THE FOURTH INTERNATIONAL
1984年7月
批判対象としての国家資本主義論は、単なる「左翼的」装いをとったメンシェヴィズムの復活ではない。背景にある現実は、十月革命の成果であるはずのソ連邦が、実際には世界革命に対する最大の障害物として(労働者国家でありつつ…)存在しているということであり、さらには、この現実を打ち破らんとしたポーランド労働者の闘争によって一層明白な事実として突き出されたということでもある。ソ連邦とスターリニスト官僚に対して、「労働者国家擁護-批判的支持」なる実践的には無力で反動的なドグマのなかで「民主主義一般」を旗印に自己をブルジョア的潮流と融合させた統一書記局=マンデル派と国家資本主義論者との外見的な対立とは裏腹の奇妙な相似形は、何を意味しているのか? それは、スターリニスト官僚に対する「批判的支持」を立脚点とするマンデル派と、堕落したプロレタリア独裁を「歴史的には進歩的な国家資本主義」としてシニカルに解釈するステート・キャピタリストが呉越同舟であることを意味するに過ぎない。しかし現実の階級闘争において問われていたことは、左からの「武器による批判」を貫徹することなくしては誰しも左翼たり得ないという政治状況以外のなにものでもなかったのではないか。すなわち共産主義運動に関するあれやこれやの解釈の問題ではない。それはあくまで現実的な歴史として提起されたプロレタリアートの闘争の課題として把握されねばならないのである。
※ ここでの批判対象はhttp://homepage3.nifty.com/mcg/mcgtext/kokkasihon/kokkasihon2.htm における二番目の論文~1984年6月3日『変革』第四号。
わが党の香山が執筆した「マル労同の諸君が現在問題にすべきことは何か」と題する文章に対し、早速の反論を頂戴した。反論の主は、マル労同から社労党への衣替えの最大の貢献者であり理論的指導者、正確に言えば、本質的には非和解的であるはずの内容(「独裁」問題)をめぐる分裂を棚上げして、新党への「飛躍」を成し遂げることに成功した主流派の代表者、林紘義氏であった。林氏によれば、香山の指摘は「理論的にはすべて我々によって解決されていること」なのだそうだ。なるほど、それならば当方はそれがどのように解決されているのか、じっくりと見させてもらうとしよう。林氏の「解決」の仕方がどれほど「理論的」であり、どれほど「マルクス主義」的であり、そしてどれほど「高水準」なのか、単に氏と立場を異にする「トロツキスト」だけでなく、この間、氏の主張と激しく論争してきた社労党の仲間たちにとっても、あの論争が双方をどこに導く性格を秘めていたのかを理解するうえで、まことに興味深い問題であるに違いない。
香山が最初に指摘したのは、「プロレタリア革命から労農国家」は生まれないし、「労農革命からプロレタリア権力」は生まれない、ということであった。これに対し林氏は、「労農革命」が生み出す権力が何かも、「プロレタリア権力」が如何なる革命から生まれたのかも明らかにせずに、「“労農革命”から“プロレタリア権力”が生まれたなどということは全くの不合理であり、何のことかわからないたわごとであろう」と主張する。我々もその責任の大半が林氏自身にあることは別にしても、それが「たわごと」であることに全面的に賛成する。「労農革命」(なんと“創造的”なマルクス主義であることか)からはプロレタリア権力は生まれない――ともあれ一つのことが確認された。
林氏の「労農革命」(おっと、「全体としての」を忘れてはいけない)と「プロレタリア権力」の関係についてのアプローチはきわめて特色のあるもので、フランス革命におけるジャコバン独裁の存在を、直接ロシア十月革命に当てはめるという方法をとる。氏は、反論の中で三度にわたってジャコバン独裁を引き合いに出して自らの立場を説明しようと試みているほど、この歴史的類推は林氏にとって決定的な意味を持っているようである。
「全体としてのブルジョア革命」にジャコバン独裁が生まれたように、「全体としての労農革命」にプロレタリア支配が存在しても不思議ではない――これが林氏の主張するところである。
ジャコバン独裁、1793年から一年足らずのこの時期は、フランス革命史にはっきりとその足跡を残している。この時期、氏の言葉を借りなくとも「全体としてのブルジョア革命」であるフランス革命にあって、反ブルジョア的な急進的改革がロベスピエールを中心とするジャコバン党の手によって試みられた。ほら、見ろ、と林氏は言うかもしれない。「全体としての」革命の性格は、必ずしもその革命が生み出す権力の性格とは一致しないのだ! 1917年のロシアにも、同じことが起こって何の不都合があるものか!
