明日なき毛沢東主義 (紅衛兵運動の示すもの)
紅衛兵運動の階級的性格

1966年10月

解体の危機にさらされつつも、その危機を主体的に突破しうる力(階級として形成されたプロレタリアート)をいまだなお生み出しえない中国社会は、再び野蛮な力をその内部から解き放った。すなわち紅衛兵運動という姿をとって、それは矛盾に満ちた社会内部から噴出したのである。それは激しい不満を持ち、たえず抑圧され、なんらの明確な目標も与えられず、ただ現状に対して解消しがたい敵意をいだく、破壊的な、衝動的な大衆の噴出である。そこには、分散させられ、無定形のまま抑圧されて来た中国人民のスターリニスト毛沢東の党に対する怨念と憎悪がこめられている。

彼ら紅衛兵は北京の街路を占拠し、古い、「解放」前からの商店の看板を引きずり下し、高価な商品をたたきこわし、あるいは没収し、流行の髪型や靴をとがめ、路地の奥にあるブルジョアの家に押し入り、ピアノや立派な家具をこわしたり、どこかへ持ち去っている。そして抵抗するものは、誰であれ、右派分子、反革分子として、長時間にわたってつるし上げられている。

ここでは、信号の赤色が停止をさすとは反革命的であるから変更せよ、等々の馬鹿馬鹿しい「要求」について言うのはやめよう。問題は、彼らのときには馬鹿げている行動の背後には、現在、スターリニスト毛沢東の党の主導権を手中に収めたかに見える毛・林一派が存在し、かつ、それを激励していることである。

1935年、中国共産党のへゲモニーを握って以来、首尾一貫してプロレタリアートのイニシアチブに対して、そのどんな萌芽的なあらわれに対しても、直ちに異常なまでの敵意を示して来た毛沢東の党は、左への転換をなしつつあるのだろうか?

そのように考えるものがいるとすれば、薄馬鹿と呼ばれるか、政治上の犯罪者と呼ばれるか、いずれかでしかない。あるいは、一幕の喜劇として鈍感に見すごすものは、軽蔑すべき不能者でしかない。

われわれは、はっきりと語らなければならない。紅衛兵運動は、現在それに参加している大衆の主観的意図や、願望とは全く反対に、都市と農村のブルジョアジー、それと結びついている官僚に対する打撃としてではなく、スターリニスト毛沢東の党の支配の危機から、その真只中から成長を開始せんとした都市と農村のプロレタリアートに対する鋭い攻撃としてあることを。

全中国のいたるところで、紅衛兵と「党委員会に組織された労働者農民」との衝突が頻発していること、それは直ちに官僚とプロレタリアートとの闘争ではないにせよ、その背後にあるものは、まだ未組織のまま闘争する方法と手段を探り当ててはいないが、恐るべきエネルギーを秘めている幾千万の若きプロレタリアートである。

「資本主義の道を歩む党内権力派」に対する闘争として展開されている現在の運動は、官僚の一部の他に対する闘争であるばかりではなく、プロレタリアートに対する『見せしめ』であり、『おどかし』である。それは、文化大革命と紅衛兵運動のなかで踊り出て来た毛・林一派の宣伝するように、左翼によって組織され、左翼を強めて右翼を打ち、ブルジョアジーを倒してプロレタリアートを起すものではない。その背後にあるものは、革命をさらに押し進めようと望んでいるプロレタリアートの要求ではない。その正反対のものである。

「民主諸党派の解散」、「固定利子の支払停止」等々の左翼的な要求は、それ自体、なんらプロレタリア的な内容を示すものでは決してない。それは、いつ、いかなるところにおいても、常にプロレタリアートのイニシアチブに敵対し、その絶滅に全力をこめて闘争して来たスターリニスト毛沢東と分ちがたく結びついている。

われわれは、階級闘争の歴史において、しばしば、反ブルジョア的なブルジョア・イデオロギーがあらわれ、反ブルジョア的な綱領をもってつくられた「ブルジョア政党」が存在したことを、そして共産主義運動がこれらに打ちかってのみ成長しえたことを知らなければならない。

