社会革命と政治革命の「統一性と連続性」
第四インタナショナルのための闘争にとって現在何が決定的問題であるのか

当面する情勢の特徴

(1)現在のブームの性格(略)

(2)国際金融危機(略)

(3)長期不況のただなかで(略)

(4)上げ潮にのる反動?

かかる長期不況のなかで、直面する情勢について特徴付けるならば、反動の頂点に立つデマゴーグ・レーガンが、合衆国大統領に再選される見通しが濃厚であり、サッチャー政権に挑戦するイギリス炭労の闘争は、歴史的に最も長期のストライキとなりながら、なお孤立し、突出した状況を克服しえず、急進的な民族主義運動は中南米、アフリカ南部、中東において著しい後退をとげざるを得ず、さらにソ連邦の外交上の孤立と内部的停滞は一層深まっている。

一言で要約するならば、反動が上げ潮にのってその勢力を増大せしめているのが、84年秋の情勢として把握することができる。

これを生み出したものは、直接には、ヴェトナム反戦闘争に寄生してきた急進諸派の「反帝主義」の破産と解体、また「長期繁栄」のなかで拡張してきた労働組合主義の長期不況下における行き詰まりであるが、根本的には80年から81年にかけてのポーランドにおけるプロレタリアートの闘争が敗北せしめられたこと、階級意識形成の問題においての敗北、国際主義の旗が汚辱にまみれたものとして投げ棄てられたことによっている。

情勢は経済的な「不況」によって直接に決定されることはない。それは諸階級間の闘争によって形づくられ、動かされていく。そして、プロレタリアートとその前衛は未だ重大な(1920年代後半のソ連邦における、また30年代前半のドイツにおけるような)敗北を蒙ったわけではない。

情勢を転換させるに十分な時間と空間は残されており、転換の機会は今後、幾度となく訪れるであろう。その機会を逃すことなくとらえ、利用しつくすには何が準備されなければならないのか、集中すべき方向は如何に、これが問題である。

転換がいつ、如何なる形で開始されるか、予測することはできないが、直近の過去の諸結果の上に、しかし、その否定としてのみ生じるであろう。したがって、転換の方向性はこの間の敗北、プロレタリアートの前衛の党的結集という水準における敗北の総括を通して明らかにすることによって可能である。

戦後第四インタナショナルの総括

(1)ポーランドの教訓

ポーランドにおける敗北の教訓を、まず第一に戦後第四インタナショナル諸派が何故にこの闘争のなかで無力であったのか、これを明らかにすることによって示すであろう。次に何故に国家資本主義論者(State Capitalist=SC)が闘争の最先端に位置づきうるかのような見せかけを持ちえたのか、また彼らSCがそもそも何者であり、如何なるものであるのか、彼らとの闘争が如何なる性格を持たざるを得ないのか、また、ポーランドの闘争は1953年にはじまる戦後階級闘争に一つの段階を画するものであり、その間の闘争の全面的な総括が要求され、それに基づく前衛の再武装が要求されていることを示すであろう。

世界資本主義の長期不況、その下でのソ連圏と中国の危機的状況そのものが、直接にSCの簇生、繁殖を可能にしたものではない。

労働組合主義への大衆の意識の封じ込めと相まって、トロツキスト運動(戦後第四諸派)の完全な解体状況が、大衆の自然発生性の外化としてステイトキャピタリズムを前面に押し出している。

情勢はすでに腐敗しつくしている故に、スターリニスト官僚を首尾一貫して徹底的に攻撃し続けてきたトロツキスト運動を、巨大な大衆運動として登場せしめても当然である。だが、ポーランド・プロレタリアートが暴き出したソ連圏の危機とスターリニスト官僚の筆舌に尽くしがたいまでの腐敗堕落、これに対するプロレタリア大衆の憤激があふれ出ているにもかかわらず、現実には「トロツキスト」運動は無力な解体状況から脱出し得ないでいる。また、かかる状況に気づきさえしない点について、その総括は深刻なものとならざるをえないだろう。

(2)再建に先立つ左派の自己崩壊

この点に関する総括は、まず何よりも、再建されたと自称する戦後FI(第四インタナショナル)の出発点をなす、1948年の第二回大会にまで立ち返り、その性格を明らかにしなければならない。

