←2004

2004.10.31

 イランの事件は最悪の結末を迎えてしまった。遺体の悲惨な状況を聞いただけで身体がすくむ。昨日の日記とダブルが、彼が死に値するほどの罪を犯したとは思わない。ただ少しばかり無知で軽率であっただけだ。罪というなら一頃はやった集団買春のツアー親父などの方が、はるかに恥知らずで倫理的にも一点の弁護の余地もないバカ共だろう。
 だが、戦場では少々の善良さなど命を守るにはなんの役にも立たないのだ。自分の住んでいる町に頭の上から爆弾が降り注ぎ、突然爆薬が破裂して、無辜の人々が死んでいく状況の中に、誰に頼まれたわけでもなく好きこのんで入って殺されたのだ。気の毒であるとは思うが、同情する以上の反応はしようもない。どうかこれを教訓として、あの国に「観光」に行っている日本人はとっとと退去してくれ。血迷った小泉が、「殺された**君のためにも自衛隊は撤退できない」とか言い出さないかと、それが一番やりきれないんだから。

 意気の上がらぬ話ばかりしていたので読了おすすめ本を一発。
『ワーキングガール・ウォーズ』柴田よしき 新潮社 とても面白い。そして特にある年齢以上の女性は手を叩いて快哉を叫びたくなる。柴田さんは女性同士の交流を書かせると本当に上手い。ヒロインの翔子は一昔前ならトレンディドラマに登場するばりばりのキャリアウーマンに近い設定だが、彼女の山あり谷ありの内面を生き生きと描いて余すところなく、そしてラストのセクハラ上役に逆ねじを食わす彼女はほんとにかっこいい。
 ただねー、本格「負け犬」小説誕生、っていう帯はどうよ。よそ様の作った流行語にあやかろうとはさもしいじゃないか。突っ張るよりは戦略的に自虐する、という酒井順子さんの主旨は悪くないと思うけど、結婚しているしていない、で女を分類するというの自体、既成概念に敗北しているようでどうにも釈然としないんだよね。彼女の勝ち負け分類だと、結婚はしているけど子供を作らない女、というのは完全に抜け落ちるし。いいじゃん、独身。配偶者の親戚から「子供出来ないの」とかいわれて、よけいなお世話だっと思いながら愛想笑いするしかない立場にいてごらんてんだよっ。

2004.10.30

 仕事の方は大して進行していないので(ダメじゃん、自分。でもほら、昨日「館を行く」終わらせたからさっ)、今日は違う話をしよう。伸介の暴力問題、はどうでもいい。イラクの人質事件についてだ。
 初めに断っておくが篠田は自衛隊派遣反対である。即時撤退していい。だけどそれはテロリストに人質を取られたから、というのではやはりまずかろう。あくまで政府としての独自の判断で、ろくに役に立たなくてスミマセン、といってとっとと撤退すればよろしい。
 しかし今回人質に取られた彼は、ちょっと軽率すぎる。ワーキングホリデーで日本を離れて、当人は自由旅行者としてそれなりの経験を積んだと思っていたのかも知れないが、聞こえてくる情報から考えてあまりにも非常識である。
 満足に金もない、ラマダン月だということもわかっていない、短パンが目立つということにもたぶん無自覚、そしてイスラエル入国の後だったということ。ラマダンというのはイスラム教徒の断食行事で、太陽が空に上がっている間は水一滴飲まないのが決まり。敬虔な信徒は唾液すらはき出す。当然体力的にはきついから社会はスローダウンする。ふだんのときときいろんなことが違ってくる。今回もバスが減便になってバクダットから戻れなかったのだ。
 そんなときものをいうのは結局のところ金である。日本人が若い身空で、多くの国の人間には手にはいるはずもない十万円以上の航空料金を払い、海外で「貧乏旅行」できるのは金があるからだ。貧乏なんて口幅ったい。金さえあれば別の手段が確保できる。背水の陣はかっこいいようだが、単に危険と迷惑の度合いを高めるだけだ。
 イスラム教徒は男でも手足を剥き出しにしない。短パンでいる人間なんてまずいない。それだけ彼は目立ちまくったはずだ。さらにパスポートにイスラエルの入出国スタンプ。篠田が中東に旅したのはまだ「地球の歩き方」も刊行されていない1980年だったが、それだけにバックパッカーは情報収集に入念だった。イスラエルに入国した後アラブの国にはいるつもりなら、スタンプは別紙に押して貰え、というのは旅行者には常識だったのだ。彼は多分それを知らないか、イスラエル入国当初はイラクに行くつもりがなかったのだろう。だがイラクでパスポートを見られれば、イスラエルのスパイだと思われても否定できない。しかも彼はイラクのビザも取っていなかった。テロリストを弁護する気などかけらもないが、怪しい、と思われてどこが不思議だろう。
 自分の目でイラクの実情を見てみたい、という志をほめる人もいるが、二日や三日待ちをうろついただけで、その程度の見聞を持って意気揚々と帰ってきた彼が「俺はイラクの実情を見てきたぞ」と胸を張るところを想像するとげんなりしてしまう。一知半解の半端な見聞など、屁の突っ張りにならない。あまりにも愚劣だ。
 その愚かさが死に値するのかといわれれば、日本社会では無論否定されるだろう。だがイラクでは人命は限りなく軽い。それがいいというのではなく、事実その様だという認識を持つことは当然だ。行きの乗り合いバスでは乗客がみんなで彼を隠してくれたという。彼の存在が知られたら自分たちも危ないという判断だったのかも知れないが、同じイラク人すら手に掛けるテロリストのこと、実際下手をしたら乗客が巻き添えにあった可能性もある。彼が無理矢理帰りのバスに席を確保したら、乗らねばならぬイラク人が一人席を奪われたかもしれないのだ。そんな横紙破りをしてぎりぎりのところで生きている人々の中にわりこんで、なにが自分探しだ。反吐が出る。

