとんでもねえほらから始まるのですが、さすがにこれは荒唐無稽すぎるものの、ミゲルは四人の中で唯一キリスト教を捨てて、著者の推測からすると無神論者となって落魄して消えたらしく、小栗はある程度その辺まで踏まえているのかしら、などとも思いました。
 そしてただひとり殉教した中浦ジュリアン。タイトルは彼が穴づりの拷問にあって殉教する直前に、人生のもっとも幸せな瞬間を夢見ている、という、いままでで一番小説的な描写が出てくるラスト場面に繋がるのです。最後にどんな死に方が、それも四人別々に待っていると知るよしもなく、青い海をヨーロッパに向かってひたかける帆船。その甲板で魚釣りに興ずる四人の少年。そこへ教育係のパードレが「さあ、君たち勉強の時間だよ!」と呼ぶ。クアトロ・ラガッツィというのはイタリア語で「四人の少年」という意味で、彼らをひとまとめにした呼びかけのことばなんですね。その時彼らの胸にあったのは、ただ希望と憧れだけであったろうに、と思うとめちゃめちゃ泣けます。
 値段も張るし、そう気軽に勧められる本でも無いんですけど、篠田はすごいものを読んだという感動でいっぱいです。

2005.05.28

 トリノ編は頭の一章だけプロットを組んで、あとは取材を済ませてからということにする。セバスティアーノ編の〆になるローマ編のエピローグあたりもいろいろと浮かぶので、メモだけ作って取りあえず「龍」の仕事はいったん終わり。さあ、本を読むぞ。と言うわけで、前から読みたかった天正遣欧少年使節のことを書いた『クアトロ・ラガッツィ』を読み出すが、これは仰向けで読んでいると手首がすぐに痛くなるくらいのボリュームなので、さすがに何日かかかるだろう。それ以外に読んだ本は下記に。
 ペーパー応募手紙まだいただきました。明日やります。お礼のはがきもいただいています。あんなささやかなものでも喜んでいただけて嬉しいです。次回は「龍」のペーパーを作ろうかな。ライルがばらす龍の私生活の謎、とか。果たして吸血鬼はお風呂に入るんだろうか・・・(いや、そんなこたあ作者も知らないっす)

 『扉は閉ざされたまま』石持浅海 ノンノベル 最初に殺人が犯されて、それがどう暴かれていくかを犯人視点から見せるという倒叙ミステリ。若い男女の同窓会で、議論とロジックというと、ちょっと西澤保彦さんかとも思われたが、全然違う。タイトで面白い作品ではあるのだが、はっきりいって「人間はこんな動機では殺人は犯しません」。これはもう断言できる。犯人のキャラと、動機と、殺人という手段がマッチしていない。なまじリアルな設定とリアルな書き方をしている分、これはミステリとしてではなく小説として致命的な欠点というしかない。それが善意の方向にずれているから、「なるい」という印象を残してしまう。西澤さんの小説はもっと残酷で容赦がない。

 『賢者はベンチで思索する』 近藤史恵 文藝春秋 こちらは逆にすべてがマッチして見事な作品になっているミステリ。いわゆる日常の謎だが、「なるさ」はかけらもない。

2005.05.27

 篠田は毎度頭の切り替えが下手なのだが、今回も「龍」から頭が離れなくて、ついついトリノ編のプロットを考えたりしてしまう。敵味方のキャラを考えて、名前を付けて、とやっていくと長編分の材料はたちまち集まってくる。ただしいい加減何度も行って資料もたんまりあるヴェネツィアと違って、トリノは一度、それも二泊三日程度滞在しただけなので、手元のガイドブックを読んでもあまり具体的なイメージが立ち上がってこない。やはり場所というのは大きいんである。ヴェネツィアとは対照的な雰囲気を読者に感じてもらわないとならない。それからなぜかトリノというのはオカルト・シティということになっている。これはもう日本ではともかく欧米人の間では冗談半分にしても知れ渡っていることなんであります。だからまあ、そのへんもあって次はトリノということにしたんだけど、如何せん日本語で読める資料がほとんどないに等しいんだよね。雑誌のムーとか、あのへんで特集でもしてなかったろうか。
 そしてこのシリーズの主人公は龍で、相手役はトウコであったのが、なぜかどんどん比重が大きくなるセバスティアーノ、というわけで次回も修道士山盛り。そろそろかっこよくなってほしいものだ。なにせヴェネツィア編なんか、ふと気が付いたら「主要人物のくせにこんなにひどい形容詞しか与えられない君って、とても珍しいかも知れない」と作者が思ってしまった。「貧相」「うらなりキュウリ」「みじめ」「濡れそぼった野良犬」・・・でもまあ、報われていないわけでもないのさ。予定通りに進行すればローマ編のラストでは、良いこともあるよ。頑張ってね。

