トップに戻る

     旅日記

2013台北日記
 
2013年1月27日から3泊4日で台北に行って来た。航空券とホテル、送迎のみのスケルトン・ツアー。観光というより、街を歩いて美味しいものを食べようぜ、というだけの、あまり志のない旅である。しかし行ってみて、大変に気に入った。もっと新しい建物ばかりのモダンな都市なのかと思ったら、そういう部分もあるが、明らかに戦前の古い建物もたくさんあり、裏道はかって何度も行った香港をさらに煮詰めたような古い中国ぽさが漂っていて、ばかでかい犬がぼーっと横になって寝ていたりして、道は広くて歩きやすく、しかも一年で平均気温が一番低い季節なので、寒くはないが暑くもない。
春節(旧正月)は2月10日からだが、街はすでにあちこち赤と金の正月飾りが現れて、毎日増加中で、すでに「正月休みするもんね」という張り紙も出ていた(おかげで当てにしていたニラまんじゅうを食べ損ねた)。中国語はわからなくともじーっと睨んでいれば、意味の半分くらいはわかるあたりが漢字の民のありがたさ。ただし読めない、発音できないというのが情けない。しかし香港の広東語より北京語の方がまだしも、カタカナでいっても伝わる、ような気がする。
というわけで、大した旅行記も書けないので、まず4日間に食べたもののことだけでも、忘れぬ内に書き留めておくことにした。

台北について最初に口にしたもの。台北牛乳大王のパパイヤ牛乳。70元
果物の季節にはマンゴー牛乳とかいろいろ出るらしいが、暑くない分一番トロピカル・フルーツには不足する時期。しかしパパイヤは八百屋でも売っているし、パパイヤ牛乳はとても美味い。少しパパイヤの苦みがあるのも、甘いもの苦手のわたくしには好印象。
誠品信義館地下フードコートのセットメニュー。日曜日だったので、どこもかしこも満員といっても、全然お昼時ではないのだが、ここでジャージャー麺と烏賊の入った炒め物と揚げ豆腐を食べる。中でも豆腐が絶品。外はかりっとして中はクリーミィ。厚揚げ的なぽそぽそ感はまったくない。
夜、臨江夜市で石家割包の割包を。50元。中華風バーガーといったところだが、外はパンではなく柔らかな肉まんの皮、中身は似た豚肉に漬け物にコリアンダー葉にピーナツ粉など。総じて薄味。
ホテルのすぐそばにフランス資本スーパー、カルフールがあるが、中は混沌としてドンキホーテみたい。牛乳売り場に売り子がいてやたら試食とか薦められるのもカルチャーショック。部屋飲みようにビールとワインを買うが、輸入品は総じてあまり安くない。
翌日は朝はホテル(台北花園大酒店)の朝食をチェック、品数は多い。味はそう大したことはないが、ホテル・オリジナルのヨーグルトが美味。午前中は少し郊外にある服屋さんのアトリエに行き、その後台北のアメ横ともいうべき迪化街を見物、安いからすみをひとつ買い、お昼はその近くの麺屋でパイコー麺、50元。安すぎるよっ。やや太めの中華麺にスープは澄んだ塩味。これも塩気が気になることはなく、高血圧を気にするわたくしにも安心。
この日の夜は友人お勧めの杭州小籠包。注文は注文用紙に書き込み、飲み物はセルフという気楽さは外国人には有り難いが、ジモピーの方が多いざっかけない店。基本の小籠包と蟹味噌入り小籠包、野菜の蒸し餃子を食べる。売り物の小籠包が美味(しかも日本の店と違って皮が全然破れていない)なのは当然としても、野菜蒸し餃子がとてもリッチな味わいなのに瞠目。生地にも野菜が入って草餅色で、中は小松菜と椎茸と炒り卵かな。
翌日は外で朝食。温かい豆乳には砂糖が入っている場合が多いというので、しょっぱい豆乳を頼むが、これはあらかじめ刻んだ揚げパンとネギが入って、逆に少々しょっぱかった。揚げパン、油條はかなり油っこい。
この日は故宮博物院に行き、中国人団体でやたら混み合っている一部展示(玉の白菜と肉、オリーブの種の細密彫刻、象牙彫刻)をパスして、他の展示を見物してから四階の茶楼で一休み。一本の象牙をくり抜いて、それぞれ回転させられる17重の球というのは、皆川博子先生の『朱鱗の家』に登場するアレのモデルでしょうか。
昼飯は士林の駅前で牛肉麺と牛肉飯。すね肉を八角入りの汁で煮たものが主たる具で、これも薄味。120元。
市内に戻ってバスで古い金鉱のあった山中の街九?に行く。山肌に密着した狭い道と、その間を繋ぐ狭い階段。その階段は「千と千尋の神隠し」の風景だといわれ、そういえば千尋の両親が豚にされてしまった飯屋は、どことなく中華風の店だったなあといまさらのように思い出す。お茶屋で一服。観光地値段でいきなり高い。テーブルチャージが100元に茶葉代が600〜 しかしまあ、テーブルに炭火を入れる場所があって、やかんの湯をちんちん沸かしながらお茶が入れられるというのは、なかなかいい感じだった。
夕飯は忠誠敦化駅近くの台南料理度小月、ここも友人が勧めてくれた店。あたりは日本の原宿みたいなお洒落な雰囲気で、店内もそれにふさわしく、客は家族連れより若者グループが主体という感じだったが、料理のポーションは少な目で食べやすい。サイトでチェックしていった台南風の担好麺とエビすり身の湯葉巻き揚げ、青菜の炒め物と中華風ソーセージ。そろそろ手持ちの元が少なくなってきたので、注文は控えめ。
帰りにコンビニでおでんなべの隣で売られている茶色い卵を買い、部屋で酒のつまみにした。8元。今度行ったらあのコンビニおでんを食べてみたいぞ。
翌朝はホテルから比較的近い龍山寺に行き、路上で熱々の豆乳を飲む。15元。近くになかなか濃密な路上市場を発見。次回も同じホテルにして、今度はこの市場と、治安があまり好くないという夜市を攻めようと決める。
飛行機の時間にしては迎えが早いと思ったら、やはり免税店に連れて行かれる。ブランドショップには興味がないので近場を探索、パン屋でパンを購入し、これはその晩と翌朝の飯に。見たところはぷわぷわと柔らかめの昔っぽいパンかと思ったが、多少そうした傾向はあるにしても、真面目にちゃんと作られたパンだった。
空港でそのパンをひとつ、ネギ載せドーナツとでもいうべきか、半分分けにして食べ、検査と出国を通って搭乗待合室に入ると、カフェテリアに手羽先や豚足、鶏爪がつやつやと並んでいる。鴨の手羽先2本、缶ビール1本で、両替した元はほぼすっからかん。ここまで思い切りよく使い切ったのも珍しいというと、連れ合いいわく「空港で手羽先を食べたのも初めてだ」 まったくその通り。しかしこれ、案外癖になりそうだ。


2011京都日記
 久しぶりの旅日記アップです。

12.03
 東京駅八重洲南口23時丁度発の夜行バスで京都へ。しかし勘違いしていて、これは女性専用車ではなかったよ。通路を挟んだ隣は男ふたり連れ。でも前乗ったときは、近くのおばさんグループのおしゃべりがうるさかったから、かえって正解だったかも知れない。夕飯の時はアルコールを自粛していたので、バスの待合室で缶ビール一本飲んだ。列車だと酒が飲みたくなるのに、バスではなぜかそうではない。やはり居住性の点では、バスは落ちるようだ。

12.04
 眠れない眠れないと思いつつ、アナウンスで起こされてあわてて支度。予定より早く到着時刻は6時40分。市バス案内所にくっついた「進々堂のスタンド」でカフェラテを飲んでから206番のバスで五条坂。宇山さんの墓参り。新刊二冊とエビスビールをお供えして記念撮影をしてから、軽く墓石を洗うのがいつもです。
 京都駅に戻って、タワー下の銭湯へ。狭くて思いの外混んでいる。こちらの銭湯は湯船が中央にあるってのは本当だね。楕円形のタイルで湯はわりと熱いめ。ささっと浴びて荷物をコインロッカーに入れ、5番のバスを待って乗るが、これがめちゃ混み。道も渋滞。今日は日曜だったし、まだ秋の紅葉観光シーズンは終わっていないという感じ。街路樹の銀杏がきれい。京都会館美術館前で降りて、山形有朋の別邸無鄰庵を見物。日本庭園はあんまり興味がなくて、洋館が見られるというので行ったんだけど、こじんまりとしているわりには雄大さを感じさせる、なかなかきれいな庭だった。紅葉が緑の苔に散っているところは「ああ、京都っぽい」。洋館は蔵を改造したような外見。二階は折り上げ格天井に金地屏風のような和風壁画が面白かったが、明治のオリジナルではあるまい。
 その後一乗寺方面に市バスで行こうとしたが、そのバスが一時間に一本しか走っていないということがわかり、方針を変えて出町柳に出て叡山電車で一乗寺。「恵文社」に行く前にその近くにある「和洋アンティーク 葡萄ハウス家具工房」で小さな薬瓶を買う。陶器とかガラス器とか、小物もあるのです。「つばめカフェ」で日替わり定食とコーヒー。今日の献立は少し辛い鶏肉とじゃがいもの煮たの、あげと水菜のサラダ、おみおつけ、雑穀ご飯、香の物はゆず大根。
 その後「恵文社」に行くと、皆川博子先生がお好きな漫画家鳩山郁子さんのサイン会が10日の土曜日にあることがわかり、おおっ、というわけで整理券をもらう。それから歩いてチェックしてあったパン屋、「レ・ブレドオル」に立ち寄りしこたま購入し、バスを乗り継いで金閣寺に行く。
 すごい人混みだった。もうオフ・シーズンの静けさを求めるには、12月ではダメらしい。まあ、紅葉はかなり残っているしね。昨日から三島の『金閣寺』を半分くらいまで読んだのだが、今目に入るそれはなんというか、プラモデルみたいです。あまり有名すぎるものって、素の気持ちで見ることが難しいからなんだろう。池の水面に映る光が、金箔を貼った軒裏にゆらゆらとしているところなんて、きれいだとは思うのだが、とにかく周囲の雑踏にげんなりしてしまい、足早に規定コースを一巡して退散。4の日の巣鴨のお地蔵様みたいなんだもの。
 九条のホテル、アンテルーム京都は、今年開業したばかりで、コンクリート打ち放しに白ペンキでおしゃれをねらっているようだが、いまはまだ新しいからいい。これが少し汚れてきたら、貧相だろうなあという感じ。しかしまあ、安いしね。部屋はシンプルでデスクの広いのがいい。風呂はかなり悲しく狭い。今日は一日飛ばしたので、早々にホテルに腰を落ち着け、夕飯は買ってきたパンと向かいの小さなスーパーで調達したワインで済ませることにした。一人旅の夕飯はやっぱり面倒だ。周囲はやや場末っぽく、あまりなにもない感じだから、外食する気なら京都駅まで出ないとならない。その分静かだけど。

