東北大地震津波災害と福島原発事故に、日本社会はどのように対応すべきか

2011年7月 岩内 悠造

<序>

 各地の放射線量について地方自治体が独自に測定を始めた。理由は住民に安心してもらう為であるという。

 テレビなどの解説者は、国がやるべきだという。だがこれまでの国の発表は信頼を失ってしまっている。自治体の発表にしても、最初は地上10m以上で測定されており、市民や環境団体などが地表近くで測定したら全く違う結果が出た。だから自治体に対しても不信感が拡大し、それに対して自治体が測定を始めたわけである。だがそうなれば、自治体の測定も信用ならない、ということになる。そこで自ら測定する市民が増えている。

 ところがこの測定は、測定方法によって結果に相当のバラツキが出るから、個人での測定は好ましくないとも言う。そのうえ測定器に粗悪品もあるという。国や自治体の測定が信用できないから始まった個人測定だが、機器も結果も信用できない、という所に行き着いた。

 一方事故原発はどうなっているのか。冷やし続けなければいけない。ところがこのままでは汚染水が増え続けて環境にあふれ出る。したがって汚染水を増やさない為に循環装置を作ったが、これがなかなかうまく行かない。そのうえ、東電が最初認めなかったメルトダウンを、一ヶ月を過ぎて認めた。このことで、日本原子力学界の当初の安全基準は完全に吹き飛んだ。つまり原発は、その安全性を確保する為には、建設時からメルトダウンを想定する必要が生じた。

 ところがメルトダウンどころか、圧力容器の底が抜け、格納容器の底に融けた燃料が溜まる、メルトスルーが起きていることを認めた。安全基準のハードルはさらに上がった。そして一部専門家の間では、メルトスルーどころか、建屋の基礎であるコンクリートを貫通して地層にまで融けた核燃料が達しているという(チャイナシンドローム)見解が示されている。そうすれば、当然放射能が地下水に溶け出し、地下水を通して汚染が広がるということになる。とすれば、安全な原発建設は、地下水脈を遮断し、岩盤まで達する隔壁を築いて、その中に建設しなければならないという途方もない安全基準が必要となる。そしてその基準を達成した原発は一機もない。にもかかわらず政府は、安全が確認されたら運転を再開するという立場をとっている。

 測定の曖昧さ。安全基準のいい加減さ。そのうえ浜岡原発運転停止を要請した菅総理の、他の原発の運転停止は求めないという、原発の安全に対する無知と無責任さ。もはや菅は総理大臣としての資格は無い。だが、本人が辞めるといわなければ辞めさせられない現実。何時辞めるか、どうなったら辞めるか、など、菅おろしは、本文中にも書いているが、完全にシュミレーションゲームになってしまっている。そして野党は、あるいは与党内部でも、菅がやめなければ前に進めないと言っている。ゲームにはまり込んだ政治家達は、ゲームが終わらなければ動けない、というわけである。それは実は、自分が何もしないことの言い訳にすぎない。

ゲームだから、誰かが「下りた」といえば済むことだが、頭に血が上った連中にはそれがわからない。特に自民党は、国会延長にすら反対しようとして、完全に攻守が入れ替わり、自らが「守」に代わっていることすら理解できていない。

 菅は、自ら辞めるといわない限り、常識的には民主党代表選まで居座れる。もし民主党代表選で敗れても、国会が延長され続ける限り、理論的には総理の座に居座れる。かつて少数派出身総理大臣は、三木武夫にしても村山富市にしても、いくつかの勢力のバランスシートに乗っていたが、与党も野党も世論も支持しない、全く孤立して総理の座に座り続けるという、そしてそれを誰も抑止できないという、菅 直人の福島原発状態が作り出されようとしている。

Ⅰ 前提

 何事にも前提がある。もし・・・だったら、と言うことは前提にはならない。したがって前提とは、具体的な現状である。この未曾有の危機に対して日本社会がどう対応できるかを考える時、重要な前提がいくつかある。予め注釈しておけば、その前提条件全てが国際関係と絡み合っており、日本はこうだというだけでは済まされない。しかし、ここで扱いたいテーマは大震災以後の日本社会と政治の現状、取るべき政策であり、国際関係はその背後にあるものとして扱う。そのことを前提として、つまり前提の前提として論を進める。

前提 1

 災害復興の主体であるべき日本国家は巨大な負債を抱えている。国家は数百億円の予備費を持っているが、災害復旧に必要な費用はその百倍以上に達すると見込まれている。

 派生的な問題として、原発事故対応がある。事故の責任は東京電力にあり、本来その被害に対する賠償は東京電力が負うべきものである。だが東京電力の資産、会社そのものを売却しても、賠償はおろか、事故終息の為の資金すら不足することは明らかである。したがって、原発推進政策を取ってきた、かつ監督してきた日本政府もまた、事故終息と賠償に対する負担を負わざるを得ない。

 さらに近年日本経済は不況の真っ只中にある。仮定を前提とした議論に、「景気が良くなったら増税する」、ということが国会や政治家の中で語られている。「……たら」でなく、景気が悪ければ悪い中で対応せざるを得ないのであり、それをすることこそが政治そのものである。つまりその一点を取っても、日本政府、政治家は全く政治を行なっていない。このことから次の前提が作り出されている。

