安東 蓮聖

あんどう れんしょう
(1239年〜1329年1月19日)享年91歳
父・不明
通称..右衛門尉・平右衛門・平右衛門尉
五条・為条・蓮性
1263年、1273年、1284年 信濃善光寺不断経衆の沙汰。
摂津国多田院惣奉行に就任。
摂津国守護代に就任。
安東 蓮聖
 北条時頼・時宗・貞時時代の御内人。平頼綱政権期に地方
行政を行った。信濃国善光寺の不断経衆の沙汰や、摂津国多
田院惣奉行、摂津守護代と地方官を歴任した。そして昭慶門
院領の摂津国・和泉国にある荘園などにも所領があった。さ
らに豊後国佐賀郷の給主もつとめた。
 得宗の権力を背景に和泉国久米田寺の別当職を買得、さら
に和泉国山直郷を寄進して久米田寺を大道場として繁栄させ
た。しかし、山門の悪徳僧侶と結託して幕府禁制を破って近
江堅田浦で年貢輸送船の積荷チェックしたとして醍醐寺領の
越中国石黒荘山田郷雑掌から訴えられたことがある。
 その後は善政につとめ、播磨国福泊に多額な金銭を投資し
て二百町の防波堤を築いて良港として繁栄させた。

国領佐賀郷と地頭

国領佐賀郷は現在の大分県北海部郡(きたあまべぐん)
佐賀ノ関町である。
鎌倉時代の頼朝の死後の佐賀郷の地頭は、柞原宮(ゆすはらぐう)
に残る文書などから、
相模守すなはち執権北条時宗の嫡子、北条貞時である。
貞時は1284年(弘安七年)10月6日、執事に任ぜられ
執事相模守と呼ばれていたが、
1301年(正安三年)8月22日には出家して崇源となり、
のち出暁と改名している。
1311年(応長元年)10月26日、40歳で卒去したのである。
源家(三代)が断絶後、幕府の要職を一門で独占した北条氏のうち
、執権、連署となる北条氏の惣領家を得宗家とよぶ。
その得宗家の経済的基盤が得宗領にあった、つまり佐賀郷は
その得宗領の一部をなしていたのである。
その得宗領佐賀郷には地頭北条貞時の代官として別に地頭代が
おかれていたようである。
「柞原文書」の「由原宮年中行事次第」はそのことをつぎのように記している。
「被佐賀郷者、相模守殿領、給主安東平右衛門入道蓮聖」
この地頭代、安東平右衛門入道蓮聖は1302年(乾元元年)摂津国福泊を
築いた安東平右衛門入道蓮性こそ彼であるということである。
このことは北条氏が海の要所を得宗領として確保することにより、周囲の
海賊をおさえて、制海権を掌握する意図からであろう。
「大分県金石年表」の調査録に大野郡大野町十時木下にある宝キョウ印塔には
 「敬白 蓮性道現道 道禅、法道香聖禅聖礼良照道琴久円道 比丘元玉」
      「永和元年八月十八日」

とあり、鎌倉得宗御内人の安東蓮聖(性)の追悼慰霊塔であることからして
宝キョウ印塔が、豊後安東氏下着の地に建立されていることは、安東蓮聖(性)
が豊後安東氏の出身である可能性が高いと考えられる。