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2005.02.25

 仕事は一応一段落していたので、のんびり荷造り、フィルム買いなど。今度はひとり旅ではないし、前回と違って「帰ってから原稿」というのでもない分、すーごく気が楽。思うところあってシャーリー・ジャクスンの『山荘奇談』再読。創元の短編集の書き下ろしは、いわゆる幽霊屋敷ものになるはずなので。3月はカッパの入稿を終わらせたら、この書き下ろしを書くことにしている。
 というわけで、明日から3/3まで留守。出来れば久し振りに旅日記を更新したいと思うんだけど、予定は未定です。では皆様、六日間失礼をば。

2005.02.24

 短編集のための直しを完了して、取りあえず担当に送付。旅行前の仕事は終わったので荷造りに取りかかる。ヤフーでベトナムの天気を見たら、ハノイ、晴れだと30度を超している。12月は20度代でわりと涼しかったんでびっくり。ホーチミンに到っては40度になる日もあるというんで、こりゃあへたすると帰ってから風邪引くわ。

2005.02.23

 いつも行くジムの近くの、入間市で元製糸会社の接待所として建てられた洋館が公開されているので見に行く。それほど期待していなかったのだが、これがどうして立派なものだった。大正期の建築で、舞踏室として作られた大広間には和風のステンドグラスがあったり、応接間の天井が折上格天井だったり。見応え充分であった。

 小説ノン3月号発売。いよいよセバスティアーノの受難編も佳境です。

2005.02.22

 朝から上野の国立博物館に行く。すごい人出でややげんなり。奈良の唐招提寺は好きな寺なので何度も行っているけど、普段と違う状況で見るご本尊は、ずいぶんお顔も違って見える。まわりが広いので小さくも見える。やはり仏は寺で拝む方がいいようだ。秘仏の鑑真和上像はさすがにすごいな、という感じだが、本当に人だらけで、また土産物売り場がすさまじい人混みで、金堂の修理の資料が載っていたらカタログを買おうと思ったのだが、全然だめだめだったのでそれも止めて、とっとと外に出る。人疲れ。
 池袋に戻る山手線車中で、『龍の黙示録』文庫版を読んでいるリーマンのおじさんを発見。ついじーっと見つめてしまう。やはり伝奇はおじさんが読むのか。エロを期待されていたら申し訳ない。あっ、でも最初は百合っぽいシーンをサービスで入れたっけ。

2005.02.21

 たらたらと仕事してます。東京創元社この秋刊行予定作品集『螺鈿の小箱』の直しを。
明日は打合せもあって東京へ。お天気はいちおう晴れマークなので、上野の唐招提寺展を見に行くつもり。というわけで日記の更新はお休み。

2005.02.20

 今日も曇って寒い。今日も短編集のための直し作業。疲れ目でしんどい。だもんで、昨日聞いた講演のことを少し。お茶女のジェンダー英語圏研究会というので、「セクシュアリティの地平 いま見る・聞く・感じる表象批評の冒険」というのがメインテーマで、評論家小谷真理さんの「テクノゴシック論」と溝口彰子さんの「ホモフォビックなホモはレズビアンを生むか ヤオイのファンタジーと『現実』」という研究発表を聞きました。いずれもメモとか全然取らなかったし、そういう聴き方はしていないので、ただもう自分の印象に残った部分ということですが、小谷さんの講演は自分自身が「『すべてのものをひとつの夜が待つ』はゴシック・ロマンスだ」と思ったばかりだったので、映画を中心にSFやファンタジーに90年代以降数多く見受けられるようになったゴシック、ゴス的なもの、というのを興味深く拝聴しました。小谷さんはSFな方なので、18世紀19世紀的なゴシック・ロマンス以上に、それがSFと結びついてサイバーやAIといった方面へ広がっていく方へ特に目を向けておられるようです。それがテクノゴシックなわけ。篠田は科学音痴ですから、テクノ抜きのゴシックにばかり行っちゃうんだけど、とにかくいまやゴシックの「浸透と拡散」の時代なようです。
 溝口さんは知り合いなので、いままで彼女の論文は読ませてもらっていて、レズビアン・アクティビストとしての「やおいをいかに読むか」を篠田はある程度承知しているので、そのへんまで含めての紹介はちと手に余る。ごめんなさい。ただ今回の彼女の指摘の中で特に感銘を受けたのは、「やおい的なるもの」が年代やセクシュアリティの差異を超えて、そのようなものを好きだと感ずる女性たちに交歓の場を提供する一大女性文化として成立している、ということでした。それがあるからこそ「話が通ずる喜び」というか「親密なる空気」を共有できる。篠田のような50代のおばさんと、10代の少女だって「萌え」の話が出来るんです。だから「やおい」は単に「女のポルノグラフィー」じゃないんですね。

