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21世紀も人間は動物である。

人間は動物である。ある範囲の温度・湿度・気圧・重力のもとで、光を浴び、空気を吸い、水を飲み、動植物しか食べられない!

 数100万年を超えるといわれる人類の歴史のなかでこの事実は不変であったし、21世紀も不変でしょうから、「21世紀も人間は動物である」というこの事実こそ、環境問題を考えるときの最も基本的な大前提であり、この大前提を支える上記の必要条件のどれか一つが「量的」にあるいは「質的」に満たされなくなれば、21世紀の私たちの社会の存続が危ぶまれることは疑う余地もありません。私たちは動物的機能が退化しつつあることを自覚してはいますが、それでもなお、私たちは「動物的次元」から逃れることができないのです。

 このことは、2000年8月の大噴火以降、東京都三宅島では有害な火山ガスである二酸化硫黄の大気中濃度が高いという理由で、2005年2月1日の避難指示解除まで全島避難がつづいたことからも明らかでしょう。この場合は、「空気を吸う」という人間が生きるための上記の必要条件のうちたった一つが「量的」には問題がなかったにもかかわらず、「質的」に満たされなかっただけなのです。

環境問題は人間による「自然法則」の違反

 「赤信号、みんなで渡れば怖くない!」という名文句があります。交通信号は人間社会の交通秩序を保つために人間がつくったルールです。信号無視はルール違反ではありますが、「車の運転者」と「道路を横断する人」の間に「人間の命が大切」という共通認識が存在しているかぎりは、この名文句は正しいと思います。

 けれども、環境問題は「自然」と「人間」との間で起こっている問題です。環境問題は「人間による自然法則の違反」です。自然法則は人間が発見したルールではありますが、人間がつくったルールではありません。ですから、「自然」と「人間」の間には、「人間の命が大切」という人間社会の共通認識(暗黙の了解)は存在しないのです。

 日本は、技術で自然法則に挑戦しようとしているように見えます。スウェーデンは人間がこれまでにつくったさまざまな仕組みや制度を自然法則に合わせて変えて行こうとしています。 

 人間のつくったルールはいつでも自由に変えることができますが、自然法則は変えることができません。環境問題は人間社会では普遍性がきわめて高い名文句もおよばない、私たち人間にとってたいへん恐ろしい問題なのです。明日の環境を

今日の決断が明日の環境を決める

 環境問題は経済活動に伴う資源、エネルギー、水の消費量に左右され、これらの消費量が排ガス量、排水量、廃棄物量とそれらの質を原則的に決めます。このことが理解できれば、「今日の決断が数十年先の環境問題を原則的に決めてしまう」という経験則が理解されるはずです。

 国、自治体、民間を問わず、「経済成長/景気回復」の名のもとに、投資の対象がビルや高層住宅などの巨大構造物、生産設備、テーマパーク、大規模ショッピングセンター、道路・鉄道・空港・港湾・橋梁・通信施設などのインフラの形をとる場合には、今日の政治的、行政的、あるいは企業経営的決断によって、2010年、2030年、2050年に必要となる「資材の供給量」、「エネルギーの供給量」、「用水の供給量」、「廃棄物の排出量」などに代表される様々な指標が原則的に決まってしまいます。

 都市の構成要素としての巨大構造物は、建設の準備段階から建設期間を経て、完成し、使用され、廃棄に至るまでのすべての期間(通常は50〜60年程度)にわたって次のような問題を抱えることになります。

□□ 経済的側面
□□□□□□@ 維持・管理費などの固定費の増加
□□□□□□A 先行投資による莫大な借金(不良債権の元になる)
□□ 環境的側面
□□□□□□B 大量のエネルギー(特に電力)の消費
□□□□□□C 大量の水の消費
□□□□□□D 大量の廃棄物の排出

 現在のように、資源の制約、エネルギーの制約、環境の制約により、人間活動が環境の許容限度に近づく、あるいは一部でそれを超えてしまったと考えられる時に、このような巨大構造物をつくることはきわめて疑問です。

