私 の 主 張

 
 

目次

はじめに/皆さんへの期待/人類史上初めて直面する「2つの大問題」/環境問題の解決とは
経済活動の拡大が「環境問題」の主な原因/30年前に行動を起こしていたら



はじめに

私は1973年から95年 までの22年間をスウェーデン大使館科学技術部で環境・エネルギー・労働環境問題を担当し 、これらの分野で日本とスウェーデンの対応を同時進行的にウオッチして来ました。このホームページは、 その体験から得た「私の環境論」に基づて、私が理解した日本と スウェーデンの現状を分析・検証したものです。ですから、別の方が別の視点で両国を分析すれば別の姿を描くことも可能でしょう。

 スウェーデンが年金や医療などの社会保障制度の充実した「福祉国家」であることは、よく知られています 。しかし、「福祉国家」という人間を大切にする社会のあり方は20世紀的で、21世紀には人も環境も 大切にする「緑の福祉国家(エコロジカルに持続可能な社会)」に転換しなければならない、これがスウェーデンの 描く21世紀前半のシナリオです。

 そうしないと、「私たちの社会は将来持続することができない」という危機感が、このシナリオの背景にはあります。


私が皆さんに期待したいことは、「環境問題」に対する私の考え方や「スウェーデン」に関する私の観察と分析をぜひ “批判的な立場で”検証し、日本の将来を「明るい希望の持てる社会」に変えていくために日本の現状を真剣に考えてほしいことです。私たちの子供や孫のために。

たいへんな責任を負った 「日本の団塊の世代」 

スウェーデンの人口は2004年8月に900万人に達しました。日本の団塊の世代(社会の中心に位置し、影響力の強い1947年〜49年にかけて生まれた世代、2005年時点で56〜58歳)は、スウェーデンの人口の80%弱の700万人と推定されています。デンマーク(540万人)、フィンランド(530万人)、ノルウェー(460万人)よりも多いことになります。

 日本の21世紀前半社会を明るく豊にするか暗く貧しくするかは、2007年から定年が始まる700万人の団塊の世代の「少子・高齢化問題」「環境問題」に対する認識と行動とその子供たちの行動にかかっていると言えるでしょう。

 下の図はこれから50年の「将来を決めるのは誰か」を考える重要な図です。2000年に生まれた赤ん坊は生きているかぎり、2050年には50歳になります。同じように、20歳の大学生は70歳に、50歳の人は100歳になります。

 このように考えれば、「明日の社会の方向を決めるのは私たちだけだ」という至極当然のことが理解できるでしょう。とくに日本では、いま、60歳以上の人たちが社会のさまざまな問題に対して政治的、行政的、企業的な将来の決定を行なっている現状を思い起こす必要があります。

 政治の分野では、先の長くない政治家が、およそ60年前につくられた古い法的枠組みのなかで「20世紀型の経済の拡大志向の考え」をほとんど変えることなく、20世紀の手法である「フォアキャスト的手法」21世紀前半社会の方向づけをしているのが現状です。そして、これまでの日本の制度では、政策をリードしてきた官僚は数年で別の部署に移動し、政策決定の責任を追及されないのです。

  

同じ資料を参考にしても判断基準が異なれば、結論が違ってきます。ですから、同じテーマに対して皆さんの考えが私の考えと大きく異なるようであれば、大いに議論しましよう。議論を通して私自身の誤りを正すことができるし、「少子・高齢化問題や環境問題に対する共通の認識」と「持続可能な社会の構築」の必要性を分かち合うことができると思うからです。

重要なことは前進であって、後退ではない。過去を振り返るのではなく

新しい考え方で将来を展望しなければならない。


 

人類の歴史はつねに「経済規模の拡大」の歴史でした。「経済発展(成長)」という概念は、自由主義者や新自由主義者、保守主義者、民族主義者、ファシスト、ナチ、レーニン主義者、スターリン主義者など、イデオロギーにかかわりなく「共通認識」として共有していた考え方で、その必要性については、イデオロギー間にまったく意見の相違がありませんでした。つまり、20世紀には、「経済発展(成長)」は疑問の余地がないほど当然視されていたのです。

「少子・高齢化問題」と「環境問題」

20世紀後半に明らかになった「少子・高齢化問題」「環境問題」は20世紀の国づくりではまったく想定されていなかった問題ですが、21世紀の国づくりでは決して避けて通ることができない最大の問題です。