2005.05.26

 結局ヴェネツィア編は761枚になった。書き下ろしの長編としてはこれまでで最長。これを一月で書き上げるんだから、篠田の筆力もなかなか、と自画自賛したりして。え、長けりゃいいってもんじゃないって? ごもっともさまー。
 メールで送稿してから、さすがに脳みそが痺れているので、部屋の片づけをする気にもあまりなれず、ヤマハで買ってきたグレゴリオ聖歌をかけながらコーヒーを飲む。今回のCDはかなりあたりだった。うーむ、脳にしみしみ。
 予定していた本にすぐ突入するのもちょっとしんどかったので、友人高殿円さんの新刊『銃姫』の4巻を拝読。ちょっとー、ライトノベルなんつーて軽くないでしょーがっ。この、シリアス好きめが。
 ヴェネツィア編を書いている間に少したまっていた、トリノ編の構想をだらだらメモして今日はおしまい。メモはあともうちょっとする必要がありそう。書いておかないと忘れてしまうからね。

2005.05.24

 昨日は銀座のヤマハホールに「都市景観シンポジウム」というのを聞きに行ったのだが、藤森照信教授、鈴木博之教授、建築写真家増田彰久氏なんぞのメンツでなかなか面白かった。
 新幹線の駅はなんだってああどこも無個性で面白くないんじゃい、というのは誰でも言うことで、篠田ももちろんそう思っているが、藤森教授のいうことにゃ、そもそもその駅をデザインした人は「日本全国どこへ行っても同じスタイルの駅」というのが素晴らしいことだと考えたのだそうだ。モダニズムというのはそういうもんだと。
 いわれてみれば新幹線というのは、とにかく早く目的地に着くことを至上の価値としているわけで、車窓の風景を楽しもうとか、食堂車や寝台車に風情があるとか、とにかく旅の過程が楽しいという考え方ではない。時間空間を限りなく無化する方向にベクトルが向いている。それなら駅の個性なんてものは無用の長物だ、移動したということを強く意識させる必要は何もないというのはそれなりに一貫しているのだ。同意はしないけど。
 先頃なくなった丹下健三という、戦後の大建築家だけど、彼は四季の移ろいが嫌いだったらしい。端的に言っちゃえば「うざったい」とまあ、そう思っていたらしい。世界中均質なるインターナショナルスタイルのモダニズムを肉体化していたわけだ、彼は。だから心底そう思っていたんだろう。ある意味首尾一貫している。でもねえ、現実に世界は均質じゃないし、気候も夏と冬は違うんだし、そんなに均質がいいと考える建築家はそりゃもう完全な空調設備を具えた気密空間を作るんでしょうな。エコの逆。でも現代文明はまさしく、その均質空間にベクトルの大勢は依然あるよね。夜も明るく、冬も暖かく、そして世界はのっぺらぼうだ。なんか、めげない?

