学生運動の新しい段階-早大闘争は、何を我々に示したのか-

1973年5月31日 星 透

はじめに

昨年11月8日の革マル派による川口大三郎君に対するリンチ殺人事件から、既に半年が過ぎ去った。この事件を契機とした「第三次早大闘争」は、従来の学園闘争と比較したとき、単にその契機においてのみならず、「闘争」そのものの性格において幾つかの注目すべき相違を指摘することができる。

これまで、学園闘争といえばそれが「学費闘争」であれ、あるいは「大学民主化闘争」であれ、その闘争の直接の対象は大学当局であったのに対し、今回の「早大闘争」は一党派、すなわち革マル派が直接の対象に置かれている。確かに、これまでの早大における革マル派の暴力支配は目に余るものがあり、革マル派に批判的な政治活動はどの様なものであれ一切が「自己批判」という名の個人テロの下に葬り去られ、革マル派以外の学生活動家にとって、革マル派は大学当局以上の抑圧者として受けとめられていたのは、全く理由のあることであった。その様な状況の中で、ついに一人の学生が「自己批判の最中」にその生命を奪われるに到ったとき、これに対し学生大衆が自然発生的に立ち上り、早大における革マル派の暴力支配に終止符をうつべく動き始めたことは正当であった。そして、そのとき学生大衆が、革マル派の支配の形式的根拠である「革マル系」自治会のリコールをまず第一に要求したこともまた当然のことであろう。

自らの総本山早大における革マル派のつまづきは、一昨年未から昨年初頭にかけての「学費闘争」であった。前回の「学費闘争」、いわゆる「第一次早大闘争」がそれまでの学園闘争の中でも際立った激しい闘争であったのに比して、この時の「闘争」たるや全く大衆的基盤を持たず、ただ革マル派の極少数の活動家によるビン投げ「闘争」が数回行なわれたに止り、単に早大における革マル派の衰退だけでなく、全国的な急進的学生運動の低迷をもまた印象づけたことはまだ記憶に新しい。だが、一年後、早大の学生は今度は皮肉にも革マル派に対して予想を超えた基盤をもって立ち上った。もし、一年間という時間的経過がなければ、これが同じ早大の学生であるとはにわかには信じ難いほどであった。一年前とは状況が変ったのであろうか?60年代末期の全国学園闘争の敗北以後、沈黙と無気力に支配されていた大学キャンパスに、今や新しいエネルギーが注入されつつある様に思える。だとするならば、この新しい闘争の盛り上りの象徴的存在たる「早大闘争」が示した特異な性格は注意深く検討しなければならず、また、それは早大のみならず、他大学においても共通して見られるものだけに一層興味深いのである。

早大闘争が示した特色の最大のものは、前述した如く現象的にはそれが一党派に向けられた「闘争」だという点である。もし、これが従来の革マル派の暴力支配故に当然である、として片づけてすむ問題だと思うならば、次の点を考えて欲しい。何故、革マル派の没落は他の、これまで革マル派と早大においてキャンパスの支配権を争ってきた党派―それが民青であれ、学生インターであれ、或いは社青同解放派であれ―の台頭をもたらさないのか?早大では、革マル派の没落は他の一切の「党派」の革マル派以上の速度での没落をもたらした。

「一般学生」の対応もまた不思議なものであった。彼らは「殺人」に対する「人間的怒り」故に立ち上ったことを主張しつつ、革マル派に対し最後までこだわりつづけたものは「川口君は中核派のスパイであったのか、なかったのか」という問題であった。11月13日昼から14日早朝までの20時間に及ぶ「革マル派糾弾集会」の間、「一般学生」が求めたものは「川口君はスパイではない」という革マル派の言質であり、彼らの「人間的怒り」は「スパイでもない人間を殺した」革マル派に対して向けられていたかの様に見えた。だが、この様な矛盾は表面的なものである。「スパイか否か」を敢えて別の言葉で置き替えるならば、「川口君は中核派の活動家であったのか否か」ということにすぎない。この問いの答えがどうであれ、今回の事件を正当化することは不可能であり、この問題にこだわり続けることは「早大闘争」そのものを極めて不毛なものにしかねないことは自明であった。にも拘らず、「一般学生」が「スパイか否か」に執働にこだわり続けた背景には、「スパイであった」とするならば、彼らが関わりたくない、また理解もできない『党派関係』がそこに入り込んでくるからに他ならない。なぜならば、彼らが「人間的怒り」を感じたものは、実は革マル派の暴力的行為だけでなく、これまでの『党派関係』とそれを構成してきた『党派』全体に対してであったのだから。この点が、「早大闘争」とは一体何に対する闘争であるのか、また今後の急進的学生運動の趨勢は如何に、という問題を考える鍵なのである。