 読了本『モップの精は深夜に現れる』近藤史恵 ジョイノベルス 近藤さんの描く女性の中で一番好きなのがこのシリーズの名探偵キリコちゃんです。生き生きしているだけでなく、なんていうか、けなげでちょっとせつないんです。前作『天使はモップを持って』からぜひ通して読んで頂きたい一冊。

2005.02.19

 雪と雨の中、東京のお茶の水女子大学まで講演と研究発表を聞きに行ってきた。なかなか面白かったのだが今日は帰りが遅くなったので、明日少し内容にも触れて報告したい。一晩寝て忘れてなければね・・・

2005.02.18

 今年はやたら天候に体調が左右される。晴れて日が射していれば体調も気分も上々、今日のように雲が厚く空を覆っていると気がふさぐし、体調もぱっとしない。雨でも降れば部屋から一歩も出たくなくなる。そんなわけで今日も短編集の直しを続けたが、進行速度はいまいち。明日も出かける用事があるのだが、天気は悪いらしい。なかなかうまくはいかないものだ。

2005.02.17

 15日はあんなに春めいた暖かさだったのに、翌日は雪なのだからたまげてしまう。久し振りに東京に出るのだから、上野で唐招提寺展でも見ようかと思っていたのが、あっさりとめげてしまい、池袋の両替屋でベトナムの現地手配支払い用の100ドル札を入手し、ちらりと旭屋を見ただけで待ち合わせの飲み屋で編集者と会食。
 二日酔いではないけれどちょっと疲労感残りの今日は、だらだらと風呂に入ったり髪を染めたりして創元社の短編集のための直しも少し進める。直しだけ終えたら書き下ろしは後に回して、カッパノベルスの仕事を仕上げてしまおう。

 金沢の看護師さんからお便り。年配の患者さんが読んでいた本の中に建築探偵シリーズがあった、という話。どちらかというと若い方の方が手紙をくれる率は高いので、60代男性が『Ave Maria』を読んでいた、などと聞くと妙に嬉しいです。

 いま有栖川有栖さんがブックフェア関係で台湾に行っておられるのだが、菊地秀行さんも同じ行事で台湾入りだと聞いた。そんなに日本人作家が行くなら、これをチャンスに台湾観光とからめて、なんて企画もありだったなと思う。それとも菊地さんには熱心なファンがいるから、案外向こうまで追いかけさんがついていったりしているのかしらん。

2005.02.15

 今日も春めいて暖かい。建築探偵のゲラをコンビニに持って行くついでに30分散歩、戻って30分エアロバイク。無理はしない。で、後はのんびりと根を詰めずに仕事。東京創元社で出してくれる短編集に入れる短編に手を入れる。共通テイストはミステリ+幻想。本来篠田は読むも書くも幻想のフィールドに軸足を置いていた人間で、それが図らずもミステリでデビューさせてもらったために、二足のわらじめいて両ジャンルを書き続けることになった。しかしこのジャンルは決して独立排除的に並立しているわけではなく、最近はますますという感じで相互浸透しつつある。
 安易なジャンルミックス、特に本格ミステリを偽装しておいてオカルトで落とすような裏切りは自分の首を絞めることにしかならないと思うが、もともと本格ミステリというのはリアルと幻想の接点に存在しているともいえる。もちろんそうじゃない本格ミステリはいくらでもあるが、篠田の好きな本格はそうなのだ。建築探偵だってバリバリのリアルじゃないことは、桜井京介の人物設定を見ただけでわかるでしょう。あれに向かって「現実にあんな人間がいるか」というようなことをいう人は、そもそも考え違いをしているんである。
 もっとも篠田にとって「幻想」とはなにより人の心にあるものなので、スーパーナチュラルな現象が客観的に存在するような小説世界の前に、心の中の幻想が圧倒的な存在感を持って現実に浸透してくるようなタイプの小説をより強く「幻想小説」と感じる。そういう意味で、建築探偵の登場人物、特に犯人や被害者は、幻想にとらわれたり飲み込まれたりしている人間が多いようだ。現実に敗北すまいと幻想に逃げる、あるいは自己の幻想をもって現実を転覆しようとする。それが犯罪であるというような。
 短編集に入れる話はもっと幻想みが強い話だが、ミステリのテイストも入っている。カクテルのように、要素の配分を変えることで味は無限に変わる。自分にとってはいま一番、探求しがいのある方面みたいだ。

