志津吉明牧師のひとことメッセージ
2025年3月16日
『主は、信仰の篤い人を試練から救い出される。』(ペテ2 二章9)
新生と洗礼は、お互いが同時に伴って生じるとは限りません。ある人が「水からは生まれて」いても、「霊によって生まれて」はいない場合もあります。逆に、内的な恵みがまだ生じていなくとも、外的な恵みのしるしが先行することもありえます。
新生は聖化とも異なります。新生は聖化の一部(起点)ではありますが、その全体ではありません。それは門であり入り口なのです。
私たちが、霊によって生まれる時、すなわち「新生」を経験する時に、私たちの内的・外的なあらゆる聖化の救いが開始されます。
そして、私たちは次第に、嬰児が瞬時に生まれた後、時間を掛けて少しずつ成長して大きくなっていくように、頭であられるキリストに向かって霊的に成長していく(エフェソ四15)ことになります。
このように、自然における赤子の誕生とその後の生育と同じような関係が、救済論における「新生」と「聖化」の間にも存在するのです。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章より
2025年3月9日
罪の償いのために、神の怒りを宥め、受けなければならない刑罰を免れるために、あなたは何をすることができるでしょうか。ああ、悲しいかな、あなたには何もできません。ただ一つの悪行、言葉、思考でさえ、神に対して何の償いもできません。
たとえ、これからの完全な服従が、過去の罪を幾ばくか償うことができるとしても、そんなことは罪の全体的な解決のためには何の益にもなりません。あなたは、どの点においても償いの遂行としての善い行い、律法の遵守を完全には履行することが不可能だからです。
それでは、どのようにして、あなたの悪に満ちた人生を善いものへと変えることおができるのでしょうか。それは、あなたの心が根本的に変化しなければなりません。しかし、あなた自身では、自分自身の心を清い方向へと向け変えることはできません。
それは、死人に生命を与え、墓の中にいる者を再び起き上がらせるような奇跡です。これらのことについて、あなた自身はまったくの無力なのです。
私たちのこの償いと救いにおける無力さの徹底的な自覚こそが、悔い改めの先駆けです。神の国に入るための第一歩は、この悔い改めへの踏み出しです。もう一歩進めば、あなたも御国に入ることができます。今悔い改めて福音を信じましょう。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章より
2025年3月2日
罪の償いのために、神の怒りを宥め、受けなければならない刑罰を免れるために、あなたは何をすることができるでしょうか。ああ、悲しいかな、あなたには何もできません。ただ一つの悪行、言葉、思考でさえ、神に対して何の償いもできません。
たとえ、これからの完全な服従が、過去の罪を幾ばくか償うことができるとしても、そんなことは罪の全体的な解決のためには何の益にもなりません。あなたは、どの点においても償いの遂行としての善い行い、律法の遵守を完全には履行することが不可能だからです。
それでは、どのようにして、あなたの悪に満ちた人生を善いものへと変えることができるのでしょうか。それは、あなたの心が根本的に変化しなければなりません。しかし、あなた自身では、自分自身の心を清い方向へと向け変えることはできません。
それは、死人に生命を与え、墓の中にいる者を再び起き上がらせるような奇跡です。これらのことについて、あなた自身はまったくの無力なのです。
私たちのこの償いと救いにおける無力さの徹底的な自覚こそが、悔い改めの先駆けです。神の国に入るための第一歩は、この悔い改めへの踏み出しです。もう一歩進めば、あなたも御国に入ることができます。今悔い改めて福音を信じましょう。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章より
2025年2月16日
福音は良い知らせです。罪ある助けのない者にとっての良き知らせなのです。その福音とは、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」(テモ1一15)ということです。
また「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ三16)
この良き知らせ、救いの福音を信じなさい。そうすれば、神の国はあなたのものとなります。キリストへの信仰によって、救いの約束を手に入れるのです。
イエスは、まことに悔い改めて、心から純粋に救いの福音を信じる者の、罪を赦し、罪責と裁きと恐れから自由にして下さいます。
神があなたの心に「元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」(マタ二9)と宣言された瞬間に、あなたは神の国に導き入れられるのです。そして、聖霊による義、喜び、平安に心が満たされるようになります。
信仰とは、あなたを愛して、ご自身を与えられたキリストを通して現わされた神の赦しの憐みの中に受け入れられるという信頼であり、十字架の血によって、神と親しい交わりに回復されることへの確信なのです。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章より
2025年2月9日
『しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。』(エフェソ信徒への手紙六13より)
「義の胸当て」を持つことは、しみの無い清さを持つことです。キリストはご自身の血の功績によって、私たちを神の前に傷なき者として下さいます。それが起こるのは、良心がある場所、心の内奥であり、それは主の義によって守られます。背中の武具については何も述べられていません。私たちは常に敵に向かって前進しているのです。
さらに、あなたの足は、福音の準備によってしっかりと靴ひもが結ばれていなければなりません。全ての歩みにおいて、福音があなたを導き、確信を与えるようにしなさい。私たちの足は滑らないように、堅く固定されていなければなりません。
私たちの生活と言動を正しく秩序づけるためには、福音の恵みと神の愛と平和に、私たちの心が支配されていることが必要です。このことによってのみ、荒野のような道においても安心して歩くことができ、困難をも乗り越え、無事に目的地に到達することが可能なのです。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章より
2025年2月2日
『悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。』(ヨハT3章8節)
多くの作家が、美徳の麗しさと悪徳の醜悪さを描いてきました。彼らは美徳に伴う幸福と、悪徳に従うことによって生じる悲惨を描こうとしています。
もし、私たちがそうした悪しき徳を絶滅・克服しようと願うなら、また美徳の実践を求めるならば、最良の備えが必要でしょう。ローマの哲学者たちも「誰でも弱さがある。それは栄光に至りたいとう渇きである。本性は病に侵されているが、本性は治療法を示してはくれない」と言っている通りです。
この悪徳の治療法は捜しても容易には見つかりません。異邦人たちは、理性においても、哲学においても、未来においても、それが決して存在しない場所に求めるから見い出すことができなかったのです。
その正しい治療法は、ただ神の中においてのみ捜し求めることができるからです。
福音を通して不滅の命を現わしてくださり、悪魔を滅ぼすためにこそ、神の子が現れて下さるまでは、私たちに正しい治療法である「世の光」は隠されていたのです。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章より
2025年1月26日
『悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。』(ヨハT3章8節)
多くの作家が、美徳の麗しさと悪徳の醜悪さを描いてきました。彼らは美徳に伴う幸福と、悪徳に従うことによって生じる悲惨を描こうとしています。
もし、私たちがそうした悪しき徳を絶滅・克服しようと願うなら、また美徳の実践を求めるならば、最良の備えが必要でしょう。ローマの哲学者たちも「誰でも弱さがある。それは栄光に至りたいとう渇きである。
本性は病に侵されているが、本性は治療法を示してはくれない」と言っている通りです。
この悪徳の治療法は捜しても容易には見つかりません。異邦人たちは、理性においても、哲学においても、未来においても、それが決して存在しない場所に求めるから見い出すことができなかったのです。
その正しい治療法は、ただ神の中においてのみ捜し求めることができるからです。
福音を通して不滅の命を現わしてくださり、悪魔を滅ぼすためにこそ、神の子が現れて下さるまでは、私たちに正しい治療法である「世の光」は隠されていたのです。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章より
2025年1月19日
罪の償いのために、神の怒りを宥め、受けなければならない刑罰を免れるために、あなたは何をすることができるでしょうか。ああ、悲しいかな、あなたには何もできません。ただ一つの悪行、言葉、思考でさえ、神に対して何の償いもできません。