1.「早大闘争」とは何か

《急進主義セクトの没落》

早大闘争は、そこに表現されたエネルギーの大きさにおいて、誰もの予想を越えた動きをみせた。ここ数年間の学生大衆の冷淡な反応の中で動きを封じ込められていた急進主義諸派にとって、久々に与えられた活動の場になるはずであった。またこの場は、早大において絶対的専制支配を行なっていた革マル派の蛮行によって与えられたものであっただけに、革マル派以外の急進主義諸派にとっては、早大における支配権の交代の好機として受けとめられたであろうし、事実当初はそのように振舞おうと試みた。早大における革マル派の最大の敵対者であったスターリニスト=民青にとっても、それは同様であり、「暴力主義者ト口ツキスト」一掃の絶好の機会到来とばかりに動きまわろうとした。だが、結論的に言うならば、それらは全て泡沫の夢であった。学生大衆は革マル派に代わる他の「支配者」を求めたのではなかったからである。「早大闘争」を「反革マル闘争」としてしか理解できなかった者は、自らの期待がものの見事に裏切られるや否や、次には自ら「党派」であることを忘れることに必死になった。それ以外に彼らは生き残る道を知らなかったのである。

早大闘争は、確かに当初においては「反革マル」闘争としての性格を強く打ち出していた。その限りにおいて、この闘争のへゲモニーは革マル派が主張する様にスターリニストに委ねられるかに見えた。しかし、それはこの闘争がはじまり学生大衆が自らの要求を整理できずにいた極く短かい期間だけであり、次の瞬間には全ての「党派」がその闘争から、「党派」であろうとする限り弾き出されていたのである。11月の末から12月にかけて開催された各学部学生大会において、革マル派執行部が次々とリコールされたばかりでなく、革マル派と民青系自治会の「二重権力」状況が存在した学部ではどちらも否認され、臨時執行部選出の際の基準に「党派との一切の関係を持たない者」が置かれた学部すらあった。革マル派はこの段階においてすら、依然として学生の動きに対し「日共・民青」の扇動のレッテルを張ることしかできなかった。

早大闘争は、革マル派や民育、あるいは他の「セクト」の思惑をこえて進んだ。「闘争」の対象は「党派の存在」であり、過去の急進主義運動華やかなりしころの、良かれ悪しかれ「党派」の支配下で進んできたパターンの否定であった。だが、このことは、「早大闘争」に決定的な弱点を付与することになったと言わざるを得ない。強い「反セクト」意識が一足飛びに「反政治」という名の反動政治の世界に突き進む可能性を強くしたのである。

《敗北と挫折》

ここで今回の早大闘争に先立つ一年前の状況を振り返って見よう。当時、大学を巡る問題として全国立大および約200に達する私立大の学費の改定が提起されていたにもかかわらず、学生の闘争は全く盛り上りを欠いていた。大半の大学は何事もなかったかの如く期末試験、入試へと入っていき、わずかに早大、上智大、同大などで「ビン投げ騒ぎ」「内ゲバ」が時々思い出したように勃発したにすぎなかった。全共闘運動が挫折した後、急進主義運動はもはや「運動」ですらなくなっていた。彼らの主要な武器は爆弾であり、また火炎ビンであった。波らの「闘争」の対象は全く彼らの気まぐれに委ねられ、時には新宿の雑踏であり、時には銀座の歩行者天国であり、また時には「国家権力の末端」たる交番であったりするが、彼らが最もひんばんにその爆弾を破裂させたのは、自らの頭骸骨の内部であったことは今では明白である。

