香春岳は福岡県田川郡香春町にあり、昔から筑前、筑後、肥後へ
通じる交通の要所であった。当時、軍事的に重要な拠点であった。
香春岳城の築城は古く天慶二年(939年)藤原純友が乱を起こし、
大宰府攻撃の拠点として築いた。

その後、応永六年(1399年)正月、香春岳は、大友配下の千手信濃
守興房が城主で守っていたが、中国の大内盛見が豊前に侵攻して、
三日間の攻防の末に、城主興房以下自害して果てた。
その後、大友氏が侵攻するまでの150年間、北九州は大内氏の支配
が続いていた。

天文二十年(1551年)九月、大内義隆が家臣陶隆房らの謀叛によって
自滅すると、豊後の大友氏と大内氏の後継者の毛利氏が対立する。

地元の豊筑の豪族、秋月氏、高橋氏、千手氏、杉氏、加来氏らがこの
大友、毛利両勢力の抗争に呑み込まれていった。

永禄二年(1559年)、毛利軍は門司に進攻、北九州動乱の勃発、
その後、四年に及ぶ戦いが続くが、この香春岳城の争奪戦にあった。

永禄四年六月、大友義鎮は田原近江守親賢、戸次伯耆守鑑連、
田北刑部少輔、田北民部大輔らの諸勢のほか、国東、宇佐衆を合わせ
た六千余騎をもって豊前に進攻、毛利に味方する反大友の諸城を攻めた。
田北、戸次の軍勢は永禄四年七月、香春社の大宮司職原田五郎義種が
守る香春岳城へ押し寄せた。
原田義種hわずか三百余の兵で籠城、大友の大軍に対し、射手を要所に
配置して攻め登る寄せ手に射こませ、大石を投げ落し、大友軍を苦戦させ
数日の攻防の末、七月十五日、寄せ手は総攻撃を開始、蛇の口より攻
め入った。義種は城兵を励まし、善戦したが、圧倒大軍の前に落城した。
義種は一族十三人とともに自刀して果てた。
大友軍は宇佐郡の龍城に本陣を置いて、宇佐宮を守っていた大宮司宮成
公建は企救郡小倉の到津八幡へ逃れた。
大友義鎮は香春岳を占領後、配下の志賀常陸介を香春岳城督に任じ、
百五十町の所領と城料四百五十町を宛行っている。

この時期、原田義種と同族大蔵氏一族の筑前の高橋氏、秋月氏、田尻氏
砥上氏がそれぞれ呼応して、反大友の兵を挙げた。

反大友軍が蜂起したのを機に、九月毛利軍の香春岳への攻撃が開始された。
大友の城将志賀常陸介らは中国勢の猛攻を受けて、城を捨てて豊後へと
退却した。香春岳は数か月で毛利側の奪回が成功したのである。
その後、香春岳在城を命じられたのは杉氏一門の杉連緒であった。
杉氏一族は大内義隆の守護代を勤めた杉興運の一門で、のちに鞍手郡
龍徳城へ移っている。
永禄五年、大友義鎮は門司、松山、香春岳などの毛利との戦いに敗戦した
ために、剃髪し心気一転して仏門に帰依し、「瑞峯宗麟」と号した。
それにならって大友の老臣も法名をつけた。戸次鑑連も道雪をなのった。

この時にあたり、宗麟は毛利氏の背後の山陰の尼子義久と協同作戦を展開
して、挟み撃ちの策に出た。
その間幕府の調停交渉が試みられ永禄六年五月に大友、毛利両氏の講和
が成立した。講和の条件として、毛利側は門司城を確保するかわり、松山城
を返し、香春岳城を壊し、九州から撤退、そして豊筑諸氏への援助を中止する
ことなどがその内容であった。
この中で香春岳城の破却が問題であった、大友氏は北九州の諸氏に対する
毛利氏の影響力を断ち切るためにも、破却にもちこませようと強硬に主張して
一歩もひかなかった。一方、毛利氏傘下の宝満城主高橋鑑種、古処山城主
秋月種実、香春岳城主杉連緒、宗像大宮司宗像氏貞らは、これに反対して
毛利父子に講和の撤回を申し入れた。
香春岳城を破却するぐらいならば、一戦交えるまでと進言したが、毛利氏の
とっても、破却は豊筑の諸氏を見捨てることになるので、断腸の思いであるが、
講和を破棄すれば、背後の尼子の脅威にさらされることになる。
毛利氏にしては九州の一城よりも、背後の尼子征伐を優先させる方を選択
せざるを得なかった。そして、講和の条件のひとつ、元就の孫幸鶴丸と宗麟
の娘との婚約を成立させ、永禄五年七月二十七日、正式に実現した。

しかし、毛利氏はのちに尼子氏を討伐してのち、ふたたび、九州上陸を
試みることになる。これが立花山城合戦、多々良浜合戦である。

手前から一の岳、二の岳、三の岳
一の岳はすっかり削り取られてしまったが当時はそびえる山であった。
石灰岩の山のためセメントの原料になる。