だが、林氏のこの歴史的対比は、三つの重要な問題を手品の如く消し去ってはじめて成立するものである。
第一にジャコバン党の階級的基盤の問題であるが、この党は林氏の言うところの「都市の貧民」の党ではなかった。ジャコバンは採用した政策の反ブルジョア的性格にもかかわらず、ブルジョア、主として中流のブルジョアの中の急進派の党であった。
第二に、ジャコバンに支持を与え、その政策に重要な影響を与えた「都市の貧民」=サン・キュロットのフランス革命に占める歴史的な位置である。ロシア革命におけるプロレタリア大衆のように、サン・キュロットの「反ブルジョア」的性格は、彼らがブルジョア革命を乗り越えて、次の歴史的段階を自らが担う階級的能力を示した結果、あるいはその能力の証左であったのだろうか。
サン・キュロットはわずかなプロレタリア、それも階級意識を形成するにはまだ多くの時間を必要とする登場したばかりのプロレタリアを含んではいたが、大部分は手工業者、小商店主、そして小工業者であり、全体的には小ブルジョアであった。そして、この時代における彼らの反資本主義的意識の原動力は、彼らをしてプロレタリアの隊列に叩き込み、彼らの分相応の財産を奪い去ろうとする資本主義的生産システムに対する共通の敵意であった。1793年のサン・キュロットの建議書は次のように要求している。「財産の最高額を定めること」「一個人はこの最高額しか所有し得ないこと」「何人も一定数の犂(すき)が必要とする以上の面積の土地を賃貸に出しえないこと」「一人の市民で一工場、一商店しか所有し得ないこと」。
同じ時期、フランス革命の真の動機を代弁して代議士ドラクロワは「われわれは、あんなにもたくさんの住民のうち貧乏なものは耕作にではなく、工業や商業や工芸に生活費を見出すべきであると考えた」と語り、また他の者は「国民の大多数が土地所有者になることは不可能だ。というのはその仮定に立てば、各人がその畑やブドウ畑を生きるために耕すことを余儀なくされて、商業や工芸や工業はやがて滅びてしまうだろう」と述べている。
急速に成長しようとしていた資本主義は、大量の「自由な」労働力を必要としていた。一方小ブルジョアは「自らの肉体に見合った財産」というスローガンを掲げ、生産手段の少数者への集中に激しく抵抗した。これがサン・キュロットを反ブルジョア的な急進的改革へと走らせたのである。
「中産階級、すなわち小工業者、小商人、手工業者、農民、これらすべては、中産階級としてのその存在を破滅から救わんがために、ブルジョアジーと闘う。だから、彼らは革命的ではなく保守的である。いやそれどころか、反動的ですらある。なぜなら、歴史の車輪を逆に回そうとするからである」(『共産党宣言』)。小ブルたちが「現在の利益ではなく、未来の利益を守る」ことを学ぶには、1793年は早すぎたのである。
フランス革命の経験から引き出せる結論を、林氏の言葉を借りて表現すれば、次のようになるだろう。「ブルジョア革命からジャコバン権力が生まれた」が「全体としてのブルジョア革命とジャコバン=サン・キュロットの権力は両立しなかった」。
第一の問題と第二の問題から、第三の問題が導き出される。「全体としての」ブルジョア革命におけるジャコバン支配が事実であったのと同様に、「全体としての労農革命」であったロシア革命においてプロレタリア支配が事実であった――それを香山は認めない!と林氏は大憤慨である。氏の説明によれば、このプロレタリア支配は“政治的な概念”としては「プロレタリア国家」(しかし「労働者国家」ではないのだそうだ。レーニンもさぞかしビックリするだろう)と呼ばれなければならない。したがってジャコバン支配も同様に“政治的概念”としては「ジャコバン=サン・キュロット国家」と呼ばれなければならない。なんたることだ、フランス革命は実に「ジロンド国家」や「ジャコバン国家」「ボナパルト国家」…等々として語られるというわけだ。これが「ボルシェヴィキ政権を“プロレタリア国家”と呼ぶことはおかしい」という「一部の同志」への「理論的」説明のすべてであるとは。社労党の大会において「粗雑な理論的レベルで発言した同志」が一人だけいたということを証明してくれたというわけである。
林氏の大混乱に付き合うのは中止して、問題を整理しよう。フランス革命におけるジャコバン、あるいはロベスピエールの「独裁」、テルミドール反動に引き続くナポレオンの「独裁」、それらは勝利した「第三身分」内部における政治的ヘゲモニーの移動と結びついていたが、うちたてられた新しい社会の階級的基盤の変化を意味するわけではない。ヒトラーの独裁が、衰退してゆくブルジョア独裁の一形態であるように、ロベスピエールやナポレオンの独裁は、台頭時代のブルジョア独裁の一形態であった。
プロレタリア独裁に対比されなければならないものは、前記の「ブルジョア独裁」であり、ロベスピエール、ナポレオン、あるいはヒトラーの「独裁」ではないのだが、言葉の正確な意味においてロシアにプロレタリア独裁が存在したとすることは、林氏の「全体としての労農革命」と全く相容れない。これが混乱をもたらした原因である。
