おめでたい急進主義者の無知について
チェコスロヴァキア問題によせて

1968年10月

10月4日、第二次モスクワ会談の終了により、チェコスロヴァキアをめぐる情勢の展開には一つの区切りがなされた。

「西独軍国主義勢力の高まる報復主義的意図の前面に確実な障壁」(共同コミュニケ)として、ソ連およびワルシャワ機構諸国の軍隊が駐留し続け、それと引きかえにドプチェクらがチェコスロヴァキア党指導部としてとどまる―これが取り引きの骨格である。もちろん、あまり有名ではないジャーナリストや作家、官僚の「追放」等をめぐる若干の紆余曲折はありえるが、“チェコ”に関する限り、事態は収拾にむかったと言い得るであろう。

ここで、我々が要求されていることは、おめでたい急進主義者どもがやっているごとく、モスクワ官僚に対して道義的な憤激をぶちまけたり(例えば、武力干渉はプロレタリア国際主義に反する…等々)、その「思想的意義」なるものについて勝手気ままなことをならべてみたり、「ドプチェクらの限界」なるものについて出放題を言い張ることではない。

マルクス主義の名の下に、あるいはその「危機」の名の下に、これらのデタラメが商品として売買されている今日の状況の根底にある問題を暴き出し、現実の世界政治の舞台に階級として独立したプロレタリアートを登場せしめること、ここに我々が課せられている任務がある。

いうまでもなく、モスクワでなされた「取り引き」の内容は、ヨーロッパと世界の政治における諸勢力間の現実の闘争の結果である。モスクワ官僚の、あるいはドプチェクらの主観的な願望や意図によってのみ決定されたのではない。何よりもまず第一に明らかにされなければならないのは、ソ連およびワルシャワ機構軍のチェコスロヴァキア再占領が、如何なる衝撃をヨーロッパ政治の権力構造に与えたのか、また、それはプロレタリアートが自己を独立的な政治勢力として形成するうえで如何なる意味を有しているのか―この問題である。

急進主義者やそのイデオローグにとっては、現実の世界政治は関心の外にある。彼らは、暗く、生暖かく湿っている自分の「内部世界」が唯一の「現実」であり、その「政治綱領」は惨めなその模写であるにすぎない。彼らの場当たり的な急進的な行動は、自分の貧しさを誰からも(自分からも)覆い隠そうとする衝動、はっきりいえば自己満足のためのものにすぎない。

このように少しも急進的でない急進主義者は、現実の世界政治の領域においては、スターリニスト官僚の尻尾に成り下がり、自己の独立性を求めてやまないプロレタリア大衆に対して、やはりスターリニスト官僚の尻尾であれと強要する腐敗物へとただちに転落する。あらゆるセクト的な相違を超えてなされている急進主義者の大合唱―“北京の毛沢東官僚はすばらしい!!”こそ、そのまごうことなき証拠である。

このような急進主義者に、無気力に抵抗したり屈服し続けている「戦後第四インター」の残党どもは、自己を現実的な勢力として世界政治の正面舞台に登場せしめんとするプロレタリアートにとって、まず手始めに取り除かねばならない障害物である。

スターリニスト官僚に対する最もラディカルな批判、最も無慈悲な闘争のみが、プロレタリアートをして、世界政治における現実的な勢力たらしめるであろう。

ヨーロッパの平和

キューバ危機(62.10)と部分核停止条約(63.8)以来、達成されたかのように見える世界均衡は、実はただドイツ問題の未解決を礎石としていることが、ソ連・ワルシャワ機構軍のチェコスロヴァキア侵入をもって再度明らかにされた。

モスクワ官僚はドイツ報復主義からの防衛と称し、チェコスロヴァキアに20個師団50万人の兵力をもって侵入しつつ、同時にボンに対し①オーデル・ナイセ線をドイツ・ポーランド国境として認めよ、②DDR=ウルプリヒト国家を認めよ、③ミュンヘン協定は存在しなかったと認めよ、等々を突きつけ、さらに「ソ連は西ドイツの政治に介入する権利を保有している」という恫喝を行い、ここにチェコスロヴァキア再占領(1945年に続く)の目的――ヨーロッパの「平和」=現状維持を明らかにした。

