←2003

2003.07.31

 『アベラシオン』続行中。もちろんまだ終わりません。今日ミステリーランドの3冊届く。これはもう読むしかないなあ。さすがにこだわりの装丁である。単価は高いけど売れて欲しいね。
 『指輪』話第八回。今回で「旅の仲間」は一応終わり。映画第一部は「字幕がおかしい」と一時ネットで大騒ぎになった。もっともプロットを知っている話だと、それほど厳密に字幕を読んでいるわけではないし、当方にはあまり関係がなかった。今回のを書く前に自主制作字幕(英文対訳)をダウンロードして読み直したので、字幕の影響はないはず。ま、それはいいんだが、「映画」と「原作」の違いというのではたと気づいたのは、「原作では歌だらけなのに映画ではほぼゼロ」ということだ。
 原作ではなにしろ歌う。ホビットはハイキングの歌や風呂の歌を歌い、アラゴルンは歴史の歌を、ドワーフやエルフは自分たちの歌を、ガンダルフでさえ歌う。考えてみると旅の仲間九人の中で、全然歌わなかったのはボロミアだけだ。この世界の歌はどちらかというと叙事詩が多くて、つまり歴史や伝説の記録というイメージが強い。そういう歌をたくさん知っているアラゴルンは伝承にも造詣が深い文武両道の人だけど、ボロミアはそういうことには興味のない、武張った人であるというのが「彼が歌わない」ことの理由なわけだ。それに対して彼の父親のデネソールや弟のファラミアは、歴史や伝承に関心を持っている叡智の人々、ということになってる。その対比のためにも、ボロミアはもっぱら体育会系になってたんだと思う。
 篠田が見た「字幕問題」のサイトは、「ボロミアの性格が字幕のせいでゆがんでいる」という主張をしていたんだけど、原作主義者からするとボロミアというのはあんまりすばらしい人ではないので、「はあそう」ってなもんでした。ま、ボロミアを格上げするシナリオも悪くはないな、とは思うのですが、それにしたらちょっと解せない描き方があるな、というところもあった。キャラについてはまとめて書こうと思うが。

2003.07.30

 郵便局へ行くのでついでに、文芸春秋でいるという自分の写真を送る。どうせだから原稿も送るかと思ってプリントしたが、後で読み返すとまたちびちび直したくなる。たった5枚の文章でも、なかなか難しいところだ。
 その後はまたまた『アベラシオン』。今回の校閲の人は重箱の隅をつつきまくるが、でかいミスには全然気が付かないということがわかる。それはさあ、こっちがもともと間違えてるんだから文句なんかいえないけど。
 『指輪』第七回。文春のエッセイを書いて思ったのだが、要するに映画はせっかちだ。ひたすら先を急いでディテールをぶっとばす。ロリエンを出てもアラゴルンはまだこれからの旅路について迷いまくっている。問題を先送りして船旅を続けて、ぎりぎりのところでフロドに「どうするか君が決めろ」みたいなことをいって、あげくの果てにその隙をオークに襲われるんだから、原作のアラゴルンはよく考えるとかなりかっこわるい。映画ではどんどんさらさらとストーリーが動いて、フロドが「ひとりで行く」と決めるとあっさりと「君と行きたかった」とかいってしまう。おいおい、ずいぶんあっさりしてるんだな。少しは引き留めたりしないのかよ。
 そんなわけで、ボロミアに限らずキャラの性格はあちこちで変わっているのだが、このへんは意識的な改変というより、とっとと話を進めてチャンバラをやりたい、という監督の嗜好ではないかしらん。とにかくぬとぬとのぐろい化け物と、迫力満点の戦闘シーンが好きなんですよ、この人は。原作ではアラゴルンが駆けつけるとボロミアは瀕死の重傷、オークの大半はピピンとメリーを連れて逃げ去っていて、戦闘は直接書かれない。映画ではそのへんをたっぷり描く。まあ、そういう作り方があっても不思議じゃないとは思うけどね、なんかね、違うよなあと思ってしまう。オークって殺され役憎まれ役で、殺されてもしかたないんですよっていうためにこれでもかとぐろく描かれてるでしょ。映画しか見ていない皆様、原作『指輪物語』というのは、そういう話じゃないです。

2003.07.29

 ミステリーランドのゲラを終わらせる。これは明日郵送。あとはひたすら『アベラシオン』。濃厚なフランス料理みたいにバタ臭くてしつこい話なので、自分でもげんなりしてくる。8/6に出かける予定が出来たので、それまでにラストまで直し終えられるよう、必死こいてやろう。というわけで『指輪』話の第六回。
 そろそろ『旅の仲間』は終わらせようかと思ったが、ひとつ書いておきたいことが思い浮かんだ。前回、ロリエンの丘でアラゴルンとアルウェンが会ったのだ、ということを書いたのだが、それに補足。なぜアルウェンがそこにいたかというと、彼女はガラドリエルの孫だったから。ガラドリエルとケレボルンの娘がケレブリアンで、彼女がエルロンドと結婚して、エラダンとエルヒロアとアルウェンを生んだ。しかしケレブリアンはオークに誘拐されるという災難にあって、救出されたけど中つ国にいるのは嫌です、というわけで家族を置いてさっさと西に渡ってしまった。たぶんアルウェンも裂け谷にいる気がしなくなって、長いことおばあちゃんのいるロリエンで暮らしていた。
 だからアラゴルンは父親が若くして不慮の死を遂げた後裂け谷で養育されたんだけど、二十歳になるまでアルウェンの存在を知らなかったのですね。で、たまたま戻ってきた彼女と出会って恋に落ちた。しかしこの恋は祝福されなかった。エルロンドにしてみればおのれ可愛い娘をおまえなぞに。「そういうつもりとちゃうわい」と額に青筋の二、三本立てたくなったろう。(いかん。映画のキャストのイメージに引きずられとる)。アラゴルンの母親は「エルロンドに嫌われたらあんたの将来が危ういよ」というし、エルロンドは「王位につくくらいの人間でないと娘はやれない」。そんないきさつがあったのでした。
 それから数十年、アラゴルンは野伏として荒野を行き来し、きびしい闘いの日々を送り、ようやくロリエンでアルウェンと再会した。彼女はまたおばあちゃんのところに来ていたんですね。で、ガラドリエルはアラゴルンの身なりを整えて「はい、がんばってね」とふたりをデートさせて、アルウェンもその気になったわけです。やれめでたい。だからアラゴルンにとってロリエンの丘というのは、最高に幸せな思い出の場所だったんですね。
 それにしても映画のアルウェンはちょっと肉感的すぎるなあ。キャラの比較については後でしますが。