前提 2

 ねじれ国会。衆議院で議決されたことが参議院で否決される。したがって、国会での政策を決定に長い時間がかかる。それは、今回のような非常時に政治が全く機能しない、という現実を生み出している。

 野党は「与党が出してくる提案がコロコロ変わり、審議に応じられない」という。そのうえ「与党、つまり民主党内部が一本化されておらず、出される提案が信用できないから・・・」という。問題はその民主党の現状。もはや民主党は分解してしまっているという前提がある。この前提を避けては、何も解決されない。野党は、与党が出してきた提案を審議することで災害に対応するという態度を取っているが、その与党が、形はともかく、実質的には存在しないのだから、その対応もなんら意味を成さない。与党不在、内閣不信任案否決、と言う事態を受けて野党はどう動くべきかを思案すべきだが、あいも変わらず与党に対して「出せだせ!」と無いものねだりをしている。というより単に国政の足を引っ張っている。

 このような状態で野党勢力はどう行動すべきかについては後述する。ただしそれは、災害と原発事故の現状という根本の前提から演繹されることである。

前提 3

 政治がこのまま空廻りするなら、被災者達はうち捨てられてしまう。つまり棄民である。そしてこの国はもう一つの棄民を抱えている。それは沖縄である。民主党が政権奪取をした大きな柱の一つが、この沖縄と言う棄民対策であった。だがそれは見事に失敗した。この一事だけでも、民主党政権が失格とされる条件を満たしている。なお民主党が政権を維持しているのは、ただ、野党に、民主党に代わる資格が無いからである。

 沖縄問題は、非常時だから我慢してくれ!で済む問題ではない。なるほど、この問題は直接国際問題であり、相手のある問題だから関係ないと言い張ることも出来るかもしれない。しかし、「棄民」は過去の日本政治に構造として組み込まれており、今も変わっていないことだけは、現実として指摘できる。

前提 4

 まさに災害と原発事故の現状である。ただし当然のことながらひっくるめてかたることは出来ない。原発事故に関しては、決して独力で対処できないにしても、たとえば岩手県地域の被害に対しては東京電力には救援の義務は無いからである。

 

 この度の災害の大きな特徴は、マニュアルでは対応できなかった、ということである。そのことを「想定を超えた」という言葉で表現するが、それだけでは不十分である。あらゆる側面から災害とマニュアルについて検証し、将来に生かすことが必要なことは言うまでも無い。

マニュアルでは対応できなかったいくつかの例を示しておく。

大川小学校では、津波が襲ってきたのは地震から4、50分後であった。にもかかわらず生徒の70%が死亡、行方不明となり、現場に居た教師で生き残ったのは1人であった。当然、何故そうなったか今後検証され、行政ないし教育委員会に対して慰謝料が請求されることになるであろう。つまりそうした事態をさけるために教師達は全力を尽くしていないという過失があるし、その根底にマニュアルがあるからである。

マニュアルでは、何かの事件が発生した時、体育館や校庭に生徒全員を集合させ、先ず被害の有無を点検することになっている。この場合、体育館では上からものが落下する可能性があるから校庭に集合したという。ここまでは間違っていない。

その後教師達は対応を話し合っていた間に、見張りに立っていた教頭が津波襲来を発見し校庭に走った。そこから避難が始まった。その間30分。

子供を迎えに着た保護者の一人は、車のラジオか何かで津波の情報を知り、教師に「早く避難すべきだ」と訴えたが、教師は「おかあさん、落ち着いてください」と、まるで保護者がパニックに陥っていると言わんばかりの対応であったという。

おそらく教師達がそのように落ち着いて対応したのは、行政が発行するハザードマップに、大川小学校が浸水地域に含まれて居なかったからであろう。その意味では、対応に失敗した教師達を一方的に責めるわけにはいかない。

古い諺に「津波の時は、他人にかまわず逃げろ!」というのがあるそうだ。それこそが歴史の教訓であり、究極のマニュアルであることを今回の災害は証明した。

防災放送で避難を訴えかけ続けて亡くなった女性職員。半鐘を鳴らし続けてなくなった消防団員。消防車で避難を呼びかけて廻り津波に流された消防署員。地域の警戒や避難呼びかけの途中で殉職した多くの警察官。それらの尊い犠牲は今後どのように語り継がれるのだろうか。あるいは自己を犠牲にして職務を全うした人達の美談として語り継がれるであろう。もちろん筆者もそれに反対はしない。しかし究極のマニュアルに照らした時、違和感を持つのも事実である。

女性の最後の放送を聞くと、「大津波の警報が出ています(あるいは 大津波が来ています)。直ちに避難してください」と最後まで冷静に放送されている。おそらく防災無線や消防車の広報も同じ調子で行なわれたのであろう。ここは「逃げろ!にげろ!」の絶叫のほうが効果は高かったはずである。場合によってはパニックになったほうが助かる場合もある。これは、原発事故に対し、政府発表が、避難を完全にするのでなく、パニックを起さないことが主要目的とされたことに通じる。本末転倒のマニュアルが多すぎる。

