概観 全体の構成
部分をなして運動している。運動は部分と部分の関係であり、部分の全体と の関係である。両関係の総体として運動がある。
【全体の運動】
関係しあう部分の全体として運動はある。関係は部分の存在形態である運動 として実現される。運動は部分と部分の関係であり、部分としての存在の仕方 (存在形態)である。運動は部分と部分の関係の全体として、全体の運動でも ある。全体の運動として部分と部分は関係している。
部分と部分の関係の連なりとして、全体はひとつの一体のものとしてある。 部分と部分との連なりの全体が全体の運動である。部分は他の部分と切り放さ れ、孤立する形態ではない。部分は全体の中で区別される運動形態である
全体の運動は部分の運動の結果ではない。すなわち、全体の運動は一部分の 運動が次の部分の運動を引き起こす、といった経過の連なりとしてあるもので はない。時間の経過にしたがって順次作用が伝わるのではない。全体の運動と して一体のものである。全体の運動は因果関係を区別できない運動である。部 分は自らの部分の運動として、全体の運動の一部分である。
部分も全体も運動するものとしてあり、運動として関係している。世界は運 動である。運動しないものは「ない」のである。
【運動の存在】
全体はすべての部分からなり、部分ではないものである。全体は部分との関 係にあって、部分でないものを含まない。部分はすべて運動するものであり、 全体も運動する。運動しない全体はありえない。
運動しない全体は区別がなく、区別をしえない。運動しない全体は内にも外 にも関係を持たない。区別のない、関係のないものは存在がない。運動しない 全体は絶対的静止であり、それは存在しない。
世界は運動しており、世界のすべては運動している。運動しないものは世界 にはないし、運動しない世界もない。運動は世界の存在形態である。
【存在の定義】
ここで存在について定義される。世界の存在、すなわち現実存在は関係する ことと運動することの2つとしてある。存在の形式は関係であり、存在の形態 は運動である。存在は他と関係することであり、そこで運動することである。
他との関係を超越した存在は、存在に含まれない。他との関係を超越した存 在は運動に関与できず、存在を対象とすることができない。他との関係を超越 した存在は、存在によって対象化される思弁であり、存在の相互作用の内には 入り込めない。
【部分の運動】
部分は運動することで他と関係し合っている。運動しない部分は部分として も存在できない。他と関係しない部分、他と自らを区別しない部分は部分では ない。それは全体である。他と関係し、他と自らを区別するのは運動である。 すべての部分は運動している。運動しない部分はありえない。運動しない部分 は部分ではない。
注74
【部分の運動の内包と外延】
部分の内での運動と、部分の他との運動の分離が部分の成立である。部分の 運動は二元性を持つ。自律性と対象性として部分は他と区別される。部分の運 動は部分と部分との関係であると同時に、部分としての存在である。
部分の運動は部分と部分とを区別する関係としてある。その区別する関係に あって、部分は他の部分と区別し、全体と自からを区別する。他と区別するこ とで部分は部分としてある。
部分の運動は部分の他の部分と区別する関係にあって、部分そのものの運動 をする。他と区別する関係にあって、他とは別な部分としての運動をなす。
【部分の自律性】
部分の内での運動は部分を部分として他と区別する運動である。部分として まとまり、自律する運動である。部分として特徴づける運動である。他と関係 しない閉じた運動である。しかし、孤立した運動でないばかりか、部分の内で の運動は他の部分と関係し、かつ全体の運動の一部分としてあるからこそ運動 しえるのであり、存在する。部分の運動としての質を実現する。
【部分の多様性】
部分は他の部分と区別し合い、多様な関係をなす。多様な部分間の関係は多 様な部分の運動である。多様な関係をなす多様な部分は、多様な運動である。
多様な部分の運動は部分を区別し、部分を部分に分ける。部分は自らの運動 で多様性を増す。同時に他方で、多様になる部分間の関係も多様になる。