 明日は遅くなるので日記は休み。しかし、雪降るのかな。いやだな・・・

2005.02.14

 空気は冷たいが陽射しの明るさに春を感じる。先日とは違う方向に散歩、途中のケーキ屋でチョコレートの小さな箱を買う。仕事場の廻りには趣など無いから犬もいないのに散歩などする気もしないと思っていたが、つま先の上がったスニーカー(足裏の筋が伸びる。そういう商品があるのです)で大股にわしわし歩くと、30分程度でもけっこう身体がほぐれる感じがする。
 篠田は開高健のファンで、大学生の時から「こういう文章を読んでしまうとなにも書けない」などとぶちぶちいいながら、その文体を味わってきたのだが、晩年の彼の生活というのは不健康と言うも愚かなりの有様。アマゾンやモンゴルに釣りに行くのはいいけれど、それ以外の日本にいる間は来る日も来る日も自宅の書斎にたれ込めて、終日憂愁を垂れ流しつつパイプをふかし、家族の顔も見なければ食卓につくこともない。食事は書斎の外の廊下に置いてもらう。ときおりドアを開けて「水」「茶」と呼ばわれば奥方がそれをまたドアの外に届けて、書斎でウィスキーの封を切って飲み、本を読み、たばこを吸い、という時間が延々と続いた、らしい。いくらミューズに愛されて珠玉の名文を生み出せても、これでは早死にするのが当然で、こんな人間が家族だったらゾッとしないし、ましてや自分で真似する気にもなれない。そりゃまあせっぱ詰まったときに「お茶」と呼ばわってお茶が出てきたらどんなに良かろうと思うことがないではないけれど、それはやはり人として考えるべきではないだろう。頭脳の末端は手足にあるのだよ。

 ともかく建築探偵のゲラを終了。神谷悠さんのマンガ文庫の解説を送稿。本格ミステリ作家クラブの評論賞候補作『探偵小説と日本近代』を読み出す。しかしこれは「探偵小説という視点から近代文学を論ずる」本で、逆ではないよなあ。いまさら太宰かよ、とかついいいたくなってしまう。一番興味の乏しいジャンル。高校の時『人間失格』は読みましたけどね、不快でたまんなかったよ。

2005.02.13

 まったくもってゲラを読むのは苦手である。もっと正直に言えば校閲の鉛筆を読むのが苦手なのである。小説を書くにはいっときの熱情に浮かされて筆を進めればいいが、ゲラを読むときは冷静に作業しなくてはならない。それもまだできたての、いうなれば血を流している傷口を自分の手で探り回していじるようなことをしなくてはならない。痛いし気分が悪いというのでたびたび手を休め、白神こだま酵母でブリオッシュを焼いて気晴らし。
 しかしそれなら校閲なんかなければいいか、というととんでもない。いたるところに誤字脱字だぶり表現勘違いなどが転がっている。篠田が同人本作りにさまで熱心になれないのは、これがあるからだ。他人様の本でも間違いが目につくと、つい赤鉛筆を入れたくなってしまう。ましてや自分の本では、ため息と舌打ちと頭を抱えてひええーっ、の連続だ。世の中の同人さんたちは、そういうことは気にならないのだろうか。
 とにかくそういう無様な本を人目にさらしてお金をいただく、それも情報量と値段という点では明らかに商業出版より割高なものを、と思うと、お客様には申し訳ないし、自己嫌悪は覚えるし、というわけで、よっぽどのことがない限り同人本作りには踏み切れないのでありますよ。

 ペーパーも出来ているんだけど、内容からいっても『胡蝶の鏡』を読んでいただいてからの方が、というのは舞台になっている場所の写真なんぞが並びますので、作品の感想を送られた方にお送りする、という従来のスタイルでやろうと思います。作品感想なしのご応募は没収。4月頭の発売までお待ちあれ。

