安東 光成

父・尾藤景信
通称..新左衛門尉・左衛門尉
藤内左衛門尉・藤内・藤左衛門尉
1240年
1257年9月 北条泰時邸の建設奉行。
勝長寿院造営の奉行。
北条義時・泰時・時頼時代と長期にわたって御内人をつとめた。
伊賀氏の謀略事件が発生すると平盛綱・尾藤景綱ら御内人勢力で対策
を練った。藻壁門院が崩御すると使者として上洛したり、北条泰時の邸宅
の建設奉行をつとめたり、将軍宗尊親王の方違宿所選定の奉行をした。
時頼時代は勝長寿院造営奉行をつとめ、時頼の看病人もつとめている。

鶴岡八幡宮前、若宮大路東側角の北条泰時館の郭内に安東光成邸
がある。(吾妻鏡より)

巨福呂坂(こぶくろざか)(現在:小袋坂)
巨福呂坂は「こぶくろざか」と呼ぶ,現在は小袋坂。
鎌倉城の北の出入り口に当たり、現在においても横浜、大船方面より鎌倉に
入る重要な幹線道路である。
巨福呂坂建設の由来が具体的に吾妻鏡に記録されている。
「仁治元年(1240)十月十日に北条泰時の屋敷において、山ノ内に道路建設
に関し沙汰があり、安東藤内左衛門尉(光成)が担当する事が決められた。

同じ月の十九日に北条泰時の沙汰として、山ノ内の道路建設が決定される。
これは山ノ内が険難であるので往来に難儀する事からである。

その後の史料としては、太平記に元弘三年(1333)の新田義貞の鎌倉攻
めに「新田義貞はその軍勢を三方面に分け、各々の方面軍に二人の大将を
付け全軍の指揮を執った。第二軍は堀口三郎貞満を上将軍とし、大島讃岐守
を副将軍として、総勢十万余騎にて巨副呂坂へ差し向けた。」

八幡宮の石段の手前にある舞殿の脇を西に出ると、小さな広場に出る。
この広場から道路を越えての西側の脇の小道がの巨福呂坂の入り口である。
現在の小袋坂
安東氏
また、「吾妻鏡」には安東刑部左衛門尉、安東宮内左衛門尉景光、
安東五郎太郎、安東左衛門五郎、安東新左衛門尉、安東四郎兵衛、
安東平次兵衛尉の名がある。