多様な部分の関係は関係の関係を構成する。部分間の関係は全体の関係の中 で、他の部分間の関係と関係する。関係と関係は、それらからなる新しい関係 をなす。関係の関係は高次の関係になる。関係の関係として高次化することに よって多様性は統一されている。部分間の関係も多様性を増す。
世界の運動は部分としても、全体としても多様性を増す運動である。
単なる多様性、どこまでも多様な運動は混沌である。ただひとつである世界 が無数の部分として運動するだけでは、それは混沌である。
【相対的静止】
しかし運動は運動自体の帰結として部分でもある。運動は部分を全体から区 別する。運動は全体の運動でありながら、部分としても運動する。運動が部分 を生む。運動における部分と全体との関係、部分の運動と全体の運動との関係 が静止である。この静止は全体と部分との関係としての対立である。この対立 を統一して静止はある。同時に静止は運動との対立であり、静止として運動と の対立を統一しつつ運動している。すなわち相対的静止である。
世界の静止はすべてこの相対的静止である。相対的でない静止は運動をまっ たくしない静止であるが、全体が運動であるのに絶対的静止はありえない。絶 対的静止があるとすれば全体が運動でない場合である。
部分的な絶対的静止とは表現としても誤りである。絶対的に静止する部分と は他と関係しえない部分であり、他と関係しないで部分は部分でありえない。 絶対的静止は全体としても、部分としてもありえず、ありえるのは運動するこ の全体を否定しえたときである。現実存在のすべての静止は相対的静止である。
注76
【静止の形式】
相対的静止は全体の運動の一部分である。全体の運動が混沌であり、まった くの無秩序であるうちは相対的静止も、部分もない。しかし、全くの混沌に歪 みが生じると、混沌は秩序を得る。あるいは秩序が現れると、そこには歪みが 生じる。秩序と歪みとどちらが先とも言えない。全体が運動であることによっ て歪み、あるいは秩序が生じる。
相対的静止により、運動は部分としての形式を与えられる。相対的静止は部 分の存在形態である。
そもそも全体の運動の最も一般的な作用は歪み、あるいは秩序を作り出す運 動である。歪み、そして秩序は一対の関係であり、一体のものである。一方に 歪み、他方に秩序があるのであって、両者が区別できないのは、まさに混沌で ある。
【運動の方向性】
形式的に別の言い方をするなら、混沌とは方向を持たない運動である。運動 が方向を持つと、すべての方向はバラバラではありえない。全体は無限である からすべてが違う方向に向かうことはありえないし、同じ方向に向かうことも ない。近似として同じ方向に向かうことがありえる。しかしこれは無限の中の 近似であり、近似と言うより現実には同値である。ただし、永久不変ではない ということでは、やはり近似である。
同じ方向を持つ運動として、相互に静止した関係がある。相互に静止しつつ 他に対し、全体に対してはやはり運動している。静止であり続けるには全体の 運動に対立して部分として運動し続けねばならない。この運動の状態が相対的 静止である。
注77
【静止の局所性】
静止は全体の運動の局所性として現れる。全体性に対する局所性であり、相 補関係にある。全体と局所とのどちらが先、前提かではなく、存在の現れ方の 違いである。運動の局所性に注目するなら静止があり、全体に注目するなら運 動がある。運動は全体として絶対的であり、静止は局所として静止である。
全体性と局所性は我々が注目するから現れるのではない。運動のあり方を、 全体と部分の形式的対立関係として我々が二律背反的に解釈するのであって、 存在として区別されているのではない。
静止は運動の局所的運動として現れる。部分の直接関連する周囲の部分との 関係は直接関係しない部分との関係より強い。関連は飛躍せず、逐次的に連続 している。運動はこの連続する形式として全体であり、逐次的に継起する過程 として部分である。
【静止の運動】
静止はそれ自体が運動するものとしてあるが、他に対して静止している。静 止はそれ自体運動するものとして相対的全体であり、他との関係として運動す るものとして部分性である。静止は運動の否定として全体性を否定し、他との 関係として運動して全体性を取り戻す。
