◆秋月種実、秋月へ復帰する(1/)
 秋月種実は毛利元就の軍用金八十貫を受け取り、毛利の援兵二〜三千余を
引き連れて門司に上陸、秋月に帰郷した。秋月氏の旧臣の隈江城主の深江
美濃守は、ひそかに旧臣を集め、秋月家再興を策謀していた。ここに毛利氏の
三千の援兵の援助を受け、大友氏の守兵を追い払い、見事、古処山城を奪回した。
高橋鑑種は種実の帰郷を喜び、親子の契りを結んだ。
◆毛利元就、内藤就藤に九州の動静を監視する命令の書状を送る(2/25)
◆高橋鑑種、宝満・岩屋・両城の戦備を整える(6/)
 高橋鑑種は宝満・岩屋・両城に兵と兵糧を入れた。また、筑後の星野一閑と
安楽寺天満宮の小鳥居元信ら武装した僧・社官と宝満の山伏らが入城した。
◆大友宗麟、高橋鑑種討伐の軍を興し、岩屋城を落とす(7/7)
 当初、大友宗麟は高橋鑑種謀反を信じていなかった。しかし実態が明らかに
なると激怒して鑑種討伐の軍を興した。戸次道雪・臼杵鑑速・吉弘鑑理・
斎藤鎮実・吉岡宗勧ほか豊後・筑後・肥後・三後国の兵二万を向かわせた。
鑑種は八千騎を率いて城外に討って出るも押し返され宝満城に退却した。
鑑速は戦勝の勢いにのり岩屋城に攻め入り城将の足達兵部少輔ら二千を討ち
とった。一方、道雪と鑑理らは宝満城を包囲した。また、この時期、秋月種実の
謀反は発覚しておらず、種実の名代が大友氏の鑑種討伐に参陣していたが、
この種実の名代が高橋鑑種と連絡をとりあっていた事が発覚し、臼杵鑑速の
陣中で処断された。
◆斎藤鎮実、三上山の城を包囲する(7/11)
 斎藤鎮実は豊筑の八千の兵を率いて筑紫広門の拠る三上山の城を包囲した。
広門は退却のフリをして鎮実の軍を地の利の有利な場所に誘き寄せ、
伏勢の鉄砲隊の斉射により二百余を討ち取り大勝した。戦勝の勢いにのった
広門は鎮実軍を追いたて侍島にまで追い詰めた。侍島の戦いで兵七百で
参陣していた問註所鑑豊と筑後の竹野郡代職小河鑑昌と星野鑑康らが討ち
死にした。敗軍の鎮実は園部(基山町)まで退いた。鎮実の危機に大友宗麟は
筑後・肥後の諸将に鎮実救援を要請するも日和見な諸将は竜造寺隆信を警戒
して動かなかった。
◆筑紫広門、降伏する(7/27)
 敗戦と多くの将士を討ち取られ復讐に燃える斎藤鎮実は、筑紫広門の拠る
三上山の城を激しく攻め立てた。しかし広門は降伏を申し出てきた。だが鎮実は
これを拒絶。広門も必死で降伏を強く願い出た。そのため鎮実は折れ、降伏を
受け入れた。広門は筑紫栄門・大田・馬場・波多らの人質を大友宗麟に差し出した。
◆志摩郡衆、大友四家老に評される(7/10)
 高橋鑑種との戦において志摩郡衆の働きを立花鑑載と怒留湯融泉が大友宗麟
に報告した。志摩郡衆の働きにたいして宗麟が喜んだ事が、戸次道雪・吉岡宗勧・
臼杵鑑速・吉弘鑑理ら四家老らの連署による書状で、志摩郡衆に送られた。
◆大友軍と秋月軍、甘水・長谷山で激突する(8/14)
 筑紫広門を降伏せしめた斎藤鎮実は、戸次道雪らの大友家筑前鎮圧軍の
本隊と合流した。その後、諸将の協議の結果、大宰府に鎮実と吉岡宗勧ら一万余
を残し、道雪・臼杵鑑速・吉弘鑑理ら三将は二万余を率いて秋月種実討伐に向かう
事にした。太宰府に二将を残すのは未だ宝満城で抵抗を続ける高橋鑑種を封じこめ
るためであった。甘水・長谷山あたりに進出した道雪ら三将は秋月軍と接触、
戦闘となった。結果、七度の矢合わせとなる大激戦となり、道雪自身も七度
太刀打ちをする乱戦となった。
◆大友軍、邑城を落とす(8/15)
 戸次道雪・臼杵鑑速・吉弘鑑理ら三将は、なおも突き進み、秋月氏の邑城
を落とした。秋月種実は退き古処山城に入った。道雪は嘉麻・穂波一帯の人家
を焼き払った。その後、後備えとして休松(甘木市)に陣をしいた。鑑速・鑑理らは
観音岳・道場山に布陣し、古処山城に対陣した。この時、秋月種実と高橋鑑種は
次々毛利元就に急使をとばした。
◆戸次道雪、秋月氏の支城、休松城を落とす(−)
 敗れた城将の坂田越後は自刃した。
◆豊筑の諸将、帰城する(−)
 この時期、毛利元就来援の噂が流れた。そのため、これを恐れた豊筑の諸将、