たとえ、これからの完全な服従が、過去の罪を幾ばくか償うことができるとしても、そんなことは罪の全体的な解決のためには何の益にもなりません。あなたは、どの点においても償いの遂行としての善い行い、律法の遵守を完全には履行することが不可能だからです。
それでは、どのようにして、あなたの悪に満ちた人生を善いものへと変えることができるのでしょうか。それは、あなたの心が根本的に変化しなければなりません。しかし、あなた自身では、自分自身の心を清い方向へと向け変えることはできません。それは、死人に生命を与え、墓の中にいる者を再び起き上がらせるような奇跡です。これらのことについて、あなた自身はまったくの無力なのです。
私たちのこの償いと救いにおける無力さの徹底的な自覚こそが、悔い改めの先駆けです。神の国に入るための第一歩は、この悔い改めへの踏み出しです。もう一歩進めば、あなたも御国に入ることができます。今悔い改めて福音を信じましょう。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章より
2025年1月12日
「私たちは、この御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」(エフェ一7)
あなたは「自分のような者でさえ、キリストの十字架の贖いによって、父なる神と和解することができる」ことを確信していますか。そのように信じるならば、神の平和があなたの心に宿り、悲しみに嘆いたり、世のことに悲嘆することもなくなるでしょう。
神の愛は「真昼の太陽」のように輝き出でており明らかです。あなたの心は、この主から注がれる慈愛を切望していますか。その愛の内に憩うならば、私たちには地獄も死も、かつて死と罪の力で私たちを隷属していた悪魔をも恐れることはなくなります。
あなたがこの十字架の贖いという大いなる福音を信じる時に、あなたの心は、救い主キリストをほめたたえ、父なる神との和解を喜ぶことができます。
そして、あなたは、キリストを通して、「父よ」と親しく呼び掛け交わる霊、子としての身分を与える聖霊をも分け与えられます。この霊によって新たに生かされることで、罪と死を完全に滅ぼし、救いを完成させる栄化の希望を待ち望む者へと変えられていくのです。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章より
2024年12月29日
「私たちは、この御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」(エフェ一7)
あなたは「自分のような者でさえ、キリストの十字架の贖いによって、父なる神と和解することができる」ことを確信していますか。そのように信じるならば、神の平和があなたの心に宿り、悲しみに嘆いたり、世のことに悲嘆することもなくなるでしょう。
神の愛は「真昼の太陽」のように輝き出でており明らかです。あなたの心は、この主から注がれる慈愛を切望していますか。その愛の内に憩うならば、私たちには地獄も死も、かつて死と罪の力で私たちを隷属していた悪魔をも恐れることはなくなります。
あなたがこの十字架の贖いという大いなる福音を信じる時に、あなたの心は、救い主キリストをほめたたえ、父なる神との和解を喜ぶことができます。
そして、あなたは、キリストを通して、「父よ」と親しく呼び掛け交わる霊、子としての身分を与える聖霊をも分け与えられます。この霊によって新たに生かされることで、罪と死を完全に滅ぼし、救いを完成させる栄化の希望を待ち望む者へと変えられていくのです。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章より
2024年12月29日
『主は、信仰の篤い人を試練から救い出される。』(ペテ2 二章9)
もし、突然の激しい試みによって、暗闇がもたらされるなら、その暗闇を消し去る最善の方法は、信仰者にはそうした試練がつきものだということを悟ることです。
私たちは、罪に堕ちている悪の世に住んでおり、悪しき諸霊の中に生きており、常に自分自身も悪を行う可能性を持ち合わせています。
それゆえに、聖化の全ての業は一瞬にて完了するような簡単なものではないことも知っています。その過程に多くの嵐があることを知っています。
試練の嵐が吹き付ける時には、それを悪魔のせいにするのではなく、神の前に魂を注ぎだして、自分の抱えている問題を神へと示しなさい。無知が取り去られるまで祈りましょう。
試みに逢う者に対して、それが神のご配慮・ご計画に由来することであることを聖書は告げています。
そして、やがて主の忠実さと流された血の力が、最終的には私たちを全ての悪と罪から救い出します。
神と共に、謙虚に歩むならば「神に従う人の道は、輝き出る光。進むほどに光は増し、真昼の輝きとなろう」(箴言四18)
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章より
2024年12月22日
預言に従ってお生まれになられた御子キリストを拝むために、遥か遠い東方よりやって来た博士たちの姿は、キリスト礼拝、聖地巡礼の「最初の雛形」であるとも言えます。異邦人の博士たちは、ユダヤ民族ではありませんから、異邦人の求道者=現代の日本人一般をも代表する存在と言えるでしょう。
私たちもこの博士たちのように、各々の示された旅路を通って、星(聖霊)に導かれるようにして、キリストの福音へと辿り着きました。
ちなみに、博士たちは「乳香、黄金、没薬」といった3種の贈り物をキリストに献上しました。
「黄金」は権力者や王位に就かれることを意味しています。王であり勝利者であるキリストの側面を賛美する贈り物であると言えます。
「乳香」は別名フランキンセンスと言われますが、特殊な樹木の樹脂を原料とする高価なアロマオイル(香料)です。古代から寺院において「神に捧げる聖なる薫香」として献上されてきた品物です。これは御子キリストの「神性」を指し示す贈り物です。
一方で「没薬」はミルラといって、エジプトなどで死者の葬りの際にミイラにするための防腐剤として用いられていた非常に粘度の高い香油です。
赤子の誕生において「死と葬り」を連想させる贈り物は普通はしません。ここにも御子キリストの受難の予告が示されています。
2024年12月8日
何が「真の宗教」であるかを、今ここに我々は知ることができよう。それは、サタンの頭を砕かれる御方による「人間の回復」であり、古き蛇が我々から奪った全てのものへの回復である。それは、恩顧による赦罪のみならず、失われた「神の像」への回復である。
このことについて、キリスト教世界においてなんと理解の乏しいことであろうか。しかも、この啓発された理性の時代において全く正しく理解されていないとは。
「愛によって働く信仰」(ガラ五6)すなわち、内的・外的すべてに及ぶホーリネス以下のものを、真の宗教と思ってはならない。
我々は、この朽ちる肉体に生きる間は、知的欠陥と数多くの弱さの中に留まっているが、しかし罪までも残る必然性は無い。罪の結ぶ実は、悪魔の業であり、こうした悪魔の全ての業を破壊することができない宗教に満足してはいけない。
神の御子キリストは、この地上の生涯において悪魔の業に打ち勝って克服されるために「受肉・来臨」なさったのである。
彼は、信じる全ての者が「罪の力に勝利する」ようにとなし得る御方であり、それを願われておられる。その憐みと恵みに信頼して憚らず恵みの御座に来なさい。
〜 ウェスレー説教#62 『キリスト来臨の目的』より抜粋
2024年12月1日
何が「真の宗教」であるかを、今ここに我々は知ることができよう。それは、サタンの頭を砕かれる御方による「人間の回復」であり、古き蛇が我々から奪った全てのものへの回復である。それは、恩顧による赦罪のみならず、失われた「神の像」への回復である。
このことについて、キリスト教世界においてなんと理解の乏しいことであろうか。しかも、この啓発された理性の時代において全く正しく理解されていないとは。
「愛によって働く信仰」(ガラ五6)すなわち、内的・外的すべてに及ぶホーリネス以下のものを、真の宗教と思ってはならない。
我々は、この朽ちる肉体に生きる間は、知的欠陥と数多くの弱さの中に留まっているが、しかし罪までも残る必然性は無い。罪の結ぶ実は、悪魔の業であり、こうした悪魔の全ての業を破壊することができない宗教に満足してはいけない。
神の御子キリストは、この地上の生涯において悪魔の業に打ち勝って克服されるために「受肉・来臨」なさったのである。
彼は、信じる全ての者が「罪の力に勝利する」ようにとなし得る御方であり、それを願われておられる。その憐みと恵みに信頼して憚らず恵みの御座に来なさい。
〜 ウェスレー説教#62 『キリスト来臨の目的』より抜粋
2024年11月24日
私たちが逆境や災難と呼ぶところの多くの悲惨に耐える時、そのような苦難に逢うことによって謙遜と従順を学ぶことになる。
私たちは、自分自身の力によって神の恵みが無くても十分であるかのように傲慢になりやすい者であるが、神はこの虚栄を、私たち自身が愚かで弱い存在であることを経験によって再確認することで抑制される。私たちは多くの困難を通じて謙遜にさせられ、苦難の下でも再び立ち上がらせて下さる神の力を呼び求める事を学ぶにようになる。