2005.02.12

 昨日の夜は突然胃が変調、ストライキを起こしてなにも食べられない。いつもは仕事のストレスで難所にさしかかっていたり、書き終えた後でこういうのが来た。胃が使い古しのゴムの枕のように、鈍重に弾力性もなくぎゅーっと固まったようになってしまう。そしてときどき差し込むように痛む。やはり運動不足なのだろうか、というわけで、今日は午前中「館を行く」の原稿を仕上げてから散歩に行く。なんの潤いもない半端な田舎の景色だが、わっせわっせと一時間近く仕事場の近所を一回り。
 幸い気分もだいぶ持ち直したので、昼食を取って仕事を再開。よく考えてみたら7月に出るカッパノベルスより、4月に出る講談社ノベルスを優先させるのは当然なので、『胡蝶の鏡』のゲラをずーっと読む。この後校閲の鉛筆が入った方を読んで、字数が狂わないように直しを入れて、担当に送れば再校が出るまではこちらの手を離れる。読者の皆様の手に本が届くまでは、こうしてけっこう手間暇がかかっているんであります。

2005.02.11

 寒いと身体が硬くなって肩が凝るし調子が悪い。ジムでするストレッチをしばらくやって、いくらか体調を戻す。「館を行く」の原稿は一応最後まで。明日もう一度手直しして一応完成とする。そうしたら今度はカッパノベルス。

 読了本 『ギロチン城』殺人事件 講談社ノベルス  小説空間をリアルなものにしようという志向はいまや急速に失われつつあるようだ。ゲーム空間同様のCGで描かれたような平板な世界を、人形じみた個性も無きに等しいキャラが右往左往する。「人間の人形化」というのがこの作品のひとつのモチーフなのだが、人間が人形と化するからそのモチーフが感じられるので、ここではすべてのキャラは最初から人形である。かつて竹本健治が処女作『函の中の失楽』で、自立性を奪われて操り人形と化せしめられる青年群像を描いたけれど、あそこではキャラはいかにもライトノベル的な際立ち方ではあっても、生身に近い顔かたちを具えていた。志向のベクトルは同じでも、とめどない人形化の果てにあるのは小説の死以外のものではないような気がする。そう感じるのはたぶん篠田の年齢のせいなのだろうが、自分が理解できないものを無理に理解した顔をするつもりはない。有り難いことに自分は評論家ではなく小説家である。本を出してもらえる内は、共感してくれる読者がまだいるということだから書き続けるだけのこと。

2005.02.10

 神戸から帰ってきたので、今日は写真を出して「館を行く」の原稿書きを開始する。残念ながら初日の天気が悪く、期待していった武庫川学園の旧甲子園ホテルの建物は写真がちゃんと写らなかった。だが建物は期待以上に良かったので、そこそこ書けるのではないかと思う。

 知り合いの作家さんが対人関係で悩んでいる話を小耳に挟み、いまさらのように人付き合いというのは難しいものだと痛感する。当然のように他人の世話を焼ける人もいれば、それを喜んで受ける人間も、焼いてもらうのが苦手な人間も実のところいる。篠田はどちらかといえば、焼くのも焼かれるのもあまり得意ではない。恩を受ければ受けるほどしんどくなる部分、というのは確かにあると思う。そして焼かれるよりはまだしも世話を焼く立場の方がいいと思う。なぜなら他人のために力を貸す自分、というのは自分のプライドをも満たしてくれるからだ。同時に、与えられた恩を有り難く受けることが必要な場合もある。そんなとき卑屈にならず、不義理にもならず、上手に与えられるというのも技術は要るような気がするのだ。
 前に読者の方からいただいた手紙で、「龍の黙示録」シリーズについて「彼らはみんな愛することは知っているのに、愛されることには不器用だ」と書かれていて、図星だな、と思ったものだ。たぶんそれは桜井京介にもいえることで、ということは篠田自身にそういう部分があるということなのだろう。昔は女性性に対する嫌悪もあって、「受け身の愛なんて卑怯だ。自ら積極的に愛すること、それゆえのリスクを引き受けても突き進むことに意味がある」と信じていた。しかしいまは愛することと愛されること、与えることと与えられることは表裏一体だと考えられるようになった。
 ただ、「正しいあり方」というのは常に、行き過ぎれば間違いになってしまうバランスの中に存在している。無償の愛であるはずの世話焼きはひとつ間違えば押し売りにもなり得るし、愛されること、恩義を受けることは、もっと堕落しやすいだろう。与えられることが当然になって喜びや感謝を忘れる場合もあれば、与えられる一方の自分が赦せなくなって相手を逆恨みすることもある。難しいなと思うほどに他人とはそんなしがらみを持たず、「君子の交わりは淡きこと水のごとし」、淡々と、なにがあっても笑ってやり過ごせる程度の距離を崩すことなく生きていきたいと思うのは、冷たいことなのかしらね。