かつて『党』を名のり、また『党』を建設することを目指していた急進主義諸派は、ある日突然『党』こそが諸悪の根源であることを発見した。そして、彼らには理屈ぽくて七面倒くさい『党』の代わりに「軍団」を作りあげることにした。だが、よく考えてみれば『軍団』もまた「組識」であり『党』同様堕落の原因である。そして、彼らが行き着いたところが「都市ゲリラ」であった。ここでは彼らは化学の書物にだけ「階級的忠誠」を誓えばよいのであり、「階級闘争」の成果はブルジョアジャーナリズムが確実に教えてくれた。果でしなき分散化の過程は同時に果てしなき「武器」のエスカレーションの過程であった。投石に始まったこの過程は、ゲバ棒を経てついに時限爆弾におよんだ。この過程は中核派によって「階級闘争の質的飛躍」「階級闘争の新しい地平」と呼ばれた。だが、当の中核派は自らの『党』としての機能を「暴動」の日時および場所の設定のみに発揮するという「質的堕落」をとげていた。

急進主義の「闘争」尖鋭化の過程は、大衆の闘争からの離脱の過程と一致していた。果しなき分散化、日本における「反スタ」急進主義運動の末期的症状、「破壊の思想」から「思想の破壊」への急転換。こうした事態は、当の急進主義者集団によっては何ら自覚的に把握されていないことによって、一層奇怪な様相を帯びざるをえなかった。

こうした小ブル急進主義運動の姿は、直接的には東大、日大に代表された全共闘運動の敗北の結果であり、全共闘運動を賛美し、迎合していた急進主義諸党派が、その敗北と挫折にもかかわらず、そこから何の教訓も導き出せなかったことにより、当時においてすら完全に大衆に「乗り越え」られていたことを示している。否、全共闘運動そのものが、57年以降の「反スタ」急進主義党派の『党派』としての屍の上に存在していたのであり、したがってこの運動の敗北のあとには、ここから「反スタ」的急進主義諸党派が教訓を導き出すことなど、最早不可能であった。

彼らは、全共闘運動の過程で主役を演じ彼らを乗り越して闘争を押し進めた「ノンポリ・ラディカル」大衆が、何故71年には全く沈黙を守ったのかを不思議に思ったかも知れない。しかし、彼らがそのことを考え抜くことなど全く期待できることではなかった。それは、彼らがそれまで自ら進んできた全過程を否定することになるからであり、彼らはこうした「政治的」自殺よりも、爆弾を抱えて「肉体的」自殺を試みるか、あるいは自らの「政治」の場を、住み慣れた急進主義諸党派同志間の例の「党派関係」に限定する方を選んだのである。こうして彼らは、またしても自らの破産を追認した。かかる状況のなかで、11月8日が設定されてゆく。

《「早大闘争」の弱点》

早稲田において、学生大衆が一切の「党派性」を拒否し、全ての問題をまず自らの経験と感覚の世界の枠の中でのみ思考することを正当化しはじめたとき、革マル派ともう一方の当事者である中核派を除いた他の急進主義諸派は、ものの見事にその「党派性」を投げ捨て、お互いに誰が最も党派的でないかを競い始めた。総じてこれらのグループは、学生大衆のレべルでしか何事も発想できないし、またそれだけのものしか持っていなかったことを、今回ほど明確に示したこともめずらしい。中核派は、これらのグループほど冷静には状況を把握できなかったようである。彼らは「革マル派に血の報復を!」と主張し、「革マル殺せ!」と叫んで早大キャンパスのまわりをうろつき回って、その漫画的「党派性」を道化よろしく披露した。

この様な状況のなかで、ただ革マル派だけが自らの党派性を固執し主張しているかの様な状況が作り出された。革マル派はこの「早大闘争」を批判して言う。「それは、基本的には、サンディカリズムの学生運動版としての単なる学園主義ではなく、より一層右翼的なものに堕している。」「すなわち運動に大衆性と持続性をもたせることを願望し、そのために『やりたいことをやる』という学生の即自的要求をそのまま運動化させる、それを『多面的な闘争』と称しているわけである。したがって・・・・・・とにかく運動を続けるということしか眼中にないのである。このことは、彼ら言うところの『早大闘争』がそもそも何を具体的な目的としているのかがわからず、その展望喪失とゆきづまり状態の反映である。」(『現代の眼』五月号)

