7. 大野、最後のピッチング
送り出される時の「大野、大野コール」。どこかで聞いたことがある、、と考えたら、1991年の優勝決定試合の時、9回の表にリリーフエースとして大野投手がマウンドに上がった時の「大野コール」と全く同じだった。場所は同じ市民球場。同じ大野がリリーフカーに乗っている。違うのは、同乗者だけである。91年の優勝決定試合のときは、横にキャッチャー達川が乗っていた。そして、この日はカープのマスコットになって4年目のスライリーが乗っている。もっとも91年の優勝時は、関東でテレビ中継が無かったのでリアルタイムでは見ることができなかった。
淡々と練習ピッチングを続ける大野。横浜は代打・中根を出してきた。そして本番。大野が一球一球投げるごとに、再三「大野、大野」のコール。6球目に中根は三振に倒れる。最高球速146km/h であった。
ここで交代。ナインが集結して握手。そして抑えの小林幹英投手がリリーフカーに乗って出てきた。(この時の運転手は係員だった) ちょっと可哀相な気もするが、小林に対する歓声はほとんど無く、スタンドは大野大野と絶叫する。レフトの横浜ファンも、拍手をもって送り出す。大野は小林にボールを手渡し、マウンドを離れていった。
そして、8回表、横浜は0点。8回裏の攻撃で、足を痛めている代打・前田がコールされる。するとなぜか、観衆総立ち。引退するわけでもないというのに(^^;
↑ 代打・前田の時。ファンが盛り上がる。
この回も結局ゼロ。 9回表は、小林がゼロに抑えて試合終了。3対1 でカープが勝つ。
ここで個人的データ(^^; 私の98年度のカープ観戦成績。 広島市民球場で3試合観戦し、2勝1敗。 あとは横浜スタジアムで1試合観戦し、1敗。 花火大会がある日だったが、10点差以上つけられ、おまけに花火大会の残骸である煙が球場を包み、ものすごい試合であった。 通算2勝2敗。 チームは借金15以上であるが、私の観戦試合は五分五分の戦績。 しかし、なんとも横浜市民らしからぬ戦績(笑)
8. 大野投手よ永遠なれ
試合終了と同時に、球場は異様な雰囲気に包まれる。この日のヒーローインタビューは無し。
両チームの選手がベンチ前に整列し、マウンドに大野が駆け上がる。マウンドに上がった瞬間、引退挨拶を始める。大学の応援団か、選手宣誓を思い出すような、はきはきとした口調。悔いのなさが現れた挨拶である。挨拶の一文ごとに、大きな拍手が起こる。拍手がしばらく続くと、再び語りかけてくる。最後の台詞。
「我が選んだ道に、悔いはなし。 背番号24番、 そしてファンの皆様、ありがとうございました----」
と言い終わると、花束を受け取り、場内一周が始まった。周りの観衆が、前に押し寄せる。1塁側内野席から順に、観衆と握手。花束を渡すファンもあり、紙テープを投げるファンもあり。結局、1塁側内野だけで相当な時間を食ってしまったのか、さすがに全ての人との握手はやらなくなり、小走りで外野のファンの声援に応える。
この球場の良い所は、選手との距離が近いことである。バックネット裏以外では、フェンスの高さが1メートル位しかなく、選手と同じ次元で試合を見ることができる。最前列に座ると、選手からの距離はほとんど無い。こういう球場なので、マスコットであるスライリーが外野フェンスをよじ登って客席に乱入することも可能だし(実際、よくよじ登る)、選手もヤジや声援によく反応する。事あるごとに「狭い」などと言われるこの球場にも、良い所はある。そのためか、甲子園球場同様、ファンが乱入する確率も高いのだが。
フェンスの高さが低いので、外野の人でも大野投手とじかに握手ができる。私は、大野投手の最接近時に写真におさめることが精一杯であった。
↑ ここまで人をひきつける力が、大野投手にはある。
↑ この後レフトに行くと、さらに紙テープの量が増えていく。
外野に来ると、紙テープの量が多くなる。優勝時に匹敵する数である。大野投手がセンターのバックスクリーンまで来ると、そこから大量のユニホーム型風船が飛ばされた。ジェット風船とは違い、ものすごい高度まで飛んでいった。
大野投手がレフトまで来ると、紙テープの量がさらに増える。紙テープで、警備員氏らの身動きが取れなくなったりもしたが、なんとか場内一周を終わる。
最後に、3塁側内野付近で胴上げ。5回舞って、引退セレモニーは終わった。 胴上げも写真に収めたかったが、フイルムが既に尽きてしまっていた。というより、胴上げのことまで考えられなかった(^^;
私が生まれてから一週間が経ったとき、大野投手はカープへ入団した。初年度 1977年の防御率は 135.00 で、この記録はまだ破られていないそうだ。呉市にカープの入団テストを受けに出雲市駅を出たときは、見送りは軟式野球の先輩1人だったという。引退のこの日は、29,000 倍の人に見送られたことになる。最高収容力の 32,000人 とまでは行かなかったが、消化試合でのこの数字は驚異的だ。この時期に試合だけを見たくて 29,000人はまず集まらない。やはり、大野投手はカープファンに愛されていたようだ。
9. 帰路につく
球場を出ると、ものすごい人垣。ここで鯉人倶楽部の方々は解散。お疲れ様でした。とりあえず、球場の近くにあるそごうに入る。途中、広島中郵便局の「出店」で引退記念ハガキが売られていたので、衝動買いする。そごうに入って、エレベーターで8階直行。ここでは野球グッズが売られている。とりあえず、広島ローカルのスポーツ雑誌(カープだけでなく、サンフレッチェやJTなどの話題もあるが) を買う。もちろんカープグッズだけでなく、ジャビット人形なども積まれてある。この「そごう」の中にあるバスセンターから、広島空港行きのリムジンバスが出ている。それに乗ったのが18時頃。 遠方にある市への直通バスも混雑している。ここから約1時間で、広島空港に到着する。
飛行機は夜8時のJAL便。この便は、ほぼ満席であったが、目についたのは「横浜ベイスターズの帽子」と「カープのメガホン」であった。飛行機の中まで、野球の対決をそのまま引きずっていた。私の一つ前の席には、同じく神奈川の鯉人倶楽部のMさん(仮名)が座っていらした。しかし、どちらにしても両軍、飛行機で広島まで見に行くファンがこれほど多いとは、気合の入れようは凄いものがある。 定刻に離陸し、定刻に羽田着。
とにかく自分自身が、最後まで大野投手を見送った 29,000人の中の一人になることができて光栄でした。チケットを手配して下さった鯉人・広島支部長様、ありがとうございました。m(__)m
YUTAKA OHNO, Forever........ 大野投手 22年間の選手生活、お疲れ様でした。
--- ここまで読んで下さった方も、ありがとうございました m(__)m