ヤルタの終焉とソヴィエト同盟

世界恐慌と戦後世界秩序の崩壊

帝国主義とスターリニスト官僚の相互依存と相互対立の内部に、階級闘争を吸収・解体することをもって再編・維持され続けてきた戦後支配秩序――ヤルタ体制は抗しがたい矛盾しあった諸力によって引き裂かれ、解体へ向かう最終局面に突入した。何人も、如何なる勢力も、それを押し止めることはできない。

その崩壊の帰結は、完全に今後の諸勢力間の闘争によっており、未だなお見通すことは困難である。この闘争に参加する、現実の、生きた諸勢力、諸傾向、諸党派の生存をかけた闘争が、新しい世界秩序の土台を形成する。その再編成の方法と内容を決定するのは、我々を含めた世界政治の当事者間の死活の闘争である。われわれはプロレタリアートの政治的独立を決定する第四インタナショナル再建の闘争に、革命的プロレタリアートの前衛を結集せしめることをもって、今後の闘争に登場するであろう。

1975年、ヘルシンキの合意において最絶頂期を迎えたヤルタ体制は、《新しい冷戦》という踊り場を経て、今、その終焉を迎えつつある。我々は最初に《新冷戦》の時期とは何であったかについて把握し、その後に初めて現在の局面の基本的な特徴についての解明に進むことができるだろう。

75年から現在に至る時期全体を基礎付けているのは、構造変動をもたらしつつ展開された世界恐慌である。

たしかに、史上空前の企業利潤に酔いしれる独占体にとっては、また、そのおこぼれにあずかる経済評論家、ジャーナリストどもにとっては、世界恐慌などは存在していないだろう。しかし、世界経済の中軸国アメリカ合衆国と後進諸国に積み上げられた巨大な債務、また全世界に拡がった構造的失業、これと関連しつつ深まる一方の後進諸国のインフレーションを見るならば、74年恐慌をもたらした世界資本主義の危機は、ただ日延べされているにすぎず、新たな世界循環の開始の諸条件は生み出されてはいないことが明らかである。

ヤルタの崩壊とからみあいつつ、またそれを根本的に規定する先進工業諸国の恐慌は、近い将来において不可避となろう。それは世界経済の途方もない構造変動を結果するであろう。

74恐慌は、戦後世界支配秩序と各国の階級均衡を危うく維持してきた資本の高蓄積を破壊し、ゼロ・サム社会の到来と福祉社会的国家の根本的危機をもたらした。その意味では、ヘルシンキの合意はそもそも最初から、物質的基礎的諸条件を欠いていたともいえよう。

反ソ・ヒステリーが亢進し、強欲な反動的イデオロギーである新保守主義が、ブルジョア政治の基調的な、支配的なものとなる。

全面的な社会的危機が、全世界的規模におけるソヴィエト同盟との対決、その脅威との対決に置き換えられる。モスクワとの闘争に勝利するために、福祉国家の節制のない浪費的財政を清算し、軍備増強と減税を行え、という大量プロパガンダが展開され、プチ・ブルジョアジーを熱狂させ、プロレタリアートの公認の指導部にも浸透していく。

基本的には労働組合主義に封じ込まれたプロレタリアートは、恐慌が生み出した危機を好機としてとらえることができないまま、このプロパガンダに反撃しえず、一歩また一歩と後退を強制される。ポーランドとイギリスにおける敗北が、深刻な後退をもたらし、1953年以降の前進的局面の時期に終止符を打ち、闘争は停滞の状況に落ち込まざるを得なくなる。

なんら問題を解決することのないまま、ブルジョアどもは勝利感を抱きはじめる。レーガン政権の無節度、無責任の放漫財政が全工業諸国に泡沫景気を波及させはじめるや、彼らの根拠のない勝利感の増大が加速される。

そしてレーガンのレイキャヴィクにおける《転換》が、何の前ぶれもなく突然やってくる。《悪の帝国》は交渉相手に、共存と反映のためのパートナーに転換させられる。レーガンの不可解なパフォーマンスは、ドイツ帝国主義支配層に重大な衝撃を与え、NATOの結束に修復不可能のひび割れをつくり出す。