世界階級闘争のさしかかりつつある現段階において、早くも自己の基盤の喪失による危機に直面したスターリニスト毛沢東の偽似的革命、いな、正しくは反革命として、文化大革命と紅衛兵運動は把えられなければならない。それは階級としてのプロレタリアートの形成が胎動しはじめた、その直前にプロレタリアートを鞭うち、頭をくだき、麻庫させ、解体させんとする予防的反革命である。

毛沢東政権の樹立は何を意味したか

1949年、辛亥革命以来の内乱に終止符をうち、ほぼ全中国を統一した中国共産党・毛沢東政権の樹立は、日本帝国主義の敗北と解体に乗じて怒涛のごとく前進を開始した東アジアのプロレタリア革命にとって、重大な敗退を余儀なくされたことを意味した。

それは、47年初頭に二・一ストとして頂点をつくり出した日本プロレタリアートの闘いが恥ずべき日本共産党・スターリニストの裏切りを通して崩壊させられたことと呼応し、東アジアにおける反革命体制を完成させ、太平洋の全域におけるアメリカ帝国主義の支配を確固たるものとしてうちかためていったのである。

中国におけるスターリニスト毛沢東の勝利は、危機にあるモスクワの官僚を救い出し、その後背地の安全を保障することによって、ヨーロッパの分割を基礎とする帝国主義とスターリニストの相互依存関係を固定化し、「ヤルタの平和」とよばれている現段階における帝国主義の反革命体制の土台を形成するものであった。

その勝利こそ、ただ単に中国プロレタリアートを残虐に絞殺し、冷嘲的な官僚の反動体制を中国にうち立てたにとどまらず、全アジアに対する帝国主義支配の再編成の出発点となったのであり、植民地革命におけるプロレタリアートのイニシアチブに対してはかりしれないほど大きな打撃を与えるものであった。それはスターリニストや、その哀れむべき俗物同伴者どもの言うように、植民地革命の成果でも、その出発点をなすものでもなく、その全く正反対の、帝国主義支配に対して闘う植民地人民の展望を閉じ込める反動の勝利であった。

アメリカ帝国主義は、きわめて安価な代償を支払うことによって、すなわち、蒋介石の国民党を犠牲とすることをもって、自己の太平洋における「安全」と全世界における支配的地位を確保することが出来た。こうすることによって、はじめてアメリカ帝国主義はヨーロッパの政治におけるへゲモニーを掌握しえたのであり、その後の時期における彼らの全戦略の構築が可能とされたのであった。

スターリニスト毛沢東の勝利は、中国革命の挫折と中断を意味しているばかりではなく、世界プロレタリア革命の後退と反動の高波が一つの頂点に到達したことを示すものであった。

このとき、彭述之(ペン)を指導者とする第四インタナショナル中国支部は、この反動の高波に押し流され、党の政治的・組織的独立性を放棄し、スターリニスト毛沢東に完全に屈服し、中国プロレタリアートの闘う基礎を自らの手で破壊し去ったのであった。さらに、この公然たる彭述之らの裏切りを白昼堂々とまかり通らせることにより、パブロ主義的第四インタナショナルもまた、反動の高波にのみこまれ、溺れ死んだのであった。

革命的プロレタリアートにとって、スターリニスト毛沢東による中国の全国統一と独立が、真に意味するのは、右のようなものでしかなかった。

毛沢東のへゲモニーその歴史的基盤

1935年、遵義において中国共産党に毛沢東のへゲモニーが確立されたのは、スターリニズムに対する競争の結果としてではなかった。そのへゲモニーは、ただ、中国共産党がプロレタリアートから切り離され、プロレタリア的傾向が根絶やしにされたことを基盤とし、また、それにとどまらず、一度つくられた非プロレタリア的な基盤を積極的に防衛し、強化することのなかに自己の展望を見出し、発展(正しくは無限に後退)していくものとして確立されたのであった。