現在の瞬間、総兵力45万の西ドイツ軍がNATO軍、言い換えればUSA軍に支援されずに単独で、世界第二の超大国であり320万の総兵力を擁するソ連を攻撃する現実性は何もない。また、旧ズデーテン地方(第二次世界戦争前ドイツ人居住のチェコスロヴァキア領)を回復するために行動することも同様である。モスクワ官僚が言うところの「ドイツ報復主義者」は、たかだか厚さ数十センチメートルのブロック塀(東西ベルリンの境界をなす)すら破れなかったし、破ろうともしなかったではないか。

たしかにドイツ帝国主義は、ヨーロッパの現状を承認していない。ボンはドイツの東部国境は未決定の問題であるとするばかりではなく、ミュンヘン協定(1938年ヒトラーは英・仏帝国主義の了解の下にチェコスロヴァキアのズデーテン地方を併合。翌38年協定違反を口実に全土併合)を否認すらしていない。DDRの存在を認めず、ながらくボンに行政の中心をおきながら、なおベルリンに帰る夢を棄てていない。

だが、この現状を変える現実的な力をドイツ帝国主義は、現在のところ持っていない。ドイツ帝国主義は、アメリカ帝国主義とモスクワ官僚がドイツの頭越しにヨーロッパの「平和」を実現することを妨げることができず、部分核停止条約を事実上承認せざるを得ず、また現在、核拡散防止条約調印を一時引き延ばすのがやっとである。

ここで問題であるのは、現在の客観的な力の問題であり、将来はまた別である。

将来、統一されたドイツは、ソ連を一撃のもとに粉砕し、東ヨーロッパにおける「ロシア」の支配を転覆する潜在的な力をもっている。だがその力は、ドイツが分割され、権力政治の対象であり続ける限り、そがれざるを得ず、ドイツがヨーロッパ政治の権力構造の内部に主体として登場しない限り、その潜在力が解放されることはない。そして、統一ドイツは自ら望むと望まないとにかかわらず、「ロシア」の東ヨーロッパ支配に対する重大な脅威とならざるを得ない。

このようなヨーロッパの権力構造は、いうまでもなくヤルタ協定によって基本的には形成されたものではあるが、アメリカ帝国主義とモスクワ官僚によって、もはや動かしがたいものとして確定されたのは、1963年8月の部分核停止条約によってであった。

ドイツ統一問題は無視され、棚上げされることによって実は凍結されたのにとどまらず、ソ連およびポーランドの安全がドイツ分割とウルプリヒト「国家」の維持とに堅く結び付けられ、如何なる意味においてもドイツ統一の展望は、ただ確定されたヨーロッパの権力構造を根本的に破壊せしめずにはおかないものとして、位置づけられることになったのである。

このヨーロッパの「平和」の実現は、再建されたドイツ帝国主義の基盤に深刻な打撃を加え、NPD(ネオ・ナチ党)の登場、他方に現在SDSとして知られている反スターリン主義的急進主義の運動を生じさせたが、ボンは議会内の党派をすべて政府へ結集することによって(大連立)、この危機を乗り切ろうとした(有力な反対党の存在しない議会制民主主義は、行政府のほしいままな国家支配のかくれみのにすぎず、もはや議会制ではない)。他方、ウルプリヒトはソ連軍とベルリンの壁に守護され、危機の割れ目から吹き出るプロレタリアートの闘争を抑圧しつつ、現在に至るのである。

しかし、危機を独裁的な力をたのみとし、機会主義的な行動によって縫い合わせることによって切り抜けんとしたキージンガー、ブラントのドイツ帝国主義の新東方外交は、ルーマニアにおいて若干の成功を収めたにとどまり、ここチェコスロヴァキアにおいて、実に重大な挫折をこうむらざるを得なかった。

モスクワ官僚のチェコスロヴァキア再占領の目的は、ドイツ帝国主義にドイツ分割を永遠なもの、動かしがたいものとして受け入れさせることにある。そして、ドイツ統一については、当のドイツ以外には関心を寄せるものが存在しえなくすることである。ドイツが分割を受け入れることによって、ドイツ問題を解決するべき道を開くことである。

だが、これはドイツが将来においても偉大であることを断念することを意味するばかりではなく、アメリカ帝国主義とモスクワ官僚の合意による、ヨーロッパと世界の反動的な秩序を受け入れることを同時に意味する。

ドイツ・ブルジョアジーがたとえ偉大であることを断念し、そのかわりにドイツ・プロレタリアートを搾り取ることだけに満足することを受け入れようとも、またSPD(社民党)が受け入れようとも、誰がそうしようとも、こんなことは、我々にとっては絶対に認められない。