 少子化も高齢化も人類にとって初めての経験ではありません。しかし、少子化と高齢化が手を携えてやってきたことは、これまでにはありませんでした。これは「人間社会の安心」を保障する年金、医療保険、介護保険、雇用保険などで構成される「社会保障制度の持続性」にかかわる問題です。つまり、人間社会の安心と安全が保障されるかどうか、という意味において「社会の持続性」にかかわる大問題なのです。

 「環境問題」は「人類を含めた生態系全体の安全」を保障する「環境の持続性」にかかわる大問題です。環境問題の根本には人間の経済活動が原因として横たわっているわけですから、この問題を解決するための具体的な行動は、経済的に見れば「経済規模の拡大から適正化」への大転換であり、社会的に見れば20世紀の「持続不可能な社会(大量生産・大量消費・大量廃棄の社会)」から21世紀の「持続可能な社会(資源・エネルギーの量をできるだけ抑えた社会)」への大転換を意味します。

 先進工業国がさらなる経済規模の拡大を追求し、途上国がそれに追従するという20世紀型の経済活動の延長では、経済規模は全体としてさらに拡大し、地球規模で環境が悪化するにとどまらず、これからの50年間に人類の生存基盤さえ危うくすることになるでしょう。

この2つの大問題は、私たちがいままさに、「人類史上初めての大転換期」に立たされていることを示しています。

日本を直撃する2つの大問題

サミット参加8カ国(G8)のなかで、これら2つの大問題の影響を一番強く受けるのは、私たちの国、日本であることは明らかです(右、画像参照)。なぜなら、日本は先進工業国のなかで少子・高齢化の速度が一番速い国であるにもかかわらず、対応が大変遅い国だからです。そして、日本のあらゆる社会的・経済的仕組みが「経済規模の拡大」を前提につくられ、21世紀になっても、国の政策は「経済拡大(持続的な経済成長)」ばかりを考え、表面的にはさまざまな分野で変化が起きているように見えても、基本的な部分にはほとんど抜本的な変化がみられないからです。

 このことは「経済規模の拡大」を大前提とする「日本の21世紀前半の国づくり」に大きな疑問を投げかけることになります。「資源・エネルギー・環境問題」が「50年後の社会のあるべき姿はいまの社会を延長・拡大した方向にはあり得ない」ことをはっきり示しているからです。


 私の環境論では、環境問題の解決とは金額で表示される「経済成長(GDPの成長)」をとめるのではなく、「技術開発の変革」と「社会制度の変革」によって資源・エネルギーの成長を抑え、20世紀の大量生産・大量消費・大量廃棄に象徴される「持続不可能な社会」を、21世紀の安心と安全な希望のある「持続可能な社会」に転換することを意味する。

20世紀の経済成長は「資源・エネルギーの消費拡大」だったが、21世紀型の経済成長は資源・エネルギーの成長を抑えて達成しなければならない。


93年の「環境基本法」の制定

 日本で「環境基本法」が制定されたのは、国連環境計画(UNEP)の「世界環境報告1972〜92」が発表された翌年の93年でした。それから10年後の2003年9月12日付の朝日新聞は、「鈴木環境相は12日の閣議後記者会見で、公害対策を中心とした環境基本法を、積極的な環境の再生と改善のための枠組みに転換することを視野に入れた検討を開始する考えを明らかにした」と報じています。

 このことは13年前、私がスウェーデンの環境政策の専門家として、衆議院環境委員会中央公聴会に公述人として招かれたときに指摘したとおり、環境基本法が現実の変化に対応できない不十分な法律であったことを示唆するものだと思います。

 1993年5月13日、「環境基本法案等に関する衆議院環境委員会中央公聴会」に出席を求められた私は、この法案について、つぎのような趣旨の意見を述べました。

 この法案はきわめて不十分である。新法をつくるよりも先にすべきは、行政の縦割構造にメスを入れることである。この新法は「公害対策基本法」に置き換わるが、公害対策基本法のもとでつくられた「大気汚染防止法」や「水質汚濁防止法」などはそのまま残るので、行政の許認可の根拠法は変わらない。この法案の最大の欠陥は、他省庁がかかえる開発志向型の法律群(たとえば、リゾート法、都市計画法、国土利用計画法など)にほとんど影響しない点にある。

 今日の環境問題を招いているのは、数多くの開発志向型の法律に基づく経済活動の拡大である。「審議の上、速やかに可決されることを期待する」とあるので、私は反対である。

 日本とスウェーデンの環境問題に対する現在の「認識の相違」や「対応の相違」は21世紀初頭には「決定的な相違」となってあらわれてくるだろう。

詳細はhttp://www.maroon.dti.ne.jp/backcast/archives/19930513.pdfを参照。

 あれから13年たった2006年、「環境問題」に対する日本とスウェーデンの考え方の相違は、当時よりもさらにはっきりしてきました。両国の間には、環境問題に対する認識や行動に20年以上の開きがあるといっても過言ではないでしょう。