相対的静止は相対的静止間の運動として、新しい運動の形態を作り出す。相 対的静止間の運動は、その従来の相対的静止を要素とする新しい秩序を作り出 す。相対的静止を運動要素とする運動は、高次の運動形態である。相対的静止 間の関係としての運動は、高次の存在関係を作り出す。全体の運動はこうして 部分としての構造をもった運動へと発展する。世界は複雑な秩序と構造をもつ。
静止は運動の単なる否定ではない、積極的な運動の発展形態である。運動を 量子化すること、混沌を丸めること、混沌の中に部分を顕在化すること、他と の関係を作ること、確率を与えること、形式を与えること、運動諸要素のパラ メータを決定することとしてある。
注78
【運動の形】
形式が現れるのは観念の内にではない。現実の実在の形としてである。
点はエネルギーの励起として現れ、現象する。
線は運動の方向性の現れ、現象である。相対的に強い、他にじゃまされない 強い方向性が線になる。最も強い方向性は直線である。直線は無限のエネルギ ーの現れである。これは類推、アナロジーではなく光の性質である。感覚はこ れを反映する。無限のエネルギーが最短距離を取ることになる。
注79
方向性と場の条件の平衡状態が滑らかな曲線になる。
多角形は複数の方向性の現れである。あるいは方向性の複数の方向への分散 である。方向性を現す力の分散である。
円、球は、内外の力の全体的平衡状態に現れる。楕円は全体的平衡状態にお ける2点を焦点とする力の分散の現れである。2定点間との距離の和を一定に する点の軌跡である。
これらの組合せとして平面、立体、時空が表現される形式である。
形は外から眺めてえられる輪郭ではない。内容と形式の相補性にもとづく境 界である。
形の現れは本質的にはトポロジーの問題である。近傍との連なりかたが形の 本質である。近傍との連なりは内容であり、それ自体形式である。
注80
物理現象は形をとって現れるが、その形は抽象ではなく、具体的現象である。 シミュレーションは物理過程を再現するが、それは捨象された現象である。
【部分の存在形式】
全体は運動していようが、静止していようが全体である。しかし部分は静止 がなくては部分ではありえない。相対的静止の運動は全体と部分の対立の統一、 そして運動と静止の統一である。全体は常に運動している。全体の運動と運動 の全体は、全く同じことの言い替えであるが、この中に静止が現れる。
部分は全体の運動の部分として運動そのものであるが、部分が部分として全 体と異なるのは全体の運動とは区別される運動、すなわち静止をするからであ る。全体の運動の一部分としてありながら、静止して現れれる運動が部分であ り、部分の運動である。
部分の運動は全体の運動の一部分でありながら、全体の運動ではない。この 違いは大小の違いでも、包含関係による区別という形式だけでもない。部分は 全体の一部分でありながら、全体としては区別される存在として現れている。
部分にあって部分は、全体の運動の一部分として運動しているが、部分は自 らの全体性の運動を否定し、部分としての運動を作り出す。否定される全体性 の運動と、肯定される部分性の運動の関係として静止がある。全体性の運動と 部分性の運動、これはどちらも全体の運動であり、全体に還元する。しかし還 元されずに、部分を成立させる静止は全体性の運動の否定と、部分性の運動の 肯定とを統一することによって静止であり続ける。静止の全体性の否定は静止 に形式を与え、部分性の肯定は静止の内容を与える。
【部分の静止】
部分が部分であることを保持する運動が、部分の運動である。部分は静止し た運動として固定された外観を取る。部分は静止し、固定されたものとして他 と関係する。部分の静止、あるいは固定は全体に対してであり、他に対してで ある。決して自分自らに対して静止、固定するわけではない。
注82
部分は全体の運動の一部分であり、一部分として他の部分と関係する。部分 は全体の運動でありながら、一部分として静止する。部分は静止しながらも、 全体の運動の一部分として他の部分と関係する。
静止は全体性の否定として、全体と関係する部分である。静止は部分性の肯 定として、他の部分と関係する部分である。この否定と肯定の関係は一致しえ ないが、ひとつのものとして統一されている。関係として、静止は自己の全体 性の運動を否定し、部分として他と連なることで全体との関係を復活させる。