それは、世界史上はじめて樹立された労働者国家をめぐる左翼と右翼=スターリニスト官僚との闘争において、スターリニストが勝利し、10月革命の成果をさん奪したことを通して、逆に10月革命を生み出していった革命的な諸力を官僚がのみつくし、第三インタナショナルを世界帝国主義支配の秩序内部に転位させたことと結びついていた。

毛沢東のへゲモニーの確立を示す遵義会議は、第三インタナショナルの死滅の歴史、あるいはその極端な腐敗の深まりの上で、一つの重大な里程標をなすものであった。

それは、スターリニストやその同伴者の歴史家の言うように、極左的な李立三・王明路線の清算と日本帝国主義の侵略に対して、全人民を組織して闘争する正しい路線の確立、等々のものではなかった。また、スターリニストの左翼的補完物としての中間主義者が無内容に主張するように、ただ単にプロレタリアートをブルジョアジーの下に従属させるだけのものではなかった。それは、スターリニストが自己の利益のために、なかでもドイツのプロレタリアートをナチズムに売り渡すことを通じて、史上最初の労働者国家=ソ連邦におけるテルミドール反動を確固たるものとして完成し、帝国主義とスターリニストの協調によってのみ、帝国主義の世界支配がはじめて維持される時代、したがって世界革命を目指すプロレタリアートが「帝国主義の打倒」と「スターリニスト官僚の打倒」とを同一の任務とする時代のものであった。

ソ連邦におけるテルミドール官僚と不可分に結びついていた毛沢東の党は、プロレタリアートに代ってプロレタリアートのために闘ったのではない。プロレタリアートに対して、ブルジョアジーの代理人として闘ったのであり、分裂する帝国主義の一方の翼に、日本帝国主義に対抗してアメリカ、イギリス帝国主義の支配の一翼へと自己を組織していったのであった。

毛沢東路線の反動的・日和見主義的性格は、決して超時代的な性格のものではない。また、後進的な、半植民地国としての中国の歴史における特殊な性格をもつだけではない。

その基礎とされているものは、1925~27年の中国革命がスターリン・ブハーリン指導下の第三インタナショナルによって裏切られ、敗北させられたことである。さらに、世界革命の指導機関として組織された第三インタナショナルが、逆に世界的な反革命の装置へと転落させられたことを通して、プロレタリアートが民族国家の国境にそって分断させられ、孤立分散化させられていきつつあったことこそ、毛沢東の中国共産党におけるへゲモニーの確立を可能にしたものであった。毛沢東の党は、その形成の最初の段階から反動的な情勢と反動的な力によっていたのである。毛沢東の党の階級的性格は、スターリニストの左翼的尻尾にしかすぎない中間主義者が主張するように、貧農あるいは農民一般ではなく、その実体を貧農、半プロレタリア的分子などによって形成しながらも、農村と都市における階級闘争の深化を抑圧する、言いかえれば、その本質においてブルジョアジーを自己の階級的基盤とするものであった。

帝国主義の侵略によって触発された内乱が、歴史的に唯一の進歩的な勢力であるプロレタリアートがうちくだかれているが故に終息させることができず、それ自体、没落する世界資本主義の縮図であった中国社会の深刻な矛盾のなかで、ただ一つのブルジョア的な出口として、中国ブルジョアジーによって展望されたのであり、このようなものとして、毛沢東の党が登場したのであった。

その任務は、中国ブルジョアジーの代理人として、帝国主義支配を排除し、強力な中央集権国家の下に全中国を統一し、広大な中国市場の統一と、そのブルジョア的な発展への道を切り開くこと以外なにものでもなかった。そして、スターリニスト毛沢東は、自己が占領支配する地域において階級闘争を抑圧しぬき、富農と地主の利益を擁護しつつ、それを自己の支柱へ転じていき、ソ連邦の官僚とはその階級的性格において異なったボナパルチスト支配をつくりあげ、抗日戦争をくぐりぬけたのであった。

#太平洋における帝国主義の反動的支柱=毛政権

太平洋をめぐる日本帝国主義との闘争において勝利したアメリカ帝国主義の戦後構想は、ほほ次のようなものであった。

解体され、無力化された日本帝国主義と、強力な、統一された、だがアメリカの庇護の下にある後進的な中国との均衡。その上に、アメリカ帝国主義の排他的・独占的な太平洋支配をうちたて、さらにソ連邦の官僚にそれを承認させること、その代償を南樺太千島列島とすること。