 たとえば、空港を考えてみましょう。最新の報告では、原油の可採埋蔵量はおよそ40年と言われています。本当のことは“神のみぞ知る”ですが、この報告が正しいとすれば、原油から精製される航空燃料(ジェット燃料)もあと40年程度しかないということになります。ジェット燃料がなければ、現在のような大型のジェット機をどうやって飛ばすのでしょうか。「原油がなくなれば水素があるさ」というのは短絡思考の極みです。水素は二次エネルギーで、他のものからつくらなければならないからです。そのために別のエネルギー源が必要になります。地球環境産業技術研究機構副理事長の茅陽一さん(東京大学名誉教授)は、日本経済新聞(2006年1月9日)で「水素社会は当分来ない」とおっしゃっています。

 「経済活動に必要な設備」として「廃棄物」という意識もなく建造されたものであっても、時間の経過とともに廃棄物と化します。環境問題は蓄積性の問題です。過去に投資した生産設備やそこから生産された生産物、巨大構造物から生ずる「環境の人為的負荷」の蓄積が今日の環境問題の原因であることがはっきり理解できれば、「今日の決断が明日の環境を決める」という経験則が理解されるはずです。

 この経験則は人口の大小や生産規模の大小にかかわりなく、すべての国に共通する普遍の原則で、環境問題だけでなく、政治・経済・社会、行政、インフラ、企業経営などほとんどすべての社会事象に適用可能です。

 ですから、投資活動と関わりの深い財政・金融システムは環境問題と不可分の関係にあることがおわかりいただけるでしょう。政策担当者や企業家はこの当たり前の原則を十分に理解しなければなりません。

「江戸時代へ戻れ」というのか

こういう議論をしていると、必ずと言ってよいほど企業人から出てくる反応があります。表現は様々ですが、端的に言えば、「江戸時代へ戻れというのか」という類いです。下の図を見てください。“江戸時代に戻りたい”という人はいるかも知れませんが、大多数は“戻りたくない”、“戻れない”というのではないでしょうか?

 私自身は“戻れない”です。“戻りたくない”、“戻れない”の立場に立てば、選択肢は3つあります。3つの選択肢の内、「現行社会の維持・拡大」はこれまで議論してきたように持続不可能な社会へ突入してしまうことは間違いありません。「成り行きに任せて、ケセラセラ」というのも、結局は「現行社会の維持・拡大」に帰すると考えられます。

 そうしますと、残された選択肢は私たちが強固な意志をもって、私たちの子供や孫のために、そして、何よりも私たち自身のために、「持続可能な社会の実現をめざす」という決断をし、その実現に向かって努力することということになります。この選択こそが、“明るい未来を創造する”という最も望ましくかつ現実的に可能な方向性だということになります。

 私は、これまで企業の部課長クラスの技術者とこの種の議論をしてきました。90年代前半の頃は大部分の企業の技術者の反応は「江戸時代へ戻れ、と言うのか。お前の言うことは、一技術者として、個人的にはよくわかる。しかし、企業としてはできない」というものでした。さすがに今では「江戸時代へ戻れ、と言うのか」などという人は少なくなりましたが、「個人的にはよくわかるが、企業としてはできない」とはなんと矛盾した考えでしょうか。こんな恐ろしいことがあるでしょうか。多くの企業人がいまだにそのように考えているとしたら大問題です。

できるところから始める、日本では危険だ

 私たちが「ことの重要性」に気づき、「できるところから始める」という考えは、日本ではきわめて常識的で一般受けする穏便な考えですので、とくに市民団体から好まれます。日本の社会の仕組みはきわめて強固で、目の前には困った状態が迫ってきているので、とりあえず「できるところから始める」とか、「走りながら考える」とかいった発想になりがちです。この発想だと、むずかしいことは先送りすることになりかねません。