その後の自衛隊出動、消防、警察、海上保安庁などのレスキュー活動などについては議論の余地は無い。また海外からの救助活動についても、賞賛に値する。米軍の活動も正しく評価すべきである。

救援活動については多くの問題が明らかになった。イスラエルからの医療救援などの受け入れについて、政府(厚生労働省)の対応は完全に間違っている。非常時の対応と認識していないとしか思われない。実際には米軍は艦艇を出動させ、救助活動や救出した人の医療救護を行い、避難所には食料や水の供給を行なった。救援を必用としているのは被災者であり、救援しようとしているのはイスラエルの医療チームである。無関係な場所にいる厚労省役人がその行動を妨害するのはとんでもない越権行為である。

ハイチ地震の時、米軍は病院船を沖合いに停泊させ、負傷者の手当てを行なった。それに対しベネズエラのチャべス大統領は、アメリカがハイチを侵略しようとしていると非難した。ある種の人達はこういう発想をするが、重要なのはどのような思想の持ち主が支配するかではなく、住民に対して誰が必要な手を差し伸べるかである。イスラエルの医師が日本国内で医療行為を行なうことが問題ではなく、もしそのことでイスラエル医療救援隊が法外な費用を請求したとすれば、あるいはこの際日本人を抹殺しようとすれば問題なのであって、善意の救援であれば、超法規措置によって受け入れるのが、血の通った行政である。

被災者は、住まいを失っただけではない。生活する術、農地や漁船、職場を失ったのである。

避難所は何とか確保されても、食料、水、衣料品、お金が無かった。不十分とはいえ、食料、水、衣料品、そして医療サービスは全国から提供された。問題はお金である。

金融機関は、通帳が無くても銀行の記録を下に預金引き出しに対応した。しかし義援金については3ヶ月過ぎても15%しか支給されていない。これが新たな問題を生んでいる。

義援金を担保に、闇金融業者が入り込んで、困った被災者をカモにし始めている。彼らは生活保護費を担保に、受給者からお金を吸い上げる貧困商法の実行者である。何千億円かの義援金が配られない為にやみ金業者が被災者を食い物にしている。それを許しているのが、一向に対応を進めない政府、行政である。ねじれ国会があるとはいえ、この対応の遅れの責任は内閣にある。菅総理不信任の理由は時間の経過にともない増え続けている。

住む所も、食料も、仕事も全て奪われた約20万人以上の人が居る。(3ヶ月後の実態として死者・行方不明約2万3千人。避難所7万人。自宅避難人数不明。被災地以外に転居した人数12万人)これだけのことが起きたらどうなるか想像してみよう。

世界からは、略奪も起きず、整然と避難所生活を送る日本人に賞賛の声が高い。世界の人はこのような時、略奪や暴動など、いわゆる火事場ドロボー騒ぎになるのが普通だと思っている。

この事態を日本人の美徳としてそのことに誇りを持つことは、確かに無秩序状態に陥ることへの抑止効果はある。だがそれは絶対ではない。そうした騒ぎにならなかった根拠が存在する。

情報はリアルタイムで全国、全世界に流された。自衛隊も各種レスキューも即時に救援に動いた。義援金や義捐物資の集荷には手間取ったが、全国の自治体が備蓄している救援物資は、できる限りの速さで現地に送られた。例えば高速道路の通行止めや渋滞を予想した大阪市は、高速道を走れない(性能的に)市営バス車両を使って、一般道路経由で物資を運んだ。こうした工夫と努力で、必ず救援、支援の手が差し伸べられると被災者は信じているからこそ、日本では騒ぎは起きない。それは、1945年以後、日本が戦争をしていない平和な社会だからこその結果である。

そうでない前例もある。日米戦争中に起きた福井大地震は、戦争中であるために報道管制が敷かれ、全国民がその災害を知ったのは戦後である。したがってそこで何が起きたかは十分に検証されていない。ただ、報道管制のため軍隊が治安維持に当たったのであり、そのために騒ぎは抑えられたはずである。関東大震災では朝鮮人虐殺すら起きている。

もし日本が戦争中であったり、あるいは無政府状態であったら、略奪や暴動は起きたであろう。闇商人がはいりこみ、被災地での物価は高騰し、正に今起こらんとしている闇金融業者の草刈場となってしまうであろう。一旦そうなってしまえば、治安回復は暴力的にしか行なえない。一般的には外出禁止令や戒厳令が発動されることになる。そしてそうなる条件は、いまだ完全には払拭されては居ない。

住むところはやがて仮設住宅が完成すれば、人々は避難所から、とりあえずゆっくりと休息できる場所へと移ることができる。だが今生きる術、毎日の食料など生活必需品を購入するための収入を得る機会が失われている。漁場が荒れ、農地が荒れ、工場が流失している。貯金のあった人はそれでもしばらくは生きていける。無かった人は、仕事を失えば、義援金と生活保護だけが頼りである。義援金は一時凌ぎである。生活保護は、ただ生きていることを保障するだけで、生活再建をもたらすものではない。

