戦後世界支配体制の危機の深化と第四インタナショナル

はじめに

 1971年8月の金・ドル交換停止をはじまりとして、同年12月のスミソニアンの通貨調整、翌年6月以降のポンドを先頭とした変動制の全般化は、世界経済におけるドルの支配が危機に瀕したことを示した。他方、1972年2月の米中会談実現、共同声明発表、同年12月の「東西両ドイツ基本条約」締結、翌年1月のヴェトナム「和平」、同年7月「全欧安保会議」開催という、一連の世界政治における支配階級の行動もまた、世界政治に転機が訪れたことを示すものとして、一般に理解されている。

「相対的地位の低下」あるいは「相対的優位」と、その世界政治・経済に占める力の評価が喧しい、アメリカ帝国の政治の頂点にあるニクソンは、この間の動向を次のように言っている。近年、アメリカ帝国は「外交政策の基本的考え方と実施の方法を変える必要に造られていた」、そこで、ワシントンは「69年に基本的取り組み方を決定、70年に平和建設に向かう新政策を実施」しはじめた、「71年には全世界の平和の構造が姿を現わし」「72年には、それ以前の3年間の努力から生まれた重要な成果」が実現しはじめた、と。

ここでわれわれに必要なのは、支配階級にとって、この間の世界政治をめぐる諸動向はそれぞれ異なる政治的・経済的条件の下におかれている諸国家の支配階級が、その相違を越えて、さらには階級的性格を同一にしようと別にしようと、世界政治・経済の場面において、プロレタリアートを被支配階級にとどめおくべく、一致して行動するにいたっていることに注目することである。まさに、アジアにおける中国とアメリカ帝国、ヨーロョパにおけるドイツをめぐるソ連邦とアメリカ帝国及びイギリス、フランス等、ここに見出されてきた「対立」が、いまや「協調」あるいは「依存」へ、その姿を変えつつある。これが、ニクソンではないが、支配階級の自覚的な、こんにちの世界政策の実現の結果なのである。

われわれは支配階級の行動に注目しつつ、同時に、これら支配階級の政治的・経済的行動が、労働階級の解放、就中、トロツキスト運動にとって、その歴史的運動の継承と発展、社会主義革命の綱領とその展望に、いかなる問題を提起し、いかなる方法をもって問題解決にのぞむのか、これを検討すべきであろう。

1 第二次世界犬戦が迫った問題は何であったか

 1929年~33年の世界恐慌は、第二次世界大戦にその克服策を求めた。その結果、「貨幣は金であらねばならぬこと」の上に安定を見出していたドルを基軸とする国際通貨体制が成立した。1944年8月のIMF(国際通貨基金)の創設は、世界帝国としてのアメリカ支配の経済的表明であった。アメリカ帝国は、200億ドルを越す金保有を基礎に、世界支配の場に引き出されるとともに、その支配を確保することになった。ドルを主軸にして、1949年9月、各国通貨の調整が実施された。大戦で荒廃したヨーロッパ資本主義諸国家は、戦時につぐ戦後再建過程において、世界資本主義の指導力としてのアメリカ帝国に、一段と経済的依存を深めた。かくて、アメリカ帝国を主軸とする世界経済循環が定着した。

第二次世界大戦は、ヨーロッパが主戦場であった第一次世界大戦に比較し、その規模において人類史上はじめての世界戦争だった。第二次世界大戦のもたらした世界破壊は、人々に、再び世界戦争が行なわれるならば、人類の破滅をもたらすことの不可避性を、十分納得させしめるものであった。第二次世界大戦は、誰が世界政治と世界経済の支配者として登場するかという問題をめぐる問題解決の場であった。それはアメリカ帝国かファシスト・ナチか、それとも第一次世界大戦を貫き通して登場した労働者国家ソ連邦なのか。そのいずれが世界の支配者として自らを実現するかという形で提起されていた。したがって本質的には、第一次世界大戦と同様に第二次世界大戦は、ブルジョア世界支配か、それともプロレタリア世界支配か、という問題が問われていた。

第一次世界大戦は、辺境とはいえヨーロッパに、労働者国家ソ連邦を実現せしめた。ロシアは、帝政期においては、ヨーロッパ反動の唯一生き残った国であった。ヨーロッパにおいて、ドイツよりも頑なにヨーロッパ中央への同化を拒否し、拒否されることによって、絶えず「近代ヨーロッパ」の侵攻の対象としてロシアは位置づいてきた。しかし、「複合的発展の法則」(トロツキー)は、第一次世界大戦を通じて、ヨーロッパ反動の砦・ツァーリズムを崩壊させ、一転して革命的国家・ソ連邦を誕生させた。かくして労働者国家ソ連邦は、自らの命運をかけて西方に対することになった。

ヨーロッパが世界であった時期、ヨーロッパヘの脅威=ロシアとともに、ヨーロッパの動揺要因はカイザーのドイツであった。

19世紀後半において、ドイツは農業国から工業国ヘ一挙に移行し、20世紀初頭にはイギリスのヨーロッパ支配と衝突するにいたった。イギリスのヨーロッパ支配は、イギリスが唯一「世界の工場」であり得た時期に確立した。ヨーロッパ大陸諸国の工業化は、このイギリス支配の基礎を漸次崩壊させきたっていた。なかでもドイツの工業化は、後発の故に、先進イギリスの技術水準においてその技術を輸入し、それをテコに高水準の生産を達成し、市場の壁と激しく衝突することになった。後進的なドイツ帝国主義は、その膨張した資本主義生産力が直面する市場の障害を除去するためには、世界市場の再分割を目指して暴力的に乗り出す以外に途はなかった。

国内備蓄の乱消費、軍事的占領地区の人的・物的搾取、中立国を中継した輸入とその消耗、それらをもって急膨張した生産力をフルに稼動させ、それを軍事行動によって完全に消耗しつくす過程、そうすることによってのみ、再生の可能性を生み出すことのできる資本制工業生産の矛盾に、後進国ドイツはつかみとられた。その結果は、後進国ドイツを破壊するとともに、「世界の工場」であり、かつ「世界の金融の中心」イギリス帝国主義も危機に陥れた。