運動として静止は、全体性の運動であり続けはする。部分とは言えど全体性 の運動が存在の基礎である。しかし静止は全体性の運動を部分性の運動に止揚 することで、部分として他と区別し、関係する。ここでの部分性の運動は、他 の部分性の運動と質的違いはない。他と同じである部分として部分性の運動は ある。他の部分と同質でありながら他の部分と区別され、関係するものとして、 部分は全体性を回復する。
【部分の対象性】
部分の内での運動は他と区別する運動であると同時に、他との関連としても 運動する。部分の内での運動と部分の他との運動は、区別であると共に統一さ れた運動である。部分が他の部分に作用し、その作用が他の部分からの作用と なる関係である。部分間の相互の作用として現れる運動である。この相互作用 は交互に、別々に作用するのではなく、一つの運動として現れる。
その統一は全体の運動として実現している。部分の運動は全体の運動を特徴 づけるものである。全体の運動は部分の運動の存在に関わり、実現している。
注83
全体性の対立物としての部分は、静止という存在形態をとることで現実的存 在として現れる。全体と部分の対立という抽象的関係から、部分相互に直接作 用し合う関係として、実体として現れる。すなわち部分は静止という形態をと ることで、対象性を持つ。
全体は対象性を持たない。全体は何物によっても対象とされえない。いかな るものも対象として働きかけ、関係できるのは自らと同じ部分に対してである。 働きかけ、働きかけられることが対象性である。すなわち対象性とは他者と関 係すること、他者を持つことである。同時にこれは自らを他者の「他者」とす ることとして、自らを対象とすることである。対象性とは部分の存在形態とし ての本質である。当然のこととして全体は対象性をもちえない。
【部分の関係】
部分間の関係は孤立したものではない。部分間の関係は特定の部分だけが互 いに関係するのではない。部分であっても全体の一部分であり、全体の関係を 担うものである。
言い替えるなら、部分間の関係は別々の個体が、両極に分かれて関係するの ではない。部分は全体の運動の一部分であり、そこでは無限の関係の中にある。 また部分としても、運動の形態は同じである他者とも関係しているし、またま ったく異なる運動をする他者とも関係している。部分間の関係は対をなすので はなく、網の目状である。それも平面、あるいは立体的なだけではなく、時間 的にも互いの作用の結びつきとしてもある関係である。部分間の関係は多次元 の網の目状である。
部分間の関係は隔絶された上での関係ではない。部分そのものが全体の一部 分であり、互いに区別できない関係にある。互いに区別できない関係でありな がら部分として、互いに区別する関係でもある。区別し、区別できない関係と して部分間の運動がある。区別できない関係としての全体の運動は、区別をな くす方向である。これはエントロピーの増大の傾向である。
区別をつける運動として部分は自ら部分であると同時に、他を自らでない部 分にする。部分は自らの運動を肯定し、他者の運動を否定する。この対立関係 にあっても、各々の運動は全体の一部分であり、否定することも肯定すること も、互いに同じ全体の運動の一部分としての関係である。すなわち対立しつつ も相互に浸透し合う関係である。
【部分の運動形態】
運動は絶対的全体の運動としては秩序も何もない。絶対的全体の絶対的運動 は絶対的静止ではないものでしかない。あえて言うなら完全な混沌である。
運動はこの完全な混沌に歪みを生む。運動は絶対的静止ではなく、完全な運 動はいつまでも完全な運動ではありえない。完全性は破られる。絶対的運動、 絶対的全体は絶対性を失う。絶対的でなくなる絶対性は、絶対のものではなか ったのであるが、それは絶対的な運動としてあるからであり、絶対的な静止と してあるなら、それはいつまでも絶対であり、ただそれだけである。絶対性は 絶対的運動であるから、絶対性を否定する。完全性、絶対性を離れて、運動は 部分として、相対的静止として現れる。
