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2005.04.30

 第三回が105枚でおしまい。第四回を8枚書く。
 吸血鬼マンガの話をしよう。萩尾望都について書けば済むかなと思ったら、よく考えたらそれ以前があった。石森章太郎の「きりとばらとほしと」という過去現在未来三部構成の読み切り。第一部はレ・ファニュの「吸血鬼カーミラ」を思わせる女吸血鬼ものだが、吸血鬼が退治された後に実は被害者の少女が吸血鬼化されていた、というひねりがある。同じ少女が現在、未来にも登場し、未来では宇宙人の侵略にともなって地球人類がすべて吸血鬼となり、少女の恋人は最後の人類として自殺するという、これもSFで似た話があったオチになるのだが、完全に石森オリジナルと思えるのが現在パート。金持ちの邸宅での吸血鬼に襲われたような不審死が、実は財産目当ての娘と恋人の犯行だった、というミステリ仕立てなのだが、探偵役を務めるのが真の吸血鬼である少女。「汚名を着せられて我慢できなかったの」という少女は、関係者の前で手折った薔薇が散るところを見せて立ち去る。この薔薇が散るところが実に映像的で美しい。
 萩尾の「ポーの一族」シリーズの開幕「すきとおった銀の髪」で、メリーベルが手渡された薔薇が彼女の手の中で枯れるコマがある。しかし作中で、吸血鬼が薔薇を持つと枯れるという言及はまったくないので(石森作品には伏線として登場する)、萩尾の念頭には絶対「きりとばらとほしと」があったと篠田は信じるんであります。

2005.04.29

 第三回91枚まで。これまでの二回は90枚ちょっとで終わっていたのだが、今回は終わらない。最初の予定より切れ目を前に持ってくるとしても、もう少し書かないとならないと判明した。まったく枚数の予定がつかない物書きなんである、わたくしめは。今回は透子姉御の出番がどーんと増えて、前半はやっぱりヴェネツィアですからね、ゴンドラに乗ってそれなりにロマンティックなシーン、後半は荒事。どう見ても彼女荒事の方が得意であります。ロマンティックなシーンは下手するとギャグ。いやあ、どんなに純愛小説が売れても、そういうのは書けないのが篠田の体質ですな。
 今日はさすがに目が疲れているので日記は短めに。吸血鬼に関する考察の続きは明日書きたいと思います。印象に残る吸血鬼物、というわけで「ポーの一族」の話なんかいたそうかと。

2005.04.28

 第三回60枚まで。やー、なんか物語はけっこう大変なことになっています。いまのところそんなに急展開というわけでもないんですが、まあそのいろいろと、ごにょごにょ。さすがにここはネタバレするわけにはいきませんですわ。キャラが確定していると、「その人らしからぬせりふ」なんかもいってしまえるんですね。
 昨日の吸血鬼の話の続きをします。古典的な吸血鬼イメージ、といっても民俗的なやつではなくブラム・ストーカー以来のということですが、それだととにかく吸血鬼は忌むべきもので、神から呪われた救われない存在で、犠牲者については殺してあげるのも神の慈悲ということになっている。でも、宗教性を別にすると「不老不死になりたい」と思う人間がいて全然不思議じゃない。どうすればなれるんだ。吸血鬼に伝染してもらえばいい。昔は吸血鬼が血が欲しくて人間を追いかける。現代は不死になりたい人間が吸血鬼を追いかけても不思議じゃないよね。吸血鬼の血に不死の秘密があるなら、吸血鬼を捕まえて血を絞ってしまえ。そうなると少数の吸血鬼は人間に狩られて獲物にされる存在じゃありませんか。しかも篠田の吸血鬼はイエス様から血をもらったので、その吸血鬼こそ神にもっとも近づいた存在である、という逆転が起こっているわけです。ちょっと面白くない?
 最初からそこまで計算していたわけじゃないんだけどね、ただ吸血鬼の起源というものを考えたときに、イエスの「これは汝らのために流す契約の我が血」ということばが思い浮かんで、赤子のイエスが飢えた妖怪を哀れんで自分の血を与えると、イエスその人に生き写しの肉体を得た不死の存在が生まれる、というのが出発点で、今回はもう少し弱いところのある普通の吸血鬼と、それを目の敵にする教会と、さらに吸血鬼を狩る人間までが登場してぐっちゃらぐっちゃらになります。その辺の構図はある程度構想にあったんだけど、構想から外れて登場しちゃったのが修道士セバスティアーノでして、どっから見ても情けないキャラ(超能力なんかも持っているんだけど、性格と見た目が情けない)なのに、実はこの人ある意味最強かもしれない。
 イエスを「かよわく無力な人」と見る見方があって、遠藤周作の描いたイエスはそんな人なんだけど、その無力な死が死後奇跡を生んでしまうという逆説。セバ君の弱さと強さには、少しそんな部分もあります。