ポツダム宣言の真の内容は、実に右のようなものであった。

それは、アメリカ帝国主義が前世紀末の米西戦争以来、終始一貫追求して来た太平洋支配の野望の実現であり、それなくしてはアメリカ帝国主義の世界支配は構想されえないものであった。

すでに世界帝国主義そのものにまで肥大し、あらゆる競争者、あらゆる敵に対して優越的な力を築き上げていたアメリカ帝国主義にとって、中国がなお分裂と内乱状態をつづけることにより、たえず帝国主義世界の分裂と解体の要因をつくり出し、その内部からプロレタリア革命の主体的契機を生み出すことは、絶対に耐えがたいこととしてあった。

それは直接的にも自己の「安全」を脅かすものであった。アメリカ帝国主義が一刻でも早く中国の内乱を終らせようとして、くり返し調停工作をおこなったのは、このためであった。

アメリカ帝国主義にとって、中国における政府形態がいかなるものになるかは、すでに問題ではなかった。中国にただ一つの政府が存在すること、それだけがアメリカ帝国主義の基本的な関心事であった。ただそれだけがアメリカ帝国主義の世界支配の永続化、言いかえれば、世界プロレタリア革命の粉砕のために不可欠のものとしてあった。

アメリカ帝国主義にとって、中国を支配するものが慈介石であろうと、毛沢東であろうと、あるいはその連立政権であろうとなんら決定的な問題ではなかった。

ただ、ポツダムにおいて取り決められた太平洋の戦後処理、つまりアメリカ帝国主義の世界支配の実現だけが決定的であった。スターリニスト毛沢東の党が、蒋介石・国民党を中国大陸から追放し、ほぼ全国統一をなしえたのは、このようなアメリカ帝国主義の構想の枠内においてであり、その支配に対する根本的な敵対を通して実現されたのではなかった。

そして、毛沢東の党がソ連邦のスターリニスト官僚と結びつき得たのは、その国家権力の掌握が世界階級闘争の全均衡をプロレタリアートの側に有利なものへと変化させるものではなかった故であった。まさに、スターリニスト毛沢東の党は、アメリカ帝国主義の世界支配を受け入れ、それを自己の基盤とし、むしろプロレタリアートに敵対し、プロレタリアートを抑圧するものとして登場したために、中ソ同盟は実現されたのであった。

スターリニスト毛沢東の党は、太平洋におけるアメリカ帝国主義支配の反動的支柱として、言いかえれば中国プロレタリアートの敵として登場したのに止まらず、東アジア諸国と太平洋に面したすべての国々の、なかでもとくに、アメリカ合衆国プロレタリアートの敵として、その国家を打ち立てたのであった。

朝鮮戦争とスターリニスト

朝鮮戦争の勃発は、このようにして形成された反動体制が早くも破綻したことを示した。帝国主義とスターリニスト官僚との協調は、ヨーロッパにおいてはドイツ分割の固定化、太平洋地域においては朝鮮の分割としてしかありえなかった。「南北朝鮮の統一」のスローガンは、朝鮮南半部におけるアメリカ帝国主義の支配にむけられるばかりでなく、その北部におけるスターリニスト官僚の無制限な支配に対する闘争をも意味していた。この闘争は、直接に太平洋の帝国主義支配秩序に対する根本的な闘争であり、ただ、闘争のイニシアチブをプロレタリアートが掌握することによってのみ、「朝鮮問題」の解決はあり得た。

危機がプロレタリアートの登場によって克服される性格としてありながら、スターリニスト官僚によってプロレタリアートが解体され、支配されていることを通して、帝国主義支配の秩序下に組みこまれていること、だが、そのまま放置するならば、いずれの塊偏政権も崩壊し、異常な危機と混乱を通じて、プロレタリアートの登場を促さざるをえず、ようやく抑圧しえた日本プロレタリアートの再起と、成立して間もない毛沢東政権の決定的危機を呼ばざるをえないこととして展望されたために、両側からの反革命的な予防戦争として朝鮮戦争は開始されたのであった。