「環境問題」に対する社会的な位置づけの相違

 私の環境論から見た日本とスウェーデンの「環境問題の社会的な位置づけ」の相違を下図に示します。

 日本では環境問題を、人間社会に起こる数多くの困った問題の一つとして理解してきたので、つねに環境問題よりも年金問題や景気回復、不良債権の処理といった経済・社会問題(図の左中に例示した社会現象)のほうが優先されてきました。一方、スウェーデンでは環境問題を、人間社会を支えている「自然」に生じた大問題(図の右下)と考えてきました。ですから、人間を大切にする「福祉国家」のままでは環境問題には耐えられないことに気づいたのです。そこで、人間を大切にする「福祉国家」を、人間と環境の両方を大切にする「緑の福祉国家」へ転換していこうとしているのです。

 スウェーデンでは、ここに例示した日本の経済・社会問題はほとんど問題にならないか、あるいはすでに解決ずみといってよいでしょう。

 日本の「環境問題」に対する社会的な位置づけは、2005年6月に読売新聞社が行なった世論調査「小泉内閣に優先的に取り組んでほしい課題は何か(複数回答)」という問いに対する回答結果からも示唆されます。


政治が決めた「これまでの50年」:「最貧国」から「福祉国家」へ

 100年以上前、日本の明治20年代中頃、スウェーデンはヨーロッパで最も貧しい国でした。あまりにも貧しいがゆえに、当時の人口350万人うち3分の1くらいが移民として米国に渡ったと言われています。
 スウェーデンは自然条件が厳しかったうえに、国内で石油や石炭、天然ガスなどの化石燃料が乏しく
(この状況は現在も同じです)、ほかのヨーロッパ諸国に比べて工業化が遅れたからです。この50年間でスウェーデンは、ヨーロッパの「最貧国」から現在のような「福祉国家」になりました。

 1889年に結成されたスウェーデンの社民党は1932年に政権に就いて以来、「福祉国家の実現」を国のビジョンとして掲げ、76年の連立政権(中央党・自由党・保守党の中道・保守連立内閣)誕生までの44年間、長期単独政権を維持してきました。長期単独政権を維持するなかで、絶対多数(国会の議席の過半数の確保)は1回だけで、あとは比較多数のままで、連立政権を組むこともなく、単独政権を守りつづけました。スウェーデンの経済発展は社民党の44年にわたる長期単独政権の結果によるものでした。

 一方、日本の経済発展は、自民党の38年にわたる長期単独政権のもとになされたものです。要約すれば、社民党の44年にわたる長期単独政権が20世紀の「福祉国家スウェーデン」を、自民党の38年にわたる長期単独政権が20世紀の「経済大国日本」をつくりあげたと言えます。

政治が決める「これからの50年」:「福祉国家」から「緑の福祉国家」へ

 環境問題への対応で世界の最先端を行くスウェーデンの環境戦略を特徴づけるのは「環境問題の明確な社会的位置づけ」ができていること、そして「政治のリーダーシップ」です。まず政治家が「ビジョン」を掲げ、そのビジョンを実現するために「整合性がある包括的で柔軟な法律あるいはガイドライン」と「政策」を国会で審議し、可決したうえで、政策目標達成の手段として法律を活用していること、さらに政策目標達成の進捗状況を国会でフォローしながら、たえず見直しが行なわれている点にあります。

 人間を中心に考えれば「少子高齢化問題」および「環境問題」などの「将来不安」こそ、政治の力で解消すべき最大の対象であることは間違いありません。

 2001年10月、国際自然保護連合(IUCN)は世界180カ国の「国家の持続可能性」ランキングを公表しました。この調査でスウェーデンは「人間社会の健全性」と「エコシステムの健全性」のバランスが最もよくとれていると評価され、1位にランクされました。日本は24位、米国は27位。しかし、この時点で「持続可能性あり」と判断された国は皆無でした。

 このような未来予測を前にして、これからの50年、みなさんは「これまでどおりの経済成長の維持あるいは拡大」を求めるのでしょうか、それとも、「持続可能な社会への転換」を求めるのでしょうか。

 日本の首相の施政方針演説では前者を、スウェーデンの首相の施政方針演説では後者をめざすことが、はっきりと方向づけられています。小泉純一郎首相は2002年2月4日の施政方針演説で、「改革なくして成長なし」と語り、「持続的な経済成長」の必要性を明示しました。