2003.07.28

 今日はミステリーランド『魔女の死んだ家』の再校を読むのを先にやる。少しだけだが直したいところが目に付いたので、その作業は明日することにした。それから文芸春秋の「偏愛読書館」というエッセイに『指輪物語』のことを書く。しかしやっぱり5枚というのは短い。すごく短い。翻訳の文章についても触れたかったのだが、そっちは全然入らなかった。篠田は瀬田貞二さんの訳文がすごく好きなのだ。ナルニアも瀬田さんの訳だったから、子供の頃から彼の文章がインプットされている。ちょっと古風な雰囲気と、固有名詞の翻案調がねえ。書けるものなら映画で描けるもの描けないもの、というあたりも書きたかったし、もっと砕けてキャラのことだって書きたかった。だけど入らないもんなー。これも一応最後まで書いて、明日以降直しをすることに。
 それからやっと『アベラシオン』続行。おおざっぱに見積もって、後一週間じゃラストまで行かないかも知れない。でもラストまで行ったら今度はプリントアウトを読み直さないとならない。うーん、かなりしんどいなあ。やっぱり今年は夏コミサークル参加は取りやめて正解だったなあ。とはいえたぶん一般参加はするのだが、それならいざとなったら「やはり行けません」といえるものね。
 そんな具合で今日は少々疲れ気味ゆえ『指輪』談義はお休みします。まだ梅雨が明けませんね。涼しくて楽、という気もするけど、農作物への影響が心配です。また10年前のようにお米が足りなくなったりするんではあるまいか。

2003.07.27

 『アベラシオン』のゲラやっと200頁越す。しかしミステリーランドの再校も来たし、ジャーロのゲラも来るだろうし、八月一杯というのはけっこうぎりぎりになってしまうかもしれないなあ。もしかすると十月でなく十一月になるかもね。
 ともあれ『指輪』話もまだまだ続きます。第五回、ロリエン編のその2。
 エピソードが整理されてしまうというのは映画ではいたしかたないことだが、それだけでなく描けないものというのはやっぱりある。例によって建築の描写はあかんけど自然描写は巧みなトールキンは、ロリエンをあたかもネオプラトニズムのイデア界、流転する現実の向こう側に存在する永遠の美の世界のように描き出す。でもそんなの映画では描けないから、あきらめてメルヘンチックな都にしちゃった、というのもまあしょうがないことではあるんだが、それで消されたもののひとつがロリエンの丘に立ったアラゴルンの描写。彼は昔ここで愛するアルウェンと会ったことがありまして、どうもそのときのことを思い出していたらしく、ひとりで花を持ってアルウェンの名を口にしたりするのですよ。原作はなにせ色気のない話だから、ここがアラゴルンでは唯一のそういう場面なわけだ。映画の方は第二部になっても、なにかってっちゃアルウェンが出てきてるので、ここはいらないということになったんでしょうが。
 それからガラドリエルの水鏡を覗くのはサムもなんで、そのへんの削りはしかたないとわかるんだが、ひっかかるのは「指輪を差し上げます」とフロドがいったときのガラドリエルの演出。どうもこの監督、芝居が大げさというか品がないというか。ビルボが指輪に執着するシーンの変貌ぶりとかも、なにも変な特殊効果使うことないでしょう。フロドもなにかというと白目剥いちゃうし。
 原作読んでくれ、というのはひとつには本当に日本語が美しい。リズムがあって、記憶にとどまるような文体で、しかも抑制が利いているのね。そういう世界として『指輪』を愛する読者としては、黒白反転したガラドリエルの絶叫なんか見たくない。原作通りのせりふをクリヤに発声するだけで、充分な効果があると思うんだよー。いいところはいろいろある映画版だけど、やっぱり原作も読んで欲しい。映画版を愛する人だって、原作を読むことで初めて理解できていくことというのがいっぱいあるんだし。
 さて、明日で「旅の仲間」の話が終わるかな。終わったら引き続き「二つの塔」へと進みます。あ、文春のエッセイも書かなくちゃ。下手すると忘れてしまう。