12.05
 9時前に眠ってしまい、目が覚めたら夜中の12時過ぎ。仕方なくカメラのマニュアルを読んだり、ポメラをいじったり。旅の日記には便利だが、仕事をするのはどうだろう。創作ノートを作るのは、やはり手書きの方が良さそうな気がする。7時前に起床。残りのパン(一日経ってもちゃんと美味しい)とインスタントコーヒー、ヨーグルトで朝食。地下鉄から徒歩で四条大宮、嵐電に乗る。これはほんとに鎌倉の江ノ電と似た、愛らしい路面電車だ。
 今日は恩田陸さんの著書にあったお勧め旅行本の一冊、『京都異国遺産』平凡社を片手に、嵐電沿線のエキゾチック京都を歩く。太秦周辺は著名な渡来人秦氏一族の居住地だ。最初は「蚕ノ社」で降りて木島神社へ。ここは由来不明の三角鳥居(普通の鳥居三基を向かい合わせて三角に組んである)が池の中に立っている。こじんまりとした境内だが、近寄っただけで「濃いっ!」と感じさせるものが。いやな感じではないが、何か形のないものがいそうな気がするのだ。使いたくないことばをあえて使うなら『スピリチュアルなパワースポット』。ただし隣が保育園で、園児たちの健康的な金切り声があたりに響きわたっているので、雰囲気は五割引。
 それから徒歩で広隆寺。昔仏像好きだった時代に来たはずだが、記憶はおぼろ。展示方法も変わっている気がするが、ほかと混同しているかも知れず、少なくとも拝観というには暗すぎてどうにもならず。さらに歩いてこれは初見の蛇塚古墳。石舞台より少し小さいが、やはり覆土を失って石室の巨石が剥き出しになった古墳が、慎ましやかな住宅町のただ中にいきなりある。残念ながら鉄柵越しに眺めるだけだが、この荒々しい異物感は相当にすごい。
 これでエキゾチック京都の前半は終わって、せっかく乗り放題のチケットだから嵐山まで行くが、これはもうけばけばな観光地で、桂川のほとりをしばらく歩いて鴨や白鷺の写真を撮っただけ、店に入る気も全然せず、再び嵐電で御室仁和寺へ。境内の九所明神前のキリシタン灯籠が目的だったが、これはあまりピンと来ず。鶴岡真弓先生は「ミケランジェロも驚くような、西洋彫刻的な量感を持ち、見る者を圧倒する」といわれるのだが、実物を前にしてもうーん? いまいちピンと来ない。
 この後『京都カフェ散歩』祥伝社で目星をつけたわかりにくいカフェを訪ねるも、「今日はパンの販売のみ、カフェはなし」で、仕方なくさらに歩いて京都御苑をようやっと横切り、「かもがわカフェ」で豆のカレーでランチ。その後古本屋(水明洞、中井書房)、寺町の和紙屋、お茶の一保堂などで買い物。いい加減足が疲れてきたので、伊勢丹の地下で日本酒と弁当を買ってホテルに戻る。

12.06
 明るくて目が覚めて、ああ、朝まで眠れたんだと思って目を開けたら、スタンドが煌々と点いていてまだ2時半。酔っぱらって眠ってしまっていたというお粗末。また寝たが妙な夢を見て4時半に目が覚めてしまい、もう眠れなくて諦める。
 起きても覚えているような夢のほとんどは、軽めの悪夢というか、「時間に遅れそうで焦っている」「外に出たら自分がとんでもなく変な服装をしていると気がつく」「急いでいるのに道がわからない」「財布がない」「他の人と同じようにしたり話したりができなくて仲間外れになる」というような、焦燥と疎外感の煮え煮えするものばかり。つまりそういうことが私の恐れであり、自己認識であるということなんでしょう。
 昨日一昨日と、「金閣寺」「嵐山」と著名な観光地をひとつずつ訪れたが、どちらも予想外の人出に加え、観光客向け店舗のファンシー化が凄まじく、かなり退いてしまった。どこもかしこも「ゆるキャラ」ぽく、「マンガ絵」ぽい。昔でいえば修学旅行生向け新京極風が氾濫して、自分がひどく場違いな場所に来ている気がしてしまう。数年前ツレと歩いてなかなかいい感じだった哲学の道に、また行ってみようかなと思うものの、あんなになっていたらイヤだなあなんても思ってしまう。
 徒歩で東寺。ここもすごく久しぶり。講堂の密教系諸仏立体曼荼羅が好きだ。修学旅行生がいなければもっとよかった。だいたい普通の中学生はこんなもの見せられても面白くもなんともあるまい。スターのブロマイドを買う気分で、美形の帝釈天のポストカードでも買おうかと思ったがバラはなく、いろいろグッズはあれど値段設定が妙に高くて止めておいた。
 バス207で四条河原町方面。渋滞にじれて一停留所歩く。寺町通りの「スマート珈琲」で念願の卵サンド。塩胡椒したオムレツを薄いパンに挟んだシンプルそのものだが、出来立てのほかほかでなんとも美味。朝食を我慢してきただけのことはある。
 今日は建物を見ながら買い物。紙ものの鳩居堂、手ぬぐいの永楽屋ではお土産を、それから北上して京都ハリストス正教会を撮影。薄い水色に塗られた下見板張りの外壁に、窓のデザインがなかなかいい。日曜でないので中は見られない。鴨川を渡って少し下がり「一澤帆布」。かさばるなあと思いながら、夏の日除けに良さそうな大きな鍔の帽子を買ってしまう。それからテレビ番組で知った「染司よしおか」で、手織りシルクに天然染料のスカーフ。草木染めというともっと渋くて地味なものを考えるが、その鮮やかさに驚く。買ったのは茜染め。鮮やかだがけばくはない。お店にいたのはご主人の奥様らしく、少しお話させていただく。
 ランチは一銭洋食というお好み焼きみたいなものに興味があったのだが、混んでいたので近くの「やぐ羅」で湯葉あんかけうどんを食べたところ、なぜか急に腹が膨らんで疲労感ががーっと来てしまう。やはり睡眠不足がこたえているらしい。来たバスに適当に飛び乗って、車中で休息。202番のバスは東大路通り〜丸太町通り〜西大路通り〜九条通りを四角く走る循環バスなので、休憩に使うにはもってこいだった。京都中心部を大回りして、東福寺に行った。ここもまだ紅葉が残っていて、人だらけでどうもならないが、盛りの時はそれこそ日曜日の竹下通り並だったろうな。
 バスで再度北上。しかし京都の祇園から四条河原町というのは、最悪の渋滞スポットだ。本日二軒目のカフェ、「ソワレ」でゼリーポンチなるものを食す。透明なソーダの中に赤、青、黄色、紫の賽の目に切ったゼリーが浸って、レモンの輪切りとキューイと赤いチェリーが飾ってある、とてもきれいで、幸い甘過ぎもしなかった。これを挟んで神代教授と京介の会話、なんてものを想像してニヤつく。
「なんでそんなものを注文するんです?」
「きれいだろ、色が」
「ええ。でもあなたにはミスマッチです」
「わかってるよ。可愛い女の子か、せめてきれいどころ向きだよな」
「あいにくでしたね」
「だから、おまえ食べろ」
「なんで僕が」
「きれいどころの代わりだよ」・・・

 灯点し頃の風景を楽しみながらぶらぶら木屋町を南下して、バスで戻る。本日も25000歩。しかし絶対体重は増えてるな。

12.07
 京都駅まで歩いてJRに乗る。しかしスイカを使おうとしたら自動改札に拒否られた。前は使えたと思ったんだけどなあ(後で東京メトロを出るときにタッチミスがあったせいと判明)。各駅停車でのんびり宇治へ。ここの駅から寺までの参道も、例によってファンシー化してる。旅行者の大半は高齢団体と修学旅行生だが、高齢者もこういうのがいいんだとしたら、日本人はとんでもなく幼稚化しつつあるんじゃなかろうか。
 平等院は平成になってからかなり大規模な修理をして、庭も直したらしいが、なにせ高校の修学旅行以来だから40年ぶりか。大して覚えていることはない。定朝の阿弥陀如来は仏像イメージの決定版というところ。つまり「いかにもそれらしい顔」をしている。鳳凰堂内は別料金別案内時間制で案内されては追い出されるシステム。まあ、中は狭いからな。そばにコンクリート打ち放しの博物館があり、こちらで約半数の雲中供養菩薩とそのほか修理の時に蓮台の下から出てきたものと、その復元とか、CGもたくさん見られる。まさしく富の偏りだけが可能にした、贅沢の極みという感じで、外に出てほんものの鳳凰堂を眺めても、建物が朱色でないのは間違いみたいな気がしてくる。ミュージアムショップでラブリーな雲中供養菩薩の写真集とか、クリヤファイルとか買ってしまう。東寺よりも料金設定は安めで良心的だぞ。
 帰りは京阪電車の駅に行き、途中乗り換えで出町柳まで。叡山電車に乗り換えて茶山。このへん古本屋が多いのだが、あまり荷物を増やしたくないので、ほとんどの店はパス。「猫町カフェ」でランチのパスタ。その後首尾よく銀月アパートメントを発見。『京都の洋館』青幻舎という本に紹介されていて、前から興味があったおんぼろアパート。駒井邸のほんとに近くだった。さすがに無断侵入はいたしかねたが、綾辻さんの『人形館の殺人』の舞台はこのへんじゃなかったっけ。
 その後バスで三条に出て、名旅館俵屋のグッズショップ「ギャラリー遊形」は見るだけ。におい袋の中身だけ買おうと思った「石黒香舗」は水曜休み。「アスタルテ書房」でゆっくり幻想文学の背中を眺めて、塚本邦雄の未読本と小泉喜美子の『血の季節』、そうしたら京都在住の女性詩人のエッセイ集が置かれていて、そのタイトルが『銀月アパートの桜』というので、ふらふらっとこれも買ってしまう。
 もとの小学校がいまは芸術センターというのになっている、そこに入ったカフェ「前田珈琲」で飲んだ「龍之介」というのが美味かったので、豆を買って今日はおしまい。地下鉄九条の出口を間違えて、しばらく逆方向に歩いてしまうというアホなエピローグつき。夜飯は地下鉄駅に隣接したスーパー成城石井のサラダとパスタ。

12.08
 朝から雨もよい。地下鉄から阪急、大阪モノレールを乗り継いで万博記念公園へ。駅から続くブリッジ上から太陽の塔がぬっ。巨大仏のノリ。しかし雨は強くなっていて、民族学博物館のある万博公園は9時半にならないと開かず。雨宿りして開門を待ち中へ。入場ゲートとか、途中の園路とか、なにもかも妙に馬鹿でかいのは万博の跡地がそのまま残っているからだろう。徒歩15分で博物館の門前に着き、さらに15分待ち。雨の中だがここはすぐそばに薔薇園があって、この季節なのによく咲いている。
 で、民博。これがかなり面白かった。最初はオセアニアで、手漕ぎボートで一夜にして100キロを航行するミクロネシアの在来航法の展示と現物の舟とか、仮面とか衣装とか。その後にアメリカがあって、新大陸の植物がいかに現在農作物として世界中に広がり、利用されているかを教えられ、その後はヨーロッパ、アフリカ、どれもかなりでかいものがガンガンと、それも間近に見られ、動画映像も各所にあり、すでに1時間以上経過。しかしパンフを見ると、これでまだ三分の一しか済んでおらず、こりゃ急がないと見て終わらないぞ、と足取りが速くなり、結局どうにか2時間で出てきたが、アジア圏は駆け足になってしまいちょいともったいなかった。レストランは館内でも外なので、空腹に負けてしまったのだ。再入場できそうな感じだったけど、恐ろしく空いていると思ったら、小学生の団体が次々と来るので、それがうるさい。レストランはエスニックと洋食半々だったが、牛肉のフォーのセットを食べた。しかしこれは相当にボツでした。
 それからなんばに出て千日前道具街を見に行くが、合羽橋と比べればあまり大したことなし。歩いて道頓堀の「スタンダード・ブックストア」に行ってみる。本のセレクトショップという感じだが、この今風ビミョーにお洒落なサブカルぽさというのは、あんまり肌が合わない。「恵文社一乗寺店」の方が、同じ今風でもエコ入っていて、まだしもかな。地下の広いカフェでミックスジュースを飲んで休憩。
 時間があったので御堂筋を歩いて北上。歩道がとにかく広くて、人にぶつかる心配がなく、自分のペースでがんがん歩けるのが気分いいのだ。ただときどき自転車にすぐそばをかすめられて、肝を冷やす。地図を入念にチェックしていったので、幸い迷うことなく梅田の近くの古本カフェ、「アラビク」へ到着。本はもう買うまいと思っていたのに、やはり買ってしまう。ぐっとこらえて一冊だけ。ホームズのパロディ本『日本版シャーロック・ホームズの災難』論創社。待ち合わせをしてその夜は大阪で飲む。地元の人が連れて行ってくれる店は安くて美味い。本の話、ミステリの話、たくさん出来て楽しかった。