「われわれが主張するのは『全体としての労農革命』と、その経過的一契機として『プロレタリアの権力』が両立することは十分ありうるということ、それが一つの歴史的な事実であるということである。」ロベスピエールの力を借りて、18世紀と20世紀の時代の差を一挙に跳び越えようとして失敗した林氏は、今度はレーニンの力を借りてブルジョア革命でもなく、プロレタリア革命でもない、全く“創造的”な「全体としての労農革命」なる概念を押し付けようとする。ところが、ここでも林氏はレーニンの後に隠れることに失敗している。念のためにあらかじめ言っておくが、次に引用する文章はトロツキーのものではなくレーニンのものである。「われわれは、ブルジョア民主主義革命を、誰もやらなかったほど徹底的に遂行した。われわれは十分に自覚して断固として、たゆまず前進しているが、それは社会主義革命がブルジョア民主主義革命から万里の長城で隔てられているのでないことを知っているからである。われわれがどれほど前進できるか、限りなく高度な任務のうち、どの部分を果たすことになるのか、われわれの勝利のうち、どの部分を確保することになるかということは、闘争だけが決定することを知っているからである。だが今でももうわれわれは、――荒廃し、いためつけられた後進国にしては――社会を社会主義的に改造するうえですこぶる多くのことが成し遂げられたことをみている。」「われわれは、ブルジョア民主主義革命の諸問題を、われわれの主要な、ほんとの、プロレタリア革命的な、社会主義的な活動の『副産物』として、通りすがりに、ことのついでに、解決してしまった。改良は革命的な階級闘争の副産物であるとわれわれは常に言ってきた。ブルジョア民主主義的な改造は、プロレタリア的、すなわち社会主義的な革命の副産物である――われわれはそう言ってきたし、事実によってそれを証明した。ついでに言っておくがカウツキーとか、マクドナルドとか、トゥラッティとかいう連中や、その他『第二半』マルクス主義の英雄たち(林氏も名前を加えてもらってはどうか―星)はみな、ブルジョア民主主義革命とプロレタリア社会主義革命とのこのような関係を理解できなかったのである。」「ソヴィエト体制は、労働者と農民のための民主主義の極致である。それと同時に、ブルジョア民主主義との断絶を意味し、民主主義の世界史的な新しい型の発生を、すなわち、プロレタリア民主主義あるいはプロレタリアートの独裁の発生を意味する。」(1921年10月『十月革命四周年によせて』~文中の強調はレーニン自身)。
レーニンはここでブルジョア民主主義革命と社会主義革命の関係を実に簡潔に定式化している。社会主義革命は、ブルジョア民主主義革命から万里の長城でへだてられていはしない。後者から前者への『成長転化』の結果として、ブルジョア民主主義の諸問題は『副産物』として解決される――林氏の大嫌いな永続革命の思想がここにある。そんなことは認められない! 第一、1905年のレーニンはそんなことは言わなかったではないか!――気の毒ながら革命は1917年に起こったのであり、それは党内における、「古い公式」にしがみつく古参ボルシェヴィキに対するレーニンの必死の闘争によって勝利を手にすることができたのである。泣き言はあまり大きな声で叫ばないほうが良い。
さて、ついでにレーニンと林氏の「師弟関係」にけりをつけてしまおう。林氏の主張全体を貫く「後進国ロシアには資本主義だけが可能である」という大「法則」に対して、レーニンはどのような立場をとったのであろうか。林氏のこの主張は、何も目新しいものではない。ほかならぬネップの期間に幾度となく繰り返されたものである。「彼ら(ボルシェヴィキ)は資本主義へ退却している。この革命はブルジョア革命だと、われわれは常に言ってきた」(オットー・バウアー)、「私は、ロシアのソヴィエト権力を支持することに賛成である。私がソヴィエト権力を支持することに賛成するのは、この権力が普通のブルジョア権力に転落していく道に立ったからである。」(カデットのウストリヤノフ)。レーニンの答えは簡単である――「メンシェヴィズムを公然と表明する者には、われわれの革命裁判所は銃殺で応えるに違いない。もしそうしないとすれば、それはわれわれの裁判所ではなくて、なんだかわけのわからないものである。」(「ロシア共産党中央委員会の政治報告」1922年3月)。
ブルジョア革命とプロレタリア革命の間に「万里の長城を築く」ことを批判するレーニンが、あるいはブルジョア革命の「限界を越え」るべきではないと主張するカデットやメンシェヴィキに「銃殺だ」と言うレーニンが、林氏の評価によれば「事実上は史的唯物論者で」あるのかないのか、判断は林氏自身が行うべきである。
「全体としての労農革命」という概念の性格は、もはや説明の必要もないほど明らかになった。林氏自身これは「急進的ブルジョア革命」のことだと打ち明けてくれてはいるのだが、にもかかわらず、この意味ありげな用語にしがみつこうとするのは、林氏の立場はカデットやメンシェヴィキの立場を密輸入することによって成り立っていることを隠蔽するためだけである。
林氏をレーニンに、したがってマルクス主義に敵対させる決定的主張は「ボルシェヴィキ政権は、プロレタリア権力といえども、もしプロレタリアートの解放をなしとげる物質的条件のないところに生まれるなら、崩壊するか、それとも変質するか、どちらかしかないことを明らかにした貴重な歴史的経験でもあった。これは、マルクス主義の唯物論の正しさを、ある意味で完璧に証明したといえるだろう。」!!