朝鮮戦争の全過程は、現段階における帝国主義の世界支配が、ただスターリニスト官僚の存在によってのみ維持され、またその支配の危機がもはや革命によってのみ打開できるまでに尖鋭化するとき、帝国主義とスターリニスト官僚の対立と抗争の内部へと吸収し、プロレタリアートの解体を再度おこなうことによって、両側の協調関係、相互依存関係をつくり直すこととして構築されていることを示した。

現在、べトナム戦争に対するプロレタリアートの任務が、べトコンないしハノイ政権の擁護としてはありえないことと同様、朝鮮戦争においても、プロレタリアートの闘争は、「朝鮮人民共和国支持」として、あるいは「中国人民義勇軍支持」としては組織されえず、スターリニスト官僚の偽似左翼性と闘争し、独立したイニシアチブの下に帝国主義との闘争をすすめる以外ありえなかった。

戦争全体の反動的性格の暴露と、朝鮮の分割協定を通して一つに結ばれている帝国主義とスターリニストの相互依存関係に対する根本的な闘争へ全人民を動員すること、これこそプロレタリアートの任務に他ならなかったのである。

スターリニスト毛沢東の党によって掌握された北京政権の朝鮮戦争介入は、その厚かましい宣伝とは反対に、現存の世界帝国主義の支配秩序に対する反撃ではなかった。それは、彼らが自己を積極的に組み込みつつも、すでに耐えがたい矛盾につきまとわれた反動体制を、プロレタリアートと抑圧された全人民の犠牲によって救い出し、維持する試みであった。

ポツダム宣言として示され、すでに崩壊し去った東アジアと太平洋における均衡を反動的に再建することの枠内に、スターリニスト毛沢東の党は自己の行動を厳重にとどめている。

なぜなら、この均衡こそ、彼らの全国統一の基礎であり、もしこれが再建され得ないならば、彼らの手による中国の国家的統一は危機に陥らざるをえず、中国市場の帝国主義による再分割を不可避とし、この再分割闘争へのソ連邦の官僚の介入をまねくことを通して、直接に世界戦争へ突入すること、言いかえれば彼らの統制から独立した闘争を、世界革命の時期を切り開くことを意味した。

このような事態への発展を阻止することこそ、スターリニスト毛沢東の党の目的であった。

太平洋地域においては、朝鮮半島の分割協定としてのみ実現されえたアメリカ帝国主義のへゲモニー、その下による帝国主義とスターリニストの相互依存関係が、もはや、維持できなくなった事態を暴力的に再調整し、生きながらえさせようとした反動的な朝鮮戦争へ、スターリニスト毛沢東の党は、自己の基盤を死守するために積極的に参加し、そこにプロレタリアートの革命的なエネルギーを動員し、同時にその内部に閉じ込め、解体しつつ、帝国主義支配の再編成へ逆流させていったのであった。

中ソ対立と危機の性格

アメリカ帝国主義の排他的、独占的な太平洋支配と、それに対するソ連邦官僚の承認を基盤とし、中国ブルジョアジーの代理人として全中国を統一したスターリニスト毛沢東の党の支配下において、中国経済はめざましい躍進的な発展をとげつつも、ただちに深刻な内的危機に直面せざるを得なかった。

中国経済の発展は、直接的には内乱状態の克服による国内市場の統一、鉄道の再建と水利体系の改修による農業生産の回復によってもたらされたものであった。

なによりも、その促進剤となったものは、中国にただ一つの政治的中心が形成されたことであり、内乱の時期に蓄積されてきた力が一つの政治的中心によって結びつけられ、融合し、急速な発展を開始したことであった。

しかし、このこと自体、毛沢東政権の基礎を掘りくずすことでしかない。それはただ、ブルジョアジーの公然たる復帰と、政治形態としてのブルジョア民主々義への転換か、それとも中国革命の再開かの岐路に、スターリニスト毛沢東の党を立たせるだけのものでしかなかった。

