漂流する中国政権の末路
「四つの現代化」路線後の小さな逆風

逆風

中国にまた例の逆風が吹き始めた。順風満帆、四人組を打倒して船出した「四つの現代化」路線は、いま風向きの変化に狼狽している。

四人組裁判を契機に毛沢東指導や文化大革命の見直し、批判、そして華国鋒辞任説などの情報が毎日のように流れ込んできた。しかし年明け早々、再び毛沢東の“玉音”が聞こえ始めている。「一不柏苦、二不柏死」(一に苦を恐れず、二に死を恐れず)――文革のうねりのなかで、中国全土に襲いかかった毛沢東の呪文が、いま、さざ波のように波打ち際を洗っている。

年頭の『紅旗』や『人民日報』は四つの原則(社会主義、プロレタリア独裁、共産党の指導、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想)の堅持をうたった。民主化に沸いた「北京の春」は、蕾のまま散ってしまった。壁新聞ははがされ、続々と創刊された出版物は、いま地下発行に追いやられている。民主化の旗手とさわがれた魏京生は、いま牢獄につながれている。政治生命を絶たれるのも時間の問題のように言われてきた華国鋒人脈は、いまもしぶとく生き残っている。

しかし、逆風は今後もやはり逆風でしかないであろう。一切の既存政治勢力は中国情勢に決定的役割を果たすこともなく、ただ情勢の大波に身を任すだけである。逆風が度を過ぎて強くなるならば、ただ転覆の運命を引き寄せるだけのことである。

戦後体制に支えられた中国政権の誕生

農民の入場―両階級の疲弊

プロレタリア階級にとって1966年暮の上海ストライキが中国プロレタリア革命の新しい時代を切り拓いた。それは1927年、広東コミューン敗北以来の中国プロレタリア階級の革命的回復を意味する。

1927年以降、スターリンの冒険主義と日和見主義指導の下で都市プロレタリア階級は敗北を重ね、1949年、毛沢東農民軍が都市入城を果たすころには、農民軍と協議する部隊も、ましてや農民軍を指導できる部隊もまったく存在していなかった。毛沢東軍の都市入城はプロレタリア階級にとって蒋介石政府から毛沢東政府への支配移行を意味したに過ぎなかった。

都市プロレタリア階級の指導をまったく受け入れることのできないまま成長した農民軍と、その農民軍をプロレタリア階級の反乱で迎え入れることのできなかった事実が、そのことを如実に示している。もちろんかかる事実は農民軍に責任があるのではなく、プロレタリア階級をそれ以前に壊滅に追いやったクレムリンのスターリニスト官僚と、プロレタリア階級の指導を顧みることのなかった毛沢東中国共産党指導部に一切の責任が存在している。

農民軍は、壊滅したプロレタリア階級を前にして、自らの権力基盤をプロレタリア階級に求めることはまったく不可能な情勢にあった。毛沢東とその官僚仲間がプロレタリア革命を代行したという怪しげな説が、戦後第四インタナショナル(US派=『世界革命』派など)や急進諸派によって流布されている。しかしこれは、観念論等々といった高級な論議以前に、幻想の分野に入れてよい性格を有している。どんな個人も、どんな集団も、その支持基盤が生き生きとし他を圧倒するほどに成長していなければ、自らの実体的存在を勝利的に示すことはできない。

個人や集団はその支持基盤から押し出されるものであって、その逆ではない。彼らは存在しない支持基盤を夢想して権力をつくり出したというのであろうか。これは唯物論のイロハであり、この限りでのあやまちならば他愛のないことである。もう一度マルクスの本を読むなり、現実を直視する目を養うよう心がければよいことである。しかし、彼らの言う「毛沢東によるプロレタリア革命代行論」が政治的効果をもち、しかもそれが毛沢東政権の反革命的基盤を包み隠す最も基本的問題にかかわるとき、彼らのあやまちは取り返しのつかない害毒となる。

毛沢東政権を社会主義政権として認可することは、帝国主義とスターリニスト官僚の協調的容認によって形成された、この政権の基盤そのものを受け容れることになる。だから彼らは、中国の官僚がブルジョア的政策をとれば限りなくスターリニストに近づき、官僚的強権政策をとれば限りなくブルジョア民主主義に近づいていく。この右往左往のなかで階級の独立性に打撃を与えていくのが彼らの職分である。

農民軍はプロレタリア革命に迎え入れられなければ、ブルジョアジーに迎えられる以外にない。しかしブルジョアジーもまた、長きにわたった国内の分裂状態と帝国主義諸列強の収奪のなかで、中国の統一政権を支持するだけの力量は持ち合わせていなかった。プロレタリア階級とブルジョアジーの疲弊が、農民軍入城時の現実的姿であった。

イニシアティブをとるべき主体が国内には存在せず、農民の個別的利害のなかで千々に分解し自己崩壊を遂げるか、帝国主義諸列強によって再度国土を割譲させるか、どちらかの可能性しか残されていなかった。しかし諸列強の活力もまた、アメリカ帝国主義を除いてほとんど底をついていた。

誰が世界を組織するか

世界を焼き尽くした第二次帝国主義戦争の後には、唯一戦場から逃れ、武器・弾薬の供給庫となったアメリカ帝国主義と、戦乱をくぐりぬけ巨大なエネルギーにふくれ上がっていった西欧や日本のプロレタリア階級、そして革命的前衛=第四インタナショナルの未成熟によって、世界プロレタリア階級のエネルギーを消費する蓋然性を与えられていたスターリニスト官僚、それらだけが世界を維持する可能性のある勢力として残されていた。

もちろんスターリニスト官僚については、独自の勢力として可能性があったわけではなく、帝国主義がプロレタリア階級を全面的に圧倒することができない場合に限って、可能性を残した勢力として存在していた。

終戦を前後してこれら諸勢力は激烈な闘争を始めたが、闘争開始まもないプロレタリア階級には決定的に不利な状況が加えられた。第四インタナショナルの未成熟自体、明らかなハンデキャップに違いないが、革命的状況の発展のなかではプロレタリア階級の活力が短期間のうちに革命党を拡大させることはそれほど幻想的なことではない。

しかし決定的なことは革命的指導の誤りである。第四インタナショナル指導は、スターリニスト官僚の東ヨーロッパへの進軍を革命の前進と見誤ってしまい、果てしないスターリニストへの屈服を遂げていった。かかる状況のなかでプロレタリア階級は悪戦苦闘を強いられ、自らのエネルギーをスターリニスト官僚に食いつぶされていく。