 このように、小泉首相のビジョン(政治目標)は「持続的な経済成長」(つまり、20世紀の経済社会の延長上にある「経済の持続的拡大」)です。その意味で、21世紀初頭に発足した小泉・連立内閣は「行き詰まった20世紀経済を再生するための内閣だった」と言えるでしょう。

 2001年4月の小泉・連立内閣発足以来、政府の「経済財政白書」のサブタイトルが2001年の「改革なくして成長なし」に始まって、2005年が「改革なくして成長なし X」であったことからも、この内閣が従来の経済拡大路線を着実に踏襲していることは明らかです。一方、スウェーデンのペーション首相は96年9月17日の施政方針演説で「緑の福祉国家への転換」を21世紀前半のビジョンとして掲げました。

 これからの50年の両国の将来像は、現時点ではきわめて対照的です。大変不思議なことに、日本では、「少子・高齢化問題」は国民の関心が高まり政治の課題となってきましたが、市場経済社会を揺るがす21世紀最大の問題である「環境問題」は、国政レベルの選挙の争点にもなりません。この現実と、両国の政治家や国民の意識の相違は何を意味しているのでしょうか。スウェーデン人と日本人の視点はどこがどう違うのでしょうか。

スウェーデンを軽視する日本

 スウェーデンにできて日本にできない問題に直面すると、「スウェーデンは人口900万だが、日本は1億2000万、それに経済規模も違うし……」という反応を示す識者が、日本にはかなり多くいます。

 900万人と1億2000万人の人口の差、1%と16%の世界経済に占める割合の差は、たしかにスウェーデンが日本に比べれば、人口や経済の規模でまぎれもない小国であることを示しています。「両国の共通の問題」を同じ方針や手段で解決しようとするときには、人口が少ない小国のほうが有利なのは当然です。しかし、日本がいまだ完全に処理しきれていない不良債権問題がスウェーデンでわずか1年で解決したのは、「スピード」、「政党間の協力」、「透明性」など明らかに日本にはなかった発想や方法論によるものです。

 このような基礎的な分析なしに、人口規模が違いすぎるとか経済規模が異なるという表面的な言い訳は成り立ちません。スウェーデンをすべてまねしよう、という議論に対してなら、「人口や経済規模にこれだけ差があるのだから、そっくりまねることはできない」というのは正しい判断だと思います。

 しかし私は、世界に共通する環境問題、エネルギー問題、そのほかの経済・社会問題に対して、スウェーデンがほかの先進工業国とは一味違う先進性のある取り組みを展開するのは、人口の大小や経済規模の違いというよりむしろ、「国民の意識」と「民主主義の成熟度」の問題だと思います。

私ももちろんそうだが、「スウェーデンに学ぼう」と提案している論者が主張したいのは、すぐれた先見性と資質をそなえた国が具体化した「概念」、「ルール」、「制度」、「技術」などの合理性を、さまざまな角度から徹底的かつ真剣に検証することによって、将来の日本の社会の方向性を見極めよう、ということである。

 そして、「合理性がある、好ましい」と判断した事例に対しては、日本の現状からその方向に向かうにはどうすればよいかを考えることである。


新スウェーデン・モデル「緑の福祉国家」

 スウェーデンは米国と同じように、日本に比べると個人の自立性が高く、自己選択、自己決定、自己責任の意識が強い国です。20世紀のスウェーデンは、国や自治体のような共同体の公的な力や、労働組合のような組織の力を通して、個人では解決できないさまざまな社会問題を解決してきたのに対し、米国は個人の力による解決に重きを置いてきました。米国は個人の力に根ざした競争社会であるのに対して、スウェーデンは自立した個人による協力社会「緑の福祉国家」をめざしています。

 次の図は「現在の福祉国家」を「緑の福祉国家」に転換する具体的な枠組みを示したものです。

 95年1月1日に、スウェーデンはEUに加盟しました。EUに加盟したスウェーデンの理念と行動はEUの環境戦略をリードし、その経験は2000年3月のEUの「米国に対抗する新しい経済モデル策定の合意」の基礎に生かされています。

 2000年1月に提案された「第6次EU環境行動計画案」は、2001年から2010年までの10年間のEUの環境戦略を方向づけるものですが、その内容は、スウェーデンが88年に策定した「90年代の環境政策」と題する国のガイドラインに、きわめて類似しています。スウェーデンは環境分野でEUの10年先を行く、といっても過言ではありません。

