五輪における種目の実用性
オリンピック。
国民のほとんどが、一喜一憂するこの大会。1998年には、長野で行われた五輪。
さて、この大会に出るには、死ぬほどの練習を必要とする。
オリンピックで活躍し、一躍有名になった人は幸せだ。しかし、国民は、五輪で思わしくない成績を取った選手、または出られなかった選手には、ほとんど目が向けられない。彼らは何のために、命をかけてやっているのだろうか。。
話が反れたが、それでは五輪種目の必要性について見てみよう。
その1:100m走
100mを10秒で走ると、普通の人と比べて何かいいことがあるだろうか。
列車にタッチの差で飛び乗ることができるか?
いや、無理だね。
駅にはたいてい、階段 というものがあるからね。
では、歩行者信号のボタンをいち早く押して、信号を1本余計に待たずに済むか?
たしかに、道路は平地だし、その足は生かされるかもしれない。
だが、ダメだ。
速く走るあまり、車にはねられては元も子もないし、第一、他の歩行者に迷惑である。
というわけで、実社会では役に立ちそうにない。
その2:棒高跳び
棒を使って高く飛ぶことができる人は、なにか得なことがあるだろうか。
ビルでの火事のときに、はしご車を使わずに現場に入ることができるのではないか?
はしご車が入れないような裏路地とかでは、いち早く飛び込むことは可能だ。
だが、甘い。
どうやって逃げるの?
屋根に上がってしまったボールを、すばやく取ることができるんじゃないだろうか?
普通、はしごを立てるには時間がかかる。
サッカーだと、ボールが乗っている間も時間はカウントされるだろうから、勝っているチームの選手が、敗北を防ぐための自己防衛手段として、ボールを屋根に乗せるかもしれない。
負けているチームとしては、棒高跳びの選手を雇えば、ものの数秒でボールを取り返すことができる。それで逆転勝ちでもしたら、一躍その街のヒーローになること請け合いだ。
降りるためのはしごがかかっていれば、の話だが。
通常、負けているチームはそのまま負ける確率のほうが高い。
もしそうなったら、敗北したチームのメンバーが、わざわざ彼のためにはしごを立ててやろう、と思うだろうか。敗戦のショックで、それどころではない可能性だってある。
地上5メートルにぶら下がっているパンの、パン食い競争に有利なのではないだろうか?
その通り、有利であろう。
マットがあれば、さっと取ってボンと降りれば優勝である。
しかし、今までこのような催し物が行われた前例は、おそらく無いであろう。
普通の人が成功する可能性がまったく無いため、勝負事として面白みに欠けるからだと思われる。
そういうわけで、実社会では役に立ちそうにない。
その3:スキー・ジャンプ (ラージヒル・ノーマルヒルの別を問わない)
長野を大いに盛り上げたスキージャンプ。
スキーを使って遠くへ飛べれば、何かいいことがあるか。
これについては考えるまでもなく、実社会では役に立ちそうもない。
第一、実現性がない。まず雪と急斜面、これはよく見かける。北国へ行けば。
ただ、ジャンプ台というものは、そうそうないだろう。あっても、スキー場にあるコブがそれに近い役割を果たすくらいだ。
しかし、コブごときで120mも飛んでしまったら、他のスキーヤーに迷惑であることは自明であろう。
それに、着地したところがまたコブであったら、どう自己弁護しろと言うのか。
だから、もしあなたがスキージャンプをテレビで観戦、もしくは現地で観戦することがあれば、、
実況に対して、選手に対して、こうつぶやいてあげましょう。
実況:「飛んだああああっ、どうだ、どうだ、どうだ、125m、K点を軽く越えたあああああ!!」
「だから、何?」
あなたのこの一言が、舟木、原田をはじめとする名スキージャンパーの引退後に、一考を促すことがあるかもしれない。
もっとも、彼らであれば引退後は既に保証されたようなものだが。