また、私たちが富を獲得する際に傲慢にならぬように、栄誉を受けることで高慢にならぬように、繁栄と健康に恵まれることで尊大に陥らぬように、主は私たち一人一人に対して、様々な手段によって個々人に十字架の試練を与えられるのである。様々な人々が各々の十字架を負うことで修練されるのを私たちは見るが、それはこの目的のためにである。
私たちは、試練と苦難の最中にあっても、天の父の憐みと導きを認めなければならない。なぜなら、父なる神は、私たちをこの世の罪と腐敗から救い出し、魂を矯正なさるために、それらの試練をお用いになられるからである。
〜 『キリスト教綱要第3篇』著カルヴァン
2024年11月10日
『野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。』(マタイ六28)
「神は装ってくださる」とは何を意味するのでしょうか。装うとは、体の外側を綺麗なドレスで覆うことです。草花の外側の膜は、まるで人間の皮膚のように、繊細な構造の上に美を加えつつ、悪天候による被害から身を守るように作られています。
それゆえに、これらの教えの本質は以下のようなものです。相手に害を与えず、主にいつも感謝する、自己自身をも傷つけない、心配があっても、主が私たちから心配を取り去って下さるのですから、自分を過剰に傷つけたり、過度に心配しすぎする必要はありません。
私たちは、明日の心配や苦しみを今日の状態によって悪化させないようにしましょう。むしろ、これらの必要を知っておられる天の父に向って正しく祈り応答しましょう。
主は私たちに対して肉以上に素晴らしい霊的な命を与え、地上の衣服以上に素晴らしい霊のからだを備えて下さっているからです。これらのことを、私たちは信仰のレッスンとして、野の花と鳥たちから学ぶことができます。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章
2024年10月27日
福音は良い知らせです。罪ある助けのない者にとっての良き知らせなのです。その福音とは、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」(テモ1一15)ということです。また「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ三16)
この良き知らせ、救いの福音を信じなさい。そうすれば、神の国はあなたのものとなります。キリストへの信仰によって、救いの約束を手に入れるのです。
イエスは、まことに悔い改めて、心から純粋に救いの福音を信じる者の、罪を赦し、罪責と裁きと恐れから自由にして下さいます。
神があなたの心に「元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」(マタ二9)と宣言された瞬間に、あなたは神の国に導き入れられるのです。そして、聖霊による義、喜び、平安に心が満たされるようになります。
信仰とは、あなたを愛して、ご自身を与えられたキリストを通して現わされた神の赦しの憐みの中に受け入れられるという信頼であり、十字架の血によって、神と親しい交わりに回復されることへの確信なのです。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章より抜粋〜
2024年10月20日
福音は良い知らせです。罪ある助けのない者にとっての良き知らせなのです。その福音とは、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」(テモ1一15)ということです。また「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ三16)
この良き知らせ、救いの福音を信じなさい。そうすれば、神の国はあなたのものとなります。キリストへの信仰によって、救いの約束を手に入れるのです。
イエスは、まことに悔い改めて、心から純粋に救いの福音を信じる者の、罪を赦し、罪責と裁きと恐れから自由にして下さいます。
神があなたの心に「元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」(マタ二9)と宣言された瞬間に、あなたは神の国に導き入れられるのです。そして、聖霊による義、喜び、平安に心が満たされるようになります。
信仰とは、あなたを愛して、ご自身を与えられたキリストを通して現わされた神の赦しの憐みの中に受け入れられるという信頼であり、十字架の血によって、神と親しい交わりに回復されることへの確信なのです。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章 より抜粋〜
2024年10月13日
私たちの主は、内的な宗教(心の宗教)について、マタイ五章で様々な角度から語られました。
真のキリスト教を形作る性質、ホーリネスに含まれる内的性質がどのようなものかを示して下さいました。
「聖くなければ、誰も主を見ることができません」(ヘブル十二14)と記されていますが、ホーリネス(聖性)の内的本質は「愛」にあります。
キリストを通して神を信じる「生きた信仰」という正しい源泉から流れ出す「純粋な愛」だけが、神に受け入れられるものであることを示されました。
そのように、行為の動機が「純粋な愛」に発するものであれば、全ての行為が主によって聖なる善なるものとされ、神に受け入れられるのです。動機の純粋さ無しに行うことは全て、神の前に聖なるものとは見なされません。
正しい動機、純粋な愛から行われるならば、それは聖い宗教的実践であると言えます。そうした宗教的な実践行為として、私たちは「敬虔のわざ」(Works of piety)と「慈愛のわざ」(Works of mercy)を「恵みの手段」を代表するものとして考えていますが、
ここで主は、前者について特に「祈りと断食」とを、後者について「施し」という実践を取り挙げておられるのです。
〜『ウェスレー説教53中巻』 主の山上の説教6 より抜粋〜
2024年10月6日
『主は、信仰の篤い人を試練から救い出される』(ペテ2 二章9)
新生と洗礼は、お互いが同時に伴って生じるとは限りません。ある人が「水からは生まれて」いても、「霊によって生まれて」はいない場合もあります。逆に、内的な恵みがまだ生じていなくとも、外的な恵みのしるしが先行することもありえます。
新生は聖化とも異なります。新生は聖化の一部(起点)ではありますが、その全体ではありません。それは門であり入り口なのです。
私たちが、霊によって生まれる時、すなわち「新生」を経験する時に、私たちの内的・外的なあらゆる聖化の救いが開始されます。
そして、私たちは次第に、嬰児が瞬時に生まれた後、時間を掛けて少しずつ成長して大きくなっていくように、頭であられるキリストに向かって霊的に成長していく(エフェソ四15)ことになります。
このように、自然における赤子の誕生とその後の生育と同じような関係が、救済論における「新生」と「聖化」の間にも存在するのです。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章 より抜粋〜
2024年9月22日
『神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく潔い生活を送りましょう』(エフェソ信徒への手紙 4章24節)
私たちは、新生の本質が、神が私たちの魂の中に働いて起こされる大きな変化、であることを知っています。その変化とは、キリスト・イエスとの霊的な交わりにおいて、私たちの滅びゆくはずの魂がまったく新しく再創造され、神にかたどった全き「神の像」(新しい人)を身に着け、真理に一致した正しい歩みを送るようになることです。(エフェ四24)
神は、聖霊を通して私たちに霊的覚醒を与え、また人はキリストを通して神に向かうように導かれます。神は常に継続して、私たちの魂に霊的な命(息吹)を与えられ、私たちの魂の方でも、神に向かって喜びと感謝の息を吐き出すのです。
神と人の親しい交わりを通して、神の子たちは少しずつ成長し、やがてキリストの満ち溢れる豊かさに至るまで成長していきます。(エフェ四13)
このように、世に対する愛は、神への純粋な愛に置き換えられ、高慢は謙遜へ、激情は柔和さへ、憎みと敵意は誠実・優しさ・隣人愛に変えられていきます。これが私たちが経験しうる「新生の本質」なのです。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章 より抜粋〜
2024年9月15日
福音は良い知らせです。罪ある助けのない者にとっての良き知らせなのです。その福音とは、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」(テモ1一15)ということです。また「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ三16)
この良き知らせ、救いの福音を信じなさい。そうすれば、神の国はあなたのものとなります。キリストへの信仰によって、救いの約束を手に入れるのです。
イエスは、まことに悔い改めて、心から純粋に救いの福音を信じる者の、罪を赦し、罪責と裁きと恐れから自由にして下さいます。