第二次世界戦争が終結に近づき、スターリニスト官僚によって掌握された赤軍がヨーロッパ東部になだれ込み、プロレタリアートの革命的決起を抑圧しつつ、ヨーロッパの中心部に迫りつつあるなかで、それが如何なる問題をプロレタリアートの革命的前衛に提起されざるをえないのか? この問題に関して、まずアメリカの社会主義労働者党(SWP)内部において、フェリックス・モロウの主張があらわれた。スターリニスト官僚がヨーロッパ革命の展望に極めて重大で危険な影を投げかけている、というモロウの見解は、SWP内部に受け入れられることなく否定された。その後、モロウは自らの立場を左翼に向かって純化することに失敗し、ヨーロッパにおけるトロツキスト組織の未成長という事実から無媒介に加入戦術を提起し、加えてその根拠としてヨーロッパの情勢は革命的ではないという議論を繰り広げつつ、自ら崩壊し、階級闘争の場から姿を消してしまったのである。

(3)中間主義者ジェルマンの「勝利」

モロウらの崩壊により、第二回再建世界大会は、左派または左翼の登場しない大会となった。大会は、プロレタリアートの革命によらないでも労働者国家=プロレタリアートの独裁が生まれ出ることが可能であり、現に東欧諸国家は歪曲されているとはいえ、すでに労働者国家であると主張する右翼的傾向が登場し、この傾向(ハンセンに代表される)との闘争が展開される舞台となった。この闘争を指導し、多数派を形成したのは、ジェルマン(エルネスト・マンデル)であったが、その立場は、東欧諸国はプロレタリア革命によって形成されていない以上、ブルジョアなきブルジョア国家であり、ソ連邦と帝国主義との間におかれた緩衝国家であるとするものであった。しかし、それは同時にハンセンらとの間に存在する差異は、苛烈な階級闘争の反映であり、結果であることを見のがすものであって、本質的には中央派ないし中間主義のものであった。

ジェルマンはこの闘争の根底にひそむ階級闘争の性格を暴露せず、ハンセンらがFI内部で公然と策動することを許してしまったのである。これは断じてレーニン主義、ボリシェヴィズムの方法ではなく、中間主義特有の方法であり、日和見主義を組織内部に許容することこそ、スターリニスト党と区別される党内民主主義であると錯覚した点でも、POUM=マルクス主義統一労働者党、等々の中間主義と全く同じであった。

(4)右翼分派制覇の根拠

中間主義の温情に保護されて策動し続けたハンセンらは、ヨーロッパとアメリカで次々に勢力を増大させ、第三回世界大会において遂に多数派となった。

右翼への中央派の屈服は、ヨーロッパ革命が東西ともに抑圧され、封殺された敗北的状況に基礎付けられ、かつ、それを完成するものである。しかし、右翼ハンセンらの勝利をもたらしたのは、単に「客観情勢」の圧力のみであったとすることはできない。それには、再建FIの意思決定上の二重構造、二元的な構造―ヨーロッパ書記局とSWP指導部という組織上の基盤が存在していたことを指摘しなければならない。

再建されたと自称する戦後FIは、民主主義的中央集権の党として再建されたのではない。それは常に二つの頭部を持ち、それを要求する部分を許容した党であった。SWP指導部は決してFI全体に対する指導上の責任を引き受けず、ヨーロッパ書記局のSWP内部の組織問題に介入がない限り、独立的に振舞い続けた。ジェルマンら中間主義者はこのような状態を受け入れてしまい、民主主義的中央集権の党のための闘争を事実上放棄することにより、ハンセンの暗躍の場を拡げてやったのである。この組織構造こそ、右翼のなし崩し的勝利を可能とした決定的根拠をなすのである。

 戦後FIがとめどもなく分裂し、社会民主主義へとすべり落ちていき、対極にプチブル急進主義、またはサンジカリストを生み出さざるをえなかった根拠もまた、ここに存在する。非中央集権化された党として、ハンセンら右翼の勝利から、スターリニスト官僚への永続的屈従的適応と社会民主主義党への長期加入戦術を二大柱として体系化されたパブロ主義の登場までは、ただ一歩ですらもなかった。パブロを追放したものが、やがて次には自らがパブロ主義化し、急進主義(サンジカリストを含めて)を他方に生み落としつつ自己解体の道を最後まで歩まざるを得なかった戦後FIの歴史は、そもそも最初から根拠付けられていたのである。

(5)創立大会の旗と綱領を継承せよ

①ハンセンら右翼との闘争放棄
②意思決定上の多元性―民主主義的中央集権制の放棄
③再建されたヨーロッパ民主主義(これ自体プロレタリア革命の圧殺の結果であった)への無意識的適応