2005.04.27

 第三回32枚まで。早いねー、我ながら。でも書いているときは、「もっともっと」という気分がしてしまう。
 ところで「龍」は一応、吸血鬼物だぜ、というつもりで始まったのだが、書いても書いてもちいとも吸血鬼物らしくない、というところがあった。それはなぜかとゆーと、吸血鬼物のお約束をうざったいんでほんどうっちゃっちゃったせいであった。夜しか動けないんじゃ話が進まないよ、と言うので「龍は昼間もオッケー」。腹空いてばかりじゃみじめなんで「血は吸わなくても死なない」。吸ったら伝染するんじゃ世の中吸血鬼だらけだい、というんでその設定も無し。こりゃ書いても書いても吸血鬼物らしくなくても当然でありますよね。
 今回はそんなわけで、もう少し普通に吸血鬼らしい吸血鬼が出ます。夜しか動けないし、おなかは減る。でも伝染させるのはそう簡単じゃない、伝染させる気で頑張れば仲間を作れるかも知れないけど、くらい。ホラーとしては「吸われたら自分も吸血鬼にされてしまう」というのはそりゃもう恐怖の設定として優れてます。知り合いが吸血鬼になって襲ってくるというのも、怖いだけでなくいやあなシチュエーションですよね。小野不由美さんの『屍鬼』なんか、そのいやあな感じが悲しみと相まって物語を盛り上げてる。
 でも、もともと「伝染」の概念は『ドラキュラ』を書いたブラム・ストーカーの発明で、あれって大英帝国に大陸の辺境から未知の存在が侵入してくる、それと同時に疫病がもたらされる、というその時代の恐怖イメージの幻想化であるわけです。日本人の朝鮮人差別と同じで、「傷つけたという罪の意識がある相手が攻撃してくるんじゃないかという妄想」なんですね。そのへんのネタを割ってしまうと、あんまり楽しくないな、というわけで、篠田の場合恐怖をかき立てる設定としての吸血鬼の伝染はなしです。
 このへんの分析話、明日に続きます。いまここで少し話をバラしても、小説ノンに出るのもかなり先で、ノベルスになるのはどんなに早くても来年だから、きっとみんな忘れるよね。

2005.04.26

 なんとなく着色を気にして、今日の飲物はロータス・ティー。お茶だって歯に色はつくかも知れないけどね。
 第二回92枚で終わる。第三回を5枚書く。カッパのゲラが来るまでに、プロットを立ててあった四回まで書き終えてしまうかも知れん。

 『指輪物語』に続いて『ナルニア国物語』が映画になる、らしい。しかし篠田は指輪は18才だがナルニアは11才なのだ、出会いが。だからナルニアの方が、映画化には寛容であれないかも知れない。物語に対する没入の度合いが違うしね。ナルニアはキリスト教寓話という側面があって、その辺に対する知恵が付いてくるとちょっとお説教臭さみたいなもんが鼻につく場合がある。子供時代はさすがにキリスト教もなにもありゃあせんので、アスランが悪い魔女に殺されるときは本気で涙が出たし、彼がよみがえるシーンは怖いくらいでありましたよ。異世界から紛れ込んだ魔女が不死のりんごを食べてしまい、不死の命を得るけれどそれは決して幸せな命にはならない、というシーンなんかも、ほんとぞくっとするような場面なのです。キリスト教の寓話といっても、語り換えが非常に深いので、イメージが鮮烈で。
 キャラのプッシュはその1「沼人の泥足にがえもん」、『銀のいす』 その2「ネズミのリーピチープ」『朝びらき丸東の海へ』 その3「馬のブレー」『馬と少年』です。特に泥足にがえもんは、湿った毛布みたいといわれるくらい悲観論者なのに、実はすごく勇気はあるし、忍耐力もあるし、洗脳を仕掛ける魔女に向かって彼が語ったことばはそのまんま「ファンタジストのマニフェスト」だし、そのくせラストに彼がある種のうぬぼれを持っているというのがわかるシーンなんてもう爆笑。このひねくれたユーモアはイギリス的だよなーっ。
 でもシリーズ全体の流れと、全編のラストのすばらしさはもう読んで下さいとしかいえないことなので。よいよいに老いぼれて死ぬかな、というときになったら、ナルニアのラストである『さいごの戦い』の末尾を読み返して死にたいと思うくらいなのですよ。なぜならそれは物語と人の命の果てについて、物書きの想像力が尽きるさらに先を語っているからです。そこだけ読んでもダメっすよ。全部読まないとそうは思えないのよ。未読の方、子供の本だなんて思わずにおためしあれ。

