ある日の一言(2011年1月〜)

<母親の部屋> <子供の部屋> <関連リンク> <普通の家>


内容紹介

ある日に起こった出来事、感じたことを一言書きます。楽しみにしててください。


11月21日
ビジネススクールの同窓会の計画を数ヶ月前にたてていたが結局延期になってしまった。その後、先生から連絡があって、来月群馬県の温泉で同窓会を行うことになった。今年は現役学生も参加する。土曜、日曜と行うが、土曜日は勉強会があるそうだ。キャッシュフローゲームなるものをするらしい。詳細は分からないがコンピューター上で仮想の会社を作り運営するゲームだと思う。

ゼミの先生は今はMBAの英語ゼミ担当だから現役生はみんな外人である。久しぶりに英語の勉強ができそうだぞ。楽しみである。同窓会は数年前から始まり、俺が現役の頃は台湾に、翌年は先生の家、昨年は郡山にみんなやってきた。そして今年は海外を考えていたが結局日程的に難しかった。
11月15日
ホームページの一部引越しを始めた。容量が多すぎてすでに規定量をオーバーしているので他のところに引越し中である。
10月30日
土曜の夜9時からテレビで妖怪人間が始まった。小学生の頃アニメをよく見ていたので懐かしく思い見ていた。最初の歌は昔と同じだが、子供の頃見ていたのと雰囲気がかなり違う。

昔のアニメはもっとどろどろしていて怖さがにじみでていたが、ドラマは何かこぎれいでさっぱりしている。妖怪に変わったベム、ベラ、ベロがおもちゃのようで妖怪っぽくない。

まぁ、こんなものかなと見ているとどこかで見た風景が、・・・これは家の近所だ。歩道橋の住所を見るとやっぱり家の近所だ。川崎は映画やドラマの撮影を誘致しているが、こんな近くで妖怪人間の撮影していたのか。ようし久しぶりにエキストラの応募でもするか。

TBSのエキストラ募集なんかを見ていると川崎市で撮影とかよく書かれている。家の近くにスタジオがあってたまに撮影機材をつんだ車がとまっている。土日なんかは市役所も撮影の為に開放しているらしく、役所前にもそれらしき車とスタッフが出入りしているのだ。ただどれが役者かは分からない。
10月23日
 仕事は先月の台風の影響で復旧作業の為、業者とのやり取りが忙しい。さていつ落ちつくのやら。俺は作業で腰を痛めた。

10月8〜10日は会社で久しぶりの3連休であった。今回車で川崎に帰った。妻は同窓会出席の為、実家に戻ったので子供たちの面倒を見ることになった。初日は横浜の”ふれーゆ”という温水プールと温泉のくっついた施設に行った。

昼から夕方まで子供たちは大いにプールで楽しんでいた。俺は子供たちの持ってきた大きなボード板が他の人の迷惑にならないか気を使いながら見ていた。そのうち疲れてジャグジーにつかりながらぼっとしていた。

子供たちはたまに係りの人に何か注意を受けながら遊びまわっていた。その後は温泉に入ってのんびりした。横浜の海が見えるのだ。ベイブリッジ、つばめ橋も見える。

その日の晩飯はインスタントカレーである。マサキが全部作ってくれた。驚きだ。後片付けもマサキを中心にやっていた。洗濯機も普段使わないので、使用方法が分からない。俺が郡山で使っているのはシンプルだが川崎の洗濯機はやや複雑だ。マサキは妻と電話でやり取りして分からないところを聞いていた。中学生になるとやっぱり違うな。感心するよ。

翌日はラウンドワンのスポッチャに行ってきた。俺は大宮の鉄道博物館に行きたかったが子供たちは体を動かして遊ぶ方がいいみたいだった。俺が考えたのは鉄道博物館以外に、テレビ好きの子供たちの為に、フジテレビ、テレビ朝日も候補であったが、結局ラウンドワンに行くことに決定。

朝9時前に出発して午前中フルに遊んだ。サッカー、卓球、バスケットボール、ボール投げ、基礎トレーニング、ボクシング、レーシングゲーム、野球ゲームなど大いに楽しんだ。俺は翌日体が痛くなった。久しぶりに体を動かしたからだ。

3連休最終日はディーラーに車検の見積もりに行った。車をチェックしている間、コンタクトレンズを購入の為眼科と目の検査を受けた。最近見えづらくなってきたからだ。数年間同じ度数のコンタクトレンズを使っているが少し前から見づらくなっているのだ。少し強めの度数に変えようかな。

俺はいつも2週間用のコンタクトレンズを使用しているが今回お試しで使用するのは1ヶ月ものだ。俺は初めて使う。とりあえず1ヶ月分のレンズ代がタダになった。おまけに2週間用のレンズも1セットもらった。お得だ。

そして休み明けにマサキは英単語のテストがあるとのことで、覚えたかどうかの確認テストをやった。まだまだ不十分だ。しっかりと単語を覚えろよ。

俺も英語は苦手で中学生の頃あまり勉強した記憶がない。テスト前に集中的にやっていたもんだ。しかし今思うとそれは大間違いだ。語学は地道に少しづつ記憶していくと忘れなくなるものだ、ということが今英会話を学んでよく分かった。俺は毎日暇を見つけて単語帳を眺めているのだ。英語、ドイツ語、中国語。そうすると忘れないのだ。

さてあっという間に3日間の連休が終わった。妻が夕方名古屋から戻ってきて、入れ替わりに俺は郡山に出発だ。普段子供たちと接する機会がなかっただけに今回の3連休は朝から晩まで一緒にいることができた。
10月20日
 少し前、普通の家のホームページが突然見れなくなった。俺は驚いた。なぜだろう。みなさんも驚かれたでしょう。原因は全く分からなかった。

俺はいつものように、ある日の一言を書いて転送したら、このファイル容量がゼロになってしまった。何度やっても同じだ。次に俺は普通の家の最初のタイトルページを転送した。するとそのファイル容量もゼロになってしまった。これがホームページが見れなくなった原因であった。

しかしヤフー検索で、ある日の一言を探してクリックすると、そのページは見ることができた。これは不思議だ。なぜだろう、とず〜と悩んでいた。そしてようやく原因が分かった。転送する際、下のほうにメッセージが現れていたのだ。

スペースがありません。スペースということはホームページの規定容量をオーバーしているということか。俺はだいぶ前にそのことを知っていたが、問題なく送れていたので気にしなかった。しかし突然見れなくなって思い出した。規定容量が15Mだがどれぐらいオーバーしているのだろうか。どの程度消せば良いのだろうか。本当にその推測が当たっているのか。いろいろ考えた結果、アップしているデータを少しづつ消すことにした。

海外旅行写真集を消したがまだだめだ。そしていろいろ消したところでようやく、新しいファイルを転送することができた。やっぱり規定容量オーバーか。今まで何の警告もなかったが突然発生した。もしかすると機械的に何らかのプログラムを入れて実施したからか。プロバイダのホームページを見ても何も書いてないし、俺宛に直接メール連絡があったわけでも警告もなかった。

まぁとりあえず復旧してよかった。ただし見れないページはどこか他のところにアップできるようにしよう
9月25日
台風15号が福島を直撃した。郡山市、須賀川市は冠水による床上床下浸水で悲惨な状態になった。俺が住んでいるところでも台風直撃の夜20時頃にテレビのテロップで避難指示が突然出された。阿武隈川流域に住んでおり氾濫の危険があるとのこと。

外は風雨が強い。いったいどこに逃げるのだろう。住んでいるアパートの住人達は非難する気配がない。外を見ても水が押し寄せてくる気配もない。会社から帰るときに近くのスーパーに寄ろうと普通に車を運転していたら突然大きな水溜りがあり、車が水を跳ね上げた。300mぐらいに渡って道路がすでに冠水していたのだ。

車は超スローでそこを通り抜けた。わぉ、すごいな今までここまで冠水したのを見たことないぞ。その日の夜に避難指示がでたものの俺は洪水の起こる気配もなく逃げる場所も分からずアパートにいることにした。次の日会社に行くと警察が検問をやっており通行止めになっていた。俺は会社まで行きたいことを伝えると、すでに会社の付近は冠水していて通れないとのこと。俺は検問を通してもらい会社の近くまで行くと道路一面水が冠水していた。

 
         住宅街も冠水                     阿武隈川は危険水位を超えた

こりゃ、ひどいや。結局その日は自宅待機になり帰ることになった。帰りは渋滞がひどく車でわずか数分のところを30分以上かかった。大通り、裏通りとも渋滞で全く車が動かない。アパートの周囲もひどい渋滞であった。その後、歩いて阿武隈川を見に行くことにした。すると道路をはさんで俺が住んでいるほうは僅かの冠水であったが、反対側は大きな池になっていた。テレビのヘリの中継を見ると数キロに渡って道路、家が冠水していた。

   
  
    根こそぎ倒れた庭木             今にも溢れそうな阿武隈川

ひどいところは車が埋まるほど冠水していてホテルの上層部では救助を待つ人が見えた。消防自動車のサイレンが渋滞している道路から響き渡り、阿武隈川の堤防には10台ぐらいのポンプ車が冠水した住宅街の水を引いて川に流していた。床上浸水の家が何十件もあり消防隊員が助けていた。