神があなたの心に「元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」(マタ二9)と宣言された瞬間に、あなたは神の国に導き入れられるのです。そして、聖霊による義、喜び、平安に心が満たされるようになります。
信仰とは、あなたを愛して、ご自身を与えられたキリストを通して現わされた神の赦しの憐みの中に受け入れられるという信頼であり、十字架の血によって、神と親しい交わりに回復されることへの確信なのです。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章 より抜粋〜
2024年9月8日
この世に生まれる者すべてが、魂の全機能において、無神論・偶像崇拝・傲慢・自己中心・世に対する愛といった全般的な罪性の氾濫によって腐敗している。この原罪の教理は、キリスト教と他宗教や道徳倫理との決定的な違いを示すものである。
すべての人が「罪ある者」として生まれ、咎の中に形作られ、ゆえに、全ての人のうちに「神対して反抗する肉の思い」があり、神の律法に服従することができなくなっているのである。
すなわち、彼の生まれながらの心には「善は住んでおらず」(ロマ八7)「全てその心に思いはかることは悪に傾く」(創世記六5)のである。
キリスト教に固有の教えは、こうした原罪、病んでいる魂を癒すために神が用意された方法にある。偉大な医者が重病を癒すように、魂の全体が腐敗してしまった人間性を回復させるために、神は偉大な薬を用いられた。世におくられた救い主キリストを通して、我々を癒し回復して下さるのである。
悔い改めと霊的な謙遜によって傲慢という病は癒され、自己をキリストに委ね、感謝と柔和をもって神に服従することによって自己中心という病が癒される。また、神への愛とキリストへの感謝によって、あらゆる世的な愛や歪んだ欲望が治療されるのである。
〜 ウェスレー説教#44 『原罪』より抜粋
2024年9月1日
私たちが逆境や災難と呼ぶところの多くの悲惨に耐える時、そのような苦難に逢うことによって謙遜と従順を学ぶことになる。
私たちは、自分自身の力によって神の恵みが無くても十分であるかのように傲慢になりやすい者であるが、神はこの虚栄を、私たち自身が愚かで弱い存在であることを経験によって再確認することで抑制される。私たちは多くの困難を通じて謙遜にさせられ、苦難の下でも再び立ち上がらせて下さる神の力を呼び求める事を学ぶにようになる。
また、私たちが富を獲得する際に傲慢にならぬように、栄誉を受けることで高慢にならぬように、繁栄と健康に恵まれることで尊大に陥らぬように、主は私たち一人一人に対して、様々な手段によって個々人に十字架の試練を与えられるのである。様々な人々が各々の十字架を負うことで修練されるのを私たちは見るが、それはこの目的のためにである。
私たちは、試練と苦難の最中にあっても、天の父の憐みと導きを認めなければならない。なぜなら、父なる神は、私たちをこの世の罪と腐敗から救い出し、魂を矯正なさるために、それらの試練をお用いになられるからである。
〜 『キリスト教綱要 第3篇』著カルヴァン より
2024年8月25日
主は「内的な宗教」(心の宗教)の本質について、マタイ5章において様々な角度から語られました。真のキリスト教を形作るたましいの性質、すなわち、ホーリネスに含まれる内的な性質がどのようなものであるかを示して下さったのです。
「聖くなければ、誰も主を見ることができません」と御言葉にありますが、ホーリネスの内的性質は「愛」です。
神から出て聖霊によって与えられ、キリストを信じる信仰からその愛が流れ出ている時に、そのような「全き愛」だけが、神に受け入れられる聖にして善なるものとなるのです。
主は6章において、宗教的な実践の一つ一つにまで論旨を進められ、その行いの動機が純粋で聖いものであれば、すべての宗教的行為は聖にして善となり、神に受け入れられるものとなると仰られます。
そこで問われているものは「動機の純粋性」であり、正しい動機によって行われる宗教的実践のみが、聖く善いものと言われるのです。
私たちの行うべき宗教的実践は、敬虔のわざ(works of piety)と慈愛のわざ(works of mercy)に大別できます。前者においては「祈りと断食」が、後者において「施し」が語られています。
〜『ウェスレー説教53中巻』主の山上の垂訓Y より〜
2024年8月18日
「霊の思いは生命と平和です。」(ロマ八6)
肉による思いは、肉の事柄を思い、罪深い性質によって支配された心から生じます。それらは腐敗した本性であり、肉の事ばかりを思うのです。
目に見える一時的な事柄、地上の事柄、感覚的な楽しみ、人からの賞賛や名誉、裕福さなどを追い求めているのです。このようなものは、パウロによれば「霊的な死」に向かわせるものです。
しかし、御霊による思いは、聖なる導きの下にあるものであり、天の事柄と霊のことを思わせるのです。目に見えないところにある愛、永遠の真理、真の喜びといた天に属する事柄について、御霊は思いを与えます。これらは聖霊が啓示する事柄であり、主がキリスト者の心において働かれる時に、私たちに与えると約束して下さっていたものです。
御霊による思いは、神の下さる聖霊によって支配されており、霊的な生命の確かなしるし、永遠の命へと繋がるものです。そこには神の平和が常に伴い、本性的な腐敗に支配された心からは正反対のものです。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章より〜
2024年8月11日
『主は、信仰の篤い人を試練から救い出される。』(ペテ2 二章9)
もし、突然の激しい試みによって、暗闇がもたらされるなら、その暗闇を消し去る最善の方法は、信仰者にはそうした試練がつきものだということを悟ることです。
私たちは、罪に堕ちている悪の世に住んでおり、悪しき諸霊の中に生きており、常に自分自身も悪を行う可能性を持ち合わせています。
それゆえに、聖化の全ての業は一瞬にて完了するような簡単なものではないことも知っています。その過程に多くの嵐があることを知っています。
試練の嵐が吹き付ける時には、それを悪魔のせいにするのではなく、神の前に魂を注ぎだして、自分の抱えている問題を神へと示しなさい。無知が取り去られるまで祈りましょう。
試みに逢う者に対して、それが神のご配慮・ご計画に由来することであることを聖書は告げています。
そして、やがて主の忠実さと流された血の力が、最終的には私たちを全ての悪と罪から救い出します。神と共に、謙虚に歩むならば「神に従う人の道は、輝き出る光。進むほどに光は増し、真昼の輝きとなろう」(箴言四18)
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章より〜
2024年8月4日
『しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。』(エフェソ信徒への手紙六13より)
「義の胸当て」を持つことは、しみの無い清さを持つことです。キリストはご自身の血の功績によって、私たちを神の前に傷なき者として下さいます。それが起こるのは、良心がある場所、心の内奥であり、それは主の義によって守られます。背中の武具については何も述べられていません。私たちは常に敵に向かって前進しているのです。
さらに、あなたの足は、福音の準備によってしっかりと靴ひもが結ばれていなければなりません。全ての歩みにおいて、福音があなたを導き、確信を与えるようにしなさい。私たちの足は滑らないように、堅く固定されていなければなりません。
私たちの生活と言動を正しく秩序づけるためには、福音の恵みと神の愛と平和に、私たちの心が支配されていることが必要です。このことによってのみ、荒野のような道においても安心して歩くことができ、困難をも乗り越え、無事に目的地に到達することが可能なのです。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章 より〜
2024年7月28日
「私たちは、この御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」(エフェ一7)
あなたは「自分のような者でさえ、キリストの十字架の贖いによって、父なる神と和解することができる」ことを確信していますか。そのように信じるならば、神の平和があなたの心に宿り、悲しみに嘆いたり、世のことに悲嘆することもなくなるでしょう。
神の愛は「真昼の太陽」のように輝き出でており明らかです。あなたの心は、この主から注がれる慈愛を切望していますか。その愛の内に憩うならば、私たちには地獄も死も、かつて死と罪の力で私たちを隷属していた悪魔をも恐れることはなくなります。
あなたがこの十字架の贖いという大いなる福音を信じる時に、あなたの心は、救い主キリストをほめたたえ、父なる神との和解を喜ぶことができます。
そして、あなたは、キリストを通して、「父よ」と親しく呼び掛け交わる霊、子としての身分を与える聖霊をも分け与えられます。この霊によって新たに生かされることで、罪と死を完全に滅ぼし、救いを完成させる栄化の希望を待ち望む者へと変えられていくのです。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章 より〜
