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2004.06.30

 西澤保彦『パズラー』を読了。ノン・シリーズの本格ミステリ短編集というのは、今日日確かに珍しい。しかし西澤さんはいまでこそ、「チョーモンイン・シリーズ」や「タックとタカチ・シリーズ」で高名になっているが、デビュー初期は講談社ノベルスでSF風本格ミステリの長編をつるべ打ちして、これがこどごとくノン・シリーズのミステリ長編、それもあっと驚くような趣向を凝らしながら常に本格、という技を見せてくれていたのだった。
 シリーズにしてレギュラー・キャラを定着させ、彼らの成長をもって小説的な面白みとするというのは、いまや珍しくない。物書きにとってもそれは、わりと当然の欲求ではないかと思ってしまう。だが、敢えてそれを安易な道として退けたところに西澤ミステリの真骨頂はある。そんな気が最初からしていた。最近はどちらかといえばシリーズ物系にシフトしつつあると思えた西澤さんだが、ご本人の存念はやはりキャラよりはミステリなのだろう、と今更のように痛感させられた一冊だった。
 篠田は、ここのサイトを見てくれている読者にはほぼおわかりのように、シリーズ物にこだわる人間だし、それが悪いこととも思わない。だがシリーズ物を書き続けることが、ミステリと称する小説を売るための手段となってしまったら、それは退化以外のなにものでもないし、最終的にはそんなところから読者も逃げていってしまうだろうと思う。

 明日から二泊三日で京都取材。日記の更新は日曜日になります。

2004.06.29

 『黄金の島』は昨日の夜読み終わったが、「男の人はこういう話が好きなのかなあ」という感じだった。とにかく主人公がストイックでタフで、恥ずかしいくらい格好いい。やくざからは失格の烙印を押されたという設定だが、女にはやさしいし、良心的だし、不正義は憎むし、ハンサムだし、もう。そして「いかにもいい人」は真っ先に殺され、主人公も無惨に殺され、主人公と争っていたベトナム青年は主人公の復讐をして殺され、残るのは子供と女と女の生んだ赤ん坊。冒険系は気質に合わないと思っていたが、今回もそうだった。

 京都取材の予定を立て直す。どうせ全部は見られない、というわけで少しずつあきらめて無理のないプランに。つれがいるので「建物の面白いところでお茶を飲んだり食事をしたり」というのはある程度優先。完全に抜け落ちたのが寺社見物と買い物。なんといっても近代建築の取材なのだからそれは当然。
 10月の講演会はよく考えると連休初日なので、こんなときに部屋が取れるのだろうかと心配になり、サイトでトライしてみるが、早すぎるからか観光シーズンだからか、便利の良さそうなホテルは予約が入らない。観光が目的ではないし、10/10は予定があるのでさっさと帰ろうと思っていたのだがこの始末。やばいなあ。いざとなったら学生の時みたいに、夜行バスで帰ろうか。

2004.06.28

 こう来る日も来る日も蒸し暑いと、さすがにことばがなくなるな。今日のベトナム本は『ベトナムの微笑み』平凡社新書 三井物産の支店長が書いたエッセイなので、昨日の『アジアの隼』の登場人物のひとりでも不思議はない立場なんだが、この人は奥さん子供連れで品行方正だし、役人に賄賂を要求されることも、シクロドライバにぼられることも一切なく、出会うベトナム人はみんないい人ばっかりという。なんかこうまで礼賛されるとちょっとしらけるのであります。その後真保裕一さんの『黄金の島』を読んでいる。日本から放り出されたはぐれやくざとベトナムの若者たちが、出会ってともに日本を目指すという、まだそこらへんまでしか読んでいない。ベトナムの描写には力が入っているが、主人公のやくざはやたらとかっこよくてとてもやくざには思えない。篠田はやくざが嫌いなんで、よけいそう思うのかも知れないけど。

 今日あたりになって、だんだんと「お話が書きたい欲」がうごめきだした。しかしそういうときというのは、絶対に次やその次に書かなくてはならない話ではなくて、「いつか書きたいけれど依頼がないや」的な話なんである。そうやって頭の隅にずーっところがっている話というのはいくつかあって、『アベラシオン』もそうだったからいつか書けるといいな、なんでありますが、今回むくむくと発酵しだしたのは、連作短編ネタ。幻想+ミステリというか、ミステリ風味の幻想というか、一応合理的に落としておいて後で「でもこれが真相かどうかわかんないよ」ととぼけるタイプ。「わたしのおじさまはとてもお金持ちで、それはそれは大きな庭を持っておられて、そこにはシナ風の塔や、ピラミッドや、ギリシャの神殿や、いろいろ不思議なものがあったの。おじさまはわたしにくれるといった小さなシナ風の園亭の中で殺されたけど、そのときおじさまのそばには誰もいなかったのよ」とまあそんなのが第一話です。どっか不定期に雑誌掲載させてくれる、奇特な出版社はないかなー。

2004.06.27

 白神こだま酵母で「湯種パン」というのを作る。ベトナム関係の本を読む。エアロバイクを漕いで汗にまみれる。毎度の日常。
 今日読んだ本は『アジアの隼』祥伝社 「ベトナムの描写がたくさん出てますから」と祥伝社のYさんが送ってくれたもの。ジャンルとしては経済小説か。理解できないそういう部分はほとんどすっとばして読んだけど、けっこう面白かった。しかしベトナムの役人のたかり体質を描写した部分は、「きっとこの通りなんだろうな」とかなりうんざりする。人間誰しも卑しい部分はあって、それが露出するのに体制は必ずしも関係ないのかも知れないが、共産主義政権の下でしばしばこの手の卑しさが表れてしまうのも事実。人は貧乏なだけでは卑しくはならない。富の不均衡を目の当たりにして「不公平だ」「ねたましい」と感ずるとき、たかることに正統な理屈がつけられるとき、歯止めを失って人間は限りなく卑しくなれるのかも。
 『王子の亡霊』集英社 ベトナム本を買いに行ったとき、たまたま目に付いた「17世紀ヴェトナム歴史ミステリ」。フランスに亡命したベトナム人姉妹の合作だそうだ。絢爛として色彩豊かだけど、ミステリとしてはかなり退屈。ミッシングリンク+意外な動機ではあるのだが、エキゾチシズムを売りにしているばっかり、という感じがしてそれほどすばらしい小説とは思えない。汚いものや臭いものの描写がしつこくて、そのへんに感覚の違いみたいなものを感じた。