驚くべき主張である。林氏がロシア革命について、何も理解していないことを「あらゆる意味で完璧に証明している。」
ロシアは後進国だ。そこにはプロレタリアート解放のための物質的条件が存在しない。だから権力はブルジョアジーに委ねられなければならない。プロレタリア権力に敵対したすべての反動の共通のスローガンが林氏によって宣言された。林氏は解放の物質的条件をどこに見出そうとしているのだろうか。
ここで我々は思い当たることがある。林氏がレーニンの「二つの戦術」に言及するとき、さりげなく欠落させた内容がある。それは、ロシアにおけるブルジョア革命の勝利は、西ヨーロッパにおける社会主義革命に巨大な刺激を与えるであろうし、西ヨーロッパの革命はロシア革命を復古の危険から保護し、ロシア・プロレタリアートの権力樹立の可能性を切りひらくだろう、という展望である。レーニンは1905年ですらロシア革命をヨーロッパ革命との関連の中で、ヨーロッパ全体の社会主義革命の展望の中で把握しようとしていたのであり、1923年には次のように述べている。「彼らが西ヨーロッパの社会民主主義の発展期に丸暗記していた論拠は果てしもないほど紋切り型であって、我々はまだ社会主義を実現するほど成熟していない、また、わが国には、彼らの仲間のいろいろの『学者』先生が言うように、社会主義の客観的な経済的基礎がない、ということにある。そして、次のように自問しようとは、誰の頭にも思い浮かばないのである。すなわち、第一次世界戦争中に生じたような革命的情勢に遭遇した人民なら、窮境にうごかされて、文明のいっそうの発展の見込み、必ずしも普通ではないかもしれないが、それにしても何がしかの見込みを人民に与えたような闘争に突入しそうなものではないかと。」
ロシア革命は「帝国主義の最も弱い環」を打ち破った。しかし、それは最も弱い環ではあったとしても間違いなく帝国主義の環であり、そのことなしにプロレタリアートの勝利はありえなかった。フランス革命におけるジャコバン独裁ですら、封建的ヨーロッパの軍事介入を抜きに語りえないが、いま我々が問題にしているのは帝国主義段階における、しかも帝国主義戦争のただ中で誕生したプロレタリア国家なのである。
林氏の宣言は、ロシア革命とそれに引き続く時期も、そして現在もなお帝国主義戦争とプロレタリア革命の時代であることを否定するものである。プロレタリアート解放の物質的条件とは、資本主義の最高の発展と崩壊の時代という、この性格のうちに存在することを理解できない者は、革命について何も理解できない者である。
林氏はこの宣言によって公然と「一国社会主義」の立場への移行を明らかにした。プロレタリア解放の物質的条件を、民族的な国境の枠の中だけで理解しようとする以上、「一国社会主義」論を拒否する理由は皆無である。林氏が形だけでも国際主義の帽子をかぶりたいと考えるなら、世界地図を広げて「物質的条件」の有無で各国を色分けしなければならない。そしてその瞬間、氏は立派な二段階革命論者になりおおせるというわけである。
こうして我々は「全体としての労農革命」論の、より重要な役割を理解することができた。それは思想的にはスターリニズムへの屈服の道を掃き清めるものであり、実践においてはプロレタリア革命を、永遠のかなたへ追いやる役割を果たすものである。
「帝国主義時代たる現代、すなわち金融資本のヘゲモニーの下にある世界経済と世界政治の時代にあっては、どの共産党といえどももっぱら、あるいは主として自国の諸条件や発展の諸傾向から出発することによってその綱領を確立することはできない。1914年8月4日、国民的綱領を永遠に葬る弔鐘が鳴り渡った。プロレタリアートの革命政党は、ただ、現代、すなわち資本主義の最高の発展と崩壊の時代の性質に相応した国際的綱領の上にのみ自己を基礎付けうる。国際共産主義綱領は決して各国民的綱領の総計でもなければ、それらの共通の特色のアマルガムでもない。国際的綱領は、世界経済と世界政治体制の諸条件と諸傾向を、あらゆる関連と矛盾、すなわち個々の部分が互いに反発しあいながら相互に依存しているままを、全体として取り上げて分析するところから直接出発しなければならない。現代においては、過去におけるより以上に、一国内のプロレタリアートの方向付けは、ただ、世界的な方向付けから招来さるべきものであり、またされ得るのであって、この逆ではない。共産主義的国際主義とあらゆる種類の国民的社会主義の根本的、基本的差異はここにあるのである。」(トロツキー『レーニン死後の第三インターナショナル』)