2004.10.29

 無事尾道から戻りました。26は土砂降りの雨で、呉に寄ったもので尾道に着いたら日はとっぷりと暮れ、因島はひたすら闇の中。でもヴォーリズの建築である白滝山荘はほんとに居心地の良い宿で、改めてオーナーからもいろいろと伺うことが出来た。しかしまさか『桜闇』が買ってあるとはっ。宿帳に名前を書いたのでしっかりばれて、へたくそな文字でサインをしてきました。
 翌27日は晴天。「迷宮に死者は棲む」の舞台を担当のKさんに説明しながら歩き、急な坂道を登って高台に。戻りはロープウェイ。下の駅の近くに艮神社(うしとらじんじゃ)というのがあり、巨大な楠が立っている。「名前が変わってますね」「高田崇史さんがいれば解説してもらえるのにね」などといいながら、篠田が思い出すのは『日出る処の天子』の中の一場面で「うしとらの方より参ず〜」というの、知らない?
 昼は尾道ラーメンを食べて、整備された海岸沿いの道を歩き、駅前で光原百合さん、有栖川有栖さんと会って尾道大学へ。彼の講演を聴きに行く、というのも実のところ今回の目的のひとつで。お話はミステリの定義と分類に関わるかなり濃い話。どちらかというと作家や編集者や創作を目指している人向きだったかな。つまり篠田には大変有用な講演でした。
 学生さんたちにもみくちゃにされるであろう有栖川さんとは失礼して、講演を聴きに来た講談社文三部長K氏と三人で街に戻る。今夜の泊まりは歴史ありげな市内の旅館、西山本館。部屋が広すぎて寒い感じ。夕飯は教えてもらった居酒屋へ。ここが大当たりで、タイラガイの刺身やふぐの唐揚げ、穴子の付け焼き、じゃこ天といった尾道らしい味覚を、芋焼酎のお湯わりでしこたま食べる。
 夜はやたらと冷えて、エアコンを止めて寝たら寒くて目が覚めてしまった。和風建築は暖房効率が悪い。朝食は二階でといわれていったら、これがなんと古びた洋室。さらに奥にはベッドを置いた板の間に畳の折衷部屋まであり、そういうのが好きな篠田は喜んでカメラを取りに戻る。
 有栖川さん光原さんと会って朝のコーヒーを飲む。いろいろと抱腹絶倒な話が出たのだが、そのへんは書かない。ごめんよー。有栖川さんを見送った尾道大の学生さんたち、いずれも若いお嬢さんたちだが、向こうのホームに行ってしまった有栖川さんから目を離せなくて、じっと物陰に隠れるようにして見守っている様子が、可愛らしいやらいじらしいやらで、なんとも笑みがもれてしまったことでありました。
 本日はぼけっとしたまま洗濯をして、ぼけっとしたまま原稿を書き出す。一応書き終わりました、「館を行く 第七回 ヴォーリズの名建築に泊まる夜」。わりと面白く落ちもついたと思うんだけど、ね。

2004.10.25

 活字倶楽部秋号のカラーページに龍緋比古のイラストが初掲載。これがとても美しくお上手な絵。こうなったら次は是非セバスティアーノを。って、作者のイメージ通りじゃ無理か。でもきっと今度は丹野さんが美化してくれるだろうし。京都在住のブラザー・ファン第一号様、ひとついかがっすか?
 今日は祥伝社の担当が雑誌掲載第一回のゲラを持ってくるので、その場で鉛筆の箇所だけチェック。全五回掲載なので、11.12.1.2.3で来年三月には終わる。篠田はあまり読者をお待たせしたくないので、とっとと手を入れて五月にはノベルスにしてもらうつもりでいたのだが、建築探偵は一応四月刊行を目指しているし、来年はジャーロ連載の長編がカッパノベルスで出ることになっていて、これもまずは年の前半になる可能性が高い。『唯一の神の御名』がいまいち売れなかったのは、建築探偵2冊刊行に立て続いたせいで、読者の財布の紐が堅くなったのではないか、といわれて、それもそうかと考え直す。
 というわけで、まだ確定ではないのだが次回作『紅薔薇伝綺』のノベルスは来年八月になる可能性が高い。ほとんどの読者はノベルスが出るのを待っていることだろうが、申し訳ない事ながらそういうことである。待ちきれない方は500円を投じて小説ノンを買って下され。ウエブからダウンロードして買うことも可能らしいのだが、そうするとせっかくのイラストが見られないからね。
 ただし間が開くといっても篠田が遊んでいるわけではないよ。そこはとっととヴェネツィア編である『霧深き憂いの街』を書き出します。それが終わったらイタリア取材だっ。世界屈指のオカルト・シティと名高いトリノに行くぞっっ。と、担当と再来年の話までして、鬼ならぬ人間ふたりで笑い合ったのだった。どっかでこけたら全部パーのタイトな予定だけど、そうならぬためにも身体を大切にしなくては。

 明日から二泊三日、「館を行く」の取材+有栖川有栖さんの尾道大学講演聴講旅行に出かけます。旅の報告はたぶん省略するので、次回の更新は29日です。

2004.10.24

 だらだらと建築探偵のプロットを練るが、まだ疲れが残っているようで頭がいまいちぴりっと働かない。それでもまあ、どうにか少しずつは動きつつある。としかいいようのない段階なので、今日はおすすめ本を一冊。
『人間の集団について ベトナムから考える』司馬遼太郎 中公文庫
 なんとも地味なタイトルだが、すでに物故した作家が1973年に南ベトナムを旅行したときの旅行記である。このときまだベトナム戦争は終結していないが、アメリカが引き上げて南北の戦いとなった段階だった。つまり戦争の帰趨はいまだ見えていない状態で、しかもアメリカは引き上げる前に大量の武器弾薬を南に与えていったから、物量的には南の方が遙かに北を凌駕していた。しかし司馬は驚くべき洞察力で、すでに三年後の戦争終結までを見通しているようだ。ベトナムにかわいい雑貨を買いに行きたい、というお嬢さんも、一冊くらいこういう本を読んでおいてもいいのだはないだろうか。