 明日からつれあいはデパートの展示会なので、篠田は別に普通に暮らしているけど、日記は更新がとどこおることもあると思われ。そのつもりで一週間はいて下さい。

2005.05.22

 代わり映えもなくずーっと仕事、ヴェネツィア編の直しを進行中。自分の書いた小説を自分では客観的に評価できないのは当然の事ながら、けっこう面白いんではないかと。

 その合間にはあんまり本は読めないので、『トリニティ・ブラッド カノン』をちびちび読んで、またシリーズの既刊をちびちび再読。カノンの内容に触れたら、ネタバラシだと怒られるんだろうか。創作ノートのかなりの部分を活字化してくれたらしいのだが、これが実にすごいものなんですわ。吉田さんって設定フェチだったのか。アベルたちの前史なんか、かなり細かく出来ていて、それが作品の背景にちらちらしていたわけだけど、そりゃもうきちんとしたもんです。細密なディテールと大きな構想、どっちも存在している。だけどねえ、彼が百科全書的な頭脳の持ち主だったとしても、これだけの構想を作って作品化するというのは並大抵のことじゃない。その大変さは同業者には、なおのこと先鋭に感じられる。ライトノベルと言う言葉には、「軽やかな」というニュアンスがあるけれど、彼の作品世界ははっきりいってライトとは対極。ヘビィな悲劇。
 で、書かれざる構想の先というのが、どんどんすごくなる。端的にいっちゃえば悲惨になる。発表されていたところではけっこうギャグもあるし、ほのぼのもあるわけです。底流は悲惨だけど、それを慰めるシーンなんかが。ところがこの先を読むと、ギャグもほのぼのも入る余地はなかったんじゃない、といわざるを得ない。なにせ人類と吸血鬼と騎士団の三つどもえは、結局***の悪しきたくらみが成功してしまい、***は爆弾で滅びるは、*****様は病で倒れたあげくに***に入ってしまうは、それじゃ他のAxのメンバーはどうなったの、私の大好きなダンデライオンは、教授は、とか心は千々に乱れるばかり。たぶん最後は***と***の一騎打ちで、最終的には***が生き残るにしても、ハッピーエンドとはなかなかに言い難いようなラストになりそうだった。これを書き切るまで作者の身体が保たなかったのも無理ないかも、という気がひしひしとしてくるくらい。
 篠田がいうのもおこがましいが、物語には魔がおります。人間の生命と時間を食らいつくす魔が。この魔に憑かれると下手したら死にます。麻薬みたいに他のことをなにも出来なくなって、食べる暇も眠る暇も惜しくなって、ただただそれに耽溺するようなことが起きます。起きるんです。読むより書く方が遥かに酩酊が深いですから。吉田さんは自分を物語の魔の祭壇に捧げてしまったんだと思う。それはある意味小説家としては幸せな死であったかも知れない。あくまで「ある意味」だけどね。
 篠田は死にません。意地汚く生き延びます。だいたい生物としては女の方がずっとしぶといんだい。それに「飲むより食うより寝るより書きたい」と思っても、引き留めてくれるつれあいがおるからね。でも、読者が「ライト」に楽しむエンタテインメント小説を書いている人間、その現場というのは実はあんまりライトでもエンタメでもない。吹けば飛ぶような読み捨て小説に、書けたこの身を笑わば笑え、ですな。いえ、別にいいんですよ。篠田の小説だって心おきなく、「蒼」や「京介」に萌えてもらって、しばらく楽しんだら「卒業した」といって離れてもらっても。みなさんを楽しませるために、骨身を削るのが小説書きのプライドだと思ってます。こういうことを日記で垂れ流してしまうのは、篠田の未熟だし粋でもないよね。もー止めよ。

 明日は銀座で藤森照信先生や、増田彰久先生が登場されるパネルディスカッションを拝見するので日記の更新は休みます。あと数日で「ヴェネツィア編」アップ。

2005.05.20

 ペーパーの発送11件分完了しましたので、「送ったけどまだだ」という方は来週月曜あたりには届くと思います。
 菊地秀行先生の新刊『夜怪公子』ノンノベルに推薦のことばを書かせてもらいました。これが吸血鬼物なんですね、というわけで。ぜひお手にとってご覧下さい。
 で、篠田はヴェネツィア編の直しをやってます。呆れたことに忘れてますわ、半月前に書いたことを、あらかたきれいさっぱり。今回はかなりディテールを書き込んだ出来になっておりますので、ひとつあの方達とご一緒にヴェネツィア旅行をお楽しみ頂ければと思います。
 明日は夜出かける用事ができたんで、日記の更新はさぼります。昼間は仕事しています。