長い間、ドイツ問題は一つのタブー、手を触れてはならない呪術的な問題であるかに見えた。事実、その「解決」を見出そうとすると泥沼に足をとられるかのようであり、出口のない迷路に踏み込むが如きであった。

いまや、事態は明白すぎるほど明白となった。モスクワ官僚が自己の死活にかかわる利害としてドイツ分割を要求し、アメリカ帝国主義がそれを容認していること、そして、ヨーロッパの「平和」とは、実はこのことであることが明白になってしまったのだ。

モスクワ官僚とドプチェクらとの取り引きの成立は、たしかに、フランス五月闘争を直接の契機として開始されたヨーロッパの階級均衡の動揺を押し止め、崩壊せんとするヨーロッパ政治の権力構造を支える基礎になるかもしれない。

だが、それはほんの一時的な支えとなるにすぎない。

モスクワ官僚およびそれと共通の利害をもつスターリニスト官僚のグループ(ゴムルカらとウルプリヒトなど)が、チェコスロヴァキア再占領と自由化排除の目的はヨーロッパの現状維持であると自ら公然と認めている現在は、十二年前のハンガリー革命の敗北によって形成された時期とは、はっきりと異なっている。

スターリニスト官僚から独立的であろうとするばかりではなく、官僚との生死を賭けた闘争に打ち勝たない限り、帝国主義の世界支配を打倒することができないと信じている、新しいプロレタリア・ミリタントの世代が登場しつつある。

このとき、モスクワ官僚は自ら現状維持勢力であることを公然と認めざるを得なかった。そして、ただそのことによってのみ、ドプチェクらをして屈服せしめえた。

これはヨーロッパと世界政治の上にかかっていた神秘のヴェールを引きちぎってしまい、その権力構造―帝国主義とスターリニスト官僚の対立と依存のサイクル―を全く疑問の余地のないまでに暴露してしまった。

そして、事柄の明白さから最も大きな利益を受けるのは、ブルジョアジーでもなく、また官僚のどのグループでもなく、ただ、成長しつつあるプロレタリア・ミリタントの若い世代である。ここから、新しい世代はスターリニスト官僚から独立しようとすることの正しさについて、一層強い確信を引き出すであろうし、さらにそれは彼らの視野を拡大し、不可避的に彼らを世界政治における現実的な勢力へ押し上げずにはおかない。

モスクワ官僚によるチェコスロヴァキア再占領が与える衝撃は実はかかるプロレタリア・ミリタントの登場として、新しいプロレタリア世界革命の源泉が枯渇していないことを示すことによって、その真の意味を表すのである。

チェコスロヴァキア国家の存在理由

「我々は国際情勢について理解していなかった」―むせび泣きつつこう語ったのは、第一次モスクワ会談からプラハへ帰ったときのドプチェクである。

なんというナイーヴさ―だが、かかるナイーヴさは一国の支配者としては無責任を通り越し、すでに災厄とでも呼ぶ以外ない。ドプチェクらにとって、チェコスロヴァキア国境の外界は、何の興味も引き起こすものでなかったことは、彼らの「新綱領」を一読すれば判然とする。「新綱領」において、ドプチェクらが最も関心を集中したのは、チェコスロヴァキアの経済発展の問題であり、それに関連しての政治的自由の問題であったが、かかる問題と現実世界政治との連関は、いっさい考察の範囲外におかれてしまっている。

ドプチェクらのモスクワ官僚に対する屈服は、実にこの無知と無定見がもたらしたのであって、決してソ連およびワルシャワ機構軍の戦車部隊のみによるのではないことを銘記しよう。

だが問題はかくの如き無能力の連中が、たとえわずか数ヶ月にせよ、何故に支配的な地位に上りえたのか、である。

そしてそのためには、チェコスロヴァキア国家の成立の起源にまで追求されなければならない。何故にチェコスロヴァキア国家が建設され、何故にいったんは滅亡(ヒトラーによる併合)し、また第二次世界戦争後に再建されたのか? その歴史的経過のなかで、スターリニスト官僚は如何なる役割を果たしたのか? またプロレタリア世界革命にとって、チェコスロヴァキア国家は何を意味するのか? ブルジョア・ジャーナリストやスターリニスト官僚の御用史家、また一切の急進主義者のイデオローグもまた、チェコスロヴァキア国家の存在理由そのものを疑い得ないものとして、あらかじめ決めてかかっている。だが、このくらい疑わしいものはないのだ。