香山の「国家資本主義論批判」に対する社労党の林氏の「反論」は、自らの「労農革命」を理論的に裏付けようとした「フランスにおけるジャコバン独裁」との歴史的類推において、完全に破産したばかりでなく、この「理論」はロシア革命に対するカデット、メンシェヴィキなどの反ボルシェヴィキ陣営の理論の口うつしに過ぎないことも明らかになった。まったく、レーニンやロベスピエールこそいい迷惑であっただろう。
だが、なぜ林氏はかくも支離滅裂な展開を、十分な検討もなしに「反論」として試みなければならなかったのだろうか。この疑問を解く鍵は、どうやら「反論」後半部の日本革命に言及した部分にありそうである。
「問題は、たとえば最高の先進国のひとつである日本で、プロレタリアートが権力を獲得したら(つまりブルジョアジーを打倒したら)『資本主義的要素』を止揚することができるかどうか、ということである。我々は完全に可能であるばかりか、まさにそれこそプロレタリアートの権力獲得の直接の目的であると強調するだろう。」
林氏の「目的」を「強調」するために、林氏自身が対置した『我が評論家』氏の言い分も見てみよう。「日本の労働者諸君、諸君が権力を獲得しても直ちに「『資本主義的要素』を止揚することができるわけではない。資本主義的価値の生産や利潤の生産も残るし、残らざるを得ない、性急になるべきではない…。」
なるほど日本は高度に発達した資本主義国であり、1917年のロシアの状況に比べればはるかに資本主義として成熟している。そんなことは子供にも明らかだろう。ところがなぜか林氏は無視するのだが、高度に発達した資本主義国であるがゆえに、それだけ世界市場への依存も強固なのである。今日、およそまともな思考のできるブルジョアならば、孤立した日本資本主義をまじめに考える者はいないだろう。それどころか、今以上に貪欲に資源を求め、商品の販路とより安い労働力を追求し続けているのが現実である。一般的に言って、社会主義は資本主義が造りだした最高の水準の生産力を受け取るが、勝利したプロレタリアートは、資本主義的生産の持つ私的性格と無政府性を、プロレタリアートの国際的協同に基づく単一の計画的経済体制に再編成することによって克服し、資本主義が到達しえた以上の生産力水準を人類にもたらし、社会主義社会の実現を可能にするのである。ところが、今問題になっているのは、日本という一国におけるプロレタリアートの権力獲得である。林氏が願望するように、この権力獲得の過程が極めてスムーズであったとしても、勝利した日本プロレタリアートが直面するものは、たとえ一時的であれ、国際市場から切断された「小国日本」という現実である。国際市場からの切断は、後進国ロシアよりも「最高の先進国」日本にとって致命的問題である。なるほど「資本主義的要素の止揚」が目的であることは疑いないにしても、かかる状態においてそれが完全に可能だとするならば、林氏がつくり出そうとする「社会主義」とはポル・ポト式社会主義に他ならないであろう。林氏のみならず故対馬忠行などの「先進国一国社会主義可能論」は、意に反してとんでもないところへ労働者を導きかねない。
林氏の言わんとするところは、種を明かせば「プロレタリア独裁を素通りしたい」ということである。だから、「資本主義的要素」は直ちに、完全に止揚できるものでなければならなかったのである。氏はマル労同内における「プロ独論争」において次のように主張している――「ブルジョアジーやファシズムなどの凶暴な反革命およびブルジョア国家に対する労働者の階級闘争が発展し、ブルジョアジーとブルジョア国家の解体がある程度進まなければ、そしてこれらの闘いを通して労働階級が真に階級的に結集することがなければ、この発達した資本主義国で、このブルジョア民主主義の下で、労働者が権力を握り保持することができないこと、そしてプロレタリアートの勝利が同時にブルジョアジーの解体であることは、まったく明らかであるように思われる」。
わが林大先生は、後進国におけるプロレタリアートの権力奪取を拒否しただけではもの足らず、先進国においては労働者が「真に階級的に結集するまで」、ブルジョアジーに対する暴力的抑圧を必要としないほどに、ブルジョア国家の解体が進行し、プロレタリアートが勝利を「宣言」しさえすれば直ちにブルジョアジーが解体するようになるまで、労働者は権力を握るべきではないというのである。林氏には、権力を握ったプロレタリアートは、単にブルジョアジーや小ブルの抵抗を打ち破る必要があるだけでなく、ほかならぬプロレタリアート内部のアナーキスト的傾向や、サンディカリスト達とも闘わねばならない、などということは思いもよらない。否、労働者階級が分裂しているうちは「真に階級的に結集している」とは言えないのだから、権力奪取は問題にならない!(ハッハッハ―)唯一救いがあるとすれば、そのような状況下では「社労党」なるものもまた存在する必要がない、ということだけである。