第一次世界大戦後の世界経済の再建は、もはやポンドの力によっては果たされ得なかった。ヨーロッパから大西洋を隔てて位置し、アメリカ大陸、就中、北アメリカにおいて資本制工業生産を飛躍的に発展させ、世界経済に巨歩を印しつつあったドルの力に、ポンドは依存しなければならなかった。第一次世界大戦を通じて、一躍債務国から債権国に転じたアメリカ帝国主義は、大戦終結時にはすでに世界の金保有の大半を手中に収めていた。資本輸出国に転じたアメリカ帝国主義は、イギリス帝国主義を中軸に形成されていた資本の循環を、アメリカを中心とした、アメリカからドイツヘの借款供与、ドイツからイギリス、フランスヘの戦争賠償の支払い、イギリス、フランスからアメリカヘの戦時債務の返還という形で語られている資本の循環へと、とってかえてしまった。第一次世界大戦は、イギリス帝国主義を後退させ、新たにアメリカ帝国主義を登場させ、世界経済の支配的地位ヘアメリカ帝国主義を押しあげた。

第一次世界大戦における主戦場ヨーロッパ大陸において、大戦後形成された勢力関係は、その関係に変化が生じるとき、労働者国家ソ連邦、ドイツ帝国主義、そしてアメリカ帝国主義が、その運命をかけて戦わねばならぬ、そのようなものとして形成されていたのである。

第一次世界大戦後、世界はみせかけの安定に依存せざるを得なかった。そして、このことが許されたのは、スターリニスト官僚に占拠された第三インタナショナルが、1928年の第六同大会における綱領論争を拒否し、再生の可能性を閉じ、ドイツ・プロレタリアートのヒトラーとの闘いをヨーロッパ革命の引き金たらしめず、その死を歴史に刻んだことによる。世界帝国主義の危機は、労働者国家ソ連邦を、ヨーロッパ中央において社会主義ヨーロッパとして再編・強化する、またとない機会であった。この機会を座視したスターリニスト官僚とその支配するところのソ連邦は、アウタルキーにこもることになった。その内部で工業化し、集団化し、現代化しつつ、文化的に一層ヨーロッパから隔離し、ついにはピョートル大帝のごとく、野蛮な仕方で野蛮性を打破することを政治の原則へと高めた。

帝国主義が全体として世界を支配している時代において、帝国主義に包囲された最初の孤立的な労働者国家ソ連邦が生きのびる方策は、ヨーロッパ社会主義革命によって救出されるか、世界に対して壁を高く厚く築き、アウタルキーを保持するか、そのいずれかである。スターリニスト官僚支配下のソ連邦は、前者の方策を捨て、後者の方策を選びとり、それを自己保存の途とした。革命的戦略は放棄され、ソ連邦は革命の力の面においても、その後退を印してしまった。

 1923年を頂点とする危機の時期、ドイツ、フランス、イギリス、そしてスペイン等のヨーロッパ諸国家のプロレタリアートは、自国の支配階級に対して突撃を数度試みた。しかし、革命の主体的・意識的要因たる第三インタナショナルは、その任を果たすことはなかった。追いつめられた帝国主義はファシズムに頼り、軍備拡大による需要の人工的創出、それによる失業者の吸収、ソーシャル・ダンピング等々の経済政策とともに、徹底的に野蛮な、民主主義的要素を含む一切の反対派の抑圧によって、「階級間平和」を実現することに努めた。また、富める帝国主義は、アウタルキーとしてのブロック経済の形成、管理通貨制度とその下でのケインズ主義的赤字財政政策と、社会民主主義者等の労働官僚の買収によって、プロレタリア指導部の成長を押しとどめつつ、「城内の平和」を実現すべく動いた。いずれにせよ帝国主義の政策の焦点は、最も露骨にかつ野蛮な方法でプロレタリア指導部を奪い取るか、それとも狡猾にプロレタリア指導部の成長を抑止するか、どちらにせよプロレタリアートの階級的解体による「階級間平和」を実現することにあった。前者の方法を選んだのは枢軸諸国であり、後者の方法を選んだのはスターリンによって「民主主義的国家」と呼ばれることになる諸国家であった。

帝国主義世界の危機は、まず世界のプロレタリアートからその指導部を奪い取り、ブロレタリアートによる危機の克服の可能性を摘みとったことの結果として、帝国主義諸国家間の暴力的闘争による危機の解決という問題へと楼小化されてしまった。

2 バックス・アメリカーナの成立と崩壊

第二次世界大戦は、ただアメリカ本土を戦場の外に残し、ヨーロッパとアジア、そして北アメリカにおいて、社会に蓄積されていたすべての力を破壊、消耗しつくして終了した。

 その結果、ヨーロッパ中央が世界の中心として、その支配と影響力を外辺に向かって波及させる姿は消え、「東と西」の「辺境」勢力が、ヨーロッパ中央を押さえる配置が登場した。これら「辺境」勢力は、ともに閉鎖的アウタルキーを基礎にしている点において共通している。しかし、その国家の階級的性格においてまったく異なる。「西」の「辺境」勢力・アメリカ帝国は、1888年「州際通商法」を契機に、「東」の「辺境」勢力・ソ連邦は、1917年のプロレタリア独裁の樹立を契機に、国内市場の有機的統一とそれを基礎にした新たな工業化に着手した。アメリカ帝国は、はやくも1929年世界恐慌を機に、いわゆる国家独占資本主義へ移行した。他方ソ連邦では、国有化計画経済体制が、スターリニスト官僚によってひどく傷つけられつつも、これを基礎として工業化が開始された。

第一次世界大戦による世界の破壊をテコに、第二次世界大戦による世界の破壊を通して、両者は他に並び立つ強者が見出せぬほどの巨大な姿を戦後の世界に現した。アメリカ帝国は、資本主義世界の兵站基地として、工業生産において戦前水準の2倍、農業生産において戦前水準の1.5倍に拡大し、ヨーロッパ諸国が需要をみたすことのできなかった海外市場を占有していた。他方、ソ連邦は、1950年には戦前生産水準を大幅に上まわる回復をなし、アメリカ帝国に次ぐ工業化の実現をなした。この成功は、戦争の危機によって促進された工業の東進傾向による拡大と、赤軍のヨーロッパ中央部への連出が大いに貢献した。戦中の、主としてアメリカ帝国の武器貸与法にもとづく技術援助を含む援助、戦後のアンラ(国連救済復興機関)あるいはスウェーデン等とのクレジットによる機械その他の輸入、ドイツ、ハンガリー、ルーマニア、そして満州等からの賠償の支払いと機械等の現物の搬入、さらには無数の熟練労働者、技術者、科学者の強制・半強制の移住による高質労働力の獲得、これらがソ連邦プロレタリアートのスターリニスト官僚による支配と合体することによって、こんにちの工業国ソ連邦を形成した。