 
ここから数キロに渡って冠水している。ホテルには救助を待つ人も。ポンプ車が住宅街の水を引き川に放水。

金曜、土曜は東京で会議がありプレゼンする予定であったが俺は出席しなくてもよいということになり、復旧活動をすることになった。翌日の金曜には水が引いたので後かたづけをすることになった。俺は気合を入れすぎて腰を痛めてしまった。さてこれからいったいどうなるのか。地震の次は洪水か、今年はいろんなことが起きるな。
9月11日
郡山はあいかわらず暑い日が続く。朝夜はだいぶ涼しくなってきたが、日中はまだまだ暑い。家に帰ってくると部屋が蒸し風呂のようになっている。7月、8月の真夏日はいつもそうだったが冷房をかけて部屋を冷やす。そして寝るときは窓を全開にしてエアコンを切る。

しかし本当に暑いときは夜眠れない。エアコンを切ってから数時間は熟睡できるが、暑くなると目が覚める。そして一度目が覚めると眠れなくなる。

そんなときは再びエアコンをつける。冷房とドライを使い分ける。それでも昨年の8月と今年の8月の電気代を比べるとかなり違っていた。今年は電気使用量が大幅に減っていた。意識していたためだろう。

休日の日中はできる限り電気代を使わないように外の建物で涼んだり、駅構内で涼を求めてうろうろしたりと。あるいは外を歩いて運動をしていた。いろいろ工夫して電気を使わないように心がけていた。

しかし夜暑くて寝れないるときは睡眠不足で仕事に差し障りがあるのでエアコンをつけて寝ていた。それでも昨年に比べると電気代がかなり安かったということは、昨年全く何も考えずにガンガン電気を使っていたことになる。意識するとやっぱり違うんだな。その代わり今年はビールを飲みすぎたかな。
8月28日
福島に転勤してきて1年半が過ぎた。12月になると2年目を迎えることになる。あらためて考えるとまさか単身で郡山に転勤するとは思わなかったし1年半も1人で住むとは思わなかった。その間マサキも中学生になりショウヤも高学年になった。妻には本当に感謝している。

川崎に戻るのに以前は高速バスをよく利用していた。東京ー郡山間はJRバス、さくら観光が高速バスを運行していて、さくら観光は震災前、料金がなんと片道2300円だった。震災後は3000円に値上がりしている。

新幹線を利用すると自由席でも片道6300円だからバスがかなり安いことが分かる。しかしバスはトイレがない。高速で2回トイレ休憩するので我慢することができるが、自分が行きたいときにトイレに行けないのが不安である。おまけに座席が狭い。隣に人が座ると窮屈で同じ姿勢で長時間座っているのはつらいのだ。

ただ夏の今は普通電車で川崎ー郡山間を移動している。18切符が使えるからだ。5回分11500円で販売されていて、1回分2300と今の高速バスの価格よりお得なのだ。18切符とはJR1日乗り放題切符のことだ。高速バスは東京で乗降するから、東京から川崎までは電車代がかかるが、18切符だと2300円でどこまで乗ってもこの価格で安いのだ。この18切符だといろんなところにお得に行ける。

俺は郡山にいるとき休日はNOVAに行くか、何か祭りやイベントがあれば見に行こうと心がけている。せっかく郡山にいるから郡山でしか見聞きできないことを体験しておこうと思っているのだ。

先週土曜日は仕事があったが須賀川の花火大会があるというので見にいった。郡山地区ではかなり大きな花火大会らしくJR駅構内にもイス席と切符のセットが販売されていた。昨年も見たが人が多くてかなり離れたところから見たので、今年は近くまで見ようと人をかきわけて行った。花火を見上げるぐらいのところで見ると絶景であった。おまけに爆風がすごい。花火ってこんなにすごいもんだったのか、と非常に驚かされた。


須賀川の花火は盛大であった

そういえば昨日テレビで隅田川の花火大会がやっていたが、川崎の自宅から見ることができるのだ。最上階まであがって目をこらすと小さく花火があがっているのが見える。ちなみに東京タワーの光も遠くに見える。昨日はショウヤと一緒に双眼鏡を片手に遠くの花火を見ていた。

8月前半は東北地方の祭りがいろんなところで行われる。仙台の六魂祭で東北6県の祭りを見たが、各県で催される祭りは見たことがない。郡山からだとちょっと足をのばせば各県の有名な祭りを見ることができる。しかしほとんどの祭りが8月上旬の土日に集中しているのだ。

俺は18切符をフル活用して2日間で祭りを見ることにした。福島のわらじ祭り、仙台の七夕祭りと郡山のうねめ祭りを見ることができた。本当は青森のねぶた祭り、秋田の竿灯祭り、山形、岩手のそれぞれの祭りも見てみたいがさすがに普通電車で見に行くには距離が遠すぎた。

 
郡山のうねめ祭り                       仙台の七夕祭り



福島のわらじ祭り


あと茨木の水戸には水戸黄門祭りもやっているのだ。水郡線というのがあって郡山ー水戸間を3時間で結んでいる。少し前に18切符を使って行ってきた。そこで初めて知ったのが水戸黄門祭りであった。残念ながら祭りは8月上旬で東北の他の祭りと重なっていたので行けなかったがテレビ水戸黄門の出演者が数名やってくるそうだ。また機会があったら行きたいもんだ。

 
自然の中にたたずむ西山荘


俺は初めて水戸に行った。そのときは西山荘と偕楽園に行って来た。西山荘は水戸黄門が隠居生活をおくっていた場所で、周囲の雑踏から隔離された自然の中にある。偕楽園は日本三大庭園の一つで水戸徳川家の庭園で、森林のような大きな庭園である。

 
映画 桜田門外の変のロケセットと撮影風景


テレビで水戸黄門を見ていてたまに西山荘がでていたので一度は行ってみたいと思っていたところだった。移動は過酷で朝早くに郡山を出発、常陸太田駅まで3時間程度かかり西山荘を見学。それから水戸で偕楽園を見て、映画 桜田門外の変のセットも見学。それから宇都宮経由で郡山に戻った。郡山に着いたのは23時頃であった。朝から夜までかなり歩いた一日でもあった。

 
水戸徳川家の庭園であった偕楽園


歩くといえば郡山で行われたビール祭りのときも開場までの道のりを2往復合した。合計10キロ以上歩いたことになる。休日はできる限り歩くようにしている。たまに歩きすぎでひざを痛めることもある。どこかに出かけるときもできる限り歩くように心がけている。それでも体重はなかなか減らない。歩いた後のビールはうまいからな。祭りにでかけてかなり歩いてもビールとその地方の名物を食べてしまうから体重が減らない。駄目だな。今度の健康診断までにやせなくては。
8月16日
盆休みは11日〜17日まである。10日の夜仕事が終わってから俺はすぐに川崎に向かった。出発したのは19時である。被災証明を発行してもらったので須賀川ICから川口ICまでは無料であった。少し不安だったのが川口の料金所で免許証を提示することだった。

住所変更をしてないので車の免許証と被災証の住所が違うのだ。しかし何の問題もなく通過できた。おそらく同様の単身赴任者はかなりいるのだろう。川崎に到着したのは23時であった。

それからすぐに荷物を積み込んで家族みんなを乗せて妻の実家のある名古屋に向かった。渋滞がひどくて到着したのは朝の8時過ぎであった。結局郡山から名古屋まで12時間以上かかったことになる。疲れた。午前中休憩すると体調は元に戻った。

翌日の夕方名古屋を出発して俺の実家のある菰野町に向かった。またもや高速が渋滞でいつもだと伊勢湾岸道を通って四日市ICで降りるが、伊勢湾岸道が渋滞しているので名古屋高速を経由して東名阪で移動することにした。そして桑名で降りた。そこから一般道で渋滞に巻き込まれて17時過ぎに実家に着いた。

さて14日の朝、川崎に戻るために8時30分に出発した。途中事故渋滞もあり、なかなか車が進まなかったので由比ICで高速を降りて一号線をひたすら走った。小田原から箱根の山を越えるときまたもや渋滞にはまった。

箱根の関所あたりは観光地で大勢の人がいた。西湖ハイウェイから東名厚木、首都高に入り川崎にようやく帰った。結局家に着いたのは19時30分であった。11時間かかったことになる。今回は行きも帰りもかなり時間がかかったよ。本当に疲れたよ。

車で帰るのはさすがに疲れてきたよ。毎回10時間以上も車を運転するのだから嫌になったきた。できれば電車で移動したいもんだ。あるいは帰省を年2回から1回に減らしたいな。今は正月と盆の2回帰省しているが、それを1回にしようか。

マサキは17日から部活があるので今回の盆休みは早めに川崎に戻ってきた。帰った後、15日、16日と2日間ともショウヤと大師プールにでかけることにした。プールは気持ちが良かったが人が多すぎる。もう少し人の少ないプールは無いのかな。俺は17日の午前中に郡山に戻る予定である。
7月23日
今回は仙台に行ってきました。東北六県の祭りが集結した東北六塊祭(ろっこんさい)が16日、17日に仙台の常禅寺通りで行われた。なんと2日間で38万人の観光客が集まったとニュースでやっていた。

人、人、人である。自分の周囲1m以内に10人ぐらいの人が集まっている。メインのパレードは12時から行われた。暑い。汗がしたたり落ちて体中べっとりだ。おまけに人が多くて、熱気がすごい。パレードの場所まで人をかきわけて行ったが一番前の列まで到達することはできなかった。けど俺はよく見えるポジションを確保した。中には遠くからやって来てもパレードを見ることが出来なかった人もいたらしい。

 
パレードの場所へ移動する秋田の竿燈(かんとう)祭りの提灯行列である。


 
福島のわらじ祭りの行列である。わらじの向こうに見えるのはダックツアーのバスだ。バスの中には戦国武将の伊達政宗が乗っていて大声で叫んでいるのだ。だからみんなバスの方を向いているのだ。