それは、直接に世界政治と世界経済の問題である。言いかえればスターリニスト毛沢東の党を通して、自己の支配を貫徹しているブルジョアジーが、毛沢東政権を打倒して直接的に国家権力を掌握することは、決して平和的には行われえない。巨大な中国経済と中国市場を統一的に支配しえないほど弱体な中国ブルジョアジーによっては、毛沢東政権を打倒することはなしえても、その後に生れる混乱とプロレタリアートによる国家権力の奪取を粉砕し、その事態をブルジョア的に収拾することは展望されえない。ただ、帝国主義による介入のみが、ただ中国の再分割・植民地化のみが、その展望を可能とさせる。

たえまのない飢餓にさらされている7億の人口、荒れはてた大地の広がり、各地方を結びつけるにはあまりにも不確かな交通網、重工業の不均衡と脆弱、そして、農業における原始性とそれに結びついている労働生産性の低さ。

あまりにも不均衡で、脆弱な構造をもつ中国経済の工業化・近代化を達成するためには、その国家的独立をもってしては決して十分ではなく、ただ必要最低限の条件が満たされるにすぎない。そして次の瞬間には、再度、一層の尖鋭さをもって矛盾にとらえられるだけである。

中国経済の重化学工業化―― それなしにはその統一性は保ち得ない――は、世界全体の工業力との直接的な結合なくしては、ほとんど不可能である。しかし、そのことはスターリニスト毛沢東の党が自己の基盤とする帝国主義支配下においては、不可避的に中国の再分割としてしか実現されえない。そしてスターリニスト毛沢東の党は、ただ中国が統一されていることを存立条件としている。

世界経済において中国経済が占める位置から、中国におけるブルジョア的発展は、ただ一つの政治的経済的中心の形成へと向うのではなく、帝国主義諸国のそれぞれによってある地方が他の地方へ対立させられ、分断されていくものとしてあった。それは、先進的なヨーロッパやアメリカとは異なり、また日本とは異なり、ただ、その有機的結合の破壊としてのみ実現されたのであった。

スターリニスト毛沢東の党が支配権をうちたてるとただちに直面したのは、この「遠心力」、世界プロレタリア革命の過程の内部に中国をおし包んでいくことによってのみ克服されうる力、毛沢東路線を生み出し、強化し、ついには権力まで押し上げた同一の力が、今やスターリニスト毛沢東の党をその基礎からくずれさせはじめたのであった。

49年以前からの「求心力」と「遠心力」の矛盾した関係から、スターリニスト毛沢東の党は中国社会を解放し得ず、ただその関係を大規模に再編成したにすぎず、しかも、この再編成過程にソ連官僚をまきこみ、来るべき危機の真只中に介入する条件をつくり出し、中国市場の再分割が帝国主義によってのみなされるのではなく、ソ連邦官僚の再分割過程への参加を不可避とする関係として再編成したのであった。

スターリニスト毛沢東の党における最初の粛清が、「東北独立王国」を樹立しようとした高崗・饒漱石グループの処断として行われたことは、この再分割過程が、北方から、しかも今日あるいは昨日はじまったのではなく、すでに、その成立の初期から開始されていたことを示している。

それは、官僚の各派の意志をこえて、中国よりはるかに高い技術水準と工業生産力を備えたソ連邦の影響は中国東北地方をおおい、不可避的にその支配下に引き込まざるを得ず、スターリニスト毛沢東の危機を急速につくり出さざるを得なかったためである。

ここに、中ソ官僚の対立の真の動因があり、現在の中国における階級闘争を決定し、方向づける矛盾がひそんでいる。

スターリニスト毛沢東が、なによりも「ソ連修正主義」との闘争なしには自己の存立基盤を維持し難いとしているのは、このためであり、また、その「修正主義」との闘争が無慈悲で強暴なものとならざるを得ないのもこのためである。

スターリニスト毛沢東の党の内部から生れ、その基盤の上に成長しはじめた「修正主義」、その清算がこれまでの自己の清算でしかあり得ず、そして闘争が激化すればするほど、その共有する基盤の危機としてしか進み得ないという関係、出口なき絶望のきずなによって一つに結ばれている「修正派」と毛・林一派の闘争―これがスターリニスト毛沢東の党の、現在の内部闘争である。

