安東 聖秀
あんどう せいしゅう
(〜1333年5月)
通称..左衛門入道
 新田義貞の妻の伯父である。討幕戦争がはじまると日野資朝・日野俊基
の尋問役を務めた。新田義貞が鎌倉に攻め込んでくると稲村ヶ崎で迎撃す
るが敗れた。新田義貞は降伏を勧める手紙を送るが拒否して、北条高時が
一門とともに鎌倉東勝寺で自決した焼け跡で自決した。

「太平記」より
安東聖秀の最後

安東聖秀は幕府軍(北条)側にいた。新田義貞が倒幕軍として鎌倉に向けて進攻、
安東聖秀は3000余騎の兵を率いて稲瀬川(鎌倉市)方面の防衛を担当していたが、
稲村崎から廻り込んだ世良田太郎の軍に背後を突かれ、陣を破られ退却、さらに、
由良長浜の軍からも包囲され、残存兵はたった100余騎だけの状態だった。
自身も疵を負い、ようやく自分の館に帰りついたが、自宅は焼け落ちていた。
廻りの者に聞くと昼前に焼け落ちたとのことで、妻子、「親族らはいずこへ落ち延びた
であろうか、行方も知れず」「北条高時殿の館もとっくに焼け落ちてしまい、高時様も
東勝寺へ逃げたとの事」家臣も自害した様子も無いとの事を聞くと聖秀は嘆き悲しみ
「日本国の主たる北条高時様の長年住まわれた所を、敵軍の蹄にかけさせたままで、
千人、二千人討死する人も無いとは後世の笑いもので嘆かわしいこと」である。
といって聖秀以下100余騎は小町口通りに向かい、幕府へ出勤時にように、塔辻で
馬を降り、焼け跡を目前に立ち竦む。
そこに、新田義貞の奥方からという使いが手紙を持ってきた。
「鎌倉殿ももはやこれまでと聞いております。伯父様、とにかくこちらの新田陣営の方に
来て下さい。いろいろ事情もおありになることでしうが、私の身に変えても何とかとりなし
て、決して、悪いようにはいたしませんから・・・云々」
これに聖秀「栴檀(せんだん)の林に入った者の衣も、香をたきしめなくとも自然と香りが
するというに」「武士の妻たるや「勇ましき心がけ」だだひたすら、この一点をこころがけ
てこそ、家を立派に守り通し、子孫に名を世に顕せるものぞ」
「いままで幕府から頂いた恩をこの危急の時に新田に降伏して
は世間の笑いものにぞなろう。」
「義貞も武士の心を弁えておるならば、妻にこのような手紙を送る様な事をさせるとは、
新田家も行く末が案じらるるものよ」といって手紙を刀に丸め、腹を掻っ切って死んだ。
このことから安東家は北条御内人であることが、考えられる、
また、新田家とも姻戚関係にあることから、豊後安東氏の祖で
ある関東下野国を地盤にして諸氏と縁組していたことがいえる。