2004.10.23

 昨日は朝一で国会図書館に行って、先日依頼したコピーを受け取り、他の本も少し見てから護国寺へ。本格ミステリ作家クラブの執行会議に出て、その後有栖川さん北村さんらと地下鉄で飯田橋へ移動。社内のマンションの釣り広告で「夜サックスが吹けます」というコピーに、「人も殺せるね」と北村さん。こういうとき温厚な表情のまま、一番ブラックなことをいうのが北村さんである。
 鮎川賞のパーティについては別にレポートはしない。その後作家さん数名と二次会三次会をやったけど、そういうプライヴェートなこともパス。今回は不愉快なことはひとつもなく、迫り来る仕事のストレスが少し取れました。
 鮎川賞受賞作2作、読了。さすがに疲れて他のことをする気がしなかったのだ。岸田るり子『密室の鎮魂歌』と神津慶次朗『鬼に捧げる夜想曲』、レクイエムにノクターンと妙に音楽づいたタイトルが並んだが内容は見事に対照的で、2作受賞にしたかった選者の気持ちはよくわかる。いずれも力作。共通点はどちらも密室が登場するが必ずしも密室がミステリの核として機能はしていないこと。これは否定的な意味合いでいっているわけではない。篠田は日本語の文体の良さ、読みやすさや的確な表現、キャラの立てようからして前者に好感を持ったが、これは読者によって評価が分かれるだろう。
 後者はなにせ19歳の作品だからいたしかたない部分はあるにしても、思わず赤を入れたくなる表現が頻出してそれが興趣を妨げた。一例を挙げれば「船が進む」ことを「船が泳ぐ」と表現すること。小説は散文であってポエムではないのだからね。駐在所の留置施設を「座敷牢」と書くこととか、戦中の少女の日記がまるっきり現代文だとか、九州の刑事が説明もなくべらんめえ調でしゃべるとか、細かいことを言い出せばきりがない。横溝をやりたいのはよくわかるけど、横溝が本格に着せた伝奇的おどろおどろの衣装には、やはりそれなりの情念の裏打ちがあった。19歳でそれを書けというのが元来無理な話で、総じて「背伸びして玉砕の力業」を是とするか否か、ということだろう。賞としては将来性を見込んで、というのは無論ありなわけで、今後編集者の良きフォローを期待したい。

2004.10.21

 もしかして台風が悪いのか、夜に入って急激な腹痛。といっても耐えられないほどの痛みではなく腹が張っている感じの鈍痛で、夕飯を食べたらなおのこと具合が悪くなり、酒も飲まずに布団へ入ったがろくすっぽ眠れないままに朝になる。
 というわけで本日はよれよれ。それでも資料本を手放さず、うとうと眠ってはまた読む篠田を誰か誉めてくれ。本日の読書は井上章一『法隆寺への精神史』、伊東忠太が学者生活の初期から唱えていた創見である「法隆寺ヘレニズム東暫説」の背景と変遷をつまびらかに論じた一冊、ですな。法隆寺の柱はギリシャのエンタシス、というのはなんとなく常識のような気がしているが、それはいまや消された学説だというのは始めて聞いた話でもないけどなんとなく意外でもある。しかしまあ、ここまで深入りすると完全に予定しているミステリとは離れてしまうので、いい加減に切り上げないとならんのだ。

 明日は午前中国会図書館に行って、本格ミステリ作家クラブの会議に顔を出して、夜は鮎川賞なので日記はお休み。でも体調不良につき、早々に帰るようにしましょう。

2004.10.20

 夜になっていよいよ風雨が強まってきた。

 今日も伊東忠太とベトナム漬け。彼の、下田菊太郎の帝冠式に対する反論を読んだので、井上章一『戦時下日本の建築家』を取り出して再読。これは上野の国立博物館を初めとして昭和になって盛んに作られた日本趣味の建築と日本ファシズムの関連、さらにモダニズム建築と日本趣味建築の戦いといったあたりをメインにしている、非常に面白い一冊なのだけれど、そこでは伊東忠太は「老大家」の一言で切り捨てられている。老大家は洋館に瓦屋根を乗せる日本趣味建築を推し進めようとし、若手の建築家はそれに反対してモダニズムを主張し、やがてモダニズム以降を問題にするさらに若手が現れて、というような図式なのだが、わからないといいながら忠太とつきあってきたこちらとしては、「彼には彼の建築に対する思いがあったんだし、70や80になってコンペの審査院長にまつりあげられていたからって、それを打倒すべき敵みたいにいうのもかわいそうだよ」とつい文句を言いたくなってしまう。
 ひとつ思ったのは「建築家ってブツがそう簡単に消えないから、時代の流行が変わったり、自分の主張が変化しても、昔作ったのがそのまま残っていると場合によってはイヤだろうな」ということ。上野の国立博物館は西洋風の壁体に瓦屋根なわけで、それに対してモダニズムの若手だった前川国男が出した案があって、これがどう見ても病院みたいにダサイの。モダニズムにもいい建築はあると思うけど、これは落ちて正解というか。そうしたらご当人が「もしもあれが当選していたら、いま上野は目を開けて歩けなかった」と戦後になって告白しているというので思わず笑った。若気の至りだったのね。

 お茶の件、ネットで検索してみたらやはり茶を商品作物としてインドで栽培させ始めたのはイギリスで間違いない模様。中国産の茶の木を持ち込んで栽培させたけど失敗して、アッサム地方に野生の原種が見つかったのでそれを使ったということですが。

2004.10.19

 昨日図書館でコピーしてきた伊東忠太関係資料を読む。参考書などもおりおり引っ張り出しては参照するので、机の上がいっぱいだ。デスクではなく4人で食事が出来るくらいの長いちゃぶ台なのだが、昼を食べるときは一部を床に下ろさなくてはならない。というわけで次第に周辺の床の上も埋まっていく。『失楽の街』を書いていたときは、東京の地図や路線図で床もかなり埋まっていたのだが、今回もずいぶんと。
 明治や大正の時代の文章だから、するっと読みやすいわけでは全然ない。下田菊太郎の「国会議事堂を帝冠併合式にせよ」という提案(このへんのことについて知りたい人は『翡翠の城』を読んでね)に対して、激越な反論をしている文章なんか、言語は明瞭だけど意味はいまいち不明瞭。伊東忠太は「和洋折衷は嫌い」といっているのはわかるんだが、彼が建築家として実際に作った建物のことを考えると、英国アン女王スタイルとインド式を混合した京都の伝道院から始まって、築地本願寺も震災慰霊堂も、みんな折衷にしか見えないんだよね。いや、単純にくっつけたりのっけたりしたんじゃない、木に竹を接ぐようなことはやってない、といいたいんだろうけどさ、結果的にはそんなに違わないじゃん、と思ってしまうのだよ。
 このへんの話はこれまでも建築探偵の中でずっとしているけど、建築における折衷というのは歴史上、地理上でもあらゆる場面で異なる文明が遭遇する場合に起こってきた普遍的な現象であって、手際の善し悪し、動機のさまざま、小分けにすればそれはもうケースの数だけ分類が増えるとしても、大きく見れば「折衷」というくくりの中に収まってしまうと思うわけ。桜井京介は「ミステリにおける探偵」という境界的な役割を負っていて、しかも当人も黒白善悪曖昧な境界に、まさしく折衷的存在として立っているわけで、そういう彼が「建築における折衷」に興味を持つというのは実にストレートだと、後付の理屈だけど思います。
 忠太は理論的には「折衷」を嫌った。しかし彼の建築作品はしばしば明快であるよりは混沌で、おまけに彼はグロテスクな化け物が大好き。そんな矛盾の中に彼のダイナミズムがあった、ということでしょうか。なんか毎日忠太関連のぐちみたいなことばかり書いてるな、自分。これで小説が書けるのか。いや、そこはなんとでもしますがね。ううん、前途多難かも。