2005.02.07

 「ハウルの動く城」を見に行った。全然期待はしていなかったので、そのわりには面白く見られた。だがプロットやキャラがわかりやすいかというと、あまりそうとはいえない。真面目一方で自己評価の低いヒロインのソフィーが、荒れ地の魔女に呪いを掛けられて18才の心のまま90才にされ、という発端は北村薫『スキップ』を思わせるが、なぜ彼女がそこで荒れ地を目指すのか、なぜ肉体が老人と化したことで前より元気になれたのか、つまびらかな説明はされないまま話が進む。ひどく強引。最終的にもハウルが悪魔と交わした契約はなぜ無にすることが出来たのか、契約が解けたらしいのに、悪魔が便利な使い魔になったままなのはなぜか。それを全部ソフィーが可能にしたなら彼女になんでそんな力があったのか。別に理屈が着けばいいというものでもないが、最後まで「なんやようわからん」状態のまま、あれよあれよとハッピーエンドになってしまう。まあいいけど、「ラピュタ」の感動が懐かしい。

 帰ってから「王の帰還」の残りを見た。この映画で明らかに原作より深く描かれているのがエオウィンのキャラなので、療病院のシーンがほとんど増えていなかったのがとても残念であった。しかしヌメノールの沈没の悪夢は、その血を引くファラミアが見るから意味があるんで、エオウィンに見せるのは意味が通らないと思うよ。他の原作と対比しての不満については、映画公開時にかなりしつこく書いた気がするので、もう止めておこう。やはり篠田は原作命なので、映画が映画故の制約として省略したところや単純化したところが、ひっかってしまう。出来ればエンディングで原作の補遺編に語られていること、サムが庄長を長く勤めた後で、妻のロージーが亡くなってから子供にフロドの本を託して海を渡っていったこと、メリーとピピンが老人になってからローハンに行き、エオメルの死を見送ってからミナス・ティリスに行って、最期はアラゴルンの墓にともに葬られたこと、そしてレゴラスとギムリがともに海を渡ったこと、そのへんを詩のように語って終わって欲しかったと思うのだよ。フロドとサムはあそこで永遠に別れたわけじゃないもん。「おまえはもうしばらくホビット庄の暮らしを楽しんで、子孫をたくさん作って、それから私の所へおいで。待っているよ」という、そういうラストだったんだもん。そしてメリ・ピピはきっとじじいになってからも陽気で酒飲みで不良だったんだろうな、とかも思うもん。

 今月号のダ・ヴィンチにイタリアで出たアンソロジーALIA2に関する記事が載っている。イタリア側世話人で翻訳者の方が、篠田の出した短編に触れていてくれるので嬉しかった。レオナルド・ダ・ヴィンチのことを日本人がネタにしてイタリア人に読ませるというのは、果たしてどーよ、と心配だったんだけどね。だってほら、少し前だとあったでしょう、小説に書かれる変な日本が。あんなふうに読まれたらお笑いだよな、なんて。昔より世界の垣根は低くなっている、ことは確かなんでしょうね。

 「館を行く」次号の取材に神戸に行ってきます。一泊二日。日記は明後日は書かないかも。

2005.02.06

 昨日はどうにかカッパノベルスを最後まで終わらせる。まだ時間があるので、プリントを読み直すまで時間を取ることに。
 呑んで泊まっていった友人が帰った後は、少しだけ仕事をして、北森鴻さんの『孔雀狂想曲』集英社文庫を読んで昼寝をして、それから「王の帰還」のスペシャル・エクステンデッドを見る。二枚目の30分くらいまでしか見られなくてまた今度にせざるを得なかったが、けっこう楽しめたのでそこらへんを書こう。内容を知りたくない人は読まないでね。