革マル派がこれまで何を語り、また「早大闘争」に代る如何なる展望を提出しえているのか、という問題を別にするならば、言葉の上では革マル派のこの指摘の大部分は正しいと言ってもよかろう。

「早大闘争」が大衆性を失うことなく持続して来た最大の原因は、大衆の即自的意識からこの闘争が一歩も踏み出さなかったことに求めることができる。従来ならば、この様な性格を持つ闘争は、大学当局の桐喝か、あるいはその闘争に敵対的な党派の策動によって、簡単に崩壊してしまっているはずであったが、「早大闘争」にあっては、むしろこの弱点であるべき性格を前面におし出しつつ、「反革マル」意識を「反セクト」「反政治」意識と結びつけて進んできたのである。このような展開が可能であった背景には、革マル派以外の党派が自らを解体することによってしかこの闘争に関り得なかったこと、学生の反セクト意識が予想以上に根強いこと等の条件をあげることができよう。だが、そのような条件の相違があったとしでも、弱点は弱点にすぎない。学生が歌う「都の西北」と革マル派の「インターナショナル」の対立としてこの闘いが表現されたとき(昨年12月)それは端的に示されていた。

「行動委員会」を中心とするこの闘争の指導的グループの主観的意図に反して、「早大闘争」は今のところ過去の闘争を乗り越えたと言えるような要素は何一つ示していない。全共闘運動から「早大闘争」へ到る過程がいとも簡単に打ち捨てた60年代後半までの学生の闘争は、それ自体いかに否定的要素を多く持っていたとしても、全体として、学生の闘争を階級闘争のなかで如何に位置づけるのか、あるいは、労働者の闘争とどこで結びつくのか、という問題意灘を内包していたと言いうる。ところが、早大闘争をはじめとする現在のノンセクト集団の基盤にはこの様な問題意職はどこにも存在しない。波らは、これまでの急連主義党派を否定するとともに、こうした問題意識自体もともに捨ててしまっている。波らは、眼前のセクトの否定を通して「代行主義」を批判し、「代行主義」を拒否することにより「党」の指導を拒否する。そして、それはさらに階級闘争への訣別へと突き進む。このような性格は早大だけに見られるものではない。東京だけ取り上げてみても、中大、明大などの「学費闘争」を闘った大学において共通して見ることができたものであり、これらの大学では、どのセクトもこの闘争のへゲモニーをとりえずに、逆に明大の如くノンセクト黒へル集団にセクトがたたき出されるという事件すらおきている。そして、それとともにこれらの闘争は、一定の大衆の動員には成功したものの、闘争自体はきわめて場当り的であり、有効な闘争組織も構築できぬままに闘わざる敗北を受け入れてしまっている。こうした傾向は、70年代初頭の一方での爆弾さわぎ、他方での全くの沈黙という状況よりも、大衆的動員力の回復にともなって現出しているだけに、一層深い問題を含んでいるのである。

2.早大闘争は、いかにして準備されたのか

《革マル派のたわ言》

「早大闘争」が今後も現在のような水準のまま進行するとすれば、この闘争は単なる一時的な集団ヒステリーとして終わるか、あるいは魔女狩りならぬ『党派狩り』運動としてのグロテスクな性格をより一層純化する方向へ進み、学生運動が中世的暗黒の時期に突入したことを証明するのか、どちらかの選択を避けられないであろう。しかし、「早大闘争」の現段階での否定的側面は、これに対立している革マル派の正当性を微塵も表現してはいない。革マル派の「早大闘争」に対する非難が、彼らのはりつけたレッテル上の言葉でのみは正しくとも、この闘争の根底に過去の党派の存在、その指導、党派闘争そのものの不毛性に対する学生の嫌悪があるにもかかわらず、革マル派がこの事態に対し「党派」として何ら責任を感じることなく、旧態依然としたセクト的エゴを強制しようとしている以上、革マル派には早大で闘い始めた学生大衆の「没理論」を非難する資格は全く無い。革マル派に言わせると11・8の事態は「一部の諸君の未熟性のゆえにうみだされた限界」の一言でおわりである。「わが同盟」「わが指導部」の絶対的無謬性の原則の上にあぐらをかきつつ「一部の未熟な者」に全での責任を転化する革マル派の開きなおった姿は、彼らとスターリニストの精神構造の同一性を十分うかがわせるものであり、同時に追いつめられた「わが同盟」の混迷の深さを示すものでもある。学生大衆が嫌悪してやまない「党派」とは正しく革マル派のような存在なのである。