2005.05.19

 今日から「龍」ヴェネツィア編の手入れ開始。連載は8月下旬発売の9月号から7回で、ノベルス化は来年の5月刊になる。いまから来年出す本の予定がきっぱり決まっているなんて、我ながら豪儀だ。今年のは9月刊なので、年に二冊とはいきませんがいくらか前倒し。とはいえこれはセバスティアーノ篇の特例措置とお考え下され。他にもいろいろ書きたいものがあるんで。
 今回はかなり吸血鬼らしい吸血鬼が出てきて、彼らの生理に関する叙述なんかも出てくる。吉田直さんは特に吸血奇なる存在についてすごくSF的な設定をしておられたんだが、篠田の場合は全然そんなところまでは及ばない。しかしなんで吸血鬼って、こうエロティックなんでありますかね。

 ペーパー配布のための手紙がまとめて転送されてきたので、明日にも作業を始めます。人によってはかなりお待たせするようになったかも知れないが、できるだけ数日中に片づけるつもりなのでいましばらくご猶予を。コピーのペーパーなので増刷は可能だが、上記募集については今月いっぱいで掲載を止めるつもりです。来月になっても欲しい方は、4月5月の日記をご覧下さい。って、ここに書いてもあんまり意味無いのか。

2005.05.18

 連れ合いの木工展浦和の陣も昨日で終わり、シフトは平常運転のはずが、5時に目が覚めてしまい、結局6時に起きて仕事場へ。おかげで憂鬱な歯医者で鼻の穴まで痺れたけれど、「龍」ヴェネツィア編無事初稿アップ。実働一ヶ月弱で700枚はやはりマキシマム。他のことは何もしなかったので、物語とともにすごく濃密な時間を過ごした、という実感がある。幸せだった。これをチェックして、予定していた本を読むくらいの時間はちょうど残りの五月であるだろう。
 ところで故吉田直さんの「トリニティ・ブラッド」書かれざる全プロットを掲載した最後の角川スニーカー文庫が出ている。吸血鬼の正体については篠田の推理も半分は当たっていたけれど、物語全体の構想は半分どころか三分の一程度しか書かれなかったのだ、ということがわかって、また新たな悲しみに襲われてしまった。
 その吉田氏と組んで作品世界を作っていたイラストレータのTHORES柴本氏が、今度は小説ノン誌上に菊地秀行氏の「新魔界行」で登場する。なにとぞご注目あれ。いまだから書いてしまうが、吉田氏もいずれは小説ノンに登場するはずだった。人ひとりが死ぬことで失われるもののなんぞ多き。篠田は悟ってなんかいないから、考えても詮無い嘆きをいましばらくは垂れ流すよ。

 読了本 「グインサーが」の101巻 悪いけどこのところ、いつ止めようかと思いながら読んでいる。作者が書いて楽しいといっても、こうなってしまってはいけないな、という反面教師のようなもの。と毒舌をこいてしまうのは、それでもとんでもない部数が売れている本だから。えっ、0が二つや三つは違うはずです。少々けなしたって屁でもあるまい。
 『バルーン・タウンの手毬唄』 松尾由美 創元推理文庫 洒落の効いたウェルメイドな本格。数時間の安らぎを与えてくれる、これこそがエンタテインメントの真骨頂というやつでしょう。
 『天啓の殺意』 中町信 創元推理文庫 『誰のための綾織』 飛鳥部勝則 原書房
 どっちも叙述トリック系の本格で意外な犯人を演出している。そういうタイプのミステリが好きな人なら読んで損をしたとは思わないで済むだろう。しかし敢えて的はずれなことをいわせてもらうと、なんだってこのどちらとも作品の重要な要素である「女」や「性」についての叙述が下品で薄汚いんだろう。最近どうもそういうのに耐えられなくなりつつある。

2005.05.15

 58枚まで。えーと、しかし体調があんまし良くなくて、というのは篠田も年齢が年齢でありまして、女の50代はなかなかしんどい。今日書いたエピソードも一部成功してない感じのところがあって、もうちょっと考えないといかんなあという、ややしんどいところです。そんなわけもあって後数日日記の更新が出来ない日もあるかと思いますが悪しからず。今週の後半には復活しているはず。

2005.05.14

 今年の公開開票会はまれに見る接戦のスリル満点。無効票の判定をする最後まで気が抜けず、当事者は大変だったろうが見物する分にはこれほど面白い物もなかった。今回はクラブのアンソロジー文庫版を買って応募してくれた読者の中から10名ご招待をしたのだが、見に来られた方たちも楽しめたろう。結果は『生首に聞いてみろ』法月綸太郎 だが、『紅楼夢の殺人』芦辺拓 もわずか2票差。しかもケアレスミスによる無効票を繰り入れたら1票差だった。