 前半の大きなプラス場面はやはりサルマンの最期の場面でしょう。原作での彼の死のシーンと、微妙にエピソードをだぶらせてあって、グリマもちゃんと絡んでいて、ここを切り取ってしまったのはいくらなんでも乱暴だよ、と思ってしまう。唯一の不満は塔の上から転落したサルマン様の二本の足が天を向いているところ。サルマンは魔法使いでマイアなので、死んだ後は肉体は消えて魂は煙となって薄れてしまうはずなのに。
 そのほかだと、ローハンの宴会でレゴラスとギムリが酒飲み比べをするところとか、ギムリ君のキュートなシーンがずいぶん削られていたんだな。後、ミナス・ティリスでピピンがファラミアと話す場面。衛兵の制服はファラミアが子供の時に父がくれたもの、と語るところで父に愛されない息子の悲しみが出て、ふたりに関わりが出来たことが、ピピンがファラミアの命を助けようと必死になることに説得力を与える。
 ローハン組ではメリーとエオウィンの会話、ホビットと女という、どちらも戦いから疎外されたふたりが敢えて戦場に身を投じる心情。中でもメリーの年下の友人ピピンを案ずる気持ちなんかが、すごく細やかに出ていて良かった。
 無論劇場で感じた不満、不壊の城壁がなんで投石機の一発でがらがら崩れるんだ、とか、デネソールが完全にぼけ老人で、ガンダルフが暴力的すぎるとか、それはやっぱりどうしても残るんだけど、概して最初に見て「なんか唐突」「ごつごつしてて変」と感じた部分は、たいてい少し切られてたんだな、ということがよく判った。後半も楽しみ。

 明日は「ハウルの動く城」を見に行く。8と9は「館を行く」の取材なので、もしかすると日記を書くのが少し空くかも。

2005.02.04

 まだカッパノベルス終わりません。というわけで話題に代わり映えがしないから、少し仕事と関係ないことを書く。

 その1 最近仕事場のパソコンに「変なメール」が届く。前は「未承諾広告」とタイトルがついていたから、そういうのはすぐ消していたのだが、最近は普通のメールのようなふりをして、例えば「*野*子です」とか「まゆみです」とか、あるいは返信のように頭に「RE」が着いていたりというのが続いて、姓無し名前だけのは知人に同名がいたもんでつい開けてしまったり。最近はもっと直截に、エロ映画のごとき擬音語擬態語のタイトルがついてくるから、グチュグチュとかアヘアヘとか、開けやしないがほとんどセクハラである。
 同業の女性いわく「どうして女性向けのはないの?」。た、たしかに、女子同性愛者ではない限り、女子大生やOLのぴちぴちの肢体をアッピールされても困る。どうせなら「年頃の美少年満載」とか「眼鏡の美青年はいかがですか」とか誘惑してくれんもんかい。そしたら開けるか開けまいか、しばらく悩むかもしれん。

 その2 最近熟読した本に『懐かしい日本の言葉』『続懐かしい日本の言葉』がある。宣伝会議というところで出した文庫本サイズの本で、ずいぶん売れたらしいからご存じの方も多かろう。しかし問題は、篠田のボキャブラリのかなりの部分が「懐かしい言葉」として掲載されていることだ。当たり前のつもりで原稿にも使っていた言葉が、懐かしかったりするのかよ、ガーン。もしかして若い読者は「よくわからない・・・」なんて思いながら読んでいる、あるいは読むのを止めてしまうということも、あるのかな。ちなみに『胡蝶の鏡』で、たぶんこれはかなり古いなと思いつつ深春に内白、口には出さないけど腹の中で思いましたというやつね、させて、調べたらしっかりこの本に載っていたのが、「そうはいかのキンタマ」でした。

 明日は友人が泊まりに来るんで日記の更新は日曜になります。

2005.02.03

 節分ですが寒いです。春は名のみの風の寒さや、です。
 異形コレクションの担当から原稿依頼のメールをいただいたが、またしてもあまりに余裕がなくてお断りすることに。いまやっているカッパノベルスは7月刊なのだから、ちょっと頭を切り換えて短編を考えればいいのに、そうするとこの数ヶ月の予定が全部ずれてくると思うと、もう頭が回らない。要するに小回りが利かないのである。我ながらこんなことではとてもプロとはいえないなあ、とため息をつきたくなる。

 そのカッパは5章まで来た。明日はジムに行くし土曜の夜は人が来るので、しかし日曜には一応ラストまでたどり着くだろう。あとがきを書いてみた。篠田はあとがきを書くのが好きである。