ここに一つの落し穴がある。すなわち、学生が否定する「党」とは、およそ「党」の名に値しない死んだ組織の腐敗した側面にすぎないのである。この意味で早大での「党派狩り」は革マル派の「反革マル派狩り」と全く同一でしかないが、過去において革マル派のみならず小ブル急進主義組織が「党派闘争」の名において党派闘争を回避しながらなおかつ「党派」として大衆の上に君臨してきた限り、彼らはそれを非難はできない。

《代行主義とは何か 》

早大において、また中大・明大など幾多の学園において、「ノンセクト・ラディカル」派諸君が憎悪してやまない「代行主義」とは一体何であるのか。この問題を、「悪しき代行主義」の張本人革マル派が我々に与えてくれた絶好の材料をもとに検討してみよう。

革マル派機関誌「共産主義者」29号の「毛沢東主義に浸透された第四インター」と題する文中で、彼らは「「第四インター・日本支部」なる組織はわれわれが15年も前に理論的にも組織的にもすでにのりこえてしまった存在である」と主張している。もちろんここで言う「第四インター」とは、現在のUS派、15年昔のIS派(パブロ派)を指していることは改めて言うまでもない。では、革マル派はどの様にして「理論的にも組織的にも」第四インターを乗り越えたのか。黒田寛一氏自ら語ってもらう。氏のあまり役にたたない多くの著作の中で、おそらくまともな部類に属すであろう「組織論序説」において、彼は「革マル主義」の根本的立脚点の定立化を試みて次の様に語る。彼はまず弁研時代の自分の自己批判から始める。第一に、弁研時代の自分は「パブロ派とキャノン派への第四インターナショナルの国際的分裂の背景と理論的根拠に関して」全く無知であったこと。第二に、その結果パプロ主義と第四インターナショナルを同一視し、パプロ主義の否定として「第四インターナショナルの発展転化した形態として新しいインターナショナル」という展望をうちだしたこと。更に、「分裂し抗争しつつある今日の第四インターナショナルの現実を深く分析し、パブロ派の改良主義的傾向とキャノン派の欠陥や一面性を批判しつつ、今日の分裂を止揚してゆくための具体的方針をまずもってうち出し得なかったことは、致命的に誤謬であった」というものである。

この自己批判の上に立ち、「第四インターの低迷の理論的根拠は『トロツキー・ドグマティズム』にある」との立場から、太田・西をパプロ主義者として、あるいはそれとの折衷主義者として断罪するとともに「致命的誤謬」を含んだ『探求』誌を剽窃することによって「第四インターを足蹴にした」共産同に対して、「今日の第四インターが資本主義各国において大衆闘争に影響力をもっていないというこの事実からただちに、第四インターの歴史的経験に学ぼうとせず、それを無視し、ただ単に日本プロレタリアートの階級闘争を民族的規模で『完遂』した暁に、新しいインターナショナルを樹立すればよいと考えているらしい。だがこれほど非現実的な展望はない。」「我々は、第四インターナショナルそのものの内部において、その『限界』を突きとめることなしには、新しいイノターナショナルを提唱することは決してできない。しかも、現段階における国際的な階級闘争の現状からするならば、まずもって革命的トロツキストとしての我々のなすべき任務は、とうぜん分裂し抗争しつつある今日の第四インターナショナルの現状を止揚することにおかねばならない」と批判した。

黒田の立場は次の如く整理できる。即ち、第四インターの堕落の原因はパブロ主義にあるとの立場から、このパブロ主義との闘争によって第四インターを再建しあるいは「現状を止揚」するとして、まず、パプロ主義によって「反帝・労働者国家無条件擁護」へとプロ・スターリニスト的に歪められた『過渡的綱領』を「反帝・労働者国家擁護・スターリニスト官僚打倒」として「論理的に整序」し、次いでこれを止揚したスローガンとして「反帝・反スターリン主義」を提起する、というものであった。これを言い換えるならば、革マル派の組織路線は、ISとICの分裂の中で、自らをIC派に位置づけつつ、ICの弱点を克服する、というものであったといえる。