 仕事の方はいよいよ最終第七回に突入。25枚。今日はヒロイン・トウコの驚くべき過去が明らかに。なにが驚いたって作者も書きながら驚いている。それからあわてて前の本を引っ張り出し、矛盾した記述がないだろうかチェックしてなかったんでほっとする。今回の話は特にレギュラーたちのいままで見えなかった部分が引き出されている。キャラというのは最初ある程度外側から作るんで、物語の進行にともなってその内実が入ってくると、典型的な**、みたいなキャラが「実はこういう事もある」という感じにふくらんでくるものなんであります。

2005.05.12

 同居人が展示会で早く出かけ遅く帰る。だもんで労働時間が延びてます。今日は73枚まで。ヴェネツィア名所巡りは墓地の島サン・ミケーレ。
 しかし明日は本格ミステリ作家クラブの公開開票会に付き仕事はお休み、日記更新もお休み。

2005.05.11

 第六回41枚まで。パソコンに張り付いていた時間のわりには進みが鈍い。というのも篠田はアクションシーンが苦手なのだが、第六回はクライマックスに向かって駆け上がるので、かなり激しいアクションの連続なのだ。一応エンタメとして連載の一回に一場面はアクションを入れるように心がけてはいるのだが、マンネリにならないように心がけるのはけっこう大変である。後は作者に「情けない」とばかりいわれていたセバ君が少しいいところを見せた。しかし第六回に関しては後は彼の出番はないので、ネズミ男大好きの篠田はちとさびしい。明日はトウコ危うし、であります。ヒロインをどこまでひどい目に遭わせていいか。これまでトウコはわりと無事だったので(そうでもないか?)、そろそろやばいことになってみてね、という感じはある。

2005.05.10

 午前中に久し振りにジムに行ったらちょっと疲れた。昼寝してしまった。第五回は101枚で終わり。我ながらセバスティアーノへの愛が止まらない。今回は完全に三人称多視点で、いままで少ししかやってないライラの視点なんかもかなり入り、そうすると「あっ、あんたそういうこと考えてたの」なんてことが出てきて面白い。可愛い顔していても中身は妖怪ですね、この子は。第六回も5枚書く。さあ、どんどん行くぞー。

 野間美由紀さんの『パズルゲーム☆はいすくーる』文庫版第11巻に解説を書かせてもらった。野間作品はばりばりの本格なので、解説もがんばって「本格ミステリ論」をやっております。非常に基本的なことしか書いてありませんが、結構ぴっしり書けたなという感じ。ぜひご一読下さい。

2005.05.09

 歯医者で前歯を掘られて麻酔がなかなか切れず、さすがにすっとは仕事に入れない。気分的なものだと思うのだが、まだなんか変な感じがする。前歯の麻酔は一番嫌い。って好きな人はいるまい。いたら立派な変態さん。
 それでもどうにかこうにか90枚。さすがに三日で一回分は終わらない。明日はジムに行くが第五回はいくらなんでも終わるだろう。そうすると後二回、200枚くらいか。プロットは立てられているんで、ちゃんとそれで収まるはずである。でも書いている最中は、先のことは決めてあってもあまり覚えていない状態。わあ、これからどうなるのー、とか思いながら書いている。

 読了本『澁澤龍彦との日々』 白水社 やはり涙ぐんでしまう。生活を共にした人に先立たれるのって、ことばに出来ないくらい辛いことなんだろうなあ。

2005.05.08

 案の定そうするするとは行かないで、なんとか今日で61枚。脳内ヴェネツィア行きっぱなしでまだ帰り道は遠いっす。トウコとセバも未だ再会できず。女戦士・吸血鬼・ヘボ修道士の三すくみ、じゃなかった三角関係も最終的な帰趨は見えず。予断を許さない状況だったりします。いや、まあ、それなりの予測はありますが、それはローマ編が完結しないと明らかにはならないんであります。
 五月中にこれが決着したら読むつもりの本がずっとそばに置いてありまして、『クアトロ・ラガッツィ』という、遣欧少年使節のことを図像学者の若桑みどり先生が書かれた本。若桑先生というのはマニエリズムなんかの研究者なんで、いきなり畑がかなり違うものを書かれたというんで前から気になっていたのですが、買うだけは買ってまだ手が付けられない.大部の書物なのですよ。
 あ、明日は歯医者だ。前歯をいじられるので、もしも麻酔かけられると鼻の穴までしびれたりしてうー、いやだなー。