2005.04.25

 歯医者の定期検診。コーヒーの着色が目立つそうだ。だからってコーヒーは止められんもんね。
 第二回70枚まで。明日で第二回が終わるかな。

 読了本 『シーセッド・ヒーセッド』柴田よしき 実業之日本社 ハナちゃんシリーズ 柴田さんのシリーズものではこれが一番好きである。無認可保育園の園長で赤字を埋めるために私立探偵をやっているハナちゃんがとってもすてきなんである。未読の方は既刊二冊が講談社文庫から出ていますのでぜひどうぞ。男性女性どちらも楽しく読めるタイプのハードボイルドです。そして今回は山内練ほとんど出ずっぱりである。リコのシリーズの脇役で、『聖なる黒夜』では主人公になってしまった、なかなか悲劇の人だったりする山内氏だが、ハナちゃんは彼のお気に入りのおもちゃらしくて、毎度嬉しそうにいじめたりいじったり。柴田さんによるとこっちはリコのシリーズとはパラレルと考えて欲しいようで、リコの方の痛々しい山内より、なりたかった自分にいくらか近い彼であるそうな。うーん、そうなのか。でも篠田としては、痛々しい山内も何年かするとハナちゃんの山内のようにいくらか楽しく生きられるようになるのだ、と思いたい。そのためにもぜひハナちゃんは、これからも彼のお気に入りの玩具でいてあげて欲しいのだわ。

2005.04.24

 第二回47枚まで。今日は選挙に行っただけでずっとパソコンに向かっていたので(昼飯もキーボード打ちながら食べた)、もっと進むかと思ったが、やはり恋に悩む男の心理を書くのは篠田にはちーっと照れくさいところもあって、行きつ戻りつしたのでまあこれくらい。困ったもんだ、セバ、てめえ鬱病ぎみのネズミ男のくせに、いつまでも悶々としてるんじゃねえ。といっても、引き裂かれればなおさら燃えるのは恋と昔から相場は決まっている。果たしてこれを読んだ読者様はどう感じるのか、そんなこと書いてる当人には全然わかりましぇーん。プロのくせに。ほんとにねえ。なんなんでしょうねえ。美形好きの篠田が美形でないと作者が折り紙をつけたキャラにはまってるんだから。
 でもいいの。「龍」はとにかくセバスティアーノ編のラストまで書き上げたら、ある程度自分の気は済むに違いない。人生の折り返し点は確実に過ぎてるんだから、書きたいものは書けるうちに書いておかないと後悔することになるもん。売れなくなって切られるにしてもあと三冊くらいならまあどうにか滑り込めるでしょう。そりゃ何歳だってね、いつお迎えが来るのかわからないのが人間なんで、これって悲観主義とかじゃないですよ。一日一日、後悔しないように完全燃焼ですよ。そう出来る自分と、そうさせてくれる世界に心から感謝してます。なんかセバめのおかげでハイテンションだわ。

2005.04.23

 仕事場の周囲が市議会議員選挙だそうでうるさくてかなわない。すぐそばに選挙事務所がある。明日が投票日なのでやっと静かになるわけだが、投票所もすぐ目の前で、明日一日は「投票しましょう」放送がうるさいだろう。

 ヴェネツィア編第一回を90枚で終わりにして、第二回を18枚まで書く。まあ、快調かな。しかし作者の愛を受けたセバスティアーノの受難の日々は続く。実をいうとローマ編で完結するまでずっと続く。我ながら、ここまで情けない系の美形でもない男を主人公にしたのは初めてなんで、読者の受けはどうなのよ、という気がしないでもないのだが、もういまさら路線変更は出来ないので、このままどんどん行くのだ。そしてなぜか作中でセバ君はもてもてなんだけど、当人にとっては全然有り難くないもて方である。でも、美形キャラもちゃんと出てるもんね。