「反帝・反スターリニズム」の立場とは、まさしくその核心的内容において、第四インターナショナル再建のための闘争を推進するための「革命的マルクス主義者」の立場であったはずであるが、しかし、革マル派はその後「解放」154号において、「第四インターは四分五裂して死んだ」との見解を表明するに到る。だとするならば、それは同時に「反帝・反スターリニズム」戦略の破産を意味し、もはや全国委員会は党的基盤を喪失したとの結論が出た、ということに他ならない。自らで自らの党の根本的立脚点の破産宣告を下しつつ、なお存在していられる組織は、何と呼ばれるべきか。こうした革マル派の堕落ぶりは、次の主張に到って項点に達する。曰く、「そもそも日本資本制国家権力をまずもって打倒対象と設定すること」(『共産主義者』29号)!

黒田寛一氏に代って言わねばならない。「これほど非現実的な展望はない。」「まずもって革命的トロツキストとしての諸君らのなすべき任務は・・・・・・」

党的基盤を喪失した「党派」は、もはや「党」として、共産主義者として大衆に接することはできない。彼らがなしうることは、せいぜい大衆の最も戦闘的な、プラス最も口数の多い部分として、偉そうに号令を下すことができるだけである。彼らは、闘いに立上った大衆の中へ入り込み、他の急進主義党派との「党的対立」を作り出す為に、元来闘いつつある大衆自身がその闘いの清勢、局面に応じて自決すべき問題に党派の名で口をはさみ、自らの党派的利害に基いた決定を押しつけることしかできない。そして、自らの党派としての政治的基盤のあいまいさをつつかれるや否や、大衆の中へ逃げこみ「今日の戦術は、明日の方針と口をパクパクさせるのである。こうした小プル急進主義諸党派の特徴は、自らの党的基盤の喪失(ないしは始めからそんなものは全く無かった)を基礎にした大衆の革命的能力への不信と、それとの裏腹の関係でのいわゆる「方針提起」主義である。「党」を自称し、共産主義者を自認するならば、彼らがなすべき任務は、「党として大衆に関ること」以外の何ものでもなかったはずであり、彼らが多少なりとも大衆を信頼しているならば、各職場・各学園において大衆がどの様な形態で闘うかは闘争の発展段階に応じた大衆の自己決定に委ねることが出来たであろう。彼ら急進主義者達は全てそれが出来なかった。それは、小ブルたる学生の闘争にあっては、その闘争は唯プロレタリア階級の革命的指導部建設の闘争へ位置づくことによってのみプロレタリア階級に結びつきうるだけに、致命的な性格を持っていた。

急進的学生運動は、いつからか自分達の自立した「階級闘争」を夢見る様になり、ついでそれを労働者階級への不信に結びつけ、プロレタリア階級と対立しうるとまで思いはじめ、やがて全くそれを無視するに到った。小ブルの運動をプロレタリアートに対立させ、それを従属せしめること、これこそスターリニズムの根本的な性格ではなかっただろうか。そして、革マル派はこのような清況を一方では自らで作り出しつつ、その世界の中でのみ安住できたのである。

「反帝・反スタ」!

「代行主義」とは、形をかえたスターリニズムに他ならない。だが、「代行主義」を批判する者のどれほどが、スターリニズムとの闘いとは、階級の政治的独立性の奪回の為の闘争であり、従って国際党建設の闘いであることを理解していたであろうか。少なくとも革共同が観念論者と行動主義者の分裂をおこし、この両派の対立を軸に急進的学生運動が展開する様になった60年代において、「党派闘争」を、我々以外には国際党建設の展望をめぐって提起するものはいなかった。そうである以上、彼らの「党派闘争」とは、小ブル集団の「囲い込み」運動としてしか現出しえなかったのは当然であり、それに対する反感が大衆の中に醸成されて来たのも当然である。学生大衆は、急進主義「党派」に対し、こう要求する権利を持っている。「諸君が党派であることを自称するならば、諸君には諸君らの任務があるはずだ。我々の権利を今こそ返してほしい」と。革マル派は自らまいた種を今、刈り取らされようとしている。