2004.10.18

 国会図書館に行ってきた。10月からまたシステムが変わったとかで戸惑うことしきりだったが、昼休みはなくなったし開館時間は延びたし、即日コピーの回数制限もなくなったので、まずは改善。伊東忠太建築文献という6巻本でコピーをいろいろ。それとフランス領インドシナに進駐した陸軍軍人の回想記とか、植民地を旅行したフランス人の旅行記とか。役に立つかどうかははっきりしないが取りあえずコピー。値下がりしていました。1枚25円になったようだ。でもかなりお金を使ったな。
 しかし伊東忠太という人物の全体像は、ますます混沌として要領を得ない。写真を見ると内気そうな顔をした、どちらかというと可愛らしいおじいちゃんである。晩年は、だけど、若いときもその内気そうな感じは変わらない。東大で講義を受けた元学生の人も、物静かで小さな声で話す先生だった、といっている。だけどやることといったら、ヨーロッパに留学して教授になるのが当たり前の時代に、ほとんど単独で中国から雲南省を通ってさらにインドへ行って、中東ヨーロッパアメリカ、3年かけて建築踏査旅行をしちゃう。妖怪変化が大好きでそういうマンガを仕事の合間にせっせと描く。西本願寺の大谷光瑞や、財閥の大倉喜八郎をパトロンにして奇天烈な建築を作る。そうかと思えば政府から依頼されて朝鮮神宮や台湾神社を造ったと聞くと、こりゃがちがちの国家主義者かしら、なんてふうにも思える。文章は時々過激。でもマイクロフィッシュで読んできた旅行エッセイなんかだと、わりと普通の俗っぽいおじさんじみている。中国で温泉に入ったら隣の女湯が見えて、纏足というのはなかなか奇形っぽいもんだなあ、なんて書いてたりして。その統一感のなさというか、平気で分裂しているところが実にいわくいいがたいんだよねー。

 一昨日の日記の記述について質問が来たのでお答え。インドと紅茶とイギリスの話。イギリス人は最初中国からお茶の葉を買っていたんだけど、高くて輸入超過なのに業を煮やして、自分が植民地をしているインドで栽培させることにしたんで、イギリス以前にインド人はお茶を知りませんでした。いうまでもなく緑茶も紅茶も元は同じ茶の木から取れます。中国からは綿花を買ってアヘンを売り、イギリスからインドへは綿製品を売って茶を買い、というのが悪名高い三角貿易、じゃなかったっけ? その結果インドの紡績業は壊滅したので、それに対する戦いとしてガンジーは「イギリス製の綿布を買うな」と糸紡ぎをした。なにかまだ抜けているような気もするので、この続きはまた明日にでも。

2004.10.17

 伊東忠太に関する本を再読。さらにベトナム近代史の本を読みながら年表を作る。本当にこの国は辛酸をなめているなあ、というのが実感だ。19世紀末、中国が列強の食い物にされているのと大して違わない時期からフランスに入り込まれて、植民地にされて搾取されて、太平洋戦争末期には日本軍に進駐されて餓死するほどに収奪されて、日本が降伏したからさあ独立と思ったらフランス軍が再侵略。これと戦ってやっと勝ったら、国を南北に分断されて、冷戦構造のおかげで南にアメリカが浸透して、それから戦争がまた10年以上続いたんだから。
 手にした山川出版の歴史本は完全にマルクス主義史観というか、北によるサイゴン陥落は解放で、共産主義政権下での農業建設はプロパガンダ的な公式写真の羅列で、いまとなってはボートピープルも、南部人の複雑な心境も、いろんな迫害や悲劇も明らかになっているから、とても北ベトナム万歳には同意できないけど、じゃあこの百数十年の戦乱続きは彼らが悪いのかといったら全然そんなことはないわけで、思わず「ふう」とため息をついてしまうのだった。
 こういうことはほとんど作品には関係ないんだけど、旅行者視点からでも現代のベトナムを描こうと思うなら、常識程度のことは頭に入れておかないとね。明日は国会図書館に行って参ります。

2004.10.16

 小説を書き出す前の小説家というのは、きっと傍目からしたらものすごく怠惰にだらけているようにしか見えないんだろうなあ、といまさらのように思う。集めた資料本を廻りにだらしなく広げて、あちこち拾い読みしてはノートに少しメモを取ってみたりしても、それをきちんと完徹するわけでもなく、かといって落ち着いて本を読むという感じでもなく、そのうち眠くなってうたた寝しちゃったりして。自転車もさぼってしまった。身体を動かすのも、なにか食べるのも億劫な気分。でもまあ、頭はいろいろと動いてはいるわけです。
 過去の事件は次第に固まりつつあるんだけど、それと関連して現在進行形で起こるいまの物語のプロットが、まだきちんと出来ない。まして登場人物の大半はベトナム人だ。なんかすごく面倒なことになっちゃったなー。いまさら後には退けないわけだけど、いまくらいの段階が「しまったなあ、もうちょっと書きやすいことを考えていれば」と後悔したりしやすいわけなんだけど、まあなんとかやるしかないでしょー。
 でも、ベトナムってやっぱり不思議な国だ。植民地になっていた国と元の宗主国に、独立運動から考えれば明らかな敵同士であるにもかかわらず、ある種の親和性が残るというのは、わかるかな。インドとイギリスの関係みたいな。インド人はイギリスの習慣の名残で紅茶を飲むし、クリケットをやったりする。ベトナムにとってはフランスがそれで、フランスのインドシナ支配はそりゃもう阿漕な搾取だったそうで、革命家に対する弾圧も残酷を極めたことはいまも保存されているギロチンなんか見ても明らかなんだけど、それじゃフランスの建築遺産なんかが、韓国で日本支配時代の建築が解体されるみたいにされるかというと、そういうことはないんだ。美味しいフランスパンは焼かれているしさ。そのへんの寛容さが、特にベトナムはかなり広い気がする。ベトナム戦争で明白に敵だったアメリカに対しても、いまは毛嫌い的な感覚はないみたいだしね。実は日本軍も太平洋戦争末期に北ベトナムに侵攻して、何十万って餓死者が出るくらいめちゃめちゃに食料を略奪したらしいんだけど、だからって日本人に石は投げられないしね。だからといって、その史実を知らないのはまずいと思うんだけど、教えろよ、少しは学校で。