アメリカ帝国主義による世界再編の可能性はプロレタリア階級の鎮静を前提にして初めてあり得た。闘争する世界プロレタリア階級の鎮圧に正面から取り組むには巨大なアメリカ帝国主義もあまりに小さすぎた。ヨーロッパや日本のブルジョアジーにその役割を担わせることはないものねだりに等しかった。

プロレタリア階級を鎮静化させ秩序化できる唯一可能な手段は、スターリニスト官僚との取引以外になかった。しかしそのためにはスターリニスト官僚の存在を保障する労働者国家ソ連邦の存続を許容せねばならなかったし、存続できるだけの領土的割譲も覚悟しながらバランスをとらなければならなかった。

毛政権の成立

スターリニスト官僚はトロツキー左翼反対派から第四インタナショナルに至るまでの革命前衛に対する一貫した血の弾圧を裏付けにして、プロレタリア階級のエネルギーをアメリカ帝国主義との取引材料として保持した。クレムリン官僚は自らの生活基盤の保障、そのためのソ連邦の存続をアメリカ帝国主義に要求し続けた。

ヨーロッパや日本のスターリニスト官僚は自らの存続もかけて、クレムリン官僚の下僕となって寝食を忘れて働いた。あるときはプロレタリア階級を煽り、あるときは控えさせた。

ソ連邦の国境線を守るためのアメリカ帝国主義とのバランスが築かれるまでには、東西接触地点での激しいやりとりと熱戦が繰り広げられた。バランスがどの地点で築かれるかは、この抗争のどの時点でプロレタリア階級が敗北を喫するかにかかっていた。彼らはプロレタリア階級にこの抗争のどちらかを選択させることによって階級的独立を破壊し、闘争を鎮静化させた。まさにこの時点が両者のバランスを確立させる時点でもあった。

このような世界的バランスの形成が毛沢東農民軍に政権掌握の機会を与えた。アメリカ帝国主義が蒋介石をあきらめ中国をスターリニスト官僚の領土としたのは、1950年を前後してヨーロッパ前面におけるバランスが固まってきたこと、そして日本プロレタリア階級の敗北を通して極東のバランスが確定してきたことによっている。まさにその時点で、毛沢東に幸いしたのは、蒋介石を圧倒していたという現実であった。

プロレタリアートもブルジョアジーも権力保持能力を喪失させられながらも、中国が自己崩壊に身を任せることもなく、また帝国主義諸列強の分割に身を投げ出すこともなく、奇怪な人工国家をつくり得たのは、根本的にはこのような戦後世界の奇怪な階級維持構造によっている。

しかしクレムリン官僚は、広大な国土と膨大な人口をかかえる、きわめて後進的な中国を陣営内に結びつけることがソ連邦の国境線防衛のために有益であるかどうか疑念を抱かざるを得なかった。このクレムリンの困惑は中国からの引き揚げ、中ソ対立となってあらわれてくる。しかしスターリニスト官僚が帝国主義存命のための世界機構として生存することになった結果、クレムリンの困惑をよそに毛沢東もまたスターリニスト官僚として生存する機会を得たわけである。

抱え込んだ矛盾

しかし、戦後帝国主義体制の特異な階級抑圧構造によってのみ政権を奪取しえた毛沢東は同時に政権を維持していく上において解き難い矛盾を内包した。その矛盾は一口で言えば、東欧諸国家も同様の性格を持っているが、政権が維持されなくてはならない国内的必然性が欠落しているところから発生する。つまり、ブルジョア階級の積極的必要性からも、ましてやプロレタリア階級の欲求からも、政権が押し出されてきたわけではないということである。

では農民の要望からか? 小経営者にとどまる農民が、階級的利害を統一し国家権力を押し上げると考えるのは、あまりに幻想的に過ぎる。事実これまでの中国の歴史が示すように、農民の欲望を開花させたとき結果は限りない分散化をもたらしてきた。

矛盾を緩和させる策は、ただ一つだけ残されている。政権の成立した経過をそのまま受け入れることである。つまり、帝国主義からも承認された「スターリニストの領土」に自らも甘んじて組み入れられることである。さらに言えば、クレムリンの支配を受容し、自ら衛星国の位置に甘んじ、独立国家を望まず、半国家となり、国内支配の理由付けを「共産圏」の維持=ソ連邦の維持に結びつけることである。

しかし、中国の巨大な国土と人口がクレムリンを尻ごみさせたし、長く培われてきた中華思想は毛沢東官僚に半国家の道を選ばせなかった。歴史も巨大でありすぎた。「中ソ対立」が具体化し、現実化していくにしたがって、中国は独立国家にふさわしい政権の国内的理由を探し求めた。しかしその理由となるべき物質的・経済的基盤の展開は中国政権そのものの存在をただ阻害物にするだけであった。

階級社会では、経済発展はその政治表現において階級利害の要求を強めていく。階級の積極的要求を表現することなく、しかもその状態を自らの政権の基礎としてとりこんだ毛沢東政権は自らの安定をいくら経済的発展に求めようとも、階級的利害との衝突のなかで、その願望を断念せざるを得ない。それ故に、いつも不安定であることが中国政権の常態となった。

経済的発展を求めれば政権を危うくさせ、政権の強化を求めれば経済を後退させる。この矛盾要因相互の交代劇がまた、中国政権を存続させた自浄作用でもあった。国家権力の維持と永遠に結びつきようのない国民経済の形勢、これが中国政権の現実の姿である。

このような中国政権は、確かにブルジョア階級にとってもプロレタリア階級にとっても、疎外された形態である。しかし両階級にとっての疎外の意味は違っている。ブルジョア階級にとってこの政権が改革の対象であっても、プロレタリア階級にとっては革命の対象である。

中国政権の成立が戦後世界の反プロレタリア的機構の形勢から生み出されたものであるが故に、プロレタリア階級の権力奪取が実現されたかどうかという議論をさしはさむ余地はない。プロレタリア階級の権力獲得そのものが、国際的なプロレタリア抑圧機構の形勢から生み出されるという想像は、ただ馬鹿馬鹿しいだけである。