 
人、人、人である。俺は人をかきわけてようやく見える位置までやってきた。新青森まで開通した新幹線はやぶさも登場した。


 
少し見づらいけど山形の花笠まつりである。     これはあの有名な青森のねぶた祭りである。


 
ねぶたの勢いはすごい。今回のねぶたは一回り小さいそうだ。さてそれより驚いたのは秋田の竿燈まつりである。たくさんの提灯を腕力の強い男達が片手で操っているのだ。


 
中には竿を肩にのせたり、腰にのせたりと絶妙のバランスで持ち続けているのだ。そしてたまにバランスを崩して他の提灯と接触するのだが、それが倒れそうで倒れない。からまりそうでからまらない。見ていてはらはらするのだ。観客は危なくなると叫んで声援していた。こりゃすごくおもしろいぞ。秋田で本物を見てみたいものだ。

 
祭りの後はテレビクルーが感想を聞いて回っていた。祭り会場を歩くとどこかで見たことある人を発見。おっ、川崎麻世だ。無料サイン会を開いていた。東北復興で来ているんだ。他にも小柳ルミ子も舞台にいた。



多くのスポンサーがついていて無料サンプルを大量にもらった。うれしいね。東北六塊祭はおもしろかった。人が多くて子供づれには大変だっただろう。子供の頃に祭りを見て人が多くて、あまり行きたくないなと思っていたが、大人になって見てみると意外におもしろい。圧倒される。
7月10日
今回は東北の海側の地域の石巻、松島に行ってきた。俺はもし機会があればボランティアで何かの作業をしたいと思っていたがいきなり行っても何もできない。東北がどのような状態にあるのかしっかりと自分の目に焼き付けようと今回は海側の方面にでかけた。

JRのホリデーパスを使うと南は白河から北は石越、東は石巻や女川、西は山形や喜多方まで1日乗り放題になるのだ。ただし普通電車だが。価格は2400円とかなりお得で前回米沢へ行くときも使用したのだ。

仙台を超えて小牛田で乗り換え石巻に行った。駅に降り立つと魚の腐ったにおいとハエがたくさん飛んでいた。さてそこから歩いて港の方に移動すると、信号が消えているところが多く警察官が交差点で交通整理していた。駅がある中心街は電気がきているが、港の方はまだ電気がきてないのである。

 
町は全体的にホコリっぽくマスクをしている人が多い。歩いていくと道路が崩壊している。まだ直してない。壊れた家もそのままで手のつけようがない状態だ。まさに震災の時から時間がとまったような状態である。


 
それでも道路は綺麗に片付けられている。周囲は瓦礫の山だ。また多くの船が撤去できずに放置されている。まさにテレビで見る光景だ。俺はしっかりとこの惨状を目に焼き付けた。途中でボランティアや自衛隊の人達と会い挨拶した。みんな暑い中汗水流して一生懸命に復旧活動をされている。本当に頭の下がる思いがした。俺にはいったい何ができるのだろう。


 
橋を超えていくが歩道は途中で落ちていて通行できない。通常ならこの橋自体が通行止めになっているのだろうが、他に渡る橋がないのか普通のように人も車も自転車も渡っている。もちろん全て車道を渡ることになる。歩いている人は少ないが意外に車の量は多い。警察官ともよく会う。見回りを行っているみたいで俺は何度か睨まれた(ような気がした)。

船がトイレに激突してとまっている。なんて異常な光景だろう。近づくと放置された船に所有者の名前が張られていて何かコメントも書いてある。

 
教会だけが1件ポツリと残っている。周りは何もない。この教会は石巻ハリストス正教会の聖使徒イオアン会堂で現存する日本最古の木造教会建築である。中は悲惨な状態だ。電柱は傾いたり折れたりしている。

石巻から松島へはJRの代行バスが運行している。途中各駅を経由していくが海側を走るため、津波の被害にあったところを通り抜ける。JRの東名駅は駅舎はそのまま残っているが周囲は何も無く、線路自体も流されている。いったいいつ復興できるのだろう。


 
1時間以上かけて松島温泉駅に到着した。ここはあまり被害がなかったのかほとんど建物は大丈夫そうであった。ただ海の中を見るとなにやら沈んでいるのが見えた。離島巡りなどのツアーも行っているらしい。俺が松島に着いたのは夕方5時前だったので残念ながら行けなかった。歩いていける範囲をまわった。夕方の松島は観光客もまばらでなんとなく不気味な感じがした。

6月25日
郡山にいるとき休日仕事がないときはNOVA以外に史跡巡りをやっている。先日は会津若松の鶴ヶ城と会津武家屋敷、近藤勇、土方歳三の墓に行ってきた。鶴ヶ城はこれで3回目だ。城の外壁を長い間修復していて今回は初めて全貌を見ることができた。城は俺にとってパワースポットだ。昔ここで会津藩の人たちが生活をして、戦国時代、明治維新で戦いを乗り越えてきた人々のことを考えるとワクワクするもんだ。


外壁を一新した鶴ヶ城。壮大な城である

武家屋敷は江戸時代の会津藩の家老の屋敷がそのまま残っていて中を見学することができる。これはすごいぞ。実際に暮らしていた屋敷の中を見ることができるなんて珍しい。城の見学も結局外壁は立派な天守閣だが、中身はいろんな展示がされていて、昔の生活を垣間見ることはできないのだ。それがこの家老の屋敷は生活していた状態がそのまま残っている。


大河ドラマ新撰組のロケはここで行われた。会津藩主の松平容保と広沢富次郎の撮影シーンである。役者は筒井さんと矢島さんである。

すぐ近くの山の上に近藤勇と土方歳三の墓がある。全国に何箇所かある墓の一つらしい。俺は汗を流しながら急な山道を登っていった。ここからは鶴ヶ城が一望できるのだ。

別の日は米沢に行った。俺は初めて山形県に行ったのだ。米沢は江戸時代、上杉家の管轄だった。上杉神社と上杉家の藩主代々の墓と博物館に行った。上杉はもともと越後で120万石であったが、関が原の戦いで豊臣秀吉側についたために米沢30万石に減俸。更に江戸時代には15万石に減俸となった。
 
          上杉謙信の墓                       上杉家藩主代々の墓

そこで登場したのが上杉鷹山(うえすぎようざん)である。あのかの有名な、「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」という言葉を残した人である。質素倹約の精神で米沢藩を立て直したすごい人である。

 
         
上杉鷹山公の像                  昔ロボコンが言っていた言葉でもある?

ここにも明治維新後、上杉家の当主が住んでいたという屋敷があって今はレストランとなっている。ここの屋敷も見事で一見の価値ありだ。広い庭園と二階建ての屋敷で中を自由に見ることができるのだ。会津も米沢もいいところだ。史跡を見学するとエネルギーを分けてもらうような気がするのは俺だけだろうか。それとも年をとってきたせいだろうか。

 
明治時代に作られた上杉家の屋敷。中はレストランで見学もできるのだだ。米沢牛何千円とかかれていたが端に飲み物もかかれていたので俺はアイスコーヒー1杯だけ頼んで屋敷内を見学した。


二階建ての歴史ある建物である。二階部分も見学できるのだ。

そういえば思いだしたことがある。以前ある日の一言にも書いたかもしれないが。初代上杉家の当主は上杉謙信である。謙信は元は長尾景虎であった。ビジネススクールの仲間に長尾という名前の人が居て、どうみても武将顔であった。卒業後に彼の就職先である、別のビジネススクールを訪問したことがあって、そのときに聞いてみたら長尾家の直系とのこと。えっ、本当に。長尾家のおきてとして直系の子孫の名前には必ず”景”という漢字を入れなければならないとのこと。へ〜すごいな。先祖が上杉謙信なんて聞いたらぶったまげるぞ。

しかしそういえば我が家も言い伝えでは、祖先は平家らしいのだ。嘘ではない。壇ノ浦の戦いで破れた平氏が三重県伊勢市に逃げてきた伊勢平氏らしい。確かに我が家に伝わる仏教は他と少し違う平安貴族の宗教だ。人里離れた山の中に逃げ込んで、小さな部落を作り生活していたのは間違いない。そうすると先祖は後醍醐天皇になるのかな?
5月29日
震災があってからしばらくNOVAに行ってなかった。郡山駅前は今でも建物が崩れる危険があるということでいくつかの店舗は営業してない。NOVAも震災後しばらくは休業であった。

以前NOVAに行ったのが震災前の3月だったので、6月になると3ヶ月たってしまいもう一度レベルチェックを受けないといけない。俺は何度か、よし今週の土日に行こうと決意するが、予約を入れてないので、やっぱり今日はやめるか、となってしまう。このままだとまずいぞ。あるいは今週は川崎に帰る予定だから行けないな、などとNOVAに行かない言い訳を考えてしまう。

とりあえず予約を1週間前ぐらいに早めにとろう。予約を取ればやる気がでてくるだろう。土曜日の午前中に中国語、日曜日午前中にドイツ語、午後に英語と予約を入れた。久しぶりに行くので、その前に予習をしないと対応できない。

NOVAに行こうと決めた1週間ぐらい前から単語帳を見て記憶を思い出す。俺は覚えることが苦手だが何回も繰り返しやっていると自然に覚えていくものだ。全然やらないと忘れてしまう。当たりまえだけど。

そして2.5ヶ月ぶりにNOVAに行った。中国語、ドイツ語は意外に話せる。単語量、会話量がまだまだ少ないので勉強するのにあまり時間がかからない。

英語の場合は単語量が多いので読み返すだけで何日もかかってしまう。それでも基本の単語しか読み返すことができず、全部は記憶に残らない。まぁNOVAのレッスンでは日曜日の夕方なんとか英語を終えて、そこそこ達成感は残る。家に帰るまでは英語モードになっている。例えば中国語をやった後は中国語モード、ドイツ語の後はドイツ語モードになるのだ。頭の中でその言語が飛び回っている感じだ。