この3ヶ月。死者や行方不明の家族を悼み、必死で生きてきた被災者は、自らの生活再建の困難さに直面し、多くの人が未来に絶望するであろう。自殺者は年間ベースで3万5千名を越えてくると思われる。1951年以来200万人を越えたとされる生活保護受給者は、東北だけでなく、災害波及倒産と派遣社員雇い止めで、雇用保険の切れる10ヵ月後、来年1月には300万人を越える可能性が高い。

そのような社会の下部構造の状態は、大恐慌以後の世界不況と冷害による飢饉で娘を売りに出した東北地方の出身者を中心とした青年将校によるクーデター、2・26事件の時と極めて近い。上部構造では、政治中枢の体たらく、無策も当時と同じである。違うのは日本社会が裕福であること、軍隊に対するシビリアンコントロールが保たれていること、あえて言えば、田母神や石原慎太郎、橋下 徹のような、市民を見下した、支配してやらなければ市民は生きる力が無いと思い上がった連中が自衛隊内に少ないということであろう。

Ⅱ どのような対応が必要か

 言うまでも無いが、義援金と生活保護では生活再建はできない。被災者が経済的に自立する為の行程設計から始めるのが妥当である。

 農業者は営農が出来る環境の復旧。漁業者は漁船の確保と漁場の環境回復。一般労働者にとっては工場再建が必要である。それらが達成されれば、それに付随する行政サービスや商業が回復し、地域経済の自立が達成される。その資金は、事業再建には金融機関からの融資が不可欠だが、個人レベルでは雇用が確保され、賃金収入が得られるようになることである。

 漁業に関しては、全国の漁業者から、使用していない中古漁船などが無償で提供されている。火事場ドロボー的に、東北の漁業者が操業できなくなったのをいいことに一儲けしようとせず、被災した漁業者を助けるその行為こそ美しい。外国からの日本人賞賛は少し的外れだが、漁業者のこの行動は、難破したときに身の危険を顧みずに救助に当たる海の民の本性を見る気がするし、だからこそそのように美しい人々を支援しなければならない。

そして、だからこそ3ヶ月過ぎてなお有効な政策を打ち出せない国会、内閣は打倒されなければならない。クーデターを起こす主体がない。国会を取り囲んで辞任を要求する大衆運動がない。ただそれだけの条件で居座る菅総理を、いち早く辞任に追い込む知恵を、野党はおろか与党ですら考え付かないなら、日本は早晩無政府状態におちいるであろう。

 前提は次のように膨らむ。すでに自殺者、生活保護受給者の増加については述べた。パナソニックは、おそらくサンヨーとの合併で生じた過剰雇用の清算も加えてのことと思われるが、1万5000人の人員削減を発表している。これが下請けに波及すると、さらに5000人ぐらいは上乗せされる。

 トヨタでは副社長が国内生産台数削減を提起した。円高。不況による国内需要の低迷。原発停止による電力の不安定化などが理由と思われる。その上、もはや日本の製造業はグローバル企業となっている。松下幸之助が企業理念を「ものづくりによる社会貢献」と言ったときの社会とは日本社会であった。しかし今、社会とは日本に限らない。したがって各業種のトップ企業、パナソニック、トヨタのこうした対応は、企業として当然である。だが日本社会に与える影響は大きい。

 災害でもたらされた日本社会の経済スケールの縮小と、従来からの不況、そして相乗されてさらに工場の海外流出が日本社会に大きくのしかかる。

 以上が今日まで顕在化した現状である。だがそうした現状とそれに対する対策がもたらす新たな現状は、おそらく日本社会の構成員は余り気がついていない。たとえば、日本の財政状態に対する国際的評価が、ギリシャなどと同じになったら円は暴落し、自給率40%の食料品価格は暴騰し、津波がこなくても多くの餓死者が出る事態になりかねない。とはいえ日本には埼玉県に匹敵する耕作放棄地があり、それが耕作されるようになるので、自給率回復と言う形でバランスが回復するチャンスは残されているのだが。

政策その1

 瓦礫撤去にかかる費用は全額国家が負担する、と菅総理は表明した。しかし実際には作業は進まず、財政力のある自治体は自力で撤去事業を展開しているが、財政力の無い自治体は放置されている。

 ある水産加工業者は、「必ず再建する」という思いで、一切解雇を行なわず、政府の雇用調整助成金を受けている。ところが、この助成金を受けている従業員は、厚労省の指定する条件である各種講習を受けており、事業所再建の為の工場跡地の瓦礫撤去などはボランティアが行なっている。

 瓦礫撤去費用を全額国費で賄うというなら、撤去を行なう事業者の形態を制限せず、自治体が直接行なう、地元や全国の土建業者、そしてかってこの地で事業を営んでいた経営者が、たとえ自社工場跡地の瓦礫撤去を、自社社員によって行なう場合の人件費も、国が負担する、という形で雇用を確保すべきである。