2003.07.26

 ほとんど『指輪』の旅のように、のろのろと進まないゲラ直しの旅路。最後は滅びの亀裂にどぼん、じゃねーだろうな。というわけで『指輪』話第四回。
 最初に書いておくと、モリアの地下道にはいる前、湖の番人を目覚めさせたのは『原作』ではボロミア。この人はゴンドールの執政の長男で、武勇の人で、誇り高くて、自分が王の息子でないことが悔しくてならないというタイプだから、自分のパワーがものをいう逆境には強いけど、待ちの状況では簡単に切れる。映画ではボロミア大好きだから、かわいそうにメリーが石投げ役をやらされてます。
 でも、モリアの内部空間については映画は非常に良くできていたと思う。トールキンという人は、野山を歩くときの自然描写はすごく緻密なんだけど、建築物のたぐいはそれほど描写が得意でなかったみたい。だから裂け谷の館についてもあんまり書いてないし、モリアでのクライマックス、バルログが追いついてきてガンダルフと対決、というシーンの構造がどうなってるか、あんまりわかりやすいとはいえない。映画はそのへんをすごくスリリングに、高所恐怖症の篠田には「ひょえーっ」というくらいの迫力で描き出した。壊れかける橋を渡ろうとするとき、アラゴルンをギムリが投げようとして「自分で飛べるわい」と反発し、落ちかけてレゴラスにあごひげを掴んで引き上げられる、というのがある。これが第二部のヘルム砦のあの場面に繋がっていたのね、というのはこないだ気づきました。続けてみないとわからないよ。
 バルログの描写もトールキンはしてないので、ああいう感じでいいかと。でもあれってほとんど、永井豪の『デビルマン』だよね。ガンダルフの見せ場は堪能できた。しかし問題はその後のロスロリエンなんだよね。このへんは時間の関係ではしっょたのだろうが、大事な場面がほんと削られてて、涙なくてはって感じ。ドワーフのギムリは長年確執のあるエルフを白い目で見ていたわけで、当然ロリエンは嫌だった(そのへんは映画でもちょっぴり描かれてますな)のが、エルフの奥方ガラドリエルに庇われるのですよ。ガンダルフが死んだのはモリアなんか行くからだ、とエルフの王ケレボルンがぐちったもんで、モリア行きに賛成だったギムリは立場なくてふてくされていたら、ガラドリエルが「私達だってロリエンを離れて、その後戻るチャンスがあったら、たとえそこが化け物の巣になっていたとしても、足踏み入れないではいられましょうか」ってなことをいって、ギムリ君大感激。
 で、お別れの時に奥方の髪をひとすじ下さいといって、騎士的愛を捧げるのね。レゴラスもそんなドワーフを見直してしまって、ふたりの間に友情が生まれるわけですよ。私はこのエピソードがめちゃ好きなのだ。DVDには髪を贈る場面があるそうですが、原作だとギムリはロリエンを離れる船の中ではらはらと涙を流して、「哀れなるかな、グローインの息子ギムリよ」なんて慨嘆して、それをレゴラスが慰めるんだ。「見いだしてまた失うのはこの世の定めだもの。それでも君は美しいものと出会えて幸せだ」なんてさ。くそーっ、こんないいシーンを削るか、こら。
 ロリエンの項、明日に続きます。


2003.07.25

 土砂降りの雨である。そして篠田は眠い。『アベラシオン』の進みは鈍い。というわけで『指輪』話第三回。
 裂け谷でありますが、建築のイメージがというあたりは目をつぶろう。原作自体あんまりそういう描写がないのだ。ただ、映画ほど開けっ広げではないと思う。やっぱり気候は北方的だと思うから。そのへんをつっこむとどうしてもトールキンはイギリス人よね、南方や東方は異国なのね、ということになるが、まあいいや。
 二度目だけどいっしまおう。エルロンド様ミスキャストだ。この俳優さん、どう見ても悪役顔でしょ。アルウェンは、まあ美人だからいいか。何千年も生きてきたエルフの美女にふさわしい女優さんなんていませんわね。
 『指輪』にはジュブナイルとして書かれた『ホビットの冒険』というビルボが主人公の話があって、そこでビルボの仲間だったドワーフとフロドが裂け谷のディナー・テーブルで会って、というすてきな場面もあるのだが、映画では当然のようにそんなところはカット。だいたいドワーフは冷遇されていて、ギムリ以外はろくに名前も出ない。
 肝心な会議のシーン。これがねー、説明不足はもうどうしようもないと思うけど、ここに登場したボロミアがアラゴルンに敵意めいたものを向ける理由とか、原作を知らない観客にどの程度通じるんだろう。侮りの笑いを浮かべるボロミアに、レゴラスが「彼はアラゴルン云々」と弁護を買って出るのは、ふたりがおなじみの友人だからという表現だろうし、それに対してボロミアが「ゴンドールに王はいない。王は必要ない」というのもよくわかるんだけど。それからギムリが「エルフなんか信用できない」と言い出すあたり、エルフとドワーフの長年に渡る確執を背景にしているんだが、これだとギムリひとりが意固地なだけにしか見えないやねえ。
 篠田がそのへんにひっかかるのは、先に行ってレゴラスとギムリが永遠の友情を結ぶという展開が好きだからなんだけど、背景がすっとんでる分、友情もかすんでいるのは確かで、その代わり監督がなにに時間を費やしているかというと、オークやウルク・ハイのどろどろと、ボロミアをいい男に格上げするための場面、というわけで、そのへんは完全に監督の好み優先のシナリオになっている、ということはいくら強調してもしすぎることはないと思う。
 いや、別にいいんだけどね。ボロミアがいい男でも。ただボロミアを格上げした分、弟のファラミアが地盤沈下というのは、原作の曲解以外のなにものでもないんじゃないの、と、このへんは第二部の話ですがね。原作でも後半ボロミアが死んだ後で、彼が回顧されるともう少しいい人間ぽくなっているので、それを「死んだ人の美化」でなく、実際いい男だったんだよ、ちょっとぐらついたけど、というふうに持ってきてるのが映画版なわけですが、なんでかは知らず監督はボロミアが好きだったんでしょー。
 雪の峠越え失敗のあたりはすっ飛ばして、明日はモリアの地下旅行のあたりをやります。このへんについては、映画を誉める部分もかなりあるよ。