2024年7月21日
福音は良い知らせです。罪ある助けのない者にとっての良き知らせなのです。その福音とは、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」(テモ1一15)ということです。また「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ三16)
この良き知らせ、救いの福音を信じなさい。そうすれば、神の国はあなたのものとなります。キリストへの信仰によって、救いの約束を手に入れるのです。
イエスは、まことに悔い改めて、心から純粋に救いの福音を信じる者の、罪を赦し、罪責と裁きと恐れから自由にして下さいます。
神があなたの心に「元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」(マタ二9)と宣言された瞬間に、あなたは神の国に導き入れられるのです。そして、聖霊による義、喜び、平安に心が満たされるようになります。
信仰とは、あなたを愛して、ご自身を与えられたキリストを通して現わされた神の赦しの憐みの中に受け入れられるという信頼であり、十字架の血によって、神と親しい交わりに回復されることへの確信なのです。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章 より抜粋
2024年7月14日
私たちが逆境や災難と呼ぶところの多くの悲惨に耐える時、そのような苦難に逢うことによって謙遜と従順を学ぶことになる。
私たちは、自分自身の力によって神の恵みが無くても十分であるかのように傲慢になりやすい者であるが、神はこの虚栄を、私たち自身が愚かで弱い存在であることを経験によって再確認することで抑制される。
私たちは多くの困難を通じて謙遜にさせられ、苦難の下でも再び立ち上がらせて下さる神の力を呼び求める事を学ぶにようになる。
また、私たちが富を獲得する際に傲慢にならぬように、栄誉を受けることで高慢にならぬように、繁栄と健康に恵まれることで尊大に陥らぬように、主は私たち一人一人に対して、様々な手段によって個々人に十字架の試練を与えられるのである。様々な人々が各々の十字架を負うことで修練されるのを私たちは見るが、それはこの目的のためにである。
私たちは、試練と苦難の最中にあっても、天の父の憐みと導きを認めなければならない。なぜなら、父なる神は、私たちをこの世の罪と腐敗から救い出し、魂を矯正なさるために、それらの試練をお用いになられるからである。
〜 『キリスト教綱要 第3篇』著カルヴァンより
2024年7月7日
私たちが逆境や災難と呼ぶところの多くの悲惨に耐える時、そのような苦難に逢うことによって謙遜と従順を学ぶことになる。
私たちは、自分自身の力によって神の恵みが無くても十分であるかのように傲慢になりやすい者であるが、神はこの虚栄を、私たち自身が愚かで弱い存在であることを経験によって再確認することで抑制される。
私たちは多くの困難を通じて謙遜にさせられ、苦難の下でも再び立ち上がらせて下さる神の力を呼び求める事を学ぶにようになる。
また、私たちが富を獲得する際に傲慢にならぬように、栄誉を受けることで高慢にならぬように、繁栄と健康に恵まれることで尊大に陥らぬように、主は私たち一人一人に対して、様々な手段によって個々人に十字架の試練を与えられるのである。様々な人々が各々の十字架を負うことで修練されるのを私たちは見るが、それはこの目的のためにである。
私たちは、試練と苦難の最中にあっても、天の父の憐みと導きを認めなければならない。なぜなら、父なる神は、私たちをこの世の罪と腐敗から救い出し、魂を矯正なさるために、それらの試練をお用いになられるからである。
〜 『キリスト教綱要 第3篇』著カルヴァンより
2024年6月30日
福音は良い知らせです。罪ある助けのない者にとっての良き知らせなのです。その福音とは、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」(テモ1一15)ということです。また「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ三16)
この良き知らせ、救いの福音を信じなさい。そうすれば、神の国はあなたのものとなります。キリストへの信仰によって、救いの約束を手に入れるのです。
イエスは、まことに悔い改めて、心から純粋に救いの福音を信じる者の、罪を赦し、罪責と裁きと恐れから自由にして下さいます。
神があなたの心に「元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」(マタ二9)と宣言された瞬間に、あなたは神の国に導き入れられるのです。そして、聖霊による義、喜び、平安に心が満たされるようになります。
信仰とは、あなたを愛して、ご自身を与えられたキリストを通して現わされた神の赦しの憐みの中に受け入れられるという信頼であり、十字架の血によって、神と親しい交わりに回復されることへの確信なのです。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章より〜
2024年6月23日
福音は良い知らせです。罪ある助けのない者にとっての良き知らせなのです。その福音とは、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」(テモ1一15)ということです。また「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ三16)
この良き知らせ、救いの福音を信じなさい。そうすれば、神の国はあなたのものとなります。キリストへの信仰によって、救いの約束を手に入れるのです。
イエスは、まことに悔い改めて、心から純粋に救いの福音を信じる者の、罪を赦し、罪責と裁きと恐れから自由にして下さいます。
神があなたの心に「元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」(マタ二9)と宣言された瞬間に、あなたは神の国に導き入れられるのです。そして、聖霊による義、喜び、平安に心が満たされるようになります。
信仰とは、あなたを愛して、ご自身を与えられたキリストを通して現わされた神の赦しの憐みの中に受け入れられるという信頼であり、十字架の血によって、神と親しい交わりに回復されることへの確信なのです。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章より〜
2024年6月16日
罪の償いのために、神の怒りを宥め、受けなければならない刑罰を免れるために、あなたは何をすることができるでしょうか。ああ、悲しいかな、あなたには何もできません。ただ一つの悪行、言葉、思考でさえ、神に対して何の償いもできません。
たとえ、これからの完全な服従が、過去の罪を幾ばくか償うことができるとしても、そんなことは罪の全体的な解決のためには何の益にもなりません。あなたは、どの点においても償いの遂行としての善い行い、律法の遵守を完全には履行することが不可能だからです。
それでは、どのようにして、あなたの悪に満ちた人生を善いものへと変えることができるのでしょうか。それは、あなたの心が根本的に変化しなければなりません。しかし、あなた自身では、自分自身の心を清い方向へと向け変えることはできません。
それは、死人に生命を与え、墓の中にいる者を再び起き上がらせるような奇跡です。これらのことについて、あなた自身はまったくの無力なのです。
私たちのこの償いと救いにおける無力さの徹底的な自覚こそが、悔い改めの先駆けです。神の国に入るための第一歩は、この悔い改めへの踏み出しです。もう一歩進めば、あなたも御国に入ることができます。今悔い改めて福音を信じましょう。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章より〜
2024年6月9日
福音は良い知らせです。罪ある助けのない者にとっての良き知らせなのです。その福音とは、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」(テモ1一15)ということです。また「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ三16)
この良き知らせ、救いの福音を信じなさい。そうすれば、神の国はあなたのものとなります。キリストへの信仰によって、救いの約束を手に入れるのです。
イエスは、まことに悔い改めて、心から純粋に救いの福音を信じる者の、罪を赦し、罪責と裁きと恐れから自由にして下さいます。
神があなたの心に「元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」(マタ二9)と宣言された瞬間に、あなたは神の国に導き入れられるのです。そして、聖霊による義、喜び、平安に心が満たされるようになります。
信仰とは、あなたを愛して、ご自身を与えられたキリストを通して現わされた神の赦しの憐みの中に受け入れられるという信頼であり、十字架の血によって、神と親しい交わりに回復されることへの確信なのです。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章より〜