 この度の災害で発生した瓦礫の処分だけでも、ボランティアで解決出来る規模をはるかに超えている。瓦礫撤去については、最大限地元失業者や耕作地を失った農家、あるいは船を失った漁業者を雇用して行なう。また全国の失業者を雇用しておこなう。ゼネコンは瓦礫撤去後の整地作業にシフトしていく。それも国費で行なう。

 そのようにして個人から企業まで、当面の生活費と自立の為の資金作りの機会を提供していく。

 仙石官房副長官は、瓦礫撤去は全て国の直轄事業として行なうべきだ、と述べたが、それは以上のようなことであり、国土交通省が直接行なう、ということではない。そして、このことの法整備と財政措置を一刻も早く行なわない限り、復旧、復興の見通しは全くえられない。とりあえずしなければならないのはこのことである。

政策その2

 民主党のマニュフェスト見直し、あるいは一時停止は当然である。全力を東北の復旧復興に注がないかぎり、日本経済は底なし沼に引きずり込まれる。一切の政治休戦をしてでも(沖縄問題を除いて)東北の復旧復興に取り組むべきである。

 高速道路無料化は6月19日をもって廃止された。子供手当てについては見直し作業が進んでいるが、所得制限について「子育ては社会がやるべきだ」という理念が達成できないとして反対意見がある。問題は優先順位であり、国家財政破綻が、災害によって見え出した今、幻想にしがみつくべきでない。

 財政問題の中心は、復興特別債と増税として進んでいる。基本的方向として正しい。

 増税には反対意見も多い。

 みんなの党は、増税しなくても特別費を取り崩すことで可能だとして反対する。

 国民新党は、景気を悪化させるとして反対する。

 民主党内部でも増税反対派が多数である。おそらく次の選挙が怖いのだろうが心配する必要はない。次の選挙で民主党は議席を半分以下に減らすであろうから、どうせ半分死にかけた議員はがたがた言うな!逆に、増税しても、確実な政策を実行すれば支持されるのである。

 消費増税には、共産党や社民党も反対する。

 間違いなく国は資金不足に陥る。どのような政策も、資金問題とセットでしか実行できない。そこで財政政策が核心となる。

 どさくさ紛れの増税に反対するという意見もあるが、今消費増税止む無しという世論調査での意識は40数%に上っている。財界も企業減税要求を引っ込めている。

 国民新党の「景気を悪化させる。景気が良くなれば税収は上がるので増税の必要はない」という意見の問題点は次のことである。

 どうやれば景気は良くなるのか?財界は企業減税が景気を良くすると主張してきた。それを引っ込めたのは、復旧、復興には景気がよくなるのを待ってはおれない、という認識だからである。そして復旧、復興事業費は現状では全く不足している。その不足金をどうするかということが問題なのである。それを景気回復を待つと言うのではピンボケもはなはだしい。

 みんなの党は一見理路整然と主張する。だがいったい復旧、復興作業がどのくらいの期間と費用を必要とすると考えているのか。その上で破綻しかけた国家財政をさらに危機に陥れなくて済むと思っているのか。ドサクサにまぎれてではなく、継続的に資金供給を続けていく方策が求められているのである。特別費からの転用は当然である。その上で増税が必用なのであって、これも議論がズレている。つまり増税に反対する政治家達は、増税を主張すれば選挙に落選する、という強迫観念に囚われ増税に反対しているに過ぎない。災害後の世論調査は増税に一定の理解を示している。それはこの国の民が、自分さえ良ければよい、という考え方ではなく、社会的必用に対しては負担に応じる気持があることを示している。ただ往々にして増税を主張すれば選挙で不利になるのは、税の使い方に対する不信、つまり政治家に対する信用が無いからである。この政治家なら裏切らない。安心して任せられると思えば、その政治家の無理な要求でも聞き入れる姿勢を、この国の選挙民は持っている。

 当然、無駄の廃止、公務員人件費の削減、議員歳費削減、埋蔵金の吐き出しなど行なったうえで、国債発行は避けては通れない。そして国債発行は財政赤字をさらに拡大するという理由で反対する意見も多い。だからこそ、国債発行と増税はセットなのである。

 

 日本が大災害に見舞われ、原発事故ではまだ先が見えないのに、何故円が上がったのか。その理由は、復旧のために、日本政府、日本企業は大量の円を必要とする、という思惑が世界の投機筋を円買いに走らせた。実際にそうした円買いが進めば、投機筋はボロ儲けをする。そして、政府や企業によって円が市場に吐き出されることで円は暴落する。政府も企業も、買った円よりはるかに安い円で必要な物資を高い値段で購入することになる。

 今円高で、円評価での米国債価格は大幅に下がっている。増税もせず、つまり景気悪化を避け、国債も発行せず、財政赤字を増やさず、資金を確保する方法として、損を覚悟で米国債を売るべきだという意見がある。そうした場合どうなるか。

 米国債は下がる。それは米国経済を揺さぶり、危機の輸出となる。この際アメリカの事情は無視したとしても、円買いであることに変わりは無い。つまり円高に作用し、日本企業の輸出環境は一層悪化し、ひいては景気悪化を促進する。むしろ、確実に来るであろう円価格低下で米国債の資産価値は必ず近い将来アップする。それが日本の財政赤字を圧縮する。米国債価格下落により、さらに財政赤字を加速させるより、円安を待つほうが得策である。