2003.07.24

 これは同業者でないとピンと来てもらえないだろうが、ゲラを読むというのはどうも嫌なものである。校閲の鉛筆の指摘にはたいていいらいらさせられるし、そうでないと自分の文章の下手さ加減にいらいらする。しかしそういうことばっかり書いてもしょうがないので、今日も原作『指輪』と映画『指輪』の相違編第二回。
 粥村でアラゴルンを指揮者に受け入れたホビット四人組。原作では旅路のエピソードがいくつかあって、徒歩旅行の距離感が出るが、映画はまたあっという間に「風見が丘」に着き、ここでホビット三人がアラゴルンの留守に火を焚いて料理をし、結果として敵をおびき寄せる、というおおぼけをかます。そんな馬鹿をさせるほど長くアラゴルンが姿を消すのも変だし、火を焚くなっていっておかなかったのかよってのもあるし、シナリオご都合主義の感が強い。ただ、指輪を嵌めたフロドの視野では、真っ黒な影にしか見えない「黒の乗り手」が骸骨めいた王に見える、という映像表現はなかなかよろしいかと思う。
 映画監督はクリーチャーのたぐいが大好きらしく、途中サルーマンのウルク・ハイ製造シーンを延々とやる。映画しか見ていない人にいいたいんだけど、原作はそういう話ではないし、アクションものでも戦争ものでもありません。もちろんそういう要素がないわけではないので、それをふくらませてあるわけ。
 さて、突然アルウェン姫登場。原作では「裂け谷」からエルロンドが探索に送った斥候のひとりで、グロールフィンデルというエルフ戦士がやって来るのだが、たぶん女っけに乏しいからだろう。アルウェンはやたらと原作より登場シーンが多い。背中にフロドを乗せて、黒の乗り手との逃避行。しかしあのタイミングでは、絶対追いつかれるぞ、という映像でしたな。
 とにかく物語の背後に山のような前史や設定があるので、原作なしで映画を見た人がどうそれを理解しているのか、皆目分からないという気がしてしまう。エルフと人間はなぜ結ばれがたいか、とか、エルフとドワーフはなぜ仲が悪いか、とか、ボロミアはなぜアラゴルンに複雑な思いを抱かざるを得ないのか、とか、原作を知っていれば自明のことなんだが、映画では説明しようがない。というわけで、ほとんど説明されておりませんです。しかしそういうことをほっておいて、ウルク・ハイがぬとぬとと生まれるシーンなんかを念入りに描くっつーのか、やはりどうかな、という気がしました。
 それから、サルーマンが違うんだよ。サルーマンはサウロンの配下ではなく、味方するような顔をして実は我こそが指輪の主となろうとしている。それをなぜかサウロンの忠実な部下、みたいに書いているので、せっかくのおもしろいキャラが単純化されすぎてるなあ、とこれも大いに不満。
 しかしこんなことをいっていると本当にきりがないので、明日は裂け谷にまいります。以上、第二回でした。

 それから文芸春秋で「自分の偏愛する本」についてのエッセイ5枚、というお仕事をいただきました。『指輪』でいいそうなので、『指輪』で書きます。すげえ趣味的。

2003.07.23

 ジャーロの第二回を10枚くらい書いておこうと思ったが、気持ちが切れてて5枚でいっぱい。というわけで今日から『アベラシオン』の直しに入る。なにせ長いから、おまけに第一回書いてのなんか三年くらい前だもので、資料なんて忘れてる。こりゃ手間かかるわ、という感じ。
 で、これからしばらく来る日も来る日も仕事だけで書くことがなさそうなので、それ以外の話題ということでトールキン『指輪物語』と映画『ザ・ロード・オブ・ザ・リングス』のどこが違うか、という話を連載で書くことにする。邦題の『ロード・オブ・ザ・リング』というのは定冠詞と複数省略がちょっとひっかかるので、『指輪』原作、映画、と表記します。
 映画には幾多の改変がある。三時間に納めるための削除というのと、明らかに監督の趣味でふくらませたところ、改変したところ、の両方がある。長きに渡る原作ファンの篠田としては、どうしても原作命にはなってしまうのだが、ふくらませて良くなった感じのところはちゃんとあるので、絶対忠実でないとダメ、なんてことはいわない。とにかく、順番に行きましょう。
 原作はビルボの111歳の誕生パーティから始まって、ビルボが姿を消して、しばらく時が経ってからガンダルフがついに例の指輪が恐るべき「ひとつの指輪」だと確信するに到り、それをフロドに告げる、という順番になる。映画は指輪についての簡単なプロローグがあって、それからパーティ、ビルボ失踪と続くのだが、少し気になるのはビルボの失踪からフロドの旅立ちまでの間にほとんど時間が過ぎてないようにしか書かれていないこと。このへんはもうちょっとどうにかならなかったのだろうか。
 フロドの旅立ちから粥村までは、ごっそり削除がある。メリーとピピンの同行に到る経緯はすごく感動的なのだが、いいとこのぼっちゃんのはずのふたりがなんと野菜泥棒をやって、そのどさくさにホビット庄を出てきてしまう、というのはちょっとなんだかなあ。ホビットたちはかなり孤立して生活していて、人間と混在する粥村は特殊な環境なんだけど、そのへんは完全に欠落。そしてトム・ボンバディルの削除は、まあ、致し方ないとしますか。重要なキャラだけど、後の展開には表立ってからまないから。それでやっとアラゴルンとの出会いになる。
 いきなりフロドの胸ぐら掴んで部屋に連れ込んだのは驚いたけど、まあ、そのへんはいいにしましょう。アラゴルンは適役だといっていいと思います。しかし削った時間でなにをしているかというと、サルーマンとガンダルフの魔法対決(いや、ただのタイマンだって感じも)なんだけど、クリストファー・リーに敬意を表して出番が増えたのか、と思うとそのんはまたどうよってとこがあって。