 ですから、いま、スウェーデンが国家目標として掲げている「緑の福祉国家への転換」は、「旧スウェーデン・モデル」が賛否両論はあったものの、世界の福祉政策にとってのモデルであったのと同じように、21世紀前半の「持続可能な社会のあり方」を先駆的に提案するものと言ってよいでしょう。


希望の船出

 96年9月17日、乗員・乗客884万人を乗せたスウェーデン号は、「21世紀の安心と安全と希望」を求めて、周到な準備のもとに目的地である「緑の福祉国家」へ向けて出港し、現在、順調に航行を続けています。

 航行中、予期せぬ難問に遭遇し、場合によってはグローバル化の荒波に呑み込まれ、沈没してしまうかもしれませんが、順調に行けば、目的地に到着するのは2025年頃とされています。

 これまで述べてきたように、スウェーデン政府は2020年頃までに「緑の福祉国家を実現する」という大きなビジョンを持っています。スウェーデンは93年から現在に至るまで好調な経済を維持しながら、主な環境問題を解決した新しい社会である「緑の福祉国家」を次世代に引き渡すことをめざして、力強い一歩を踏み出したところです。

 このビジョンの実現を加速する目的で2005年1月1日に発足した「持続可能な開発省」のホームページに「緑の福祉国家」についての記述がありますので、その要旨を記しておきます。ご興味のある方は直接、下記のアドレスにアクセスしてみてください。
※2006年9月のスウェーデンの政権交代に伴い下記のアドレスはリンクが切れております。

 「緑の福祉国家」というビジョンの実現のために、政府は新しい技術を駆使し、新しい建築・建設を行ない、新しい社会にふさわしい社会・経済的な計画を立て、そして積極的なエネルギー・環境政策を追求しています。このビジョンの最終目標は現行社会の資源利用をいっそう高めて、技術革新や経済を促進させ、福祉を前進させてスウェーデンを近代化することです。

 緑の福祉国家の実現によって、スウェーデンは「社会正義をともなった良好な経済発展」と「環境保護」を調和させることができるでしょう。現在を生きる人々と将来世代のために。国際社会を見渡したとき、スウェーデンは発展の最先端に位置しているので、現在強い経済成長を経験している国々に、「エコロジカルに持続可能な社会の開発」の考えを伝える立場にいます。

 現行社会の近代化は、地球の資源がすべての人々にとって十分であることを保障する近代化でなければなりません。

参照  http://www.maroon.dti.ne.jp/backcast/archives/MOSD.pdf

http://www.sweden.gov.se/sb/d/2066
(↑現在の「環境省」のホームページ)


「2005年」は日本にとっては戦後60年、この節目の年にちょっと立ち止まって日本を、そして世界を考えてみてください。

 日本のあちこちで地震、台風、火山の噴火などの自然災害が相次いで発生しています。国際社会に目を転ずると、2004年12月26日のスマトラ沖地震によるインド洋大津波や2005年8月29日に米国南部を襲ったハリケーン「カトリーナ」など、自然災害の報道が多くなっています。戦争やテロ活動は止むきざしがなく、経済のグローバル化はさらに急速に進展しています。

しかし、たとえ将来、自然災害の発生を止めることが可能になったとしても、また戦争やテロ活動がなくなり世界に真の平和が訪れたとしても、私たちがいま直面している環境問題に終わりはありません。私たちの「経済のあり方」「社会のあり方」環境問題の主な原因だからです。 環境問題は世界のほぼ全域に広がった「市場経済社会(資本主義社会)」を揺るがす21世紀最大の問題なのです。


環境と経済は切り離せない

 自然に働きかけて人間生活に有用な財やサービスをつくりだす経済活動、つまり、生産活動や消費活動、余暇活動は、もともと人間にとって手段であって、目的ではありません。経済活動の目的は、本来、人間生活を豊かにするために「生活の質」を向上させることであり、経済成長率を高めることではないはずです。

 経済活動の規模や成果をあらわす経済成長率の基礎データは、すべて金額で表示されています。従来の経済学はこのように、貨幣に換算できない関係は無視し、貨幣による関係だけで人間社会の活動を評価してきました。経済学には、「資源・エネルギーの流れ」が十分にインプットされていないのです。ですから、こうした枠組みにとらわれた経済学者やエコノミストには、環境問題の本質は見えてこないでしょう。

