南京大虐殺の世界記憶遺産登録について

2015年10月26日 岩内 悠造

日中戦争において、日本軍が南京市を占領した時に、日本軍が多くの市民を殺害したとされる事件を南京大虐殺事件とされている。

この事件で中国(政府)は30万人の市民が虐殺された、としている。

一方日本で、南京大虐殺事件そのものを否定する立場の人は、便衣隊(一般市民の服装をしたゲリラ。正規兵の扮装)を追って南京市に侵入した日本軍が、市民と区別のつかない便衣兵を掃討したときに市民の巻き添えが起きたのであって、不測の事態だから虐殺にはあたらない。むしろ一般人の服装をして戦闘に臨んだ中国軍に国際法違反がある、としている。そう主張する日本の論者も、日本軍の南京入城の際に発生した南京市民の犠牲者が相当数に上っていることは否定していない。

日本の論者が否定するのは「30万人殺害」という数字である。たしかに数字だけを取り上げるなら、その数字は広島の原爆被災者の短期間の死亡者数や東京大空襲の死亡者の数字をはるかに上回っている。その人数を地上軍が短期間に殺害することは、物理的には不可能だろう。しかもその遺体を処分するのに必要な人手のことを考慮すれば、30万人虐殺というのはきわめて疑わしいといわざるをえない。 

大虐殺というのは、殺害された人数の概念も含まれると思うが、おそらく50人でも大虐殺といえるのではないだろうか。とすれば、虐殺かどうかはさておくとしても、大量殺害であることは否定できないであろう。つまり30万人というのは嘘であっても、虐殺かどうかは立場の違いで見解が変わるにしても、日本軍が大量殺害事件を起こしたことは否定できない。

その事件を、一般市民と兵士の区別がつかなかったということで、はたして正当化できるのか。

ある日中戦争従軍者の話によれば、何時どこから鉄砲玉が飛んでくるかわからない。誰が何時殺されるかもわからない。そういう状態では、味方以外は全ての人が敵に見える。(彼の話はここから一旦横道にそれる)だから略奪や婦女子にたいするレイプは当然だ。(ここから彼は次のように展開した)兵士が一般人に扮して攻撃してくるのは卑怯だ。中国人は卑怯だからこういうことがおきた。

中国人が卑怯かどうかは、これまたさておいて、南京事件のような事態が発生する条件は、日本軍、日本兵の恐怖心にあったし、実際発生したことは認められている。中国人が卑怯だというのは、単に彼の行った行為についての、自分自身が納得するための正当化でしかないのであって、相手に責任を転嫁する思考そのものが、潜在意識下における彼の、罪の意識をあらわしている。

 

南京事件の現在の問題は、それがユネスコの世界記憶遺産に登録されたことである。これにたいし日本政府要人は、ユネスコへの資金拠出を止める、と発言している。さすがにこれには世界のマスコミが反応した。あきれはてている。

もしこのユネスコの世界記憶遺産に登録が不当なものだとしても、議論つまり交渉と、その根拠をあきらかにするための検証が、それを証明する方法である。それを行わず資金拠出を拒否する、と言う態度は事件の否定の根拠には全くならない。要するに日本にとって「恥」だから認めたくないことを証明しているにすぎない。あるいは、認めてしまえば賠償が請求されると警戒しているのかもしれない。そうだとするなら、無視し続けるのが正しい対応である。ユネスコへの拠出金を停止するというのは、世界中に問題の存在を知らしめ、かつ後ろめたさがあるという印象を与えてしまうだけである。このことからも、安倍政権の外交音痴が暴露されている。

しかも、論理的に反論できないから交渉もしない、おさらばだ、というのはかつて大日本帝国が国際連盟から脱退したのと同じレベルの対応であって、これでは安倍内閣が「戦争したがっている」と評価されてもしかたない。

実際問題として、30万人が殺害されたとしたら、まだ100年も経っていない事件だから、聞き取りや現場検証、発掘であきらかに出来るはずであり、その作業を日本政府が行うべきである。日中共同で検証委員会をつくり、中国がそれに応じない場合は、中国の主張に問題がある、ということを世界が認めるであろう。

 

だがその前に留意すべきことがある。

そもそもこの事件は、当時の中国の首都南京に日本軍が侵攻したことで起きた。もし日中戦争が国境紛争のレベルにとどめられておれば、絶対に起きなかった事件である。したがってこの事件発生の根源には、当時の日本軍が、帝国主義的野望をもって侵略したという事実がある。

ついでに言及すれば、もし日本が1945年8月15日の無条件降伏を拒否し、徹底抗戦を行っていたとしたら、米軍は上陸し、東京大虐殺が起きていたであろう。さらに日本は、日米戦争では、ある段階での停戦を、全く独りよがりにたくらんでいた。だが国際連盟脱退と三国同盟、そして中国侵略で、連合国側には停戦などという概念すらなかった。そういうことすら日本史は検証していない。

 

さらに触れておきたいことがある。

伝統的にかどうかはわからないが、歴史検証については、現在の日本はまったくサボっている。東京裁判を「あれは戦勝国が一方的に裁いたのであって、不当な裁判だ」という意見がある。一方日本は、国内で戦争に導いた当時の国家の指導者たちを全く裁いていない。それどころか、死者は皆平等だとしてA級戦犯を靖国神社に合祀している。

アメリカはおそらく東京裁判の反省からだろうが、サダム・フセインを捕らえたときには、イラクの国内法廷で裁かせた。日本は、まさにA級戦犯にたいして国内法廷で裁くことなく、占領国まかせという無責任な戦争処理を行っているのである。中国や韓国から歴史検証を求められるのは、全くもって尤もなことである。少なくともユダヤ人虐殺などの実態を検証し、世界に公表したドイツと比べた時、日本政府は全くお粗末としか言いようが無い。

 

日米戦争では、沖縄で唯一地上戦が行われ、民間人にも多大な犠牲が出た。略奪やレイプについては、米軍の占領当時よりは、占領が始まってから今日まで、断続的に続いているが、南京事件のような事態は起きなかった。だがほとんどの地上戦発生現場では、それは必ず起きる、と言うのが歴史が語りかけるところである。

 

日本人が被害者となった事件としては、終戦直前に始まったソ連の参戦によって起きた、当時朝鮮半島や中国東北部にいた日本人を襲った運命だろう。それが今シリアでおきている。

 

日本国内で起きた戦争でも、同様の事件は起きている。

大阪夏の陣で豊臣軍の敗北後、徳川軍による略奪、暴行、虐殺の犠牲者は2000とも3000ともいわれている。そこで特徴的なのは、ニセ首にするための殺害である。当時の戦争では、戦功は敵の首を上げることで証明された。それが出世や褒美に直接結びついた。したがって、徳川軍の兵士は競って市民を殺害し、ニセ首にしたといわれている。

同じようなことは島原天草の乱でも発生した。天草の人口は半減し、経済崩壊に瀕したので、当時の天草領主は、九州各地からの移民を実施して、天草の再建を行った。

明治維新の江戸城無血開城は、それらを教訓にしたかどうかは定かではないが、そのような悲劇を回避したことは事実である。

 

今日本と日本人が心すべきことは、古代と違い、近代の歴史的事件は、記録にも映像にも、明確に、検証可能な状態で保存されている。それを検証しないで放置すれば今回のような事態が起きるということである。従軍慰安婦問題も同じ。都合の悪い過去には触れたくない、あわよくば無かったことにしようとの態度は通用しない。「歴史を直視」することなしに「未来に向かう」ことはできない。

 

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