3.革命的指導部の建設か、「代行主義」の再生産か

早大闘争の現局面は、一方で60年代と70年代初頭の急進主教者の「闘争」によって作り出されてきた退廃的傾向を浮彫にするとともに、その反面では新しい闘いの発展の巨大な可能性をも同時にそこに潜ませているのである。我々が指摘した如く、60年代を我物顔で「指導」してきた急進主義諸派は、大衆にとっては最早何の魅力もない、むしろ闘争の発展にとっては障害物として投げ捨てられ、またこれらの組織も大衆が何を求めているのかを全く理解せずに自ら破滅の道を選んだ。急進主義的学生運動に関する限り、全共闘運動以来のかかる傾向は不可的なものである。あまりにも長い間、あまりにも多くの害を急進主義指導はもたらし続けた。今や学生大衆が、こうしたかつての「指導部」へ反逆を開始する番なのである。そして、問題は唯々、如何にして、につきる。学生達は既に、この問に答えるために多くの材料を手にしている。不幸なことに、日本の学生運動は、この貴重な財産を獲得するために実に多くの時間と努力と、そして何人かの仲間の生命までも支払わねばならなかった。だからこそ、学生達は過去への回帰をなりふりかまわず拒否するのであり、そのためには闘争の全面的退却さえもいとわない。

現段階の学生運動の反政治的性格は彼らが見い出し得た唯一の自己防衛の手段であり、それは全く新たな飛躍への跳躍台にすらなり得るのである。

《新しい「代行」者を拒否せよ》

現在の学生の動向の性格を決定づけたものはやはり全共闘運動であろう。全共闘運動はそれまでの急進主義党派―全学連―自治会のパターンを打ち破り、全く下からの大衆の自発的組織として出発した。だが、当時の世界的な情勢、日本の社会的状況は、全共闘運動が学園内部に止ることを不可能にするまでにその危機を深化させていた。べトナムで、フランスで、そしてチェコで、戦後世界は新しい局面へ向って音を立てて動き出し、象牙の塔は既に朽ち落ちてしまっていた。一切の権威が説得力を喪失し、ただ新たな権威の登場がないだけの理由で生きのびていることが白日の下にさらされていた。こうした社会情勢の中で開吻始された学園の闘争は、フランスの五月がたどった様に、一挙に社会総体との対決へ突き動かされたのである。

全共闘運動は、従来とは異なる新しい闘争の段階を切り開くかの様にみなされた。だが、この運動が質的深化を要求され、その闘いの全体的性格を明確に自覚する様になると直ちに全国的な政治指導部形成の必要性が問題に上り、それとともに、ノンポリラディカルの圧倒的な動きの前に、これに追従していた急進主義諸派は全国全共闘に各々襲いかかり、これを分断することによって、党派の利害による囲い込みを始めたのである。

全共闘運動は結局政治指導部を持ち得なかった。そのことが、全共闘の敗北を単なる大衆闘争の敗北に終ることを許さなかった理由である。この敗北を、機動隊に対抗しうる軍事力の欠除に理由を求めようとすることは、あまりにも皮相的な見方である。全学連運動が党派別「全学連」へ分解し、崩壊したことを否定的教訓として登場した全共闘は、「党派」側の思惑がどうであろうとそれ自体、急進主義党派の「政治指導」に対する拒否宣言であったにもかかわらず、再び党派による分断を許さねばならなかったのは何故なのか。それは、果して現在「ノンセクト・ラディカル」派諸君が言うように、全共闘運動の非党派的性格の徹底的純化が不十分であったが故に、なのであろうか。半分は正しい。半分は、と言わねばならないのは、彼らが言う「非党派」が、単に急進主義諸党派及び既成指導部社共を指すならば、そのとおり、という意味である。別の言葉で言うならば、急進主義としで現出してきた左翼スターリニズムからの脱却を、どこまで純化できたのか、その点こそが問題なのであって、革命指導部としての「党」そのものの否定が問題なのではない、ということである。現在早大で闘われている様な「反革マル」「反セクト」闘争が、この点を理解し得ないならば、彼らの共通したスローガンたる「代行主義反対」の闘争は、彼らの主観的願望にもかかわらず、必ず、新な「代行」者を生み出すに違いない。