 皆川博子先生が「読売に『アベラシオン』の書評が出ていますよ」とメールで教えて下さった。あわてて新聞を入手。ほんとだ、書影入りでかなり誉められている。全国紙に書評が出たのなんて文字通り初めてなので、喜びのあまり床をごろごろしてしまう。それを教えて下さったのが尊敬する皆川先生だというので、またひとしおの喜びにごろごろごろ。わあい、がんばって書いていれば、たまにはいいこともあるよねっ。

2004.06.26

 祥伝社に、来月号の小説ノンに載る柴田よしきさんとの対談をやりに行く。柴田さんは論客である。能弁だというだけでなく、大状況を語ることが出来る。それも他人の意見の借り物だったり、観念的でなにをいっているのかわからなかったりするのではなく、具体的で説得力と創見に満ちている。篠田は口を開けて聞き入るばかり。まとめをする末國さんがさぞや大変であろう。

 10/9に京都の花園大学で近藤史恵さんと、対談というか、舞台の上でくっちゃべることになった。これまでは京都大阪の錚々たる新本格系作家が登場しているところに、近藤さんはともかく篠田のような、ミステリ専一でもない物書きが登場していいのだろうか、という気もしないではないのだが、そこはずうずうしく「まあ、しゃべれることをしゃべろうか」という感じ。しかしどうしても脳内のイメージが、「うちら陽気なかしまし娘〜」という感じで、漫談か漫才しか思い浮かばないんだよなあ。ギャラももらうんだから、もうちょっとぴしっとせんとあかんぞ、自分。

 今日も二通ファンレターを頂戴した。有り難うございます。少ししたらお返事を書かせてもらいます。いまはペーパーは作っていないんです。新しいのが出来たら、ここで告知したいと思いますが、いま頭はひたすらベトナムなんですよ。つまりすでに次作に向かっておりまして。それから建築探偵シリーズ全体の構想やなんかについては、告知板に書かれていますのでそちらをお読み下さい。終わらないで、といわれると篠田も困ってしまうのですが、だらだら続けて「篠田さん、売れなくなったからもうこのへんで」なんていわれるのはなにより悲しいですから、とにかく一度はきりをつけたいと思うのです。
 いまノベルスが退潮というムードがあって、書店でも棚はどんどん減るし、目立たない場所に移されるし、悲惨なものです。そういう書き手にはどうにもならない外的な事情で、物語がゆがめられたりすることがないよう、充分満足できる状況がまだあるうちに、篠田にとって大切なこのシリーズを書ききりたいと思います。そしてたとえシリーズが終わっても、読者の皆さんが忘れないでいてくだされば、京介や蒼や深春や神代先生は死にも消えもしません。私たちと同じこの世界で生き続けています。

2004.06.24

 梅雨はどこに行ったのだ、暑いぞ。篠田は暑いのが苦手だ。でも資料を読むときは汗にまみれながらも、まだクーラーなしでがんばっている。執筆を始めたらパソコンが熱を出すので、これはもう絶対つけないわけにはいかないんだけど。
 今日読んだベトナム本で面白かったのは『ハノイの路地のエスノグラフィー』といって在外研究員としてハノイに10ヶ月暮らした心理学の先生の書いた本。ベトナム人の対人関係とか、時間感覚とか、実に生き生きと伝わってきて、篠田のわずかの見聞とも響き合って興味深かった。ベトナム本も未読の山がずいぶん減って残り少なくなってきたが、読み終えればプロットを立てねばならぬ。まあ、その前に他の原稿を書かないとならないんだけどね。

 昨日書き忘れた話は、エラリー・クイーンの『Yの悲劇』にもいろいろな訳があるが、講談社文庫に入っていた、すでに版が切れているやつは名訳というか珍訳というかだったよ、というマニアックな話題。本格ミステリとしては非常に著名なこの作品での探偵役は、引退したシェークスピア俳優のドルリー・レーンなのだが、それを歌舞伎役者、それもどうみても女形風のせりふ回しで訳してあるというのだね。「ときにあんた、おひるは済んだの?」これはどうしたって女形のせりふだ。仕える従僕までが「お珍しいじゃござんせんか、警部さん」とかいう。ニューヨークじゃない、花のお江戸だ、捕物帖だ、というわけで大笑い。ちなみに役者は、マニアな人だけ驚いて下さい、平井呈一翁です(あ、ほんとにマニアなら知ってるか)

 明日は柴田よしきさんと対談なので、これから彼女の新刊のゲラを読みます。連載は読んでいたんだけどね。というわけで明日の日記の更新はお休み。

2004.06.23

 若い友人が遊びに来たので、篠田の手料理でもてなしつつ歓談。毎日の夕飯作りはほとんどつれあいがやってくれているので、調理欲はこういうときに満たす。本日は豆腐づくし+白神こだま酵母入りのアイスボックスクッキーでありました。
 いっぱい面白い話題が出たのだが、ほとんどは「ここだけの話」なので書けない。ひとつここに書こうと思ってメモまでしてのだが、その肝心のメモを忘れてきてしまったのだよ。あほですね。その友人とは別の所で、いささかショックなニュースも飛び込んできたので、そっちの方が大きくて。建築探偵ではないシリーズの初版部数削減。うっうっう。労働意欲が減退いたしますです。