 財政の裏づけなき国債発行は日本の信用を低下させる。ただし日本国債の国際流通量は少なく、世界経済への悪影響は少ないと言う意見もある。とはいえ日本経済への不安は増大し、円価格が低下する。これは貿易摩擦を生み、日本への不満が高まる。大災害のため仕方がないとして少々は我慢してもらうとしても、大幅な円安は食料価格暴騰につながる。したがって国債発行とバランスするのが増税である。

 増税で資金手当てをするには最低で1年かかる。したがって増税するにしても、緊急に資金確保をするためには国債発行は避けられない。

 一方、増税だけを行なえばどうなるか。復興、復旧への資金手当てが確実に遅れる。その上、増税を実施した日本政府への国際金融界の信用は高まり、円高が進行する。そしてそれは、保有外国債評価額を低下させ、財政赤字を膨らませる。つまり税収増加前に円高による財政赤字増加が進むのである。円安、その分の財政赤字圧縮、その後税収増加の順番で進むのが理想的といえよう。

政策その3

 財政危機にもかかわらず何故円高なのか。災害以後の事情は前に述べた。それ以前からの円高の理由は、国および自治体の負債と個人金融資産の差額が400兆円。つまり日本社会の貯蓄総量は400兆円。それが円買いの根拠とされている。

 それはどういうことか。一家の家計へのたとえ話で説明しよう。

 電気代、水道代、固定資産税などが払えないから借金して払っている。ところが収入を持ってくる主も、奥さんも、子供達もそれぞれ「「へそくり」」を持っている。主は、もしくは奥さんは、「へそくり」が欲しいが、自分だけ「へそくり」するのは気が引けるから皆に「へそくり」資金を与える。その結果家計の必要経費が不足している。という状態である。皆の「へそくり」を足し算したら家計の借金より多い。だが一人一人は借金返済のために自分の「へそくり」を拠出したがらない。

 国や自治体が無駄遣いしているのは事実である。だが無駄遣いを削れば1000兆円の負債がやがて解消される可能性はないことが、仕分けの結果明らかになった。見方を変えれば、仕分けによる埋蔵金の発掘で財政赤字を少しでも減らせると考えた民主党の財政基本政策は失敗した。その時点で実は民主党はマニュフェストを根本的に見直さざるを得なかった。しかしそうなれば自民党と同じになってしまうのでマミュフェストに拘った。その結果、現実対応を迫られる政権担当者と民主党との乖離が進み、民主党は、政権党として形骸化してしまった。

 個人金融資産のうち1000兆円は、実は家計に必要な資金である。それをへそ食ってしまった。その結果家計に1000兆円の穴が空いてしまった。だから本来個人金融資産のうち1000兆円は社会に還元されるべきものである。そのうまい方法があれば、日本の財政危機も災害復旧も、財政問題としては一気に解決する。

 1億円以上の資産家は100万人ぐらい居るといわれている。だが法治国家である日本では、彼らの「へそくり」を強制的に取上げることは出来ない。したがって税金ということで時間をかけて拠出してもらう以外に方法はない。だが富裕者は、政治家に献金し、彼らからの徴税強化を阻む。そのくせ脱税などの悪事を働くのも富裕者である。なぜなら、貧乏人は税金も払えないので脱税したくても出来ない。

 1000兆円の個人金融資産から、どのようにして資金を引き出すのか。強権によって簒奪することは出来ない。時間はかかるが相続税率を上げるしかない。だがそれでは時間がかかりすぎる。

 今は廃止されたが、相続時清算課税制度と言うことで、マイホーム建築資金として生前に遺産相続する制度が、景気対策として導入された時期があった。それは、個人資産を直接国家財政に還流させることは無かったが、2005年ごろミニ不動産ブームを生み出した。家が建てば家電製品なども売れる。それに付随した税収が増加する。それでもバブル崩壊後の失われた10年を完全に回復することは出来なかった。そしてリーマンショックで再び不況は深刻化した。つまり、金融資産として凍結されていた資金が市場に引き出され、僅かながら景気は上向いたが、その間の景気刺激策で膨らんだ財政赤字を埋めるには至らなかった。が、死んで相続されるまで個人資産が動き出すのを待つのでなく、早く市場に引っ張り出すことの効果は示された。

 今新たに考えられるのは、資産家に対して、新たに発行される国債を引き受けさせることである。日銀や金融機関は今まで十分に国債を引き受け、それが収益を圧迫している。さらに引き受ければ、日本国債の資産価値が下がり、ますます経営を圧迫する。そこで個人資産家を国債引受人にするのが望ましい。ただし利回りの低下した国債を資産家は引き受けたがらない。高利回りの金融商品を資産家は買い求める。少々の高い利率を設定しても、個人資産家が日本国債を買い求めるとは考えにくい。