1918年11月、トマーシュ・ガリグ・マサリクを大統領として成立したチェコスロヴァキア国家は、十九世紀より始まるハプスブルク家支配のオーストリア・ハンガリー帝国に対する、チェコ人とスロヴァク人の勝利の成果ではあった。だが、この勝利についてみるとき、すでにロシア十月革命によって開始され、怒涛の如く中部ヨーロッパを進撃するプロレタリア世界革命の運命との関連の下にとらえなければならない。プラハがウィーンからの独立を宣言するわずか五日前、11月9日、ベルリンは武装した労働者と兵士によって完全に支配されるにいたり、ドイツ・プロレタリア革命が開始されたことを想起しなければならない。このとき、プラハの「民主主義」の運命は、そのもの自体に内在する力によってではなく、ベルリンの街頭において、工場と兵営において誰が主導権を掌握しうるのか――それにかかっていたのだ。エーベルト、シャイデマンにか、それともルクセンブルク、リープクネヒトにか。

実際、歴史はよく知られているとおり、プロレタリアートにとって悲劇的な結末をとげる。ドイツ・プロレタリアートはその心臓(リープクネヒト)とその頭脳(ルクセンブルク)をともに虐殺され、プロレタリア革命の高波は一時的に退いていく。かくして、ここにプラハの「民主主義」が生き延びていく可能性が開かれたのである。

おめでたい急進主義者よ、チェコスロヴァキア国家の成立の前提は、ドイツ・プロレタリアートの血にまみれた19年1月闘争の敗北であり、ルクセンブルクとリープクネヒトの社会民主主義者による虐殺であることを忘れるな!!

一方では「ボルシェヴィズム」に対する防壁として、他方ではドイツ帝国主義の再起に対する防壁として、ヴェルサイユ体制の内部に安住の地を見出したチェコスロヴァキア国家は、しかしその依拠する第一次世界戦争後のヨーロッパの勢力均衡が崩壊するや、ただちにその基盤を洗い流されていく。

1938年、ソ連外相リトヴィノフはヒトラー=ドイツ帝国主義からチェコスロヴァキア国家を維持するために、イギリス・フランス帝国主義に相互安全保障による同盟を呼びかけるが、ヨーロッパ政治の中枢にソ連が介入することを拒否するために、イギリス帝国主義(首相チェンバレン)の主導下、イギリス・フランス帝国主義はミュンヘンにおいてヒトラーと会見、ズデーテン地方のドイツ併合を協定する。ミュンヘン協定とその一ヵ月後に続くヒトラーのチェコスロヴァキア解体は、第二次世界戦争の開始を不可避とする転回点であり、プラハがその安全保障をモスクワに求めざるを得ない方向を定めさせたのである。

実に“ミュンヘン”においてモスクワのスターリニスト官僚がチェンバレンの反対によって果たしえなかったのは、チェコスロヴァキア国家の保全を通して、イギリス・フランス帝国主義との同盟(ヴェルサイユ体制)を獲得し、この同盟によってヒトラー=ドイツ帝国主義からソ連を防衛することであった。かかるスターリン=リトヴィノフの外交政策により、ソ連官僚とチェコスロヴァキアの特殊な利害関係が形成され、独ソ協定とポーランド分割という一時的中断を経つつも、かかる関係はヒトラーに対するアメリカ・イギリス・ソ連の大同盟のなかに、官僚とチェコスロヴァキア関係を位置づけていく出発点となったのであった。

ヒトラー打倒後、プラハの「民主主義」は再びチェコスロヴァキア国家として再建される。ただし、今度はズデーテン地方をはじめ全国のドイツ人居住者をドイツ本国に追放し、イギリス・フランスに代わって対ドイツ戦勝者となったアメリカ帝国主義とモスクワ官僚の協調の下に、モスクワに保護されるブルジョア民主主義国家として再建されたのである。

再建チェコスロヴァキア国家は、チェコ人の、あるいはスロヴァク人の闘争によって生まれたのではない。他のすべての東欧諸国家と同様にその起源において、テヘランとヤルタにおける帝国主義とスターリニスト官僚の戦後世界支配の構造にあるのだ。

その目的は、ヒトラー=ドイツ帝国の解体によって不可避とされる全ヨーロッパの階級均衡の破壊、したがって激烈に高まるに相違ないプロレタリアートの闘争を粉砕し、ブルジョアジー=スターリニスト同盟によって世界支配を打ち固めることにあった。まさに、かかる構想を実現するのに最も好都合と考えられたのがマサリクの友人ベネシュを大統領とし、ゴットワルト共産党(スターリニスト)議長を首相とする再建チェコスロヴァキア国家であった。