 昨日のことだが、合唱団に加わっている読者様から、リサイタルで歌われたバッハのミサ曲ロ短調のCDをいただいた。『angels』のラストで鳴り響かせたあれです。実を言うと、数あるミサ曲の中でどれにしようかと迷って、一度ベートーベンの荘厳ミサを手に取ったのだが、篠田は昔からバッハが好きだったもので、「やっぱりバッハにしよ」と軽い気持ちで決めたのだった。ちゃんと聞き比べたわけではないが、ロ短調はとっても美しく「光」と「輝き」のイメージがある。夜に聞いていても、頭の上に天が大きく開けて、黄金色の光が降り注いでくるような気がするのだ。篠田は決してキリスト教徒ではないし、歴史におけるキリスト教の役割には根強い疑問を持っているのだけれど、「地上を離れた美しいイメージ」としての天界が無価値だとは思わない。
 というわけでMさん、有り難うございました。何度か聞いてみようと思っています。というのは篠田は音楽を聴きながら意識がさまよい出る癖があるので、途中から聞こえてなかったりするんですね。お恥ずかしい。それからいただいたコーヒー豆は、なんと今日最後まで使い切ったのですが、やはりちゃんとふくらみました。一度このお店を尋ねてみたいです。名前も「バッハ」。

 『聖なる血 龍の黙示録』のサイン会決まりました。7/31土曜日 午後二時から。池袋リブロです。たくさん来て下さい、よろしくっ(必死)。

2004.06.22

 台風一過でめちゃめちゃに暑い一日。寝椅子の上に仰向けの蛙みたいにひっくり返ってひたすらベトナム本を読む。ようやく少しずつベトナムの近現代史が頭にまとまってきたという感じ。今日よみおえた中では『憎しみの子』というノンフィクションが印象に残る。ベトナム人の母とアメリカ人の父の間に生まれた少年は、父は本国に帰ってしまったけれど、その残してくれた金を元手に銀行を買収したやり手の母のもと、白亜の豪邸で幸せに暮らしていた。だがベトナム戦争の終結が迫り、北ベトナム正規軍の南下にともなってようやく危機を覚えた母は子供たちを連れてサイゴンから脱出しようとするが、あと一歩の所で失敗。共産主義化された社会の中で、腐敗した資本主義者と名指される母と、混血児の少年はどん底をはい回ることになる。
 語り手の少年をいびる村のえらいさんや、親戚たちには人間の根元的な残酷さを覚えてうそ寒くなるけれど、かつての幸せの日々の向こうでは貧困の中にいた人々がいたことを彼は忘れてはいないので、決して一方的な記述にならない。ただ、しいたげられたものが権力を握ればそこに生まれるのは決して正義ではないことを、いまさらのように思い知らされてしまう。いや、なかなか。人間の世界は一筋縄では語れない。

2004.06.21

 台風は関東地方には来ないのかと思っていたら、朝から次第に風が強くなって雨も降ってきて、これなら立派に台風といいたいようなお天気。それでも湿度が高いのでベランダに向かうガラス戸を開けておいたら、いつの間にか床が濡れていた。座布団も少し濡れた。幸い本はその辺にはなかった。
 そして篠田は代わり映えもなくひたすらベトナム。今日はベトナムの現代政治の本を読んで、ドイモイ政策ですっかりオープンになった気がしていたベトナムだけど、やはり一党独裁の共産主義社会で、悪しき官僚主義や公安警察の監視の目が完全に消えたわけではない、ということを知る。しかし、昔から教育熱は高いベトナムで、大学教育の人材不足などから党の幹部クラスほど子弟を海外に留学させる、それも行き先はアメリカ始め資本主義社会だから、世代交代する十年後二十年後にはイヤでも社会は変わっているよ、という観測もあるんだそうだ。
 いまは日本の古本屋サイトで購入した『フランスのベトナム人』という調査報告を読んでいる。少し古い資料だけれど、留学から定住、移民、戦争後の難民といったかたちでフランスへやってきたベトナム人、さらにその子たちの世代がどんな意識を持っているかというインタビューと統計資料。興味深い。
 で、こうやって調べたことをいったん置いておいてお話を作らないとならないんだね。調べたことを全部並べるのは、小説としては下手の下手です。

2004.06.20

 ずーっとベトナム漬け。少し気分転換にクッキーを焼く。ごま入りとアーモンド入り。出来はなかなか。でも、体重が気になるので食べるのはちょっとだけ。食べたいよりも作りたいなんで。
 土曜日のズーム・イン・サタデーをビデオで見た。ランキングの表がちらっと映るだけかと思ったら、しっかり本の表紙がアップになったので予想外な分嬉しかった。
 そのついでに思い出したこと。こないだのパーティの時倉知淳さんが、「『失楽の街』の登場人物表を見ていたら三十二歳フリーターって書いてあって、あ、なんだか見たことがあると思ったら、同じくくりに入るんだなあと思って、ちょっといい話っていうか」と嬉しそうな顔でおっしゃる。つまり、桜井京介も猫丸先輩も三十二歳フリーターなのね。名探偵にはフリーターが似合うって? まっ、三十二歳サラリーマン、よりは名探偵っぽいよね。