2024年6月2日
罪の償いのために、神の怒りを宥め、受けなければならない刑罰を免れるために、あなたは何をすることができるでしょうか。ああ、悲しいかな、あなたには何もできません。ただ一つの悪行、言葉、思考でさえ、神に対して何の償いもできません。
たとえ、これからの完全な服従が、過去の罪を幾ばくか償うことができるとしても、そんなことは罪の全体的な解決のためには何の益にもなりません。あなたは、どの点においても償いの遂行としての善い行い、律法の遵守を完全には履行することが不可能だからです。
それでは、どのようにして、あなたの悪に満ちた人生を善いものへと変えることおができるのでしょうか。それは、あなたの心が根本的に変化しなければなりません。しかし、あなた自身では、自分自身の心を清い方向へと向け変えることはできません。
それは、死人に生命を与え、墓の中にいる者を再び起き上がらせるような奇跡です。これらのことについて、あなた自身はまったくの無力なのです。
私たちのこの償いと救いにおける無力さの徹底的な自覚こそが、悔い改めの先駆けです。神の国に入るための第一歩は、この悔い改めへの踏み出しです。もう一歩進めば、あなたも御国に入ることができます。今悔い改めて福音を信じましょう。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章より〜
2024年5月26日
「霊の思いは生命と平和です。」(ロマ八6)
肉による思いは、肉の事柄を思い、罪深い性質によって支配された心から生じます。それらは腐敗した本性であり、肉の事ばかりを思うのです。目に見える一時的な事柄、地上の事柄、感覚的な楽しみ、人からの賞賛や名誉、裕福さなどを追い求めているのです。このようなものは、パウロによれば「霊的な死」に向かわせるものです。
しかし、御霊による思いは、聖なる導きの下にあるものであり、天の事柄と霊のことを思わせるのです。目に見えないところにある愛、永遠の真理、真の喜びといた天に属する事柄について、御霊は思いを与えます。これらは聖霊が啓示する事柄であり、主がキリスト者の心において働かれる時に、私たちに与えると約束して下さっていたものです。
御霊による思いは、神の下さる聖霊によって支配されており、霊的な生命の確かなしるし、永遠の命へと繋がるものです。そこには神の平和が常に伴い、本性的な腐敗に支配された心からは正反対のものです。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章 より抜粋〜
2024年5月19日
『神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく潔い生活を送りましょう』(エフェソ信徒への手紙 4章24節)
私たちは、新生の本質が、神が私たちの魂の中に働いて起こされる大きな変化、であることを知っています。その変化とは、キリスト・イエスとの霊的な交わりにおいて、私たちの滅びゆくはずの魂がまったく新しく再創造され、神にかたどった全き「神の像」(新しい人)を身に着け、真理に一致した正しい歩みを送るようになることです。(エフェ四24)
神は、聖霊を通して私たちに霊的覚醒を与え、また人はキリストを通して神に向かうように導かれます。神は常に継続して、私たちの魂に霊的な命(息吹)を与えられ、私たちの魂の方でも、神に向かって喜びと感謝の息を吐き出すのです。
神と人の親しい交わりを通して、神の子たちは少しずつ成長し、やがてキリストの満ち溢れる豊かさに至るまで成長していきます。(エフェ四13)
このように、世に対する愛は、神への純粋な愛に置き換えられ、高慢は謙遜へ、激情は柔和さへ、憎みと敵意は誠実・優しさ・隣人愛に変えられていきます。これが私たちが経験しうる「新生の本質」なのです。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章 より〜
2024年5月12日
『聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となるであろう』(使徒言行録一8)
真理が私たちのうちで輝くいのちとなると、周囲の人はその光に関心を持つようになります。聖霊の満たしとは、私たちの頭の中だけのことではなく、心に起こることです。私たちには、罪が赦されたという自覚があるでしょうか。また罪の力から解放されて歩んでいることを確信しているでしょうか。
「全き救い」を自分のものとして実感するとき、それは歌となります。美しい音楽となるのです。その歌はただ機械的に繰り返される単純な作業ではなく、喜びの絶頂からあふれ出て尽きることを知らない泉のようです。
神の民が「全き救い」の賛美を歌う時、キリストを知らない人々はそれに耳を傾けます。彼らもまた空虚な心を満たす音楽を求めているのです。
〜『エマオへの道で・365日の霊想』 より〜
2024年5月5日
『悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです』(ヨハT3章8節)
多くの作家が、美徳の麗しさと悪徳の醜悪さを描いてきました。彼らは美徳に伴う幸福と、悪徳に従うことによって生じる悲惨を描こうとしています。
もし、私たちがそうした悪しき徳を絶滅・克服しようと願うなら、また美徳の実践を求めるならば、最良の備えが必要でしょう。ローマの哲学者たちも「誰でも弱さがある。それは栄光に至りたいとう渇きである。本性は病に侵されているが、本性は治療法を示してはくれない」と言っている通りです。
この悪徳の治療法は捜しても容易には見つかりません。異邦人たちは、理性においても、哲学においても、未来においても、それが決して存在しない場所に求めるから見い出すことができなかったのです。その正しい治療法は、ただ神の中においてのみ捜し求めることができるからです。
福音を通して不滅の命を現わしてくださり、悪魔を滅ぼすためにこそ、神の子が現れて下さるまでは、私たちに正しい治療法である「世の光」は隠されていたのです。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章より〜
2024年4月28日
『主は、信仰の篤い人を試練から救い出される。』(ペテ2 二章9)
もし、突然の激しい試みによって、暗闇がもたらされるなら、その暗闇を消し去る最善の方法は、信仰者にはそうした試練がつきものだということを悟ることです。
私たちは、罪に堕ちている悪の世に住んでおり、悪しき諸霊の中に生きており、常に自分自身も悪を行う可能性を持ち合わせています。
それゆえに、聖化の全ての業は一瞬にて完了するような簡単なものではないことも知っています。その過程に多くの嵐があることを知っています。
試練の嵐が吹き付ける時には、それを悪魔のせいにするのではなく、神の前に魂を注ぎだして、自分の抱えている問題を神へと示しなさい。無知が取り去られるまで祈りましょう。
試みに逢う者に対して、それが神のご配慮・ご計画に由来することであることを聖書は告げています。そして、やがて主の忠実さと流された血の力が、最終的には私たちを全ての悪と罪から救い出します。
神と共に、謙虚に歩むならば「神に従う人の道は、輝き出る光。進むほどに光は増し、真昼の輝きとなろう」(箴言四18)
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章より〜
2024年4月21日
『神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく潔い生活を送りましょう』(エフェ 4章24節)
私たちは、新生の本質が、神が私たちの魂の中に働いて起こされる大きな変化、であることを知っています。 その変化とは、キリスト・イエスとの霊的な交わりにおいて、私たちの滅びゆくはずの魂がまったく新しく再創造され、神にかたどった全き「神の像」(新しい人)を身に着け、真理に一致した正しい歩みを送るようになることです。(エフェ四24)
神は、聖霊を通して私たちに霊的覚醒を与え、また人はキリストを通して神に向かうように導かれます。 神は常に継続して、私たちの魂に霊的な命(息吹)を与えられ、私たちの魂の方でも、神に向かって喜びと感謝の息を吐き出すのです。神と人の親しい交わりを通して、神の子たちは少しずつ成長し、やがてキリストの満ち溢れる豊かさに至るまで成長していきます。(エフェ四13)
このように、世に対する愛は、神への純粋な愛に置き換えられ、高慢は謙遜へ、激情は柔和さへ、憎みと敵意は誠実・優しさ・隣人愛に変えられていきます。これが私たちが経験しうる「新生の本質」なのです。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章 より〜
2024年4月14日
「私たちは、この御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」(エフェ一7)
あなたは「自分のような者でさえ、キリストの十字架の贖いによって、父なる神と和解することができる」ことを確信していますか。そのように信じるならば、神の平和があなたの心に宿り、悲しみに嘆いたり、世のことに悲嘆することもなくなるでしょう。
