◆大友宗麟出陣、高良山に布陣する(1/22)
 肥前の竜造寺隆信は先年より毛利氏に通じ、肥前の大友方の諸城を
圧迫していたので、大友宗麟は西海道七ヶ国五万の大軍を動員して、
隆信を討つべく筑後国高良山吉見岳に本陣を置いた。この時、高良山座主・
良寛も僧兵を率いて参陣した。
◆大友宗麟、高良山の吉見岳に本陣を敷く(2/16)
◆竜造寺隆信、大友宗麟とも和平に奔走する(−)
 時期はさだかではないが、大友宗麟の竜造寺征伐が目前に迫り、
竜造寺隆信もここに至り、やむなく和平に持ち込む事にした。そこで宗麟の
信頼厚い吉弘鑑理に和平をとりもってもらえる様、依頼した。が、鑑理は
これを拒絶。そこで隆信は、今度は筑後の田尻鑑種に頼み込んで、
大友三将の一人、戸次道雪に宗麟との和平をとりもってもらえる様、
依頼した。が、やはり道雪も田尻鑑種の仲介をもってしても、隆信の依頼に
首を縦に振らなかった。鑑理・道雪の両者に断れた隆信は、大友との全面対決
を覚悟した。
◆毛利元就出陣(3/初旬)
 大友宗麟自ら竜造寺征伐に出陣した事に触発された毛利元就は、ここが勝負所
と判断したのか、元就自身も山陽道四ヶ国四万の軍勢を動員し、怒涛の勢いで
関門海峡を押し渡り、九州に上陸した。元就自身は長府に布陣し、九州攻めの総指揮を執った。
◆大友軍、竜造寺方諸将への攻撃を開始する(3/)
 高良山に陣を敷いて二ヶ月たつものの、大友宗麟は肥前進行の号令を未だ
出さずにいた。
そのため業を煮やした戸次道雪は宗麟を諌めて決断を促した。そのため攻撃開始
の号令が下されため、大友勢の一隊は竜造寺方の生葉郡の妙見城の星野鎮忠を
攻めたが埒があかず、代わって筑後勢の田尻氏と浦上氏が攻めた。また先年の
筑前動乱を鎮圧して、そのまま筑後に駐屯していた戸次道雪・吉弘鑑理・臼杵鑑速
ら三将の率いる三万の軍勢は竜造寺方の江上武種攻略のため出陣し、神埼郡に
火を放ち、仁比山勢福寺城を攻めた。武種は隆信に援軍要請の狼煙を上げたが
、隆信は兵数が不足している事を理由に、この狼煙を無視し、援軍を送らなかった。
この仕打ちに激怒した武種は隆信を見限り、大友宗麟の軍門に降った。
◆東肥前の諸将、大友宗麟に降る(3/)
 大友軍の大挙肥前侵攻に対し、神代長良・馬場鑑周・八戸宗暘・横岳鎮恒・
小田鎮光・姉川惟安・高木氏・筑紫氏・犬塚氏・有馬氏・松浦党ら肥前の諸将は
大友軍に参陣し、竜造寺攻めの一手となった。特に長良は一千騎をもって案内役をした。
また、筑後の五条鎮定・上妻氏も竜造寺攻めに参戦した。
◆大友宗麟、竜造寺隆信に降伏勧告する(3/)
 大友宗麟は東肥前芦塚の領主、堤貞元を降伏勧告の使者とし、佐嘉へ説得に
向かわせたが、竜造寺隆信は勧告を受け入れず、逆に毛利元就に援軍要請の
使者を送った。しかし、三潴郡貝塚城主、安武鎮教も老臣亀山一竿入道を佐嘉城に
遣わし、隆信を説得している。
◆大友軍、佐嘉城に臨む(3/)
 順調に東肥前を進撃した大友軍は、竜造寺氏の本拠地、佐嘉城攻略のため軍を進めた。
戸次道雪は阿禰村に、臼杵鑑速は塚原に、吉弘鑑理は水上山にそれぞれ布陣した。
◆毛利軍、門司城を落とし更に進撃する(3/中旬)
 毛利両川の指揮により早速門司城を落とした毛利軍は、次に企救郡三岳城の長野筑後守
と長野兵部大輔らを攻め、五百七十余の首をとり三岳城を落城させた。その後、博多に
向けて毛利両川は進軍を開始した。
◆相良義陽、島津氏の和平の使者を謀殺する(3/中旬)
 島津義久は和議の使者として、蒲池越中守に十七人の従者をつけ菱刈氏の大口城に
向かわせた。ところが相良義陽の家臣、深水頼兼が百を引き連れ、使者を襲った。
これに激怒した島津氏であるが、菱刈氏と相良氏の連合軍は既に、大口城に集結して
島津軍を待ちうけていた。そのうえ、羽月城に詰めていた島津義虎は相良・菱刈連合軍
を恐れ、病気を理由に羽月城を退去し、出水に帰陣した。義虎の不甲斐なさに苛立った