 本作は18世紀から19世紀、イギリスに生まれ流行を見たゴシック・ロマンスの骨法を意識して書かれている。ゴシック・ロマンスは近代小説の一大源流といわれ、幻想、怪奇、恐怖、伝奇、そしてミステリの要素を含んでいた。綾辻行人の『十角館の殺人』を想起していたたければわかるように、本格ミステリには「館もの」と呼ばれるサブ・ジャンルが存在するが、この「館」こそ本格ミステリがゴシック・ロマンスの血を受け継ぐしるしである。1764年『オトラントの城』を世に問うたホレス・ウォルポールは自邸を中世風の城に改造するほどの好事家だったが、彼が物語の舞台としたのは遠い南イタリアの古城、つまりイギリス貴族である彼にとっても充分に遠く、エキゾチシズムを醸し出す異境であったのだから。
 欧米ではゴシック・ロマンスの直系作品がモダン・ゴシックの名で今も多くの読者を獲得しているという。しかし本格ミステリやホラーというゴシック・ロマンスの子孫が隆盛を誇る現代の日本では、かえって本家モダン・ゴシックはあまり見られない状況になっている。そんな中での美しい例外が、皆川博子、森真沙子二大女流の咲かせる絢爛たる花園といえるだろうか。
 ミステリでデビューし、西洋館の登場するミステリを書き継いでいる筆者は「館ものミステリ」の書き手と見られているようだが、自分の書く館はグリーン家やハッター家よりもオトラントの城に近い気がする。つたない文章には先達の艶も妖も乏しいが、意気込みだけはせめて二十一世紀日本のモダン・ゴシックの一角を担うべく、異形の物語を紡いでみた。幸い読者のご支持をいただければ、同趣向の作品を書き継ぐ用意はある。

2005.02.02

 講談社から『胡蝶の鏡』のゲラが来た。もちろんまだ校閲の鉛筆が入っていない白ゲラだが、篠田は鉛筆があるとそっちに目が行ってしまって自分の文章が読めないので、取りあえずはなにも入らないゲラをもらって、鉛筆は鉛筆だけ見る。こういう仕事のやり方は、たぶん書き手の数だけあるのだろう。デビューする前には、そもそもゲラというものの存在自体ぴんと来なかった。その辺も含めて「小説の書き方」みたいなものを書いてみたいという気のしたこともあるが、考えてみれば篠田程度のなんの賞も取っていない人間に、そんなことを教えられたくない人がほとんどでしょう。

 「ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還」のスペシャル版DVDが届いた。ミナス・ティリスのフィギュアつき初回限定バージョン。しかし4時間を超す映画を見ている精神的な余裕がいまのところない。というわけで、これはしばらく先のお楽しみ。

 カッパノベルスはやっと4章まで。なんかしんどいんだわ、この話。いや、読むのは別にしんどくないと思うけど、やっぱり閉所恐怖症の人はちょっときついかも。篠田自身は高いところは純然と生理的に怖いけど、閉所は愛憎半ばします。

2005.02.01 

 月が変わりましたがいよいよ寒い毎日です。篠田はずっとカッパノベルスです。小説を書くときは一日20枚がせいぜいなので、途中でよそ見をしたりして気が抜けますが、いまは連載のテキストを直していく作業なもので、つい画面を睨みっぱなしになってしまうのか、目が疲れます。50過ぎて急速に衰えを感じるのがこの目でして、しょうもないです。あまり仕事を詰め込みすぎないようにするべきなんですが、目の前にする仕事があると時間はまだあるのに、つい必死こいてしまうというのが我ながら悪癖というか、性というか。
 ところで刊行予定が少し変わりました。光文社の都合で、『すべてのものをひとつの夜が待つ』は7月になります。そのほか刊行月が確定したものなどもありますので、そのへんは篠田トップの欄にアップしておきます。去年は年の前半に刊行が固まりましたが、今年は真ん中へんに集中します。といっても文庫下ろしが含まれているんで、そう大した冊数というわけではありません。でも来年はもっと暇になる予定です。
 増刷御礼。『未明の家』文庫。なんと15刷りだそうです。ノベルスでもこれが一番多いのです。シリーズの頭だけ買ってくれて、それっきりということはあまり喜ぶべき事ではないのかもしれませんが・・・そう考えるとちょっと涙。10年前よりいまの方が、篠田の小説は確実に面白いですよっ。