ソヴィエト同盟のSS20に対抗して、パーシングⅡと巡航ミサイルを配備しつつ、同時に軍縮交渉を真剣に進めるべきだとするNATOの二重決定が無視されたと考えるドイツ帝国主義者についても、我々は不可解であるが、ともあれドイツを中心とするヨーロッパ諸国の不信の高まりは、大西洋同盟解体の第一歩を記すこととなった。

同盟に対する忠誠さそのものを検討しなおすこと、それはドイツの外交政策の根本的転換である。大西洋同盟に忠実であることは、政治的実現としては、ドイツの分割を動かしがたいものとして受け入れることである。同盟が信頼しがたいものであるならば、ヨーロッパの現秩序の内部におけるドイツの占める地位について検討し直さなければならず、ドイツ分割を前提として非核中級通商国家としてのドイツは宿命でないことを意味する。ドイツにとって戦後秩序はその役割を終えたのであり、敗戦国家としてのドイツは存在しなくなったのである。

ソヴィエト同盟の危機――当面する情勢の特徴

ドイツ帝国主義が新しいヨーロッパの秩序を模索し始めるとき、その顔は必然的に東側に向けられる。ソヴィエト同盟とその支配下にある東欧諸国との新しい関係の構築こそ、第一の目標とならざるを得ない。

だが、その東の世界には混沌が支配しはじめている。経済的停滞を克服し、官僚の腐敗として現れている無秩序を打破し、社会に新しい活力を注ぎ込むために始まったソヴィエト同盟のペレストロイカは、存在していた危機を明るみに出したばかりでなく、危機をさらに深刻化させた。

政治的に・独立した・階級としてのプロレタリアートの不在ゆえに、危機はとりあえず民族紛争という形をとって爆発した。

それは関連して東欧諸国にも拡大した。モスクワはブレジネフ・ドクトリンの放棄という形をとって、東欧支配を永続化しないこと表明することによって、新しいヨーロッパ秩序への参加のサインを示した。だが、それは一部の諸国における官僚のスターリニストからの離反を伴いつつ、ソヴィエト同盟の政治的威信の急速な低下を結果した。

ヤルタはドイツ問題のさらなる深刻化と相互に関連しつつ、ソヴィエト同盟のペレストロイカと東欧諸国の根底的動揺とともに崩壊し始めた。ヤルタは、その一方の極としてのソヴィエト同盟の危機の深化によって、加速的に解体されつつある。現在の瞬間、ヤルタの危機はソヴィエト同盟と東欧のそれに促進されている。

東の世界に拡大する混沌とした無秩序は、ヨーロッパ全体を巻き込み、のみ込みかねないまでに立ち至っている。プロレタリアートの革命的闘争によってではなく、戦後世界支配秩序の解体が進んでいることは、事態のコントロールを未曾有の困難に陥れている。ソヴィエト同盟と東欧の容易ならざる状況は、それを集中的に示している。

情勢の客観的側面、主体的側面のいずれにおいても、ペレストロイカのソヴィエト同盟の情勢把握こそが、現在の困難を突破していく鍵ともいうべき問題として登場してきている。

現在、ソヴィエト同盟では民族紛争とともに、消費財危機が先鋭化してきている。

歯ブラシ、石鹸、洗剤から食肉にいたるまで、生活用品の欠乏は、ペレストロイカの下で一層の激しさを増している。機構の供給増の約束と、叱咤激励にもかかわらず、一向に改善されないのは、根深い疾患が制度全体をむしばんでいるためである。戦争、内乱、深刻な経済不況、等々によって生産設備が破壊され、基礎的生産財のために諸資源が集中的に動員され、その結果として消費財の欠乏が生じているわけではない。

鈍重な官僚機構は、既得権の集合体を打ち壊し、慢性的で日一日と深刻化する消費財危機を克服することに失敗した。今や、誰かが、当面の生活の必要に応じるためだけでも、消費財の供給のために行動しなければならない。存在しない生活用品を発見して供給することはできない。しかし、それは何処かに存在する。もし実際に存在しなければ、やはり誰かが原材料と設備を見つけ出して生産し、供給しなければならない。その行動が《単一の計画》と正面衝突しようとも、社会がまがりなりにも生き続けるために、そのような行動が必要である。

問題はその誰かが誰であるのか、ここにある。計画当局が不能であるならば、同盟構成共和国、自治共和国の当局者か。その所属の企業か。地方、州の当局者、その力の及ぶ企業か。消費協同組合でもあろうし、闇商人の集団であるかもしれない。