 きりがないので第一回はここまで。

2003.07.22

 仕事が一段落したので、今日はオフ。若い友人二人と池袋の映画館に「ロード・オブ・ザ・リング」の1と2一挙上映を見に行く。篠田は原作、それも瀬田貞二訳命の人間なので、本当いってこの映画に文句がないわけではない。細かいことをいえば「サルマン」じゃなくて「サルーマン」だし、「アイセンガルド」じゃなくて「イセンガルド」だ、といいたい。しかしそれはともかくとして、原作に対する多々の改変にもいろいろ文句がある。どうしてサムが帽子をかぶってないんだ、というようなことから、ファラミアの性格が全然変わっちゃってるぞ、とか、サルーマンも役割が違ってて変だぞ、とか、なんで木の髭が戦いの決意をする過程をあんなへんなはしょりかたしないといかんのだ、とか。
 でもまあ、いいこともいろいろあのるので、気にくわないことは目つぶろうじゃない、とも思うのだった。アラゴルンがかっこいくてイメージにぴったりだし、レゴラスについては原作よりずっといいし。だからまあエオウィン姫がドブスだとか、エルロンドがほとんどひねこびた猿だとか、そういうことはいわないことにしよう、とね。いってるか。
 ガンダルフもねー、灰色のガンダルフはぴったしだけど、白のガンダルフはいまいちだね、とかも思うのだけれど、エドラスの黄金館に乗り込んでいくと、後ろではアラゴルンとレゴラスがあばれててほとんど助さん角さんだし、それじゃギムリはうっかり八兵衛か。
 ま、絶対文句のない映画化なんてのはあり得ないわけだから、これだけ楽しめたのをよしとしましょうか。

2003.07.21

 昨日のプリント・アウトをもう一度読み直し、細かい赤を入れて完成。メールで送稿。次のために10枚くらい書いておくつもりなのだが、それについては3枚で今日はおしまい。やはりちょっと疲労。

 島田荘司『ロシア幽霊軍艦事件』を読む。肝心のネタには触れないが周縁のモチーフには触れるので、知りたくない人は後を飛ばしてください。

 ロシア・ロマノフ家最後の皇帝ニコライ二世の四女アナスタシアが生きていたのか、という歴史ミステリは、子供の時確か黒沼健のノンフィクション読み物で読んで以来興味を持ってきた。で、自らをアナスタシアだと名乗った女性が本物かどうか、という問題がある。島田氏が参考にした『アナスタシア 消えた皇女』は読んでいて、この本では生存説が強い。またボルシェビキによる暴行の後遺症で、彼女が記憶障害などを発症していた、という島田氏の推理は、充分に信憑性があると思う。しかしDNA鑑定による否認の問題については、御手洗潔はまったく触れていない。松崎レオナの口からはそのことが語られているのに、例によってお馬鹿な石岡はそのことを完全に失念して御手洗に反問していないのだ。それが歴史ミステリとしては最大の不満。もっともアナスタシアだと主張したアナ・アンダースンの遺髪のDNAが、彼女の正体だとされるポーランド人女性の家族のそれと一致したのが事実だとしたら、彼女はアナスタシアではあり得ないわけで、後は資料すりかえの陰謀説でも持ち出すしかなくなる。篠田はむしろ、アナスタシアでもない女性がなぜそんな主張を貫き通したか、というミステリの方が興味深いけど。

2003.07.20

 昼間はジャーロ。赤入れを直して再度プリント。結果的に102枚に収まる。

 夜、池袋の映画館でトークショウ。冷や汗の掻き通し。まったくもってこういうのは苦手であります。しかし陣内秀信先生はええ男でした。

2003.07.19

 ジャーロ、102枚で第一回を書き終える。しかし赤を入れると、もう何枚かは増えてしまうだろうなあ。何枚くらいの超過は許されるだろう。

 週刊現代8/3号に西澤保彦さん『笑う怪獣』の書評を書きました。172頁です。しかし普段は手に取ることもない週刊誌、開くといきなりセミ・ヌードだらけで、なんだかなあ、という感じがします。そうか。この雑誌には復活した「アルバイト探偵」が載っているんだね。

 『間取りの手帖』リトル・モア刊 という本が売れているらしい。賃貸らしいアパートやマンションの、風変わりな間取り図が一頁に一件ひたすら並んでいるだけ、というけったいな本。しかし日本のマンションはみんな画一的かなあと思っていたものだから、こんな変な間取りならぜひ見てみたい。住みたい、と思うところは少なかったが。

 ジャーロの連載をするので、バックナンバーを積み上げてあちこち読み残したところを読んでいて、そこに出てきた森真沙子さんの『快楽殿』というノベルスをアマゾンで注文。もう手に入らないかなと思ったら、数日であっさり送られてきた。昭和30年代に存在した幻のエロティシズム雑誌を古本屋が探し求める、という設定で、読んでいるうちに「そうだ、やっぱりあれ買っておこう」と、「血と薔薇」の復刻版を注文。アマゾンでは品切れとなっていたので、出遅れたか、と後悔したが、なぜかbk1では24時間以内発送。こちらは澁澤龍彦主宰の実在したエロティシズム雑誌です。