第二次世界大戦は、アメリカ帝国を、大量の原料を海外から輸入し、大量の資本を輸出する国家へかえた。国民総生産に対する輸出の割合は、ドイツの20パーセント、フランスの15パーセント、日本の11パーセントに対し、アメリカは、たかだか58パーセントにすぎない。国民総生産に対する輸出の割合は小さい(66年の場合、輸入255億5000万ドル、輸出303億3600万ドル)。

だが、アメリカの国内総生産は、旧EEC6カ国の2倍の大きさである。主要鉱産資源の世界全生産量の四分の一、三分の一、二分の一を、全人類のわずか1七分の一にすぎないアメリカ帝国が、独占的に消費している。それは、「全世界の人々が、アメリカ人と同様な高度の生活水準を達成するには、1年間200億トンの鉄、3億トンの銅および鉛、2億トンの亜鉛などを、つまり我々の今日の生産量の百倍以上も生産しなければならないだろう。」(ジョンソン)といわれるほどのものである。まさに大量生産・大量消費は、アメリカ帝国のためのものである。この拡大された生産と消費は、原料確保のための海外市場の獲得と同時に、利潤率低下に抵抗する拡大再生産のための技術革新への動因であり、結果でもある。今日の巨大な、急速な技術革新のための先行投資と、その結果の購入に最適条件を備えているのは、アメリカ帝国である。「開発新製品―普及途上製品―標準製品」という商品のライフ・サイクルの展開に対応し、それをグローバルに掌握する視点に立つとき、アメリカ帝国の位置する優位性は明らかである。1950年代を境に、アメリカ帝国は原料の供給先と標準製品市場を求めた海外投資から、最新の技術を消化できる比較的安価な労働力供給先と、主として耐久消費財、高度精密完成品からなる普及途上製品市場を求める海外投資へと、明白に転換した。アメリカ帝国は、すでに触れたごとく、著しく貿易依存度が低いことを特徴としている。就中、農業生産の伝統的な高生産性と過剰生産状況は、後進国への依存度を低下させる圧力を内在させていることを示している。これは、かつてのイギリス帝国が世界の支配者として形成した、資本を後進国に投資し、原料・農産物を輸入する形でポンドを撒布し、それを工業製品の輸出や投資収益の形で吸収するという、グローバルな資本循環とは異なった体質にアメリカ帝国があることを示している。このアメリカ帝国の体質、すなわちドルの体質は、第二次世界大戦が終了し、アメリカ帝国がヨーロッパ中央にまで進出し、世界の支柱としての役割を名実ともに果たさねばならなくなって以来、露呈され続けている。

1944年7月に成立したIMF体制がその機能を発揮するのは、1949年9月の世界的な通貨調整が行われる時期が到来して以降である。その間は、大戦中に蓄積されたアメリカ帝国の過剰資本が、資本不足、いわゆるドル不足に悩むヨーロッパをはじめ世界に、国家的援助を通して投下される時期であった。つまり、民間投資の進行は、ヨーロッパの崩壊=世界の崩壊を阻止できるほどに、急速かつ十分ではなく、マーシャルプランに代表される政府資本として、援助・借款・贈与の形でドルが撒布されねばならなかったのである。投下されたドルは、民間資本はともかく、政府資本は「見返り勘定」等の形でその還流を減速し、ドルが世界通貨としての機能を担いうるように人為的に調整された。このような政策的調整を得てはじめて、アメリカ通貨でしかないドルは世界通貨としての機能を供与され、ドルによる世界支配の条件を獲得できたのであり、崩壊の危機にある各国資本、就中、ヨーロッパ諸国を援助・復活強化させ、それとともに階級対立を沈静化し、プロレタリア指導部の再生を阻止することが出来たといわねばならない。

しかし、1958年、ヨーロッパ各国通貨の交換性回復は、IMF体制の実現を示すものであるが、それは同時に崩壊への第一歩であった。同年アメリカ帝国は、戦後3回目の景気後退期(1回目は48~49年、2回目は53~54年)に突入し、スタグフレーション下において、22億7500万ドルもの金の流失=金準備の減退を見た。EECを発足せしめたヨーロッパは、50年代を通して国際貿易における占有率を低下させ続けて来たアメリカ資本に、EEC関税障壁をくぐり抜けさせた。ドルがヨーロッパにおいて過剰になるとともに、ヨーロッパ通貨はドルへの交換性を完全に回復し、国際市場でドルと対等の立場を得るにいたった。ドルは、それを支えるアメリカ経済の国際収支危機と、アメリカ帝国の豊かな金準備という、基礎的条件を掘り崩される事態に直面した。

 1968年以降に展開する事態への推移は、アメリカ帝国が資本輸出国的特質を、あるいは先進国型国際収支構造を後退させつつ、蓄積した金準備を取り崩され、ドルが基軸通貨たる性格と機能を喪失させつつも、なお他の通貨によってとって替わられていない事態へと進むものであった。

 ポンド危機からドイツ・マルクをはじめとするヨーロッパ通貨の危機は、1968年・金の二重価格制への移行、1971年・ドル交換停止、1972年・変動相場制への移行という過程を推し進め、戦後のドル体制の一段階を画した。まさに、ドル危機が国際通貨体制の危機として顕在化し、戦後世界経済全体を動揺せしめる事態に到達したのである。

 アメリカ帝国は世界帝国としてドルを撒布し、各国の、就中西ヨーロッパの門戸を押し開きつつ、同時に、西ヨーロッパ諸国の動揺と崩壊の危機を通して突出するプロレタリアートの反乱を掘り崩すことに成功してきた。それは西欧諸国と日本を、帝国主義国家として再建・強化する援助でもあった。その結果は、複合的発展の法則の貫徹として、西ヨーロッパ諸国がアメリカ帝国に対抗し、これと争い、これに取って代わる客観的条件の成熟を押し止めることが出来なかったことをも意味している。今日の国際通貨危機は、「パックス・アメリカーナ」の危機であり、その「通貨的要素」の危機であるだけではなく、戦後世界の危機である。