@意識ある個人や団体が、“自主的な行動”として「できるところ(こと)から始める」と、しばらくして必ず突き当たるのが「既存の社会制度や法制度の壁」である。具体的には、自治体の行政、そして、その背後にある国の行政である。その結果、熱意が冷めてしまい、無気力化する。

Aなぜなら、意識ある個人や団体も行動を起こす前はその行動を既存の社会制度や法制度にあわせており、行動を起こすことにより既存の制度との「整合性」が失われるからである。

 では、どうしたらよいのでしょうか。環境問題に対して、個人にできることはないのでしょうか。私は、個人にできることはたくさんあると思いますが、「対処すべき環境問題の規模の大きさ」「残された時間の短さ」を考えると、この種の発想は問題の解決をいっそうむずかしくすると思います。

 「現行経済の持続的拡大」という政治目標のもとで、国民の暗黙の了解で進められている日本の産業経済システムの中で、個人のレベルでできることは、「一歩前進」あるいは「しないよりもまし」と表現されるように、いくらかは「現状の改善」には貢献するかもしれませんが、「21世紀の日本の方向転換」には貢献できないでしょう。いま、私たちに求められているのは方向転換のための政治的な第一歩であり、社会的な一歩前進だからです。

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今日の製品は、明日の廃棄物

 「今日の製品は、明日の廃棄物」(スウェーデン)、「分ければ資源、混ぜればごみ」(日本)という表現に、「経済活動の必然的な結果である廃棄物問題」に対する両国の基本認識と、その認識に基づいた廃棄物政策の違いが端的にあらわれています。
 前者は国際的な考え方である「持続可能な社会」の実現へと向かい、後者は国際的な考え方とは似て非なる「持続的な経済成長」をめざす日本独自の「循環型社会」の実現へと向かいます。

 スウェーデンの「今日の製品は、明日の廃棄物」というのは、いくら環境にやさしい製品をつくっても、環境にやさしいからといってその製品を大量に生産し、大量に消費すれば、大量の廃棄物を発生させることになることを意味しています。日本では「分ければ資源、混ぜればごみ」。大量に製品をつくり、大量に消費しても、分別して排出すれば資源となるので問題はないということになりがちです。

 大量生産・大量消費という20世紀型の産業構造を転換させようとしているスウェーデンと、大量生産・大量消費をしても大量リサイクルをすればよいと考えている日本、この二つの国の考え方には大きな違いがあります。

治療より予防、対策より政策を

  高福祉・高負担に支えられたスウェーデンでは、失業者や健康障害者ができるかぎり存在しないほうが望ましいのです。失業者や健康障害者を社会の一方でつくりだし、他方で一生懸命治療するような社会は、GDPの成長には貢献するかもしれませんが、非常にコスト高な社会となります。「治療」という考え方は「社会全体のコスト」を押し上げる原因となるので、スウェーデンにとっては望ましくありません。

 一方、日本は「何か目に見えるような問題が起こってから対応を考える」、つまり、「病気になってから治療する」というパターンを繰り返してきた国です。

 スウェーデンと日本の違いは「予防志向の国」と「治療志向の国」、言い換えれば、「政策の国」と「対策の国」といってもよいでしょう。

 日本は、目先のコストが高くなることをたいへん気にしますが、社会全体の長期的なコストについては、これまであまり関心を払ってこなかったようです。

 けれども90年代後半になって、戦後の経済復興から一貫して「経済の持続的拡大」を追い求めてきた日本の社会の仕組みから、つぎつぎに発生する膨大なコスト(たとえば、国や自治体の財政赤字、年金をはじめとする社会保障費、企業の有利子債務、不良債権、アスベスト問題など)が目に見えるようになってきました。そしていま、その「治療」に追い立てられているのです。

持続可能な社会は世代間と国家間の

連帯を必要とする。

 国連の「環境と開発に関する世界委員会(WCED)」が87年に提唱した「持続可能な開発(Sustainable Development)」という概念は、国際的に議論され、その結果、さまざまな解釈を生み出しました。