12.09
 京都はちと飽きたので奈良に行く。まず近鉄で西ノ京に出て薬師寺と唐招堤寺。薬師寺は行くたびに様子が変わる。今回は元の伽藍の外に玄奘三蔵院というのが出来ていて、平山郁夫のシルクロード壁画が公開されている。次々いろいろ作っちゃってなんだかなあという気もしたが、この絵はけっこう良かった。今度東塔を解体するというので、いまはその覆屋を建設中。
 唐招堤寺は金堂修復が終わって初めて行ったが、どこを直したかよくわからないというのは、逆にいいことなんだろうな。しかし、音声ガイドの機械を有料レンタルというのはけっこうあちこちであるようになったが、ここではスマートフォン的なものを貸し出して、説明だけでなく季節の花やら未公開部分の映像やらCGやらが見られるという。サービス過剰というかなんというか、今自分の目の前にその寺があり仏像があり、なにを置いてもまずそれを自分の目で見るべきなのに、手にした小さな液晶画面を見入るのか、そりゃどう考えても変だろうと思ってしまう。
 この後バスで東大寺まで。天気が悪くなってきて寒い。戒壇堂(昔は戒壇院といったがなぜか呼び方が変わっている)だけ行こうと思ったら、東大寺ミュージアムというのが大仏殿の近くに出来ていて、寒さに負けて中に入ると、なぜか三月堂の本尊三体、不空羂索観音と日光、月光菩薩がこっちに来ている。こちらの方が近くてよく見えるから、それはいいんだけど、三月堂の方はどうなっているんだろう。まさか当の仏様は博物館で、留守番は宝冠だけとかいうんだろうか。つまり観音様はあの豪華な冠は無しでいられた。
 外に出たらバラバラッと雨。この後も日が射したり曇ったり雨が降りしきったり、日が射したまま雨が降ったりという、落ち着かないような天気で寒い。戒壇堂で男前の広目天を見てから(ここには誰もいない)ずーっと飛火野を下って新薬師寺。ここも狭い境内がほじくり返されていて、なにか発掘しているらしい。流されているテレビ映像は十二神将の元の色復元CGで、その絵はがきがあったんで購入。これが正しい復元ならすんごい派手派手である。そばの写真美術館で珈琲とケーキで一休みして、入江泰吉の写真は悪くはないけと高級絵はがきだなあと思う。
 久しぶりに奈良に行って、学生時代通い詰めた寺々のおなじみ仏と再会して、みなさんあんまりお変わりなかった、というところ。奈良の町はやはり観光ファンシー化が進行しているようだったが。

12.10
 今日は絶対駅近くの朝7時半からやっているラーメン屋で朝ラーメンを食べるぞと心に決めていた。二軒並んでいるけど、とりあえずは手前の「新福菜館」へ。並の中華そば650円。汁は真っ黒な醤油色で麺は太いまっすぐ。しかし油分は少なくさっぱり味で、全然胃にもたれない。これなら朝からでもいける。ちょっと化学調味料の後口が残ったけど。しかしひとつわからないことが。受け皿にスープがこぼれていた。まさか、お酒を受け皿にあふれさせるサービスとは、違うよね。いずれ再チャレンジして検証しよう。
 今日は「恵文社」にもう一度行くので、コース的につなげる意味で南禅寺の水路閣から哲学の道を歩く。土曜日だし、まだところによっては紅葉もあるしで、けっこう人が居る。銀閣寺道から一度バスで百万遍に出て、金平糖の「緑寿庵清水」へ。ここも人がたくさん。徒歩で引き返す途中、「進々堂」で一休み。白川道を北上する途中で「ガケ書房」。ここも古本とミニコミと新刊セレクトと手作り系のグッズが入り交じる店だが、微妙にゆるくて居心地がいい。京都で大学生活を送るのは楽しそうだなあと思う。『本屋の窓から覗いた{ちょっと昔の}京都』というミニコミ本を買う。
 「萩書房」は買いたい本がなくもなかったが、そこはぐっとこらえる。「恵文社」で鳩山郁子さんのサインをもらい、ついでに写真を一枚撮らせてもらって目的達成。これでやることはだいたい終わったのだが、バスで下って、三条通りの「石黒香舗」でにおい袋のなかみを詰め替えてもらう。もう何年前になるか、そのときは『胡蝶の鏡』の構想中で、鳳凰の織り模様のある袋に香木の粉を詰めてもらって、中身は入れ替えられますといわれたのだった。交換した元の香木粉は「炭火の上に載せてくゆらせれば、まだ香りが楽しめます」といってビニール袋に入れてくれた。
 その後「ELEPHANT FACTRY COFFEE」で一休み。この珈琲が実に美味だった。味的にはストロング系なのにすっきりと雑味がなく、疲れた全身にしみこんで元気がふわっと湧いてくるような。河原町通りの雑踏のすぐ裏にこんな見事な一杯を饗する店が隠れている(隠れているんだよ、ほんとに)と思うと、改めて「京都すごい」という気がする。

12.11
 今日以降はツレと合流したので、日記は簡単に。早い話がひとりだと、暇を持て余しているのでこまこまと書いてしまうが、ふたりになるとそうはならないということ。
 朝、それまで滞在した九条のホテルをチェックアウト、京都駅に移動して東京から来たツレとJRで嵐山へ。さすがに一週間前と比べては紅葉も終わり、行き交う人も減ったがそれでも観光地〜としている。「西山艸堂」で湯豆腐のランチを済ませてから、念願の千光寺大悲閣へ。北森鴻さんの裏京都シリーズに実名で登場するお寺だが、現実はその寺の由来と位置だけが同じで、かなり荒廃した状態になっているらしいとは、サイトをチェックしていて承知していたのだが、それについては想像以上だった。ただ、眺めはとても良くて、参詣者のほとんどは北森さんの作品とは関係なく登ってくるものらしい。柴犬が寝ていたが、これは作品に登場するタロウのモデルだろうか。
 帰りは嵐電と地下鉄を乗り継いで市の中心部に出て、町をぶらぶら歩きして、路地を歩いて和文具の店「裏具」、さんざん道に迷ってから、週末だけ開く町家喫茶「月あかり」でお茶。アールグレイにラベンダーをまぜたお茶が美味。夕飯は『京都本』京阪神エルマガジン社で見つけた「ビストロ・セプト」。豚足のガレットが食べたかったのであります。

12.12
 バスと叡電を乗り継いで鞍馬へ。といっても参詣ではなく、くらま温泉へ入りに行った。ほんの30分の乗車で気温はがくんと下がり、深山幽谷の気配。昼は鞍馬寺門前で暖かいつけそばを食する。戻りは一乗寺で降りて「葡萄ハウス家具工房」を再訪。目に懐かしい昭和の古家具を扱う。値段は東京の同種の店と比べては明らかに安い。しかし家具ならぬ、染め付けの角皿を二枚買う。
 出町柳から京阪電車で東福寺、今回は東福寺ではなく泉涌寺へ。ここにある楊貴妃観音を見るのが目的だったが、意外にも徳川四代将軍家綱の時代に建てられたという中国宋代様式の仏殿が見事だった。外からより中に入って見上げると、高天井を支える木の一本柱の壮大さに圧倒される。
 再び中心部に戻って「直珈琲」という珈琲専門店に。あたかも茶室のようなシンプルな店内に僧侶のような主ひとり、席はカウンタ6席のみ。先日の「エレファント・ファクトリー」でも思ったが、殷賑を極める銀座か新宿のような町並みのちょっと裏に、こういう店がひっそりかつ堂々と営まれているのがすごい、という気がする。
 その後河原町通りの古本屋を覗いたら、ここも値段は高めながらえらい品ぞろえのいい店でびっくり。特にキリシタン関係の文献が多く、地方出版の旧著など逃せば絶対見つからないから、ああまた荷物が増える、といいながら買ってしまった。夜は「まんざら本店」。和系の高級居酒屋という感じでやや高めながら味はよい。ただこれくらいの店にしては日本酒の品ぞろえが妙に手薄なのが、関東人から見ると不思議に思える。

12.13
 「イノダコーヒ本店」でモーニング。しかし行列が出来ていてビックリ。ガイドブックに載っているような店は、どこもかしこも行列だ。錦で買い物をして帰るにも少し時間があるので、ツレの提案で「天使突抜」というすてきな名前の町を見に行く。大して期待していなかったのが、東京の下町のような生活感の濃いちまちまとした町並みを見られて、これがとても良かった。絶対地元の人しか来ないんだろうなという、古ぼけた喫茶店や食堂、雑貨屋さんの中に琵琶を下げた骨董屋や簾の製造販売の店や刷毛屋などが混じっている。
 昼は錦のうどん屋にするつもりだったが、これまた行列で、そのまま京都市役所まで上がり、見かけた店で卵とじうどん。普通に美味だったが、そのインテリアがちょっと不思議というのは、外に出てみればやはり戦前の鉄筋コンクリート三階建ての一階を、天井の高さに二階を後から作って店にしていたのだった。狭い路地を入ると全然別の店が開けたり、やっぱり京都の町は不思議だ。

 京都日記は以上です。

2005イタリア/トリノ日記
 二週間にわたって滞在中の日記を公開するのは煩雑過ぎるし、トルコでのようにテーマでまとめるのも手間がかかるので、日を追って面白そうなところを整理してお見せすることにします。日本で『魔都』という形容を聞けば思い浮かぶのは上海だが、世界的に見ると『魔都』と呼ばれるのはトリノ。キリコが著名な絵画「通りの神秘と憂愁」で描いたような回廊が続き、なぜか歩いている人より道端に駐車する車の方が多い。日曜の朝の人気のなさはいっそ人類滅亡の翌日を思わせる──とまあ、ちょっと魔都らしく語ればそういうところ。

10.12(水) エール・フランス機はがちがちに混んでいて一睡も出来ず。東京/パリはフランスのツアーに参加する日本人中高年がほとんど。パリ/トリノはフランス人、イタリア人のビジネスマンが中心。シャルル・ドゴール空港の乗り継ぎ時、売店を覗いて物価高に目を見張る。無論空港なら市内より料金設定は高いめだろうが、それにしても絵はがき1枚2ユーロ、バゲットのサンドイッチ5ユーロ、昔1000円で買えたTシャツが15ユーロというのはすさまじい。東京で換金したときは1ユーロが143円で、それでも「高いなあ」と思ったのが、ここの両替所で値段を見たら155円などと書いてあるのだ。
 時差のお陰で人生が7時間長い1日。

10.13(木) トリノの朝は7時過ぎないと明るくならない。10月いっぱいはまだサマータイムだが、この曇天は完全に秋の気候だ。日本だと秋のイメージは秋晴れの青空(無論イメージとしてだが)だが、ヨーロッパの秋は曇りと雨である。
 今回はホテルではなく貸間のようなところに泊まっている。本当の希望はキチネット付きのレジデンス・ホテルだったのだが、そういうところはあまりキャパシティがないと見えて取れなかった。その分、ダブルベッドを置いた寝室に、家庭並みのキッチンのついたリビングに、シャワーとトイレという専有面積の広さに比しては、1泊13,000円というリーズナブルな値段で滞在できることになった。ただしフロントはないから出入りは自分で鍵を開け閉めし、外から連絡は一切取れないし、他にも不足がないわけではない。ひとつはトイレットペーパーの予備がなかった。というわけで最初の一日は、食糧や紙を売っている店を探すところから開始。
 幸い小さなスーパーマーケットが、中央駅と部屋の間に見つかった。昼休み無しで夜の8時まで開いているし、日曜も営業しているのが有り難い。牛乳半リットル0.73ユーロ、たまご6個1.15ユーロ、ツナの缶詰0.92ユーロ、トイレットペーパー4巻き0.99ユーロ。日本より安いものもあり、少し高いものもありという感じ。
 この日は街の地理の把握に努めながら、スーパーでの買い物を済ませた後はインフォメーションへ地図やパンフレットをもらいに行き、その後使うためのマグカップを探す。部屋のキッチンにはスープやミルクに使える小どんぶりくらいの青いカップがあったが、後は皿とボウルとガラスのタンブラーくらいで、中が白いカップがない。色の分からない飲み物を飲みたくないので。結局リナシェンテというデパートの家庭用品売場で4.5ユーロ。こういう実用家庭雑貨に関しては、日本の方がよほどバラエティもあり値段も安い。

