馬と武士
馬は古来より交通の要であり、これを支配する事が権力の象徴であった。
また、馬は生き物でありそれを飼い慣らす必要があり、調教する技術が要求
された。
馬の生産=馬の調教である事がいえる。
したがって、信濃や関東での武士の勢力に影響したのは必然であろう。
武者所の当番
駅の運営---駅伝であり中央政権と地方の権力者が深く係っていたことが考え
られる。古来関東では川越駅が中心的な役割を担っていた。
朝廷と地方(関東)の駅舎との関係からして、中央集権の武者所との関係である
藤原氏の直轄の馬領が信濃、下野にあったことから、平安時代後期の武士化の
中で、藤原氏の武士化も創成されていったと考えられる。
    
馬政
我国の馬政の主役は左右馬寮であって、令及び式によれば官馬の調教飼養、
供御の乗具から穀草の配給飼部の戸口及び各籍のことを掌り、併せて諸国の
御牧を監し、そこから貢上する馬を左右に均分検領してこれを飼育した。
また、兵部省の兵部司では諸国牧及び軍団に養える兵馬や駅に蓄えた駅伝馬、
その他公私の馬牛の疋数を確認して兵事に備えた。この兵事とは朝敵である蝦夷
に対する事が主であると考えられる。したがって、この時代は東北からの貢上の
馬は無いし、馬を東北に売る事も禁止されていた。
奈良時代以前に、「日本書記」には甲斐、駿河、常陸、日向、薩摩の諸国が列挙
せられ、東国と九州が馬産の国として知られる。
「風土記」には駿河国安弁郡に宇知牧、富士郡に仮宿牧が載せられ、常陸国から
行方(めかた)の馬を朝廷に献じたことを述べている。
また、神馬の産としては「日本書記」「続日本記」「日本後記」により甲斐、上総、
信濃、美濃、飛騨、備前、日向、対馬の諸国が知られる。
平安時代初期には皇室の料馬を供給するために勅旨牧が設けられ、牧地の賜与
が行われた。
牧官は大宝の厩牧令によれば、牧ごとに長を一人、帳を一人、馬100疋を一郡
として牧子二人を置く制度であった。
平安時代には早く官牧、勅旨牧を現地に経営せしめるために、所在の国々に牧監を
置いた。
延暦十六年(797年)6月7日の太政官府によれば、信濃国の牧監に「監牧之
司雖v非ニ正職一、而離v家赴v任、有v同ニ国司一」と称して、埴原牧田六町を
給して公廨田となし、天長四年(827年)10月16日には甲斐国に牧監を置き、
天安ニ年(858年)5月11日には信濃国に牧監一員を増加して2員に復旧された。
かくして延喜の「兵部省式」には信濃国に2人、甲斐・上野の国には各1人の
牧監を任じ、把笏を許され、任期は6年で国司に準ずるとされた。
平安時代前期における官牧は勅旨牧を含めて「延喜式」には御牧、諸国牧、
近都牧の三種類に分けている。
御牧は勅旨牧の意味で、皇室の料馬を供給するのを目的とし、平安初期に
左右馬寮に移されていた。御牧の牧馬貢進にあたって同式には国司が前記の
牧監もしくは別当とともにその牧に臨検し、駒に検印し、馬帳を作成し、歳4才
以上で使用に堪えるものを官繋して調教し、明年8月に牧監に付けて貢上せ
しめた。もし御馬として貢進に不適当なものがあれば、駅伝馬に充てた。
常陸国 信太馬牧
武蔵国 檜前馬牧、神崎馬牧、石川牧、小川牧、由比牧、立野牧、
上総国 大野馬牧、負野牛牧
上野国 利刈牧、有馬牧、沼尾牧、坪志牧、久野牧、市代牧、大藍牧、塩山牧
新屋牧、
下野国 朱門馬牧
安房国 白浜馬牧、粉師馬牧
相模国 高野馬牛牧
信濃国 山鹿牧、塩原牧、岡屋牧、平井手牧、笠原牧、高位牧、宮処牧、埴原牧、
大野牧、大室牧、猪鹿牧、萩原牧、新治牧、長倉牧、塩野牧、望月牧
甲斐国 柏前牧、真衣野牧、穂坂牧、
駿河国 岡野馬牧、蘇弥馬牧
備前国 長嶋馬牛牧

これらは公の牧であるが、このほかに藤原氏、摂関家の貴族や伊勢の神宮など
寺社に属する荘園、牧田もあった。
官設の牧場や厩において馬を放失した場合は弁償させる条令「六典」に基づいて
「厩牧令」に定められていて100日の猶予で探し求め、牧子、牧長の負担と定め
ている。兵部省の下の兵馬司が管轄
牧を管理する専任者として甲斐国、信濃国、上野国に牧監、武蔵国には別当が
置かれた。中央政府では左右馬寮の所管