久しぶりにNOVAに行くと、たった一人しかいない外人が滋賀県に異動とのこと。奥さんと生まれたばかりのお子さんが地震後実家に帰っていて戻ってこないそうだ。原発の影響があるから子育ての環境はよくないと判断したのだろう。それで滋賀県のNOVAに空きができたので異動するとのこと。

今日の日曜日にNOVAでお別れパーティをするが俺は川崎に戻ってきたので参加できない。せめて色紙に一言書いてほしいと頼まれたので、俺は子供の頃から好きだった自分で考えた格言を書くことにした。「努力は素質を上回る」。中学生の頃に考えた言葉だ。俺は今でもそう思うし、実行してきたつもりだ。

さてそれを英語で書くにはどうする?そんなこと今まで考えたことがない。俺が思いついた言葉なので既存の英語はない。中国語とドイツ語も色紙に一緒に並べて書こうと思った。英語は単純に努力はeffortかendeavorか。何がいいだろう。他の言葉もあるのかな。painは骨折りの努力、exertionは体力を消耗させる一時的な努力、attemptは試み、企て、努力とある。素質は英語で何?abilityが思いつく。天性の能力だからnatural abilityか、辞書で調べると、maikingは人の素質、aptitudeは学問・芸術習得の才能、素質。capabilityは今後伸びる素質、才能とある。これかな。他にもstuff、tendencyなどある。難しいな。

結局いろいろ考えたが、「Efforts will exceed in your natural capabilities.」 と書いてしまった。今考えると変な英語かもしれない。日本語を直訳しただけだ。中国語は、「尓的努力故超越天性的能力」、ドイツ語は・・・忘れた。また書きます。

英語はいろいろ考えたけどやっぱりうまい英文は思いつかなかった。日曜日の午前中に色紙の話を聞いて、午後急いで3言語を考えたから十分に時間がなかったといえば言い訳だ。他にも、「Efforts will be stronger than your natural capabilities.」などいろいろ考えたが、これもおかしい英文だ。

例えば英会話の中で話すとなるとまた別だ。説明するには長文になる。一言で「Efforts will exceed in your natural capabilities.」と言っても理解しないだろうから、すぐその後に、That's mean, you have natural capabilities. This is a power, not efficent effort, some people have the ability. But I want to say "Efforts will exceed in your natural capabilities." これぐらい説明すると相手はだいたい理解してくれるものだ。

日本語でも努力は素質を上回る、と言っただけでは、えっ何それ、と聞き返してくるだろう。そこで少し解説が必要になる。それは天性の素質というの持って生まれた能力だけど、俺が言いたいのは努力によって十分にそれ以上の能力を身につけることができるのだ、だから努力を怠ってはいけないんだよ、という具合にだ。

さて話は長くなってしまったが、川崎に戻るとマサキは中学生なので本格的に英語を勉強しはじめていた。内容は以前も書いたが英会話中心だ。文法の5文型などまったく見当たらない。やっぱり会話中心がおもしろいよな。俺もそのやり方には賛成だ。英語はコミュニケーションツールだ。何年英語を勉強しても外人と話ができなければ意味がない。会話の中で文法や単語を覚えていけばいいだろう。

更に中学生の教材を見ると発音がおもしろい。ひらがなで発音が書かれているのだが、俺たちが勉強したときに教えてもらった発音がより英語に近いように表現されている。例えばwatch、だが俺たちはウォッチと教えてもらった。教材にもウォッチと書かれていたが、今はワッチと書かれている。他にもdrama、これはドラマだが、今はドゥラーマと書かれている。おもしろい。発音がより英語に近くなっている。
5月15日
久しぶりに魚釣りに行ってきた。もちろん福島ではない。川崎のいつもの釣り場だ。ショウヤに声をかけると一緒に行くという。ようし久しぶりに親子で釣りをしよう。

川崎の釣り場はあいかわらず休日なのに人が少なくて釣りやすい。最初の一回目を投げるとさお先がかすかに動いた。おっ、幸先のよいスタートだ。俺はすぐにリールを巻くと小さなハゼが釣れていた。ショウヤは小さいから逃がしてやろうよ、と言う。そうだな、小さい魚はリリースだ。もっと大きくなれ。

今の時間帯は魚がエサを食べる時間らしくて、エサがすぐになくなる。ようしこれはチャンスだぞ。数回投げた後、少し大きめの引きがきた。よしきた。リールを巻き上げるとキスがついていた。久々のキスだ。やったぞ。それからは数時間全く釣れなくなりショウヤもお腹が痛いとうずくまっていた。それじゃ、帰るか。

家ではキスのフライを食べた。ほとんどショウヤが食べた。やっぱり釣れたての魚はうまいよ。また釣りに行きたいもんだ。マサキは食べないと言う。なぜかと聞くと、放射能で汚染されているかもしれないからとのこと。汚染されている可能性が少しでもあるなら、やはりそれを避けたいとのこと。そんなことを言うこと自体が風評なんだよ、と俺は少し文句を言った。

確かに海はつながっているのでもしかすると放射能に汚染されているかもしれないが、まず川崎はあり得ない。俺はだから声を大にして言った。そういうことを言う人が風評被害を作り続けているんだよ。福島周辺の海域で取れる魚、せっかく漁師さんが取った魚を食べないと、生活も成り立たない。放射能の汚染は測定しており危険区域は決められている。

食べ物の放射能も測定されている。もし川崎の魚が駄目なら誰も釣りに来ないし、へたしたら海に誰も近づかないだろう。マサキの言う、もしかすると汚染されているかも、という気持ちも分かるが、そんなことを日本人全員が言っていたら日本の経済が成り立たなくなる。

原発で一生懸命に働いている人たちはどうだろう。家族の人は本当に心配しているだろう。それでも日本のことを考えて働いているのだ。自分だけは助かりたいから協力しない、なんてこと言っていたら駄目だ。コマーシャルでもやっているけど、今自分にできることをすること。東北の食べ物を買って食べることも、その一つだろう。

特に俺が福島で働いているから余計そう思うのだ。周囲の人はとやかく言いたいことを言っているけどそこで働いている人がいったいどんな気持ちで働いているのか。親、家族は本当に放射能大丈夫なの、とよく言っているが、そんなこと言っていたら仕事もなくなるし、そこで働いている多くの人がいるのだ。福島の人の多くは、自分だけが助かりたいなんて思ってない。そう思う人は既に県外に脱出している人だろう。原発では死と隣りあわせで働いている人もいるのに、そういう人達に対して申し訳がたたないと思わないのだろうか。

俺は今福島で働いていることはすごい幸運であり不運でもあると思う。今の俺の状況、考え、気持ちは福島で働いてないと分からないはずだ。俺は単身だが、福島で生まれ育って、自分の家を持っている人なんてどんな気持ちで毎日すごしているのか。

おそらく実際に体験しないと分からないのではないか。福島の人は複雑な心境で毎日を過ごしている。だから県外の人に風評被害に関してとやかく言われると我慢できない気持ちがあるのだ。風評被害に関してはかなり敏感になっているのだ。俺が福島勤務でなかったらまた別の考えだったかもしれないが。


話は変わるが、昨日はマサキの学校の体育祭があった。俺は非常に楽しみにしていた。小学校の頃、スーパー小学生だったマサキは中学でもずば抜けて活躍するんだろうと思っていた。だがマサキは足を1ヶ月前から痛めていてまだ直ってない。

それでもリレーの選手として200mを走り抜けた。リレーの一番手だったから俺は間違いなく1位だと期待していたが残念ながら2位であった。なんとなく小学校のほうが速かったような気がした。足が痛いのか、あるいは200mだったからか、最後の50mは疾走していた。いままで200m自体があまり走ったことがないのだろう。全力で走り抜けても最後には力が尽きてくるみたいだ。

終わった後マサキに聞いたらコースも大切だという。最初のスタートするコースの場所によっても順位が変わってくるそうだ。確かにそうかも知れない。200mは運動場を1周するから目の前に走っている人を追い抜くには横からすり抜けるしかない。直線だといいかもしれないがRになっているところだとどうしても追い抜くには余計に距離を走る必要がある。

しかし2、3年生の走りはやっぱり違う。俺は感心した。最後の最後までペースを落とすことなく走り抜けるのだ。やっぱり違うな。

マサキは足を痛めながらもリレーの代表、別のグループの1年生のリレー代表、更に体育祭の運営の手伝いとしきりに動き回っていた。すごいぞ。さすがマサキだ。1年生の中ではクラス別結果は1位になっていた。おめでとう。

俺たちは体育祭が始まる30分前に学校に行ったが、驚くべきことに親たちはほとんど来てない。小学校の運動会なんか場所取りで朝の4時すぎぐらいから並んでいる人がいるのに。俺たちは一番前の見やすい場所を陣取った。

体育祭が始まり競技が行われても見ている人はまばらである。そんなもんなのか。それでも午前中が終わる頃には大勢の人が集まっていた。ショウヤは退屈なのか暑いのか寝転がって競技をあまり見ていなかった。

そして弁当を食べたら家に帰ると言い始めた。やはり俺の予想通りだ。朝から夕方までショウヤがじっと同じところに座ってがまんできるはずがない。結局ショウヤは午後に家に連れて戻った。