10.14(金) 駅に行きテレホンカードを2枚買う。イタリア国内用のと、日本へかけるときに使えるプリペイド・カード。午後は市の東を流れるポー河添いのヴァレンティーノ公園内をぶらぶら歩き、橋を渡って対岸を引き返し、さらに王宮前のカステッロ広場まで歩く。曇り空はわびしいが、歩き回るには暑くないのがいい。3時になって開いた大聖堂に入場。ここにイエスの遺骸をくるんだという聖骸布がある。10年前に訪問したときは奥の礼拝堂は修復工事中だとかで、聖骸布はそれを入れた銀の櫃ごとガラスのケースに入って宙に浮いていた。その後97年に火災があって奇跡的に救い出され、礼拝堂はまたしてもというか、依然というか、修復中。聖骸布は今度はガラスの壁の向こうに、人間のお棺くらいの箱に入れられて布をかけ、ライティングされて安置されている。

10.15(土) 午後、マッシモ・スマレ氏と連絡を取る。氏はトリノで「ALIA」というイタリア、アメリカ、イギリス、日本などの作家の幻想的な短編を集めたアンソロジーを刊行していて、その第2集に篠田が参加させてもらってからのご縁。無論実際にお目にかかるのは初めてである。土曜日夕方の人手で賑わう街を散策し、有名なカフェ『Baratti & Milano』でトリノ名物のビチェリン(コーヒーとチョコレートと泡立てミルクを合わせたもの。ココアよりさっぱりしていて美味)を御馳走になり、神秘主義系の書物を多く取り扱う書肆『Arethusa』で本を買う。Torino Citta'Magica(魔法の都市トリノ)など。残念ながら英訳本はない。しかしご主人、「Its not so difficult.Very easy italiano.」って、イタリア語の出来ない人間には子供向きの絵本だって難しいですよー。
 その後アジア系の内容の書物を扱う満月書店へ。オーナーは中国語が専門のフェデリコさん、奥さんは日本人のサチヨさん。お客に来ていたフランコさんを含め、イタリア人の皆さんは篠田のイタリア語よりよほど日本語が出来る。フランコさんにいたっては日本語の勉強を本格的に初めてたったの1年半だそうだ。我が身の怠慢が身に染みます。

10.16(日) トリノの西の広場からバスで45分ほどの郊外の街Rivoliに行く。バスは始発から終点なので、停留所を間違える心配は不要。ここの丘の上にある元サヴォイア家の離宮が、いまは現代美術館になっている。バロックのフレスコ壁画やストゥッコのある部屋に飾られたモダンアートというのは、ミスマッチのようでいて逆に調和しているというか、とても目に快い。
 午後、マッシモが使っていない携帯電話を貸してくれる。イタリアの携帯はプリペイド式で、随時料金をチャージして使う。これなら使いすぎにもブレーキがかかって、いいのではないかと思う。
 それから映画博物館へ。トリノは元映画の都でもあったらしいのだが、実を言うと篠田はそっちはあんまりどうでも良くて、博物館の入っている建物に興味があった。バロックとクラシックの街並みに異物のように突き立っている高層建築は、19世紀後半に建築家アントネッリによって建てられた鉄筋コンクリート製で、高さ167メートル。日本人の目には東南アジアのパゴダを縦に引き延ばしたように見える。博物館を見た後エレベータで展望台に上がれるのだが、なぜか展望台だけというのはダメらしい。日曜日なので、カップル、家族連れで大混雑の30分待ち。天気のいいときはアルプスまで見えるそうだが、すべては霧に包まれて滲んでいた。

10.17(月) 月曜日はほとんどの観光場所が一斉に休むので、行く場所を探すのが大変。この日は数少ない休みでない場所、市の東側の丘上に建つスペルガ聖堂へ。丘の上に登るには、昔トリノの市中を走っていた電車を改造した登山電車がある。ツタやハゼのような葉の紅葉が始まっていて美しいが、ここもまた霧・霧・霧で、トリノ市内などなーんにも見えない。しかしここの見物は聖堂の地下にある霊廟。サヴォイア家歴代の墓がある地下室だ。黒を基調に多色の大理石を組み合わせた空間は冷え冷えとして、白大理石で彫られた翼のある髑髏に金の王冠をかぶせた装飾とか、ゴシックなムードに満ちている。しかし明かりが消えていたらかなり怖いだろうな。
 この日、駅にあるテレコム・センターから日本に電話。ここには人がいて、利用分はカウンターで精算できる。3分以上話したのに0.7ユーロという破格の安さ。もっとも音質は悪かったし、少しタイムラグもあった。
 午後は聖骸布博物館へ。しかしここのガイド女性の英語は90%聞き取れず。オーディオガイドの英語も同様でかなり閉口。それにしても聖骸布というのはなんとも奇妙なシロモノだ。中世の布だという炭素14の検査結果が出ても、なおそれがイエスその人の痕跡だという信念を持つ人がなくならないが、それもある程度うなずける。中世の聖遺物信仰が盛んな時代には偽の聖遺物が山ほど作られたが、それとこれは違いすぎるからだ。どう違うか。写実的に過ぎるのだ。ルネッサンスの到来以前にイエス・キリストの人間としての肉体を、ここまで生々しく表現したものはなかった。贋作だというならそれこそ、レオナルド・ダ・ヴィンチでも担ぎ出すしかなくなる。

10.18(火) サバウダ美術館とエジプト博物館は朝の8時半から開くので、真っ先にそこへ行く。サバウダの方は午前中だけなので先にそちらに行くが、見物人は誰もいないのでびっくり。サヴォイア王家のコレクションらしいが、それほどの名画というのはなくて、住まいの装飾のための一種実用的な絵画なんだと思う。1枚レンブラントがあって、これは本当にいいものだった。その後エジプト博物館へ。打って替わって人が多い。小学生の見学団体が何グループもいた。ここもオリンピック前であちこち改造しているようだが、古いままの部分は本当に古めかしい。ヨーロッパの古代エジプト蒐集では、大英博物館かトリノと聞いていたんで、相当に期待して行ったのだが、ルーブルなんかと較べても展示の方法が古めかしいというか、あんまり工夫が感じられなくてちょっと失望。しかしなんで子供というのはああみんなミイラが好きなんだろうね。
 まだ午前中なので王宮に行く。ここはガイドツアーだけ。そしてガイドはイタリア語だけ。オリンピックやるんだろうに、もう少し外国人への対応を心がけなくていいのかよ、と文句のひとつもつけたくなってくる。宮殿のインテリアはベルサイユというか、廊下が無くてずーっと部屋が連なっている式で、そりゃあもうこれでもかっていうぐらいの装飾だらけで、天井は馬鹿みたいに高くて、居住性悪そう。住まいというよりオペラの舞台みたい。この時代の王族にだけは生まれたくないな、とマジで思う。
 午後は南郊の離宮を目指すが、たどりついたら開いているはずが閉まっている。オフシーズンというのはこれだからやばい。やむなくバスで延々かかって帰着。帰る前に駅の中にあるスーパーで三角サンドイッチを買う。小海老のマヨネーズ和えサンドは前にヴェネツィアにきたときにも買って食べたが、なんとその値段が3.2ユーロ。おいおいおい。いくら中身がたっぷりでも、こんなもんに460円ってのはないでしょー。

10.19(水) 朝から雨。といっても小雨である。トリノカードは72時間で、使用開始は日曜日の11時だったので、切れる前にと装飾美術館へ。ここも18世紀の古い館を内装や家具ごと買い取って、手直しして展示してある。ただしこちらは王侯貴族ではなく大ブルジョアの住まいだったようで、ずっと住み心地も良さそう。ついでに1対1でガイドしてくれた眼鏡美人は非常に感じが良く、かつ英語も丁寧で聞き取りやすかった。コーヒーポットとココアポットの差は後者にかき混ぜる棒を入れるための穴が開いていること、とか、ロココの化粧台の鏡が異常に高いのは貴婦人の高い鬘を映すため、とか、そういうことを教えてくれるのこそガイドさんの役割だと思う。
 ローマ通りのUPIMで防寒用に帽子を買う。ヴェネツィアのウピムはイトーヨーカドーみたいな気楽な店だったが、ここはけっこうお洒落っぽい作り。クレディット・カードを出したら「ドキュメント」を要求されて最初意味が分からず面食らう。身分証明書類のことで、要するに外国人ならパスポート。コピーで用が足りてほっとした。
 部屋に戻ったら掃除がしてあって驚いた。掃除は週1度月曜日と聞いていたのに、月曜も火曜も来なくて、待っていてドアを開けてやらねばならないなら面倒だからいいや、と思っていたのだが。手書きで原稿を書き出して、夜中の2時、借り物の携帯から東京の編集者の家に電話。彼を掴まえるのは夜よりも朝がいい。時差は7時間なので、朝9時にかかるようにするには夜中の2時にかける必要がある。そんな時刻に外に出るのはちょっと不安だったのだが、携帯のおかげでかけられてほっとした。5ユーロで13分。携帯からだと高くつくのかも知れない。しかし昼間トライしたときは「回線がふさがっています」といわれてかからなかった。

10.20(木) 掃除が入って取り敢えずほっとしたので、薄暗いリビングから明るい寝室にテーブルを引きずり込み、昼間はずっと原稿を書く。部屋は三階で、下の二階で内装工事をしているらしくちょっとうるさい。それでも日本のマンションよりはよほど響かない。ここの建物は18世紀だか19世紀だかの建物で、ただし室内設備はきれいに改装されている。日本人にとって珍しいのは、部屋にたどりつくまでに都合ドアが4カ所あるということだろう。表の道と中庭の間の扉、中庭を越して建物の中に入る扉、階段を上がって手前にある鉄柵の扉、部屋の扉。順次建て増しされていったものらしくて、壁と壁が接していても廊下で横に繋がっているわけではない。階高も微妙に違ったりする。困るのはとにかくテーブルのあるリビングが暗くて、読み書きするには向かないところだ。なぜか寝室は明るいので、テーブルをひっくり返しても寝室に引き込まざるを得ない。
 夜はフランコさんと『魔法のトリノ』のナイトツアーへ。ツアー料金20ユーロ也。観光バス1台がほぼ満員の盛況振りだが、全員イタリア人だから当然ガイドはイタリア語で、フランコさんの通訳に頼ることになる。しかしイタリア人のガイドというのはいつでもどこでも早口ことばのようなマシンガントーク。そしてさすがに日本語学習1年半では達意の同時通訳とはいかない。暗号解読に近いようなところもある。回ったところは昔の墓地(火葬場か?)、死刑が行われた市庁舎の中庭、フリーメーソンのシンボルのあるビル(フリーメーソンはイタリア語でマッソネーリという)、悪魔の顔のついたビルや扉(しかしグロテスク風の装飾があれば顔はついているものだよな)、大聖堂の横壁についた風変わりな日時計(これは教えてもらわないと気づかなかった)王宮前のカステッロ広場では俳優ふたりで寸劇(サヴォイア王家に嫁いだメディチ家の女性が、ご乱行しては寝た男を河に投げ込んでいた、その幽霊がいまも現れてふたたび男を餌食に、というようなお話)、最後にグラン・マードレ教会の周りを回っておしまい。

10.21(金) 鉄道でSaluzzoへ。丘の上の古い街だというので行ってみたのだが、トスカーナあたりの村と較べると妙に荒廃の気配が強くてあまり楽しめなかった。昔のこの土地の領主の館というのが公開されていて、ここはルネッサンス以前の中世的な雰囲気が保存されていて悪くなかった。しかし説明文はすべてイタリア語だけなので、どうにも隔靴掻痒の感じがある。他に駅から600メートルでフレスコ画の美しい城があるとガイドブックには書かれていたのだが、とうとう場所が分からず。駅前にはタクシーもいないので手の打ちようがない。イタリアの田舎を歩くときに、イタリア語がまったく出来ないというのはやはり無茶なようだ。