部分としての運動は全体でない運動であり、全体の運動と対立する運動であ る。部分の運動は全体の運動の一部分でありながら、全体の運動ではない。部 分の運動は全体の運動の一部分として全体と関係し、存在する運動である。い わば縦の関係である。全体の運動は部分の運動を還元する作用をなす。部分の 運動は全体の運動の一部分でありながら、部分であり続ける作用をする。全体 の部分を否定する作用と、部分の部分を肯定する作用の統一として部分は運動 し、存在する。
部分を否定する作用と肯定する作用の統一が世界のものを存在させる運動で ある。否定と肯定の統一が世界のものの根元的運動である。全体は部分を否定 し、部分は全体を否定する。運動は静止を否定し、静止は運動を否定する。こ の否定と肯定の統一としての相互作用が世界のあり方である。否定と肯定の統 一として運動の存在形態がある。その運動の存在形態が部分の存在である。
【相互作用の形式】
相互作用は全体と部分の関係として、部分をあらしめる関係ではない。部分 と部分との関係として世界の構造をあらしめる。部分を部分たらしめる全体と の相互作用が縦の関係である、というなら部分と部分との相互作用は横の関係 である。
縦の関係は部分の全体に対する関係であり、他の部分との相互作用を通じて 絶対的全体との関係である。対するに横の関係は部分と部分の相互作用として、 部分相互に区別し合い、排除し合い、否定し合い、対立し合う部分と部分との 部分的な関係である。縦と横の関係は座標軸の向きが違うのではなく、相互関 係の質が違うのである。
部分は全体に対立する単独の存在ではない。全体は唯一であるのに対し、部 分は無数である。全体の絶対性に対して、部分は無限性で対応する。全体は部 分で満ち満ちている。すべての部分として、無限の部分として全体はある。そ こでは部分でないものは全体しかない。 部分は全体ではないものとしての部分と関係する。部分は部分間の関係を次々 とたどれる、連続した関係のすべてとして全体の関係を担う。部分間の関係と して、部分は全体の関係の一部分を担っている。
部分と部分との関係は、全体の関係の一部分として、相互に等しい関係であ る。一方が他方へ作用するだけの関係ではない。部分と部分との関係は相互に 作用する関係である。部分と部分とは、どちらも全体の一部分として対等であ る。どちらも関係する部分として相互に関係する。どちらも運動するものとし て相互に作用し合う。
部分間の関係も相互作用であり、単独の、一方的な作用ではない。世界には 単独の、一方的な作用はない。すべては、全体の関係の内にあり、ひとつの全 体の内で単独の存在はありえない。すべての運動は相互作用としてある。すべ てが相互に関係するから、全体はひとつである。
【相互作用の統一性】
ところで縦と横の関係は別々にあるのではない。部分の相互作用としてひと つのものである。ひとつの部分の相互作用としても一体である。ひとつの部分 のあり方であり、その全体との関係と他の部分との関係として現れ方が別なだ けである。
部分の相互作用は部分間の関係において作用するが、その総計として全体の 運動がある。また部分と全体との相互作用は、すべての部分を部分として同等 のものとして関係させる。
縦と横の相互作用は互いに補い合って部分として運動を表す。部分間の相互 作用もその背後に各々の存在の根拠としての全体との相互作用がある。部分と 全体との相互作用はすべてのものの存在のあり方として、部分間の相互作用の 内に部分を現らしめる。
【相互作用の多重性】
部分と部分、あるいは相互作用はことばの感じのように、1対1の関係では ない。部分は「1」ではない。部分は全体に対する部分であり、部分に対する 部分であって、それ以上分割できないものとしての「1」ではない。その意味 で部分は相対的な存在である。
作用として、機能として、相互作用は部分と部分の関係として表現されはす る。しかしそれは表現上のこととして1対1の関係であるに過ぎない。部分の 相互作用は、全体の相互作用の一部分として全体と連なっている。部分の相互 作用は全体と連なる作用として、全体性を持っている。部分は1対1だけでな く、他の無数の部分と関係し、相互作用をする。