2004.10.15

 誕生日まであと一ヶ月だと、はたと気づく。51歳である。別に生きていれば年を取るんだから仕方ないけど、気力体力の低下を感じているとやはりあんまり嬉しくはないなあ。まあよけいなことをする余裕がなくなった分、仕事に集中できるといえなくもない。

 朝松健さんのサイトにイタリア人作家の書いたオカルト都市トリノに関するエッセイが載っていると教えてもらったので、早速読みに行く。これはもう書くしかないでしょー、という感じ。目新しいネタがあるわけではないが、「トリノには聖杯が隠されている」とか「古代エジプト人が入植して出来た街で、ある教会の地下には黒い聖母子が祀られている」とか読むと、ぞっくり嬉しくなってきてしまう。そうです、トウコがヴェネツィアまで救出に駆けつけたのに、セバスティアーノ姫はあわやのところで再び敵の手にさらわれてしまうのですねえ。そして物語はトリノに移る。危うし、セバ姫の純潔。いや、やおいはやらないよ。だってやっぱり篠田の中では彼は美形ではないんだもん。美形じゃないと襲われたってしょせんはギャグだ、ギャグ。(まだそっちの話してるんか、おまえはっ)
 えー、ちゃんと建築探偵の方も考えています。月曜日は国会図書館だ。資料の請求番号はネットで調べたし。ただ、伊東忠太はかなり刺身のつま程度になってしまうかな。このへんの方になってくると、遺族はまだご健在だし、あんまり史実と虚構を混ぜてなにか差し障りがあっても、なんてことも考えてしまうんだよね。
 ただ、資料を読んでいて「ふと気が付く」のって、ある事実が書かれていることではなく書かれていないことだったりする。つまり伊東忠太は1912年にベトナムに行っているんだけれど、この時代ベトナムはフランスの植民地として圧政に苦しんでいて、翌年には中国で辛亥革命が起きてっていう、かなりきな臭い状況だったんだが、そういう時代に伊東忠太はアジアの人間にどういう視線を持っていたのか、それがいまひとつわからない。彼の年譜を読んでもなにも伝わってこない。それがかえって気になってならないんだよ。

2004.10.14

 グレゴリオ聖歌を聞きながらたまっていた読者からのお便りに返事を出す。これがほとんど一日仕事。

 小説ノンの担当と電話で話す。今回はなにせメインがセバスティアーノで、これが作者のイメージでは鬱病気味のネズミ男だし、龍も変装の必要があっていささか汚い系になっているのだが、「丹野さんには好きなよーに美化してやってくださいと伝えてね」とお願いしておく。
 小説というのはマンガと違って、読者が自分のイメージで好きなようにキャラを想像できるところがいいので、「不細工」と書いてあっても性格が気に入ってくれば自然にそのへんはフォローしてしまうもの。セバスティアーノも性格は決して悪くないというか、当初の癖のある悪役系からなぜか純情青年の正体が丸見えになってきてしまったので、あらまびっくりの美形ブラザーが描かれても別によろしいのじゃないでしょうか。篠田的には、いままで自分が出した中では一番見てくれのぱっとしないキャラを、大いに楽しんではいるわけなんですが。

 ああ、でもこれでしばらく彼ともお別れです。明日からジャーロの最終回の原稿をチェックして、その後はすぐに建築探偵に入ります。夏に読んだ資料はほぼ忘れているから、それをもう一度思い出して、それから国会図書館にも行かないとね。皆様、日本で唯一の国立図書館は、コピーが高いんですよ。1枚確か35円に消費税がかかったりするんですよ。おまけに絶版本でも著作権に触れるって、半分しかコピーしてくれないんですよ。そんなのザル法の形式主義じゃんかっ。

2004.10.13

 やっと歯医者も終わり。しかし体調いまいち。それでもどうにか『紅薔薇伝綺』第五回の直しを終える。なにせ視点人物のセバスティアーノが真面目すぎるくらい真面目人間だから、「エンタテインメントでここまでやっていいのか」というくらい、真面目に悩みまくる小説になってしまった。モーツァルトとグレゴリオ聖歌とふたつのレクイエムを交互に聞きながら。モーツァルトの遺作は彼自身が作曲したのは頭の部分だけ、とか最近ではいわれているけれど、やはり劇的で変化に富んでいてオペラみたいで、それはもう素晴らしい。だけどグレゴリオ聖歌の素朴で簡素な旋律はまことに捨てがたい。セバスティアーノ・ファンはぜひCDを探して聞いてみてくだされ。

 少し違う話をしよう。先日の花園大学公開講座で、司会の佳多山大地君の発言がなかなか創見に満ちていて面白かったのだけれど、そのひとつに「最近のファウスト系の作品はすでにキャラ萌えではない、パターン萌えではないか」というのがありました。篠田はファウスト系をほとんど読んでいないので、これについて論じる資格はほんとはないんだけれど、キャラを立てる書き方をしていると見られている物書きのひとりとしては「なるほどな」と思うところはあった。
 つまりキャラを立てるというのは、パターンに乗るのとは逆なんだ。パターンを掘り下げてそこから新しい発見をするか、あるいはパターンを破壊する方向で想像力を働かせるか。「名探偵」というのはひとつのパターンで、それをいかにずらしていくなり崩していくなりするか、というのが作家の創造でしょう。最近は「トラウマ持ちの美形の名探偵」なんてものまで一種のパターン化してきてしまったけど、少なくとも篠田が『未明の家』を書いたときにはまだ誰もそんなのは書いてなかった。
 でも、たとえパターンといわれるくらいたくさん「トラウマ持ちの美形の名探偵」が出てきても、篠田は別に困らない。桜井京介はすでに、そんなパターンの中に収まったキャラではないものね。彼には彼のリアリティがあって、そういう意味でキャラが立っているもんね。ザマミロ。