2003.07.18

 休んだ翌日というのはなんとなく調子が出ないが、やっとこ92枚。明日には一応第一回を書き終えてプリント出来る感じになってきた。そうしたら少し休憩したい。

 オンライン・ブックショップbk1のホラー・コーナーで、季刊幻想文学終刊記念の編集人東雅夫氏と発行人石堂藍氏の対談が掲載されている。中でちらっと篠田の話題もあり。現在手に入る幻想文学のバック・ナンバーも掲載されている。その販売も一年程度のことらしいので、興味のある特集が目に付いた方は、忘れずにゲットして欲しい。篠田の思い出としてはエッセイが掲載されている「建築幻想特集」、『彼方より』のインタビューが掲載された「牛妖伝説特集」などが懐かしい。

2003.07.17

 友人とデート。日暮里の羽二重団子に行った後、朝倉彫塑館に行く。朝倉一夫は高名な彫刻家で、縁のあるところでは早稲田大学に立つ大隈重信の銅像を造った人。舞台美術家朝倉摂の父親でもある。昔一度行った覚えがあるので、湧き水の池がある庭で涼もうか、というくらいの気持ちしかなかったのだが、これがあっと驚くへんてこ建築だった。コンクリート打ち放しの外壁に黒のコールタールを塗った洋風建築部分に、数寄屋造り二階建ての和館がくっついているのだが、和風と見えて玄関の屋根越しに女性の裸体像が乗った屋根が見えたり、洋館の三階の手すりが擬木だったり、和館の方もやたらと竹を多用して変に装飾が濃かったりする。庭はほとんどが池で、部屋は全てその庭に向かっているという点では、イスラム建築みたいだ。設計はすべて当の朝倉によるらしい。
 これならメフィストの一回分が書けるかなあ。しかし京介はこれを見てなんというのだろう、などと思ってしまう。

2003.07.16

 講談社文三で八年担当をしてくれたA氏が異動することになり、新任のT氏とともに仕事場を訪れる。大会社なら担当の異動はいたしかたないことだが、物書きにとってはやはりあまり嬉しいことではない。『アベラシオン』のゲラをもらうと、これがすさまじいボリューム。600頁以上ある。こんなに長いのは初めて。読み返すだけで大変だ、とため息が出る。しかしそれをお客様に、買って読んでいただこうというのですからね。
 ただ不安なのは、刊行時期がどうも10月になってしまいそうということ。そうです。10月はミステリーランドの『魔女が死んだ家』が出るのです。有栖川さん解説の『原罪の庭』文庫版も出るのです。それも二冊はハードカバーで、高いのです。すみませんすみません。値段だけの値打ちはある本のはずなので、どうかこらえて買ってやってください。買い損ねると、きっと後悔するよ(なんちゃって)。

 帯のコピーに対する支払いの話。ただということはない、とのこと。つまりA氏は忘れたのである。しかし、そうやって忘れられていく支払いってかなり多いんじゃないだろうか。忙しいのはわかるけど、頼むよお。

 倉知さんの『過ぎゆく風はみどり色』が創元推理文庫に入ったので再読。とっても面白いです。もしもまだ読んでない人には絶対のお勧め。そして倉知さんの顔を知っている人は、「ああ、なんて猫丸って倉知さんなんだろう」と思う楽しみがあります。

 おっと、書き忘れた。今日はジャーロ、やっと78枚。でも、明日も友達とお出かけなのだ。今月中には絶対書き上げないとね。

2003.07.15

 友人のアパートへ酒とつまみをもって遊びに行く。彼女は東京の大きな書店に勤めているので、話題もいろいろ興味深い事が多い。書店員というのは、なってみたかった仕事のひとつなのだ。やっぱり本が好き、なのだろう。

2003.07.14

 今日は一歩も仕事場から出ず、お茶コーヒーがぶがぶでジャーロの原稿。62枚まで到達。最近は書いている最中は「うまくいっているかどうか」の判断がつかないので、とにかく書き終えてプリントして読むまで、辛抱我慢の世界である。

 ジャーロはいつもいくつかの短編しか読まず、なじみのない翻訳短編はパスしてしまっていたのだが、仕事をさせてもらうのだからというわけで、これまでのを拾い読みしている。これがけっこう面白い。日本人作家のものは単行本なりノベルスなりになるのがほぼ確実だから、雑誌でしか読めないものを読まないでおいてしまうのはもったいないね。

 もらい忘れかと思った仕事は、二件ともちゃんともらい忘れであったことが判明。自分の勘違いではなくてほっとする。実はどちらも実際に書くのは去年していたので、仕事のメモを今年の手帳に転記し忘れていたのだ。どこの出版社も不景気で、人手不足で、こういうことが起きるのもいたしかたない状況ではある。書き手が自己管理をしっかりして、自衛するしかないんだろうな。問題は、何ヶ月くらい経過したら忘れられていると考えるべきか、ということだけど。