あるいは闘争中のストライキ委員会が、当然のことに自己の任務として消費財のための行動を引き受けるであろう。誰であれ、その行動は計画当局にさからって、その《意識的計画性》に衝突しつつ貫徹せざるを得ないだろう。つまり、消費財のための行動は自然発生的にしかなされない。《単一の計画》がこのような自然発生性の爆発的発展の脅威にさらされ、のみ込まれかけていること、ここに現在の問題がある。これに如何に対処するかをめぐって、政治権力の危機と闘争が集中し始めている。すべての混沌の根拠はここにあり、関連付けあっている。

展望はただ革命的プロレタリアートの登場と政治革命によってのみ切り拓かれるであろう。闇商人、それと結託し腐敗した官僚、言い換えるならばマーケット・メカニズムと闘争することによって、プロレタリアートは欠乏と闘い、それを克服しうる。それは革命的前衛の指導下においてのみ、はじめて可能となる。

だが革命的前衛は、スターリニスト党にとって代わる新しい共産党を組織するための党派闘争を通してのみ、政治的現実的主体へと高めることが可能となる。党のための、第四インタナショナルのための闘争は、現在なお、ヨーロッパにおける闘争に決定的に依存している。ソヴィエト同盟におけるプロレタリアートの闘争は、曲折にみちた長期的なものとならざるを得ないだろう。したがって、ソヴィエト同盟の危機は長期化せざるを得ず、新しい共産党の登場のみが危機克服の鍵をなすという意味において、ヨーロッパ情勢に深く関連して進行するであろう。

87年秋より現在までの二年間に危機的状況はさらに深まり、明確なものとなってきた。政治局内に閉じ込められてきたペレストロイカのテンポと優先順位をめぐる闘争は、全党的に拡大し、非公開の、地下闘争的なものから、次第に公開された、公然たる闘争へ姿を変えてきた。さらにまた、それぞれの諸傾向、諸分派が自己の大衆的基盤を探し求め始め、急速に成長し始めた大衆運動も、党内諸傾向、諸分派と結合し始め大衆運動がはじまった。

転換点をつくり出すものとして意気込まれた88年の党協議会は、中途半端な妥協の産物、実質的内容の乏しい提起にとどまった。それすらも、民族紛争の激発と深まりゆく消費財危機によって、すべて政治的意味を失った。88年党協議会は問題解決を引き延ばし、89年開催の全ソ大会代議員選挙のための闘争の出発点となった。

全国すべての土地において、という訳ではないが、かなりの数の主要都市で選挙のための集会が開催され、公開的な論争がたたかわされた。重要なポストにある何人かの官僚が落選し面目を失い、首都モスクワにおいて政治局から追放されたばかりのエリツィンが大量得票して当選した。これはスターリニストが重大な政治危機にあることを公然のものとした。

ソヴィエト大会は警察のテロルによって排除し得ない反対派が登場する久方ぶりの大会となった。満場一致の見せかけは失われ、反対討論がなされたばかりか、左翼急進派を自称するグループの存在を大会は容認せざるを得なかった。

もちろん、ここに登場した急進派は、その階級的性格においてプチブルジョアでしかない。官僚ゴルバチョフに見抜かれたように、彼ら急進派は他と区別しうる綱領を示しえず、なんらかの同質性を持ち合わせていない諸傾向、諸潮流のサークル的集合でしかなかった。彼らを結びつけたものは、官僚中央を中間点として、その向こう側にさらに保守的で反動的な潮流が存在し、彼らに敵対しているという政治地図であった。

政治情勢は変転し、焦点も性格も時に鋭く移り変わる。彼ら急進派はその最初の試練に耐えることはできない。急進派の分解から真の左翼に向かうだろう部分が存在し、左への転換がなされることについて、われわれは悲観的であるべきにちがいない。

ソヴィエト同盟におけるプロレタリアートの闘争

89年7月、シベリアで始まった炭鉱労働者のストライキは、またたく間に全国的な闘争となって拡大した。全国的なセンターを欠いたままだったとしても、それは産業的な闘争として、その要求の内容、組織の方法において共通していた。それは孤立した工場・鉱山等の絶望的な闘争ではなく、全国レベルでの政治状況をよく把握した組織的なものであった。ソヴィエト同盟におけるプロレタリアートの闘争の歴史において、一つの転換点をなす炭鉱ストライキは、ほぼ次のような前段階における諸闘争が準備したものであった。