 18日づけの日記を一部訂正します。じかに訂正するより、改めて書いた方が意が伝わるかなと思って。笠井潔氏著『ヴァンパイヤー・ウォーズ』のイラストに対する感想は、篠田の個人的な嗜好に過ぎません。たぶんああいうタイプのイラストが10代の読者にアッピールするのだろうということは、最近の講談社ノベルスの表紙を見ていればわかるし、戦略的にそうしたイラストを選択する意味も理解しています。ただ単に、10代の趣味嗜好に共感できない篠田の感性が、表紙や口絵のイラストを肯定的に受け取れず、その本を購入することをためらってしまったというだけです。
 自分の趣味がすべての人間に通じる、などと思ったことはありません。もしもそうなら篠田はベストセラーの連発で、とっくに大金持ちになっていることでしょう。しかし人間というのは基本的に、自分の感性というせまい節穴から世界を眺めることしか出来ません。まして篠田はその節穴からものを書く小説家です。自分の節穴に共感してくれる読者がゼロになれば、小説家を廃業するというだけのことです。でも、理解できないものを理解したふりをするつもりもありません。
 しかしある人を誤解させたことは事実なので、慎んで訂正いたします。篠田は『ヴァンパイヤー・ウォーズ』講談社文庫版のイラストをよしとする感性に共感できませんでした。なので取りあえず購入は見合わせました。それはたぶんババアの感性ですが、若ぶってもしょうがないので正直に言います。それだけです。小説としてのおもしろさは保障いたしますので、未読の方はたとえイラストが趣味に合わなくとも手にとってみられるといいと思います。
 これに限らずこの日記に書かれるすべての文言は、篠田の個人的な意見であり、感想であり、主として篠田の読者に対してのサービスとして書かれているもので、他者をそそのかしたり、強制したり、好き嫌いを押しつけたりするものではまったくありません。どなたもそれを鵜呑みにするのではなく、多少なりと興味を覚えられた場合は、何事もご自分の目と感性で確認されることをお勧めいたします。

2004.06.19

 代わり映えのしないことで日記に書くのも気が退けるが、今日もベトナム本を読んでいる。今日からベトナム戦争がらみの本を読み出した。75年サイゴン陥落、北ベトナム正規軍の戦車が大統領官邸に突入した年は、篠田は大学生だから、もう少しちゃんと記憶に残っていても良さそうなのに、ろくすっぽ覚えていない。北の戦争は正義の戦争でアメリカは侵略者、みたいな本だったらイヤだなと思ったが、さすがにソ連崩壊、ベトナムも経済開放政策に転換した現代では、ベトナム戦争ももっと冷静に視野を広く取った叙述がされている。ただ、この当時のアメリカはイランに介入した現代よりずっと追いつめられていて、他国もたとえば韓国とか、大量出兵をしたのだが、日本は当然のように派兵はしなかった。それがいまはするすると自衛隊が出て行っているんだな、といまさらのように思った。

2004.06.18

 今日も一日本読み。メモも取らずにひたすらベトナムのガイドやルポを読む。まだ時間に余裕はあるので焦燥感はない。椅子に寝転がって、読み疲れたらちょっと寝たりして、傍目から見たらただの怠け者だ。しかし、この物語のためになにが必要か、ということは少しずつわかってきた。いかにもベトナムらしい過去の密室殺人がひとつ、とか。そんなこといったって、上手く思いつけるかどうかいまは全然わからないんだが。

 『聖なる血』の表紙ラフが届く。これは、まったくもって透子攻めっ、である。いやあ、そんなに強いキャラかなあ。最近のアニメ系カップルのパターンは、戦闘美少女と無力でうじうじした少年だ、とはなんかで読んだけど、うーん、はっきりいってそういうのよくわからん。少なくとも篠田が知っている男どもというのは、たいてい透子みたいなキャラは嫌いなはずなんだけど。そりゃまあ彼女は26歳なんで、美少女というには薹が立っておりますし、うじうじしてるのは無力などころか殺しても死なない吸血鬼なんだけど。篠田的にはやっぱり相手役はただの無力な男の子じゃいやなんで、めめしいところと強さは両方無いとイヤであります。
 話は違うが笠井潔さんの名作『ヴァンパイヤー・ウォーズ』が講談社文庫で復刊というので、これを機会に読み返そうかと本屋に行ったら、あまりにもいまふうのアニメな表紙と、キャラ絵り口絵が付いていて、二の足を踏んでしまった。こういうのがいまの流行なんですか、笠井先生?? じゃあ、もしかしたら『Angels』なんかも、こういう絵柄でキャラ紹介なんかがついたら売れるのか、なんてマジで考えてしまった。これまでの読者が雪崩を打って逃げ出しそうだけど。
 それから祥伝社のサイン会もまたやることになった。なんと、今度はイラストレーターの丹野忍さんがおつき合い下さる。場所は池袋西武のリブロ予定。しかしここは考えてみたら、篠田が一番利用する本屋なんである。しまった。これからはここで、ボーイズラブとか買えないじゃないか。店員さんに面が割れるというのは、どーも、ははは。

2004.06.17

 ゲラを戻して、ファンレターの返事を投函して、後はひたすら本を読んでいる。伊東忠太のパトロンといえば西本願寺門主だった大谷光瑞が有名だが、今手に入る彼の伝記を二種類読んだらどちらにもほとんど伊東忠太の名前が出てこないのでびっくりした。伊東の三年余のユーラシア旅行の初めの方、中国で彼は大谷探検隊の二青年と出会う。仏教の源流を求めて中国西域に探検に向かった光瑞だが、父親の病気悪化のためこのふたりを残して先に帰国していた。この時の縁で伊東は帰国後光瑞と知り合い、神戸六甲山中に二楽荘なるインド・サラセン様式を用いた別荘を設計することになるのだが、光瑞の伝記ではどちらも二楽荘の珍奇な設計は光瑞自身の発想によるものとして済ませている。残念ながら設計図も残らず、伊東自身の文章もないのだが、わずかな写真を見ると当時の日本人の度肝を抜いたのは当然としても、外見は決して不器用でもないし破綻してもいない。いくら大谷光瑞がカリスマ性のある天才であっても、彼一人でここまでの邸宅を設計できるとは思われず、専門家の関与があったのは当然だと思うのだが。小説の中では、大谷光瑞の線はあんまり書かないことにしよう。
 それから読んだのは、再読だが『ヴェトナムから来たもう一人のラストエンペラー』というノンフィクション。伊東がヴェトナムを訪れたのとほぼ同時期というのは、ヴェトナムは独立国家ではなくフランスの植民地、カンボジア、ラオスもふくめた仏領印度支那で、独立を望む革命家や青年たちが、日本へ援助を求めて多数留学してきていた。その中にフランス総督府の傀儡政権と堕していたフエの王朝の、現皇帝の甥であるクォン・デという青年がいた。結局彼はフランスと日本のエゴイズムのはざまですりつぶされ、帰国もかなわぬまま敗戦後の日本で病死し、共産党政府は民族主義のシンボルと化しかねないクォン・デの存在をヴェトナム国民の意識からも抹殺してしまう。日本とヴェトナムの関係史を考えるなら、書かないわけにはいかないでしょう、こういうことも。
 それからやっと、この前買ってきたベトナム本から、ガイドブックのたぐいを読み始める。重たい内容のはもう少ししてから。タイトルは『夢魔の鏡』というのを思いついたのだけれど、これって『夢魔の旅人』と似すぎているかしらね。というわけで、タイトルは未だ未定であります。
 天然酵母パンを焼いたのだが、水の分量を間違えて失敗。我ながら注意散漫なり。