さらに、両階級にとっての相違は、その展望においてより一層鮮明になる。ブルジョア階級が政権からの疎外を払拭するのは、生産関係が依然ブルジョア階級に存在しているにもかかわらず、きわめて困難である。広大な中国を経済的に統合するには、彼らの経済力はあまりに貧弱である。価値法則の解放がいつも分散化をもたらすこれまでの中国の歴史が、その不可能性を証明している。ブルジョア階級による中国統合のエネルギーは、戦後官僚支配を受け入れたときにすでに枯渇してしまっている。プロレタリア階級にだけ、その分散化と闘いうる可能性が残されている。

中国はすでに歴史の舞台から去ったブルジョア階級を、官僚とともに打倒しなければ救われることはない。この展望はプロレタリア階級にだけ与えられたものである。

存在理由を失った毛沢東政権

経済的基礎の上に成り立つことをはじめから否定されて出発した毛沢東政権は政治的強権以外に頼るものはなかった。その強権の裏づけは、クレムリンと袂を分かつ前までは「共産圏の防衛」という世界的論理(戦後反革命世界体制の論理)に求められていた。

その論理が棄却された後も、世界的裏づけを持ち続けえたのは、中国が依然帝国主義諸国からの封じ込め状態を保障されたことと、クレムリンへの反逆が幸運にも、反スターリニスト潮流を呑みこむ役割を中国政権に与えたことである。これは反スターリニスト潮流の思い入れから起こったもので、中国官僚にとっては幸運な出来事であった。

しかし米日への接近のなかで封じ込めを解除したことによって、中国政権の世界的裏づけも完全に喪失させられた。反スターリニスト潮流の思い入れも次第に薄れていく。この時点から中国政権は、その成立当初に抱え込んだ矛盾を根本的に開花させる。経済的展開と政治的強権の相互否定の自浄作用は、すでに機能しなくなる。双方が劇的な交替を行ってきた歴史的繰り返しは基本的に許容できない状況となった。

それは国内的裏づけを有しない中国政権が、国際的裏づけ(戦後反革命世界体制)をも失ったことによる。中国政権が帝国主義に対して「社会主義」を対置できなくなったことによって、政治的強権が「社会主義」的装いを保てなくなったのである。

このような事態に中国政権を追い込んだのは、一方で帝国主義そのものの戦後体制維持に対する困窮の結果であるが、他方で中国国内の階級的情勢の大きな転換の結果でもあった。

「文化大革命」発動以来、一年も経たない66年暮から67年初頭にかけて勃発した上海プロレタリアートの闘争が、1927年広東蜂起の敗北以来の中国プロレタリアートの革命の回復を意味したということはすでに述べた。実はこの上海とそれに続いた中国各地の闘争が、毛沢東政権を後戻りできない地点に追い込んだのである。

国内的裏づけを持たない中国政権が国家的統合を果たすには、ただ政治的強権による以外にない。この恐怖政治が恐怖政治に見えなかった理由は、戦後体制という世界的裏づけに基づいて、政治的強権を「社会主義」に偽装することができたからである。この「社会主義」にプロレタリア階級は、2年近くも沈黙を強要されてきた。都市プチブル層を動員して私設警察を張り込ませ、「階級闘争」という私設裁判所をところかまわず常時開設し、プロレタリア階級の一切の動きを封じてきた。

しかし、勇敢にもプロレタリア階級はその「階級闘争」のなかにもぐりこみ、「闘争」のなかに自らの闘争をつくり出していった。毛沢東の「階級闘争」は、プロレタリア階級の階級闘争に変えられていく。「階級闘争」の内的変化に恐怖した毛沢東は、自らの発動した「階級闘争」を弾圧しなければならない矛盾に衝突した。68年以降、中国全土を血の弾圧が席巻した。プロレタリア階級はこの過程で、「階級闘争」を改良するのではなく、「階級闘争」を打倒しなければならない意識を獲得した。

毛沢東はプロレタリア階級の闘争を惹起した、自らの「階級闘争」に恐怖せざるを得なくなった。再び「階級闘争」を発動させるならば、プロレタリア階級はその「階級闘争」に対して、獲得された意識から出発するであろう。官僚はまさに“思い切って”「階級闘争」を発動することができなくなってしまった。

政治的強権が社会主義的装いを脱がされたのは、まず国内においてであった。このことによって、中国政権の社会主義的偽装を可能にした国際的裏づけが、国内的には意味を持たなくなってしまった。国際的裏づけが放棄される国内的準備が整えられ、そのように処理された。

これまでは国際的裏づけに依拠して国内を支配したが、いま国内の危機から国際資本と結びつく。それは戦後反革命世界体制から官僚に与えられた中国支配の保障ではなく、中国支配の危機から導き出された国際資本戦争の中国への導入である。

官僚は政権を維持する上において、頼るべきすべてのものを喪失させた。あとは国内の自然発生的な価値法則の暴力に身をまかせ、その暴力と結びつく国際資本に翻弄される以外にない。

繰り返しを拒否する転換点

生産発展を閉ざした中国政権の成立

いまだに社会通念となっている中国の「社会主義」は、社会主義的所有に基づく生産を行ってきたのではなく、ただ商品生産を抑制することだけで保たれてきた。商品経済を基本的な土台としながら、商品生産を政治的強権によって抑制してきたが故に、中国「社会主義」はその成立以来、いかなる社会的生産も行ってこなかったといっても言い過ぎではない。

これまでも商品生産に門戸を開放しようとする時期が何度か訪れた。53~57年までの「第一次五カ年計画」は、企業と地方を中央管理下におくための猛運動が行われた時期である。しかしその結果は生産の後退であり、停滞であった。

第六回大会(1958年)では53年の時期に後戻りすることが提案され、企業管理の地方移転が行われるが、一挙に矛盾が爆発、私的小経営が雑草のごとく広がり、地方の分散化傾向がもたらされた。この政策の寿命はわずか一年たらずであった。

二度目は「大躍進」後の「調整期」にあらわれた。しかし、それは言うまでもなく、「文化大革命」における国家管理統制体制の、自然発生的な地方分散化に対する熾烈な闘いのなかで押しつぶされていく。その結果は商品生産に対する、それ故に生産そのものに対する攻撃、抑制であった。

商品経済を生産の基礎としながら、商品生産の発展を抑制せざるを得ない巨大な矛盾が中国を支配してきた。官僚による商品経済の抑制政策から、怪しげな多くの経済学者と多くの左翼は、中国の経済的基盤を社会主義と類推し、見誤り、誇大宣伝し、過大評価してきた。