2003.07.13

 今日は本格ミステリ作家クラブの執行会議だったので、仕事は朝ジャーロを読み直して、45枚まで進めておしまい。なんとか7月いっぱいに第一回を書き終えれば、次は冬の号だから間に他の仕事ができる。『アベラシオン』の直しと、小説ノンの新連載と。ノンは月刊だから、毎月書くのはかえってしんどいので、できれば時間をとって一気に書き終えてしまいたいところだ。プロット半分くらいはできているのだが。
 さて、執行会議本日は歌野正午さん、乾くるみさん、黒田研二さん、三名が出席。前から存じ上げている歌野さんもふくめて、いずれもさわやかな好青年なのにはちょっと驚く。いや、別に驚かなくてもいいんだけどね。今回の総会で議論された、大賞の投票方式について意見交換。さすがミステリ作家というか、傑作な発言が多くて爆笑しばしばだが、それは書きません。ところで歌野さんの『葉桜の頃に君を思うということ』は傑作ですよ。ネタバレになるからなんにもいえないけど、私はすごく好きだった。

 帰りは池袋で本屋によって精神科医春日武彦氏の新刊『何をやっても 癒されない』を買う。春日氏の著作は全部持って読んでいる。ミステリ作家として安直に「狂気」なんてものを扱わないように、自戒を込めて読むのだ。
 明後日は友人の家に遊びに行くので、明日は一日仕事いたします。

2003.07.12

 今日はひたすらジャーロ、42枚まで。しかし順調という感じはしない。まだ事件らしい事件が起きていなくて、舞台へ読者を引っ張っていく途中だからだ。ちょっとテンポが鈍いだろうか、と不安になる。
 小説の書き方というのは人それぞれで、たとえば西澤保彦さんは先に下書きで取り敢えず最後まで書き通しておいて、それをふくらませるかたちで完成原稿にするという。ミステリとしては明らかに、このやり方の方が合理的ではある。試行錯誤しながらだと、「あれ、この伏線入れたっけ」「だぶってないか」みたいなことで何度も引っかかったりする。いまだって、舞台にたどり着くまでをざっと書いて置いて、それをふくらます方が不安がないんじゃないか、というような気もする。とはいっても、急に書き方を変えるのは難しいんで、結局いつものままだ。

 昨日になっていきなり、今年の前半にした細かい仕事の原稿料をもらっていないんじゃないかと気が付く。どちらも普段は仕事していなかった会社なので、紛れてしまう気遣いはない。おそるおそる確認のメールを書く。帯の推薦文なんかだと、「ただ」ということもあるのだが、解説がただってことはないと思う。それにしても、仕事の依頼のときに原稿料などを提示されることはほとんどない。変な仕事だなあ。

2003.07.10

 先日カウンタが50,000ヒットを数えた。大して見るものもないサイトに、たくさんのご訪問、ありがとうございます。なんとかコンテンツを増やしたいとは思いつつ、ご要望の多い「栗山深春のプロフィール」すらいまだにアップできない状況。気にはなっているのだが思うにまかせない。
 しかし人間というのは、なにもかも完璧にやれるというものではなく、なにかを選ぶためになにかをあきらめるのはいたしかたないことだ。例えば篠田はいま「物書きとして生きる」ことを全うするために、それと関係ない雑事雑用をすべて切り捨てている。だが、それでもまだ時間と体力が足りない。それは刻々減りつつある。
 以前は贈呈される小説にはすべて目を通していたが、それはとっくに無理になった。年間ベスト10のたぐいは基本的に答えない。やがては「本格ミステリ作家クラブ」のような候補作五作を読んで選ぶ、といったことも不可能になるだろうし、読者へまめにお返事を書くこともできなくなるかも知れない。そのような「物書きとして生きる上でのいろいろ」を切り捨てても、残るのは「小説を書く」そのことである。
 本が売れなくなっても、出してくれる出版社がある限りは書き続けるし、それもなくなったら同人本を作るだろう。五冊でも十冊でも、そうして読者の元に作品を届けられるためには、そして最終的にそこを発表の場とするためでも、サイトというメディアは一個人にとってありがたいものだと、最近つくづく思う。
 今日はジャーロ12枚。そのわりにパソコンを睨んでいる時間が長く、目玉疲労。明日は仕事場で残業するので、日記の更新はお休み。

2003.07.09

 一泊二日で群馬の温泉に行ってきた。あいにくの雨降りだったが、緑の美しさはそのおかげでひとしお。この次に長く休みを取るときは、海外ではなく青森あたりの湯治場で過ごそうか、などと思う。海外は刺激があってもちろん大好きなのだが、肉体的にも精神的にもけっこうくたびれる。湯治場の自炊場で田舎のおばあちゃんたちと交流しながら、のんびりしているのも良さそうな気がしてきた。

 今日からようやくジャーロの連載に取りかかる。ジャンルとしては伝奇ミステリ、というくらいだろうか。話のトーンは陰鬱でシリアスだと思っていたのに、いざ書き出すとどうもそうはならない。語り手に選んだ人間が、全然そういうタイプではなかった、ということに、いまさらのように気が付く。いずれ嫌でも陰鬱になってくるから、最初くらい軽いノリでもいいか、と思い定めるのに時間がかかり、今日はやっと5枚。長編の最初というのはどうしても時間がかかるから、まあこんなものだろう。近いうちにまた、泊まり込みで働かなくては。昼型の篠田だが、午前中はメールを書いたり食事の買い物に出たりして、なんとなく過ごしてしまい、仕事開始が徐々に後ろにずれる傾向にある。

 我が家にバーミックスという調理道具が来たので、今日はそれを駆使して夕飯を作る。道具を増やすのは嫌いなので、ずっと慎重に考えていたのだが、これはなかなか面白い。要するにハンドミキサーというかブレンダーというか、そういうものです。玉葱のみじん切りなどもできるが、調子に乗っているとジュースになってしまう。