2004.10.12

 やはり若くないなー、とつくづく。仕事場と家を往復して、原稿書いて自転車乗って腹筋して酒飲んで、月に2.3度東京の本屋に行って、という生活をしている分には何の問題もないに等しいのだが、今回のように仕事の用事で離れた街に行くと、その後ペースがなかなか戻らないことといったら、もー。しかしそれなら70過ぎて『総統の子ら』の取材のために富士の裾野で自衛隊の戦車に乗った皆川博子先生はどうなのっ、と己れを戒める篠田でありました。
 グレゴリオ聖歌のレクイエムを聴いてから、モーツァルトのレクイエムをかけると、これはもちろん素晴らしいのだけれど、とにかくドラマチックというか、印象の違いを絵にたとえればジオットとティントレットとでもいいましょうか、後期ゴシックとバロックくらい違う。ただモーツァルトの場合伴奏音楽の役割が非常に大きいということもあって、アカペラで歌われ、人の肉声だけで聞けるグレゴリオ聖歌の方が今回の場合にはふさわしいということである。だが買ったCD、男女混声の合唱なんだよね。やはりグレゴリオだと男声だけの方が、というわけで、アマゾンで頼んだ方もキャンセルせずに待っていようっと。

2004.10.11

 さすがに疲労残り。しかし宅急便が思いの外早く届いたので、がんばって電車に乗って銀座までレクイエムのCDを買いに行く。この前長崎で買い逃したカクレキリシタンのお祈りのCDが思いがけず見つかったし、キリスト教関係の書籍でも欲しいものがあって、また来ようとそれは良かったのだが、帰り道アンケートおばはんに捕まって30分も石けんのCMを見させられ、助けてくれと頭痛が復活。仕事場に帰り着いてもさすがに仕事をする気力はなくて、少し部屋を片づけたり寝転がって本を読んだり。
 それからやっと買ってきたレクイエムをかける。これまではレクイエムというとついモーツァルトだったのだが、あれはすでにロマン派の時代、宗教性に変わってドラマ性が強調されてきている時代なんで、印象はずいぶん違う。しかし、美しい。やはりあそこでセバスティアーノに歌わせるのはグレゴリオ聖歌であたりだったのだわ、ぞくぞく。もっと歌を入れたいとも思うが、読んでいる人に聞こえるわけではないから自粛しますけどね。
 しかし頭の中には二本分の長編、『紅薔薇伝綺』のクライマックスと建築探偵の出だしがごちゃまぜに渦を巻き、無論それ以外に現実も認識しているわけだから、脳みそは相変わらず異常興奮状態で、そんなときに新聞屋がチャイムを鳴らしたりすると、マジで殺意を覚えるぞよ。

2004.10.10

 無事に戻ってきた。前日入りしたおかげで新幹線が止まったのにもひっかからず、肝心の10/9は雨もほとんど止んでいたというわけで、まずはラッキーというべきか。もっとも来てくれるはずの人が東京から来られなくなったり、京都の友人だけど雨で滑って捻挫して欠席になったり、「お足元のお悪い中」は冗談でもなかった。話の方はなにぶんにも、本職ではないので勘弁していただきたい。少なくとも篠田に関しては、まったくもってろくなものではなかった。おまけに声を出している最中にこめかみがすごい偏頭痛に見舞われて、冷や汗がわき出す始末。マジでやばいかと思った。物書きを十年もやると引きこもりモードが身に付いて、最近はパーティも出たくないし、こういう催しもつくづく苦手だといまさらのように感じてしまう。
 その後サインの列にもずいぶんたくさんの方に並んでいただいて、手紙で名前のみ知っている方とも何人もお会いできたのだが、後ろの人に申し訳なくてほとんど話をする余裕がない。普通書店でサイン会をすれば、書店の人が後の人数に気を配ってくれるし、開いた本のページを押さえたり、名前を紙に書くようにしてもらったり、落款も押してくれるのでまだいいのだが、今回は話の後で疲れていた上に全部自分一人でやらなくてはならず、疲労が倍加したということもあり、ますますお話をする余裕がなくなってしまったのである。どうかそのあたりの事情を汲んでくださって、ご勘弁願います。
 雨の中ではあったが、10/8は北白川を歩いて、建築探偵開幕部分のロケハンが出来た。帰りの今日は新幹線の時間まで街を歩いて、三条通の石黒香舗で麝香の匂い袋を買う。和服の京美人というムードの店員さんが、選んだ錦の袋に香木のかけらを詰めてくれるのだ。ただしこれはお土産ではなく、「次回作に小道具として使おう」と思ったから。我ながら商売熱心だ。
 しかし帰宅したらアマゾンに頼んであったレクイエムのCDがどうも手に入らないらしい。検索したら銀座の教文館にひとつあるらしいので、しかたないから買いに行くか。あ、でも明日はホテルから送った洗濯物が届くから待ってないと。でも、枕から頭が上がらないかなー。