2004.06.16

 『聖なる血』のゲラをやったり、読者の手紙に返事を書いたり、伊東忠太関係の本などを読んだり。ある資料を読んで、その参考文献からまた本をたぐるというのが、篠田の調べもののやりかただけれど、もちろん外れもあるし、こういうときは遠心的に世界が広がろう広がろうとするので、目的を見失わないようにしないといけない。調べものに淫してしまうと、かえってわけがわからなくなる。
 伊東忠太というのは、ジョサイア・コンドルを近代建築学の第一世代とすると、彼から直に教えを受けた辰野金吾のそのまた教え子で、つまり第三世代になる。生まれは明治維新の前年だから、もろに明治という時代と共に成長したわけだが、その世代にしてすでにコンドルの建築には学生時代から批判的になるくらいだった。学部の卒論は「建築哲学」で、その後法隆寺を実測調査して「このエンタシス柱はパルテノンの伝来だ」というアイディアを得て、留学と言えばヨーロッパの時代に辰野とお役所をときふせて三年三ヶ月のユーラシア建築踏査。帰国して東大の教授に就任し、明治神宮や大東亜共栄圏の神社神宮を造り、というとすごいばりばりの体制派って感じだが、ことはそう単純ではなくて、弟子の話によると口数の少ない、いつも小声でしゃべる寂しそうな人で、おまけに魑魅魍魎をありありと脳裏に浮かべてしまうような幻視者でもあったらしい。なんか、すごくイメージが結びづらい人だ。書いたものの人格と、外面と、内面が、一致しないというか。
 建築探偵の場合いつもタイトルが結構意味を持っていて、放散しかかるモチーフをそこに結びつけるようなところがある。だから今日も本を読みながらずーっと、「タイトルタイトル」と思っていたのだが、まだ、これだっ、というのに当たらない。少しずつ、プロットは浮かび始めているのだけれど。しかし今回は、蒼はあんまり出せないだろうな。なぜかというのは『AveMaria』を読んでくれた人はわかるよね。せっかく再会したお*さんをほっぽり出して、ふらふらしにくるのはまずいっしょ。あのシリーズもレギュラーが多いんだから、そういつも全員そろってというわけにはいかないのだよ。

 昨日ちらっと書いたテレビというのは、日本テレビの「ズーム・イン・サタデー」。売り上げランキングみたいにタイトルが出るだけだと思う。しかし放送時間が朝の六時から八時だと。そんな時間にテレビ見ている人って、どれくらいいるんだろ。篠田はまだ眠っている時刻から、朝ご飯を食べている時刻ですね。
 それと大極宮のホームページで、宮部みゆきさんが「今週の出来事」みたいな欄で触れてくれています。もったいなくも宮部さんは建築探偵のファンだとおっしゃる。そういえば『桜闇』の出た直後、たまたまお目に掛かったら「あの女はなにっ??!」と詰め寄られましたっけ(笑)

2004.06.15

 昨日「らしさ」の話を書いて、もうひとつ思うのは自分が結婚していても子供がいないということで、「親らしく」振る舞うことを強制されない分、ちっとも年齢相応の「らしさ」なぞ身に付かないということだが、頭が幼稚なままでも歳は無論取るわけで、最近一番困るのが目である。ずいぶんと疲れやすくなってしまった。だが読むにせよ書くにせよ、目を使わないわけにはいかない職業で、だましだましでもやっていくしかない。というわけで、午前中は資料読み、午後は『聖なる血』のゲラチェック。
 それといただいた手紙がだいぶたまっているので、建築探偵の分から少しずつ返事を書いていくことにする。同人本「天使失墜」の感想手紙の返事については別途。