10.22(土) 今日は同じく鉄道でVercelli。しかしここはミラノへ行く幹線の途中で乗り換えもないのであまり心配はない。街としてはけっこう大きかったが、旧市街はちゃんと人の住んでいる街で、その中に古い教会や広場が溶け合っていて、歩くにはサルッツォよりもよほど面白い。巨大なドゥオモを見学し、宝物館で聖遺物入れなどを見る。しかしあまりに寒いので、そのへんでトリノに逃げ帰る。
 帰ったらなぜか空が晴れて小春日和の暖かな午後だった。また土曜日なので街には人が溢れている。車シャットアウトのガリバルディ通りをぶらぶら歩きして、絵はがきやお土産の小物を買う。テレコムのテレカがまだ残っていたので、公衆電話から日本にかけてみたら、音質やレスポンスの速さは駅でかけたときよりこっちの方がずっといい。しかし料金も高くて、3.8ユーロでほんの3分間くらいしか話せず。まあ、金額の減り具合は液晶窓に出るので、その点は面倒はなかった。
 一度部屋に戻り、夜、暗くなる7時を待って夜景撮影のために出かける。地図上であらかじめコースを選定して通りの名前を覚え、財布も持たず、カメラ1台だけブルゾンの中に下げて出発。街灯もなく闇に沈む通りもあれば、カフェのテーブルを人が埋めるガレリアもある。ライトアップされている建物もあって街は昼とは大きく表情を変えていた。しかし夜間撮影はやはり、スティック一本でも脚がないと手ブレしてしまうようだ。

10.23(日) 日曜日の街は日本の正月のようにがらんとして人気が無く、車もあんまり走っていない。地下のトンネルが見られるというピエトロ・ミッカ博物館へ。ここでも「イタリア語は分かるのか」と聞かれ「わからん」というと困ったもんだという顔をされる。ナポレオンが来るまではトリノの西側に五稜郭みたいな星形城塞があり、1706年のスペイン継承戦争でトリノがフランス・スペイン軍に包囲されたとき、城塞から地下トンネルを掘って包囲軍を爆薬で攻撃した。そのときに掘られたトンネルが20世紀になって発見された、ということらしい。渡された英語ぺら一枚の説明書きによると、48人以上がこのトンネル攻撃に技術者として従事していたが、包囲軍が撤退したとき生き残っていたのはわずか7人だったという。ピエトロ・ミッカというのはトンネル内で戦死したトリノ人らしいのだが、なんでそんなにたくさん戦死したのに彼の名前ばかりが有名なのかということはさっぱりわからなかった。今度マッシモに聞いてみよう。
 トンネルはガイドの後について入るのだが、明かりもまばらで道は複雑でけっこう怖い。出来ればひとり1本懐中電灯が欲しい。壁自体は煉瓦できちんと補修されているのだが、なにせ天井が低くて2メートルもないし幅も狭いのだ。こういうとき、篠田のようなちびは楽である。上に戻って知ったことのひとつ。かつての城塞の中央には大きな井戸があったが、この井戸はオルヴィエートの井戸に良く似た二重螺旋構造だったのだ。おまけに砦の主要部分は正五角形。篠田読者だけは、なんでそれが嬉しい発見なのかわかってくれますね。
 夜は満月書店で会ったマッシモさん、フェデリコさん、サチヨさん、フランコさんに加えて、長く日本に住んでいていまはトリノで翻訳家をしているアントニエッタさんという美しいご婦人が一緒で食事をした。アントニエッタさんは村上春樹や、桐野夏生の『柔らかな頬』なんかを翻訳しておられる。宮部みゆきの『火車』を訳したいと思っているのだが、出版社がうんといわない、というようなことを話していた。村上春樹はフランスでも人気があるんだそうだ。おたくっぽいマンガ書店では日本のマンガ、それもアニメ系やゲーム系のが並んでいるし、ここにいるイタリア人男性はそろって日本映画が好きで一家言を有している。国産映画なんてあんまり見ない、日本の純文学もご縁が乏しい当方などは恥ずかしながら「読んでません」「見てません」なものばかりである。
 しかしそういうディープな日本通がいる一方で、一般的なイタリア人の日本に対するイメージといえば相変わらずゲイシャらしくて、桐野さんの『OUT』のイタリア語タイトルを再度日本語訳すると、なにやら淫靡なニュアンスさえある『東京の四人の主婦達』(これはアントニエッタさんの訳ではありません、念のため)。おまけに表紙はゲイシャの白塗り顔と来たもんだ。だが日本人にしても、あんまりえらそうなことはいえない。NHKに出演している某ジロラモさんを典型的なイタリア人と考えてはいけないというか、「あれはイタリアの恥です」とはマッシモの弁。どうやらイタリア人にとってのジロラモさんは「日本人の女性タレントがいい加減な芸者姿でイタリアのテレビに出てはしゃいでいるのを日本人が見てしまったときのイヤーな感じ」、というのに近いようであります。

10.24(月) 鉄道とバスを乗り継いでピエモンテのワイン産地の中心部にあるという街Albaまで行ってきた。秋には名物の白トリュフが出る。といっても食料品店の中に飾ってあるのを見ただけ。ひとつ何万円というお値段なので、丹波産の松茸のようなものですか。「王のワイン、ワインの王」といわれるバローロだけは一本お迎えした。バローロは熟成に時間がかかり、いいものは飲み頃まで10年以上かかるとか。適当に値段で選んだので、買ったのがどれくらいのレベルの酒かはわかりまへん。

10.25(火) 手持ちのユーロが心細くなってきたので、思い切って少し両替しようと思うが、駅の両替所は手数料を取られる。中心部に両替機械があると思ったのだが、それは止まっていた。CAMBIOと書かれた銀行に行ったら30分も立って待たされたあげくに「ドキュメント」、それもコピーではダメだとけんもほろろに突っ返され、まるでこちらが偽札でも出したような顔をされて気分が悪いっちゃない。オリンピックやるのかよ、ほんとに。こうなりゃ一銭もよけいな金は使わないぞ、という気分。まあ、結果的には足りたのでいいんですがね。
 満月書店でマッシモと、彼の友人で幻想作家のダーヴィデ・マーナさんと待ち合わせる。マーナさんは本業は学者で古代微生物学というのかな、プランクトンの化石の研究をしているそうだが、体格はとてもグランデ。イギリス留学をしていたので、流暢な英語を話される。街を散歩して、昔高校生のマーナさんが彼女とよく来たという古いカフェでアイスクリームを御馳走になり、彼の車で(なぜかみんな車といわずにマキーナという)マッシモさんが監修するアンソロジーALIAの版元である本屋さんへ。書店であり、同時に小出版社でもある。ここに篠田は異形コレクションに書いて、その後『夢魔の旅人』に収録した短編「大いなる作業」を翻訳してもらった。イタリア人に日本人が書いたレオナルド・ダ・ヴィンチの話を読ませたらどう思われるか、それこそ抱腹絶倒されるか、とまあ恐る恐る差し出したのだが、幸いご好評をいただいたようである。ちなみにこのときは朝暮三文、早見裕司、飯野文彦、井上雅彦、太田忠司、津原泰水の諸氏が参加していた。
 で、調子こいた篠田は同じ版元から出ている定期刊行のLN-LibriNuovi34から「いまどんなものを書いていますか」という質問をもらったとき、『龍の黙示録』のプロットを説明しただけでなく、このシリーズのプロトタイプである短編「聖なる血」をお送りした。それが11月に出る予定の新しいALIAに掲載されるわけである。これこそ「真面目なキリスト教徒の憤激を買うのではないか」と、半ば恐れつつだったが、いや、篠田は知りませんよ、マッシモと書店がヴァティカンから怒られても。
 で、吸血鬼が好きで、拙作も気に入って下さったという版元のシルヴィア・トゥレヴェスさん(編集長と申し上げるべきなのだろうか)とお目にかかる。吸血鬼という本来邪悪な存在を、もっとも神聖なイエスと結びつけた、いわば非キリスト教徒だからこそ考えつくぶっ飛んだ発想を面白がっていただけたらしい。そのへんが善と悪、正と邪を相容れない対立的要素と見る一神教西欧人の発想と、両者は交流も混淆も可能だと感じてしまう多神教アジア人の違いかも知れない。自分の思いをきちんと伝えられる語学力がないことが、これほど情けないこともあるまいが、まあそれはいたしかたない。マーナさんも「なんで自分が思いつかなかったのかって、ちょっと悔しかったよ」というようなことをいってくれて、これに勝る賛辞があるだろうかと幸せを噛みしめた。
 他に面白かったのは、篠田が「非難されないかと心配だった」といったとき、マーナさんが「そんなのは別に大丈夫だよ。イタリアの一般大衆はほとんどカトリックだけど、たとえば『ダ・ヴィンチ・コード』を争って買って、たぶんろくに読んでいないし意味も考えていない。ただみんなが買っているから、それを手に入れることがかっこいいから買うだけだ。ちゃんとその意味を考えるところまで読んだりはしないんだから」というようなことをいっていて(推測あり)、ああそのへんは日本も同じだなと思ったこと。

10.26(水) スーツケースはめちゃめちゃ重かった。エレベータはないので、下まで引きずり下ろすときに階段をかなり削った気がする。ワインは1本しか買ってないのに、やはり元凶は本だ。といっても25キロしかなかったから、イスタンブールからの戻りよりは軽かったんだけどね。
 というわけでまあどうにか、無事に戻って参りました。あー。そろそろひとりの外国旅行はしんどいよ。