誤解のないように付け加えるが、我々は「先進的労働者」を侮辱しているのではない。単に林氏の非マルクス主義的思考をあざ笑っているだけである。
「カウツキーやバウエルは、『どこから出てこようがおよそ暴力なるものについては』、全部一緒くたに、憤激と嫌悪の念とをもって語っている……これらの俗物的な臆病さをあらわす『真性社会主義者たち』の特色は、党内事情についても典型的にあらわれていた。マルクスは語っていた、『これらの老婆の特徴は、彼らがいかなる誠実な党内闘争をも、ぼかしたり砂糖をまぶしたりしようとつとめる点にある。』これこそ、『偏見がなく』『中立的で』『独立な』理論家たちの、真の見本ではあるまいか。」(ブハーリン『過渡期経済論』、レーニンはこの部分に「おおいによし!」との評注をつけている)。――林氏の「トロツキスト」への支離滅裂な非難の真のねらいは、「党内闘争をぼかしたり砂糖をまぶしたり」するためのものである。
再び「労農革命論」に立ち戻ろう。というのも、この政治的立場の反動性は看過することができない性格を持っているからである。
社労党の新しい機関紙『変革』7月22日号の「社会主義労働者党の新綱領解説(9)」において林氏は次のように述べている。「ロシア革命、中国革命は、それらがいずれも直接に社会主義へと移行することができず、結局“国家資本主義”と我々が規定する一種の資本主義社会に帰着した、という点で共通であり、根本的に同一である。」「しかし他方では、区別があらわれる。」「ロシア革命では……圧倒的な農民の支持を得てではあれ、プロレタリア政権が何年か存続した。それは可能性として、世界プロレタリア革命の突破口、その先駆となりうる革命であった。」「しかし中国革命は、“半植民地国家”の革命としてはじめから農民革命、“新民主主義革命”として勝利した。1925年~27年の革命の敗北の後、中国の労働者の闘いは革命の過程でどんな重要な役割も演じていない。」「帝国主義の時代の世界革命はその一環として“民族民生”の革命を含んでいた、まさにこうしたものとして、それは必然的に現代の世界への、つまり一方における経済的大国の(ロシア、中国の)国家資本主義的発展と先進資本主義国における国家資本主義への移行を避けられないものとし、“高度”帝国主義の世界を、その時代を必然的にもたらしたのである。」
“高度”帝国主義の世界は「必然的」にもたらされた! この「必然性」たるや、林氏自身が例えば中国革命について述べている部分に従えば……1925~27年の第二次中国革命は古い中国を根こそぎ変革するに十分な革命的エネルギーを持ち、労働者、農民は怒涛のように進撃して行った。ところが、スターリンとコミンテルンは、この先頭にブルジョアジーを立たせるよう強制し、労働者大衆の運動をブルジョアジーの許容する枠内に押しとどめようとした。そして、闘いが枠をはみ出したとき、ブルジョアジーは凶暴に労働者人民に襲い掛かり圧殺しさった。スターリンは中国革命に再起不能ともいえる打撃を与えた。そして、二〇年後“人間の”革命として勝利した。(『変革』第12号「歴史の真実を明らかにして」)
中国の労働者は革命の過程でどんな役割も果たしていない――林氏自身がそう語っているにもかかわらず、中国革命は“勝利”したのだ! これが「労農革命論」に基づくところの歴史の「必然性」の内容である。
われわれトロツキストは、一部の自称トロツキスト(たとえば「日本支部」の諸君)は別として、かかる“人間の革命”は断じて「勝利」として評価しない。中国における毛沢東の中共の権力掌握は、第二次中国革命におけるプロレタリアートの敗北を歴史的前提条件としたものであり、毛沢東はその後一度としてプロレタリアートのヘゲモニー再建のために真剣な努力を払ったことはない。むしろ、それに敵対することによって、中国大陸からの日本帝国主義の撤退とヤルタ・ポツダム体制の成立という歴史的条件の下でブルジョアの中国として統一を成し遂げたのである。
林氏の「労農革命論」は、プロレタリアートの闘いの敗北を、「必然」の名において全面的に肯定して恥じない、反動的な「理論」である。
これほどの世界の労働者に対する裏切りがあろうか。林氏の論理的立場が既に世界の労働者の立場とこれほど決定的に対立するほどになっているのだ――だが林氏はこの自らの裏切りにまったく無自覚である。論理のない運命論者ほどたちの悪いものはない!