それにしても暑い。俺の手、顔は日焼で真っ赤になっていた。夜風呂に入ると痛くてひりひりした。次の日も真っ赤かでかなり痛いのだ。
5月3日
マサキ、ショウヤの子供の部屋に日記コーナを作りました。気が向いたら子供たちが日記を書いて更新します。是非みなさん読んでください。
5月2日
GWに入ったけど、仕事が忙しいので初日は出勤した。今年は6日間もあるけど何をしようかな。まぁ一日目は仕事だったから5日間になったけど、それでも長いゴールデンウィークだ。

スタッドレスを夏タイヤに交換するから車で川崎に戻ってきた。高速でなんとなく車の音?、タイヤの音?が高くなったので点検することにした。ディーラーに持ち込んでみてもらう。そしてついでにタイヤ交換もやってもらうのだ。毎日通勤で車を使っているから点検はしっかりとやらねば。

昨日はショウヤと温水プールにでかけた。プール大好きのショウヤは俺が帰る前から希望していたみたいだ。ショウヤは体力をつけるのに俺をおんぶして25メートルのプールを往復しはじめた。俺は途中で何度もやめるか、と言ったがまだやる、と続けて結局350メートルも歩くことになった。すごいぞ。

ショウヤはかなりの負けず嫌いで2年生のときも腹筋を一気に200回もやってのけた。マサキと競争していたが結局単独で200回を達成した。俺はそのとき非常に驚いた。そのやる気はいったいどこからでてくるんだ。親としてはそのやる気を本人にとってプラスの方向に導いてやることだろう。

家族みんなでどこかにでかけよう。スカイツリー付近の散策もいいな。いつも高速バスで東京-郡山間を移動するとき首都高でスカイツリーの横を通り抜けるけど、どんどん高くなっていくのだ。いつも見てるけど付近を歩いたことはない。スカイツリーの近くには浅草もあるから久しぶりにみんなで行ってみるか。

マサキが中学に入学し陸上部に入部した。学校生活は楽しいらしい。今のところ授業は簡単だそうだ。しかしこれからどんどん難しくなるからな。しっかりと勉強をするように。教科書を見せてもらった。今までよりも厚いらしい。ゆとり教育の見直しでカリキュラムが変わり勉強することが増えたそうだ。いいことだ。

英語の教科書を見せてもらった。内容は英会話がメインらしい。テキストも会話形式で書かれていた。俺は中学の頃あまり英語を勉強しなかったから受験のときに非常に苦労したことがある。マサキにはそうならないように英語はしっかりと勉強するように言っている。

受験には必ず英語が出てくる。高校受験、大学受験、大学院もそうだ。博士課程でも英語は出てくる。社会人になってグローバルの世界を生き抜くにも必要だろう。何かにつけて英語は必要なのだ。そういう自分は震災前にNOVAに行ったきりそれ以降勉強できてない。人のこと言えないな。自分もしっかりとやらねば。

体力測定で50m走のタイムを測定したそうだ。小学校では足が一番速かったが中学ではどうだろう。世間には自分よりすごい人がたくさんいるから足が速い人もいるんだろう。5月14日には体育祭があるそうで本人は800mリレーに立候補したそうだ。よしマサキえらいぞ。見に行くのが楽しみだ。
4月17日
震災で被害にあった人の生活を考えると、マズローの欲求を思い出す。あのピラミッド型の欲求図のことだ。

まず人は生きるための欲求がある。それが生理的欲求だ。震災で津波にあったりしたが、まずは生き延びようとする欲求が人にはある。それは食料、飲料を確保したいという欲求も含まれる。

そして次に現れるのが安全を求める欲求だ。とりあえず生活に困らなくなったら安全に生きたいという欲求が出てくるのだ。まさにマズロの欲求を短期間の間に段階を移動していく状態が見られる。すごいな。

以下はウィキペディアから抜粋したマズローの欲求です。

マズローは、人間の基本的欲求を低次から

  1. 生理的欲求(physiological need)
  2. 安全の欲求(safety need)
  3. 所属と愛の欲求(social need/love and belonging)
  4. 承認の欲求(esteem)
  5. 自己実現の欲求(self actualization)

の5段階に分類した。このことから「階層説」とも呼ばれる。また、「生理的欲求」から「承認の欲求」までの4階層に動機付けられた欲求を「欠乏欲求」(deficiency needs)とする。生理的欲求を除き、これらの欲求が満たされないとき、人は不安や緊張を感じる。「自己実現の欲求」に動機付けられた欲求を「成長欲求」としている。

人間は満たされない欲求があると、それを充足しようと行動(欲求満足化行動)するとした。その上で、欲求には優先度があり、低次の欲求が充足されると、より高次の欲求へと段階的に移行するものとした。例えば、ある人が高次の欲求の段階にいたとしても、例えば病気になるなどして低次の欲求が満たされなくなると、一時的に段階を降りてその欲求の回復に向かい、その欲求が満たされると、再び元に居た欲求の段階に戻る。このように、段階は一方通行ではなく、双方向に行き来するものである。また、最高次の自己実現欲求のみ、一度充足したとしてもより強く充足させようと志向し、行動するとした。

@生理的欲求(physiological need)
生命維持のための食事・睡眠・排泄等の本能的・根源的な欲求
極端なまでに生活のあらゆるものを失った人間は、生理的欲求が他のどの欲求よりも最も主要な動機付けとなる。一般的な動物がこのレベルを超えることはほとんどない。しかし、人間にとってこの欲求しか見られないほどの状況は一般的ではないため、通常の健康な人間は即座に次のレベルである安全の欲求が出現する。
A安全の欲求(safety need)
安全性・経済的安定性・良い健康状態の維持・良い暮らしの水準、事故防止、保障の強固さなど、予測可能で秩序だった状態を得ようとする欲求
病気や不慮の事故などに対するセーフティ・ネットなども、これを満たす要因に含まれる。
この欲求が単純な形ではっきり見られるのは、驚異や危険に対する反応をまったく抑制しない幼児である。
一般的に健康な大人はこの反応を抑制することを教えられている上に、文化的で幸運な者はこの欲求に関して満足を得ている場合が多いので、真の意味で一般的な大人がこの安全欲求を実際の動機付けとして行動するということはあまりない。
B所属と愛の欲求(social need/love and belonging)
生理的欲求と安全欲求が十分に満たされると、この欲求が現れる。
情緒的な人間関係・他者に受け入れられている、どこかに所属しているという感覚
かつて飢餓状態であった時には愛など不必要で非現実的だと軽蔑していたことを忘れ、今や孤独・追放・拒否・無縁状態であることの痛恨をひどく感じるようになる。
不適応や重度の病理、孤独感や社会的不安、鬱状態になる原因の最たるものである。
C承認(尊重)の欲求(esteem)
自分が集団から価値ある存在と認められ、尊重されることを求める欲求 
尊重のレベルには二つある。低いレベルの尊重欲求は、他者からの尊敬、地位への渇望、名声、利権、注目などを得ることによって満たすことができる。マズローは、この低い尊重のレベルにとどまり続けることは危険だとしている。高いレベルの尊重欲求は、自己尊重感、技術や能力の習得、自己信頼感、自立性などを得ることで満たされ、他人からの評価よりも、自分自身の評価が重視される。
この欲求が妨害されると、劣等感や無力感などの感情が生じる。
D自己実現の欲求(self-actualization)
以上4つの欲求がすべて満たされたとしても、人は自分に適していることをしていない限り、すぐに新しい不満が生じて落ち着かなくなってくる。
自分の持つ能力や可能性を最大限発揮し、具現化して自分がなりえるものにならなければならないという欲求。すべての行動の動機が、この欲求に帰結されるようになる。
これら5つの欲求全てを満たした「自己実現者」には、以下の15の特徴が見られる。
1.現実をより有効に知覚し、より快適な関係を保つ
2.自己、他者、自然に対する受容
3.自発性、単純さ、自然さ
4.課題中心的
5.プライバシーの欲求からの超越
6.文化と環境からの独立、能動的人間、自律性
7.認識が絶えず新鮮である
8.至高なものに触れる神秘的体験がある
9.共同社会感情
10.対人関係において心が広くて深い
11.民主主義的な性格構造
12.手段と目的、善悪の判断の区別
13.哲学的で悪意のないユーモアセンス
14.創造性
15.文化に組み込まれることに対する抵抗、文化の超越
マズローの欲求を詳しく知りたい人はインターネットで調べてください。
4月16日
余震が頻繁に起こっているが、震度3程度では仕事中みんな黙々と作業している。揺れることに慣れてしまっているのだ。郡山は大きな被害が少なく今は普通のように生活している。スーパーで普通に買い物ができるしガソリンも普通のように買える。

しかし原発の放射能問題があるから福島に対するよくない風評が多いのも事実だ。福島産の牛乳、野菜は汚染されてるから買わないなどだ。福島の人は普通のようにスーパーで野菜を買っている。俺が思うにはテレビで流す情報が視聴者に対する影響が大きいのではないか。

テレビを見る視聴者は福島は危険だと思う。確かに危険な画像だがそれはごく一部の地域である。だが視聴者はそう思わない人が多い。おそらく福島県民より県外の人のほうが危機感を持っているのではないか。更に外国の人は日本が危険な国だと思っているのも事実だ。

最近ビジネススクールの先生と連絡を取りあったが、留学生が日本から脱出して戻ってこないらしい。先生いわく、海外のメディアは日本の危機をかなり大きく取り上げており、いろんなところで影響が出ているそうだ。さてこれから日本はどうなるか。福島はどうなるのだろうか。
4月3日
ようやくガソリンスタンドが復旧してきた。まだ閉鎖されているところも多いが、あいているスタンドは車待ちの列がほとんどなくなった。そして1ヶ月ぶりにガソリンを補給することができた。スタッフに聞くと灯油も販売しているとのこと。ようやく普通の状態に戻ってきた。