 『失楽の街』はおかげさまで結構売れているらしくて(増刷は未だかからないけど)、今度の土曜日のなんとかいうテレビ番組でランキングに入っているんだそうだ。やっぱりなぜか番外編より本編の方が売れるんだね。別に番外編で手を抜いているわけじゃないんだけどね。
 まあどっちにしろ、小説というのはそんなに売れるものではない。『バカの壁』や『負け犬の遠吠え』の方が売れるってものだろう。なにか役に立ちそうな気がするし、タイトルがどちらも上手だと思う。わかりやすくて印象的。そしてかなり乱暴。例外や文句が出るのは見越して、敢えていっちゃう乱暴さがベストセラーの秘訣だって気がする。
 後者についてはインポケットに連載しているときに読んでいたんで、話のご趣旨は理解しているつもりだが、基本は自虐ギャグを戦略化してるってやつ。自分がそこにはまる人間なら、案外喜んで読めるかも知れない。けどたとえば篠田は「結婚しているけど子供がいない女」で、負け犬でもないが勝ち犬でもない。結婚しているくせに子供を持たない女を「でも結婚している分は勝ちじゃない」なんていわれたら正直気分が悪い。別に「結婚したい」から結婚したわけじゃねーぞ。惚れた男が出来たから、そいつとずっと一緒にいたかったからだ。今の世の中、同棲より結婚の方が税金の控除とか、遙かに社会的に便宜性が高いから籍を入れただけだ。結婚願望なんて昔もいまもこれっぱかしもないや。
 篠田は別に不妊症じゃなく、選択して子供を作らなかったわけだけど、そういう女がしばしばどんな言葉で非難されたり嘲弄されたりしたか、結婚しながら「妻らしい妻」をやらない女がなんといわれるか、酒井女史はご存じないか、知っていても乱暴に無視して勝ち犬/負け犬二元論を唱えたんでしょ。その手の乱暴を平然と出来ないと、ベストセラーなんて書けないんだと思うよ。バブル時代のキャリアウーマン、ばりばりの神話が破れたところで、家庭という逃げ場を見つけ損なった不器用なあたしたち、でも負け犬だって認めてしまうから否定しないでねってか。
 結婚と家庭が女の勝ち負けを分けるという発想自体、篠田には何か忌まわしいものを覚えてしまうんだけどね。女を差別するものは男以上に女だってのも、古い話だよなあ。結局カテゴライズすればなにかが見える、という幻想を売っているわけでしょ。で、それが売れたのね。資本主義だもの、しゃあないや。いまよりもっと、使い切れないほど稼いだって、税金に取られるだけだし。

2004.06.14

 パーティ終了。最近ますますもってパーティに出ると後の疲れが取れないので、秋までは基本的に失礼することに。しかし本格ミステリ作家クラブでは、特別賞を贈られた編集者のU山さんに花束贈呈の役をさせて貰えて、それが個人的にとても嬉しかった。

 佐世保の事件について日記に書き殴った私見について、先輩作家からご意見を頂戴した。酩酊疲労の上で聞いたことなので、正確な再現にはなりそうもないから、お名前は出さないことにするが、事件における『バトル・ロワイヤル』の影響力を過大に認めることを戒められたのだと思う。もちろん篠田もまた物書きのはしくれとして、「あんな悪書を出すからあんな事件が起きるんだ」というような、無責任かつ短絡的な作品叩きには断固として反対する。小説がひとりの少女に殺意を与えた、などと主張したつもりもない。『バト・ロワ』は少女が自ら選び取った小説であり、それが直接的に殺人方法のヒントとなったとしても、そのような作品で自らの行動を決めていった彼女自身の意思というものを、そこに見るべきなのかも知れない。
 だから先日の日記の文章というのは、決して「小説家たるもの、読者にどんな影響を与えるかわからないんだから、慎重に書くことを選びましょう」などといった提言ではないのだ。他の作家に対してどうこう、なんてことは毛ほども考えてはいない。自分のことだけ。自分が書いたものが、もしも万一そんな影響を与えてしまったら耐えられないとなにより思ったし、でも筆を折ることは出来ないし、そもそもどんな影響も人に与えない小説なんてものはあり得ないので、あらかじめその罪を忘れることなく書き続けるしかないんだろうな、という個人的覚悟の独り言であったのだ。
 ところで「近頃元気な女性が増えてきて」発言には失笑するしかなかったけれど、たぶんこれを口にした政治家の頭にあるのは、きわめて古典的なジェンダー観なのだろう。平たく言ってしまえば「女の子は女らしくあってくれるのが一番だ」というような。篠田はこうした「らしく」と、子供時代ずっと闘ってきた記憶がある。その中の一番嫌悪したのは「女らしく」だった。小説家という、女性性とあまり関係のない(主観的にはそう思っている)職業に就けたことで、逆に最近ではスカートをはいたりルージュをつけたりするくらいの「女らしさ」の記号には抵抗が無くなって、おもしろがれるようにはなってきたが。
 しかし、つい最近まんざら知らないでもない人間の愚行、どう考えても「大人らしくない」行為の話を耳にして、これはいったいどうしたことだろうと首をひねらずにはいられなくなった。規制としての「らしさ」、疑問もなく強制される「らしさ」はごめんだが、なにもなくていいということにはならないのじゃないか。既製品の「らしさ」を拒否したら、自ら選び取って自らを律する、自分なりの「らしさ」がやはり必要なのでは、などと思うのは、年を食ったせいでの保守化でしょうかね。

2004.06.11

 今日も昨日の話題を続けたい。といっても、昨日はもっぱらフィクションとその影響のことだったが、自分の同年代のことを思い直してみると、またいろいろ思わざるを得ないことがある。無論そのころはネットなどというものはなかったが、学校の友達と家に帰ってから電話で話す、その長電話を親にとがめられたり呆れられたり、などというのがそろそろ起きてきていた。同性の友達の存在というのは、小学生のころには後からは考えられないくらい大きい。親に友達を非難されたりすれば自分を否定されたよりもっと腹が立ったりする。
 しかし篠田は決して人付き合いの上手い子供ではなかった。友人はそう多くもなかったし、その友人に対しても疎外感のようなものを感じ、それを素直に表明できずに抱え込んでいたようなときもある。おまけに空想好きで、読書が好きで、文章を書くのが好きで、となったら、えらくあの加害者になってしまった少女と似ているではないか。さすがにいくら喧嘩した相手でも、「殺すしかない」とまで思い詰める不幸なシチュエーションには陥らないで済んだし、中学生のころになると同性の友人がいなくてもひとりで本を読んでいれば別にさびしくない、という方向で落ち着いてしまった。そんな篠田とあの少女の違いを考えた場合、偶然やなりゆきを差し引いて、なお彼女が追いつめられてしまった理由に、やはりネットの存在の悪しき力を考えずにはいられない。
 ネットの匿名掲示板では、ずいぶんと過激な文言が行き来する。しかしそうした場では、基本的に相手が誰だかわからない、少なくとも分からないことになっている。だから例えば「死ね」と書いたところで、精神的な不快感以上のものは与えられない。それが暗黙の了解事項になっていて、その上で「死ね」の「逝け」のと言い合っているというのも愚劣な話だけれど、それはまあそういうものだ。
 しかし学校のクラスメートと、いわば交換日記のようにしてやりとりするメールやBBCで、文言が過激な方向に滑り出したらこれはとても危険だ。顔は見えないが相手は分かっている。相手の顔は想像できるが、その言葉をタイピングした真意がどこまで通じているかはわからない。常識を持ったいい大人でさえ、考える間なしに打ち込んでしまうネット上の言説では失敗をするものなのに、感情的に未熟なら日本語も達意とはいえない子供たちが、大人のレフェリーも期待できないネット上で、どんな険悪さを育ててしまっても少しも不思議ではない。
 ネットは一種の架空世界なのだ。そこでやりとりされることばは、本音というよりまた別のフィクションなのだ。率直なのではない。軽率になっているのだ、あなたも相手も。相手の本音を知りたかったら、翌日直接顔を見て、目を見て話さなくてはならない。それとネットのことばが食い違っていたら、いま聞いた言葉を信じなくてはならない。それが出来なくなったら、電源を落とせ。ジャンキーにならないうちに。