林氏は、1949年の毛沢東の勝利は、中国プロレタリアートにとって「勝利」なのか「敗北」であったのか、とは決して問おうとはしない。また、毛沢東の勝利は、アジアの特に日本のプロレタリアートにとって何をもたらしたのか、「前進」か、あるいは「障害」かも無関心である。氏にとって、ただそれが「国家資本主義」の「必然性」を証明する事件でありさえすれば、中国において勝利したのは一体どの階級なのかという問題すら無関係なのである。ロシアにおける勝利と中国における敗北を、ともに「必然性」の下に押しつぶしてしまう「労農革命論」は、日本革命においてもまた「必然的」に日和見主義に転落するのである。
林流「唯物史観」のユニークさは、自らがつくり出した公式に、自らは答えられないという点にもあらわれる。既におなじみであるがはやし公式によれば「ボルシェヴィキ政権は、プロレタリア権力といえども、もしプロレタリアートの解放をなしとげる物質的条件のないところに生まれるなら、崩壊するか、それとも変質するか、どちらかしかないことを明らかにした貴重な歴史的経験でもあった」ことになっている。
そこで林氏にぜひ問わねばならない。ロシアにおいて「プロレタリア権力」は「崩壊した」のか、「変質した」のか? 「どちらかしかない」のだから、どちらかであるはずだが、どちらであっても実は林氏にはまことに都合が悪いのである。
『スターリン体制から“自由化”へ』のなかで、林氏は対馬忠行らの「官僚制」国家資本主義論との関係を否定して次のように言っている。――それはせいぜい、トロツキー的な、資本主義への「逆もどり」といった発想に立つものだ。……だがもちろん、どこにもあともどりなどは存在していない。このあともどりという表現は、スターリニズムに「裏切られ」たと感じている現代小ブルジョア知識人の幻滅し、意気阻喪した心理の表現以外の何ものでもない。(43ページ)――あるいは――対馬忠行らのソ連論は……「過渡期社会」の「変質」としての「完全な国家資本主義」といった抽象的観念論的な空辞以外の何ものをも含んでいない。(280ページ)
ロシアのプロレタリア権力がブルジョア反革命によって打倒され、「崩壊」した後に、ネップが採用されたのならば、それは紛れもなく「あともどり」としての国家資本主義の登場を意味したであろうが、林氏も承知のとおり、内戦によりブルジョア諸勢力が一掃された後にネップが開始されたのであり、またそれ以後の歴史的経過のなかで、ブルジョアジーがこっそりと政権を奪取したとするのはトロツキーの指摘のとおり「改良主義のフィルムの逆回し」である。あるいは対馬忠行の主張するごとく、プロレタリア階級内部から国有化経済を基盤とする「新たな支配階級」が形成されたとするならば、それは確かに「変質」に違いない。この場合、対馬らは無関心であるが、プロレタリア階級を「墓堀人」とするブルジョア社会は、人間社会前史の最後に存在するものでなく、勝利したプロレタリアートは、「新たな支配階級」なるものにその座を明け渡さねばならない存在に落とし込まれてしまう。
「崩壊」でもなく「変質」でもないとする林氏はいかなる道を見出したのであろうか。
「われわれの『国家資本主義』という規定には、いささかの道徳的内容も含まれていない。それは当時の歴史的環境のもとで統一的な国民経済を形成し生産力を発展させるための歴史的に必然的な体制であった。それは、真の社会主義のための物質的基盤を形成する上では、疑いもなく歴史的に進歩的であった。」(同)
かくして林氏と社労党にとっては、ロシアにおいて樹立されたプロレタリア権力は、「歴史の必然性」によって「国家資本主義」のなかに融合してしまったのである。
林流「唯物史観」のごとく、同じボルシェヴィキ政権下で、あるいは同じレーニンの指導の下ですら「歴史的必然」の圧力によって国家の階級的性格は入れ替え可能だとするならば、なるほど「暴力革命によって樹立されたプロレタリアートの国家が、単に資本主義的な要素が残存し、あるいは拡大したということのみで覆ることはない」との香山の指摘は「まさに噴飯ものである」に違いない。香山はプロレタリアートとブルジョアジーの相対する二つの階級の闘争の非和解的な性格を強調し、林氏のほうはといえば二つの階級は「融合」し合えるとの立場でものを考えているのだから。
林氏の思考法は、改良主義者のそれであり、「プロレタリア独裁」とは、そもそも無縁な立場であって、今回は単に純化したに過ぎない。
「国家資本主義体制は歴史的に必然であり、それゆえ歴史的に進歩的である」とする社労党の基本的な立場は、それこそ「必然的に」スターリニストの「進歩的」性格を容認する。