2005.04.22

 ヴェネツィア編の第一回、88枚。終わるかと思ったが後ちょっとで終わらず。しかし書いていていまさらのように気がつく。今回の話、かなり「恋愛の物語」なんだよね。こりゃ篠田的には珍しいわ。
 篠田の小説をある程度読んでいてくれる方は気づくでしょう。恋愛が主題になっている作品、まずありません。なぜかって、たぶん自分でそれほど興味が持てないからだと思う。恋愛よりは友情の方が、同志愛の方が、親子の方が、と思ってしまうから。いままで書いてきた中で「ラブストーリーです」といえるのはボーイズラブ小説『この貧しき地上に』だけでしたな。
 ところが今回はどう見ても、それだけじゃないけど物語の大きな部分が「恋」なんです。セバスティアーノのトウコに対する恋、龍のトウコに対する思い、そしてトウコの彼らに対する感情。おまけに性愛抜きだから、おおっ、いま流行の純愛ものじゃん。いや違う。それはやっぱり違うでしょう。修道士と吸血鬼と女戦士の三角関係じゃ、いくら純愛でも100万部売れるってこたあないやね。いいんだけど。
 今回は去年『紅薔薇伝綺』を書いたときに、思いついたその次のプロットが連載三回分くらい出来ていて、こりゃ楽勝だと思っていたのだが、早くも登場人物どもは作者の予定を逸脱しつつある。特にトウコ。あっさり恋する乙女になるタマじゃないなと思っていたら、案の定「冷静になってみたら私は龍に恋していたわけではない」などと思い始めて、その分セバ君がポイントを稼いでる。トウコもどっちかっていうと、情けないやつに手をさしのべて「私がいないとダメか」と考えると情が湧くタイプなんだな。より情けないセバの方が、愛される可能性がなくもない。しかし、あのふたりがくっついたりすると先行きの予定が狂いすぎるんで、たぶんそうはならないと思うけど、かといってトウコが「吸血鬼の花嫁」になるかといわれれば、うーん、作者もわかんないです・・・

2005.04.21

 本日ペーパー8通発送。この日記を読んで反応してくれる方が何名くらいいるか、モニターしてみようという主旨の企画です。通販ではないので(利益は全くないので)感想お手紙の同封を必ずお願いします。一応〆切はもうけませんが、仕事が忙しくなったり、旅行に出たりすればお返事は遅れますし、篠田自身が飽きたらいきなり「おしまい」を宣言すると思いますので、そのへんご承知おきください。

 龍ヴェネツィア編『霧冥き愁いの街』を書き進めております。しかしいまはまだトウコたちは日本にいるので、早く全員があの街で暴れるところを書きたいぞ。

2005.04.20

 また今日は寒い。こんな雨もよいの日はやたらと眠い。雨の中をえさを探すより体力を温存して眠ってしまう方がいいという本能だそうだが、人間ではそうもいかないわけで、しかしマジで眠いぞ。というわけで、昨日買ってきたバッハ・ブレンドを挽いて、コーヒーをいれるところから朝をスタート。ふっくりとふくらむ豆に幸せを感じる。
 龍のヴェネツィア編を書き始めたので、またまたあんまり日記に書く話題がない。書いている途中の作品のことを、あんまりいろいろばらすわけにもいかないしね。『紅薔薇』に続いて、いよいよセバスティアーノの受難は続くのである。しかし篠田の気分は透子に同調してきて、なにやらこの生きるに不器用な男が不憫で可愛い、という気分になってきた。出来の悪い弟の心配をする姉、の心境なんで、全然恋愛チックにはなりませんが。こういうキャラはいままで書いたことがなかったものだから、自分でも新鮮。

 明日がどしゃぶりの雨でなかったら、郵便局で切手を買ってペーパーの第一陣を発送しようと思うとります。120円なんで、80円は送っていただいた切手を使って、40円分は買わないとならないのさ。でも普通は20円切手なんてみなさん持ってないもんね。

2005.04.19

 昨日は連れ合いと浅草橋で買い物をした後、浅草から都バスに乗ってカフェ・バッハへ。ここはコーヒーだけでなくケーキも美味。最大の欠点は我が家から遠いこと。あまり置けば味が落ちることは承知ながらコーヒー豆をまとめ買いする。袋の上からアルミホイルで包んで冷凍庫に入れるといくらか保ちが伸びるらしい。領収書をもらったら名前で気づかれて、篠田の本を読んでいて下さるお店の社長とご対面。かなりの本好きとお見受けした。コーヒーの話などももっと伺いたかったが、後の予定が押していたので「また参ります」といって辞去。本当に喫茶店のマスターが狂言回しで、高校時代の京介とか、学部時代の京介が出てくる連作短編を書こうかな、などと思ってしまう。書きたいものは山ほどあるんですってばさ。身体がついていかないだけで。
 浅草までタクシーを飛ばして、松屋で言問い団子を買って駒形どじょうまでふたりしてわあっと走る。高田崇史さんと文庫の担当さんの打ち上げに、なぜか混ぜていただく。担当さんは我らが母校と同じ。そして四人とも東京生まれ。担当さんは同潤会アパートに住んでいたこともあったそうだ。