 そのなかでも、「エコロジー的近代化論(Ecological Modernization)」は、「経済」と「環境」の統合(調和、両立などの表現もある)の必要性を模索する国際的な議論のなかで、ドイツのヨゼフ・フーバーによって提唱され、マルティン・イェニッケらによって広められた考えで、「持続可能な開発」の主流の解釈として、90年代初め頃から日本でも知られるようになりました。そして、この考えは環境問題に取り組む日本の政府、自治体、企業、NPO団体などの基本理念として、たいした議論も批判もなく受け入れられ、定着してしまったように見えます。

 しかし、このエコロジー的近代化論には二つの問題点があります。一つは環境効率を高めることはできても、全体的な環境負荷の削減を保証することはできません。「大量生産・大量消費・大量廃棄という環境危機の根本的な原因」を、環境効率の向上でしかとりあげることができないからです。もう一つは、エコロジー的近代化論が基本的には経済成長を続けたい先進工業国の環境議論であるため、「世代内公平」という考えがほとんど含まれていないことです。

 環境が許容限度ぎりぎりの状態に達しているいま、経済活動がさらに拡大した場合、先進工業国は財政的にも技術的にも環境問題の影響を最小限にとどめることができますが、工業化が遅れている国々は必要以上の影響を受けてしまいます。これは「現世代内の不公平さ」(20世紀に議論された「南北問題」)が生じたことであり、この問題を指摘したのが「世代内公平」という考えです。87年に提唱されたWCEDの「持続可能な開発」の考え方には、「将来世代の公平」とともに、「現世代内の公平」の考え方が含まれ、重視されていました。

バックキャストが日本を救う。

 将来の社会の方向を考え、その実現のために行動する手法として、「フォアキャスト(forecast)」と「バックキャスト(backcast)」という二つの手法があります。

 フォアキャスト的手法は「現在から未来を見る」という、これまでの経済学のように「地球は無限」という前提に立って、現状を延長・拡大していく考え方です。国づくりの前提として環境問題を考える必要がなかった20世紀に、日本をはじめ、すべての先進工業国が使ってきた伝統的な手法です。

 一方、バックキャスト的手法は「未来から現在を見る」という21世紀社会を考える新しい手法です。「地球は有限」という前提に立ちます。たとえば、2030年とか2050年という長期ビジョン年次を考えたときに、それぞれの社会はどうあるべきか、それぞれの時点でどのような社会的・経済的・生態学的条件が整っていれば、私たちは安心して生活できるかを、現時点で想定して、国民の合意のもとにそのビジョンに向かっていつまでに何をするかを国の政策として決め、国を挙げて社会を変えていくという方法です。

 フォアキャストする日本は、技術で自然法則に挑戦しようとしているように見えます。

 バックキャストするスウェーデンは人間がこれまでにつくったさまざまな仕組みや制度を自然法則に合わせて変えていこうとしています。

 日本の環境政策(多くの場合、「環境対策」ですが)などの重要政策は、これまですべてフォアキャスト的手法でつくられてきたし将来予測も相変わらずフォアキャスト手法で行なわれていますので、明確なビジョンがない「将来のあり得る社会の姿」しか描けません。

一方、21世紀前半を意識したスウェーデンの環境政策など重要政策はバックキャスト的手法でつくられているので、「将来のあるべき社会の姿」の長期ビジョンが明確に描かれ、そのビジョンを実現するために新しい法律がつくられ、社会制度の変革、技術開発の変革がなされます。その具体例が「緑の福祉国家(生態学的に持続可能な社会)」をめざす行動計画です。

バックキャスト的手法で政策をつくり実行に移せば、毎日の努力が「安心と希望の未来」をめざすことになります。フォアキャスト的手法では、むずかしい問題は「先送り」をせざるを得ないし、経済の拡大をめざした20世紀の制度の抜本的変革がないままに、企業や市民がそれぞれの立場で毎日努力しても、その結果は、全体として「不安と絶望の未来」へ向かわざるをえません。

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