城井・長野・後藤寺・原田・宗像・許斐・麻生・杉らは、口実をつくり、大友家筑前
鎮圧軍の編成から抜け出し、めいめい帰城した。
◆大友宗麟、戸次道雪らに筑後語川まで後退を命じる(9/3)
 毛利元就来援の噂が大友宗麟の耳に入り、大友家筑前鎮圧軍に筑後川まで
戦線を下げて毛利氏来援に警戒するよう命じた。これを受けて戸次道雪は赤司村に
、臼杵鑑速は八丁島に、吉弘鑑理は吹上村に後退した。
◆秋月種実、大友軍の後退にたいし追撃を決行する(9/3/午前10時)
 秋月種実は一万二千を引き連れ、後退する戸次道雪の隊を襲った。しかし物見の
報告により種実の奇襲は既に道雪の知るところであった。道雪は三千余騎を従え
吉光に移動し、迎撃体制を整えた。道雪隊の布陣は先鋒に由布美作・小野和泉の
五百騎、中備えに戸次鎮連の六百余騎、その他伏勢や虚旗を各所に配置した。
道雪は秋月勢に騎馬が少ない事を見ぬくと騎馬を前面に押し立て、三方より突撃
させ徒歩の武者が中心の秋月勢を押し捲った。そのせいで秋月勢の先鋒・内田善兵衛
・秋月治部は蹴散らされ、さらに中備えの綾部駿河守の五千も突き崩された。
しかし秋月治部が二千余騎を率いて反撃を開始、手薄になっていた道雪の本陣は
危機に陥った。乱戦の中で十時惟忠が討ち死にした。ほぼ互角の合戦の推移で
あったが、種実は道雪の用意した虚旗を見て、大友の援軍と勘違いして、あわてて退却した。
◆秋月種実、大友軍に夜襲する(9/4/夜明け前)
 荘山に布陣していた臼杵鑑速・吉弘鑑理は、風雨の中、突如秋月種実ひきいる四千の
夜襲を受けた。これにより算を乱した鑑速・鑑理隊は霧散して嘉麻郷・楢原・熊江に逃走
する者もいた。また、大部分は道雪の陣になだれこんで同士討ちを演じる結果となった。
これに道雪は激怒。闇夜で視界がきかないとはいえ、同士討ちという醜態に墳激し味方を
叱咤激励した。この時、道雪の陣は食事の途中で、この事態にビックリして完食した者は
わずか八名だけであった。道雪は「死に際して食事が喉を通らぬようでは何を力にして
死出の山路を越えるのか!」と叫び、握り飯4・5個をポンポンと口の中に放りこんだ。
家来達はこれを見て、次々飯を平らげ秋月種実の夜襲に立ち向かった。さらに道雪は自ら
槍をとって秋月勢に突き入れた。道雪の奮戦に応えて、朽網宗歴・清田紹喜・一万田宗慶・
三池鎮実・田尻鑑種らが踏みとどまった。特に田尻鑑種は秋月勢の首級を十五あげる奮戦
であった。道雪は夜襲の秋月軍を逆に返り討ちにして、夜が明ける頃、勝利し追い払った。
しかし勝ったとはいえ大友方も被害は甚大で、戸次鑑方・戸次鎮方・戸次親繁・戸次親宗・
吉弘帯刀・十時惟定・綿貫勘解由・内野五郎兵衛・由布五兵衛・溝口鎮生・三池親冬・
蒲池近江・蒲池九郎兵衛・が討ち死にした。その後も種実は筑後まで退く大友勢を追い
すがって甘木高場付近で利光兵庫助・橋本玄蕃允らを討ち取った。この時の大友勢の
討ち死には四百にのぼった。その後、道雪は筑後山隈に退き、山隈城に入った。
◆大友宗麟、戸次道雪に書状を送る(9/8)
 休松での秋月種実の夜襲に大損害を出したことに、大友宗麟は憤激し、五人の舎弟を
討たれた戸次道雪にはげましの書状を送った。
◆宗像氏貞・許斐氏備らは大友宗麟を裏切り立花山城を襲う(9/8)
 大友宗麟を裏切り、毛利元就に通じた宗像氏貞は許斐氏備とともに立花山城を
襲おうとした。そして立花山西城将の怒留湯融泉に団の原・和白方面にて敗れる。敗軍の氏貞は赤間城に退いた。
◆原田隆種、大友方の宝珠岳城を攻め落とす(9/10)
 原田隆種は毛利元就に寝返り、大友宗麟を裏切った。そして配下の波多江・岩隈・
鬼木・石井ら八百を引き連れ、怡土長石村(二丈町)の宝珠岳城の西左近鎮兼を降した。
これに驚いた深江・吉井氏らは隆種の幕下に降った。次に隆種は志摩の柑子岳の
臼杵鎮つぐを攻めたてた。志摩の豪族の大友方の由比・泊・小金丸・元岡・古庄・
馬場・松隈らはそれぞれ隆種の来襲に備えた。
◆大友軍、宗像鎮護寺を放火、子院と共に焼失。五仏像、難を逃れる(10/25)
◆吉弘千熊丸(立花宗茂)、国東郡都甲荘長岩屋の筧城にて誕生する(11/18)