まず1986年夏のチェルノブイリ原発事故が、全体的な社会状況を流動化させ始める。あきらめと無関心にかわって、強い政治的関心が大衆のなかに拡がりはじめる。87年クリヴォイログ市におけるゼネラル・ストライキ、明けて88年1月ヤロスロヴリ市の自動車エンジン工場を中心とする全市的なストライキ闘争、4月にはサラトフ市の自動車運転手のストライキ闘争が知れわたる。これらの諸闘争に触発され、各地、各職場に労働者の自発的なサークルが形成されはじめる。《労働者の信頼》《労働者のイニシアティブ》《社会活動家クラブ》《新コミュニスト》《労働者》《労働者共産主義者同盟》等々が名乗りを上げる。これら労働者のサークルは、70年代の知識人異論派のサークルとは別個に、主として都市のストライキと大衆運動を経るなかで誕生してくる。

他方、1979年ころから活動しはじめ、82年に逮捕壊滅した左翼的サミズダート(地下出版物)が復活し、新しい活動を開始。ヴァリアントイ(別の道)、ボーイスキ(探求)、レーヴィ・ポヴォロート(左翼的転換)など、当時の異論派知識人のなかでの少数グループが、保釈出獄の後にこれらの諸傾向を復活、再結集し、86年末、社会的イニシアティブ・クラブ(KSI)に52のグループをまとめあげる。87年夏、KSIは社会主義的社会クラブ(FSOK)と名称を変更し、《レーヴィ・ポヴォロート》を機関紙として発行、活動を強化する。88年5月1日のFSOK大会(モスクワ)に、一部の労働者サークルが参加し、左翼的諸傾向と労働者サークルの結合とまではいかないとしても、その接近が始まる。これらの諸傾向は、それを生み出した社会状況をさらに変化させ、雰囲気を急速につくりかえていった。

また、ペレストロイカをかかげた大衆運動が発生した諸都市、クイヴィシェフ、オムスク、クラスノヤルスク、ユジノサハリスク、アストラハン、スヴェルドロフスク、カザン、レニングラード、モスクワなどに《人民戦線》が結成され、急進改革派の拠点と化しはじめる。FSOKや労働者の諸サークルは《人民戦線》との一様な関係は持たず、あるサークルは参加するが、また別のサークルは参加しない状況である。サークル連合としての《人民戦線》と、やはりサークル連合としてのFSOKがサークル的に結合し、労働者の諸サークルもまたサークル的に結合している。

これらを概括するならば、86年夏以降、一種の政治的発酵状態が形成され、さまざまなサークルが誕生し活動し始めたが、なお明確な方向性を見出していないのが現在といいうる。比ゆ的に言うならば「前イスクラ期」であり、現代のイスクラ派が早急に登場しないならば、サークル主義が強固なものとなってしまう危険をはらんでいる。

シベリアの炭鉱労働者の闘争は、このような政治状況に完全に規定されている。ソヴィエト大会代議員内の急進改革派、各都市の人民戦線、労働者の諸サークル、FSOK等々の重層的で境界線の不分明さが、完全に炭鉱ストライキに反映している。闘争の自然発生性と徹底的に闘うべく、新しい『なにをなすべきか』が要求されている。

89年9月の全同盟共産党中央委員会総会において、ゴルバチョフ派は再び権力を掌握しなおした。チェブリコフ、シチェルビスキーを指導部内から追放するとともに、保守派の影響力を削減するために縮小していた中央書記局を事実上再建、再組織した上で、党大会の繰り上げ開催を決定し、さらに中央・地方の人事の全面的な刷新を宣言したことは、ゴルバチョフ派の全党に対する挑戦である。正確に言えば、党機構のすべてのレベルの書記どもに対する宣戦布告に等しい。党書記どもは来年の党大会までに、何らかの態度を決めなければならない。また決めた以上は、そのために全力を尽くして闘争しなければならない。中央委員会九月総会は議題とされた民族問題については、同盟の枠内において党のヘゲモニーの下に対処することという従来までと同様の方針を確認したのにとどまりながら、90年10月開催の党大会へ向けての党内闘争の出発点となった。