2004.10.07

 明日から京都だが、篠田がいる3日間はもろに雨らしい。中でも講演会のある10/9は一番の降りらしい。でもこれで「お客の入りが悪いのは雨のせいだ」と言い訳が出来るもんね。街を歩くときは、観光客が少なくていいと思おう。
 荷物のチェックなどをしながら、食卓兼用の仕事机の上を入れ替え。「龍」から「建築探偵」に。いつまでも可愛いセバスティアーノと遊んでいるわけにはいかないのだよ。しかし、たぶんそんなことだろうと思ったが、八月に読んだヴェトナム関係の本の内容はほぼきれいさっぱり忘れている。やばい。おまけにプロットをいくらか考えてメモってあった気がしたのだが、それは幻であったらしい。さらにさらに、シリーズの残りのことを考えたりしたら、急にプレッシャーがひしひしと押し寄せてきてしまった。
 終わるのね、終わらせないとならないのね、ちゃんと終わるんだろうか(おいっ)。いや、だけど終わりを決めないまま延々と続けるというのは、たぶん篠田の流儀ではないのだよ。というか、そんなことは赤川次郎さんのような天才しか出来ないと思う。サザエさんをやりつつ作品のレベルを保つ、なんてことは。
 だいたい次回作の正式タイトルもまだ決まっていない。『夢魔の鏡』で語呂的にも意味的にもいいと思うのだが、『夢魔の旅人』ともろかぶる。まあ、あっちは短編集だし、ホラーだし、版元は違うし、さらに元本は影も形もないというか、新刊書店ではろくすっぽ見かけなかった。いや、ブックオフでも見てないけど。
 それはともかく、自分でもよくわかっていない歴史のこととか書き出していくと「ああ、こんなことコマコマ考えても、誰がそんなあたりを読んでくれるだろう」というような虚無的な気分が押し寄せてきて、どうもいけない。また睡眠不足気味なので、少し精神が退廃的なところに流れている模様なり。
 気分転換に旅行させてもらうってことで、雨だろうがなんだろうが京都、いいでしょうっ。物語はプロローグはベトナムで、開幕は京都です。北白川の疎水の脇を京介が歩きます。誰がとなりにいるか、は読んでのお楽しみ。綾乃ちゃんではありません。

 京都でお目にかかれる方、楽しみにしています。お手紙を下さったことがあったら、ぜひ声を掛けてやって下さい。戻りは日曜になるので、たぶんその晩の日記は書きます。

2004.10.06

 久しぶりの晴れ。歯医者も簡単に終わったので池袋まで本を買いに行く。この前買い損なった喜国さんの『本棚探偵の回想』と、うちの近所では売っていない野間美由紀さん『パズルゲームハイスクール』文庫版の10巻。とんぼ返りで戻ってきてジム。昨日もあんまり眠れなかったので、なんかへろへろしてしまう。

 祥伝社とは「龍」以外の仕事をするプランもあったのだが、とにかくイタリア編を最後まで出すのを優先しよう、というので納得してもらった。まだ『紅薔薇』も出ていないんだから、都合4冊だ。しかし篠田の頭の中には、次々とヴェネツィア以降の場面やキャラも浮かんできて、いささか興奮状態でまいっている。なぜまいるのかって、体力がついてこない。小説書くのもけっこう体力勝負です。だけど「死にそー」が冗談になるのは死なないからでありまして、ほんとに死んだら当人も読者もたまらないよね。いま吉田直さんの文庫を読み直して、「作者の言葉」に「死ぬかも」なんて書かれているの見ると、また1時間くらい落ち込んでしまうもの。だから物語様、いくらそう湧いてきても、すぐに書く時間はないんだから、どっかにたまっていておくれよ。
 しかしつらつら考えるに、これはすべてセバスティアーノというキャラに由来しているのだね。最初は「ほとんど敵」のキャラで、しかし透子が彼の不幸な過去に同情してしまい、ライルから「トウコはリュウを裏切るのか」なんてなじられる、といったシーンを考えていたのだが、いざ書き出すと透子はてんでクールで同情で足を取られるなんてことはなくて、逆に心優しいのはセバスティアーノの方で、しかも彼はヴァティカンの人間でありながら日本人、教会に疑問を持っても神は捨てられない、あらゆる意味で境界的人格なので、磁石のようにいろんな要素を、敵も味方もひっつけてしまう。
 建築探偵の場合、この種の求心力を持ったキャラは蒼なんだけど、蒼とは求心力の質が違うのでありまして。なんてことをまあ、考えております。京都行きの準備をしつつ、頭をそろそろと建築に向けなくては、と努めつつ。

2004.10.05

 どしゃばしゃと降りしきる雨を横目に眺めながら、一日「龍・ヴェネツィア編」のプロットを作る。一応4回目まではほぼきっちり作って、6回の予定だから、今度はクライマックスにどんなことが起きるか、ラストはどういう感じでいくかをメモしておく。こうすると5回目はそれまでの部分とクライマックスを繋ぐ話になるから、そこまで全部プロットにしてしまうと、いざ本番を書いているときにその過程で発展したり変更したりしたところを、吸収しづらくなってしまう。わざとそのへんで手を止めておこうというわけで、だいたい気も済んだし、これで頭を切り換えるというのでいいんでないかな。
 ただしヴェネツィア編はそこで完結していない。さあ、どうなる、という感じでトリノ編に続いてしまうので、読者の方には大変申し訳ないのだが、そう毎度毎度みんなでお茶会をしているわけにもいかなくて。『紅薔薇』ではしっかり飲んでますが、その後はローマ編の完結までお預けだと思って頂きたい。そこまで行けばちゃんと、ある程度はめでたしめでたしになります。ハッピーエンドとは言わないが、まあキャラのどなたにも納得していただける状況にたどり着きたいもの。
 そして全国の何人いらっしゃるかわからないけどブラザー・ファンの皆様。イタリア編3巻もずっと通して彼は出ます。出るというか、踏まれるというか、一番しんどい思いをさせられるのは彼でしょう。篠田は愛したキャラほどいじめたい書き手でありまして、そりゃまあ順風満帆な人生をだらだら書いても仕方ないものね。がんばれブラザー。男の子なら耐えるのだ。上がりまで行き着けば夢の中でなくて透子にキスして貰える、かもしれないぞ。未定だけど、還俗しない限りは貞潔でいなければならない聖職者なら、あとはもう強引に奪って貰うしかないもんねー。

 荷物作らなきゃ。でもその前に明日はまた歯医者なんであります。うー、前日から憂鬱なの。

2004.10.04

 梅雨のように毎日の雨だが、今日は雨の中で金木犀がほころんでいた。この花の香りをかぐと一番に思い出すのは漫画家内田善美の最高傑作『星の時計のLidell』だ。あんまり好きなので、もったいなくてめったに再読しない。記憶の中でページをめくり返して、その美しい絵をうっとりと眺める。すでに新刊書店では手に入らないので、ブックオフあたりで見かけたら迷わず購入をお勧めしたい作品です。ハードカバーの3冊本だったが、この精密な絵を文庫にするわけにもいかないんだろうし、復刊サイトでも話題には上らないみたいだなあ。