 今日はだらだらとカルト宗教に関する本を読み、イタリアで刊行されたアンソロジーに短編を一本載せてもらったご縁で、あっちの雑誌に載せる質問をもらった、それの答えを少し書く。イタリア人には日本人が「西洋館とミステリは似合う」なんて思う感覚はそもそも理解不能だろうから、説明するのはけっこう大変。誤解されないように明快な、そしてわかりやすい言い回しを選ぶ必要もありそうだ。その後ヴェネツィア編を少し進める。

 『胡蝶の鏡』の感想お手紙到着。今日の8通のうち、いつもの方が5名、初めての方が3名。出来るだけ早くペーパーは発送したいと思いますが、お返事は簡単になっちゃいますんで、そのへんはご容赦。質問の答えなどは、ここに書いてしまうこともありますのでよろしく。神代さんの家の台所には電子レンジはありません。先生、そういうのは嫌いです。留守電ファクスつきの電話に変えたのもかなり後になってからでした。大学の事務室から苦情を言われたんでやっとです。携帯はまだ抵抗してます。

2005.04.17

 昨日は山梨県勝沼に、ワイン屋さんの蔵でやるコンサートを聴きに。このところは毎年行かせてもらっていて、今年のゲストは長谷川きよしさんであった。うちには彼のデビューアルバム「別れのサンバ」があるのだよ。
 今日になって原稿をやろうと思ったら「そういえば龍のサングラスは澁澤龍彦だけでなく、長谷川きよしのイメージも入っているかなあ」といまさらのように思った。

 「ヴェニスに死す」を見る。思ったより退屈。もっと街の風景がたくさん入っているのかと思ったら、リドばかりだし。でも確かにヴィヨルン・アンドルセンは目を疑うばかりの美形でありますね。バート・ランカスターはキモイ。やたらホモっぽいおじさんにしか見えなくて、ラストの化粧顔はめっさグロいし、原作を読めば美に狂い美に殉ずる男の物語なんだけど、映画はアッシェンバッハの内面が見えないもんなあ。美少年のストーカーにしか見えませんわ。
 とにかくやっと夕方になって書き始め。一昨日作った下書きがあったので、一応19枚まで進む。しかし明日もまたお出かけ予定につき、日記の更新はお休み。

2005.04.15

 体調があんまり良くないのでだらっとしている。「ヴェニスに死す」を見るつもりでDVDをつけて、ついロード・オブ・ザ・リングの特典映像を見耽ってしまう。それでも片目で画面を見ながらヴェネツィア編の頭の部分をノートに書いた。冒頭は10枚くらい書いても結局ダメで捨てたりすることもあるので油断は出来ないが、たぶんどうにかなるんではないかと思う。
 ところで今年は鮎川哲也賞が受賞作無しになるらしい。賞にふさわしい作品がなければそれもいたしかたないが、短編賞の受賞者がいたら祝ってもらえなくてお気の毒。

 明日は一日外出。日記の更新もお休み。

2005.04.14

 雨もよいの月曜から水曜に打って変わって、今日は晴れたんだがこの時間になるとけっこう寒いではないか。今日はとうとうマントもクリーニングに持って行ってしまったので、こんなに気温が低いと実のところ困るのだった。

 ファンレターの返事二通、献本のお礼二通書く。投函がてらクリーニングに。道々花を愛でながら。戻って『紅薔薇伝綺』ノンノベルをメール送稿。これで取りあえず一段落。一段落したところで忘れないうちに、本格ミステリ作家クラブの投票を書く。評論部門は最後まで迷っていたのだが、最後はエイ、と決める。
 自転車を漕いで、それから去年書いた「龍」の次作のメモを再読。やはりそのときの沸騰するような熱気はそうすぐにはよみがえらない。舞台がヴェネツィアなので、トーマス・マンの「ヴェニスに死す」を再読。しかしものすごい翻訳調の訳文で唖然とする。マンの文体というのはどうなっているのだろう。まさかこんな持って回ったような文章だとは思えないんだけど、ドイツ人だしよくわからん。取りあえず半分くらいのプロットは決まっているので、これで出だしの一行が思い浮かべれば船出できる。場面的にも決まっているのだが、それをどう語り出すかということには、やはり、どーしましょう、といろいろ思うわけです。さらりと決まるときもあれば、決まらずに書いては破り、ということも。ある程度滑り出せば後はまあスムースなはず。希望的観測かな。