 これからの経済学は、「モノやサービスの流れ」を「金の流れ」だけで見るのではなく、「資源・エネルギーの流れ」で見なければなりません。私たちが直面している環境問題は「経済学の枠組みを現実に合わせるために早急に変えなければならないこと」を示唆しています。環境負荷を最小限に抑えながら製品やサービスを供給し、消費するためには、どのような経済のあり方が必要なのか。これこそが、21世紀の経済学の主要なテーマであるはずです。したがって、「資源・エネルギー・環境問題(あるいは政策)」の議論は、いまの経済学が対象としている「経済問題(政策)」「雇用問題(政策)」「福祉問題(政策)」などと緊密な関連のもとに議論されなければならないはずです。

 私が考える「環境問題」を次の表にまとめました。

 日本では、「経済の持続的拡大」という暗黙の了解のもとで、「環境問題」や「地球環境問題」の個々の現象面に着目しています。そのため、環境関連の法体系は主として「自然科学的な視点」からつくられています。ですから、その対応は環境のモニタリングを行ない、経済活動の結果排出される特定の汚染物質の量を規制する、などといった、技術的な対応になりがちです。この対応は20世紀の「公害」への対応の域を出ていません。

 日本の識者、政策担当者、産業界、ジャーナリズムなどがしばしば主張する「世界に冠たるエネルギー効率を誇る国」、「世界一の省エネ国家」、「世界の最高水準にある環境保全分野での国際貢献」などという勇ましい説に接すると、日本はあたかもエネルギー・環境分野で「世界の模範国」であるかのような錯覚に陥りがちです。しかし、上の表の「社会学的見ると」、実態は正反対であることがおわかりいただけるでしょう。

 これまでの自然科学は多くの場合、人間を除いて問題を考えてきました。生態系の説明から人間の存在が抜け落ちているように、自然を「人間社会」の外側に置く傾向がありました。こうした自然科学は環境問題を分析し理解するのに役立ちますが、環境問題の主な原因が「人間の経済活動の拡大」であることを考えると、環境問題の解決には、人間社会を研究対象にする社会科学からの適切なアプローチが強く求められます。

 しかし、困ったことに社会科学のなかでも人間の経済活動に深くかかわる経済学は、人間社会の外側にある「自然」を研究対象としていません。さらに、「お金の流れ」としてあらわれない現象も対象としません。その他の社会科学も大同小異です。つまり、これまでの伝統的な自然科学も社会科学も環境問題に正面から対応できないのが現状なのです。

 生態系の劣化や廃棄物の増加は経済活動が拡大した結果生じた現象ですから、環境問題に取り組むにあたっては技術的な対策を超えた、社会全体の価値観の転換とか、社会が求めるライフスタイルの変更のような、より本質的な取り組みが必要です。このように視点を変えることにより環境問題は私たちの日常生活と直結した足元の問題であることが理解できるでしょう。

 次の図は「環境問題の原因・現象・結果」を示したもので、私の環境問題に対する基本認識を十分裏付けてくれるものです。この図は日本政府の「平成13年版環境白書」の11ページに掲載されており、図の原題は「図1-1-14 問題群としての地球環境問題」となっています。

 このように、環境問題の本当の姿が理解できれば、GDPや「個人消費の拡大」、「民間住宅投資の拡大」、「設備投資の拡大」、「貿易の拡大」、「巨大構造物の建設」といった、これまでの拡大志向の考え方やその考えを支えてきた「経済指標」を変えなければならないでしょう。いうまでもなく、こうした指標が「資源・エネルギー・環境問題」の現状をまったく反映できない性格のものだからです。

環境への配慮がまったくない「景気動向指数」

 たとえば、「景気動向を最も的確に示す」といわれている指標の一つに、内閣府が毎月月初めに公表する「景気動向指数(DI)」があります。私がまず変えるべきだと思うのは、この指標です。

 景気動向指数は景気と深いかかわりを持っているとされる30の景気指標からなっています。景気に先行する「先行指数」(11指標)、景気と一致して動く「一致指数」(11指標)、景気に遅れて動く「遅行指数」(8指標)ですが、この「一致指数」が創設されたのは高度成長期の1960年頃で、その後修正が加えられ、現在の指数に落ち着いたのが80年頃のことであることや、その後の産業経済構造の変化を考慮すれば、環境問題の原因が「経済の拡大」であることが明らかになった現在、この指標を景気の判断基準として今後も使用し続けることに、私は大いに疑問があります。

 20数年前に定着した11の指標は、生産指数(鉱工業)、大口電力使用量、稼働率指数(製造業)、商業販売額(小売業および卸売業)、営業利益(全産業)など、すべて「経済規模の拡大」を前提とした指標です。