 これらが第二回世界大会の正統派的よそおいの下に隠されていた中間主義のまぎれもない本質であった。これらは誰によっても暴露されず、FI再建の失敗が決定づけられ、三回大会における右翼の勝利を可能にした。左派=IC派の登場はあまりにも時機おくれであり、しかも左へ向かう前衛の意識を二回大会の中間主義に縛り付けるものであった。1953年、情勢が新たに動き始めたとき、戦後FI諸派は今日の解体状況を約束されていたのであり、我々は創立大会に立ち返って、その旗と綱領を継承しなければならない。

国家資本主義論者との闘争

(1)国家資本主義論者の階級的性格

 戦後FIの右へ向かっての解体と、この状況に抗してFIを再建する闘争の遅延とは、次第に醸成されてきたSCイズムの新たなよみがえりを、ポーランドの敗北が急速に推し進めた。

 SCイズムは、大衆の憤激の表現であるか(労働組合主義と結びついた国家資本主義論)、闘争から逃亡したいインテリゲンチャのシニシズム(多くは官僚的集産主義の表現をとる)であり、いずれにせよ、気分、雰囲気、その場限りでの思い付きを出ない。だからこそ、その理論は数限りなく存在し、とらえどころがない。しかし、その亜種、変種をも含めて分類、整理してみるならば、およそ次の如くなろう。

①プロレタリアートは資本主義の内的矛盾を革命に転化し、新たな社会制度としての社会主義へ人類文明を高めることができない。
②人類史は資本主義→共産主義として発展するのではなく、資本主義→国家資本主義→共産主義という段階を通って発展するのであって、現段階は官僚による「革命」の段階であり、したがってプロレタリアートの出番は来ていない。
③上記の図式は後進諸国(ロシア、中国、キューバ等々)にのみ適用されるが、先進国において直面しているのはプロレタリアートの革命である。つまり、後進国においては、革命は国家資本主義というバイパスを通ってはじめてプロレタリアートの革命が実現可能となる。したがって本質的には単一の、連続した過程としてのプロレタリア世界革命という永続革命論の基本命題はすでに破産した、換言すればマルクス主義はそのABCにおいて破産した。

およそ、SCはボリシェヴィキ・レーニン主義者とトロツキーの分析に寄生しつつ、それをねじ曲げ、極端に押し進め、背理にまで転化し、その階級的性格を暴露してしまう。彼らは大衆の自然発生性、その無定形性、その流動性をそのまま保存することで自己増殖する。この点において、自己を党にまで高めようとするプロレタリア前衛にとって、まず遭遇する第一の敵である。我々がSCに勝利しない限り、新しい党は創造されないであろう。

SCは大衆の無定形さに依存し続け、自己の内部にはらんでいる左右の対立を最後まで発展させ、階級対立の溝に沿って自己を党的に分裂させられないであろう。プロレタリアートの前衛は、十月革命において左翼エスエルの歩んだ道を深く考察することが必要であろう。彼らの左翼は革命的危機に臨んで、彼らの仲間である右翼SCとバリケードを挟んで対決しないであろうと予見しておくのが賢明であろう。

革命の危機において、SCは全員参加の労働者民主主義、労働者自主管理を合言葉にして、実践的にはプロレタリアートによる国有計画経済の建設に反対し、市場経済への後退へ導こうとするであろう。

(2)ソ連邦におけるプロレタリアートの政治革命

SCは十月革命の成果はすべて失われたと断定する。それは彼らをして次の立場―戦争と革命の時代としての帝国主義時代という規定を否定する立場、プロレタリアートの革命は完全に成熟しきっているという判断を否定する立場、現代を戦争と反革命の時代とする立場、したがってプロレタリアートの階級意識あるいは前衛の任務は、日常の利益を擁護する労働組合活動に集中・集約されるべきであるというサンジカリズムの立場へ必然的に移行せしめる。それは革命家、革命的な党派、あるいは革命的傾向としては、完全な自己破産の宣告である。

なるほど、史上初めてのプロレタリアートの独裁は堕落させられ、テルミドール官僚によって簒奪されたが、それは未だブルジョア反革命によっても、新しい支配階級としての官僚によっても転覆されていない。現在、それは帝国主義の世界秩序の内部に組み込まれ、プロレタリアートの世界革命を押しとどめる現状維持の装置と化している。だが、それは十月革命の成果でありつづけている。