近くの回転寿司もオープンした。ラーメン屋、カレー屋、その他多くの店が始まった。食料も水もスーパーで調達できる。ただ閉店時間が早いので仕事が終わってから買いにいけないのだ。
コンビニもある程度食料が置かれるようになった。良かった。

原発の放射能は風評が多くどの情報が正しいのか分からないのが問題だ。これが仕事の阻害にもなっている。課員の中にも風評を信じている人がいて怯えているのが分かる。大半は風評を信じずに普通のように仕事をしている。放射能に関して過去に事例がないので、いったい何が本当か分からない。
3月20日
被災地と首都圏を結ぶ高速バスが一部復旧してきたようだ。さて今日は郡山に戻らなくては。黒磯に車が止めてあるから新幹線と普通電車を使ってまずは黒磯に戻る。そこから車で郡山に移動だ。なんとか夕方頃までに到着したいもんだ。

11時に川崎を出発して東海道線に乗り、新幹線に乗り換えた。新幹線はがら空きであった。今の時期に福島方面に行く人は少ない。待ち時間もほとんどなく黒磯行きの列車に乗り込んだ。その列車も人が少ない。8分ほどで隣の駅、黒磯駅に到着した。

そこからは車で移動だ。さてどれぐらいかかるだろう。途中信号の消えた交差点で渋滞したり、片側を工事しているところを通過したりして無事に郡山の家に到着した。夕方4時前であった。あいかわらずガソリンスタンドは閉まっていて補給できない。
3月19日
一部仕事場で作業が始まっていると連絡が入った。原発の事故は大丈夫か? 各国の対処として80キロ圏外への避難勧告、東京以南への避難、日本からの脱出など報道されている。本当に大丈夫か。

JRは不眠不休で作業を行っており頑張っている。我々も多くの顧客ひいてはエンドユーザーである我々消費者に影響を及ぼすので早期の復旧が必要である。月曜日には工場に出社できるように明日の日曜日には郡山に戻らなくては。

この一週間本当にいろんなことがあった。とりあえず毎日を振り返りまとめた。
3月18日
今日はマサキの卒業式である。俺はスーツを着て妻と一緒に出席した。俺が単身で福島にいることは一部の親にも伝わっていて、郡山での惨事を話した。無事でいることをよろこんでくれていた。卒業式は多くの歌が披露され感動的な式典であった。マサキの卒業式を見れて本当に良かった。

卒業アルバムを見ると、尊敬する人というのがあって、みんないろいろ書いてある。女の子はお母さん、とか男の子はお父さんとかある。マサキのところは・・・ボルトと書いてあった。ボルトって誰?俺は知らなかったが陸上の有名な選手らしい。そうだよな。マサキ中学で陸上部に入りたいんだよな。

更に驚いたのはある男の子と女の子は尊敬する人としてマサキと書いてあった。これには俺も仰天した。本当かよ。他にも友人を尊敬する人と書いてあったが、小学校6年生にして尊敬される人で名前が書かれるのは驚いた。マサキ自身も驚いていた。すごいな。

運動能力はピカ一で足の早さは学校一、水泳のときも模範演技をしたとのこと。リレーのアンカーや地区別運動会でも驚異的な運動能力を発揮したらしい。卒業式の後の個別の撮影会でそれがよく分かった。マサキの呼び声がよく聞こえる。一緒に写真とろうよ、と男の子女の子いろんな人から声がかかっていて一緒に撮っている。

中には生徒の母親からも声がかかっていて、「マサキの横で撮って!」、と大人気なのが人目で分かった。運動神経が俺に似なくて良かったよ。卒業式の中で自分の将来の夢を各自が語る場面があった。マサキは陸上選手になって将来はオリンピックに出たいと言っていた。ようし頑張れよ。

俺はマサキが水泳を始めるとき、やるからにはオリンピックに出れるように頑張れと言ったが、マサキは覚えていた。俺はマサキに水泳をやめてほしくなかったが、そこのスイミングは中学生は誰もいないそうだ。俺は続ければいいのにと思ったが結局スイミングはやめる手続きをとった。スイミングの担当者は、個人的にマサキにはやめてほしくないと言っていたがスイミングの能力もピカ一でスクールの中ではS級という最高のレベルになっていた。

足も早いけど恐らく水泳選手としての能力も他の人に比べてかなり高いと思うのは親バガだからだろうか。いやいや隔世遺伝だろう。自分の父親も子供の頃足が非常に早くて水泳もかなり得意で誰にも負けないぐらい運動神経がピカ一であったとよく言っていた。しかし中学になると自分よりも優れた人がいて驚いたそうだ。将来マサキはオリンピックに出ることができるのかすごい楽しみだ。

卒業にあたり両親から本人に手紙を渡すとあって俺は最近1ヶ月近く家に帰ってなかったから妻に頼んで渡してもらった。これからいろいろ大変なことがあるかも分からないが是非あきらめることなく挑戦してくれ、と書いた。それは自分自身に対する言葉でもある。
3月17日
ようやく携帯メールが使えるようになってきた。携帯はまだまだ不十分だ。妻とようやくメールで連絡を容易にとりあうことができるようになった。どうせ会社は休みだし金曜日は休暇を申請しているし両親も含めて家族は心配しているから川崎にとりあえず帰ることにした。

インターネットが繋がりにくいので妻に状況を調べてもらった。俺は車で電車の動いている黒磯まで移動することにした。最初は新幹線の通っている那須塩原まで移動しようと思ったが、駅周辺の駐車場がかなり込んでいるとのこと。

郡山と黒磯は約70キロ。大した距離ではない。4号線をひたすら走ればよいのだ。高速であれば1時間以内に着く距離である。ガソリンはとりあえず大丈夫だ。もし途中で給油できるのであれば補給しよう。

郡山市内は車が少ない。ガソリンがないから車もあまり走ってないのか? しかししばらくすると交通量が多くなってきて渋滞が始まった。信号がついてない。左右からも車が進入してくる。危ないな。白河のあたりから吹雪になってきて視界が悪い。危険だ。

道路に亀裂がはいっているところ、橋は段差ができている。道路の補修で片側通行のところ、家が半分壊れている、お墓の墓石が散乱して歩道まで転がっている、畑は地割れで大きく陥没している。すごい状態だ。これで黒磯まで移動できるんだろうか?

県境あたりは渋滞がひどくて動かない。時間だけがどんどん流れる。ガソリンもどんどん減っていく。途中スタンドが何件かあったが全て閉鎖していた。2時間以上かけて黒磯周辺にたどりついた。せっかくだからスタンドを探してガソリンを補給しておこう。

ところが黒磯も大渋滞である。1キロぐらいの長蛇の車の列ができている。俺は驚いた。先頭は閉鎖されているガソリンスタンドだ。いつスタンドがあくのかも分からないが車が並んでいて大渋滞を引き起こしていた。どこも同じだな。

俺はあきらめて黒磯駅までやってきた。妻が駅周辺の駐車場の空き状況をネットで調べていた。その情報だと那須塩原は新幹線の発着の影響があってか込んでいて、逆に黒磯はあいているとのこと。その通りタイムズの駐車場はがら空きであった。近くに閉鎖されているベニマルの駐車場があいていたがトラブルの元になるといけないので有料駐車場に止めることにした。まぁ、非常事態だから止めても大丈夫だと思うが。

タイムズの駐車場は1泊最大400円で数日程度であれば大した金額にはならない。車のガソリンもスロー運転がきいたのかまだ6分目ぐらい残っている。これならば郡山に戻ってもまだ半分近くあるだろう。

それより駅前は閑散としていて本当に電車がやってくるのかかなり不安であった。ただタクシーが5台ぐらい待っているのを見て駅が機能しているのを確信した。中に入ると1つ窓口があって駅員が他の客の対応していた。次の電車はあと30分後となっていた。

俺は川崎までの切符を買った。黒磯から那須塩原までは普通電車、那須塩原から東京までは新幹線である。俺は切符を買った瞬間、本当に川崎に帰れるんだと思った。それまでは本当に帰れるかどうかかなり不安であった。噂では途中で検問していて首都圏へ入ることができない、ということも聞いていた。

しかし予定していた時刻に電車は来なかった。駅員に聞くと電車はかなり遅れていてあと1時間ぐらい後になるだろうとのこと。本当に大丈夫か? それだったら隣の駅の那須塩原まで僅か8キロ程度だからそこから乗るか。いろいろ考えたが結局電車が来るのを待つことにした。

駅の中も閑散としていた。ラジオを聴いている人が、「ここはラジオが聞きにくいと1人で怒っていた」。みんなかなり不安定な状態になっていた。俺はぼっと線路を眺めながら電車を待っていた。

そしてようやく電車がやってきたが3〜40人ぐらいしか乗ってなかった。かなり少ない。そりゃそうだろうな。わざわざこっちに来る人はあまりいないだろう。那須塩原までは僅かであった。駅周辺を見ると車ですごい渋滞していた。見た限り空き駐車場はなさそうだった。良かった。黒磯に車を止めて。妻の情報は正しかった。

新幹線は既に止まっていた。待ち時間は30分程度でがら空きだった。グリーン車以外は自由席だった。がら空きだったが出発までにどんどん人がやってきてあっという間に席が埋まってしまった。小さい子供を連れた家族連れ、被災地からきたような人たち、外国人家族、ビジネスマンなどいろんな人がいた。周りから新幹線に乗れた安堵の声が聞こえてきた。