2005.05.07

 「龍」ヴェネツィア編連載第五回を書き出す。31枚まで。やはり30枚以上というのはなかなかそうは書けない。目だけでなく右の腕も疲れてきてしまうし、頭も疲れる。でもまあ順調な滑り出し。明日果たしてトウコとセバスティアーノの再会まで書けるだろうか。全然色っぽくない再会なんだな、これが。今夜のうちにプロットをもう少し詰めておくことにしよう。おおざっぱに書いたやつだと、案外実際に書き出したときにひっかかるから。

 澁澤龍彦の奥さんが書いた『澁澤龍彦との日々』白水社 を読んでいる。なんとなくもったいないのでちびちびと。このブックデザインが実に良い。静物画のようなモノクロの花の写真に赤の箔押しでタイトル、中扉は赤ワイン色に銀でタイトル。本文紙はわずかにクリーム色がかっている。こういう洒落た装丁の本は、それだけでうっとりとしてしまう。
 澁澤龍彦という人は、なんだかすごく可愛い人だったらしいな、と思う。男の色気とかわいらしさをたっぷり持っている人。もっとも結婚したいとは思わない。配偶者がこれ(ものすごく博識だけど実務能力がゼロに近い)だと、ちょっとしんどいだろうと思う。それに本の著者とは基本的に本を介しておつき合いするのがいいんで、現役で存命の作家でもわざわざ会いに行くという衝動は全然無い。墓参りなら行きたい。
 それで、龍緋比古のビジュアルイメージは若い頃の澁澤龍彦です、ただしサングラスつきで。

2005.05.06

 ちょっとご無沙汰。その間篠田は仕事場からほとんど一歩も出ないで、飯もあんまり食わないで(ひとり断食道場みたいだった)、ひたすら仕事していました。「龍」の第四回を103枚、累計385枚まで書いて、そこから先はプロットが出来ていなかったので、というのは去年なぜかそこでお話がひと休み、みたいになってしまって、でもそれはどこを直せばいいのかわかったんで、直しながら第四回を書いたのだが、それから資料読み直して、ずっと以降のプロットを立ててました。そして案の定連載六回では終わらなかった。七回になっちまった。枚数的に『聖なる血』を越すのは確実。あんまり長くなるとゲラを見るのが大変なんで嫌なんだけど、物語がそれを要求するんだからどうしようもない。
 舞台は途中から終わりまでヴェネツィアの街中なんで、そこをゲーム盤に見立てて地図を眺めながら「やっぱりクライマックスはサンマルコ広場だよね」「後は、あんまりマイナーな場所よりリアルト橋は出そう」とか決めて、しかしゲストキャラが敵味方とも多いもんだから、「こうなったらああ」「その間にこっちではこう」と、人間の出し入れを考えていくのに時間がかかる。いや、それほど複雑なことをしているわけではないんだが、篠田の脳みそはそれほど演算能力が高くないんで、少し書いてはベッドにひっくり返って、またその次を決めて、というわけで丸々二日かかってしまった。
 後は目が疲れきらないように気を付けながら、ひたすら書くだけ。カッパノベルスのゲラは校閲の指摘だけ直して返してしまったので、当面は「龍」にかかりきりである。楽しいからいいんである。
 恩田陸さんのエッセイ集を立て続けに二冊読んだ『「恐怖の報酬」日記』講談社 と、『小説以外』新潮社。どっちも面白い。前者には篠田の文庫版『龍の黙示録』の解説も収録されている。「作者が楽しんで書いていることが解る」って、マジ見抜かれてるなあ。いや、楽しい仕事ばかりじゃないんだよ。でも「龍」はとにかく楽しいの。普通は書き出す前にいろいろイメージをふくらませているときは楽しいが、書き出すとそうはうまくいかなくてしんどいばかり、なんだけど、なぜか「龍」の場合は、「こういうシーンを書きたい」と思ったところがほんとに楽しみで、書いたら「書けた書けた」となるんです。そんなことでほくほくしてるのって、あんまプロらしくないね。