林氏の図式によれば、人類史は先進国における資本主義からプロレタリア革命を通って共産主義へというコースと、後進国でのスターリニスト革命による「国家資本主義」を経て初めてプロレタリアートの登場が許されるというコースの、二つに分断されるのである。この立場は「ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時に、この敵対関係を解決するための物質的な諸条件をもつくり出しつつあるのである。したがって、この社会構成を最後として、人間社会の前史は終わるのである」(マルクス『経済学批判序言』)とする、マルクス主義の根本原則を拒否するものである。
実践においてこの立場は、絶えずスターリニストへの支持として登場せざるを得ない。
すでに香山が触れたごとく、中国の毛沢東の「革命」はプロレタリアートの血の上に「勝利」し、またベトナムのインドシナ統合も「歴史的には進歩的」であると宣言される。同様にして東欧におけるスターリニスト支配もしかりであり、またキューバやラテンアメリカでもスターリニスト官僚にひきいられた小ブルジョアの政権奪取は国家資本主義を通って社会主義のための経済的基盤を形成するからには進歩的であるとされる。
我々は、ここに林氏が軽蔑してやまないはずの、例の「トロツキスト」たちと同じ立場にいる偉大な「理論家」の姿を見出すのである。違いはただ「労働者国家」か「国家資本主義」かという点に関してであり、それが、たとえ誰の手にあろうと、どのような闘争の結果であろうと、この「理論家」先生には興味はないのだ。
俗流「トロツキスト」=パブロ主義者は、現在では完全にスターリニストの尻尾に成り下がり、いつでもどこでも、帝国主義と対立する限りスターリニストを支持する。また、たとえ急進的小ブルの運動でしかなくとも「反ブルジョア的」であれば感涙を流す。彼らはもはやプロレタリアートの革命的能力に対し信頼感を持っていない。プロレタリア革命は、スターリニスト党にひきいられた小ブルによって代行可能だと真面目に考えており、それがプロレタリアートの粉砕をともなって実行されたとしても「労働者国家」が生み出されたことになるのである。
林氏はもちろんそんなに愚かではない。プロレタリア革命なしの「労働者国家」などは断固として拒否するが、同じように、あるいは純粋性においてそれ以上に、この「革命」を擁護する。一方はソ連邦の外的拡大を見、他方はプロレタリア革命の敗北の上につくりだされるブルジョア国家をソ連邦に押し付けようとする。林氏もパブロ主義者も、プロレタリアートに対立してバリケードの向こう側にスターリニストと共に立っている。
「ロベスピエール、サン・ジュストおよびその一党が没落したのは、彼らが現実的な奴隷制の基礎の上に立っていた古代の実在的に民主的な共同体を、解放された奴隷制すなわち市民社会の上にたっている近代の精神的に民主的な代議制国家と混同したからである。なんという巨人像的な錯覚であろう。近代の市民社会を、すなわち産業の、一般的競争の、勝手に自己の目的を追求する私欲の無政府の自己疎外された自然的および精神的な個人性の市民社会を、人権のうちに入れて是認し裁可せざるを得ず、しかも同時にこの社会の生活機能を後からその個人個人においては無効なものとしながら、また同時にこの社会の政治的な頭脳を古代人風に練成しようとする意図とは」(マルクス『神聖家族』)。
資本主義の上昇期に「金持ちも貧乏人もあってはならない。富裕は汚辱だ」(サン・ジュスト)と主張しつつ、古代の民主主義的共同体の実現をジャコバンたちが夢見たように、わが林先生は資本主義の崩壊期に、しかも最初のプロレタリア革命の勝利とその堕落の歴史を経た今日、突如として社会主義の前提条件としての国民的経済発展の不可欠性を発見した。
だがそれは単なるメンシェヴィズムの復活ではない。背景にある現実は、十月革命の成果であるはずのソ連邦が、実際には世界革命に対する最大の障害物として存在しているということであり、この現実がポーランド労働者の闘争によって一層明白な事実として突き出され、今日ではソ連邦とスターリニスト官僚に対する批判を試みることなくして誰しも左翼たり得ない現代の政治状況である。
林「理論」は、かかる状況のなかで、プロレタリア階級とスターリニスト官僚の対立の即物的な反映でありながら、この対立をプロレタリア前衛に意識化させることに敵対する役割を担って存在している。ソ連邦の堕落、中国、インドシナなどにおけるスターリニストの権力掌握、東欧に対するソ連邦の支配、こうしたプロレタリアートの闘いに加えられた衝撃は、林「理論」によって全面的に肯定され、真実は隠蔽される。
林「理論」と林氏がトロツキズムとして理解しているパブロ主義は、一見して相容れない関係にあるごとくに見えながら、その実、双生児であり、その父はスターリニズムであり、母体は階級闘争の歴史からの逃避を習性とするプチ・ブル意識に他ならない。