 そこで考え出されたのが無利子国債である。文字通り利息がつかない国債は、発行しても利子負担がない分財政負担は軽減される。そのようなものが何故資産家に買われるのか?実は無利子国債での遺産相続には相続税を課さない、ということになる。土地や金融商品で資産を残せば、その相続評価金額によっては厖大な相続税が課せられる。しかしそれが免除されるとなれば、強欲な資産家は飛びつくはずである。しかも相続のために購入するのであるから、早期に換金する可能性も少ない。したがって、無利子国債の評価額低下は抑制される。

 無利子国債での発行者のリスクは、やがて国家財源に組み込まれるはずだった相続税収入が減少する。だがいずれ返済しなければならないが、国債所有者に現金化の必要が生じない限り、買い替えで継続し、償還時期はかなり先送りされる。

 利点は、国がすばやく現金を手にすることが出来る。

 富裕者と貧困者との格差が固定化されるという問題はあるが、富裕者がその資産を金融市場で運用し続けるより、その金が実体市場で循環することを考えれば、格差の固定化は重要な問題ではない。

 今検討されている税制改革の中で、相続税の強化と所得税の見直しが進められている。ここはこれで我慢しよう。問題は消費税増税である。消費税増税には、共産党や社民党が反対している。理由は逆進性である。もちろん逆進性緩和の方法はある。食料品の非課税もしくは税率軽減は、貧困者の生活困窮を緩和する。むしろ日本の消費税でそうした措置が取られていないほうが不思議である。官僚や政治家が、税制の複雑化を嫌っているのか、それとも彼らは皆金持ちで、貧乏人の納税額が少ないことに不満を抱いているのか?

 IMFは、日本財政赤字解消のために、5年間限定で消費税を15%に引き上げるべきだと提言した。これは、現在の景気や為替相場を前提とし、災害復旧を加味した試算の一つの回答である。実際には円安が進めば条件は変わるので、固定的にとらえる必要はない。

 消費税は上げるべきである。率は5%。したがって消費税は10%にする。ただし、岩手、宮城、福島3県は据え置く。しかもその3県に限って5%の消費税全額を地方税とする。

 復旧、復興、再建事業に国費を大量投入することは当然である。そのことでこの地域に雇用が生まれ建築ブームが起きる。建築ブームは他の産業を巻き込む。復興特需、それだけでも十分景気浮揚に結びつく。

 だが、急速なこの地方の復興を、日本経済の成長、つまり景気回復につなげるには、東北への投資拡大が必要である。今言われている特区としてのこの消費税率の格差が重要な意味を持つ。それは被災地住民の負担軽減だけではない。特に成長著しい通信販売企業は、こぞって事業所をこの地域に移すはずである。九州なまりのジャパネット高田の宣伝がズーズー弁に代わる。これこそが被災地復興を最も早く進める方法である。

 食料品については消費税は据え置く。従来の税制で言えば、食料品の消費税を引き下げるかゼロにすべきだが、非常事態であるし、5%で曲りなりに維持されてきた。したがって現段階で引き下げる必要はない。まやかし的ではあるが、他の消費税が上がることで、相対的に食料品の税率は下がる。経済は元来相対的であって絶対的ではない。したがって全く問題は無い。

 ただし高級レストランなどの、一人一食1万円を超えるような食事にかける税率は引き上げる方法で検討されるべきである。非常時であれば、富裕者はそれに応じるべきである。さらに言えば、食材や税金の値上がりで売り上げが低下し、経営難に陥るのは低価格の大衆外食産業である。高級レストランで食事を取る連中にとって、一食1000円2000円の値上がりなど全く気にも留めないレベルである。

 平時に置いて増税を行なった総理大臣は、ことごとく引き換えにその地位を失っている。一方戦時に置いては、増税は納税者の情況を無視して行なわれた。もしくは増税に代わる収奪が行なわれてきた。どさくさ紛れに増税を行なうのは、決して批判されることではない。

 最後に税制問題について一言。経済成長が続く時代は、公共サービスの拡充を行ないながらも減税が可能であった。しかし低成長時代になり、しかも公共サービスは高度化している。そのなかで減税を求めるのは間違いである。増税に応じられるような所得の保証、つまり雇用の確保こそが今の政治の中心課題である。

Ⅲ 形骸化した政府下の社会で何が出来るか

 一刻も早い菅政権打倒。それが出来ない限り何も前に進まない情況に陥っている。それでも進まなければならない。菅内閣打倒と同時に災害復興事業を進める必要がある。上に述べた政策が実現できない間も、前に進む必要がある。

菅内閣打倒の方法・・・・方法は無限にある。いくつか代表的な方法について検討してみよう。

1 暗殺

 ある意味で最も手っ取り早い。しかし条件があるしリスクが大きい。

 条件としては対立が武力衝突寸前であること。つまり対立する両派の勢力が拮抗していること。少なくとも議会政党にとって自らの立場を放棄するリスクを取ってまでこの手段を採用する可能性は100%無い。

 元来議会政治を否定する勢力、かつて浅沼稲二郎を殺害した、あるいは川上丈太郎や三木武夫を襲ったような戦前のテロリズムを少しでも踏襲する勢力は、右も左も日本からは消滅していると思われる。