ソ連邦におけるプロレタリアートの任務は、第二の、補足的な政治革命によって特権的な支配官僚を打倒することである。ソ連邦における政治革命は、巨大な軍事的警察的機構を粉々に粉砕するばかりでなく、すべての経済的・社会的制度を最底辺から頂上まで、いったんは解体し、完全につくり変えることなしには完遂しえない性格を帯びるに至っている。抑圧機構を取り除きさえすれば、そこに堕落していない諸関係が意識的・計画的な闘争を介在させることなく現われ出ると考えるのは、明らかに改良主義的幻想である。ソ連邦におけるプロレタリア大衆の権力奪取は、ソ連邦の社会的・経済的全連鎖をいったんは全て切断せざるをえないであろうし、如何なる行き過ぎをも恐れることなく、すべての諸関係を焼きつくし、清浄化することにならざるをえないだろう。

このようなプロレタリアートの政治革命によって、矛盾に満ち満ちたソ連邦の全構造をいったんは解体・打倒して、その内部に閉じ込められ、窒息させられかけている生きた諸力を解放することは、開始された現段階においては、単一の連続した過程としてのプロレタリア世界革命の不可分の一環なのである。

このような立場をとるわれわれにとって、SCとの闘争は全運動史の全量をかけて闘争すべきものとして、現在、位置づけられる。

プロレタリアートの独裁を、理論においてばかりでなく、幾十万、幾百万のプロレタリアートを組織することによって、その実践において否定しつくそうとするSCとの闘争は、全世界において燃え広がる不可避のものとなろう。

トロツキズムか、シャハトマニズムか

(1)LRP(革命党のための同盟)の古めかしいニュー・アイデア

SCは、いずれにせよ、自己のソ連邦に対する診断と、主観的には革命的であろうとする願望との間に存在する鋭い亀裂を認めざるをえないであろう。にもかかわらず、自己の願望に忠実であろうとするとき、さまざまな思い付きをひねり出そうと試みるに違いない。そのひとつが合衆国におけるLRP(革命党のための同盟)の試みである。

たとえば、LRPは1930年代末の大粛清によって十月の遺産が一掃され、プロレタリアートの独裁は打倒され、転覆されたと主張する。しかし、現実にはソ連邦においてすでにプロレタリアートが打ち倒されていたが故に、スターリニスト官僚が自ら寄生している独裁を反革命から防衛せざるを得ず、同時にすでに打ち倒されているプロレタリアートを立ち上がらせることが不可能なこと故、大粛清が必然となったのではないのか? さらに、フランスにおけるプロレタリアートの革命が人民戦線によってせき止められ、再び世界戦争が切迫したものとなることによって、ではないのか?

また、トロツキーの予見とはことなって、戦争によってスターリニスト官僚は打倒されず、むしろその支配を拡大したのではないか、とLRPは主張する。しかし、戦後世界の全現実は、トロツキーの予見によって創造されたのであるのか?

現実の過程は、帝国主義とスターリニスト官僚の協力によるプロレタリア革命の圧殺であった。この敗北的状況に対して開始された全トロツキスト運動は、無意識的な適応、あるいは順応主義の弁護論的体系化からはじまり、そして全潮流の中間主義への堕落がもたらされ、プロレタリア前衛の恐るべき混迷と大衆のアトム化が積み重ねられる道が作られたのではなかったのか?

(2)予見、そして過渡的綱領の継承

予見は現実の運動の中でテストされる。しかし、現実そのものの不可欠の契機として前衛党のための闘争が存在している。この闘争の総括との関連の下において予見ははじめて力を発揮し、テストされる。予見はしばしば誤りを経験する。なぜならば、革命運動は単純な初歩の力学の世界より、はるかに複雑であるからである。正しくたてられ、結果において誤った予見の闘争における総括を通して、われわれは経験豊かな革命党として成長しうる。

予見について重要な点にふれよう。『過渡的綱領』のなかでトロツキーは次のように語っている。

「だが、完全に例外的な事情(戦争、敗北、金融恐慌、大衆の革命的圧迫、等々)の影響の下に、スターリニストを含むプチ・ブルジョア的政党が、ブルジョアジーとの訣別の道を、彼ら自身望む以上に、すすむかもしれないという理論的可能性を、あらかじめ絶対的に否定することはできない。……『労働者と農民の政府』が実際に樹立されるとしても、それは真のプロレタリアートの独裁への途上における、ほんの短い一つのエピソードでしかないだろう」