社会平和のために階級闘争を抑圧(言い換えればブルジョアジーをプロレタリアートから保護)する再建国家の発展は、その限界にただちに衝突する。はじめ、スターリニスト官僚の指揮下におとなしくしていたブルジョアジーは、西ヨーロッパにおけるプロレタリア革命が再び挫折せしめられた情勢を見てとるや、一層の「自由」を獲得するために、プロレタリアートに攻勢を準備し始める。ブルジョアジーは自らのヘゲモニーのもとにプロレタリアートに闘争を挑みうるためには、ゴットワルトらの立場を切り崩さなければならない。

そして、アメリカ帝国主義によるヨーロッパ再建を目指すマーシャル・プランへ参加するか否かの問題が、まず第一の衝突として選択された。

ここに自己の支配の鋭い危機を読み取ったスターリニスト官僚は、ブルジョア諸政党に先んじて攻勢に出る。1948年2月プラハ警察の上層部更迭、スターリニスト官僚による全警察機構の掌握のうえ、ベネシュに対し「ソ連によるチェコスロヴァキア国家の安全保障」というそもそもの国家成立の基盤を守るか否かと恫喝し、他方、警察機構をもって数十万のプロレタリアートをデモンストレーションに動員し、ソ連軍の威圧の下にゴットワルトは権力を奪い取る。

このように、チェコスロヴァキア二月「革命」は国家機構を破壊することなく、ただ、1945年にベネシュが開始したことをゴットワルトが仕上げたにすぎない。それは、ヤルタの平和の実現、プロレタリア・ヨーロッパ革命の挫折の上に築かれた階級均衡の固定化としてなされたスターリニスト官僚の「クーデター」であって、絶対に社会革命ではないのだ。

「クーデター」から二十年、チェコスロヴァキアにとって流れた歳月はゼロに等しい。官僚は二月「革命」が革命であることを無理に証明するために、チェコスロヴァキア国家の連続性(1948年二月の前後)を否定する宣伝をしなければならなかった。これは、チェコスロヴァキア国家の依拠する基盤、その存在理由を全く曖昧にする結果をもたらさずにはおかなかった。

官僚は、チェコスロヴァキア国家がヨーロッパの現状維持のために、人工的に創成されたものであることを、何よりも隠してしまわない限り、その支配的地位が転覆されてしまう―これは、支配的官僚自身の意識のうちに現れても危険極まりないものとして、徹頭徹尾、抑圧されたのである。

このような政治的白痴状態が二十年も継続したとき、―はじめてドプチェクらの如き無知・無定見そして無能力な連中が、支配的地位に昇り得る状況がつくられたのである。

ドプチェクらの登場、そして敗北が意味するのは、ヨーロッパの権力構造を不変なものとしておきつつ、チェコ人とスロヴォク人の自由が獲得できるという観念が、ついにすべて破産したということである。マサリク、ベネシュ、ゴットワルト、ノボトニー、ドプチェク、彼らはみな与えられたヨーロッパの勢力均衡と階級均衡に受動的に順応しようとして、結局は敗北した(マサリクは後継者ベネシュにおいて失敗し、ゴットワルトはノボトニーとドプチェクにおいて失敗した)。

もし、チェコ人とスロヴァク人が自由であることを欲し、歴史の対象ではなく、その主体であることを求めるならば、もはや、その展望はチェコスロヴァキア国家の維持にはないはずである。

東欧諸国家は帝国主義とスターリニスト官僚によるヨーロッパ反動秩序の産物であり、プロレタリア・ヨーロッパ革命によって解体されなければ、東ヨーロッパ諸民族を自由な発展に導くことができない桎梏である、とかつて我々は宣言した。

チェコスロヴァキア国家もまた例外ではない。「第四インタナショナルの展望の内部には、東欧諸国家の維持と発展の存在する場所はありえない」という言葉は、ただ単なる左翼的空文句ではない。

これには冷厳な現実的力が働いており、第四インタナショナルはその力を根底的に解き放つのだということを表現しているのである。

北京官僚は現状打破を望んでいるのか

今日、おめでたい急進主義者の一部は、北京官僚の言葉づかい―たとえばソ連を「社会帝国主義」と呼ぶごとき―を笑いものにしている。だが、お笑い種なのは仲間内では左翼ぶっている彼ら急進主義者である。