新幹線は予定時刻に出発した。各駅停車で途中多くの人が乗り込んできた。座席は一杯で立っている人も大勢いた。東京に無事到着し俺はその日の夕方無事に川崎の家に到着した。家族みんな俺の無事の帰宅を喜んでくれた。実家にも電話して両親もかなり心配していたが喜んでいた。

俺は一つ驚いたことがあった。家の前の道路が大行列になっている。車の列だ。おそらくガソリンを入れる車だと思うがスタンドははるか1キロぐらい先である。本当かよ。首都圏でこんな状態だったら東北なんて全然ガソリンがまわってこないよ。それ以外は普通の状態だった。郡山は食料が本当になかったが、川崎はコンビにも駅前の店屋も普通のようにオープンしていて被災地とのギャップを感じた。
3月16日
東北新幹線は止まっている。唯一東京から那須塩原まで運行しているとのこと。郡山まできて通れば帰ることができるのだが。普通電車は上野から黒磯まで運行している。高速バスもストップしている。

郡山から首都圏に交通機関を使って移動する方法は完全にない。車で移動するにもガソリンがない片道はおそらく大丈夫だが途中で補給できる保証もない。おまけに高速がストップしているから4号線を移動するしかない。難しいよな。

会社の人と今後の話をした。何もすることがないから酒を飲むしかない。今の不安なことは食料、飲料、ガソリン、灯油、やはりみんな同じだ。さてこれから先いったいどうするんだろう。俺自身は正直言って会社で2回目の揺れがあったときに死の覚悟はした。とりあえず今まで精一杯生きてきたつもりだ。
3月15日
火曜日も復旧作業だ。重量機器を移動するための機器類を借りることができたので大型機器を元の場所に移動し始めた。本社、各工場からの問い合わせも頻繁に入る。東北地方はあいかわらず集配ができないので発送準備ができていても物を送ることができない。

原発の噂がいろいろ流れる。会社のある人が福島原発で親戚が働いていたとのこと。その人がみんなの前に立って叫んだ。「テレビで報道されているのはみんな嘘だ。放射能を探知する人、作業する人がなぜあんなに頑丈な服装をしているのか分かっているのか。危ないからだ。20キロ圏内が安全という保障は全くない。特に雨が降ってきたら要注意だ。放射能を含んだ雨にあたると皮膚に浸透してかなり危険な状態になるのだ」。などなど叫んでいた。

みんなそれを聞いて余計に不安に思い始めた。今日は雨が降る予報だ。俺もそれまではあまり放射能のことを気にしてなかったが、さすがにその話を聞くと不安に思い始めた。しかし逆に風評でないのかとも思った。正直言って放射能の知識は全くない。大学の卒業論文でPWR型沸騰水型原子炉の研究という論文を書いたが、それは原子炉の仕組みを数値計算で考えるという理論的なことだ。放射能のことは全く分からない、というか覚えてない。

本社から突然、明日からしばらくの間郡山地区は休みにするという連絡入った。えっ、本当か。俺たちは内部で検討してとりあえず一部だけ復旧作業することを考えたが、本社からのその後の通達ですぐに帰宅しろとの命令が出た。そして金曜日まで休みにすると決定した。

俺は家に戻ったが何もすることはない。テレビをずっと見ていた。それよりも灯油がなくなりかけていて補給もできない。ガソリンだけは運良く地震が起こる前に補給していて8分目ぐらいは残っている。火曜日の昼から日曜日まで5日間も仕事がないとなると食料、飲料、灯油の心配をしなくてはならない。

俺は今週の金曜日に休みを申請していた。マサキの卒業式に出席するからだ。しかし川崎に帰る方法もないから半分あきらめていた。しかしこのまま郡山にいても野垂れ死に状態だ。川崎に帰る方法があるのかな?
3月14日
月曜日には今後の方針など打ち合わせを行った。とりあえず復旧作業だ。重量機器を移動するためのジャッキ、ハンドリフトなどを確保しないといけない。動かない大型機械はメーカーに問い合わせして修理してもらわないといけない。油配管はどこに亀裂が入っているか分からないがチェックしないといけない。

月曜日の昼飯は弁当屋にまだ食材が残っていたとのことで配達された。しかし明日以降は食材がないため弁当が来ないことが分かった。昼飯がなくてどうするんだよ〜。とりあえずみんな明日から昼飯を家からもってきてもらうことにした。俺もカップラーメンを数個買っていたので明日からしばらくの間は持ってこれる。

ガソリン不足が問題になってきた。ある人は、「家と会社を2往復するとガソリンがなくなります」、と報告してきた。そりゃ、重要な問題だ。俺の場合は歩いて15分ぐらいだから問題ないけど、一時間ぐらいかけて車でやってくる人もいる。スタンドは朝から長い列ができている。別の人もガソリンがなくなるので入れに行っていいか聞きにきた。俺は許可した。ところが数時間後に戻ってくると結局売切れになって買えなかったそうだ。

こりゃ、仕事どころか会社に来ることもできなくなるのではないか? 日常の生活でも車社会の郡山ではガソリンが必要だ。いったいどうする?

ある人は家の屋根瓦が落ちたので昼から休ませてくれと来た。雨が降ると家の中に雨が漏れてくるのだ。みんな本当に大変だ。断水が何日も続いている人は風呂も入ってない。洗濯できなと下着も洗えない。会社に来て頭を洗う人もいた。早くライフラインを復旧させてほしいものだ。

原子力発電所がかなりやばくなってきた。放射能のレベルがどんどん高くなり東京、神奈川、埼玉、千葉、茨木でも高いレベルになっている。ここ郡山は原発から58キロとのことでまだ大丈夫だが、会社の中には30キロ圏内に住んでいる人もいる。今は10キロ圏内は避難、20キロ圏内は屋内にとどまるとなっているが、今後どうなるか分からない。
3月13日
翌日の日曜日も復旧作業を行った。一部の有志が集まって倒れた机、棚、機器類を元に戻した。みんな家のこともあるのに会社に来て一生懸命に作業をしていた。

その頃から食料、飲料、ガソリンがなくなっているという話を聞き始めた。スーパー、コンビニ、ガソリンスタンドは閉鎖されているという噂も流れ始めた。俺は近くのスーパーで数日分の食料を取り急ぎ確保した。

宅配便も東北地方には集配にこないことが分かった。明日から仕事ができるのか? とりあえず生産できる体制を作らなくてはいけない。昼飯は食べられるのか?また余震が起こったらどうするのか?原発が問題になっているが放射能汚染の問題は大丈夫なのか?

俺は地震が起こった直後から考えていたことが頭をよぎった。記録を残した方がいいな。今回起こった地震の状況を写真やビデオで残した方がよいと考えていたが、日々のドタバタで頭からふっとんでいた。携帯の写真で現状をとったがほとんどが復旧作業が終わった後の状態であったが、一部壁の崩壊、天井からの落下物などは記録することができた。
3月12日
みんなの家の話を聞くと悲惨で、壁が崩れたり、瓦が落ちたり、たんすが倒れたり、蛍光灯、食器が割れて家の中に散らかっていて足の踏み場もないなどであった。一番困るのはライフラインの切断だ。多くの家で断水、電気のストップ、ガスのストップがあった。

自分が住んでいるところも地震の直後は全てがストップしていた。トイレに入っても水が流せない。電気がこないから冷蔵庫で保温ができない。風呂も入れない。洗濯もできない。俺の家はすぐにライフラインが復旧した。

また幸運にも会社は水、電気、ガス全て通っていた。会社からポリ容器で運んで水を利用する人もいた。小さな子供のいるところはやはり水が必要である。
3月11日
本日2時46分、大地震が起こった。仕事をしているとき突然起こった。最初は大した揺れでないなと思っていたらどんどん揺れ始めた。誰かが外に避難したほうがいいと、大声で叫び俺たちは急いで外に出た。途中壁が崩れ落ちたり、蛍光灯が落ちて割れてたり、天井からの落下物もあった。

駐車場に出ると地面が大きく揺れていて立っているのが大変であった。アスファルトに地割れが起こり、そこから大きく亀裂が入るんではないかと逃げた。すぐ近くの空には土砂が舞い上がっていて大きな竜巻ができていた。課長としてみんなをまとめないといけない。みんなに落ち着くように言って、点呼をとった。ところが数名足りない。一部は中にいて結局全員が無事であることが分かった。良かった。

駐車場では車の警報器が反応してブーブー鳴り響いている。道路にはまだ走っている車も見られるが、多くは側道に止まっていた。

すごい地震であった。しばらく外にいて、そして中に戻るとまたゆれ始めた。余震だ。これもかなり大きいぞ。天井からホコリが落ちてくる。再び俺たちは外に逃げた。ある人はパソコンが倒れないように懸命に抑えてる。それどころではない。別の人が怒鳴った。「そんなのおさえてるより早く逃げろ」。大きな余震も長時間に感じられた。

外は急に吹雪になっていた。余震が何度も起こるのでいつ天井が崩れるかわからない。外は寒いが中に戻るのは怖い。外は氷点下だが多くの人が外に待機していた。しばらくたち再び俺たちは中に戻った。

工場の中は悲惨な状態になっていた。多くの物が倒れて、何トンもある大型機械が移動していた。棚から重量物が落下していた。もし倒れたときに横を通り抜けていたら大事故になっていたかもしれない。取り急ぎ火事、事故が起こらないように全部チェックした。

携帯を見ると妻から「大丈夫」との連絡が入っており、俺は無事であることを返信した。まだこの時点では携帯メールは通じていた。しかし会社の電話、携帯電話はつながらなかった。その日は早めに仕事を終えて翌日土曜日から復旧作業が始まった。