2003.07.06

 「桜井京介館を行く」第三回ジョサイア・コンドルの謎 桑名諸戸邸を無事脱稿。イラスト担当と講談社の担当に送稿する。行き当たりばったりで始まったこの連載、まずどこへ行くかでいろいろ悩みがある。前に自分が行ったところなら、なにが書けるか前もって予測がつくから安心は安心だが、せっかくだから行ったことのないところへ行きたい、という気持ちもまたある。第一回の大山崎山荘は前から気に入っていたところで、今回は初めての場所だった。
 正直言って桑名の諸戸邸洋館は「すんばらしい」という感じはあまりしない。これまで見てきたコンドルの作品と比べても、岩崎家茅町本邸ほど豪華ではないし、古河男爵邸ほどデザインがぴしっと決まってもいない。明らかに変、というところもある。これで一回分書くのはけっこう難しいかなあ、と思いつつ帰ってきたのだが、原稿をいじくり回しているうちに、「なぜ変か」「なぜコンドルはそういう邸宅を作ったのか」という疑問の答えを探るという方向で、どうにか文章をまとめることができた。
 もうひとつの悩みは、「一般に公開されていないところでも、取材できたら書いていいかどうか」ということ。できれば連載終了後にまとめる本は、ガイドブックのようにそれを持って読者も旅して欲しい。となれば、普通に見られない場所はできるだけ少なくするべきだろう。本では書き下ろしで京介の「近代建築鑑賞講座」と、簡単な「お勧め物件ガイド」をつける、なんていうのもいいなあ。作品の舞台モデル紹介とか。ああ、やりたいことはいっぱいあるのでありますよ。

 6/29に書いた日記で、曖昧な書き方をしたために、一部の読者に誤解と無用の心配を与えているらしい、ということがわかったので補足する。篠田が見たのはgooの検索で「建築探偵桜井京介」とやって出てきたのを拾い読みしていたとき、だからそれが誰のなんというサイトなのかはもう全然わからない。普段はこういうことはしないのだが、ちょっと魔が差したのです。で、それは「読書日記」のようなもので、文章の印象は若い男性のミステリマニア、という感じだった。正確なことばは覚えていない。「建築探偵シリーズはミステリではないキャラ萌え小説で、コミケなんかで人気があるらしいけど自分は知ったことではない。20歳にもなって人前でめそめそする蒼は気持ちが悪い」というようなことが書いてあったと記憶する。
 で、篠田はミステリを書いているつもりであるし、キャラクターに魅力があることと、ミステリであることが両立しないとも思わない。読者が建築探偵のキャラに萌えてくれるのは、結果であって目的ではないのだ。楽しんでくださる分には文句を言うつもりもない。ただこの読書日記らしきものの書き手、つまり自分が正しいミステリ・マニアであると信じているような人は、きっと篠田の小説をつまらないと思うのだろうし、そんなつまらないものが売れているらしいということに対する反感を「ミステリじゃない、キャラ萌えじゃないか」という悪口で発散するのだろう。それも読者の勝手なので、そんな吐き出し口を読んでしまった篠田が悪いのだ、ということは百も承知だ。
 建築探偵を終わらせるというのは、予定を早めて切り上げる、というような意味では断じてない。他の人の読書日記でも、「じらされていらいらする」「ほんとにちゃんと終わらせるんだろうな」というような感想があったので、いたずらに引き延ばすつもりはないのだが、とにかくちゃんと終わらせなくてはな、という自戒の意味を込めてああいうふうに書いたのである。
 そして建築探偵を書き終えることで、自分の作品が少なからず変化をこうむる、ということはあり得ると思う。いまだって「キャラ萌え」しようのないような小説はいくつも書いているのだが、篠田真由美はキャラ萌え小説しか書けないのか、といわれるのは腹立たしいから、そうでないものをもっともっと書いてやりたい。だが私は「物語」というものを愛しているし、その力を信じているから、人間がゲームの駒にしか見えないようなミステリは書きたくないし、書きもしないだろう。
 蒼の涙をキモチワルイと書いた人よ、きっとあなたは「男の子は人前で泣くものじゃない」と、封建的な教育を受けて成長した人なのだろうね。気の毒だと思うよ、篠田よりずっと若いだろうに、そんな古くさい観念に縛られているなんて。そんな無理をしないと、あたなは男でいられないのかな。いくらセンティメンタルだって、蒼はちゃんと男の子だよ。

 月曜火曜は早めの夏休みをいただきます。七月八月仕事三昧になるので、その前に。日記は水曜から再開します。

2003.07.05

 ちょっとご無沙汰しました。帰ってきた篠田です。
 旅から帰るとまずなにをするか。なんだと思いますか。洗濯です。長い旅だと当然毎日洗面台で洗濯をすることになるけれど、二泊三日のような短い旅の場合は面倒なので全部持ち帰る。というわけで、今日は晴れで助かった。
 午後から「館を行く」の執筆にかかる。予定では明日中に書き上げること。

2003.07.01

 七月になりました。六月は旅から帰ったまま、かなりだらだらと過ごしてしまったし、仕事の方も間が開いてしまったせいで、なおのことそういうふうになったのだが、遅れたゲラが間もなくやってくるはず。でもそれにかまけていると、ジャーロの〆切があっという間にやってきてしまうだろうなあ。
 ともあれ月が変わって最初の仕事は取材旅行。国内で二カ所取材のはしごをする。ひとりで行かなくてはならないところは、土地勘がまったくない場所なんだが、まあ日本なら日本語が通ずるからいいや。
 というわけで、7/2から4日記はお休みです。トルコ旅日記は今日の更新でひとまずおしまい。頭を切り換えないとね。でもトルコの絵葉書やカードはまだ残っているので、なくなるまではお便りの返事もそれです。