左への大転換?―人民公社運動

1958年に人民公社運動として始まったスターリニスト毛沢東の党の「左への大転換」は、「ソ連修正主義との対決」から「アメリカ帝国主義との全面的な闘争」まで一体であり、不可分のものであった。それは、ハンガリー革命に集中的に表現された世界階級闘争の高揚におびえたスターリニスト毛沢東の党が、再びプロレタリアートの革命的なエネルギーを帝国主義とスターリニスト官僚の相互依存関係の内部に吸収し、解体するための大がかりな政治攻勢であった。人民公社運動は、スターリンの集団化運動とは、その階級的基礎において異なっている。

スターリンの集団化運動は富農に対する闘争、都市と工業のために富農および富農によって握られた農業の収奪として展開された。

だが、スターリニスト毛沢東の党によって押し進められた人民公社運動は、富農のための闘争、スターリニスト毛沢東の党が歴史的に自己を結びつけてきた富農の闘争に他ならなかった。

その直接的な目的は、貧農と中農とを根こそぎ収奪し、土地と生産手段のすべてから切り離し、プロレタリアートへ転落させ、富農およびそれと結びついている官僚のために「豊かな農業社会」を建設しようとするものであった。

それは反動的なユートピアを、超反動的な方法によって築き上げようとする反動的な試みであった。都市と農村のプロレタリアートを徹底的に収奪することによって工業を建設し、それによって生み出される力をプロレタリアートに向って振りかざし、完全に解体しつくすこと、その運動にプロレタリアートを軍隊的な規律の下に動員し、あらゆる抵抗、たとえどんなに小さく、自然発生的な抵抗でも抑圧し、粉砕することによって危機を乗り切ろうとするものとして人民公社運動が組織されたのであった。

スターリニスト毛沢東の党を人民公社運動へ駆り立てていった力は、彼らが宣伝しているようなものではない。ヤルタ協定を基礎として成立し得た東ヨーロッパ諸国、ただドイツ分割を基礎として生きながらえている東ヨーロッパ諸国におけるスターリニスト官僚の支配が、なにごとも解決し得ず、むしろ一層野蛮な状態へ東ヨーロッパを逆行させ、ありとあらゆるすべての生命力を腐敗させ続けて来たことへの反乱が公然と開始されたとき、ハンガリー革命が帝国主義支配の全均衡を危機に落入れたとき、スターリニスト毛沢東の党は、世界プロレタリアートの背後から打撃を加え、その均衡を回復するための世界反動として登場したのであった。

帝国主義によって掌握された世界経済のたえまのない圧力によって広大な領土と人民が分断され、各地方の政治的経済的割拠と社会の解体の危機にさらされながら、ただ、帝国主義とスターリニスト官僚との協調と抗争の相互依存関係によって保持されて来た世界帝国主義支配の均衡によってのみ、自己の支配的地位を可能とされて来たスターリニスト毛沢東の党、この党が自己の基盤の決定的な危機が開始されたことを感じとり、そして、この危機を乗り切るものとして人民公社運動を出発させたのであった。

しかし、スターリニスト毛沢東の試みはすぐさま挫折する。

まず第一に、すでに深く浸透するまでに至っていたソ連邦官僚の力と衝突せざるをえないことにより、これまでの中ソ関係を全体にわたって再検討することを余儀なくされた。それは同時に、ソ連邦官僚にとっても同様であり、これまで隠されたまま進行して来た両者の利害対立の爆発的発展をもたらした。チトー主義の問題から、対立が中央アジアの領土問題に発展するまでの時間は、ほんのわずかでしかなかった。

モスクワの圧力に抗して中国の国家的統一をかちとっていくことは、アメリカ帝国主義との全面的な対決へと自己を押し進めることを不可避とした。これは、これまでの自己の基盤としていたものに対する衝突であった。自己の依って立っている基盤をあくまでも擁護しようとする行動の一歩一歩が、これまでの基盤を解体し始める――この解きがたい矛盾した関係を公然とさらけ出したことこそ、人民公社運動の破産が示すものであった。