部分の相互作用は、単に1対1の関係としてあるのではない。網の目のよう に連なってはいるが、網の目のように平面ではない。相互作用は幾つもの、い わば多次元の作用である。多次元であるということは、互いにバラバラの機能 であることではない。多次元の相互作用として、無数の相互作用のそれぞれは、 ひとつの部分の相互作用として一体のものである。ひとつの部分の相互作用は 多次元である。
また、1対1の関係であっても遠隔作用だけではない。遠隔作用はむしろ希 である。相互作用は連続した運動として実現し、要素として分かれる場合も相 互に浸透し合う関連である。
したがってひとつの部分の作用は、ひとつの部分を対象とする相互作用のみ ではない。ひとつの部分を対象とする相互作用は、他の次元の相互作用を伴う。 対象とする部分に対し、別の次元の相互作用をすると共に、他の複数の部分と もそれぞれ複数の相互作用をなす。
多次元の相互作用の連なりとして、全体の連続性が実現される。
【相互作用の多様性】
また部分と部分は同等のものとして相互作用するが、相互作用そのものは一 様ではない。1対1の部分間の相互作用であっても条件によって異なる作用を する。さらに複数の部分間の相互作用は、その要素と条件の組合せで多様な相 互作用をなす。
部分と部分の相互作用は多次元の関連として多様であるが、全体の運動とし てはひとつである。相互作用は多様であるが、多様さは秩序ある多様さである。 無限の多様性であるが混沌ではない。
全体が部分の対立において、すべての部分は同等に部分である。部分そのも のとして多様性はない。多様性は同等な部分間の組合せの多様性としてある。 したがって始めから、無限の多様な組合せはありえない。相互作用を通し組合 せを実現する。始めからすべてが無限に多様であったなら、運動そのものが成 り立たない。それらは全体をなさない。
同等の部分間の組合せとして、単純ないくつかの組合せから始まり、組合せ を構造化していくことによって無限の多様性が実現する。
部分と部分の相互作用は同等の部分間の、いくつかの条件の違いによる複数 の相互作用を単位とする。いくつかの条件の違いによる複数種の相互作用が、 部分の存在の次元の数である。すべての部分が一様に、すべての部分との間で 相互作用することはない。その状態は絶対的全体であって、そこには部分の区 別も、運動もない。部分はいくつかの限定された部分との相互作用をする。い くつかに限定された部分との相互作用の連鎖を通して、すべての部分と関連す る。
全体はひとつであり、部分は互いに同等であっても、そこに働く相互作用は 多様である。多様な相互作用の連なりとして、全体の構造の多様性が実現され る。
部分間の相互作用にあって、部分は部分であり続けるが、全体に対する部分 としてのみあるわけではない。全体に対する部分であったし、あるが、相互作 用において他の部分に対する部分でもある。
他の部分に対する部分として、その相互作用に限定することで互いの部分は、 相互作用の関係を全体とする部分でもある。相互作用の関係として限定された 全体が部分に対する。部分は相互作用の対象となる部分との関係において、限 定された全体と対する。限定された全体、これが相対的全体である。運動にお いて相対的静止でがあるが、関係において相対的全体である。
相対的全体の内で、部分は他の部分との相互作用の関係として、相対的全体 の部分としてある。部分は絶対的全体に対する部分であるのと同時に、相対的 全体の部分である。絶対的全体に対するだけでなく、相対的全体に対する部分 として、部分は実体である。他の部分と相互作用する、運動する実体である。
相対的全体は絶対的全体の相互作用として限定された全体である。相対的全 体は絶対的全体に対して、それ自体部分としての関係にある。相対的全体は部 分の相互作用の全体であるが、他の相対的全体に対しては互いに部分である。 相対的全体は部分間の相互作用を介して、相対的全体として相互作用をなす。 相対的全体間の相互作用の関係にあって、相対的な全体はその関係の部分であ る。
相対的全体の相互作用は、部分間の相互作用の、より発展的な階層における 相互作用である。
この様に相対的全体は部分に対して、そして絶対的全体に対して、二重の意 味で相対的である。
以下、特別な場合を除いて「全体」とは相対的全体を意味する。
概観 全体の構成