2005.05.03

 今日は80枚まで。去年プロットを書いたときから、一番書きたかったシーンを今日書けた。セバスティアーノと少年吸血鬼のシーンだけど内容はまだないしょ。ああ、しかしあと二回で終わるのかな、この話。敵役もまだ出そろってないし。
 吸血鬼の話をあとちょっと。ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』をちゃんと読んだ人、いまではあまり多くないんじゃないかな。映画とか二次創作物で「読んだ気」になってしまうところがあるんでは。吸血鬼を「貴族的な青ざめた美男子」と感じるのは、実は『ドラキュラ』ではなくポリドリの『ルスベン卿』といういまではあまり有名でない吸血鬼物の影響なのです。これが一世を風靡して、それからあんまり遠くない頃に書かれたデュマの『モンテクリスト伯』でも、パリの社交界に現れた青ざめた伯爵を「吸血鬼のようですてき」と思う女性がいたりする。で、映画製作者がドラキュラもそういうタイプにしてしまったのですね、きっと。原作を読むとドラキュラ伯爵は「白い髭を長く垂らした老人」です。黒衣ではあるんだけど、髭はねえ。
 それと篠田が原作で「どうよ」と思ったのは、伯爵様、でかいお城に住んでいるのに召し使いがいないんですわ。だからロンドンから弁理士のハーカーを呼び寄せたのはいいけど、お夕飯の用意もベッドメイクも伯爵がしてる。こりゃかなりお間抜けなイメージなんではないかい。だけど召使いも全員吸血鬼だったら、昼間誰もいなくて即ばれるし、そいつらに吸わせる血液はどうやって確保する。吸血鬼って制約が多すぎて、扱うのにかなり面倒なモチーフなんだよね。それが嫌で片端からお約束を蹴飛ばしたら、ちっとも吸血鬼らしくなくなってしまった、というのが篠田の場合なんだけどさ。で、出来る限りお約束を蹴飛ばさず、なおかつお間抜けにならずばれもせずに生き続けられる吸血鬼、という試みを今回書いてる話の中でやっているわけです。
 読了本『小説以外』恩田陸 新潮社 やっぱり賞を取るとエッセイ集も出して貰えるんだな、いいなあ、といいつつ面白いです。中に篠田の『龍の黙示録』文庫の解説もあります。ぼけっと読んでたらいきなり自分の名前が出てきておどろいた。あほや。

 同居人都合により次回日記更新が5/6になります。でも篠田は原稿書いてます。本当は読みたい本がいろいろあるんだが、ゲラなんかあると気になって。といいながら、ゲラはやらずに他社の小説を書き続ける篠田でありました。いや、そろそろやるよ、そろそろ。

2005.05.02

 今日は50枚まで。実は龍の主観描写をしようとしたら、やっぱりこれはどうも違和感がある。この方は一応主人公であるけれど、やはり主観に関してはご想像におまかせしますにしておくのが正解じゃないか、というのでほんの数行どうしても書きたい部分だけを書いて後は書き直してしまった。そんなんでちょっと時間がかかりました。やっぱりセバスティアーノの主観描写になると、もう早いです。彼はね、他人のために働いているときはかなり有能だし、気が利くし、勇気もある人間なんです。それが自分のことにかかずらわったとたんに自意識過剰っつーか、どうしていいかわかんなくなる。不器用、とトウコには一刀両断されました。もっとも彼女のツボは「不器用な奴」なんですね。自分がどうにかしてやらにゃ、と思うと見捨てられなくて愛着を持ってしまう。セバ君と似ているようで、しかし微妙に違います。どうしてとか聞かないでね。私が考えて決めたことじゃないです。書いてると彼らが勝手に自己主張するのよ。そんで、へえ、知らなかった、そうなの、とかいいながらキーボードを叩くわけです。