 2005ベトナム雑感

 ベトナムには結局四度訪れた。最初は1997年3月、建築写真家増田彰久先生と行く近代建築の旅で、この成果が短編「塔の中の姫君」。次は2001年2月、あすかミステリーDXに「塔の中の姫君」をマンガ化掲載するにあたって、マンガ家秋月杏子さんにつきあって再訪。そして今回長編『胡蝶の鏡』の取材に2004年12月ハノイのみを訪れ、翌05年2月、長編の表紙撮影という目的で立て続けに渡越した。で、その印象なのだが……
 いまのところ5度目の訪問はないだろう、というのが偽らざる心境だ。別にひどいトラブルに遭ったとかいうほどのことはなく、世界にまだ行きたい国はたくさんあるし、というのもあるのだが、とにかく篠田にとってのベトナムの魅力は急速に色褪せつつある感が強い。
 97年はまだ、観光の「ベトナム・ブーム」は起きていなかった。「塔の中〜」で深春が、……なんでそんなお嬢様たちが、またよりにもよってベトナムへなぞ行くのか……という感想を洩らしているが、97年には実際そんな印象が強かった。ドイモイ政策は本格化し、ホーチミンシティでは巨大な高層ビルの建設も始まっていたものの、観光的には受け入れ側はまだまったく慣れていない、その分なにを見ても新鮮で、土産物屋で売られているこまごまとしたグッズすべてが珍しかった。……街並みは清潔で活気に溢れているが、純白のアオザイや三角の菅笠のような、少し古風で田舎びた美しさを失っていない……という作中での深春の感想がそのまま当てはまった。
 01年にはすでにベトナムには、「雑貨ブーム」が到来していた。なんでお嬢様が、ではなく、お嬢様たちだからこそベトナムへやってきていた。ホーチミンシティの中心部、ドンコイ通りにはそうした日本人向けのこぎれいな、しかしベトナム一般の物価からすると高価な品々を並べた店がずらりと軒を連ね、可愛い刺繍製品やオーダーメイドの服、洒落た陶器などを買いまくる女性たちが見られた。
 もっともそうしたツーリスト向けの街並みが形成されたのはホーチミンシティのみで、首都であるハノイにはまだ変化が乏しかった。97年の訪問で強い印象を受けたのはハノイ市の北側にある職人街の旧市街で、狭い街路が四通八達し、路上で飲む、喰らう、ものを作る、売る、といった濃密な生活が繰り広げられていたのだが、01年でもまだそうした空気は健在だった。4年前に購入したベトナムの伝統楽器、木の塊をまるごと彫り出してカエルの形にしたパーカッションを作って売る店があり、そこの埃だらけのガラスケースから、鳩の形をした同趣向の楽器を買った。
 ところが今回、04年には旧市街も大いに様変わりしてしまっていた。ペンシルビルのような細くて高い建物のミニホテルが盛んに作られていたのは01年にもだが、インターネットカフェや旅行会社などが密集する「旅行者通り」、バンコクのカオサンのようなそれが形成され、職人仕事をする店は減少し、バイクがすさまじい勢いで増えた。排気ガスを吸いながらでは、さすがに路上の飯屋も減少する。伝統楽器の店はまだあったが、山積みにされたカエルの彫刻を見て愕然とした。白木のままで充分鑑賞に耐えるかつてのていねいな仕事ぶりとは打って替わって、毒々しい塗料を塗りつけたおそろしく粗雑なしろものになっていたからである。
 今回ハノイの後にホーチミンシティへ回って、同じような「手業の衰退」を感じた。ドンコイ通りの日本人向けブティック、オーセンティックは床面積を数倍させていたものの、昔買った刺繍のコースターの刺繍が同じ意匠のまま明らかに下手くそになっていたのだ。
 そして、日本人観光客の客足は鳥インフルエンザやSARSの影響からまだ回復していない。ドンコイ通りには、まだ暑すぎない絶好の旅行向き気候にもかかわらず、かつての賑わいはなかった。これが流行病やテロといった理由であれば、たぶん観光客は戻る。しかしベトナムではどうだろう。雑貨のブームはすでにチェンマイあたりへシフトしているのではないだろうか。
 もっとも日本人のベトナム雑貨に対する愛が薄らいできたのは、ベトナム自身の責任とはいえない部分もある。かつて日本では手に入らなかったものの多くが、いまは日本のアジアン・ショップで当たり前のように買える。それも大して高くはない。バッチャン焼きの紛い物ならば、百円ショップで小皿や醤油差しが買えるのだ。これではわざわざ買いに来たい、とは思えなくなる。
 ホーチミンシティのデパートは、かつてのソ連の国営百貨店を思わせる雑然ぶりの中に、他では見られない「ださくて」「ちょっと変で」「でもユニーク」な小物が満ちあふれていた。そのときに購入したのはコーラの空き缶で作ったファントムと、サッカーをする小坊主の陶器人形、刺繍のTシャツである。
 いまはどこもかしこもきれいになり、化粧品や時計が並ぶ一階は日本の店とさしたる変わりはない。ユニークな小物は消えて後にあるのは、どこの店を見ても同じ大量生産品の土産物だ。一見手作り風の木工製品も、どこへ行っても同じところを見ると工場で一括して作られているのだろう。手工芸品はタイやインドネシア、マレーシアといった国々のぱくりか、または輸入品である。もともとタイとは少数山岳民族の文化が共通し、キャラがかぶるところがあるのだが、「どこかで見たような」印象というのは購買意欲を削ぐことはなはだしい。タイあたりでは珍しくもない観光バスが乗りつける大型土産店では、市価数百円のベトナム製ワインが、ぺらぺらの布袋に入って25ドルの値を付け、片言の日本語を使う「アオザイ美人」が日本人を餌食にしている。
 もうひとつ、今回はベトナム料理でも、庶民の味らしいものに後口を不快にするほど大量の化学調味料が使われている場合があった。街には韓国の電機メーカーサムスンの看板が立ち並び、どこでも家電の店が目立った。市場経済の中で豊かになりつつあるベトナムは、手間のかかる手工芸などはなげうち、輸入製品を買い、化学調味料を多用することを快とするように急速に変化しつつある。そしてこの4,5年ベトナムは、自分たちが持っていた観光客を惹きつける魅力を急速に消費してしまい、それに補いをつけることなく、「魅力的な観光対象」から、「ただの近代化が中途半端に進んだアジアの一国」となっていくのだろう。観光業に携わる以外の人間にとって、それは決して不幸な変化ではないのかも知れない。ただ、篠田はたぶんもうベトナムには行かないだろう。


その2** トルコばたばた紀行 2003.05.14〜06.08

「トルコからの手紙 NO5」

 昨日は立ち食いものにしか触れなかったので、今日はもう少し料理らしいものについて書こう。
 トルコ料理は日本人が漠然と「エスニック」な料理にいだいているイメージとは全然違って、まずスパイスをほとんど使わない。野菜をたっぷり使う。トマトとヨーグルトを使う。米を使う。そのへんが特徴だ。料理法もシンプルな煮物が多いので、再現することは比較的簡単なのだが、素材重視ということは素材が違うと似て非なる料理にしかならないということで、そのへんはなんとも仕方がない。野菜も見たところは大して違わないのに、トルコのは味が濃い感じがする。トマト味の野菜の煮物、とか、サラダとかね。
 ロールキャベツの元祖はトルコだ、というのは、日本でどれくらい知られているのだろう。トルコ料理では詰め物というのがひとつのパターンで、これを「ドルマ」という。なすのドルマ、ピーマンのドルマ、トマトのドルマ、葡萄の葉のドルマ、そしてキャベツのドルマ。肉を入れたのもあるが、一般的に前菜として食べるのは米に松の実や干し葡萄を混ぜて詰めて煮たもの。酸味を利かせてあって、冷たくして食べる。
 ピラフもよく食べる。これまた米で、しかし東南アジアのロング・ライスではない、わりと日本米に近い米なので、米好きの日本人には嬉しいものだ。メインはやはり肉だが、これも骨付きの羊肉をジャガイモと煮た物なんか、さっぱりしていてすごく美味しかった。肉は羊がもっともポピュラーで、鶏肉、牛肉もあるが、イスラム国だから豚肉はない。トルコで中華を食べたことはないが、マレーシアで「??」な味だったから、豚肉の欠けた中華料理はやはり違ってしまう気がする。
 肉もステーキのようなものはなくて、串に刺したシシケバブが一般的。それより安いのがキョフテ。これは挽肉を丸めたハンバーグ。炭火で焼くのが一般的だが、味は店によって千差万別。それでもスパイスはほとんど使っていないので、肉の善し悪しが味の決め手という感じだ。
 米はデザートにも登場する。ライスプディングがポピュラーだ。トルコ人は甘いものが好きらしくて、お菓子屋は多いし、いつもにぎわっている。プディング系統はそれほど甘すぎないが、焼き菓子のたぐいは容赦なく甘い。パイやスポンジケーキに、蜂蜜シロップがたっぷりと掛け回されているようなのが基本線なので、甘いもののそれほど得意でない篠田は、ほんの一部しか味わえていないのだ。
 甘くて困ったときはチャイを飲む。紅茶である。ただしトルコ人は、必ず角砂糖をたっぷりと入れる。若い頃は精悍な青年、ほっそりした美女が、中年過ぎると丸くなっていない人の方が珍しい国なのは、こういう食生活の結果だろう。チャイより高いがトルコ・コーヒーもよく飲まれている。これは最初から砂糖を入れて、小鍋で煮るものなので、砂糖を少なくして欲しかったら先に注文しないといけない。「チュルク・カフェヴスィ・アズ・シェケッリ」で、トルコ・コーヒー砂糖少な目、という意味になるが、少な目の解釈はそれぞれのようで、「これで少な目?」と思うところもあれば「入れ忘れたんじゃない」というようなお味のところも。ちなみに普通なら「オルタ・シェケッリ」、多い目なら「チョク・シェケッリ」です。

 というわけで、食後のコーヒーにたどりついたところで、今回の旅報告も取り敢えずはおしまい、ということにいたします。見てきたものについての叙述がまったくないのは、いずれそのへんは作品で、ということ。ではでは。

「トルコからの手紙 NO4」

 旅の楽しみでなんといっても欠かせないのは「食」である。その土地で、その土地でしか食べられないものを食べる。好き嫌いが多い人、たとえば日本食なしではいられない人は、外国に長い旅をするのはよく考えた方がいい。私は、誰も彼もが外国旅行をするべきだ、などとは思わない。そうでなくとも人生の楽しみはいくらでもあるので、旅に向かない人が昨今の観光ブームでうっかりその気になって、ストレスをためまくって帰ってくるようなことになるのは愚かしい。もともと人間というのは、10数時間で地球を半周するようにはできていないのだから。
 私は自分が必ずしも、旅に向いた人間だとは思わない。神経質だし、気が小さいし、簡単に不眠症になる。ただ、食べ物だけはこれが駄目というものがない。たいていのものは美味しく食べられる。日本食など何ヶ月食べなくても平気だ。というわけで、今回も贅沢はしないが、トルコの食べ物をいろいろと食べまくってきた。

 イスタンブール名物のひとつは、ガラタ橋のたもとのボートで売っているサバ・サンドだ。サバの半身を揚げるか焼くかして、バタールのようなトルコパンの半分にはさむ。観光客向けというわけではなく、地元のトルコ人もみんな食べている。これが美味しいのは、ひとつにはトルコのパンが美味しいからだろう。
 パンが美味しいおかげで、そのパンに挟んで食べるスナック、というのがいろいろある。もっともポピュラーなところでは、ドネル・ケバブというの。串に牛肉や羊肉や鶏肉を重ねて刺し、ぐるぐる回転させながら電気ヒーターで炙る。やけたところをナイフでそぎ落とし、野菜とパンに挟む。最近ではフランス風のぱりっとしたバゲットにこれをサンドしたり、ピタパンのような丸いのを使ったり、店でいろいろ工夫している。
 パンを食べるとなれば飲物が欲しい。トルコでもっともポピュラーな飲物がアイランというドリンク・ヨーグルト。しかし初めてトルコに行ったときびっくりしたことに、アイランは塩味なのだ。しかし慣れてみると、また大量に汗をかく季節は特に、甘いより塩味の方が口がさっぱりするし、身体にもいい感じがある。アイランはヨーグルトに氷と水と塩を入れて泡立て器でまぜればできるから、日本でもときどき作る。しかしトルコのヨーグルトは、日本のプレーン・ヨーグルトより濃厚で、これまた美味。しかし今回そのアイランが、店で作るのではなく、プラスチックのコップに入った工場生産の製品だらけになったのは、いささかさびしいものがあった。
 飲物でもうひとつあげておきたいのは、フレッシュなオレンジ・ジュース。その場でプレス機を使って絞ってくれるジュースは、冷たくはないのだが、「あー、生き返る」という感じだ。

 食べ物の項、続きます。

「トルコからの手紙 NO3」

 港町というのは、たいてい坂が多い。でもイスタンブールの坂は、かなり度を超している、気がする。東京も昔は坂の多い街だったのだが、車の都合で片っ端から削ってゆるくしてしまった。イスタンブールの人間はそういうことをする気はないらしくて、上るときは胸がぶつかりそうな、下りでつまづいたら下まで転げ落ちるような坂がそこらじゅうにある。
 もうひとつ、イスタンブールという都市の特徴はといえば海。金角湾という細い入り江とボスポラス海峡で、街は三分割されている。旧市街・新市街・アジア側、という具合に。おかげで街の景観は変化に富んでいて、うんざりするような坂を上りきってふいと後ろを振り向くと、海が光っている、という具合。この景色がイスタンブールっ子には自慢のものらしい。
 今回の旅行で話す機会があった日本人女性がいて、彼女は外交官としての研修を終えてまもなくアンカラに赴任することになっていた。すると彼女のトルコ語の先生いわく「それは良かった。あなたにはこれから、イスタンブールに戻って来るという喜びがあるわけですね」 また、彼女がアンカラに出かけたとき、高台の展望レストランでウェイターにうやうやしく「どちらの景色の方へお座りになりますか」と聞かれたが、どっちも同じようなものだった、とか。ここでイスタンブールの住人達はどっと笑うわけである。