 この危機に対し、アメリカ帝国は金・ドルの交換停止、SDRの創出をもって対応しつつ、一方で西欧諸国および日本に対し自由化を強制し、他方で国内階級間平和の基礎条件である完全雇用政策の見直しに着手しようとしている。アメリカ帝国自身が「特権的アメリカ人」からその「特権」を剥奪せざるを得ない地点まで追い込まれている。それは、アメリカの『民主主義』を深く傷つけ、諸階級を闘争に引き込み、とりわけ労働者階級との間で労働条件、労働基本権、社会福祉と雇用をめぐって、激烈な闘争が始まることを意味する。これを回避すべくかつての『辺境』国家に立ち戻ることはアメリカには許されていない。それはドルの世界からの撤退を意味し、保護主義の嵐を巻き起こしつつ、アメリカ帝国が作りあげた世界全体が、アメリカ帝国自身をも引き込みながら生死をかけた階級決戦の場に変貌することとなる。

 過剰生産能力の持続的増大と、過剰資本の増大に促されつつ、利潤率低下の下に悩む巨大独占体を抱えるアメリカ帝国は、西ヨーロッパ及び日本に自由化を要求し、なだれこみをはかりつつある。この資本戦におけるアメリカの勝利は、資本の有機的構成と途方もない競争力という点において、明白な事実である。アメリカ商品で世界を埋めんとすることは、ヨーロッパ独占体をなぎ倒し、その過程においてヨーロッパ労働階級をも平定することにおいて完成する。ここにおいても、アメリカ帝国はヨーロッパ全労働階級との階級戦を不可避とされる。

ドル危機は世界の危機であり、アメリカ、西ヨーロッパ、日本等の帝国主義国家が、帝国主義世界の危機として共同して対応するか、いずれかの国家によってパックス・アメリカーナの解体・再編が行われるか、このいずれかの途しか残していない。現状は、ドル危機をめぐって、帝国主義諸国家による危機の共同分担という方策がとられている。それ故に、ドル危機は国際通貨体制の危機である。ドルが国際通貨であるが故に、その危機が国際通貨体制の危機であるのではなく、戦後世界支配体制の危機の通貨的表現を通して、帝国主義諸国家がそれを共同分担しているところに、ドル危機の世界の危機たる性格を示している。

3 アメリカ帝国に依存するスターリニスト官僚

アメリカ帝国の世界支配は、第二次世界大戦の遂行過程に規制され、拡大したソ連邦を辺境に位置づけ、その間に障壁を築き、一応ドルの世界の圏外に置いたことにより、その支配を実現することができた。かかるアメリカ支配に助けられ、スターリニスト官僚は「十月の遺産」の客観的条件たる国有化計画経済を擁護しえたとともに、「世界プロレタリア指導部」として振舞うことを許された。ソ連邦は、「十月の遺産」の意識的条件たる革命的な世界プロレタリア指導部を欠きつつも、ドルの世界支配の特質に支えられ生きのびることができた。したがって、第二次世界大戦とそれにつづく諸々の結果にもかかわらず、大戦前のソ連邦の性格を一変させるものではなかった。ソ連邦が大戦の結果として、ヨーロッパ中央に進出したにもかかわらず……。東欧をその範域に包括したスターリニスト官僚の支配するソ連邦は、まずそのアウタルキーを東欧諸国家からの賠償によって補強し、かつ、そのための装置へと変えた。その変更は、圧倒的な戦力を保持した赤軍の力を推進力として、この上に労働階級を含む諸階級が動員され、遂行された。それはソ連邦を含む東欧諸国家全体の社会主義的変更ではなく、東欧諸国家をアウタルキーとして形成し、それを内外からソ連邦が包みこみ支配することを意味していた。東欧諸国家間の経済的(貿易)関係には、ソ連邦と東欧諸国家との間に設定された、二国間清算方式が定着している。この方式により、ソ連邦は、その全貿易量の70パーセント余りを東欧諸国家との間にとり結んでいる。スターリニスト官僚によって原則にまで高められた、社会主義経済の拡大再生産が生産財部門の消費財部門に対する不可避的優越性によって行われるということは、ソ連邦に有利に東欧諸国家に不利に作用しつつ、東欧諸国家の拡大再生産をノーマルな方法によっては困難な状態にとどめおいてきた。官僚による恣意的価格決定の下では、正常な経済合理性にもとづく蓄積は不可能である。

ポーランド、ハンガリー等の貿易依存度の高い諸国家のモスクワ官僚への圧力は、1964年以降、コメコン通貨としての振替ルーブルを生み出さざるを得なくした。しかし、それは金もしくは硬貨への交換性をもたない、まったく名目的なコメコン銀行の計算単位にすぎなかった。交換性をもたず、かつての、そして現在のドルほどにも信用のないルーブルは、戦争による破壊からの回復のためにやむなく使用される可能性を付与されたが、拡大再生産に寄与するものではあり得ない。ルーブルを支えるソ連邦経済は、拡大再生産過程に入った東欧諸国家の経済には不適当である。したがって、世界経済、就中、西欧経済への依存圧力は、1966年コメコン銀行の資本金(3億ルーブル)の10パーセントを、1970年には20パーセントを、金・硬貨による交換可能通貨での払い込みをコメコンに余儀なくさせた。他方、消費財の圧倒的供給不足、そのための膨大な設備投資の必要性、それとともに資本財生産のための投資、これらはソ連邦あるいは東欧諸国家の水準においてではなく、世界経済の水準において実現されねばならない。加えるに、農業生産の停滞は、アウタルキーの保持を絶えず困難に陥れている。これらを放置することは、コメコン経済の崩壊を帰結するばかりでなく、一挙にコメコン体制の中に封じ込められている諸階級間の矛盾を噴出させることを不可避とする。再び、ドルがソ連邦を、東欧諸国家を救済すべく駆けつけねばならない。そして、ソ連邦・東欧諸国家を支配するスターリニスト官僚は、今やなりふりかまわずそれを歓迎せんとしている。過剰なドルをかかえた、仇敵西ドイツの手を握ることをもいとわぬ状態である。