彼らは北京官僚の言葉づかいは不正確であるとか、「歪曲」であるとか言いさえすればそれですべて終了と満足してしまう。なんという礼儀正しさ!! 言葉の国、中国においてはなんと立派な人々だと賞賛されるかもしれないが、中国国家をがっちりと握っている現実主義的な北京官僚は、これら無邪気な急進主義者を微苦笑しつつ抹殺してしまうに違いない。

北京官僚にとっては、自己の現実的な利害がすべてであるのに対し、これらの紳士的な急進主義者にとっては、なんとカテゴリーがすべてであるのだから、現実の政治における勝負ははじめから決まっている。

北京官僚がソ連・ワルシャワ機構軍のチェコスロヴァキア侵入をとらえて、「修正主義集団相互の闘争であり、ソ連は社会帝国主義に変質し、チェコスロヴァキア人民は両者に対して闘争せよ」と呼びかけたとき、その真の動機、如何なる利害がそうさせているかを明らかにすることなく、これらおめでたい急進主義者(つまり、いわゆる革命的マルクス主義派の諸君)は、「社会帝国主義」という言葉にとびついていった。

これらの諸君にとって最大の関心事は、北京官僚は如何なるカテゴリーであるのか、にある。だが、我々にとっては、現実の世界政治における北京官僚の利害は何であり、また、プロレタリア世界革命と第四インタナショナルの利害と如何にかかわりあうのか、これが最大の問題となるのである。

また、かかる観点から北京官僚を革命的な現状打破勢力と誤認―何というおめでたさ!!―する急進主義者、またそれに呑みつくされんとしている「戦後第四インター」の残党どもに我々は敵対するのである。

アメリカ帝国主義に対するむき出しの憎悪の表明、ソ連「修正主義集団」に対する闘争が必要であることの強調、暴力革命とプロレタリア革命の宣伝、等々は、だが北京官僚をしてシャルル・ドゴールより以上の現状打破を望んでいることの証拠であるだろうか? とりあえず、ここでは東トルキスタンの存在をあげよう。

現在、東トルキスタンはさりげなく新疆ウイグル自治区という行政上の名称で呼ばれているが、南ではチベットとカシミールに接し、西ではわずかにアフガニスタンと接しつつ、ソ連邦を構成するパミール高原のタジク共和国、北方においては同じくキルギス共和国とカザフ共和国に接し、東に向かって中国本土にひらいている広大な地域である。

ここは、いわゆるシルク・ロードの東の部分にあたり、古来、独自の文化が繁栄した地域であり、数多くの非漢民族が活動する舞台となってきた。遊牧と商業とにより、またオアシス農業とによりおこった都市文明は、ユーラシア大陸の各部分を結合する大動脈として、幾度も襲い掛かられた荒廃の危機に耐え、一体となって生き続けてきた。タリム、ジュンガル、トゥルハンなどの盆地は、かかるものとしてパミール高原と天山山脈を越えたソ連領土をなす西トルキスタンと同一の文化的同一性を保持してきた。

この大動脈が切断されるに至るのは、根本的には新しい航海術、蒸気船、スエズ運河の開通、イギリス帝国の世界支配の確立、世界市場の形成によってではあるが、直接には南下するツァーリズム・ロシア帝国と清帝国とがここにおいて相対峙し、さらにインド・アフガンを防衛するためにイギリス帝国が介入し、トルキスタンを分割支配することによってである(イギリス・ロシアによるトルキスタンの東西分割の確定は1895年)。

そして、現在の中国・ソ連国境は、ロシア帝国と清帝国の境界にほぼ等しく、かつてトルキスタン全域にわたって活動した諸民族は、中国、ソ連両国に分断され、その活力を奪われたまま、東トルキスタンは北京官僚にとって、かけがえのない植民地になっているのだ。

北京官僚はここに数十万の軍隊を送り込み、急速な漢民族への同化政策をとっている。新疆ウイグル自治区は、北京官僚の核実験場であり、豊かな鉱物資源の埋蔵地であり、なによりも偉大な清帝国の後継者として、ここ東トルキスタンを手放すことができないのだが、かつて何人にも従うことのなかった諸民族は、絶え間ない反抗を繰り返し、隣国ソ連に生活する同族の援助を求めてやまない。

これは西トルキスタンがモスクワにどれほどの忠誠をもっているか疑わしいのに加え、さらにイギリス帝国主義に代わってアメリカ帝国主義がインド洋に進出し始めたことは、東トルキスタン問題の爆発的性格を明らかにする。

ここにおいて北京官僚は解きほぐすことのできないほど複雑な、対立と依存の関係をモスクワと結ばざるを得ず、同様にアメリカ帝国主義とも同様な関係に入らざるを得ない。

北京官僚は帝国主義支配の下に苦しむ植民地人民の最大の代表者であると、誇大な自己宣伝を繰り広げている。だが、カシュガルの、あるいはウルムチの真の代表者を国際会議に派遣せよと要求されたとき、北京は如何なる態度を示すことか?!