神の愛は「真昼の太陽」のように輝き出でており明らかです。あなたの心は、この主から注がれる慈愛を切望していますか。その愛の内に憩うならば、私たちには地獄も死も、かつて死と罪の力で私たちを隷属していた悪魔をも恐れることはなくなります。
あなたがこの十字架の贖いという大いなる福音を信じる時に、あなたの心は、救い主キリストをほめたたえ、父なる神との和解を喜ぶことができます。
そして、あなたは、キリストを通して、「父よ」と親しく呼び掛け交わる霊、子としての身分を与える聖霊をも分け与えられます。
この霊によって新たに生かされることで、罪と死を完全に滅ぼし、救いを完成させる栄化の希望を待ち望む者へと変えられていくのです。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章 より〜
2024年4月7日
福音は良い知らせです。罪ある助けのない者にとっての良き知らせなのです。その福音とは、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」(テモ1一15)ということです。また「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ三16)
この良き知らせ、救いの福音を信じなさい。そうすれば、神の国はあなたのものとなります。キリストへの信仰によって、救いの約束を手に入れるのです。
イエスは、まことに悔い改めて、心から純粋に救いの福音を信じる者の、罪を赦し、罪責と裁きと恐れから自由にして下さいます。
神があなたの心に「元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」(マタ二9)と宣言された瞬間に、あなたは神の国に導き入れられるのです。そして、聖霊による義、喜び、平安に心が満たされるようになります。
信仰とは、あなたを愛して、ご自身を与えられたキリストを通して現わされた神の赦しの憐みの中に受け入れられるという信頼であり、十字架の血によって、神と親しい交わりに回復されることへの確信なのです。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章 より抜粋〜
2024年3月31日
『神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく潔い生活を送りましょう』(エフェソ信徒への手紙 4章24節)
私たちは、新生の本質が、神が私たちの魂の中に働いて起こされる大きな変化、であることを知っています。その変化とは、キリスト・イエスとの霊的な交わりにおいて、私たちの滅びゆくはずの魂がまったく新しく再創造され、神にかたどった全き「神の像」(新しい人)を身に着け、真理に一致した正しい歩みを送るようになることです。(エフェ四24)
神は、聖霊を通して私たちに霊的覚醒を与え、また人はキリストを通して神に向かうように導かれます。神は常に継続して、私たちの魂に霊的な命(息吹)を与えられ、私たちの魂の方でも、神に向かって喜びと感謝の息を吐き出すのです。
神と人の親しい交わりを通して、神の子たちは少しずつ成長し、やがてキリストの満ち溢れる豊かさに至るまで成長していきます。(エフェ四13)
このように、世に対する愛は、神への純粋な愛に置き換えられ、高慢は謙遜へ、激情は柔和さへ、憎みと敵意は誠実・優しさ・隣人愛に変えられていきます。これが私たちが経験しうる「新生の本質」なのです。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章 より〜
2024年3月24日
「私たちは、この御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」(エフェ一7)
あなたは「自分のような者でさえ、キリストの十字架の贖いによって、父なる神と和解することができる」ことを確信していますか。そのように信じるならば、神の平和があなたの心に宿り、悲しみに嘆いたり、世のことに悲嘆することもなくなるでしょう。
神の愛は「真昼の太陽」のように輝き出でており明らかです。あなたの心は、この主から注がれる慈愛を切望していますか。その愛の内に憩うならば、私たちには地獄も死も、かつて死と罪の力で私たちを隷属していた悪魔をも恐れることはなくなります。あなたがこの十字架の贖いという大いなる福音を信じる時に、あなたの心は、救い主キリストをほめたたえ、父なる神との和解を喜ぶことができます。
そして、あなたは、キリストを通して、「父よ」と親しく呼び掛け交わる霊、子としての身分を与える聖霊をも分け与えられます。この霊によって新たに生かされることで、罪と死を完全に滅ぼし、救いを完成させる栄化の希望を待ち望む者へと変えられていくのです。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章 より〜
2024年3月17日
主は「内的な宗教」(心の宗教)の本質について、マタイ5章において様々な角度から語られました。真のキリスト教を形作るたましいの性質、すなわち、ホーリネスに含まれる内的な性質がどのようなものであるかを示して下さったのです。
「聖くなければ、誰も主を見ることができません」(ヘブ一二14)と御言葉にもありますが、ホーリネスの内的な実質は「愛」です。神から出て聖霊によって与えられ、キリストを信じる信仰からその愛が流れ出ている時、そのような「全き愛」だけが、神に受け入れられる聖にして善なるものとなるのです。
主は6章において、宗教的な実践の一つ一つにまで論旨を進められ、行いの動機が純粋で聖いものであれば、すべての宗教的行為は聖にして善となり、神に受け入れられるものとなると仰られます。 問われているものは「動機の純粋性」であり、正しい動機によって行われる宗教的実践のみが、聖く善いものと言われるのです。私たちの行うべき宗教的実践は、敬虔のわざ(works of piety)と慈愛のわざ(works of mercy)に大別できます。前者においては「祈りと断食」が、後者において「施し」が語られています。
〜『ウェスレー説教53中巻』主の山上の垂訓Y より抜粋
2024年3月10日
それでは、私たちは「信仰」によって「律法」を無にするのか(ロマ三31)
愛がなれけば、すべては無に等しい。(コリント1十三2)
私たちは、キリストを信じる信仰を、私たち自身が魂の内に宿すべき聖性(きよさ)に代わるものとしてではなく、そのような内なる聖性を生み出すものとして語るのです。このことによって、信仰によって律法が確立されます。
というのも、信仰が私たちを導いていく先は、私たちをもって「神の愛への奉仕者」とすることだからです。たとえ、信仰それ自体が非常に麗しい立派なものだったとしても、信仰の目的である「聖性の実現」を上回るものではありません。神はこの素晴らしい栄誉と輝きを「愛」にだけ与えたのです。神の戒め(律法)は全て「愛を目指すもの」であるのです。
「愛」に基づく聖性の実現は、魂の救いにおける最大の目標です。天と地とが滅びても「愛」だけは決して滅びないのです。信仰は救いの入り口であり、目標地へ向かうための手段となるものですが、愛と聖性の回復こそが救いの目指している唯一の目的であり完成形なのです。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章 より抜粋〜
2024年3月3日
福音は良い知らせです。罪ある助けのない者にとっての良き知らせなのです。その福音とは、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」(テモ1一15)ということです。また「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ三16)
この良き知らせ、救いの福音を信じなさい。そうすれば、神の国はあなたのものとなります。キリストへの信仰によって、救いの約束を手に入れるのです。
イエスは、まことに悔い改めて、心から純粋に救いの福音を信じる者の、罪を赦し、罪責と裁きと恐れから自由にして下さいます。神があなたの心に「元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」(マタ二9)と宣言された瞬間に、あなたは神の国に導き入れられるのです。そして、聖霊による義、喜び、平安に心が満たされるようになります。
信仰とは、あなたを愛して、ご自身を与えられたキリストを通して現わされた神の赦しの憐みの中に受け入れられるという信頼であり、十字架の血によって、神と親しい交わりに回復されることへの確信なのです。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章 より抜粋〜
2024年2月25日
『主は、信仰の篤い人を試練から救い出される。』(ペテ2 二章9)
新生と洗礼は、お互いが同時に伴って生じるとは限りません。ある人が「水からは生まれて」いても、「霊によって生まれて」はいない場合もあります。逆に、内的な恵みがまだ生じていなくとも、外的な恵みのしるしが先行することもありえます。
新生は聖化とも異なります。新生は聖化の一部(起点)ではありますが、その全体ではありません。それは門であり入り口なのです。私たちが、霊によって生まれる時、すなわち「新生」を経験する時に、私たちの内的・外的なあらゆる聖化の救いが開始されます。