 まあ、確かにイスタンブールの高台からの眺めというのは、なかなかいいものである。というわけで、眺めのいいところを三つ選んでみた。
 その1 ギュルハネ公園のチャイハネ トプカプ宮殿や考古学博物館に隣接する公園を歩き抜けていくと、目の前に海の広がる見晴らしのいい場所でお茶が飲める。
 その2 ピエール・ロティ・カフェブスィ イスラムの聖地エユップ・スルタン・ジャーミィの裏手から墓地の中を上がっていくと、20世紀の初め頃フランス人の海軍士官で後の作家ピエール・ロティがその眺めを愛したという丘の上に、コーヒー・ショップがある。同じ高台からの海でも、こちらは金角湾の奥で、緑の草に覆われた中洲なんかもあり、また風情が違ってなかなか良い。
 その3 アナドル・カバヴの城塞跡 エミニョニュの波止場からボスポラス・クルーズの船に乗って行くと、その終着点、あと少しで黒海というアナドル・カバヴに着く。そこから高台の城跡を目指そう。天気が良ければ黒海の対岸まで見えるらしい。

「トルコからの手紙 NO2」

 旅行者がトルコに行って、一番に何が困るか戸惑うかといったら、それはお金のことでしょう。トルコのインフレは実のところ昔からで、単位であるトルコリラの価値は低下し続けてきたのですが、これまでそれと競ってきたイタリアリラがユーロ統合によってなくなってしまったいまとなっては、アジアとヨーロッパ、つまり篠田が旅したことのある国の中では、やはりトルコが一番桁数が多いようです。
 どれくらいそれがすごいかというと、1,000,000トルコリラ、つまり百万トルコリラが85円ほどです。ざっと1万2千リラが1円です。そしていまのトルコでは、この百万トルコリラがひとつの基本貨幣化しているのです。
 百万リラでなにができるかというと、イスタンブールのバスや乗り合い船の運賃がほとんど百万リラです。小さなグラスのチャイ(紅茶)が50万リラ、イスタンブール名物サバサンドが150万リラ、絞り立てのオレンジジュースが安いところで百万リラ。で、百万のことを1ミルヨンといいます。150万リラは1.5ミルヨンです。つまり百万というから引っかかってしまうので、ミルヨンをひとつの貨幣単位と考えれば、それほど戸惑うことではないのですね。
 もっとも最初は戸惑ってばかりです。タクシーが特にいけません。全部のゼロがメーター表示されるので、数えようとしても目がちかちかしてきてしまいます。こっちが呆然としているとたいてい親切なトルコ人は、財布の中に手をつっこんで相当する札を持っていってくれます。ありがたいことに、そうされてごまかされたことは一度もありませんでした。

 しかしトルコの経済発展に伴って、必ずしも「トルコは物価が安い」とはいえなくなってきたことも、認めなくてはなりますまい。さっきも書いたように公共輸送機関は1ミルヨン。レートで換算すれば85円ですが、使いでからいって百円だと思ってみますと、バスが百円というのは日本からすれば安いけれど、ものすごく安い、というほどでもない。立ち飲みのフレッシュジュースが百円、サバサンドが150円、これにドネルケバブという焼いた肉を挟むと200円から250円。安食堂でサラダと羊肉の煮物を食べて500円。もちろん日本より安いけれど、そして美味しいけれど、これまたすごく安い、というほどではないですね。
 実のところ日本より高いものもあります。イスタンブールの一部の観光施設の入場料です。トプカプ宮殿が12ミルヨン、宮殿内の宝物館が10ミルヨン、ハレムが10ミルヨン。全部見ると32ミルヨンで、1ミルヨン100円なら3200円です。こんなに高いのはあとアヤソフィアとドルマバフチェ宮殿くらいですが、宮殿関係は必ず写真撮影料が12ミルヨンかかります。はい、これはきっぱり高いですね。
 ではすごく安いと感じたものは、といえばタクシー代が一番です。特に長距離乗ると割安感が出るようで、ルメリ・ヒサールのそばからタクシム広場の北を経由してスルタンアーメット地区まで乗って、15ミルヨン、1500円かからなかった、というのは大変安く感じました。
 それから、ことばの通じない異国でタクシーに乗るのは不安なものですが、トルコの場合タクシーの営業所のような場所があちこちにあるので、そこへ行って乗る方が安心みたいです。幸い篠田は今回、やばいタクシーに乗ったりはしないで済みましたが、外国人旅行者がたくさんいるところには、カモにしてやろうと考える悪しきトルコ人もいることはたぶん事実ですから。

「トルコからの手紙 NO1」

 十数年ぶりのトルコです。それも前は冬の終わりの三月だったのが、今回は春たけなわの五月。一年で一番美しい季節だとは聞いていましたが、これほどだとは思いませんでした。
 街を覆う新緑が、陽射しに照り輝いています。梢を埋める赤紫の花は「エルグァン」という名前だそうです。ボスポラス海峡から郊外の丘べを眺めると、斜面が花の色で埋まるほどです。花はそれだけではなく、紫の花房を下げる藤がいたるところにあり、エルグァンが終わればマロニエ、甘い香りの白いアカシアと、木の花がつぎつぎ咲いていきます。地上ではどこへ行っても薔薇の花が色様々に花をつけ、郊外に出れば真っ赤なひなげしが緑の野を染めています。
 こんな季節のイスタンブールなら、どんなに気むずかしい旅人にも「ぜひ」と勧められるでしょう。ただし犬と猫の嫌いな人には、トルコはあまり推奨できません。この国はいたるところに猫がいて、町の人にかわいがられたり邪険にされたり無視されたりしながら、当然のような顔で暮らしています。
 そしてイスタンブールのような大都会にも、非常に多くの野良犬がいます。不思議なことにトルコの野良犬はみんな大型犬です。ぼってり太って大きくて、そしてたいてい寝ています。ごろっところがって。だからあなたが新市街のおしゃれなイスティクラル通りでウィンドウ・ショッピングを楽しんでいるときに、いきなりつま先がやわらかなものにぶつかっても、悲鳴を上げてはいけません。
 猫はどこへ行っても猫で、カメラを向けると嫌そうにそっぽを向いたり、逆に「なんかくれ」と寄ってきたり、向こうから声をかけてきたり、膝にのって眠ってしまったりしますが、ぼおっといつも寝ている犬はイスタンブールでしか見られません。たとえばインドの野良犬は、もっと哀れにやせこけています。イスタンブールの犬たちは、どう見ても野良犬なのに、どの一匹も痩せているどころではありません。
 七年トルコで暮らしている友人に「なぜだろう」と尋ねてみましたが、犬に興味がないらしい友人は、うむとうなずけるような答えはくれませんでした。
                                                   (6/11) 続く

その1** 上海 2002.11.01〜04 
           増田彰久先生と行く上海クラシック建築紀行


11.1

 朝は五時起き.特急、山手、特急と乗り継いで成田へ.空港ターミナルはごった返している.去年の12月マレーシアとタイに行ったときは、まだテロの関係でガラガラだったのだが.喉元過ぎればだ、まったく.
 飛行時間はわずか3時間なので、アッという間に到着.その上今回は添乗員までいるので、フリーの旅行と違って気楽だったらない.しかしぼんやりしていると、ここがどこかも確認しないままことが進んでしまう.今回は仕事に追われて、ガイドブックすらまともに読んでいない.これは一番駄目状態の旅行者だ.
 市内に到着してまだ時間があったので、旧上海県城にある豫園(よえん)へ.ご存じの通り上海はかつて欧州列強の租界地が置かれて、そのおかげで西洋建築がたくさん残されているのだが、昔は城壁に囲まれていた県城は地図を見るといまも城壁の名残のゆがんだ円のかたちの道路で囲まれていて、その中の一部に明の時代に作られた庭園と、アメ横と浅草と中華街をごっちゃにしたようなごちゃごちゃした商店街がある.ほんの三十分ばかり自由時間をもらって、ばたばたとあたりを歩き回る.横浜中華街は道が直交しているが、こちらは貝殻の内部のように折れ曲がっていてかなり複雑.ときどき広場があって、蟹の作り物がクリスマス・ツリーのように飾られている.秋は上海蟹のシーズンなのだ.
 ホテルは和平飯店.黄浦江にそって西洋建築が並ぶバンドの北寄りに建つ、緑色の三角屋根あるビルで、昔はサッスーン財閥のオフィス・ビルとして建てられた.1929年竣工.このツアーは近代建築ツアーだから、もちろんこういうホテルに泊まるのは嬉しいのだが、ボロいのだよ、ずいぶんとこれが.部屋が広いのはいいとして、廊下の壁は塗料が浮いているし、風呂場は後から埋めたらしい目地のパテがとれかけているし、シャワーが固定シャワーしかないのはやむをえないとして、バスタブの栓がはまらなくてその晩はシャワーで済ますしかなかった.「これで五つ星か?」という気はちょっとする.「ザ・モスト・フェイマス・ホテル・イン・ザ・ワールド」って、それはそうなんだろうけど、昔の名声だけでなくいまの快適も追求して欲しいよ.
 もうひとつ気になったのはチップのこと.ガイドブックを見ると中国ではチップは要らないと書かれている.近畿日本ツーリストからもらった小冊子にはポーターにはチップ、とあった.旅行の説明会で近ツリの人は、枕銭は不要と断言した.添乗員は五つ星だからポーターだけでなく枕銭も払えという.説明会で不要といわれたが、と聞くとなぜかむっとした顔になる添乗員.少額だから別に払うのはかまわないが、社内の意見くらい統一して欲しいものだ.
 夕飯は隣接する和平飯店南楼、こちらは1906年竣工のパレス・ホテルが後に和平飯店に買収されたもので、そのレストランのインテリアはなかなか豪華華麗なのだが、料理ははっきりいってまずい! 何皿も出てくるが材料はこまぎれり肉ばかり、味はみんな同じようで雑としかいいようがなく、その上ウェイトレスはにこりともしない.お茶も出さないし、換えの皿はくれないし、葱餅が一枚足りなかったといったら、まるでこっちが嘘をついているような顔をするし.ああ、ここは共産主義国なのだ、ということをいまさらのように思い知って、いささか今後の展開に不安を覚える.
 その後バンドを夜景を見ながら散歩.西洋建築はライトアップされ、さらにネオンを付けた超高層ビルがその向こうから伸び上がる.和平飯店の河を隔てた真向かいに、東方明珠電視塔というテレビ塔が立っているのだが、これがあっと驚くけったいなデザインである.赤く輝く球をふたつ柱で繋いで、下は脚が八の字に開いている。未来的といっても、数十年前のSFに出てくるような、妙にレトロっぽい未来風.上海はいまバブルで、建設ラッシュ.古い住宅地がばんばん潰されて高層ビルが造られている.共産主義では土地は私有されないから、勝負が早いのだそうだ.ツアー一行には建築家の方が何人かいらして、「建築家の夢だな、それは」と複雑な表情だった.
 10時になっても多くの店が開いている.南京路のお菓子屋でビールと水を買って帰る.