もし、トルキスタン諸民族は、単一の中華人民共和国の兄弟であると彼らが言うならば、ポルトガル帝国もまた同様なことを言っている事実を知るべきであり、また同時に、その「兄弟たち」の半分は、ソ連邦を構成している諸共和国を形成していると言うに等しい以上、モスクワは北京の領土的野心について非難せざるを得ないだろう。

我々は、北京官僚に代わってかかる問題に頭を悩ましたりはしない。ただ次のように言うのみである―北京官僚もまた抑圧者であり、東トルキスタンについては全くの現状維持勢力であると。そして、これは単に部分的な問題ではなく、もし新疆ウイグル自治区が失われるならば、官僚の支配の正統性にきわめて重大な打撃を与える問題であり、中国国家の統一にかかわる問題であり、プロレタリア世界革命に代償として引き渡すべき高価なものを、北京官僚が所持していることを明らかにする問題であると我々は主張する。

かかる事情をひたかくしに隠しながら、自分こそは革命勢力であるとする北京官僚の宣伝ほど、あざとく、偽善的で醜いものはない。

彼ら官僚は、シャルル・ドゴールと同様に、世界政治における居心地の良い場所を要求しているだけにすぎず、現存の世界帝国主義支配秩序を、根底から覆そうなどとは思ってもいないのである。そして、ドゴールと違う点というならば、この自己支配権の一層の強固化を、反帝国主義・反修正主義の名の下にはかろうとしていることであり、また、そのためにプロレタリアートに階級として独立性の放棄をテロルをもって強制し、プロレタリアートの血を求める点にある。

北京官僚は自己の隊列に生じた右派を指して「赤旗をもって赤旗に反対する」と攻撃した。我々はこれを北京官僚全体に対して投げつけなければならない。

北京官僚の尻尾に自らなり下がることだけで満足できず、プロレタリアートを急進主義的な農民運動に従属させることが、反帝国主義に勝利する秘術であるなどと大ぼらを吹きまわり、プロレタリアートの革命性を自ら積極的に解体しながらプロレタリア大衆を軽蔑している、軽蔑すべき急進主義者は、一刻でも早く清算しなければならない。

「ちいさなやさしい群れへ」

今日、大部分の急進主義者と「戦後第四インター」は、ちいさなやさしい群れをつくっている。彼らの誰もが、現実の世界政治の苛烈で冷酷な風圧に耐えられず、「ひとりっきりで抗争できないから」といって、巨大な北京官僚の庇護下に入ろうとして互いに弁解しあっている。それでもなおかつ抑えきれない不安のために、いわく「批判的支持」、いわく「ジュネーブ会議で中国革命は変質した」等々の言葉をひねくりだし、痴呆のうちに眠りこけようと努めている。

もちろん、彼らだけが眠りこけ、現実とかけ離れた夢を楽しんでいるならば、我々もまた、その夢を壊そうとはしないが、疑い深いプロレタリア大衆の眼を恐れるあまり、「眠れ、眠れ!!」と騒ぎ立てることだけは絶対にやめさせるだろう。

彼らの騒がしく、やりきれない子守唄は、しかし、幾万のプロレタリアートを目覚めさせ、真に現実的で実践的な課題、第四インタナショナルの再建に取り組ませる決意を促すことにしかならないだろう。

第四インタナショナルは1938年に自らを闘いとる過程においても、またその後においても、今日どこにでも見られる急進主義者の先祖たちと闘わなければならなかった。とくに、第二次世界戦争が開始されるという重大な危機のさなかにあって、第四インタナショナルは自己の隊列の内部に生まれた小ブルジョア急進主義―バーナム、シャハトマンらとの闘争に打ち勝つことを自己の任務として課せられた。

これら急進主義者の子孫は、ソ連・ワルシャワ機構軍によるチェコスロヴァキア侵入という事態に直面し、ただひたすら、1939年の赤軍によるポーランド東部侵攻(独ソ協定によるポーランド分割)との類推によって、トロツキストの政治的立場を類推しようと懸命になった。だが、1939年と現在を隔てているのは平和な29年間ではなく、恐るべき激動の歳月であったことを、これらの急進主義者は思いつかない。