官僚は国家統合を維持し、政権を瓦解から防衛するために、結局のところ政治的強権に頼ってきたが、政権の物質的基礎、国家統合の経済的基礎を一方で願望してきた。このような官僚の願望とその願望の行き着く否定的結果のなかで、官僚内に二つの分派を固定化させた。

劉少奇・陳雲・鄧小平らは、中国官僚に運命付けられた強権的支配方法の変革を願望する分派として、「改革派」と名づけられていいだろう。しかし、彼らは四人組打倒に至るまで一度として権力を維持、継続したことはない。

これまで中国国家の統合を維持してきたのは権力統制、毛沢東思想による強権支配を毛沢東本人と四人組に連なる官僚群であった。彼らは中国官僚の運命に従い、中国国家成立によって決定づけられた支配方法を守ってきたという意味で、「保守派」と名づけられる。

保守派による生産の国家統制の下においては、地方も企業もその自主性を奪われ、私的利潤が保障されないために、経済はいつも慢性的な生産の停滞と後退を伴った。改革派は価値法則を容認し、それに基づいた生産の拡大を図ろうとして登場する。彼らは多くの歓迎を受けたが、その矛盾はすぐに表面化してしまう。

価値法則の行政的解放は国民経済の統一的形成ではなく、その分解をもたらした。農村には小経営者が続々と生まれ、闇取引が横行し、地方は「国家計画」を無視して国家資金を奪い合い、産業間のアンバランスを招いた。

農村では自留地や自由市場の開設が、農民間に富の格差を生み出し、地方機関内では処分権限をもつことのできる余剰・利潤の違いによって、地方間格差を増大させた。また工場幹部と労働者間の身分的、経済的、社会的な格差拡大が一般化し、階級的緊張も高めた。

この危機に保守派は経済的自由を企業や地方から取り上げ、企業、地方機関に対する国家管理を「毛沢東思想=階級闘争」の大運動のなかで強行し、モザイク的な国家統合を果たすのであった。商品経済の展開そのものの抑制が目的ではないにしても、国家的統一を維持するためには、そのような方法をとらざるを得なかったのである。たとえその方法が、社会的生産そのものの破壊に導くものであったとしても。

保守派官僚の冒険主義

政治的抑圧、統制による保守派官僚の行政手段が、表面上強固な統一をつくり出しているように見えながらも、内実は深い分解にむしばまれていた。どんな強圧的手段も、経済の私的利害に導かれる水面下の動きを押しとどめることはできない。1967年以降、プロレタリア階級の闘いによって、政治的統制の裏づけとなっていた「階級闘争」の大義名分を剥ぎ取られた保守派は、彼らの目を盗んではびこっていく個別的・地方的利害活動を、すでに抑えることができなくなっていた。

四人組の時代は、この自然成長的な分散化状況に対する、展望を失った保守派官僚の“もがき”の時代であった。「批林・批孔」をはじめとして、おそるおそる出される大衆動員号令は、すべて失敗に帰した。

すでにその号令との闘いに目を開いてきたプロレタリア階級の反撃に出会っただけであった。抗争事件をはじめとするこの時期のプロレタリア階級の闘いが保守派の大号令を鈍らせ、自然発生的な経済的分散化に対してもなんら有効な手段を行使し得なかった。

出口の見えない状況のなかで、彼らの抑圧行動は奇怪な表現をとっていった。国家的統一を脅かす私的経済活動の根源を、彼らは生産活動そのものに求めていく錯乱的結論に自らを追い込んでいった。壊滅的生産状況に陥った工場が数限りなく出現し、技術者やインテリゲンチャのほとんどが自己批判の候補者となった。生産活動の破壊が拡がった。

かかる事態の進行が、彼ら官僚の保守派内部に分裂を引き起こした。保守派の一部は共倒れを恐れ、逆に四人組を急襲した。華国鋒を頂点とする一部保守派は、葉剣英などの中間派を加え、四人組の排除を成功させた。これはもちろん改革派の賛同を得ていたし、彼らとの妥協の産物であったとも言える。

その祝賀大会ともなった第五期全国人民代表大会は、冒険的な「十カ年計画」(1976~1985年)を打ち上げた。これは両派の混合物のようなもので、改革派から見ればさらにもう一段整理される必要があった。計画はまだ保守派の色彩を色濃く残しており、国家の行政的強力の一振りで巨大な工業を一夜のうちにつくり上げることができるという、彼ら一流の思い込みがあった。

農業の年平均成長率4~5%、工業の同成長率10%、そして大型鉄鋼基地10、新幹線6、大型非鉄金属基地9、石炭基地8、油田10、発電所30など120の大型プロジェクトが計画され、その机上プランの結果、鉄鋼生産は85年で6000万トン、農業機械化率は85%、食糧生産は4億トンという算盤がはじかれた。

この夢の大構想に投じられる資金は、中国政権の成立から78年に至る28年間の投資額と同等額を予定するほど実に“野心”に満ちたものであった。

世界水準からすれば決して高い目標ではないが、中国の現状からすればとてつもなく冒険的であるこの大型工業建設は、それ故に開始されたとたん挫折の憂き目に遭った。その野心と冒険の程度は次のようなものであった。

中国の現状から、一億元の基本建設を完成するには、建築鋼材1500万トン、電気機械3000~4000万間(約1万トンの鉄)、木材2万?、セメント3~5万トンが必要だという。この試算からすれば、78年の基本建設を実現するのに、その年の鋼材、木材、セメント全部を使ってもまだ足りないという程度の基本計画であった。

資金問題だけでなく、技術的問題においても冒険的である。広大な中国市場のうまみをちらつかせながら、官僚は帝国主義諸列強の技術移転に大きな期待を寄せている。しかし、宇宙・エレクトロニクス技術がすでに中小工場にまで拡がるほど産業化され、素材革命やバイオテクノロジーなど新たな技術開発にしのぎを削っている世界の技術水準からすれば、中国の現状はあまりに桁がはずれている。恐ろしいまでの技術格差、それに伴う産業構造の極端な相違は、中国国内への技術移転をきわめて困難なものにしている。

鉄道や道路、港湾、電力など生産基盤に重大な欠陥をもち、流通や信用機構はまったく未展開のまま抑え込まれている果てしない国土の中に、どんなに大型工場を建設しようとも、それは文字通り砂上の楼閣に過ぎない。