 可能性としては、沖縄棄民と、今正に棄民化途上にある東北3県、特に福島原発棄民には条件がある。彼らが本当に絶望に陥った時、自殺かテロか、という選択に追い込まれることを止めることは出来ない。しかし今の所、その条件は成熟していない。

 何より暗殺がもたらす後世へのリスクは高すぎる。腐りきっているとはいえ日本の民主主義がもたらした生活の平穏は失われる。したがって、普通の政治対立、つまり階級対立の中で暗殺思想が生まれるとは考えられない。この間、逼塞感から生まれたテロは、全て弱者に向けられ、ガス抜きとして作用している。

 政治や思想というジャンルからテロリストが生まれるとしたら、先に述べた田母神や石原慎太郎などのエリート主義思想が増幅されたときであろう。

2 病気に追い込む

 不信任案に失敗し、党内でも鳩山の狂言回しで菅を引きずり下ろせなかった国会に有効な手段はない。それを見越して菅は開き直っている。あとは与野党議員が「菅辞めろ!」の大合唱。マスコミもこぞって菅の失政、なにより災害復興の遅れを毎日一面で流す。オール野党で、全国各地で反菅集会やデモを行なう。最後には首都大集会で菅の神経を痛めつける。菅がそれに屈服するというより、側近にあきらめさせることに効果がある。

3 無視

 実は菅はこのところ記者会見を減らし、被災地回りを増やしている。この男なかなかやる。被災地での支持をふやし「そらみろ!」と逆襲するつもりである。彼は民主党代表の任期いっぱいどころか、その次もやる気でいる。そして記者会見を減らしている。

そのような情況では、 議会での質問を総理にしない。予算委員会でも本会議でも、質問は全て総理以外に行い、総理が発言しても無視する。マスコミも総理発言を掲載せず、記者会見も要求しない。総理の側から記者会見をすると言ってきても、カメラを入れない。その上で世論は、各大臣に総理の意見を聞き入れないように圧力をかける。もし菅が他の大臣を罷免する事態に追い込めば大成功である。

災害復興事業の進め方

 以上のような形骸化した菅内閣打倒の取り組みは、頭の中の遊びである。政府が具体的な取り組みを進められない中、現場ではいろいろの取り組みが始まっている。それを拾い上げ、それを支援する大衆運動を作り上げることこそが必要である。野党は、形骸化した政府批判を、東京でのマスコミに顔を曝す目的だけのパフォーマンスとして展開することを止め、現場に行き復興事業を支援すべきである。

 野党議員、秘書団、後援会が全力を挙げて現場の要求を聞き、汲み上げ、全国の野党支持者の支援を得て、応えていく。それだけが菅の現場での口先パフォーマンスに対抗できる。菅は「必ずやります」という。そのときは聴衆は期待する。だがすぐに騙されたと気がつく。鳩の時もそうだった。

 野党議員は口先だけでなく、自分で汗を流して現場の要求に応えよ。そうすれば国会やマスコミでごたごた言っている時間は無いはずだ。たとえ被災地が選挙区でなくても、そうやって信頼を獲得すれば、選挙の時は被災地から駆けつけて支援してくれるはずである。

現地に行けば、体がいくつあっても足りないほどやることはある。

 政治不信。政府の形骸化。無政府状態の克服はそこからしか生まれない。

 菅 直人を引き摺り下ろすには、チュニジアやエジプトの民衆の方法を学ぶのは有効である。しかし、政治への信頼を取り戻すには、タリバーンやハマスの方法も参考になる。彼らは一部に信じられているように、銃で住民を脅して従わせているのではない。住民の生活を支える活動で支持されているから、如何なる武力弾圧にもかかわらず壊滅しないのである。もちろんタリバーンがそのまま世界で認められるべきではない。しかし、アルカイダと同一視して排除するのでなく、その下に、そうしなければ生きられない民衆の居る事を見逃してはならない。そして沖縄棄民や東北棄民を、タリバーンのような偏った政治傾向の支持者にしてはならない。

 極論をするならば、今国民国家としての日本は戦争中である。戦争に勝利する可能性は国内の分裂の大きさに反比例する。他国との戦争では、国際関係が国内に持ち込まれ、国内対立は避けられない。しかし今、日本が直面している戦争の相手は自然災害である。国内に政治対立、階級対立が厳として存在してはいても、この大災害に打ち勝つための「統一戦線」はその気になれば可能であり、今求められていることである。しかもこの戦争には、世界70ヵ国以上が日本に協力を申し出ている。世界をこの「統一戦線」に引き込むチャンスが与えられているのである。

 ドイツの原発使用延長の即時停止、イタリアの原発再開に対する国民投票の結果は、原発保有国が、国益の枠を超えて運命共同体であることを示した。

 フランスは、原発推進の立場から事故の沈静化に協力している。それは単に金儲けだけではない。福島原発事故の沈静化に失敗すれば、原発立国という戦略が吹き飛んでしまうのである。したがって、イタリアと正反対の方針を維持しながら、フランスも運命共同体の一員であることを示した。