2005.04.12

 まったくもって寒い。嫌になります。『紅薔薇』まだやってます。全部直したら今度はルビをチェックしないと。少し修道院関係のことばにラテン語のルビをつけたりしたんで、それを間違えていないかもう一度見直して、少しは増やした部分もあるんでそのへんも。
 そろそろ7月のカッパノベルスのゲラも出てくるんだそうで、9月の『桜闇』文庫のデータも届いていて、おかしいなあ、今年は暇だったはずなんだけど、なんかそれほど暇ではない。いや、自由業者が仕事が途切れずにあるというのは、そりゃもう有り難い話以外のなにものでもないわけなんですが、献本頂いた同業者への礼状と、読者手紙の返事が書けないままずっと机の上にあって、とても申し訳なくて。

 明日は夜に用事があるんで、日記の更新はお休みします。皆様風邪など召されませんように。

2005.04.11

 今日は雨もよいで寒ッ。まったくもう、昨日冬物をあらかたしまって、フリースのブルゾンだけ残しておいたら、もう今日はそれを着るしかない、という感じ。

 やっと『紅薔薇伝綺』をラストまで訂正して、プリントして、また赤を入れる。要するに篠田の小説書きとはこの繰り返しであります。単調なものでありますよ。

 単調なことを繰り返していると、旅に出たい旅に出たいとそればかり思う。いま行きたいのは五島列島。その不便な島の船着き場の反対側にある、車道もない過疎の村の教会が見たい。行ったら帰ってこられるか、という感じなんだけど、明治15年建造という木造のその教会がとっても見たいんである。久賀島の旧五輪天主堂といいます。とにかく行くだけ行って、見られなくてもその前まで山道越えてたどり着きたい、となぜか無性に思ってしまうんである。

2005.04.10

 本格ミステリ作家クラブの執行会議に行ったので、結局今日も仕事出来ず。電車に一時間半乗っていれば着くので、関西からお出ましになる方々と比べて文句などいえたもんじゃあないんだけどね。

 最近篠田のマイブームは石神井公園である。ここも電車一本で行ける。近辺に気に入った飲み屋が複数ある。石神井池のまわりは完全に公園として整備されてしまっているが、その隣の三宝寺池の周辺というのはちょっと東京とは思えないような雑木林に囲まれていて、なかなか風情がある。桜だけが群れ固まって咲いている公園よりきれいなのではないかと思って行ってみたら、これが大当たりで、新緑の点描の中に立ち混じる満開のソメイヨシノは一段と美しい。お散歩の犬はかわいいこが多いし、池の周りに生息する猫はいずれも良く太って毛並みもきれい。動物好きにはこたえられない。今年は来週から天気が悪いらしくて、それでは花見もしづらいだろうと思って土曜日に出かけ、案の定いささか人が多かったけれど、来年当たり酒や弁当をもってぜひあのあたりに出かけたいものだ。

2005.04.09

 昨日は夜銀座へ「黒蜥蜴」の観劇に。えーと、演出にいささか問題がある気がします。この戯曲は基本的に三島由紀夫のせりふ劇なので、過剰に現代化した演技や付け加えのギャグよりも、美しいせりふをいかすべきものです。しかし困ったことに助演陣は、はっきり発音しようと思ったら怒鳴るしかない程度の人間です。そして美輪さんのメイクは、デーモン小暮に似ています。
 今日は石神井公園に花見に行ってしまった・・・

2005.04.07

 直し続行中。やっと最終回に入った。今回は連載が五回分なんで少し短い。
 友人から『胡蝶の鏡』の一番早い感想メールが届く。自分でも思ってもいなかったことをいわれる、というのは刺激的で面白い。彼の感想は「名探偵が失踪事件に関わるとこういうことになるのか」でした。