11.02

 朝は日の出の六時に起きて目の前のバンドへ.太極拳を見学.ラジオ体操のようなものなのだ.おばさんでも篠田よりよほど体がやわらかい.健康的だなあ.ローラースケートで立てた瓶の回りを滑っているじいさん、なんてのもいる.朝靄の中に対岸浦東地区の、明珠塔(めんどうだからタマタマと呼んでいた)や、高層ビルが浮かぶ.
 散歩中コンビニを発見.さすがにバンコクと違ってセブンイレブンやファミリーマートはないが、雰囲気はいっしょで24時間営業.カップ麺など詳細に見物する.部屋にポットがあるホテルなら、買い食いで食いつなげるなあ.イタリアあたりだとカップ麺は絶対ないんだ.当たり前か.
 朝食は8階のレストラン.途中華麗な装飾をつけた元の舞踏ホールなどが見られる.そういうところはやはりさすが和平飯店である.出発前に屋上に上がって上海の街並みを眺める.昔ながらの二階建ての瓦屋根、少し前の中程度の高さの集合住宅、いかにも取り壊したばかりの更地、そして超高層ビルが斑に混ざり合っている.
 この日の見学地は徒歩でバンドの旧香港上海銀行上海支店.内部には巨大なドーム、イタリア製の石を彫り出したカウンターなど贅を尽くしているが、撮影は禁止.軍隊か警察かという感じの人に取り囲まれる.一行のひとりが巻き尺でカウンターの高さを測り出すと、向こうがじわじわ寄ってきたのでつまみ出されるかと思ったが、呆れて笑っていたのでやれやれ.次はバンドの北にあるブロードウェー・マンション.ここはサッスーン財閥の所有した外国人長期滞在者向けアパート.現在はホテル.屋上から市街を見学.次はグローヴナー・ハウス(これも高級アパート)旧キャセイ・マンション(現在錦江飯店)旧フランス・クラブ(現花園飯店)を見学.最後のは現代のホテルの一部に保存されていて、階段、ロビー、楕円形のステンドグラスが天井の照明になっている舞踏場などがとても美しい.続いて旧モーロー氏邸.これがなんともはやけったいなお屋敷で、一応ヴィクトリアン・ゴシックということになっているのだが、窓は古典主義の半円アーチだし、壁は煉瓦を互い違いに張ってめちゃ派手だし、手すりは緑の釉薬をかけた焼き物だし、とんがった塔の屋根には窓がくっついているしで、これが荒廃していればお化け屋敷だが、いまはきれいにされてホテルになっているので、味付けを間違ったディズニー・ランド風である.頭の中で荒廃させてみても、ミステリというよりはホラーだ.
 ただ、隙のない端正な建築よりは、こういうちょっとヘンなものの方がそそられることも事実.建て主は競走馬の育成で財をなした富豪で、伝説かも知れないが娘が夢で見たお館を再現したという話だ.そりゃ、夢は夢でも悪夢じゃないの.というわけで、やっぱりこれはホラーが似合いそう.
 ここで昼を食べたが、前夜と較べればずうっと美味しいのでほっとする.豆腐と海老の煮物や、白魚を入れたスープがイけた.さらに日本語を話す女性が、とても感じが良くて、出てきたパイ(てっきりスイートかと思ったら塩味だった)の中身のことを聞くと、わざわざ調理場まで尋ねに行ってくれたりする.共産主義国だからって、無愛想な人間ばかりではないのだ.
 午後は旧王拍群邸.ヴィクトリアン・ゴシックだが庭側には円弧を描くベランダが張り出していて、やはり折衷風が漂う.現在は少年宮.塾と学童保育を合わせたようなもの、という感じだったが、中では習字や琵琶、合唱、バイオリンなど、芸術方面の授業が行われていて、ほとんどの子供に親がつきそっている.一人っ子政策による英才教育.しかしそれを芸術に向けさせているのだ.21世紀は日本なんか没落かも、という気がしきりとしてきてしまう.
 車は西へ.伝聞によればパンダも他の動物も痩せこけているという上海動物園の前を通過して、龍柏飯店の庭に名前が何度も出てきたサッスーンの別荘がある.広い庭では結婚式のカップル多し.夏は厳しい上海では、いまごろが結婚シーズンなのかも知れない.以前増田先生が写真撮影した別荘だが、外見だけなら撮影させてくれるはずというので出かけていくと、なぜか迷彩服の男に止められてもめる.しかしオーナーだという女性がやがて現れて、極短時間なら、ということで許してもらう.持ち主が以前と変わったらしい.使われているようできれいに保たれたイギリス風の別荘.しかし玄関側に回ると、巨大なシェパードが吠えていて、これは無断で侵入したら助からないなあ、という感じがした.
 予定より早く見学が終わり、ガイドが「シルク工場へ行こう」というが、みんなその気はなくてちょっとホッ.一度ホテルに戻って小休止.ホテルの一階に入っているチャイナ服風の店で、刺繍のあるジャケットを買う.黒の地に極彩色のチョウチョをたくさん刺繍してあるので、姉貴と「日本に戻って派手すぎたらどうしようね」といいながら、それでも買う.それからホテルの本屋で絵はがきと写真集一冊.他にもおもしろそうな本があったのだが、荷物が重すぎるので止めておく.
 夜の飯は新しい高級マンション街の近くのレストラン.看板にフカヒレ・ツバメの巣・ナマコなど高級食材の名前が並び、ウィンドウには上海蟹が並んでいたが、当然そんなものは影も形もない.前の晩よりはましだけど、味の素の後口がかなりひどかった.
 その後は上海雑技団の公演に.脚で傘を回す、壺を回す、頭の上に茶碗や水の入ったグラスを載せる、といった系統の曲芸、少年の集団が次々とワッカをくぐり抜ける、壺の中にふたつ折りで入ってしまう.最後のは昔、横溝正史か江戸川乱歩のミステリでトリックになっていたよな.見世物小屋の中国少年をお菓子で釣って、壺から出入りして殺人をさせるというような話.輪くぐりはジャニーズ・ジュニアみたいに元気が良くて見ていて楽しいが、あまりにも見世物っぽいのはちょっと辛い.馬鹿なことをいうようだが、「お酢を飲ませて」とかそういうのが頭に浮かんでしまって.
 他にも手品(水の入った皿を次々と出す.最初はなあんだと思っていると、最後は前転してから出したりなかなかすごい)、ギャグっぽい演出の皿回し、純然たるコントなど、バラエティには飛んでいた.しかしいくら人気だとはいえ、ガイドブックには高い席でも60元(日本円換算900円)とあるのが、オプショナル・ツアーで8500円というのは、行き帰りのバスこみでも信じられない暴利だと思うなあ.ダフ屋みたいじゃん.
 夜はホテルに戻ってから、ふたたび南京路でビールを買う.ハイネケンでも120円だから、嬉しくてせっせと飲んでしまう.

11.03

 今日は黄浦江を地下トンネルでくぐって東岸の浦東地区へ.数年前まではなんにもなかった土地が、いまは超高層ビル建設ラッシュ.それも日本のシンプルな直方体ビルを見慣れた目にはあっというほど、てっぺんに塔やらなにやらのっかって「これでもかっ」と目立たせている.角錐状に尖っているビルが多いが、これは風水でいうところの魔除けなのだという.
 グランドハイアットの屋上展望台へ.エレベータが早すぎて耳が痛い.眺めは確かによかった.夜、夜景をここから見たらきれいだろうなあ、と思う.ここのホテルにはすごい吹き抜けがあって、展望台から下を見ると覗ける.それを今度はホテルから見上げようとするが、結局そこへは入れてもらえない.宿泊しないと駄目みたい.しかしドアボーイが黒のトレンチコートをルーズに着ているところは、なかなか格好良かった.普通は軍服みたいな金モールがほとんどだもの、「うまいっ」という感じ.
 ふたたび河をくぐって北へ.旧上海市政府庁舎.日本の和洋折衷は「帝冠様式」というが、こちらの中国人が作った中洋折衷は「宮殿式」と呼ぶらしい.もっとも日本人が植民した中国に建てた折衷様式は、どっちで呼ぶべきなのだろう.同じ折衷でも、日本なり中国なりが西洋を見て折衷するのと、西洋人がアジアを取り入れるのとではベクトルが違う.
ベトナムの博物館はフランス人が作ったから後者だ.
 この日の昼食は豫園の緑波廊酒楼新館.日曜のせいもあるだろうが、めちゃめちゃ混んでいる.料理は相変わらずの上海料理で似たりよったりだが、ショーロンポーと水餃子はなかなかの味.そして上海蟹が別オーダーで食べられた.小さいのが2700円だから、かなりというかものすごい値段ではあったが.そして初体験、というか最初で最後だろうが、味噌はなかなか美味しかった.毛蟹や高足蟹より、ずっと淡泊で上品で滋味があるという感じ.しかし2700円出してまた食べたいというほどではない.
 その後の見学地は徐家*(漢字が出ない)天主堂、かなりでっかくきちんとしたゴシック様式のカトリック教会.そしてモダニズム住宅のD・V・W氏邸.こちらは現在レストランになっているらしい.裏手のガレージの鉄扉にモダニズム風の装飾があり、それをみんなで撮影していると、従業員らしい人が「何事か」という顔で見る.
 夕方は黄浦江クルーズ.日没時なので、特徴あるビルのシルエットの向こうに陽の沈むところが見られてとても美しい.しかし惜しむらくは、バンドのライトアップにはちょっと早かった.
 そこでツアーの一行と別れ、同行の姉とふたりふたたび豫園へ.自分たちの分とお土産に、ハンコを作ろうというのである.最初の日に連れていってもらった「紫錦城」というお土産ビルに行き、日本語のうまい兄ちゃんと話をして、ハンコを注文する.たぶんというか絶対にぼられているに違いないが、値切る暇がないからしかたない.まあいいか、という程度の値段だったし.
 しかしはんこを頼んで他を見ているとき、「西蔵工芸品」という名に惹かれてそのコーナーに行き、ペンダントを見ていたら日本語が異様にうまい親父がすり寄ってきて、いろいろ話しかける.シルバーに山珊瑚とトルコ石と琥珀をあしらったこのペンダントが13000円だという.ちょっとぐらつくが、まあ、飯を食ってからにしようということになる.姉は偽物臭いという.
 夕飯は豫園の中の南翔饅頭店.テイクアウトは常に大行列だが、二階に上がってそれも高い方と安い方と二カ所あるうちの、高い方なら待たずに座れる.ここのショーロンポーは絶品.サイドオーダーの卵スープも味の素っけはなくて淡泊で美味しい.
 しかし豫園の店は閉まるのが早い.八時前にもう人気が退いてくる.ハンコを受け取りに行くと、さっきのペンダントの親父が待ちかまえていて、1万円でいいという.こちらから一言も値切っていないのにそれでは、元の値段がいくらか知れたものではないというので、逆に止める.親父よ、作戦を間違えたね.
 徒歩でホテルまで帰る途中、バンドのセルフサービスでコーヒーを飲む.120円.しかしことばが通じなかったせいか、砂糖とミルクが最初から入っていた.なんだか京都の喫茶店みたい.疲れていたのでそれも美味しかったけど.

11.04

 最終日.チェックアウト後上海博物館へ.しかし時間は50分.土産屋も見たいというわけで、またまたばたばたと駆け回る.見物できたのは展示品の半分程度.これもすべて「また今度だね」という感じ.堆朱のイヤリングをひとつ買う.ピアスを直して使うことにしよう.堆朱のペンダントがあったら欲しいなと思ったのだが、変な真っ赤なガラスのビーズと連ねられていて駄目だった.中国的な美意識とはちょっと相容れない感じがある.
 みんなお買い物をしてませんね、というわけで友誼商店へ.ハンコを買ったから本物の朱肉も買おうかと思うのだが、いまいちなのでそれは止めておく.アクセサリーの売場で昨日買うのを止めたのと良く似たアンティークなチベット風ペンダントがあったが、これが日本円に直すと37800円.つまりこれくらいの金額はするものなので、昨日のは完全に偽物だということが判明した.危ないところだった、やれやれである.孔雀石のペンダントがきれいなので試してみたが、胸にかけるといまいち.やっぱり中国のセンスは日本とは一致しにくいかも.
 空港近くのホテルで昼食.店はぼろいが味は上々.さよりみたいな魚を丸揚げしたものが骨ごと食べられて美味しかった.総じて今回の食事は六回の内最悪が1,悪が1,後はまあまあから美味までだった.しかし、日本食を食わせろとはいわないけれど、ずっと中華のフルコースというのは飽きる.そのへんもうちょっとどうにかして欲しいなあ.
 上海空港では機内預け荷物のチェックも厳重で、呼ばれてトランクを開けさせられる.なにがひっかかったかと思ったら、マレーシアで買ったピューターのフラスクだ.蓋を開けて匂いをかがれる.さらに荷物の中に手を突っ込まれ、出てきたのはコンビニで買った赤ワイン.そこで解放されたけど、いかに篠田がのんべかというのが中国にまでばれてしまったじゃないか……