日本のブルジョアジーは、ブームが去って少し頭が冷えてきた。砂に水をまくような資金の無駄づかいに慎重な対応を見せている。中国国内の経済体制の整備状況を見ながら、金の使い方を考え始めている。円借款問題でも中国国内の資金計画の明確化を要求するようになった。しかし関係の中断、縮小を恐れて、金をどぶに捨てる覚悟も必要視されている。これも「日中友好」の必要経費というわけだ。

ところが吝嗇な日本ブルジョアジーは、資金がすぐに利潤と結びつかねば気がすまない。いつまでも無駄づかいする気もないだろうし、いつ整うかもわからない中国官僚の国内整備を待つゆとりを、彼らが持ち合わせているだろうか。

日本ブルジョアジーが国内の資金計画に口を出す日もそう遠くない、しかし国内の資金計画までひきうけるほど、日本ブルジョアジーは能力も経済力も持っていない。せいぜい行き着くところは中国の国家経営を無視して、中国の富をかすめとっていくのが関の山である。

中国の統一は、国内的分散化によって引き裂かれていくだけではない、海の外からも引き裂く力が次第に強く作用し始めている。

価値法則への迎合から始まった中国経済

狭められた選択

四人組を打倒した保守派官僚の一部は、一年も経たずに自らの計画の無謀さに直面させられた。彼らの計画の中心であった大型基本建設プロジェクトは、その技術的、資金的困難さ以前に、今も変わらぬ中国の経済的基盤である資本制的生産様式との衝突を起こして挫折した。彼らの野心的な計画は価値法則の反逆を自ら導き寄せ、その抑制の方途を失った官僚は事態に押し流されながら自壊の道をたどった。

国営工場、経済の計画化、貿易の国家独占、集団所有農場等々、数々の社会主義的経済用語で語られてきた中国経済の実態がいま赤裸々に暴かれようとしている。これら中国の「国営経済」がプロレタリア階級の闘いによって建設され、価値法則との競合のなかで維持されてきたものでないが故に、価値法則の反逆に対してほとんど何の抵抗力ももっていない。

社会主義経済を偽装し、行政命令と強権によって組織された中国の「国営経済」内部には、ほとんど何の活力も存在しておらず、生産の拡大は望み得べくもない。計画にどれだけ膨大な資金をつぎ込もうと、投資は生産に結びつくことはなかった。

階級の目的意識を欠いた生産は、使いものにならないガラクタの山をつくった。1953年以降いく度か作文された五カ年計画は、それと同じ数だけの富の浪費を伴った。

これまでと同様、78年の十カ年計画も実行に移されたとたん、浪費の開始となった。農産物の増産命令は、自留地における副業や都市に持ち込む闇物資を取り上げるだけに、農民のサボタージュと抵抗を生み出した。また基本建設投資は各国営企業、各地方官僚の地位争いの道具となって、資金の奪い合い、プラント導入争奪戦を繰り広げただけで、生産の実態を伴わないまま野晒しとなるか、横流しの材料となった。年度600万トンをめざした宝山製鉄所や南京、勝利、北京の石油コンビナートなど、軒並み中止、縮小の事態に陥っている。

官僚には再び「階級闘争」のいう名の強権発動をするか、沸き起こる経済の私的経営におもねるか、基本的にはどちらかの道しか残されていない。前者の結果は資金の浪費と経済の荒廃を生み出す以外にないが、その結果を恐れる以前に強権を発動するための大運動は、プロレタリア階級の反撃を導き出す危険性を経験してきただけに、彼らにとって既にはじめからはずされた選択肢なのである。選択は自動的に決められた。とりあえず、価値法則に経済運営を委ねる以外にない。

官僚は十カ年計画の勇ましい目標とは裏腹に、各年度計画では低い見通しを立てる以外になかった。79年6月の全人代第二回会議では工業生産を8%、農業生産を4%に、80年8月の同第三回会議ではさらに低く、それぞれ6%および3.8%に抑えた。また、国家基本建設投資額は79年400億元、(対前年比1.3%増)、80年395億元(同1.3%減)に縮減された。石炭、石油生産は80年横ばいか、減産の見通ししか立てられなかった。

この過程で保守派官僚の一部は急速に後退し、官僚の改革派が台頭をはじめた。この低い経済見通しは改革派の保守派に対する勝利の証しでもあった。改革派がまず手をつけなければならない政策は、進行する事態への迎合であった。

自主権がそのまま分散化

“行政手段による経済管理”ではなく、“経済法則に基づく経済管理”という「陳雲経済学」が再び持ち出されている。これは大号令を取り除いたら、中国経済を動かすものが価値法則以外にない事情を、ただ述べたにすぎない。しかし改革派にとっても保守派同様、第一義的問題は国家統合のために何ができ、何をしなくてはならないかということである。しかし彼らは当面、自らの選択からではなく、事態の不可避的推移から価値法則に身を委ねている。その展開のかなたに国家統一があることをただ願望しながら。

78年12月の中国共産党三中全会において、「調整・改革・整頓・向上」の“八字方針”が出された。この政策は全人代第二、第三会議で、国家施策となってあらわれてくる。この方針が出されてきた経緯はすでに述べてきたように、「国家計画」が生産の停滞と向上の荒廃をもたらすものとして排除された結果登場してきたものである。

経済の計画化という“行政手段”(もし社会主義を想定するならば計画化を単に行政手段と考えること自体、ばかげたことであるが)は、極力狭められなくてはならないというのが、この方針の精神である。だから工場においても、価値法則が一般的に解放されなくてはならない。そうしなければ良質で多量の製品が生産されないのだから資本主義国家中国にとって仕方のないことである。

工業政策のエキスは企業と地方の自主権拡大である。それは生産の領域においてだけでなく、価値法則の先導役である流通の領域においても適用されるものである。原料の仕入れ、生産、供給の諸関係を価値法則によって縫い合わせ、国民経済の一体性を形成していこうという達成不可能な願望を方針に仕上げた。

企業の自主権の内容は、おおむね次のようなものである。
① 国営企業は利潤を留保でき、留保分の使途は資本投資(60%以上)と福祉、労働者奨励金であること
② 企業に留保する固定資産減価償却費の比率を高めること
③ 流動資金は全額銀行貸付とすること
④ 基本建設投資を逐次銀行融資に切り替えること。

一方、地方の自主権拡大は、主に財政制度に対する権限拡大にある。各企業の租税・利潤はすべて上納されていたが、その一定比率を地方に残し、農業支援や工業の技術革新、福祉施設の建設などにまわすこととした。