 ですから、仮に官民あげて省電力に励み、大口電力使用量の削減に成功したとしてもこの一致指数に従えば、電力使用量の大幅削減はマイナス評価されることになります。つまり、この景気動向指数をはじめとする主な経済指数があいかわらず、20世紀型発想の域を出ていないのです。これらの時代遅れの指数に一喜一憂している政策担当者、エコノミスト、それを伝えるマスメディアの行動は滑稽ではありませんか。

「環境問題」と「経済」のかかわり

 人間が21世紀も動物であることは疑う余地がありませんが、人間はさまざまな側面で、ほかの動物とは違っています。動物の行動は本能的だが、人間には目的があります。ということは、人間が行動すると、その目的が達成されようとされまいと、必ず「目的外の結果」が生じるということでもあります。

 20世紀後半に顕在化した「環境問題」の大半は、企業による経済活動がつくりだした「目的外の結果」であり、経済活動が大きくなれば「目的外の結果」も比例的に、あるいはそれ以上に大きくなります。環境問題は、豊かになるという目的を達成するために経済活動を拡大してきた結果生じた「目的外の結果」が蓄積したものです。 

 ここまでの議論に即して、「経済と環境問題の基本的な関係」を、表現を変えてまとめてみました。

@ 経済活動の本質は、資源とエネルギーの利用であり、経済活動の拡大の結果必然的に生ずるのが環境問題である。

A 環境問題とは、人間活動(経済活動=資源・エネルギーの利用)の拡大による「生態系の劣化」、「人間の生存条件の劣化」および「企業の生産条件の劣化」である。

B 環境問題とは、人間活動(経済活動)が有史以来最大となり、その活動が「環境の許容限度」と「人間の許容限度」ギリギリのところまで達してしまった、あるいは一部でそれらの許容限度をすでに超えてしまったという問題である。

C環境問題とは、市場経済が求める「経済成長の必要性」と、「環境の許容限度」および「人間の許容限度」とのかかわりの問題である。


環境問題の最も重要な判断基準

21世紀に私たちが「経済の適正規模」を模索しなければならないのは、「資源・エネルギーの量的な不足や枯渇によって経済活動が制約されるから」(20世紀型発想による懸念)ではなく、20世紀の経済活動の拡大により蓄積された環境負荷(温室効果ガスやオゾン層破壊物質の放出、大気汚染、水質汚染、土壌汚染、廃棄物など)に加えて、「21世紀の経済活動にともなう環境負荷が環境の許容限度や人間の許容限度に近づくことによって経済活動が制約されるから」(21世紀型発想による懸念)です。ですから、環境問題に対する最も重要な判断基準は経済活動の拡大を支えている「社会全体のエネルギー消費量を削減するか、増加させるか」ということになります。

 21世紀初頭のこの時点で一度提案し、議論してみたかったことがあります。まったくの夢物語なのですが、私たちが現在地球上で消費している膨大な量のエネルギーを、2006年1月1日からすべて「自然エネルギー」で置き換え、その後必要となるエネルギーもすべて「自然エネルギー」でまかなえる、「夢のエネルギー供給体系」が完成したとしたら、私たちは「エネルギー問題や環境問題から解放されるのだろうか」ということです。

 エネルギーが供給サイドで増大すれば、たとえそれが自然エネルギーであろうと、需要サイドでかならず「廃棄物」「排ガス」「排水」「廃熱」などの形をとって、環境負荷を増大させることになります。ですから、人間の経済活動が人類史上最大となり、それにともなう人為的な環境負荷が「環境や人間の許容限度」ギリギリのところまできている、あるいは一部でそれを超えていると考えられる現在、エネルギーの供給量、エネルギー消費量のさらなる増大は好ましいことではありません。

 エネルギーの使用は、たとえそれが自然エネルギーであっても環境への負荷を高めるものですから、最終エネルギー消費の増大が問題となります。ですから、環境問題を視野に入れた「省エネ」では、「最終エネルギー消費をいかに抑えたか」を省エネの目安にすべきなのです。

 エネルギーの専門家(とくに原子力エネルギー推進の立場をとる専門家)は、この30年間、この基本的な原則をすっかり忘れて、「持続的な経済成長のためのエネルギーの供給確保」という一点にこだわり、非現実的な論争の前提のもとで「非現実的な論争」を繰り返してきました。

 経済成長が十分可能であった20世紀においては、「エネルギー供給確保」が最重要課題でしたが、資源と環境の制約から20世紀型の経済成長が期待できない21世紀においては、先進国では「エネルギー成長の抑制」こそが最重要課題となります。たとえ、「エネルギーの供給サイド」がクリーン化でき、核廃棄物問題が解決できたとしても、エネルギー供給の増大が「エネルギーの需要サイド」で廃棄物(産業廃棄物および一般廃棄物)を増大させ、環境への負荷を高めることは自明の理だからです。

