永禄十二年

◆多々良浜合戦、その一(5/6)
 大友勢は戸次道雪の指揮で長尾に陣取る毛利勢に仕懸かけた。
この時、道雪自身が槍をとり駆けた。また田尻鑑種の奮戦目覚しく、
後日、大友宗麟より賞されている。
◆多々良浜合戦、その二(5/13)
 毛利軍の先鋒部隊は多々良川を渡り松原近辺に進軍し、周辺に火
を放った。この時、大友軍と四回交戦したが勝負はつかず、毛利軍は
香椎方面に引き揚げた。
◆多々良浜合戦、最大激戦日(5/18)
 毛利両川は四万を出撃させ松原に進軍した。これに対して戸次道雪
・臼杵鑑速・吉弘鑑理ら大友三将は、一万五千の兵を三手に分け先陣
とし、脇備えに志賀氏・田原氏・朽網氏・一万田氏・清田氏・木付氏・
利光氏ら豊後勢と、江上氏・草野氏・星野氏・三原氏・薦野氏ら筑州
勢ら、豊筑両国衆二万余騎を配置した。両軍合わせて参戦兵数八万
人にのぼる九州の歴史の近世における最大の合戦規模であった。
道雪隊の法螺により大友軍は前進を開始、槍衾で撹乱し、騎馬による
突撃という作戦であった。道雪は果敢に攻撃し、そのため毛利の楢崎
氏・多賀山氏ら両隊が危機に陥った。これを見た毛利両川は危機の両
隊を訪れ、粥と水を振る舞い、激励した。矢合わせして数刻、毛利軍の
鉄砲隊の効率的な攻撃により次第に大友方が劣勢となってきた。しかし
道雪は冷静に、長尾に陣取る毛利の小早川隊の左翼が手薄な事を見
ぬいた。道雪はすかさず虎の子の八百の鉄砲隊に、そこに射込ませた。
そして道雪も自ら刀を抜いて小早川隊に斬りこんだ。
これに続いて十時氏・安東氏・由布氏・原尻氏・後藤氏・足達氏・森下
氏らもあとを追って斬りこんだ。そのため、押された小早川隊は東に向
かって退いた。そのせいで、毛利全軍も小早川隊の後退に合わせ、三
丁ほど後退した。他の大友勢も道雪隊の勢いに触発されて次々毛利勢
を追いたてた。勢いに乗った大友軍は、軍鼓と法螺をけたましく鳴らし、
気勢を上げた。そのため毛利両川は、たまらず一時退却を決断。
立花に向かって退いた。その後も大友軍と毛利軍は多々良川を挟んで、
18回の矢合わせを行う事になる。しかし、この日の合戦で奈多政基が
討ち死にしている。
◆大友軍の一隊、新宮浦にて毛利軍の補給作戦を叩く(8/25)
 新宮浦にて補給物資の陸揚げ作業をしていた毛利水軍と宗像軍で
あったが、これを大友軍に察知され、襲撃を受けた。
◆大友宗麟、豊後に帰陣(9/)
 5月18日の合戦以来、何度となく大友軍と毛利軍は交戦したが、決着
はつかず膠着状態となっていた。そのため、吉岡宗勧は大友宗麟に奇襲
作戦の指揮のため豊後に帰陣する事を進言した。そのため宗麟は高良山
の本陣を引き払って帰途についた。
この宗麟の帰陣は、毛利陣地に大友側の余裕の行動として噂が伝わった。
老齢の毛利元就は長府にあって、安芸国に帰陣する事もままならず、宗麟
の豊後帰陣の報に接した。
◆大内輝弘、大内家督の認可状を手に合尾浦に上陸(9/)
 豊後に帰国した大友宗麟は、大内家で政争に敗れ、大友氏に亡命した
大内輝弘・武弘親子を呼び出し、海路で山口にのり込み、撹乱する奇襲
作戦を打ち明けた。
その際、宗麟は足利将軍家よりの大内家督相続の認可状を輝弘に渡した。
これに喜んだ輝弘は、大友よりの援兵六百を引き連れ、若林鎮興ら大友
水軍、軍船百艘に護衛され吉敷郡秋穂浦に上陸した。その後、大友水軍は
毛利水軍の補給船や港を攻撃し、毛利軍の兵站線を遮断する作戦にでた。
この海戦で毛利側の将、市川経好が討ち死にし、毛利勢は甚大な被害を
受けた。
◆毛利元就愕然。大内輝弘、高嶺城を奪回する(10/12)
 山口に進軍する大内輝弘のもとに、次々大内の旧臣が馳せ参じ、三千ま
でふくらみ、その輝弘軍の勢いの前に、遂に高嶺城は落ちた。また時を同じ
くして、出雲の尼子氏の遺子、尼子勝久は山中鹿之助に擁立され、大友氏
の援助を受け、五千の兵で今は毛利領となった出雲に乱入し、月山富田城
に進軍した。この自体に、長府の本陣の毛利元就は驚愕した。
元就は涙を飲んで、立花表に布陣している毛利両川に撤退を命じた。
◆西国分け目、多々良浜合戦の決着。そして毛利軍の撤退(11/15)

我兵敵の首級を獲ること参百余級に達す。
時に戦死者左の如し

十時摂津守惟次 安東帯刀允 木付木兵衛尉
足達右馬助 安東備後久保 十時下野守惟則
由布又兵衛 由布掃部助基辰 小野三介
足達飛騨守 高野縫殿助 十時喜兵衛惟行
小野三九郎正行 沓掛内蔵丞 其他雑兵三十余人