ソ連邦及び東欧諸国家とアメリカ・日本・西ヨーロッパ諸国家との間の経済的関係の深まりは、両者の間と各々の胎内に蓄積された、戦後世界体制の変更を求めるほどになった矛盾の爆発を、一時的に押さえこむものとして機能する。戦後世界体制の危機は、再び階級的性格の異なった国家間に、対立よりも協調を現段階においては強制している。かつて、ソ連邦は1922年、ボリシェヴィキを中核とする第三インタナショナルの指導下において、帝国主義ドイツとの協調を、西ヨーロッパ・プロレタリアートの革命からの後退によって強制された。こんにちのそれは、戦後世界体制の危機の進行過程におけるプロレタリアートの革命への前進的推移の下で、第三インタナショナルに対比すべき国際プロレタリア指導部の不在、未成熟を条件として実現しつつある。

ほぼ1950年代初頭までに、ソ連邦は圧倒的な戦闘力を保持した赤軍の包囲網の中において、東欧諸国家をいわゆる「人民民主主義国」に変貌させ終わった。対ドイツ正規戦、ドイツ占領、対ドイツ抵抗闘争の結果は、ソ連邦はもちろん東欧諸国家の数千万人民を死に追いやった。さらに、赤軍の進駐は、親ドイツ分子の抹殺とソ連邦への強制連行を伴った。ともかく戦争が終わったとき、東欧諸国家が国家としての機構とその機能を回復しようとして直面した最初の問題は、必要な能力をもったカードルの不足であった。モスクワ官僚は、ソ連邦・イギリス等々への海外亡命分子――その多くはブルジョア自由主義者か、社会民主主義者か、それともスターリニストであったが――と、残存分子を「人民戦線」の名の下に糾合し、糊塗した。その上で、大土地所有の解体、逃亡ドイツ人及び親ドイツ分子の農地の没収と分割、企業の接収と国有化等の、いわゆる農地改革と工業の国有化を押し進めた。この過程は、東欧諸国家におけるプロレタリアートの階級としての組織化とプロレタリア指導部形成の時期であったにもかかわらず、それは反ソ分子の摘発・追放・抹殺の時期として、モスクワ官僚によってすりかえられた。一方における農地改革と工業の国有化による統制経済の実施、他方における政治的クーデターによるスターリニスト官僚の支配権の掌握、これらはモスクワ官僚による東欧諸国家の政治的・経済的掌握過程に、一般的に見出される現象である。

モスクワ官僚は、この過程に東欧諸国家のプロレタリアート・農民を動員することによって、プロレタリアート・農民の自己の階級的組織化と指導部の形成を、自らの手で解体してしまう途を、プロレタリアート・農民に強制した。モスクワ官僚による東欧諸国の掌握は、十月の遺産の外延的拡大等と評価されるものではなく、プロレタリアートが政治的、組織的に解体され、スターリニスト官僚の政治的、経済的統治のもとに組みこまれることを実現するものであった。スターリニストの党は、党中央が国家権力を掌握者し、ランク・アンド・ファイルの党員は、党中枢の決定に従い、党外大衆を動員し、反スターリニスト的傾向を解体する装置として存在している。労働組合、芸術家クラブ、農業協同組合、そして国及び地方議会等の一切の公的組織は、かかるスターリニスト党の支配下にある。警察、軍隊もそうである。プロレタリアートをはじめとする諸階級大衆は、私的会合さえもが会合の名に値しないほどにアトム化が強制されている。まさに「プロレタリアートは組織を奪われ、綱領を奪われ、そして自衛手段を奪われている」。かくして、スターリニスト官僚に対する闘争は、プロレタリアートをはじめとする諸階級全体と、スターリニスト党および国家組織全体との全面的対決と衝突とを不可避とされている。それ故に、スターリニスト官僚打倒の闘争は、自己の生産的労働とその成果に対する支配権を奪われ、苛酷な搾取の対象となっているプロレタリアートが闘争の中核とならざるを得ないし、社会主義的国際綱領と展望によって武装されなければ、東欧社会は社会主義的変革を実現することはできない、といえよう。

4 東欧プロレタリアートの前進

1950年代にはいるや、スターリニスト官僚はその支配する諸国家において、国民諸階層との衝突を再び不可避とされた。その契機となったのはスターリンの死であった。この時期をとらえ、かつこの時期の東欧諸国家全体がとらえられていた食糧危機をテコに、スターリニスト官僚に対する闘争は噴出しはじめた。1953年、東べルリン地区の反ソ「暴動」に始まる東ドイツにおけるソ連軍との衝突、ポーランド・シュレジェン地方の暴動は、スターリニストの急進的集団農場化、農地改革に対する農民の抵抗の結果としての食糧危機に突き動かされたものであった。こうした抵抗によって、例えばハンガリーにおいてはナジへの政権交代、集団農場の解放という譲歩を、ポーランドにおいては所得水準の全般的引き上げという譲歩をスターリニスト官僚は強いられた。

東欧諸国家におけるスターリニスト官僚のより一層の危機は、1956年、ソ連邦共産党第20回大会における「スターリン批判」と軌を一にして発生した。東ドイツ、ポーランド、ハンガリー、チェコにおいて、スターリニスト官僚レジームの「改革」を目指す、国民諸階級をまきこまんだ闘争が始まった。官僚のファシスト的統制に対する自由(プロレタリア民主主義の要求から市民的自由までも含んだ)、強制的農業集団化の放棄、私的経営の拡大、技術者の待遇改善、労働者の賃上げ等々の要求、まさに国民諸階級の要求が束になって官僚にぶっつけられた。1956年の東欧諸国家スターリニスト官僚の危機は、一方においては譲歩=「十月の春」を、他方においてはソ連軍戦車による武力弾圧=「ハンガリーの悲劇」をもって官僚的に切り抜けられていった。

東欧諸国家の経済的・社会的現実とそれらを貫徹する法則性を、まさに無視した「社会主義化」政策は、第二次産業と第一次産業の跛行的逆転、その結果として不可避なプロレタリアート・農民の損傷を、スターリニスト官僚には、強権的方法によって切り捨てる途しか残されていないことが示された。官僚のもたらす政治的・経済的政策の歪曲と結果は、当時、東欧諸国家全域に160万の常備軍が配置されていたことにも十分表現されている。160万常備軍を維持する要請、これを支える工業化推進の要求、これらは総じてプロレタリアート・農民の肩に転嫁されることによって充足される。膨大な不払労働が組織されねばならない。歴史的事実としても、プロレタリアートは、主体的なプロレタリア的献身性に支えられつつ、また、自己の労働とその結果に対する自らの手による統制が確保されるとき、膨大なる不払労働とそのもたらす精神的・物質的緊張と犠牲がいかに大きくても、他階級に見られぬほどに、これに耐え得る能力と献身性を有することを示してきている。しかし、その精神的・物質的緊張と犠牲が長期にわたり、かつ、生存以下的水準において、とりわけ自己統制を拒否され強制されるときには、もはやプロレタリアートは、これに耐え得るなにものも有しない。かかる状況において、プロレタリアート前衛の組織化と指導を欠きつつ闘われるプロレタリアートの闘争は、その英雄性にもかかわらず悲劇的である。