 萩尾望都「ポーの一族」についての後半です。正直な話、作品群の後半になると絵の繊細さはましてくるけどお話としてはちょっとつまんない、という感じがあった。プロット自体細かくなりすぎて、初期の方のダイナミックさが薄らいできたっつーか。作品内時間では一番古い「メリーベルと銀のばら」と、時代的にはかなり下がる「小鳥の巣」いずれも1973年発表が、作品の山だと思う。前者では吸血鬼という存在に対する感情移入の深度が圧巻で、後者はミステリ仕立てでもあり作者お得意のギムナジウムものということもあるが、篠田がここで印象に残っているのは歴史を外から眺める不死者、という設定である。主人公エドガーが妙に明るい調子で「ドイツか。前に来たときは二つに分かれていなかったな」というせりふがね。龍の目から人間の世界を見ると、なんか、かっちゃかっちゃとせわしなく動いているよなあ、という感慨になるんじゃないかなあと。機嫌の良いときは「眺めている分には面白いね」とか思っているんじゃないかな。機嫌が悪いと踏みつぶしたろかい、ということになる。まあ、庭先のアリンコ。家には入ってこないでね、という。

2005.05.01 

 今日は28枚まで。そろそろ立ててあったプロットが通用しなくなってきたので、ちと時間がかかるんであります。ここらでカッパノベルスをやるべきか。まあ、もうちょっと「龍」にこだわってみよう。
 昨日書きましたが萩尾望都さんの「ポーの一族」シリーズ。大学生の頃に別冊少女コミックで読み切り連載されていたと記憶する。ここでは吸血鬼はバンパネラと呼ばれているのだが、開幕の短編「すきとおった銀の髪」ではしかし「吸血鬼」のきの字も出ない。ただ主人公の少年の隣に美しい少女と兄の少年が暮らしていて、少年は少女に恋をするが、彼らはある日突然姿を消してしまう。それから数十年後中年に達した男が、初恋の少女と生き写しの少女と出会い、彼女の娘だと思ったが、兄もまた同一人物だった。つまりここでは不老不死の一族が暗示されているだけなのだが、昨日書いたように「薔薇が手の中で枯れる」という絵が一こまあって、彼女の正体を示す。
 これ以後ぼちぼちと謎の一族が正体を現していくのだが、萩尾吸血鬼の特長はなんといっても生々しい吸血のイメージをほぼ完全に隠蔽してしまっていることだろう。彼らは血ではなく不可視の生体エネルギーのようなものを吸い取っている、とも考えられる。「血」ということばはあっても、口から飛び出す牙やしたたる血の描写はほとんどない。その結果吸血鬼はあまり怪物には見えず、人を餌にして生きねばならない、しかも主人公のエドガーとメリーベル、加えてアランも、成長することが出来ない永遠の子供、という悲しみを負わされたエイリアンのように見えることになっている。これが作品の美しさと夢幻ぽさを決定づけているが、これを良しとするか否かはかなり好みの問題にもなるだろう。
 現在吸血鬼物を書いている人間としては、非常に印象に残っている場面がいくつかあって、そのひとつは「エドガー、鏡に映ってない!」である。この世界の吸血鬼は意識すれば鏡に映ることが出来るが、うっかりすると映らない。つまり気がつかない鏡を人間が見ているとばれる。ドラマチックな設定としてなかなか面白いと思う。
 まだ人間のアランがエドガーを疑って、十字架を握らせる。一瞬エドガーは硬直するが、意志の力で乗り越え「くれるの。ありがとう」と笑う。これもうまい、と思う。十字架自体が呪物的な力を持つのではなく、人間であった時代の信仰の記憶が吸血鬼をひるませるのだ、というわけ。
 それからエドガーたちの養父母になっている男女とメリーベルが惨殺されるエピソードで、彼らが人間でないと気づくのは医者。色仕掛けで誘惑していたのに、愛撫の手を首筋にはわせたら脈がないのに気づいた。医者だから。この医者はかなりアンモラルな人間なんだが、その一方で妙に迷信的な側面を持っていて、吸血鬼の正体に気づいて彼らを狩れと叫ぶ。ところが皮肉なことに、他の人間は誰も吸血鬼なんてものを信じずに、彼に同調しない。一方養父母は気づかれたと思って逃げ出すが、その焦った行動のために馬車の事故に巻き込まれてかえって命を落とす。冷静沈着だったエドガーひとりが生き残る、という皮肉な結末である。時代が変わっていたことに、養父母たちは気が付けなかったのだ。
 だいぶ長くなったから、この項明日も。