また対外貿易、外資導入なども、地方へ一部権限の委譲が行われた。重点的建設プロジェクトについては中央が統一して行うという条件がつけられて。

これらの諸政策はその名のとおり、企業や地方の自主権確立であり、国家中央からの独立となってあらわれてこざるを得ない。国家が建設投資を抑えようとも、地方は手元に留保した資金で投資を行い、全体の投資額は減少しないどころか増加の傾向さえ見せた。

企業もいままで国家からの資金しか使えなかったが、各銀行からの融資、各地方財政からの資金が使用可能となり、国家監視の外で投資が行われている。発達した商品市場が存在しないため、その無政府性は回り道をすることなく、直接的に答えを出している。

産業部門間、企業間、地方間の分業もないまま、それぞれが重複した投資を行い、ある商品については膨大な滞貨を生じ、ある商品については決定的な不足をおこしている。

官僚の改革派はかかる自体を期待して、調整と改革の方針を提出したわけではないであろう。官僚に言わせれば、国家計画のなかにある大工場経営と、そこで生産される工業製品を通して、中小工場と地方と農民小経営を掌握しようとしたのかもしれない。

経済の国内的関連性を欠落させたままで突進した大工場経営がまず失敗させられた。その結果、国内的経済有機性が第一の問題に掲げられたが、有機性をもたせるだけの生産物の絶対量の確保から始めねばならなかった。そのためにはただ、いままで抑えられてきた価値法則をそのまま解放してやることであった。

小経営を開花させる農業

拡がる小経営

国営工場の生産を「国家計画」のなかに包みきれないとすれば、農民小経営を掌握することは、それ以上にますます困難なことである。農業生産物は農民の自給的食糧となる以外は、国家による買い付けが行われるか、自由市場で売りさばかれるかである。これまでは自留地や自由市場が制限されていたため、一部が闇市場に流れていた。現在、自留地は全耕地面積の約7%だといわれる。しかしこの自留地からの収入は、農民の全収入の20~30%を占めるほど高くなっている。

普通、農民の収入は労働量や性別、身分などで決められる“?”という労働点数を基礎に現金換算されて年末に支給される。一年間成人男子で4000?前後が普通で、女子などその半分ほどである。その年の収穫量で違ってくるが、平年で10?が1元(140円)程度だといわれ、その収入から米代、野菜代、風呂・床屋代などがひかれて、大方収入の半分はなくなってしまう。

官僚は79年の夏作から食糧買い上げ価格を20%、超過供出には50%値上げし、主要農業副産物18品目については、平均24.8%の引き上げを行い、農民の収入増大期待に伴う農産物の増産が図られた。薛暮橋氏は国家による農産物の統一購入には否定的見解を示し、統制・配給制度がいずれ解消されることが望ましいと述べている。

しかし、現在の収入の低さから、いきおい自由市場での収入を求めることとなり、自留地での生産性向上に重点を移し、自由市場での販売先の確保に奔走したり、農民の小経営は着実な進展をみせている。野菜や副食品は大都市で5~8%、中小都市で15~20%、県都以下の都市ではほとんど100%近く、この自由市場に依存しているという。

さらに興味深いことは、生産隊内において「五定一奨法」という、より狭い範囲での生産活動の組織化が行われていることである。これは生産隊内に相対的に固定した作業組をつくり、耕作区域や生産高指標を定め、その指標を超過達成した場合は、奨励金を与えるというものである。この組織は基本生産単位である生産隊をさらに小分割したもので、その先には各戸請負経営への道が開けてくる。実際に特定産物の専業請負制も増加してきているという。

農業経営それ自体、自然発生的には個別的であり、小経営を基礎とし、価値法則が最も根強く残る部分である。中国の官僚たちは内戦時代における農村工作の経験を利用しながら、農村を人民公社制度という官僚的統制の下で縛り付けてしまった。これには農業生産の永遠の停滞という代償を支払ったが。しかしそれを無視して、官僚は幾度か農業増産運動を展開した。「刻苦奮闘」の精神を振りかざし、農民に空恐ろしくなるほどの長時間労働と手作業を強制しつつ、農耕面積の拡大を図った。工業生産物の供給がなされない限り、増産は生産性の向上ではなく、面積の拡大でしかなかった。新たな負担をそのままかけられた農民は、生理的時間を越える労働を要求され、開墾農地だけでなく既存農地までも荒廃にまかせざるを得ない極限にまで追い詰められた。

農業と工業

いま改革派官僚は大塞農業を批判し、農村にも価値法則の展開を許容しようとしている。しかし、この方策は逆に農村に対する国家統制、国家による中央掌握の欠如を代償にしなければならない。農民小経営は増大すればするほど、「国家計画」の範囲からますます遠ざかっていく。自由市場で売買される農産物そのものが、もうすでに国家の掌握の枠外にある。

価値法則の開花は、当然にも自由な市場を要求する。改革派官僚は地方と地方、企業と企業、農業と工業を結びつけ、中央の下に国民的統合を達成するのが、「毛沢東思想」ではなく、この市場であると思い違いしたのかもしれない。官僚は市場の形成にも力を入れた。農村から、都市から商品が放出されてくることを期待し、商業や信用機関の発達に注視した。紡績工業や軽工業の成長率を重工業より高めに設定したのも、ここで生産される生産物が最終的消費物資であるだけに商品になりやすいからに他ならない。

しかし事態はまったく逆にすすんだ。市場経済はただ国家の価値体系を混乱に陥れただけであった。国家の生産目標を超過達成した企業は、国家に目標額だけを収め、あとは市場に放出した。放出されて商品となった生産物は、市場に顔を見せたその瞬間から自由に一人歩きを始めた。国家の価格政策はどこでも、無政府的な市場に撹乱させられた。

人民公社に統括されているように見える農業も、いったん価値法則の隙間風が吹いてくると、たちまち個人的小経営を開花させる。小経営は一気に分散化傾向を加速させていく。この分散化傾向を全国的に結合し統合し得るのは、ただ工業による農業の支配だけである。しかし7億の農民をかかえる中国農業に求心力を与えるためには、きわめて膨大な工業力を必要とする。これは気の遠くなるような巨大な事業であることには違いない。「二本足で歩く」「農業を基礎に工業を導き手として」という相も変わらぬスローガンは、工業と農業の関係が官僚にとって、解決できない永遠のテーマであることを示している。