東欧諸国家スターリニスト官僚による危機の暴力的回避は、1950年代後半には成功したと言わねばならない。1956年以降70年にいたる期間、東欧諸国家における政治・経済状態は、その支配的関係になんの変更も基本的にはもたらさなかった。否、むしろ1950年代前半の国民諸階級のスターリニスト官僚への闘争の中で示された諸矛盾を、拡大再生産したにすぎない。農業と工業の跛行性の構造化、農業生産の慢性的停滞、文化的・社会的生活に対する官僚統制の一層の強化、その結果としての青少年層に特徴的に表現されているイデオロギー的・道徳的退廃等の退行現象がここには見出される。スターリニスト官僚によるプロレタリアート・農民の無力化政策は、被支配国民諸階級の無力化、退行化にとどまらず、官僚自体の退廃化、無能化、その裏返しとしての粗暴化、暴力化を一層帰結しつつある。スターリニスト官僚は、テクノクラートという新しい装いをこらしてその支配を貫徹しようとしているが、ポーランドの例の如く、その立案した第三次五カ年計画は、計画時点においてすでに約40万の失業者が見込まれると批判されるほどに、テクノクラートは無能化している。他方、官僚によるテクノクラート養成と登用は、新しい若い世代に立身出世主義者を生み出し、テクノクラートに要請される教育機会をめぐり、その不均等を暴露し亀裂を持ち込んでしまっている。

東欧諸国家におけるスターリニスト官僚の支配の「改良」を目指した国民的闘争は敗北した。その結果は、第二次世界大戦の破壊の下における経済的・社会的矛盾の爆発を、一時的に延引させた。しかし、東欧社会の破壊から再建への過程を、スターリニスト官僚の下で歩んだ東欧諸階級は、新たな水準において未解決な経済的・社会的矛盾に直面するに到っている。1968年のチェコ、1970年のポーランドにおける事態は、東欧諸国家のスターリニスト官僚が、再び危機に襲われたことを示した。1968年、ポーランド学生・インテリゲンチャによる、スターリニスト官僚の教育・文化政策批判は、これに対する官僚の弾圧を契機に、一挙に全国的な闘争へと拡大した。学生・インテリゲンチャの官僚の政策に対する批判は、ひとりポーランドのみならず、ハンガリー、チェコ等においても、根強く持続している官僚に対する批判のひとつである。「ポーランドの十月」以降、その結果としてのゴムルカ政権の下で「十月」が解体されるのに対応し沈黙が支配的になる過程にあって、学生・インテリゲンチャが官僚批判を持続しえたことは注目に値する。大戦前におけるポーランド・トロツキストの組織者の一人、ルドウィック・ハスがスターリン監獄より釈放され、1957年帰国後も、自らをトロツキストとして自己表現しつづけていることは、その一例である。四分の一世紀にわたる官僚支配の結果は、一片の誠実さと勇気をもちあわせれば、もはや自己の見解を秘匿できないほどの状況を作り出してしまった。ポーランドに蓄積された矛盾は、1950年代以上に、こんにち官僚によっては隠蔽も解決もしがたくなっている。かかる矛盾の激化は、一挙に部分の反乱を全体の反乱に展開せしめるのに十分なほどである。それは、学生・インテリゲンチャの批判が反乱に、そして国民諸階級全体の批判・反乱へと拡大したことにも示されている。

しかし、矛盾の量的拡大から質的深化の過程は、矛盾の批判・克服をめぐって国民諸階級間に亀裂と対立をもちこみ、その亀裂と対立を越えて、スターリニスト官僚を打倒し、ポーランドおよび東欧諸国家を変革し再建する展望と方法、その担い手は誰かという問題を新たに提起するに到っている。ポーランド国民諸階級は、オハブにゴムルカを対置し、ゴムルカによって官僚支配の矛盾解消を展望し、これに裏切られた。ゴムルカにかえて対置すべきは、国民諸階級の相違、その結果としての利害の相違と対立を隠蔽するのではなく、どの階級の利害を基本にした展望と方法によって、蓄積した社会的矛盾を克服するかをめぐる政治的闘争の結果である。1968年、ポーランドの闘争はワルシャワで、シレジア地方で、学生・インテリゲンチャとプロレタリアートの間で、かかる問題が提起されていた。

問題は、1970年末の闘争においても明確に提起された。同年末、生活必需品(食糧、衣服、燃料用石炭等)の10~20パーセントの値上げと耐久消費財(テレビ、ラジオ、洗濯機等)のほぼ同率の値下げを含む、新たな価格政策をゴムルカ政権は発表した。これを契機にグダニスク、グディニア、シチェチンを最大拠点とする造船所労働者が突破口を切り開いた全国的なプロレタリアートの闘争が開始された。賃金の50パーセント前後を食費に充てているといわれるポーランド・プロレタリアートにとって、新価格政策は大きな打撃をもたらすものであったが故に、当然にも闘争は、賃金引上げ、物価値下げを主たるスローガンとして始められた。しかし、官僚とその支配装置たる警察・軍隊の介入により、闘争は警察・軍隊の介入中止、労働組合の党からの独立、労働組合幹部の即時退陣、党と国家行政機構の分離、工場労働者評議会の復活と強化という要求をかかげ、ゴムルカとその政策への全面的対決に発展した。闘争は、プロレタリアートの決起に始まり、プロレタリアートの闘争として終わった。