 なんかよく知らないが「ライトノベル・バブル」なんだそうだ。朝日新聞社の「小説トリッパー」春号も特集は《ポストライトノベルの時代へ》。しかしなんだって評論家というのはこう小難しい書き方をするんだろう。篠田がバカなのか、そうか。でもわかりにくい。大塚英志なんかわりとわかりやすい方なはずなんだけど。しかしライトノベルというのは、スニーカーとかああいうもんだと思っていたけど、いつの間にか「ファウスト」執筆者もそこに含められているんだな。
 特集の大塚と斎藤環の対談はなんだか話が噛み合ってなかったけど、大塚の連載「サブカルチャー/文学論」はけっこう同感を覚えてしまった。いままでちゃんと読んでなかったんだけどね。ただやっぱり持って回った表現が多くて、うまく引用が出来ない。事は以前に私がここで書いた、佐世保の少女とバト・ロワ、彼女の行為があの小説に触発された部分があったとしたら、自分は小説家のひとりとして「物書きの責任」を感じずにはいられない、ということに繋がってくる。一カ所だけ大塚の文章を引用しよう。
・・・それは「文学」と今呼ばれるものの多くが自身の自己実現と自己保身にのみ使われ、誰かに届き、その人生を支えうることの責任をとりたくないからだ。
 篠田は間違いなく、本を読むことで人生を支えられ、それなしでは生きられない一時期を過ごしたという自覚がある。だから自分も小説を書きながら、必要としている人にどうか届いてくれ、と思う。つーか祈る。だが人生を支えられるということは、逆に読者をドツボに落とすことだって出来るというわけで、力と責任は同時に存在するんだと、やっぱりそう思うよ。バト・ロワを読んだ人間の中で、人を殺したのはひとりきりだろう。それは統計学の問題で言えばその通りですが、分母が大きくて分子がひとりなら問題にしなくて良い、というのは文学の考え方ではないのでは。たった一頭の迷い羊の比喩ですね、これは宗教の考えですが、2000年前からそういう考え方の相克はあったんだな、と思ったり。K先生、篠田は小心者だから噛みつかんで下さい。

 明日は留守にするんで日記の更新はお休み。

2005.04.06

 直し続行中。というわけであんまり話題がない。

 ジャンプに連載されているマンガ「DEATH NOTE」が面白い。名前を書くとその人間が死ぬ死神のノート、という設定自体は「あほかいな」だが、そのあほな設定でいかに緊迫した物語を紡げるか。絵は「ヒカルの碁」のマンガ家さんなのでいうまでもなく上手く、話が進むに連れて状況はどんどん漫画的になっていくのに(本名も顔も知られていない世界的な名探偵とか、その秘密基地とか、極端に有能な執事とか)、非常にサスペンスフルでもある。ただし残念ながらミステリとしては、デスノートのルールが後出し的に増えていくので、そのへんフェアじゃない感が漂う。
 しかし少年マンガというのはやけに巻数が多かったりして、人気があるからってだらだら引き延ばして失速するようなのはいやだなあ。この勢いがたるまないうちに、ばしっと終わらせて欲しいもんである。

2005.04.05

 直し続行中。今日でやっと五回の連載中三回目までが終わった。第三回はかなり書き足しが多かったので手間取った。連載も後になるほど書き足しは増えそうだ。

 読了本『ユージニア』恩田陸 一人称の語りをモンタージュするように積み上げて世界を描き出す、というのは恩田さんの好きな手法らしい。今回は一家大量毒殺事件というかなりミステリらしい物語が扱われる。一人称の語りの中には思い違いや推測も多々含まれるし、事実であっても視点人物によって語られ方は当然違ってくるわけで、そのへんの謎めいたもどかしさがページをめくらせる。だがたぶん恩田さんの書きたいことは「いわゆるミステリ」ではないのだと思う。事件から語りの現在の間に長い時間と二重の障壁をもうけているのがその証拠だ。ラストにどんでん返しらしき仕掛けはあるのだが、それは「いわゆるミステリ」のようにどかんと爆発しない。たぶんそれも作者のもくろみの内に違いないと感じられた。
 なお、今日の夕刊に作中の事件を連想させる「名張葡萄酒事件」の再審請求が通ったという記事が掲載されていた。物語ではなく現実の事件も、一筋縄ではいかぬようである。

2005.04.04

 直し続行中。
 ところでローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が亡くなられた。日本の新聞は法王だけど、法王だとなんとなく天皇の院政の方にイメージが行ってしまうので、篠田はもっぱら教皇です。
この方、同性愛を罪悪視したり、コンドームを禁止したり、かなり保守反動な部分も多かったけれど、それなりに偉大な教皇ではあったと思う。26年も在位されたので、どうも頭の中でローマ教皇というとあの顔が刷り込まれてしまっている。実をいうと「龍」ではこの先ちらりと教皇が出る予定だったんだけど、どうしようかなー、と迷ってます。作品内時間は05年より前だし、フィクションの中ではもうしばらくお元気でいていただきましょうか。そういえば前に『エロイカより愛をこめて』でローマ教皇を怪盗エロイカが誘拐する話を書いたら、その後ヨハネ・パウロ2世が来日されて、青池保子さんがなんとなくあせった、となにかで読みましたっけ。

