田津久城跡
大野町大字安藤
通称:城ヶ平と呼ばれ、鎧ヶ岳城の見張り出城として、
承久2年(1220年)から貞応3年(1223年)にかけて
築城されたと思われる。
初代城主に安東右近常宗がなっている。
田津久城は戸次氏の本城である鎧ヶ岳城までは霊山(りょう
ぜん)山地を尾根伝いに行くことができることから、情報伝達
や見張り的な役目を担った出城であったと考えられる。
天正14年薩摩の島津軍が豊後に進攻した際、大友軍は敗戦
し、城を壊し廃城となった。
山頂の東西70m、南北60mの円形をなし、城跡は三段になり
、中央は最も高く10u四方の台地、北方は70センチ低く16u
四方の台地、南東は1m低く10u四方の台地となっており、
台地の北方尾根続きの稜線を、巾3m、長さ20m程掘り割って
敵が攻め寄せることができないよう空壕としてある。
城跡よりは米の焼けた炭、茶碗の割れたものが出土していた。