この闘争過程において、例えばグダニスク造船労働者はグダニスク工芸大学生に支援を求めた。これに対する同大学生の反応は、全体としては決して積極的支援に馳せ参ずるものではなかった。まさに、1968年の学生・インテリゲンチャの闘争に始まった闘争と、逆の状況がそこには見出される。1968年の闘争において、プロレタリアートは、決して積極的に学生・インテリゲンチャの闘争を支援したとはいえない。否、むしろ敵対状況さえつくり出していた。1968年から1970年のポーランドにおける二大闘争は、学生・インテリゲンチャあるいはプロレタリアートによって開始され、全国的な全国民的規模の闘争へと発展した。しかし、この二つの闘争には、「十月の春」を実現した闘争において見出された要求と闘争勢力の均質性はもはや見出せない。ポーランドの1968年、1970年の闘争は、スターリニスト官僚打倒をめぐって、闘争主体に政治的分化が進行していることを示している。かかる反スターリニスト官僚勢力の政治的分化は、ポーランドをはじめとする東欧諸国家における階級分化、階級内階層分化の政治的反映である。スターリニスト官僚による四分の一世紀にわたる経済・社会政策は、東欧諸国家の階級分化、階級内階層分化を止揚するのではなく、それを復活し拡大するものであった。それはソ連邦を含め東欧諸国家の、こんにちの経済改革が、おしなべて資本主義的競争原理の導入を特色とすることに端的に示されている。官僚による「国有化・計画経済」は、長期にわたるプロレタリアート・農民の不払労働を、東欧諸国家の経済的蓄積に転化するのではなく、これを費消し、プロレタリアート・農民を西ヨーロッパ以下的、否、最低必要限度の生活水準にとどめおくものであった。かかる水準において、国民諸階級、階級内階層間に所得格差、生活格差を拡大せしめてきた。こんにち、生産財部門の消費財部門に対する優越の確保による社会主義経済の拡大という「原則」の下で、市場における需給関係を反映した価格体系、工業製品の国際競争力強化と国際・国内市場の拡大、農産物自給体制の確立のための「利潤」概念の導入等々の、いわゆる資本主義的競争原理の導入「政策」は、官僚の意図とは反対に、東欧社会においてすでに存在している階級分化、階級内階層分化を一層促進するであろう。国民諸階級の経済的・社会的利害の多様化は、国民諸階級の政治的・社会的位置を明確にする。かくして、スターリニスト官僚に対する闘争は、国民諸階級が、それぞれの自己の現状の利益、そして自己の階級的将来をかけた闘争として闘わざるを得ない。東欧社会の社会的・経済的状況は、ここにおいてプロレタリアートが階級としての自己の組織化、社会的・政治的指導性の確立をかけた闘いに突入したことを示している。

5 第四インタナショナルを再建せよ!

1950年代の「安逸」は、40年代の「米ソ」による戦後世界における「民主主義」の定着という目的の下での「協商」とは反対の、冷たい「鉄のカーテン」がはりめぐらされた時代であった。つづく60年代の後半から70年代のこんにちにいたる過程は、冷たく固い雪がとけ、「米ソ」による「協商」の時代が舞い戻ったかの如き状況が展開している。

ワシントンとモスクワの、この「協商」と「対峙」は、双方による世界支配の動揺と安定を示すインディケーターである。それ故に、この「協商」と「対峙」を産み出す「対立」は、戦後世界支配秩序の戦略的礎石として、ワシントンとモスクワによって機能させられている。

第二次世界大戦の破壊の巷で、世界プロレタリアートが戦争による自らの犠牲にふさわしい成果を定着させんとしたとき、この「対立」は「対時」を通してプロレタリアートを政治的に解体した。そしてこんにち、世界経済の危機の「貨幣的表現」の段階において、「対立」は「協商」を前面に押し出しつつある。アメリカ帝国の危機はソ連邦の危機であり、世界の危機である。世界経済秩序の動揺が、直接アメリカの危機と結びつき、世界の危機へと展開することを減速すべく、金為替本位制に占めるドルの位置を低下させ、「SDR」を創出し、これをもって国際決済手段としての機能を確保する企てが試みられている。ドルの金兌換停止、金の二重価格の撤廃という方向もこうした政策でしかない。この方向のいきつく所が、「金廃貨」=金本位制からの脱却であるとするならば、これはアメリカの危機から帝国主義諸国家=世界を切り離すどころか、一層、双方が緊密につながり合う以外の何ものでもないことを示している。それ故に、帝国主義諸国家は、まさに自己保存のための闘争場裡に解き放たれるのである。かかる過程は、帝国主義諸国家が、破滅的な過剰生産恐慌を回避すべく採用している赤字財政政策・完全雇用・貿易および資本の自由化・対ドル為替レートの安定という四本柱からなる、いわゆる「国家独占資本主義」政策の整合性を、複合的発展の法則の作用下で喪失する過程である。完全雇用の修正・放棄、デマンド・プルおよびコスト・プッシュ・インフレーションによる賃金切り下げ、社会福祉政策の修正・放棄等々の、プロレタリアートの既得利益剥奪の攻撃は不可避である。かくして、世界市場において帝国主義諸国家は、その命運をかけた闘いに解き放たれるとともに、国内においても階級間協調を放棄し、プロレタリアートをねじ伏せる闘いを強いられつつある。

他方、プロレタリアートは、世界経済・政治秩序と一国的経済・政治秩序の、二重の動揺の拡大下において、その抵抗力と反撃力とを回復しつつある。1960年代後半から現在にいたる過程において、かかる判断の成立するプロレタリアートの闘争を例示することは容易である。一工場的・一産業的闘争を、全企業の、そして全産業のプロレタリアートの闘争へ展開すること、体制内的=合法的闘争を体制変革的=非合法的闘争へ飛躍させる、そうした闘いの連続的展開が爆発的に見られないとはいえ、1920年代後半の階級決戦に示されたエネルギーの回復を予測せしめるに十分である。プロレタリアートの側からも、ブルジョアジーに対する闘いの準備は進められつつある。戦後世界支配秩序の中で、「ゲーム化」された階級闘争が、それ本来の意義を歴史的に取りもどす客観的条件は成熟しつつある。