人民公社運動は、経済建設の中央による集約を破壊し、巨大な水利体系の荒廃をただちに結果しつつ、干魃と洪水が農業生産を切り裂き、数百万の飢えた農民大衆を流民化させ、尖鋭な社会的危機、社会そのものの解体の危機をつくりはじめた。

3年連続の自然災害は、決して単純な自然災害ではなく、スターリニスト毛沢東の党がすでに経済発展の舵を失い、地方と地方の、農業と工業の、経済のすべてのバランスが崩れ去っていたことの表現であった。

プロレタリアートの太平洋支配

毛・林一派の支配の展望はほとんどありえない。彼らの生誕の地には、スターリニスト毛沢東の党の墓碑銘がそびえ立っている。そこには「毛沢東路線の全面的破産」の文字が刻みこまれている。スターリニスト毛沢東の党は、根本的な地点で分裂し解体した。それは同時に、スターリニスト毛沢東の党に展望をかけていた中国ブルジョアジーの破産である。また、その背後にある世界帝国主義の最後の希望がたち切られ、失われたことである。

帝国主義とスターリニスト官僚の対立・抗争と協調のサイクルの内部に、世界プロレタリアートの革命的なエネルギーを閉じこめ、絞殺することによって生きのびてきた、世界帝国主義の支配秩序が最終的な危機の段階に入りこんでしまったこと、そして、もはや何人も後戻りすることが出来ないことを、それは示している。

もはや、世界帝国主義は自己の支配を存続させるために、スターリニストまたはプロ・スターリニストに依ることはできない。

昨年以来の大小様々なボナパルチスト、べンべラ、エンクルマ、スカルノ等々の没落は、この関係のなかでしか把えられない。左翼中間主義者のいうように、これらの「植民地革命」とその指導者にスターリニスト毛沢東の基盤があったのではなく、逆にスターリニスト毛沢東の中国制覇が植民地革命の展望を閉じたこと、そこにネルー、ナセル、カストロ、その他のボナパルチストが寄生する基盤が存在したのである。そして現在その基盤が危機に瀕し、新たな植民地革命の高揚を準備している。インドシナ半島全体の中立化として、スターリニストとの協同によりべトナム戦争を解決しようとする展望は、ほとんど絶ち切られた。ジュネーブ協定の新版は、同様にほとんどありえなくなった。

孤立化なき中国の封じ込めも、交渉なき平和も、事実上いずれにせよ、強大無比な中国国家が目前で崩壊していくのを、なすことなく呆然と眺めるに等しい。

巨大な中国の影が全アジアと太平洋全域にひろがっている。

その中国は飢えに苦しめられ、みずからの巨大さに脅えている。無制限の権力を握りしめ、誰からも統制されない政権の頂点には、無責任きわまりないものたちが、恐れおののきつつ座り込んでいる。強大無比の国家は、7億の人民に今日の糧を保証する能力を持っているか疑問である。まして、明日ついては――。

前世紀より帝国主義の策謀の地であり、世界政治と世界経済の動乱の発火占一であった中国は、帝国主義の世界支配の全均衡がくずれ出すやいなや、スターリニスト毛沢東による全国統一と、その十有余年の支配にもかかわらず、かつてよりはるかに大規模なものとして危機を再編成したにすぎなかったことが明らかになった。

もはや、何びともこの巨大な国家を支配しうるものは存在しえない。ただ、自己を階級として形成しはじめ、自己の指導部をつくり上げはじめた世界プロレタリアートを除いては。

ソ連邦の官僚を加えての帝国主義諸国による中国市場の再分割、それを契機とする全面的な世界戦争と人類文明の終末か――奇怪なことに毛・林一派はそれを望んでいるかのように見える――、第四インタナショナルの旗の下に、「帝国主義打倒、スターリニスト官僚打倒」のスローガンの下に、プロレタリアートによる太平洋全域に対する支配の確立か、中国の展望はこのいずれかにかかっている。