戦後FI諸派は、『過渡的綱領』のこの一節を次々と拡大解釈し、その日和見主義を合理化しようとしたし、現在もその試みを続けている。「歪曲された労働者国家」「構造的同化」「批判的支持」等すべてこの拡大解釈、日和見主義的解釈にはじまっており、関係付けられている。この点に関してのLRPの戦後FI批判は鋭いものがある。しかしながら、LRPは自己の方法に導かれつつ、戦後FI諸派とは反対側の溝の中に転落してしまう。

「トロツキーのこの一節に関する分析は、しかしながら部分的に誤りがあることが証明された。トロツキーは、スターリニストを本質的には改良主義者であるとみなしていた。それ故彼らがもっぱら革命的な大衆の圧力を受ければ、公然たるブルジョアジーとの同盟を破棄するであろうと予想した。実際には諸共産党は、国家資本主義の党になっていた。だから労働者の爆発が抑圧された、その後でのみ旧いブルジョアジーと手を切ることができた。」(『過渡的綱領の神話と現実』13ページ)

このLRPの主張それ自体、多くの問題が含まれている。しかしここでは次のごとく言うことで十分であろう。ユーゴスラヴィアでも中国でも、例外的な事情にあったにかかわらず、スターリニスト党は彼ら自身望む以上にすすみはしなかった。現実の闘争は予見をテストし、わずかに残されていた可能性が閉ざされたことを明らかにし、『過渡的綱領』は強力な武器としてわれわれに譲り渡された。

(3)社会革命と政治革命の連続性と統一性

東ヨーロッパのブルジョア国家を緩衝国化し、従属国化したことは、ソ連邦の外見的な外交上の立場を強めた。しかしながら、それはプロレタリアートの独裁としてのソ連邦を深く傷つけた。なによりもプロレタリアートの孤立分散状況をさらに強めることになり、独裁は官僚によってさらに深い寄生の根を喰い込まされた。また、ソ連邦は緩衝国の存在によってヨーロッパ革命との連絡路をほとんど断ち切られた。ソ連邦は従属国のプロレタリアートの敵意によって逆に包囲されるに至った。それはソ連邦内部に深刻な影を投げかけ、戦争中のデマゴキー的プロパガンダと結びつき、野蛮な大ロシア民族主義の強大化と、それに反発する同盟構成諸民族の民族主義的感情を強めずにはおかなかった。つまり、ソ連邦は著しく弱められたのである。

しかし、今日、この状況をとらえなおすならば、これは東ヨーロッパにおけるプロレタリアートの社会革命と、ソ連邦における政治革命との間に存在する連続性と同一性、そのことに注目しなければならない、といえるのではないだろうか? 敗北の結果を、再度の前進の開始と、勝利の条件へと転じせしめる展望は、いったい何であるのか? ポーランドの敗北の後にわれわれに提起されているのは、実にこのような問題である。

プロレタリアートの全闘争は国際党のための闘争として集約され、そこに集中すべきである。ソ連邦における政治革命は帝国主義打倒のための闘争の環のひとつであり、資本主義国における社会革命と切り離しえない。

だが、スターリニスト・モスクワに従属化された東欧諸国の切迫したプロレタリアートの革命が、その本質において社会革命でありつつ、ソ連邦におけるプロレタリアートの革命的闘争と切り離しえないことが明白であることに示されているように、その社会革命もまた、無数の糸によってソ連邦における政治革命の展望に結び付けられている。

政治革命と社会革命とを、万里の長城によって切り離そうとするエセ・トロツキスト=改良主義者=戦後FIにわれわれは弾劾を加えてきた。ソ連邦におけるプロレタリアートの政治革命は、現代における革命の永続性、連続性、統一性を証拠付けるものである。これがわれわれの一貫した立場であった。ソ連邦の諸問題を理論的・実践的にとらえようとするとき、この間の闘争における勝利と敗北が、永続革命論に何を付け加え、いかに豊富化されたのか、その点の検討を抜きにすることは許されない、と主張し続けてきた。

今日、それはさらに緊急なものとして強調されなければならないのではないか?

今日におけるトロツキスト運動の革命的再建は、創立大会の旗と綱領の再生、再創造によって、はじめて可能である。それは戦後FI諸派の主張のあれこれを、またシャハトマニズムのあれこれの側面を批判するにとどまらず、その全体との闘争をもって永続革命論をさらに豊かなものとして発展させることをも要求しているのである。

(第12回大会政治報告 1985年1月)