中国の工業がこの30年間、農業を支配できずに経過してきたのは、単に工業における技術的未熟や蓄積の不足など物質的欠陥からではない。それはすでに述べたように、階級の壊滅的打撃のなかで例外的に政権を握り、その階級情勢を抑圧支配によってそのまま固定化しなければ生存できないという官僚支配の性格に求められる。生産が階級利害の積極性に基づかないとすれば、それはすでにバーバリズムの端緒を示している。生産の拡大など望むべくもない。工業と農業の関係云々を論ずる以前に、生産は破壊状態のなかにあった。ただ命令と監視の下で、生命を維持する程度の生産が行われてきたにすぎない。時として、その生命さえ危ぶまれる時期をはさみながら。

中国政権の末路とプロレタリア階級

経済における小反動

昨年の暮ごろから再び中央の権限強化が叫ばれ始めた。一つは地方の自主権、二つは企業の自主権に関する権利制限の問題である。四人組を含む官僚の保守派からの権力移動が、改革派をして価値法則への全面的迎合に赴かせたが、そのことが官僚の意図する国家統合と逆方向に進まざるを得ない事態を確認するには、78年の中国共産党三中全会からほとんど二年とかからなかった。全人代第三回会議からすれば、わずか四ヶ月である。

自主権制限の内容は、おおよそ次のようなものであった。①今年の一月から実施される予定であった対外貿易権限の全面的な地方委譲を制限する②プラント、技術導入について、その規模や重要性に従って許可機関と許可基準を設定する③基本建設融資の監督権限強化④外貨管理の中央集権化⑤徴税の強化⑥企業利潤の国家上納の促進⑦流動資金の削減⑧今年から全面実施の予定であった国営企業の自主権付与を制限。

1978年中国共産党三中全会に端を発し、全人代第二、三回会議に引き継がれ、国家政策となった「調整・改革」方針は、ほとんど実験段階に入ったところで停止させられた。しかし価値法則の反逆は、そのテンポに緩急があったとしても、基本的にその進展は押しとどめようがないであろう。

はじめに述べてきたように、改革派の登場は、保守派による強権的統制政策が破産を遂げ、決定的手段ではなくなった結果だからである。これまでのように、統制の引き締めと緩和の単純な繰り返しのなかで、基本的に保守派が中国統一を維持するという状態の継続はありえようがないということである。

いま改革派は保守派に小妥協を余儀なくされている。しかし政権を維持しているのは改革派である。保守派と改革派の立場はこれまでと完全に逆転している。保守派は小さな揺り戻しの脇役となった。すでに保守派の魔法の杖はない。しかし保守派が過去の記憶をよみがえらせることが、全くないと考えることはできない。ただそのときは、今までのような政治的強権による引き締め効果といった程度の結末で終わることはできない。中国の決定的分解か、階級のエネルギー噴出による革命か、そのどちらかの合図となるであろう。

崩壊のテンポ

中国官僚の存在基盤がきわめてあやしくなってきた。彼らが如何なる裏づけを持って存在しているのか、その存在の理由がどこに求められるのか―彼らの存在の正当性を論理付けるのは、現実を理解する者にとって、全く不可能なこととなった。

中国政権の成立そのものが戦後帝国主義体制の形成に起因していたが故に、その存在基盤は戦後体制に求められた。つまり、中国が「スターリニスト陣営」内に押しやられたため毛沢東政権が成立し、政権の存在根源はクレムリン官僚とクレムリン官僚の存続可能性を与えた「堕落した労働者国家」に求められた。

しかし毛沢東政権はクレムリンと離反を起こした。その理由の多くが中国を抱え続けるだけの力量に不足していたクレムリン官僚に求められる。その理由付けはともかく、この離反によって中国政権は事実上その存在理由を喪失した。しかしアメリカ帝国主義が中国にも手をさしのべなかったことによって、その存在理由は形式的に残存することができたといえる。

決定的となったのは、アメリカ帝国主義との和平による「封じ込め」の解除であった。その理由の多くが決定的な世界資本主義の危機到来と、それに起因するベトナム戦争の終結、そして中国労働者階級の戦後初めての反乱に求められる。

かくして中国政権はその支配基盤を崩壊させ、その支配理念を喪失した。その後の官僚支配は、まがりなりにも混乱を中国統一に引き戻すべき一縷の糸を切断させ、重心を失った独楽のごとく揺れ動いた。まだ国家と呼ばれているのは、官僚支配の残影が投写されているからにすぎない。すでに、ただ言葉上の問題であるが、中国官僚をスターリニスト官僚と呼ぶべきかどうかも疑問のあるところである。スターリニスト官僚の残影と呼んだ方が適当であるかもしれない。

中国官僚が戦後帝国主義体制を基盤とする存在理由を失ったとき、中国政権は自動的に世界的存在であることをやめた。中国はいまアジア大陸の大部分を占める、まとまりのない後進的国家となった。今後、現中国政権が国際的に意味をもつとすれば、アジア・太平洋地域での混乱要因になることだけである。世界秩序の維持に関しては、中国政権は左翼潮流への影響力を含めた政治上の問題についても、市場への期待感を含めた経済上の問題についても、全く何の機能も果たさなくなっていく。

あとに残る問題は、中国政権崩壊のテンポの問題である。そこに保守派と改革派による官僚間対立の問題がからんでくる。経済的な意味では、中国はますます自然発生的で、無政府的で、分散的な市場化を進行させるであろう。それに規定されて官僚の動きがあり、その動きが崩壊のテンポをつくっていく。

世界的視野から

中国政権をここまで至らしめた要因のなかで、今後の中国を運命づける決定的要因は、プロレタリア階級の闘争である。中国プロレタリア階級が1967年以降、切り拓いた地平は壮大である。闘争は官僚の一切の出口を閉ざしてしまった。官僚の存在理由を完全に喪失させたのはこの闘いを根源としている。崩壊の他の要因を生起させたのも、本質的にはこの闘いである。

中国プロレタリア階級は、その地点から出発している。中国政権崩壊のテンポを上回るテンポで中国プロレタリア階級が成長を遂げるのは、それほど疑わしいことではない。ただ問題はこの階級の成長のテンポに、革命的前衛党=第四インタナショナルの形成が追いつけるかの問題である。決定的なことはこの革命党の形成に、やはり帰着せざるを得ない。