 明日は本格ミステリ作家クラブの総会と大賞授賞式なので、日記の更新は休みます。

2004.06.10

 天候のせいか体調がいまいちで、仕事と関係のない本を読みながらだらだら一日過ごしてしまった。というわけで今日は別の話題を。いまちょっと気になっている、佐世保の例の事件である。
 なにか事件が起きて、ミステリやホラー作品の似ているのがあると、それが叩かれるという風潮はいまに始まったことではない。江戸川乱歩もやられていたわけだ。そしてミステリ書きとしては当然のことながら、フィクションとリアルをごっちゃにして作品叩きをするのはナンセンスだ、と反発してきた。ポルノを読んで強姦衝動に駆られる人間と、想像力で発散して現実に犯罪を犯さないで済む人間と、どっちが多いか。殺人の話を読んで殺人したくなる人間が増えるなら、ミステリなんて存在してはならぬはず。『バトル・ロワイヤル』は半分笑っちゃうくらい極端な設定のエンターテインメントで、いかにものべたな設定で、あれを読んで本気にする奴がいるかい、と篠田は断言していたよ、これまで。
 だけど、今回のような事件が起きると、たったひとつの例外だとしても、歴然と影響関係はあるじゃないかと、あせってしまうわけだ。もちろん加害者少女の殺意が、『バト・ロワ』の読書体験によって醸成されたわけではないと思うが、殺人方法のシミュレーションにはなってしまった。もしも彼女が「絞殺」を手段に選んだなら、そう簡単に殺せたはずはないし、殺さないで未遂で済んだかもしれない。それが、カッターなんて普通の文房具で、被害者も「まさか」としか思わなかったんだろうが、ああいうことが起きてしまった。そこには小説というより映画だろうけど、「あんなふうにすれば人が殺せるんだな」というハウツーを虚構が現実に向かって教えてしまった、その責任というのは確かにあるといわざるを得ないわけだよ。虚構の作り手として、おまえはその事実をどう受けとめ、どう咀嚼していくつもりなのかということを、考えないわけにはいかない。
 この前も、友人を理不尽な事故で亡くして、ミステリが読めなくなったという読者の手紙を話題にした。虚構は現実で包囲されていて、それはまさしく吹けば飛ぶような、人が生きるか死ぬかということになったら、否定されてもしょうがないくらいのものだ、ということを篠田は百も承知でいる。それでもなおかつ「書かずにはいられぬ自分」というものがあって、「楽しみに待っていてくれる読者」というものがいて、自分の稼業は成り立っているのだけれど、吹けば飛ぶようでありながら、場合によっては人を殺させることもあるのがフィクションなんだということ。嗜好品の酒や珈琲が取りすぎれば毒になるように、エンタメ小説だって毒になってしまう場合はある。そういう危険なものなんだ。
 もちろん薬が同時に毒でもあり得るように、有用な道具はほとんどの場合両刃の剣だ。便利きわまりないインターネットも、人を傷つける凶器になりうる。だからといって、もはやそれなしには社会は成り立たない。エンタメだってそのようなものなのだと思う。だからといって、なにを書いてもいいとか、そんなことはいわない。でも、なにかが起きるかもしれないからといって、当たり障りのない目黒のサンマみたいなものを書くことも出来ない。だからまあ、「自分の文章で人が死ぬことも、殺し合うことも絶対にないとはいえないんだなあ」と自覚しつつ、書き続ける。それしかないとは思うんだけどね。
 でも、頼むから殺すなよ。人も自分も。殺したってなんにも、問題は解決しないよ。黙ってやる前に叫べ。悲鳴を上げろ。泣きわめけ。きっと驚かれたり、笑われたり、怒られたりするだろうけど、それだって殺した後の騒ぎよりどれだけましかしれない。

2004.06.09

 予定通り東急ハンズで国産小麦粉をゲット。パルフェ・タムールは東武デパートの地下にあったが、でかい瓶で、たぶん甘いリキュールをこれだけ消費するのは難しいだろうなあと思って断念。ところで我が家にあったカクテル本の写真で見ただけで、青紫のリキュールらしいと思って「トワイライト・タイム」なるカクテルをでっちあげたのだが、現物を見たらバイオレットでした。すみれのリキュールなんだから、それはそうか。というわけですみません、『Ave Maria』に登場したのは幻の酒だと思っていて下さい。
 その後池袋西武のリブロでベトナム本をあさるが、直接関係ないといってもベトナム戦争は避けて通れないし、現代のベトナムに関するルポや、旅行記、指さし会話帖なんてものまで買うと、手提げカゴが重くてたまらんくらいで、少しは違う本も買ったけど、今日の資料本だけで3万円弱だなー。といっても伊東忠太という人はいっぱい著作があって、そのへんは国会図書館でコピーしまくるとなると、これがまたけっこう高いわけ。特に外国を舞台にしようと思うと、資料代がばかになりまへん。通販の代金を有り難く使わせて貰います。