どの様な闘争であろうとも、それを維待し発展させて行くには、その闘争の中核部隊たる指導機関が必要であることは言うまでもない。現に早大闘争にしても、その強い反「代行主義」的性格にもかかわらず、「行動委員会」として大衆とは一定程度独立した部隊を登場させている。だが、こうした闘争の指導機関は自己を「代行主義」者とどこで区別するのであろうか。

前章で述べた如く、「代行主義」とは、党として大衆に階級闘争の歴史的な発展段階に対する全体的展望を提起することを拒否しつつ、なおかつ大衆に対する指導権を主張することに他ならない。そして、このような「指導」が「党派」によって行われてきたことが、六十年代の学生運動の最大の不幸なのである。

反「代行主義」論者の中には、全共闘運動の崩壊の原因を、全国全共闘を指向したことにあると語る者もいる(『現代の眼』三月号における「文学部有志」君)。だが、各学園別に結成された全共闘が、全国全共闘としての統一を目指したことは、その闘争の全国的性格の証左にほかならず、問題はむしろ全国全共闘が「セクト」による囲い込みに対抗できなかった弱さにこそあると言わねばならない。この点を見ることなく、唯々弱点を露呈しないがために闘争と問題意識を学園の中に止めることを大衆に強制しつつ、なおかつ闘争を「指導」すると言うのならば、それこそ最も悪練な「代行主義」者なのである。

現在の学生運動の混迷は、これまでの小プル急進主義諸党派の無展望ぶりが客観的に露呈されてしまっていることも含めて、全体的な展望の喪失を意味している。しかし、この展望喪失状況が学生間に一般化している現在こそ、逆説的に聞こえるかも知れないが、新しい可能性が示されているのである。

その根拠は、現在の学生の闘いの無展望さは、これまで十数年にわたって押しつけられてきた小ブル急進主義者の「展望」を学生大衆がはっきりと拒否する決意を固めたことによって作り出されたという点にある。そのことによって、今後の学生の闘いは、どこで、どの様に闘われようとも、出発点からその闘争の全体的な展望を巡る闘いとしてしか構成されえなくなっている。革マル、中核両派はこれまでどおり、既に大衆によって拒否された「党派性」を押しつけようとするだろう。だが、それはむしろ彼らの貧弱な「党派性」を一層浮彫りにするだけである。他の急進主義諸派は「党派性」を自ら投げ出すことによって学生大衆の御機嫌をとろうとするであろうが、それは彼らには存在意義が無いことをより明白にするだけである。

急進主義は、現代社会へ肉迫する学生の意識と闘いを再び支配体制の作り出す循環のなかへ投げ戻す役割りを果してきた。彼ら急進主義諸派は学生の闘いが示した巨大なエネルギーを「学生運動」の殻の中に閉じこめ、全体としてはそれをプロレタリアートの政治的独立の為の闘いに敵対させてきた。それによって学生の闘いはブルジョアジーに利用され、時には太平洋地域をめぐる米帝と日帝の駆け引きに、また時には中国市場を目指すブルジョアジーの政治的経済的野心の道具とされてきた。だが、今や学生大衆はこのような状態を拒否することを宣言した。急進主目義者の言う「政治」や「展望」は破産した。ではそれに代る展望は何か。現在の学生の闘いの無展望ぶりは全くこの答えが見出されていないということをしめしている。共産主義者が、学生の闘いの直中に、自らの党の旗をうち立てたときに、この無展望さは一挙に変革されうる。そして、唯それだけが、新しい学生の闘いの高揚にこたえうる唯一の道なのである。

「反党派」の闘いとは、まさしく新しい、本格的な党の登場を要求する闘争に他ならない。そして、この要求に答えうるものは、階級の闘争の全体的展望を提起し、自らの党としての闘いを国際党建設の展望を巡る闘いにまで押しあげられる存在、我々 第四インターナショナルのみなのである。