義久だったが、すぐに肝属弾正と新納忠元を羽月城に入れた。
◆蒲池鑑盛、竜造寺攻めに参戦(4/)
 下筑後の大身、蒲池鑑盛も大友宗麟の要請により重い腰を上げ、肥前へ進撃を開始し
、川副にて竜造寺勢を破り、更に軍を進めた。
◆大友VS竜造寺、多伏口合戦。吉弘鑑理、倒れる(4/6)
 三千を率いて討って出た竜造寺隆信は、多伏口で大友軍と激突した。合戦前半こそ
善戦した竜造寺軍であったが、大友軍の圧倒的な物量の前に押され始め、遂に退却となり
、佐嘉城にひき返した。城内で隆信は討ち死にを覚悟したが、一方の大友軍では吉弘鑑理が
合戦中に発病し、倒れたため佐嘉城攻め中止となり、隆信は一命を拾った。その後、
大友軍は鑑理の病状に配慮し、長瀬に布陣した。
◆立花山城より急使来る。毛利軍前衛部隊、立花表に着陣(4/15)
 多伏口合戦直後に大友宗麟の本陣のある高良山に、立花山城の城番の臼杵進士兵衛・
田北民部丞・津留原らから、毛利軍の前衛部隊が立花表に布陣したとの急使が届いた。
◆大友宗麟、竜造寺隆信との和議を決断する(4/17)
 毛利軍の立花表着陣に驚いた大友宗麟は、戸次道雪・臼杵鑑理・吉弘鑑理ら三将に
竜造寺隆信と和議を進めるよう命じた。道雪ら三将は協議して、肥後の城親冬を和議交渉の
使者として佐嘉城に送った。隆信も毛利軍の援軍到着まで、佐嘉城を守りきれないと判断
したのか、この和議に同意し、鍋島房重を人質として(秀島家周という説もある)宗麟に差し出した。
◆竜造寺隆信、戸次道雪にお礼の口上を送る(4/)
 大友と竜造寺の和議が成ると、竜造寺隆信は河上に布陣している戸次道雪に、
老臣納富信安を遣わし、道雪が和議の労をとってくれた事を謝した。この時、隆信は
道雪に馬一頭を送っている。
◆大友肥前征討軍、肥前大返し(4/下旬)
 竜造寺隆信との和議を結んだ大友三将の戸次道雪・臼杵鑑速・吉弘鑑理ら肥前征討軍は、
立花表の毛利軍と雌雄を決する為、肥前大返しをし、筑前へと北上とした。
◆毛利軍、大友軍来援に備える(−)
 立花山城包囲している毛利軍は、肥前に展開している大友軍が大返しをする事を予測し
、迎撃態勢を整えた。吉川元春は立花山北方の水の手。小早川隆景は南の山田方面。
宍戸隆家は西の下原。福原貞俊は東口の尾崎。吉見正頼は北西の原上。その他、
吉川家臣の森脇氏・山縣氏・朝枝氏と、小早川家臣の椋梨氏・門田氏・小泉氏らがから
それぞれ立花山城周囲に布陣し攻撃した。また、大友の援軍に対する備えは、防壁や
矢倉を各所に設置し、これらの防御施設の配置には安芸国衆の熊谷信直・香川左衛門尉
と備後国衆の楢崎信景・多賀山久意らが守備した。
◆毛利の外交僧、安国寺恵瓊、博多の町衆に堀七十日分の工事を命じる(4/下旬)
◆高橋鑑種、立花表の毛利軍に急使を走らせる(4/)
 宝満城の高橋鑑種は、毛利氏との連携作戦のためにうち合せようとしたが、城下には
吉岡宗勧・斎藤鎮実・志賀氏・田原氏ら大友軍二万が包囲していたため、急使にわざと
傷を負わせ、脱走兵を装わせて大友の陣地に駆け込ませた。これを信じた大友勢は
その男を雑用として陣中で使う事になった。しかし、2・3日したら男は陣中から消え、
立花表の毛利軍にその急使は駆け込んでいた。急使がだした毛利両川宛ての密書には、
毛利軍が立花表で大友軍を撃破した暁には、高橋軍も宝満城を駆け下りて、城下の大友軍
を追い払い、毛利軍と高橋軍とで大友軍を挟撃する作戦の提案が書かれてあった。
◆大友軍と毛利軍の前哨戦勃発、多々良浜合戦(5/)
 高橋鑑種との連携のために毛利両川は出陣し、博多松原に進出し、そこで大友軍の
前衛部隊と交戦状態に突入し、終始大友方を圧倒したが決着には至らなかった。
◆立花山城、開城する(5/3)
 立花山城を攻める毛利軍は、金堀り人夫を動員し、山道を穿ち水脈を絶った。