1938年、イギリス・フランス帝国主義はチェコスロヴァキアをドイツ帝国主義と分割する協定からソ連を除外し、ソ連が世界政治の中枢的な問題に介入することをはねのけた(ミュンヘン協定)。

1939年、ソ連はドイツ帝国主義とポーランドを分割し、ポーランド東部を占領した赤軍は、ポーランドの農民と労働者に「資本家と地主を打倒せよ」と呼びかけた。

イギリス・フランス帝国主義はヒトラー・ドイツに対して宣戦し、第二次世界戦争が開始された。

1940年、ヒトラーはフランスを降伏させ、イギリス帝国主義はヨーロッパ大陸の中心部から追い出され、破滅の淵に立たされた。

1941年6月、ヒトラーはソ連侵略を開始、イギリス・ソ連同盟が事実上結成された。12月、日本帝国主義の対米戦開始により、文字通りの世界戦争へと発展し、アメリカ・イギリス・ソ連による大同盟とドイツ帝国主義の死活の闘争となった。

1945年、ヒトラー・ドイツは敗北し、勝利した赤軍はエルベ河においてアメリカ軍と邂逅する。だが東・中部ヨーロッパを席巻して進撃する赤軍は、アメリカ・イギリス帝国主義と取り交わした約束に従い、どこにおいても社会革命の呼びかけを行うことなく、ただソ連に敵対しないこと唯一の条件として行政権を確立していった。ポーランドにおいて極めて露骨に傀儡政権を押し付け、チェコスロヴァキアにおいては、親ソ的なベネシュが最も権威あるためにスムーズに事が運ばれた。

赤軍は、プロレタリアートの闘争をどこでも抑圧し、ブルジョア民主主義の統治形態を強要した。

1940年代末までにはスターリニスト官僚の東欧支配は完成したが、ブルジョア政党は解散させられ、あるいは、無力化されたうえに、私企業は国家に没収され、計画経済制度が導入されたが、労働者階級はスターリニスト官僚によって解体されたままであった。ブルジョアジーは政権から追い出されきわめて弱体化されている一方、プロレタリアートは政治的にゼロであるということによって階級均衡が実現され、その上にスターリニスト官僚の暴力機構(ソ連によって押し付けられた傀儡政権)がそびえたっている――これが東欧諸国家の姿であった。

かかる危機のブルジョア国家、スターリニスト官僚に掌握されたブルジョア国家は、その先駆を1930年代末のスペイン人民戦線政権に見ることができるが、それは世界帝国主義の恐るべき危機の深さを示すと同時に、この危機をついて登場すべきプロレタリアートそのものの危機、なかんづく、その世界党指導部の危機が未解決であることを意味する。

奇怪な東欧諸国家が自らの歴史的前提としているのは、かかる階級として政治的に独立したプロレタリアートの未形成であり、世界政治の領域におけるプロレタリアートの敗北、第四インタナショナルの建設が中断せしめられたことである。

今日のバーナム、シャハトマンは、かかる点を全く無視して、“トロツキズム”を批判し、それで満足している。「戦後第四インター」の残党どもは、「国有財産と計画経済」を国家の階級的性格を検出するリトマス試験紙よろしく取り出して、“トロツキズム”を擁護し得たと満足する。

このような喜劇ならぬ喜劇が、チェコスロヴァキアをめぐってまたしても演じられた。しかし、喜劇は虚構であるとき人間を解放するのであって、現実の政治において演じられるのは、全くたまったものではない。

無責任な急進主義者にとって、歴史的諸事件は、つまり歴史家の仕事であるかもしれないが、東欧および中国におけるトロツキストのスターリニストによる殲滅は、トロツキストにとっては、無感動に見逃すことのできない問題である。だが、今日もまた「戦後第四インター」の残党どもは、「ソ連は労働者国家である、したがって擁護されるべきであり、故に東欧諸国家は擁護することができる」などという空文句で慰めあっている。

彼ら急進主義者と「戦後第四インター」の残党どもにとって現実の世界政治の領域において起きた諸事件は、ただポレミークの材料であって、自らの主体には関係はない。だが、真実は、現実の諸事件のほうが、彼らを必要としないのであり、無縁であるのだ。

「スターリニスト官僚が闘う限り、彼らを支持する」、あるいは「スターリニスト官僚は誤っているから、正してやらねばならない」等々と考えている、善意に満ち溢れた、ちいさなやさしい群れよ、くたばってしまえ。

(1968年10月)