ウルソー投手は、いま…
ここではウルソー投手の野球人としての経過を、分かる範囲で書いていきます。
年 月 |
経 過 |
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1988年 〜1990年 |
プラント高校在学中、野球部(Plant
Panthers)、を3年連続で フロリダ州のトーナメント決勝に進出させている。 そのうち、1988年には優勝している。 当時のウルソーは、ピッチャーのほかに一塁手もやっていた。 |
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1991年 | 高校卒業後、マイアミ大学から誘いが来る。 しかし、メジャーリーグでのプレーに憧れていた彼は誘いを断り、 シアトル・マリナーズの下部組織に入る。 |
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1996年 | ウルソーは、この年マリナーズのピネラ監督に呼ばれ、 夢のメジャーリーグ昇格、となるはずであった。 しかし、前年の大リーグ・ストライキに関連して選手の間で ゴタゴタがあり、メジャーリーガーにはなれず、3Aに戻された。 |
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2000年 春 | 結局、この歳までメジャー昇格の夢は叶うことなく、 来日し、カープに入団。 カープにいる間に、長女 Madison ちゃんが産まれた。 |
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2000年 秋 | 4月は中継ぎとしてバリバリ登板したものの、その後振るわず 一年で広島カープを解雇される。 関西空港から帰国の途につく。 ウルソーの選手としての野球人生は、この瞬間に終わる。 彼の信念は、「野球少年が好きで、教えたい」ということらしく、 |
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帰国したウルソーは、地元フロリダ州の歓楽街イーボーシティに 「ウルソー 野球アカデミー」なるものを設立。 しかし2年ほどで解散し、道具類はかつてお世話になった 少年野球チームに寄贈した。 |
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2002年 〜2003年 |
母校・プラント高校野球部に引き抜かれる。 ボランティア・コーチとして、主にピッチャーを指導していく。 しかし、そんな彼の第二の人生も順調ではなかった。 |
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その後、いったんは Hillsborough
Community College という 地元の大学にて一時期コーチをしていたが、彼の信念である 「子供を教えたい」 という心を捨てきれず、移籍先を探しまわる日々。 |
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2003年 夏 | ついに正式なコーチとして、高校に復帰する。 ロビンソン高校野球部(Robinson Knights)という、 母校のプラント高校とはライバル関係にある高校である。 コーチとしての情熱を、高く買われての入団となった。 また、この時長男
Salvy くんが産まれ、二重の喜びとなった。 |
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そして、現在 | コーチとしての第二の人生も、なんとか軌道に乗ってきたようだ。 |
・ ウルソーの野球チーム遍歴については、こちらもご参照ください。
注) 地元新聞社の記事を参考に書いたものであり、一部正確でない表現があるかもしれません。