しかし、ブルジョアジー間の闘いが、帝国主義諸国家間の闘争が、とりわけブルジョアジーとプロレタリアートとの闘争が、それ本来の様相に復帰するには、突破さるべき障害が存在する。ソ連邦とアメリカ帝国主義は、戦後世界政治・経済秩序によって、もっとも恩恵を受けているとともに、それは両者のためにあると言っても過言ではない。帝国主義諸国家の、そしてまたプロレタリアートの動向が、戦後支配秩序の動揺に客観的基盤をもつが故に、その帰趨に対しては両者の介入は不可避である。べトナム闘争の中断、東ヨーロッパ・プロレタリアートの敗北、チリの「挫折」、そして中東の「平和でも戦争でもない状態」は、両者の介入の帰結である。ソ連邦をスターリニスト官僚にゆだね、スターリニスト官僚を支配手段として機構化したアメリカ帝国による世界支配こそ、戦後世界支配秩序の姿である。「十月の遺産」が、アメリカ帝国主義によって、その世界支配の利益のために温存され、かつ、その直接の管理をゆだねられたスターリニスト官僚は、「十月の遺産」の簒奪者たる地位を確保するという点において、また「十月の遺産」を温存せしめている世界政治・経済秩序を保全するという点において徹頭徹尾保守的である。戦後世界経済秩序の動揺の深化の程度において、「十月の遺産」は、スターリニスト官僚の手によって、体制安定手段として最大限利用されるであろう。かかる文脈において、体制の危機によって解き放たれた帝国主義諸国家の行動に対し、「十月の遺産」は「敵対性」を強化するであろう。その限りで、帝国主義諸国家は、「十月の遺産」に対し暴力的衝突を試みる可能性を有する。スターリニスト官僚は、かかる帝国主義諸国家と敵対しつつ、プロレタリアートをここに動員するであろう。そうすることによって、「十月の遺産」とこれを温存せしめている戦後世界体制の解体を阻止し、アメリカ帝国主義の危機=世界の危機を救出せんとするであろう。アメリカ帝国主義とモスクワ官僚は、深化する戦後世界体制の動揺が、帝国主義諸国家ブルジョアジー間の闘争を、また各国の階級闘争を解き放つ程度に応じて、その介入の度合と暴力性を露わにするであろう。そして、それが成功するかぎりにおいて、現在深化しつつある戦後世界体制の危機は抑止され、その矛盾はプロレタリアートに転嫁されるであろう。

1968年5月のフランス・プロレタリアート、70年末のポーランド・プロレタリアート闘争は、敗北を通して、プロレタリアートがかかる矛盾に衝突を開始せざるを得ないことを示した。驚愕したスターリニスト官僚は、一方では闘争に介入し、社会民主主義者をまきこみつつ、これを政治的に纂奪することによって、他方では戦車によって封殺した。プロレタリアートは、帝国主義ブルジョアジーとスターリニスト官僚に敵対し、独立的に自らの闘争に決起する、そのような闘いを開始する地点にまで前進しつつある。

ここにおいて、プロレタリアートによる「十月の遺産」の継承・擁護の問題は、「国有化・計画経済」体制という私有財産制の革命的逆転にもとづく国家体制の第一義的継承・擁護にないことは明白である。第一義的課題は、第一インタナショナル以降、「十月の遺産」を産み落した第三インタナショナル、そしてその最初の五カ年にほとばしるプロレタリアートの階級的独立性と革命性の継承であり、擁護である。言い換えるならば、私有財産制の逆転という物質的関係の変換の人類史における重要性にもかかわらず、「十月」が切り開いた歴史的時代における現在の、世界支配秩序の危機の深化の予測される時期においては、現存の一切の秩序に対するラジカルな批判性=創造的破壊の意識性の継承こそが、革命と反革命との分水嶺である。「帝国主義に反対するかぎり闘争はいずれにせよ革命的である」、あるいは「十月の遺産は無条件に擁護さるべき課題である」、あるいは「帝国主義に対決する戦闘的スターリニストは区別されねばならない」、またあるいは「スターリニストを戦闘的プロレタリアートの闘争によって左へ押せ」等々という戦略的・戦術的立場は、すでにプロレタリアートが立ち到り、戦後世界体制の危機に対応し、全体として開始するであろう闘争に対し敵対的である。ソ連邦を含め既存の一切の勢力に依存することなく、既存の勢力の存在がもたらす一切の矛盾が集約され、それを担わされているプロレタリアートの存在を、第一インタナショナル以降トロツキー第四インタナショナルに到る赤い糸によって解放しなければならない。

戦後世界支配体制は、一貫して「十月の遺産」=スターリニスト官僚と、アメリカ帝国主義との対立によって、プロレタリアートの階級的組織化と独立性を解体してきた。ドイツ分割を基礎とするヨーロッパ、朝鮮半島からインドシナ半島にいたる分割を基礎とするアジア、キューバの承認を契機としたラテン・アメリカ、等々のアメリカ帝国主義とモスクワの勢力圏の確定と勢力均衡政策こそ、プロレタリアートの政治的解体の礎石である。かかる分割体制、換言すれば「反共」と「反帝」との対立こそが、プロレタリアートの政治的成長を押し止め、前進するプロレタリアートのエネルギーを体制安定エネルギーに変換せしめたものである。そして、戦後四分の一世紀の体制的矛盾をプロレタリアートの肩にかけ、その腰骨を曲げさせてきたものである。こんにち、戦後世界支配体制の動揺を確認し、かつ予測しつつ、プロレタリアートの闘争を展望するとき、体制の危機が解き放つプロレタリアートの闘いとは、スターリニスト官僚、アメリカ帝国主義の共同支配体制を打倒せずにはやまない階級的基礎をもつ闘争でしかない。ここにおいて、プロレタリアートの闘争が、なおアメリカ帝国主義を先頭とする帝国主義諸国家と、スターリニスト官僚=「十月の遺産」との対立の、いずれか一方を支持せざるを得ないことを予測するのは、戦後世界支配体制下のプロレタリアートの存在に対する無知か、悪意にみちた敗北主義のいずれかであろう。スターリニスト官僚に対する闘いをもっとも激烈に闘い敗北していった東ヨーロッパ・プロレタリアートが、スターリニスト官僚と帝国主義による宣伝にもかかわらず、帝国主義の援助を拒否しつづけた事実を忘れてはならない。また、アメリカ帝国主義とスターリニスト官僚の世界分割体制に吸収され、モスクワ官僚の下での現状維持勢力に転落したとはいえ、キューバの、その最初の段階に見せたキューバ民衆の独立性を忘れるわけにはいかない。さらに、1968年5月のフランス・プロレタリアートの、スターリニストを動揺させた闘いを加えることができる。世界のプロレタリアートの闘いが、戦後支配体制の危機に促され、解き放たれるに従い、その闘いは帝国主義打倒、スターリニスト官僚打倒を不可分とする社会主義革命綱領を明示することは疑い得ない。

(1973年8月第六回全国大会政治報告)