関門海峡は九州と本州をつなぐ海の大動脈で交通の要所であった。
還元二年(1244年)門司氏の祖である下総前司藤原親房は、鎌倉
の命によって豊前代官職に任ぜられて下向、企救半島に勢力を伸ば
し柳、楠原、片野、吉志、伊川、大積の六郷(現在の門司区)を支配
門司関山城を本城とし、地名をとって門司氏を称した。
その後、この地は南北朝、室町を通じて門司氏の一族分裂を生じ、
戦国の頃は大内と大友、毛利と大友の激突の舞台となり、独立不能
の状態となり、国人領主として、大勢力に従属、被官化した。
天文二十年(1551年)九月、中国の雄、大内義隆は家臣の陶晴賢
の謀叛により滅ぼされ、陶晴賢は大友義鎮の弟晴英を、大内の後
継者として山口に迎え、大内義長と名のらせた。
だが、陶晴賢は弘治元年(1555年)安芸厳島において大内義隆の
遣臣毛利元就によって敗死、同三年大内義長も元就によって自害
させられた。
大友義鎮にしてみてば、実弟の死に対して救援策をとらなかったの
は毛利氏との平和協定を遵守するために、弟から援軍要請があった
にもかかわらず、毛利氏との約束を守ったので、その辺をよくよく考え
られて、北九州の大内領(実に弟の所領であるので)は大友が継承
することをお認め願いたい旨の書状を毛利宛に出している。
この時弘治三年(1557年)大友義鎮二十八歳、毛利元就六十一歳
その後、毛利は大友との協定をほごにして北九州進攻をしたのである。
永禄二年(1559年)毛利軍は大友方の将怒留湯主人が守る門司城
を攻め落とした。怒留湯主人は豊後へと敗走したが、大友義鎮は毛利
元就の約束違反に激怒して、門司城奪回にために出陣した。
大友方は大友義鎮、戸次鑑連、吉弘鑑理、斉藤鎮実、田原親賢、
臼杵越中守の武将が一方毛利方は毛利元就、小早川隆景、浦兵部
宗勝、冷泉五郎元豊、児玉内蔵丞、などであった。
大友軍の門司城攻撃は十月十日、同二十六日、十一月五日の三回
にわたって行われた。
十月十日の合戦の前夜門司城の稲田禅正、葛原兵庫助の両人が内通
して、翌日の攻撃の際、城内に手引きするとの策であったが、これが、
毛利側に発覚してしまった、これを毛利軍は逆に利用して、それとは
知らずに、城内にはいっていった大友軍は敗退するはめになった。
にもかかわらず、臼杵、田原の鉄砲や戸次鑑連の八百の弓などで
毛利軍は苦戦していたが、元就の三男小早川隆景が救援にかけつけ
指揮したので、大友軍は劣勢になった。
結局、十一月五日夜、大友軍は門司城から撤退するが、このことを、
小早川水軍は海路を先廻りして、翌六日黒田原、国分寺原付近で待ち
伏せ、襲撃したので大友軍は甚大な被害をだした。
竹田津則康、吉弘統清、一万田源介、宗像重正、大庭作介らの名ある
武将が討死した。
大友義鎮はこの敗戦を機に仏門に入り、心気一転宗麟と改名した。
また、幕府足利義輝に黄金五十両を贈って毛利の約束非道を訴えて
これが後の和平講和に有利に運んで行くことになった。