来るべき党大会は、見かけはどうあれ、事実上、複数の綱領が相争うものとなろう。分派闘争がどのような形をとるか、未だなお予測はできない。しかし、社会の全体的な危機が党内闘争に集中的に表現される以上、きわめて激烈で、深刻なものとならざるを得ないだろう。政治局多数派(書記局分派)に対するいくつもの色彩に分岐した保守派の闘争が、党機構のあらゆるレベルと部署において展開され、改革急進派もそれに加わるだろう。いずれの分派も大衆を動員し、生き残りのための闘争に入り込まざるを得ないだろう。

この闘争の出発点でもあれば土台でもある現在の全体的な勢力配置図は複雑に入り組んでおり、境界線、対決正面はなお判然としてはいない。

《パーミャチ》(記憶)、《若き親衛隊》などを拠点とする右翼大ロシア民族主義者は、同時に農村派である。彼らにとって、ロシアの農村を破壊し、今なお破壊し続けている強制的集団化は呪詛の的である。パーミャチは反ユダヤ主義者として、最も反動的な官僚機構の手先でもある。

機構の多数派は、従来の特権を奪われることを恐れる保守派であり、パーミャチとは異なっている。計画経済と社会主義は破産したと主張する経済専門家と知識人は、アパラチキの隣に座席を占め、保守的な機構を攻撃している。このように右翼と保守派は、異質な部分に分裂している。

左翼はさらに漠然としている。《人民戦線》の最多数は社会主義者を自称するが、その内容は社会主義と社会的公平の尊重、という程度の漠然とした人民主義者であり、エコロジストと重なり合っている。社会民主主義者、アナキストもいる。マルクス主義者を自称するのはきわめて少数であり、その内容もまた「計画経済プラス労働者民主主義」であるらしい。ソヴィエト大会代議員グループとなるとさらに曖昧である。そこにはサハロフの如きブルジョア自由主義者まで含んでいる。

この中間に、ゴルバチョフ派と改革派官僚が位置づいている。改革派官僚は左右両翼にそれぞれ結びつき、絶えず動揺している。

そして、この外側に未だはっきりとは自己表現し得ないプロレタリアートが存在し、周辺部に農民大衆が沈黙し続けている。

党内分派闘争はこのような配置図を基礎に、それを再編、再整理しつつ展開される。経済的破綻と民族暴動の嵐のなかで、十月の遺産をさらに喰いつぶしつつ、闘わされるであろう。十月革命がなおどれだけの力を維持しているか、それが検証されるであろう。

ソヴィエト同盟の危機が誰の目にも覆いがたく、官僚支配層内の隠れた闘争が明るみに引きずり出され、官僚内部の闘争と分裂が進むなかで、戦後第四諸残派は官僚の対立抗争の溝に沿ってさらに分解を遂げつつある。労働者国家の無条件擁護を唱えつつ、官僚保守派と同一の立場に移行したスパルタシスト、ゴルバチョフの下に政治革命が開始されたとする旧IC派ヒーリーグループ、官僚的専制と勇敢に闘っているすべての人々を勇気付けようという超階級的立場に舞い上がったエルネスト・マンデル、政治革命が始まったから人民戦線を支持せよ、というまたしても人頼みの日本支部、等々。

他の急進諸派を含めて、およそ次のような態度と方法は無縁である。

ヤルタの崩壊が開始された現在、それと深い内的関連をもちつつ、ソヴィエト同盟の危機が進行しているが、それは如何なる党派闘争を通して階級関係が表現されていくのか。その見きわめなしに、ソヴィエト同盟における政治革命の展望は明らかになしえない。

プロレタリアートの政治革命は、プロレタリアートの政治革命なのであって、人民大衆が決起して専制政府を打倒することと全く同じではない。プロレタリアートがその前衛を通して人民大衆に対してヘゲモニーを確立し、そのヘゲモニーの下にスターリニスト官僚を打倒する。これがソヴィエト同盟におけるプロレタリアートの政治革命である。時に人民大衆の間に分裂を持ち込み、境界線を流血をもってしても明示すること、これが革命家の仕事であることもあるのだ。

(1989年12月 第六回中央委員会)