2005.04.03

 『胡蝶の鏡』の見本到着。なかなか美しいです、表紙。目印はピンクの蓮の花に銀の箔押しタイトルです。4/7ごろ発売らしいんで、ひとつよろしくお願いします。

 仕事は『紅薔薇』の直し続行。目が疲れるので随時休みを入れながら進める。やっぱりこれからは、時間に余裕を見て仕事を組まないと、絶対無理は利かないなあ。
 他に話題がないので、昨日見た『薔薇の名前』の監督解説の話をもう少し。実をいうと昔劇場でこれを見たときから、ひとつだけ違和感があった。修道院の聖堂にある聖母子像が、様式的に新しすぎる気がしたんである。作中はまだ中世末期なのに、写実的すぎるわけ。そうしたら監督もそれを気にしていて、「原作には肉感的だと書かれているのに、どうもこの時代のマリア像はそうは見えない。さんざん探して南ドイツでようやくわりとリアルな像を見つけて、それをモデルに彫刻家に作ってもらったのだが、現場に置くと変。だけどもう時間も予算もないというので、プロデューサーに、そんなこと気にするのは君くらいだよ、といわれて押し切られた。だけど公開後全世界から2000通くらいその件についての手紙が来て、なんであんなにリアルな映画なのに聖母子像だけがルネサンスなんですかって。だからほら、気にするのはぼくだけじゃなかったんだよ」。そこを聞いて吹き出した。監督、私もですーとね。
 原作の記述を探すと確かに、アドソが女性の美と罪の話を聞かされながら聖母像を示されて、どきどきしてしまう、というような場面がある。中世風の堅い彫像でそういう情動が起こるというのは、そりゃまあ現代人には変な気がするよね。でも、中世の人にとってはそういうものしか彫像はなかったんだから、別にアドソが刺激されて身体が熱くなっても変ではないはず。小説だとその辺はいかようにも描写が可能だけど、ブツを見せねばならない映画の場合はそうした齟齬が起こることはあり得るな、といまさらのように感じ入った次第でした。

2005.04.02

 『薔薇の名前』のDVD、特典映像だけでおなかいっぱいになってしまった。監督のジャン・ジャック・アノーが映像を見ながら当時を振り返って解説する、それが45分と書いてあったけど絶対もっと長い。見応え聞き応え充分。背景や小道具に焦点を当ててくれるので、資料映像としても有り難いが、この映画は87年公開。つい先日「ロード・オブ・ザ・リング」のメイキングを見ていたから、この二十年足らずで映画の作り方もずいぶん変わったものだなあと、それも感じ入ってしまった。アノー監督はリアリズムの人なんで、特殊効果や模型は好きじゃない、かなり体当たりプラス手作り。合成もやってなくて、あの異形の図書館は絶対合成だろうと思っていたら、ちゃんと巨大な屋外セットを作ったんだねえ。修道院の室内を借りたところもあって、そこはエーベルバッハの修道院なのだよ。ここで『エロイカより愛をこめて』のファンはにやりとするべし。思わぬところでお目にかかります、少佐ッ。
 唯一のラブシーンで、当時16才のクリスチャン・スレーターはなにも知らされていないままあのシーンに突入したとか(ほんまかいね)、異端審問官役のエイブラハムは「アマデウス」でオスカーを取った直後だからすごい高ビーでションーン・コネリーも怒ったとか(まさかだから原作と違って殺されたわけではあるまい)、ホルヘ役の老人は名歌手シャリアピンの息子ですごいお金持ちだけど俳優になりたくて、その歳で始めてせりふのある役をやったとか、彼がクライマックスで燃える梁に直撃されて「だいじょうぶですか」と駆け寄ったら「ちゃんと撮れたか、いい絵が撮れたか」と聞き返されたとか、とにかくもう面白いエピソード連発で興奮してしまいました。
 映画好きで歴史好きで劇場公開を楽しんでみた方なら、お買い求めになる価値はありますね、このDVD。

2005.04.01

 『胡蝶の鏡』は4/7頃書店に並ぶそうです。第三部開幕記念としてA5 12ページのペーパーを発行します。内容はトークに、作中に登場した京都とハノイのポイント紹介、2ページのショートストーリーと今年の予定です。ご希望の方は作品感想お手紙に宛名カードと送料コピー代実費切手160円分をご同封下さい。原則として感想のお便りを下さった方のためのペーパーです。読んでないとあんまり意味のない内容ですのでご注意。

 『紅薔薇伝綺』の直しを開始。明日はやっぱり『薔薇の名前』のDVDを見ることにしよう。指輪に手を出さないように要注意。「王の帰還」だけじゃなく「二つの塔」の特典映像も、まだ半分くらいしか見ていないんだよね、実は。