そのため城兵は渇水に苦しんだ。しかし立花城将の臼杵進士兵衛・田北民部丞らは
知恵をしぼり、毛利兵の見える所でわざと米を研いでみせるなどの芝居をうって、
まだ城中に水がたっぷりあるかの様に見せかけた。また城包囲中の毛利軍に挑発の
内容の書状を括りつけた矢文を射込んだりして、戦意を示した。しかし、水に続けて
今度は食料が尽きた。城外の大友軍も立花山城守備隊を援護しょうと補給部隊を夜陰に
乗じて送ろうとするが、ことごとく毛利軍に阻止された。この状況に、さすがにこれ以上の
篭城は無理と城将達は判断し、忍びを高良山に走らせ、大友宗麟の指示を仰ぐ事になった。
宗麟は城兵の奮闘を労い、開城を命じた。大友の申し出にたいし、毛利氏も受け入れ、
立花山城の開城となった。毛利氏は桂能登と浦兵部らに立花城兵を大友陣地に丁重に
送り届けるよう命じた。臼杵進士兵衛・田北民部丞らは無事、大友軍と合流した。
この時の毛利氏の活きな計らいは語りぐさとなった。
◆大友軍、博多近郊に集結(5/5)
 博多へと北上する大友三将率いる三万の軍勢は、新に増援として豊後より来援した
戸次玄珊・戸次宗傑・佐伯惟教・田原親賢・田原親宏・朽網鑑康・田北鑑重・臼杵新介・
清田鎮忠・毛利鎮実・吉弘鎮信・古沢氏・本城氏・波多野氏・矢部氏・志賀氏・竹田氏・
田渋氏・大神氏・木付氏・一万田氏・野上氏・梅津氏・都甲氏・野原氏・小野氏・安心院氏・
姫島氏・深津氏・奈須氏・野津氏・館脇氏・豊前国衆・筑後国衆・肥後国衆らと合流し、
博多近郊に布陣した。

◆大友軍の一隊、二〜三千人、立花表布陣の毛利軍の背後に回り、兵站線を叩く(5/5)

 霙まじりの夜、毛利軍は吉川元春隊を殿とし、夜明け前に撤退を開始した。毛利軍は前日に
各陣所に明かりを点けたままにしておいた。大友軍が明かりを見て、毛利軍がまだそこに居ると
思いこませる策略であった。が、この策略は大友方の諜報網により筒抜けであった。かくして
大友軍は、夜の闇に紛れて撤退する毛利軍に追いすがり、名島浜から小倉津までの十余里の
間には、毛利兵の死体は三千四百九十一にのぼった。この時の吉弘鎮信隊の活躍は凄まじく、
毛利兵百数十人討ち取っている。
◆大友三将、芦屋会談(毛利軍撤退直後)
 芦屋にて大友三将の戸次道雪・臼杵鑑速・吉弘鑑理は協議して、毛利軍が撤退した今、
未だに篭城を続けている高橋鑑種を攻め、鑑種の腹を切らせる事にした。翌日、三将は
宇美に陣替えした。
◆立花山城開城(11/9
 立花山城にはまだ、浦宗勝・桂能登・坂田新五左衛門らが毛利兵二百を率いて篭城していたが、
開城後に大友宗麟は丁重に毛利氏送り帰した。
◆大友宗麟、15日の吉弘鎮信の槍働きを賞する(11/27)
◆大内輝弘、自刃する(11/25)
 毛利軍が九州から大返しして来たため、大内軍の兵達は次々離散していった。そのため大内輝弘
は豊後に引き揚げるため、秋穂で船を探したが得られず、仕方なく茶臼山の山城に立て篭もった。
しかし遂に吉川元春に攻められ自刃した。輝弘とともに六百人が討ち死にし、元春はこれを長府の
海岸に埋めた。そして豊後塚と呼ばれるようになった。
◆高橋鑑種、降伏する(11/下旬)
 毛利軍をたよりに反大友の行動をとってきた高橋鑑種にとって、毛利軍の全面撤退は戦意を
喪失させるには充分であった。鑑種は同族の一万田氏のとりなしで大友宗麟に降伏した。
宗麟も一万田氏の説得に折れ、命ばかりは許す事にした。しかし、所領は没収。豊前小倉企救
一郡のみに封ぜられた。その後、鑑種は宗専と号した。
◆反大友勢、降伏する(−)
 反大友勢力の盟主である高橋鑑種の降伏に連鎖し、他の豊・筑・肥の反大友諸将も観念し、
次々と降伏した。この中には、宗像氏貞・原田隆種・麻生隆実も含まれていた。
◆大友宗麟、博多に防衛線を敷く(−)
 大友宗麟は臼杵鑑速に命じて、博多出来町に砦を築かせた。そして、砦の南に房州濠を掘り、
ここの門を矢倉門といった。