 龍の続き、今日で終わりにするつもりだったのに、そうすきっといかないんで困っている。怒濤のようにとはいかないんだけど、考えているとちびちびなんとなく話が出てきて、今日で3回目分までのプロットをまとめる。やってしまいました、透子と龍のゴンドラ・デート。ただしおじゃま虫はいないので、ちゃんとシリアスに、です。例によって自分で書きながら、「えーっ、こう来るの?!!」とかいってる。もう一日だけ、こっちやろうかな。旅行に行けば絶対に気分も変わるはずだし。
 しかし自分で書いていてつくづく思うんだけど、吸血鬼って設定はエロですね。プラム・ストーカーの場合ホラーっぽさやアクションっぽさが強く出ているし、ドラキュラ伯爵はちっとも美しくないんでそのへんがどうよだけど、あれはやっぱり吸血鬼が美男だと襲われる美女とのシーンがエロに傾きすぎるからだと思われます。篠田の正統派吸血鬼は美少年、でも襲われるのも男なの(趣味丸出してスミマセン)。女性はアクション担当です、敵も味方も。

2004.10.03

 今朝も目は覚めたが、わりとぐっすり眠れたのか頭痛はほとんどなし。痛かったりぼけたりするんでなければ、少々眠れなくてもなんてことはない。
 頭を切り換える前に浮かんでいる分のプロットを書き留めておこうというわけで、龍のヴェネツィア編の筋を書き留める。連載二回分まではいちおう出来た。明日一日はこれをやることにしよう。しかし、エンタテインメント小説は基本的に一冊完結するべきだとは思うのだが、このシリーズもだんだんそうはいかなくなってきて、悩める修道士を核にした物語は『紅薔薇伝綺』をプロローグにイタリア編を貫いてしまうことになる、だろうな。そりゃあ。なにせヴァティカンがそう簡単にギブアップするはずはないし、セバスティアーノは教会からは次第に心が離れていっても、神に対する信仰を捨てることはなさそうだし、そうするとどうしても彼はヴァティカンと龍の間に挟まれて苦悩するしかないわけで、そんなに悩まないで、いっそ還俗して透子とくっついちゃえば? とか作者も思うんだけどそれは無理だしね。
 ヴェネツィア編のラストでも彼はまた「あーれー」という感じで敵に引っさらわれて、さらに囚われの姫を追う勇者の冒険は続く。しかし、作者自身が「鬱病気味のネズミ男」と称している野郎が「姫」だってのもどうよ。我ながら。女が出れば悪女か猛女、きれいどころは男ばかりの篠田伝奇。てこ入れに女性キャラでも出そうかな。でも、いまから出るとしたら完全に敵側だな。シスターのベールをひらめかせ、なんて、亡くなられた吉田直さんが化けて出るかな。化けてもいいから出て欲しいよ。

2004.10.02

 昨日というか、今朝は少しは長く眠れたので、頭痛が治まっていると思っていたが、昼前くらいからまた痛くなってきた。喫茶店に行って次回というかその次のプロットをノートにメモする。舞台はべったりヴェネツィアなので、本格的に書き出すときにはもちろんヴェネツィアの地図を脇に置いて、それとこれまで建築探偵『仮面の島』と『天使の血脈2 堕とされしもの』で二度ヴェネツィアを舞台にしてきたので、出来ればそこには出てこない場所なんか入れて、といったことも考えたいのだが、いまはまあそこまではやらず、頭に浮かんできたことを忘れないうちに書き留めておく程度にしよう。さもないと書きたくなってしまってまずい。そういうふうに早々と萌えてしまうと、いざ本番というときになんだか気が抜けてしまったりするから。って、こりゃプロのせりふじゃないねえ。
 不眠症の一因にはもしかするとコーヒーの飲み過ぎというのもあるかもしれないので、今日は一杯だけにして、家に戻る。でも頭痛でしばし沈没。それから気を取り直して自転車漕いで、プロットの続き。わかったことは、今回もセバスティアーノはいじめられまくるということでした。でも、耽美な吸血鬼を書くのもとても楽しみです。脇役だと、かなり思い切ってベタなお耽美も書けるもんね。レギュラーの連中が乱入すると、どうなっちゃうかわかんないけどね。たまには透子にドレスでも着せるか。タキシードの龍とゴンドラ・デート、なんてのもええなあ。え、漕ぎ手は鴉?  赤いリボンの麦わら帽子に青い横縞のぴちぴちシャツ、あらえらく似合いそう。

2004.10.01

 最近不眠症がどんどんひどくなってきて、寝付きは良いんだが朝早く目が覚めてしまう、その覚める時間も早くなってきてしまい、今朝は4時ぐらいから起きてたから頭が痛くてどうもならん。しかしそんなこともいってられないから、『紅薔薇伝綺』の第五回直しを一応最後まで通す。110枚。いまのところ5回で540枚。レクイエムのCDが手に入ったら、少しそのへんの描写が増えるだろう、というのはクライマックスでセバスティアーノがレクイエムをグレゴリアン・チャントの旋律で歌うからです。芸が多いぞブラザー。
 昼過ぎに食事しないで書き終えて、午後は自転車漕いで沈没。手持ちのグレゴリオ聖歌のCDをかけると、なんかその向こうに悩める彼がいるみたいな気分。しかしこないだ四谷で買ってきた新しいグレゴリオ聖歌は、伴奏がオルガンで入っているしずいぶんメロディアスで印象が違う。どっちかというとアカペラがいいな。
 仕事場の部屋の中は散らかり放題に、キリスト教関係の資料がぶち広がっていて、これを片づけて頭を切り換えないとならないんだが、それが苦手な人間で、まったく。建築探偵より「龍」の次回作のイメージがぼこぼこ湧いてくる。いよいよイタリア編なんだが、これまではちっとも吸血鬼話らしくならなかったでしょ、このシリーズ。うちの龍さんは日向で居眠りできるやつだし、ライルはあの通り野生の子だし、透子はおよそ吸血鬼話に登場するヒロインのことごとく逆をやってるし、でも次回はヴェネツィアを舞台にするので、ヴェネツィアならそりゃもう耽美でしょう、と勝手に決めつけて、アン・ライスばりの憂愁に満ちた美貌の吸血鬼美少年を登場させます。そしたらその子がどうして吸血鬼になったか、というようなエピソードがいろいろ湧いてきて、でもこういうのはちゃんと書き留めておかないと、それも面倒がらずにこまこまと。さもないと絶対忘れるんだよ、篠田はっ。