しかし、このことを前提したとしても、分散化する中国経済を統合できるのだろうか? だからこそ革命はインタナショナルが絶対的に必要だと、この疑問には答えねばならない。ただ分散化傾向を進める価値法則に対して競合し闘いうるのは、プロレタリア階級の永続革命に支えられた計画経済だけである。階級の革命的エネルギーが結集されるとき、計画経済は価値法則に対して決定的優位な位置に立つ。その集中的力は生産の有機的結合をつくり出し、飛躍的増大をかちとるであろう。それらは全て、外的強制にではなく、ただプロレタリア階級の革命的エネルギーに依存している。しかし、それでもプロレタリアートの国際的援助がなければ、そのエネルギーは全面的に開花することはできない。

中国官僚がその存在基盤を失ったなかで、プロレタリア階級の闘争は国際的な波及効果を失ったのであろうか? 断じて否である。国際的影響力を失ったのは官僚であって、プロレタリア階級ではない。それどころか、官僚の影響力を失わせたのが中国プロレタリア階級であった真実を見る者たちにとっては、中国プロレタリア階級の革命的影響力は、国際的にも強く作用せざるを得ない。なぜなら、戦後帝国主義体制の全般的崩壊のなかで、官僚の存在基盤を喪失させた中国が、そのもっとも弱い環の一つであることを示しているからである。

中国プロレタリア階級にとって、官僚の残影に対する闘いが残っている。それを一掃しなければ、もちろん権力は獲得できない。プロレタリア階級は官僚を残影にまで追い込んでいるのである。この闘いはやはりスターリニスト官僚打倒という、世界的視野から行われなければならない。

どこにバリケードを築くか

一方、官僚がその存在理由を失うことによって、ブルジョアジーの活動が活発化している。これは形のある結集したエネルギーにはなり得ようがないが、プチブルジョア層を通して、ブルジョア的害毒が頻繁に流されることになろう。「民主化」のスローガンがその代表的なものである。プロレタリア階級は官僚の残影との闘いを、これらブルジョア的傾向への攻撃を強めながら貫徹しなければならない。官僚の存在は、プロレタリア階級を抑圧しぬくことのできなかったブルジョアジーの弱さの結果として選択されたものであって、プロレタリア階級が受けている抑圧とは根本的な違いがある。

中国の場合、官僚の主体性はますます低下せざるを得ないし、それに比例してブルジョア的傾向が不可避的に強くなっていくであろう。しかしブルジョアジーは官僚的桎梏を取り除くほどまでに、自らの経済的能力も階級的潔さも持ち合わせることはない。また他方、官僚もブルジョアジーの“わがまま”を叱責するほど勇気を持ってはいない。彼らはただ、なれあった小競り合いを続けるだけである。この小競り合いは、正負どちらの意味においても、歴史的には何の意味も持ってはいない。だからわれわれは、この小競り合いに口を出す必要もないし、放っておけばよい。ただ彼ら双方をともども墓場へ導いてやればよいのである。

しかし、話しはこれほど単純にはいかない。それほどまでに階級情勢が成熟していないからである。プロレタリアートとブルジョアジーの階級的分岐が、それほどまでに純粋化されていないからである。つきつめれば、革命的前衛が情勢をそこまで純粋化できるほど、階級を組織していないからである。

その結果、官僚とブルジョアジーの小競り合いが、大衆の社会的判断の分岐点としてのしかかってくる。その分岐点を意味ありげに語り、階級的分岐点をぼかしていくさまざまなプチブル傾向が官僚とブルジョアジーの小競り合いの“重大性”を助長する。彼らの小競り合いは、それ自身が階級の独立性に襲いかかってくるものとして、意味をもってきている。

プロレタリアートは階級対立の線引きをどこに設定するか、バリケードをどこに築くのか、かかる基本問題から闘いを開始しなければならない。官僚に対する抵抗が、バリケードの向こうで行われているのか、こちら側で行われているのか、見境いのない無節操なプチブル諸派と闘いを続けながら、バリケードを鮮明に浮かび上がらせねばならない。「社会主義国」で官僚と闘う部分ならば、戦線統一できると考える意識は、帝国主義でブルジョアジーと争う部分ならば、たとえスターリニストでもブルジョア左派でも統一できると考える意識と符合している。

中国でも、いま地下に追いやられながらも、四人組打倒後一時期春を謳歌したこれらのプチブル的傾向が今後も地下水脈で細胞分裂を続けることは避けられないであろう。官僚の「階級闘争」という強権的抑圧政策を破産させた中国プロレタリア階級は、これらの諸傾向との闘いを通して、官僚とブルジョアジーをバリケードの向こうに追いやり、権力獲得へと近づいていく。

中国プロレタリア階級にとって、この闘いは比較的有利な位置にある。なぜなら中国はブルジョア的傾向に対する歯止めを失っているからである。官僚は国家を統治する裏づけを喪失し、すでに情勢を集約する地点をもっていない。自らの行動を規定する論理性を失い、情勢の成り行きに身を委ねながら、政権は地すべり現象を続ける以外にない。クレムリン官僚がその歯止めになる可能性はほとんど完全になくなっている。アメリカ帝国主義の介入は情勢の進展を一層推し進めるだけである。

それ故に世界の階級支配構造を引き写した形の官僚とブルジョアジーの争いが、中国の場合、情勢の分岐点として持ち上げられる程度はより低いと考えられる。だからプロレタリア階級が、その分岐点に巻き込まれる程度も、より軽度に済むかもしれない。

しかしプロレタリア階級にとってのこの有利性は、裏返せば困難さでもある。一切の国家的分岐点そのものが破壊させられ、諸勢力の対立が個別化、局地化し、矮小化するなかで、階級の独立性が砕け散るという危険性である。分散化する情勢のなかで、プロレタリア階級は集中化を図らねばならない。プロレタリア階級の反撃を恐れるが故にますます情勢の成り行きに身を任せる官僚に対して、官僚となれあう以外に方策を持たないブルジョアジーに対して、そしてかかる情勢から官僚とブルジョアジーの小競り合いを階級の分岐点として拾い出そうとするプチブル的傾向に対して、プロレタリア階級は闘いを挑み、自らの階級的独立性を築いていかなければならない。

中国プロレタリアートのかかる闘いは、分岐点そのものが分解させられる困難さの予測から、ブルジョアジーとスターリニスト官僚に対して明確なバリケードを築きだしていく世界プロレタリアートの壮大な包囲網と堅く結びつかなければ、その展望は情勢の困難さのなかに埋没させられる危機を孕んでいる。

(1981年4月)