俺が住んでいるところは大きな被害はなかった。周りの家では瓦が落ちたり、ブロック塀が崩れたりして道路をふさいでいた。近くのローソンに行くとガラスが割れていたが、多くの人が集まっていた。俺も急いで食料、飲料を多めに買い込んだ。しかし当時はまだたくさんの食料が残っておりガソリンが不足するとは全く予想もしてなかった。
2月20日
久しぶりに積雪が20センチを超えた。一晩での降雪としては記録的な数字だった。朝起きて車に積もった雪を落とすことから始まる。さすがにここまで積もると気持ちがいい。車の屋根に雪見大福が乗っかっているようだ。専用の雪かきブラシがあり雪を落としていくのだ。

僅か数分でその作業は終わる。寒いから早く終わらせたいのだ。フロントガラスの雪とフロントガラス付近の屋根の雪をどける程度だ。エンジンはすぐにかけるけどなかなか暖まらない。フロンとガラスに凍り付いている雪が溶けたら出発だ。出発まで5分程度はかかってしまう。ガラスが凍り付いてなければエンジンをかけて1分程度で出発する。

積雪のあった初日は路面があまり滑らない。しかし翌日はガチガチに凍り付いている。会社に行く途中で大型トレーラーと乗用車数台が路肩に止まっていてガードレールがぐしゃぐしゃに壊れていた。なんだ、事故か。トレーラーの荷台から荷物が落ちたのかガードレールを破壊していた。大型トレーラも牽引車で引っ張られている状態であった。事故には気をつけよう。

まだ2月だ。これからも雪が降るから気をつけなくては。
2月6日
TBSのエキストラ募集をチェックしていると、毎週日曜夜9時に放送している「冬のサクラ」を見つけた。場所は川崎周辺ときた。もしかしたら川崎の家の近くかもしれないぞ。それも本日日曜日である。久しぶりに応募しようかな、と思ったが気力がなくやめた。

妻にそのことを話すと、「えっ、やりたいな〜」といつになく乗り気である。理由を聞くと、その番組をいつも見ていてある俳優のファンらしい。へ〜、そうか。ただエキストラといっても俳優と話をする機会はまずほとんどと言っていいぐらいないのだ。もし近くにいてもむやみ勝手に動いて話しかけるなどできないのだ。

今回は病院のシーンを撮影するらしく、患者役、医者役などがあるそうだ。撮影はいたるところでやっていてほぼ毎日エキストラ募集がかかっていた。

しかし俺が今まで出たテレビと大きく違うのは、このエキストラはボランティアエキストラである。つまり無報酬なのだ。交通費も食事もまったくでないのである。今まで俺が出た番組では必ず何らかの報酬があったのだ。お金でなくてもTBSの腕時計とか、携帯ストラップであったりとか。

俺はたまたま健康診断の二次検診の為に今週は川崎に帰っていた。ただ日曜日の午後には家を出発して郡山に帰らねばならず、エキストラまで気力が回らなかった。5、6年前であれば、ようし応募するか、と思ったかもしれないが今回はせっかく川崎で撮影だったけどやめることにした。

まぁ、応募しても倍率が高くて落とされる可能性もあるんだが。俳優の卵とか研修生がおそらくたくさん応募してくるのだ。
2月5日
2週連続でカレーを作った。8人分を一気に作り晩飯は毎日カレー生活であった。男の手料理、今回はカレーバージョンである。

日曜日にカレーを作ることにした。食材は近くの安いスーパーで購入した。具材は玉ねぎ、ジャガイモと安いものだけを購入した。入れるのはそれだけである。量は半場じゃなく、玉ねぎ4個、ジャガイモ3個。玉ねぎは皮をむいて4分割に切った。

ジャガイモは電子レンジで暖めて皮をむいて丸ごと入れた。10分ほどでぐつぐつと煮だってくる。カレーの固形ルーの箱の裏に作り方が書いてあるが、そこには20分ほど煮込むようにと書かれている。玉ねぎなどはまだまだ固い。

それから俺はNOVAに行くためしばらく家をあけなければならなかった。そこで秘密兵器の登場。ナベをバスタオルでぐるぐる巻いてテーブルの上において置く。放置するのだ。妻が料理のとき煮込みを作るのにタオルで包んでいたのを覚えていた。妻が自分で考案したそうだ。

俺はNOVAにでかけた。そういえばNOVAの話題を書いてなかったけど、俺はちょこちょこと暇を見つけては行っているのだ。もちろん英語、中国語、ドイツ語だ。ちなみに12月は11回レッスンに行った。そのとき10回以上出席すると1冊本がもらえるというお得期間であった。俺はドイツ語の単語本(1500円)をゲットした。

そうだ、あとヤフー検索で「英語中国語ドイツ語」とキーワードを入れると、「英語 中国語 ドイツ語会話への挑戦」と我がページが検索されて出てくるのだ。すごいね。

さて2時間ぐらい経過して家に戻ってナベの中を見るとまだまだ湯気が出て熱いのだ。すごいぞ。火もないのにただのバスタオルで数時間も保温が効くのだ。そして玉ねぎをみると箸がすっと通るぐらいふちゃふちゃになっているのだ。じゃがいもも溶け始めている。妻が考案した温度保存の方法が大成功だ。

次にカレーの固形ルーを入れてかき混ぜていると、そこで俺は気付いた。そうだ、ほうれん草も買ってあったんだ。俺はほうれん草をざっと洗って根っこを切ってナベに入れた。根っこのところをよく見ると砂が残っていた。

あれれれ、もしかするとほうれん草は砂がけっこうついてんのかな。俺はほうれん草をよくみると砂らしきものがカレーと混ざっていた。ええい、面倒くさい。このまま食べてやれ。カレールーと混ざった砂を取り出すのは無理だった。

あるいは砂ではなくて他の具材かもわからない。ちなみにほうれん草も切らずに丸ごと入れたのだ。

さて7分ぐらいでルーは完全に溶けて美味しそうなカレーができた。その味は、絶品だ。野菜がかなり溶け込んでいて濃厚な味になっていた。写真はまたアップします。ただ多少じゃりじゃりと砂も混ざっているが、そんなのこの味を考えたら問題ない。うまいカレーだった。俺は4日間かけてカレーをひたすら食べ続けた。

そのカレーの味が忘れられず次の週もカレーを作ることにしたのだ。
1月30日
最近撮った写真を更新します。

朝仕事に行く前の車のフロントガラスです。今日の最高気温も氷点下。雪の結晶がガラスにへばりついています。


スキーに行ってきました。磐梯熱海を過ぎると積雪が増え始め猪苗代湖付近は雪の壁ができてます。30分ほど走ると辺り一面銀世界が広がってます。

 

50分ほどでリステルスキー場に到着。家から一番近いスキー場でリフト券も午後券が2300円とリーズナブルです。積雪70cmとこの辺りのスキー場の中では少ない方だが交通の便もよくスキーも十分に楽しめるのだ。2年ぶりのスキーである。運動不足の解消にはもってこいだ。

 

山頂付近は綺麗な樹氷がたくさんある。いい気分だ。
スキーは2時間ぐらい滑り、その後リステルホテルの温泉に入りました。露天風呂があって気持ちいいのだ。風呂は数人が入っているだけで、のんびりと入ることができた。温泉はやっぱりいいな。

単身赴任生活を1年続けるとさすがにコンビニ弁当も飽きてくる。男の手料理ということで最近いろいろ作るようにしている。今日の晩飯は超簡単なマーボー春雨豆腐。豆腐1庁とマーボー春雨の元を混ぜるだけ。

面倒くさいから豆腐は切らずに丸ごと入れる。フライパンの上で箸で豆腐をぶった切る。あっというまに出来上がり。俺は隠し味として豆板醤を入れた。これがまた辛いのなんの。汗をかきながら美味しく食べました。

1月15日
郡山に引っ越して1年が過ぎました。今年の冬は寒いです。最高気温が氷点下の日もよくあります。積雪もたまにあります。車のフロントガラスがガチガチに凍り付いている日もよくあります。

車で朝通勤中のときウォッシャー液でフロントガラスを掃除したら大変なことになった。ちょうと太陽が正面の目の高さにあって前方の車と重なるから今の時期は正面が非常に見づらいのである。更にフロントガラスも汚いからフロントガラスを掃除しようと思ってウォッシャ液を使ったのだ。それが大間違いであった。

ワイパーを動かした瞬間ウォッシャー液が凍りついて前方が全く見えなくなったのだ。そこは車を止める場所もない。スピードを超スローに落とした。ヒータを全開にしてフロントガラスの氷を溶かそうとしたが駄目である。溶けない。

信号が赤か青かも分からない。ようやく少し溶けた隙間から前方を見ながら運転することに。すると橋手前の歩道の信号が赤になっている。俺は止まった。しかし何か変だ。車が横から出てくる気配がない。よく見ると歩道用の信号は赤だが、車道用の信号は青であった。

危ないな。俺は超スローで後ろの車に迷惑をかけながら走っていた。そしてヒータで少しづつ前が見えるようになった。無事に会社に着いた。いや、ウォッシャ液は怖いな。氷点下でも凍らないと表示してあるけど実際は凍るんだ。温度はマイナス4から5度ぐらいだろう。これからは気をつけよう。


1月3日
明けましておめでとうございます。今年も普通の家をよろしくお願いします。

1999年から書き始めた普通の家も既に12年たちました。その間、脱普通の家を目指して頑張ってきましたがまだまだ努力不足で反省するところが多いです。これからも未来に向かって日々精進していきたいと思いますのでよろしくお願いします。

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