 東京創元社のミステリーズ新号に、お名前を存じ上げない方の『アベラシオン』の書評が掲載されていた。取り上げて貰えるのはもちろん嬉しいのだが、不思議なのは、なんでシリーズ物だといっさい書評されることがないのか、ということ。毎回ミステリとしても趣向を凝らしていることは、まったく手抜きもなにもしていないというか、むしろシリーズだからこそ毎回違ったことをしようと努力しているんだけれど、そして例外を除いてネタバレもしないよう、どの一冊から読んでも楽しめるようにとも心がけているんだけど、書評をする人はシリーズなんて最初から除外してしまうのかな。それとも建築探偵はミステリとしては、もはやなんの興味も引かれないと? もしもそんなふうに思われているのだとしたら、あたしゃ暴れちゃうね。ミステリじゃなくていいなら、年に三冊書いてやるよっ。

2004.06.08

 山形の写真が出来てきたら、確か黒いと思った瓦屋根が明るい茶色に映っていてびっくり。しかし手元の写真集などを見るとやっぱり黒いようなので、これはあのピーカンの太陽のなせる技と考えて間違いなさそうだ。というわけで手直しした「館を行く」の原稿を講談社宛送稿。他に愛川晶さんの光文社文庫『巫女の館の密室』の解説ゲラをチェックして戻し、後は山形の写真を整理して、京都取材の下調べをする。近代建築ということでも京都は見るものが多くて、とても回りきれない。やはり「館を行く」で一度は京都をやらないとダメかも知れない。そんなことをいっていると、きりがないんだけどね。

 明日はベトナム関連の資料本を探すついでに、ばたばたと東京へ買い物に。といっても最近はほとんど池袋で済ませてしまう。『Ave Maria』に登場させた架空のカクテル、トワイライト・タイムを作ってみたくなったので、パルフェ・タムールが買えたらいいな。それと、柴田よしきさんからもらった白神こだま酵母がまだあるので、それに合う国産小麦粉白神ブレンドというのを、東急ハンズに探しに行くことにした。そーです。篠田の買い物は本か食べ物かってところで、おしゃれ方面には全然向きません。服なんかたいていは地元のユニクロです。さもなきゃ西武の無印良品です。色気ゼロ。おっと、仕事と関係ないことを書いてしまった。

2004.06.07

 梅雨らしく雨が降りしきる、と思ったら午後から晴れてきた。まだ鼻がぐずぐずいったり、詰まったりしているが、一応「館を行く」第六回を最後まで書き終える。写真が出来上がるので、それとチェックして明日入稿。

 「ミステリーの館」は訂正が流れた。かえって広告になったかしら。

 メフィストの最新号に評論家巽昌章氏の連載評論「論理の蜘蛛の巣の中で」第17回で『アベラシオン』を好意的に取り上げて下さっていたのに、いまごろになって気づいた。なにせ書評はおろか、新刊紹介にもほとんど登場した覚えのない人間なもので、ぼんやり読んでいない頁を眺めていたら、いきなり自分の名前が出てきてびっくりした、というアホな次第。自分としてはこれまでになく「本格ミステリ」だなあと思っていたのだが、「通常の推理小説の予定する解決とは明らかにずれていて」と巽氏は書かれている。うーん、そうなのか。よくわからん。ということはたぶん、篠田が書くミステリはみんな「通常の推理小説」ではないんだろうなあ。

2004.06.06

 まだまだ低空飛行の体調だが、いつまでもぐうたらしているわけにもいかないので、鼻をかみながら「館を行く」を書き出した。今回は素材がとても面白かったのだが、素材がいいからいいものが書けるとも限らないのが困ったところ。ちなみに文章には出てこないことを少し書けば、鶴岡の魚も山形のビーフも大変美味しゅうございました。鶴岡では歯がなくても噛めるくらいやわらかい蒸しアワビと、でっかい岩ガキ、月山竹という細い竹の子の焼き物。山形牛は鉄板焼き。その美味しい後に、ベッドにへたってちゃんと毛布を掛けないまま寝てしまい、風邪を引き込んだのはひたすら篠田のアホでございます。

 明日は『失楽の街』の発売日だが、講談社のサイトマガジン「ミステリーの館」に載っている新刊案内がフィクションをやらかしている。全然違うプロットを勝手に作ってしまってあるのだ。担当に電話一本かければわかることを、なんでこんなことになるのやら。『アベラシオン』のときはとうとう新刊案内を出してもらえなかったし、まことに残念ながら篠田と「ミステリーの館」は相性が悪いようです。

2004.06.05

 山形取材は大変実りが多く、好天にも恵まれたのだが、篠田が最終日のホテルで風邪を引き込んでしまい、本日は沈没となった。鼻が詰まって息が出来ないので眠れなくて、おまけに食欲ゼロで、まだへろへろしている。明日には何とか浮上して、「館を行く」の原稿を書かなくては。

2004.06.01

 今日は一日仕事はせずにひたすら読書。建築関係に絞って、イギリス人の書いた廃墟論と、日本の歴史的建築の保存活用について実例を挙げた本と、イタリアの建築ガイドと、近代日本の小住宅の間取りの変遷を論じた本を読む。これでもまだ未読本の山は、あまり減ったようには見えないのだが、せめて月に一度くらいは仕事を休んで本を読む日を作ろうと思う。

 明日から二泊三日で山形取材。次回メフィストの「館を行く」用であります。日記の更新は土曜日からです。