そして、私たちは次第に、嬰児が瞬時に生まれた後、時間を掛けて少しずつ成長して大きくなっていくように、頭であられるキリストに向かって霊的に成長していく(エフェソ四15)ことになります。
このように、自然における赤子の誕生とその後の生育と同じような関係が、救済論における「新生」と「聖化」の間にも存在するのです。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章より〜
2024年2月18日
『主は、信仰の篤い人を試練から救い出される。』(ペテ2 二章9)
もし、突然の激しい試みによって、暗闇がもたらされるなら、その暗闇を消し去る最善の方法は、信仰者にはそうした試練がつきものだということを悟ることです。私たちは、罪に堕ちている悪の世に住んでおり、悪しき諸霊の中に生きており、常に自分自身も悪を行う可能性を持ち合わせています。
それゆえに、聖化の全ての業は一瞬にて完了するような簡単なものではないことも知っています。その過程に多くの嵐があることを知っています。試練の嵐が吹き付ける時には、それを悪魔のせいにするのではなく、神の前に魂を注ぎだして、自分の抱えている問題を神へと示しなさい。無知が取り去られるまで祈りましょう。
試みに逢う者に対して、それが神のご配慮・ご計画に由来することであることを聖書は告げています。そして、やがて主の忠実さと流された血の力が、最終的には私たちを全ての悪と罪から救い出します。神と共に、謙虚に歩むならば「神に従う人の道は、輝き出る光。進むほどに光は増し、真昼の輝きとなろう」(箴言四18)
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章より〜
2024年2月11日
『他の誰によっても救いは得られません。』(使徒言行録4章12)
罪の償いのために、神の怒りを宥め、受けなければならない刑罰を免れるために、あなたは何をすることができるでしょうか。ああ、悲しいかな、あなたには何もできません。ただ一つの悪行、言葉、思考でさえ、神に対して何の償いもできません。たとえ、これからの完全な服従が、過去の罪を幾ばくか償うことができるとしても、そんなことは罪の全体的な解決のためには何の益にもなりません。あなたは、どの点においても償いの遂行としての善い行い、律法の遵守を完全には履行することが不可能だからです。
それでは、どのようにして、あなたの悪に満ちた人生を善いものへと変える事ができるのでしょうか。それは、あなたの心が根本的に変化しなければなりません。しかし、あなた自身では、自分自身の心を清い方向へと向け変えることはできません。それは、死人に生命を与え、墓の中にいる者を再び起き上がらせるような奇跡です。これらのことについて、あなた自身はまったくの無力なのです。
私たちのこの償いと救いにおける無力さの徹底的な自覚こそが、悔い改めの先駆けです。神の国に入るための第一歩は、この悔い改めへの踏み出しです。もう一歩進めば、あなたも御国に入ることができます。今悔い改めて福音を信じましょう。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章より〜
2024年2月4日
『私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。』(第一コリ一23)
アテネの聴衆は「奇妙なことを私たちに聴かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ」(使徒十七18)と叫びます。しかし、説教者パウロは「十字架のイエスとその復活」を語っているだけなのです。つまり、もしキリストが復活されたならば、あなたがたは世に死んで、新しく神に向かって生きるようにされる、ということを語っているにすぎないのです。
しかし、これは世俗的に生きて、神と霊に対して死んでいる「生まれながらの人間」にとっては理解困難な言葉です。彼らは福音の言葉の真理を受け取ることができません。彼らにとっては、宣教の言葉、十字架と復活、は愚かな言葉に思え、そう認識されやすいのです。神の言葉、福音の真理は、本来霊的な次元でしか認識することができないので、聖霊が働いていない人にはその真理を明白に悟ることはできないのです。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章 より抜粋〜
2024年1月28日
『野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。』(マタイ六28)
「神は装ってくださる」とは何を意味するのでしょうか。装うとは、体の外側を綺麗なドレスで覆うことです。草花の外側の膜は、まるで人間の皮膚のように、繊細な構造の上に美を加えつつ、悪天候による被害から身を守るように作られています。
それゆえに、これらの教えの本質は以下のようなものです。相手に害を与えず、主にいつも感謝する、自己自身をも傷つけない、心配があっても、主が私たちから心配を取り去って下さるのですから、自分を過剰に傷つけたり、過度に心配しすぎする必要はありません。
私たちは、明日の心配や苦しみを今日の状態によって悪化させないようにしましょう。むしろ、これらの必要を知っておられる天の父に向って正しく祈り応答しましょう。主は私たちに対して肉以上に素晴らしい霊的な命を与え、地上の衣服以上に素晴らしい霊のからだを備えて下さっているからです。これらのことを、私たちは信仰のレッスンとして、野の花と鳥たちから学ぶことができます。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章 より抜粋〜
2024年1月21日
『しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。』(エフェソ信徒への手紙六13より)「義の胸当て」を持つことは、しみの無い清さを持つことです。キリストはご自身の血の功績によって、私たちを神の前に傷なき者として下さいます。それが起こるのは、良心がある場所、心の内奥であり、それは主の義によって守られます。背中の武具については何も述べられていません。私たちは常に敵に向かって前進しているのです。
さらに、あなたの足は、福音の準備によってしっかりと靴ひもが結ばれていなければなりません。全ての歩みにおいて、福音があなたを導き、確信を与えるようにしなさい。私たちの足は滑らないように、堅く固定されていなければなりません。
私たちの生活と言動を正しく秩序づけるためには、福音の恵みと神の愛と平和に、私たちの心が支配されていることが必要です。このことによってのみ、荒野のような道においても安心して歩くことができ、困難をも乗り越え、無事に目的地に到達することが可能なのです。
〜『心を新たに』ウェスレーによる一日一章 より抜粋〜
2024年1月14日
「主の公現」の祭日(Epiphany)とは、神の栄光がキリストをとおして、すべての人に現れたことを祝う日です。キリストの降誕によって、神が私たち人類と共におられることが明らかにされます。神の栄光がキリストにおいて現れ、すべての人におよぶ救いの光が輝きはじめていることを賛美する公現日は、4世紀以来ずっと教会で大切にされてきた日です。本来「公現祭」は1月6日の固定祭日でしたが、日本などのこの日が守るべき祭日と定められていない国では、1月2日から8日の間の日曜にお祝いする「移動祝日」となっています。
公現日は、東方教会において、主の降誕、占星学者の来訪、主の洗礼、カナにおける最初の奇跡など、一連のキリストの「顕現」を祝う日としてはじまりました。西方教会では、12月25日の降誕祭が確定していたので、公現日は「公生涯の活動開始、メシアとしての顕現」を祝うものとして取り入れられています。
中でも「主の洗礼」の出来事は、イエス様が神の御子であることを顕現した出来事であると同時に、神の国(新約の福音)を宣べ伝える公生涯を開始された始まりです。「主の洗礼」は「福音宣教の起点」であるとも言えるのです。
2024年1月7日
「主の公現」の祭日(Epiphany)とは、神の栄光がキリストをとおして、すべての人に現れたことを祝う日です。キリストの降誕によって、神が私たち人類と共におられることが明らかにされます。神の栄光がキリストにおいて現れ、すべての人におよぶ救いの光が輝きはじめていることを賛美する公現日は、4世紀以来ずっと教会で大切にされてきた日です。本来「公現祭」は1月6日の固定祭日でしたが、日本などのこの日が守るべき祭日と定められていない国では、1月2日から8日の間の日曜にお祝いする「移動祝日」となっています。
公現日は、東方教会において、主の降誕、占星学者の来訪、主の洗礼、カナにおける最初の奇跡など、一連のキリストの「顕現」を祝う日としてはじまりました。西方教会では、12月25日の降誕祭が確定していたので、公現日は「公生涯の活動開始、メシアとしての顕現」を祝うものとして取り入れられています。
中でも「主の洗礼」の出来事は、イエス様が神の御子であることを顕現した出来事であると同時に、神の国(新約の福音)を宣べ伝える公生涯を開始された始まりです。「主の洗礼」は「福音宣教の起点」であるとも言えるのです。
【2023年のひとこと】