 このことが十分に理解できれば、これまでの日本の原発論争がいかに不毛な議論を繰り返してきたかが理解できるでしょう。

私は1996年9月13日、第11回原子力政策円卓会議(最終回)に招聘者として意見を述べる機会を与えられました。この会議での私の発言すべてを議事録で見ることができます(http://www.maroon.dti.ne.jp/backcast/archives/19960918.pdfを参照)。


 私たちは一般に、現在の地球規模の環境問題の認識の原点は1972年に公表されたローマクラブの「成長の限界」と理解しているようですが、スウェーデンではそれ以前から環境問題の議論が高まっていました。ローマクラブが発足した70年には大阪万博でユニークなスカンジナビア館を建て、地球規模の環境問題の重要性をアッピールしていました。

大阪万博 

このパビリオンの目的は、地球上の問題に、未来の世代の人々の注意を促すことでした。スウェーデン、デンマーク、フィンランド、ノルウェー、アイスランドの北欧五カ国がこの万博のために積極的な協力体制を敷いたのは、国境のない問題に永続的に協力して取り組む姿勢を示そうと望んだこと、環境問題は地域的な範囲を越え、世界的な規模で解決に当たらなければならないことをアピールしようと考えたこと、などの理由によるものです。

パビリオンの正面には、「プラスとマイナス」のシンボル・マークが鮮やかに刻まれ、パビリオンの内部では、人間の生活を豊かにした数々の発明や発見、労働災害や公害といった、プラスとマイナスの具体的な事例が7200枚のスライドと写真、パネル、映像を通して、パビリオンを訪れる人々に語りかけられました。

 これは、科学技術が発達すれば、言い換えれば、人間活動が拡大すれば、それによって、環境への人為的負荷が高まることを警告したのです。この時期にすでに、北欧諸国は「今日の地球環境問題」に警鐘を鳴らしていたことがわかります。

今から35年も前のことでした。当時のこの認識は、92年の地球サミット(国連環境開発会議)以降、国際的に認識されるようになった「持続可能な開発」の概念へ、そして、スウェーデンでは「エコロジカルに持続可能な社会(緑の福祉国家)」へと発展してきたのです。

第一回国連人間環境会議

  1960年代前半頃から学者の間で「環境の酸性化」(日本で言う「酸性雨問題」)の議論が起こりました、スウェーデン政府は1968年に、この問題を国際社会でとりあげるために国連に国連初の環境会議の開催を提案し、1972年には第1回国連人間環境会議(ストックホルム会議)にこぎつけました。

 政府の行動にあわせて、スウェーデン王立科学アカデミーはこの会議を記念して、1972年に英文の国際環境雑誌「AMBIO」(右,画像参照)を創刊しました。この雑誌は創刊当初から品位のある自然科学系の雑誌でしたが、現在では環境分野で最も信頼性の高い高級誌に進化しています。
http://www.bioone.org/loi/ambi
http://ambio.allenpress.com/perlserv/?request=index-html

 大使館の仕事を辞した1995年までの私の記憶では、創刊第4号(1972年)(右,画像参照)に日本から「カネミ油症の事例報告」が掲載されただけで、その後23年間日本からの報告はゼロでした。95年以降は調べていないのでわかりませんが、興味のある方は調べてみてはいかがでしょうか。日本のこの分野の研究のレベルがわかるかもしれません。

 これらの事実を総合的に考えると、スウェーデンの環境問題に関する認識や行動がローマクラブという国際的研究グループの活動より、先んじていたことがわかります。

環境の酸性化に関するストックホルム会議 

スウェーデンは1972年の第1回国連人間環境会議の10周年を記念して、82年に首都ストックホルムで「環境の酸性化に関するストックホルム会議」を開催しました。スウェーデン政府はこの会議のために「Acidification:Today and Tomorrow」(右画像参照)と題する230ページを超える報告書を作成し、同会議に提出しました。

 83年1月、スウェーデン環境保護庁はこの会議の報告書をまとめ、公表しました。この報告書の末尾の参加者リストには、北欧諸国、米国、英国、東西ドイツ、イタリア、スイスを含む21カ国から100人を超える研究者や行政官の参加者が名を連ねていますが、日本からの参加者の名は見当たりません。このことは研究者のレベルでも日本と国際社会との間にかなりの認識の相違があったことを示していると言えるでしょう。

 

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